評定所の文耕尋問、「公儀を畏れず」と吹き込んだ者は?2024/10/04 07:02

 文耕が南町奉行所の同心に捕らえられ、小伝馬町の牢屋敷に送られて二カ月が過ぎようとしていた。 文耕が入れられたのは「揚り屋」と呼ばれる一角だった。 牢舎は二間牢、揚り屋、揚り座敷、大牢の四つに分かれていて、二間牢は無宿者、揚り屋は御目見得以下の御家人や僧侶をはじめとするいくらか身分のある者、揚り座敷は御目見得以上の旗本や高位の僧侶、大牢はそれ以外の町人百姓が入れられる。 一介の講釈師にすぎない文耕は、大牢に入れられるはずだが、揚り屋になったのは、誰かが先に手を廻してくれたためとしか思えなかった。 田沼かな、と文耕は思った。 文耕に対する吟味与力の取り調べは二度ほどで終わった。 大名家の内輪の話を講釈したこと、それを冊子にして籤引きし、売ったことは素直に認めているので、罪状は明らかだった。 ただ、なかなか判決が出ないのが不思議で、金森の騒動に決着がつくまで、こちらにも判決が出ないのかもしれなかった。

 八月二十六日に、喜四郎と定次郎の二人は北町奉行役宅に駆け込み訴えをしたが、村抜けをした上での駆け込み訴えとは格別不埒(ふらち)だと、その場でお縄にし、すぐさま小伝馬町の牢屋敷に送られた。 一方、九月二日には将軍家重の意を受けた酒井左衛門尉をはじめとする老中一座によって、老中本多正珍に対して御役御免、老中職を解くことが伝えられた。 翌九月三日、将軍の側衆である田沼意次が加増されて一万石となり、老中格として評定所の詮議に加わることが決まった。 九月から十月にかけては、幕閣の重鎮や役人に対する取り調べが迅速に進められ、十月末に至り、領地召し上げや閉門といった厳しい判決が下される。

 以後、十一月からは、江戸に呼び寄せられていた金森藩の役人や一揆側の立者百姓たちへの取り調べが本格化する。 とりわけ、立者百姓たちへの取り調べは、この騒動の首謀者は誰かという特定が最重要となり、駕籠訴人や箱訴人は小伝馬町の牢で口を割らないため、穿鑿所という拷問所で「石抱き」などの責めを受けることになった。 大牢から出ていき、ほとんど半死の状態で戻される。 喜四郎はついに、浅草にある瀕死者を隔離する「溜」に送られてしまった。

 その日、文耕は網乗物という駕籠に乗せられ、いつもの奉行所でなく評定所に運ばれた。 白洲で控えていると、一段高い調所の座敷に詮議掛の五人が姿を現し、その奥に老中の松平武元(たけちか)が座った。 縁頬(えんがわ)に控えていた町奉行所の与力が、文耕の口書(くちがき)、自白を読み上げた。 依田が訊ねる、「講釈の中で幕閣のお歴々に対する無礼な言葉をいくつも吐いたと聞く。公儀をなんと心得る。申し述べてみよ」 文耕は当然のごとく批判を繰り広げた。 「すべての発端は領主が領民である百姓たちの声を聞かず無理を通そうとしたことにある。しかも、その無理を通すために幕閣の重鎮の力を借りようとしたことで誤りを重ねた。幕府は、幕閣の重鎮が、門閥、閨閥といった閥によって生まれる私情によって政を動かすことができるほど脆いものになった。金森藩は百姓に苛酷な年貢を課そうとした。苛酷な年貢は、最後にはその領国を疲弊させることになり、ひいては幕府が弱体化することにつながっていく……」

 松平武元が言った、「百姓の中に、公儀を畏れず、と申す者が現れた」 「百姓が、公儀を畏れず、と申しましたか」文耕が無礼を承知で訊ね返した。 「そのままの言葉ではなかったようだが……」松平は口を濁した。 拷問の苦しさに耐えるためもあったのか、「公儀を畏れず」という意味の激しい言葉を口にする者が出たという。 詮議の中で、誰がそうした考えを吹き込んだのか問題になった。 松平は、「百姓に、そのような畏れ多い妄念を吹き込んだのはそなたか」と訊いた。 文耕は笑いながら言った、「その疑い、喜んで引き受けましょう。何者でもない講釈師馬場文耕が何を畏れましょう。畏れるものは天のみ。天の道に外れたものは畏れるに足りません」