米国流「リベラルな価値」と、日本人の「潜在的価値」 ― 2024/10/11 07:10
佐伯啓思さんは「冷戦後」を、こう書く。 冷戦における自由主義陣営の勝利は、米国を中心とした世界規模の市場を生み出し、また、自由・民主主義・法の支配、といったこれも米国流の「リベラルな価値」の世界化をもたらした。 これが冷戦後のグローバリズムである。 しかも、米国は、この「リベラルな価値」の世界化をひとつの強力な歴史観として提示した。 それは、世界史とは、人類が生み出したこの至高の価値を実現するプロセスだというのである。
第一次、第二次世界大戦も、そして冷戦も、皇帝支配体制やファシズムや全体主義という「リベラルな価値」の破壊者から、この普遍的価値を守る戦いであった。 米国こそがその使命を帯び、そのために世界に冠たる軍事力をもつ、という。 したがって、米国にとって、近代の戦争はすべて「リベラルな価値」を守るための「正義の戦争」なのである。
このような歴史観を表明したのは、「ネオコン(ネオコンサーバティブ)」つまり「新保守派」と呼ばれる知識人や政治家であった。 そして、ネオコンからすれば「リベラルな価値」による世界秩序が実現するまで、歴史に終わりはない。
実際、冷戦後になると、イスラム過激派やテロ組織がリベラルな世界秩序の破壊者となり、さらには、プーチンのロシアが新たな挑戦者となった。 「リベラルな価値の普遍性」を信奉する西側諸国は、この価値を守るためにウクライナを支援すべきだ、という。
今日、日本はこの種の米国の歴史観を受け入れている。 日米同盟は、相互の軍事的協力体制というだけではなく、両国が協力して「世界における課題」に対処するためにある、平和的な「世界秩序」を形成するための同盟なのである。 いうまでもなく、これは米国流の歴史観への日本の編入を意味していた。
佐伯啓思さんは、だが「価値観」とは何だろうか、と考える。 かつて政治学者の高坂正尭は、国力とは「力の体系」「利益の体系」「価値の体系」からなると述べた。 おおよそ「政治」「経済」「文化」に対応するであろう。 だが、「力」と「利益」はともかく、「価値」にはふたつの次元がある。 一つは、公式的で明示的に述べることができる。 「リベラルな価値」はまさにそれである。 だが、もうひとつ、明示的な表現は難しいが、その国の歴史を通じて、維持され、文化や人々の精神のなかに宿り、日常生活を支えてきた慣習や習俗がある。 それは道徳や倫理観であり、自然観や死生観や歴史観やさらには宗教意識である。
佐伯さんには、「保守主義」が最大限の関心を払うべきは、後者のいわば「潜在的価値」だと思われる、という。 憲法や政治学の教科書に書かれているような「リベラルな価値」は、確かに米国とも共有できるかもしれない。 しかし、背後にある「潜在的価値」は、決して日米で共有できるものではない。 実際、日本人のもつ歴史意識は、米国のネオコン型のそれとはまったく異なるであろうし、個人の自由に対するほとんど無条件の信仰は日本にはほぼ存在しない。
ところが、今日のグローバリズムは、自由や富の無限の拡張を求めて絶え間ないイノベーション、つまり「創造的破壊」のなかにわれわれを投げこんだ。 それは、既存のものを捨て去り、新奇なものに価値を求め、たえず未知なる場所へと活動領域を拡張し、すばやく新しい情報を手にしようと多忙を極める精神である。 それは変化そのものに価値をおく。 しかし、たえざる過去の破壊という革新の精神とは、実際には、一種の自己否定である。 過去を顧みないものは、未来を真に大切にすることもない。
「保守とは何か」と問うた時、佐伯さんは、英国の政治哲学者マイケル・オークショットの次のいい方に惹かれる、という。 「保守」とは抽象的な理念やイデオロギーではなく、人の性格であり、生きていく上での態度だと彼はいう。 それは「見知らぬものよりも慣れ親しんだものを好み、ありあまるものよりも足りるだけのものに満足し、完璧なものよりも重宝なものを大事にし、理想郷における至福よりも現在の笑いを好む」態度である。 このような「保守的な態度」こそが、われわれの社会生活を真に信頼できるものとするのであろう。 問題は「自民党にとって保守とは何か」という次元をはるかに超えて、「創造的破壊」の、絶え間ない「変化」と「あわただしさ」に投げ込まれた、われわれ自身にとって「保守とは何か」が問われている。 もしも自民党が「保守政党」たらんとするのなら、この打ち寄せる急激な「変化」の荒波から「守るべきものは何か」と問うことでなければならない、と佐伯啓思さんは説く。
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