金森騒動に関する判決、文耕は引き廻しの上、獄門2024/10/06 08:28

 十二月二十五日、評定所で金森騒動に関する裁許、判決が出された。 藩主、金森頼錦は領地召し上げのうえ盛岡南部家へ永預け、また、家老をはじめ用人など多くの家臣が遠島や追放や叱責。 これは「お家断絶」を意味するものだったが、死に至る刑までは科されなかった。 二十六日、多くの立者百姓たちに申し渡された刑罰は、幕閣の重臣や金森頼錦やその家臣たちに科されたものと比べて、桁違いに厳しいものだった。 喜四郎、定次郎ら四名が獄門、死罪に至っては十名を数えた。 これほどの犠牲を出してもなお、百姓たちの望みは何ひとつ叶えられなかった。

 馬場文耕に関わる者たちへの判決が出たのは、なぜか三日遅い十二月二十九日のことだった。 貸本屋、藤兵衛は江戸払い、藤吉以下七名は所払、栄蔵は軽追放、長兵衛は過料三貫文。 江戸払いは、本所、深川からと、品川、板橋、千住、四谷といった大木戸があるところから外への追放、所払は、住んでいる町からの追放である。 文耕の弟子の源吉、竹内文長は中追放。 文耕の判決は、「重々不届き至極に付き、松平右近将監殿の御指図により、宝暦八寅年十二月二十九日見懲らしめのため町中引き廻し、浅草に於いて獄門を申し付ける」 みせしめのため引き廻しの上、牢屋敷で斬首、浅草の小塚原で首を晒すというのだ。

 翌十二月三十日は旧暦の大晦日だったが、その朝、小伝馬町の牢屋敷から、文耕を引き廻す行列が裏門を出た。 江戸中引き廻しは、日本橋をはじめとした古い町を巡る。 文耕は後ろ手に縛られたまま馬に乗せられていた。 十蔵長屋の住人たちは、多くが人形町通りに並んで見守った。 里見樹一郎の傍らには、文耕の部屋の隣に住んでいるお清と信太の母子もいた。 馬上の文耕の顔を見て、里見は胸をつかれた。 頬がげっそりと痩(こ)け、すっかり面変わりしている。 牢屋敷で面談した田沼から、ほとんど以前と変わっていなかったと聞いていただけに、わずか半月足らずでここまで窶(やつ)れているのが痛ましく思えた。 信太が「文耕さん!」と叫び、文耕は声のした方に眼を向けたが、信太をまるで見知らぬ他人を見るような眼で眺めている。 「あれは、文耕さんなんかじゃねぇ!」「文耕さんだったら、くるぶしの上に梅干しがあるはずだ!」「文耕さんは、小さいとき、湯たんぽで梅干しができたんだ。馬に乗っている人に梅干しがなかった!」