田沼意次、小伝馬町の牢屋敷で文耕に会う ― 2024/10/05 07:03
十一月末から十二月にかけて金森騒動に関する吟味、取り調べは大詰めを迎え、入牢している郡上の立者百姓たちが、牢内や隔離場所の溜で次々と死んでいった。 そうしたある日の夕刻、文耕が不意に呼び出されると、拷問蔵の座敷に田沼意次が座っていた。 二人だけになると、田沼が表情を和らげ、親しみの籠もった口調で言った、「難儀に遭われましたな」 「覚悟の上のこと」 「懸念しておりましたが、しかし、さほどお窶(やつ)れになっていない御様子。安堵いたしました」 田沼は、幕閣の重臣に厳しい判決が下されたことを伝えた。 江戸時代に、百姓一揆によって老中をはじめとする幕閣の中枢の者が処断されるのは、この以前にも、以後にもまったくない希有のことだった。
それもあって、間もなく、百姓たちにさらに厳しい判決が出されると思われる。 詮議掛には、幕閣の主だった者への処断に見合う刑をという激した感情が強まり、しかも、公儀を畏れずとの言葉への憤りがますます立者百姓たちに不利に働いてしまったという。 「私の力が及ばず、詮議が思わぬ方に向かってしまい、相済まぬことになりました」 馬場文耕についても、予期しない力が加わってしまった。 本来なら、その刑も、追放か悪くとも遠島までのもののはずだが、とてもそれで収まりそうもない。 公儀を畏れずという妄念を百姓たちに吹き込んだらしいということが、詮議掛の怒りを買っている。 とりわけ老中一座の松平右近将監が立腹で、掛の南町奉行土屋越前守に何かと口やかましくいっている。 講釈をしたことで牢に入れられたのは、家主の安右衛門だけだったが、文耕の写本を扱った貸本屋はひとり残らず尋問されている。
田沼は「もはや私の力ではいかんともしがたいところまできてしまっています」、上様もなんとかできないものかとお思いになっておられるが、政に携わる者の姿勢を正すために起こさせたこの詮議、そこに横槍を入れることはできません。 だから、公儀を畏れずの言を撤回してくだされば、お助けすることができましょう、と。 文耕は笑って、「公儀を畏れず。それは、郡上の百姓たちが命を懸けて発した言葉。それを汚してはなりますまい」と言った。
「せめて遠島であれば、その後いかようにも赦免状をお出しすることができますが……」、斬首されてしまえばそれで終わりだと言いたいのだ。 「特段この世に未練はございません」 田沼は首を振って、「左京殿には、まだお助けいただきたいことが数多ございます。それに、なにより、生きて、百姓たちが望んだ世を招来させることが大事ではないかと」 「望んだ世とは?」 「百姓から年貢を搾り取るだけ搾り取ろうという世は終わろうとしています。幕府も藩も、入りの高を増やすためには別の手立てを工夫しなくてはなりません。そのような世にするために、左京殿にはまだ生きて、龍助を助けていただきたいのです」 だが、文耕にとってそれはまったく別の世の話のように聞こえた……。
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