文耕、夜講で金森騒動を語り、お縄につく2024/10/03 06:59

 文耕が、将軍家重の面前で、御前講釈してからの幕府の動きは素早かった。 のちに文耕は、田沼意次から聞いたという里見樹一郎の話で知るのだが、その日、家重はすぐに老中の酒井左衛門尉を呼び出し、金森の一件を調べ直すよう命じた。 酒井は翌日、北町奉行依田政次に会い、箱訴人の取り調べを始めさせた。 七月二十日に至り、評定所で駕籠訴の一件の吟味が正式に開始された。 詮議掛は五名、寺社奉行 阿部伊予守、大目付 神尾備前守、北町奉行 依田和泉守、勘定奉行 菅沼下野守、目付 牧野織部。 翌日には事の中心にいたと見られる勘定奉行の大橋親義に出頭を命じ、尋問を始めた。 事の責任を負うべきと見なされる金森家の当主頼錦については、詮議掛が芝の上屋敷に出向き、大橋に依頼した件を尋問した。 まだ、裁きがどのような方向に流れていくのかはわからなかった。

 吉原の俵屋に匿われている喜四郎と定次郎が、いよいよ北町奉行所に駆け込み訴えをすることになり、その前夜の八月二十五日に俵屋が深川の料理茶屋で、喜四郎と定次郎を主役に、文耕、源吉、伝吉、そして里見を招いて、宴を開いた。 これが今生の別れになるかもしれない上、匿っているあいだに接した二人の篤実で剛直な人柄に打たれたことが大きかった。 深川芸者のお六と小糸の顔もあり、里見の頼みで小糸が「狐会(こんかい)」を唄うと、喜四郎の眼が潤み、「野越え山越え 里うち過ぎて……君恋し 寝ても覚めてもさ 忘られぬ わが思ひ わが思ひ」と唄い切ると、溢れた涙が頬をつたい流れた。 喜四郎に妻子のあることがわかり、「子らも、大きくなれば、わかってくれるはず」と言う。 里見は「何も捨ててはいけません。故郷も、妻子も、命も」と、俵屋は「そうです。きっとすべてうまく行きますとも。今夜は楽しく飲むことにいたしましょう」と言った。

 喜四郎と定次郎は、俵屋に連れられて舟で吉原に戻り、文耕と里見、伝吉と源吉の四人は、永代橋を渡って日本橋方面に向かった。 途中で、文耕は伝吉に破門を申し渡した。 松島町の木戸をくぐり、里見と別れると、源吉と部屋に上がって、文耕は伝吉には妻子がいる、万一のことがあると、女房子供を泣かせることになる、来月九月の夜講で、この金森騒動を語ろうと思っていると話した。 井筒屋の主人が五月に亡くなり、源吉は死の床で幼い息子が大きくなるまでと店を継いでくれと頼まれ、文耕の弟子名「竹内文長」の名で借家の店を借り直し、六月に商売を始め、七月から夜講も復していた。 金森の騒動を語れば、今度こそ奉行所が黙っていないかもしれない、お前も伝吉のように破門しておこうか、と文耕が言うと、井筒屋やおかみさんには迷惑をかけないですむようにしてあると言う。

 九月十日の夜、文耕は「真説 森の雫」を語り始めた。 詮議が続く評定所の詮議掛に、将軍家重の意を汲んだ田沼意次が、千代田の城内で、「たとえ、金森家の側に咎(とが)をつけることになったからといって、百姓たちの側に重い咎をつけなくてはならぬということはない」と、告げたという。  ――講釈をすることで、理は百姓の側にあり、駕籠訴と言い、駆け込み訴えと言い、訴願の方途に法を踏み越えるところはあるものの、それもやむをえなかったことであると、江戸の人に知っておいてもらいたい……。 ここで、文耕は、かつて里見が言っていた、講釈の力に賭けようとしていたのだ。

 先に将軍家重に語ったものよりはるかに詳しく、騒動の発端から箱訴に至るまでを話していくことにした。 きっと客が詰めかけるはずだ。 でも十夜連続ともなれば話の流れが見えにくくなってしまうかもしれない。 粗筋の冊子を、中入りに籤引きで小部数を配ることにした。 書きかけの大冊『美濃笠濡らす森の雫』とは別に、「ひらかな もりのしづく」と題した六葉の紙を綴じただけの薄い冊子をつくった。 書物の類いなど所有したことのない大半の客たちにとって、それはとんでもなく洒落た景品だった。

 七日目の九月十六日、詰め掛ける客の、何十人にも断りを入れねばならなかった。 文耕は、この日、山場のひとつである立者百姓による老中酒井左衛門尉への駕籠訴の場面を語った。 「今宵は、ここまで」と文耕が宣すると、奉行所の同心が「誰も、動くんじゃねぇ!」、「馬場文耕、他家の内実をみだりに流布してはならぬというお達しがあるにもかかわらず、書本(かきほん)に記し配り、講釈するに及んでは、そのまま捨て置くことはできぬ。縄につけ!」 中入りに籤引きで手にした冊子もすべて、小者に差し出させた。 文耕は、これから夜の飯を食うことになっている、少し待ってくれ。刃向かいもせずお縄につこうというのだ。そのくらいは許してもらおうか」 「早くしろ」 二階で、井筒屋のおかみが用意した膳につき、白身の刺身を肴に酒を銚子で一本飲んだあと、飯を湯漬けにして、香の物と食べた。 側にいた源吉に、松島町の長屋の書き物のすべてを燃やすことを指示し、階段を下りると、苛立たしげに待っていた同心に向かって言った。 「参ろうか」