有田哲文記者の「福沢諭吉が陥った偏見の罠」2024/10/12 07:04

 朝日新聞、有田哲文記者の『日曜に想う』には、教えられることや共感することが多い。 「斎藤隆夫がいた帝国議会」、「小倉が経験した朝鮮戦争 松本清張「黒地の絵」」、「儒教磨いた木版刷りの言論空間」、「世襲男性の政界 まるで平安中期」、「対立より功利を 湛山が掲げた旗」、「明朝に刃向かった密貿易商人」、「幕末に夢見た世界レベルの討論 横井小楠」、「承認欲求 アダム・スミスの戒め」、「津田梅子が2人いれば」などである。

 しかし、9月15日の「福沢諭吉が陥った偏見の罠」には、異論があった。 有田哲文記者の所論の概略は、こうだ。 (1)福沢諭吉は、武士の血筋を重んじていた。 (2)池田浩士・京都大学名誉教授の近著『福沢諭吉 幻の国・日本の創生』(人文書院)によると、『学問のすゝめ』を平等の書のように読むのが、そもそも誤りだ。冒頭の「と言えり」は、「現実はそうではない」「平等な社会を築くために学ぶのではなく、人の上に立つために学ぶ。」 (3)福沢は、西洋に伍して国を強くするためにも、学ぶに適する人が学ぶべきだと、英国で生まれた優生学の影響を受けている。 (4)優生学的な発想は、福沢のアジアに向けるまなざしにもにじんでいて、日本が西洋文明を受け入れ、中国・朝鮮がなかなかそうならない理由について、「人種の由来」や「遺伝教育の旨」の違いではないかと述べている。 (5)西洋文明を咀嚼し、平易に説明し、その方向に日本を導いたという点で、福沢に並ぶ知識人はいないだろう。しかし、西洋の論理をとことん突き詰めようとしたがゆえに、深い偏見まで身に宿してしまったようだ。 (6)自分たちがすぐれ、他が劣っているという感覚は、列強による植民地支配の根底にあった。そしていまも、ときに国際紛争の種となり、社会の亀裂のもとになる。福沢が陥った罠から、いまの私たちはどこまで自由になっているのか。福沢の思想の何を受け継ぎ、何を拒絶すべきか、1万円札から姿を消すこの機会に、考えてみるのも悪くない。

 福沢は、士族出身だが下級武士の出で、『福翁自伝』で「門閥制度は親の敵でござる」といっている。 明治10年の『分権論』で、「政権」を「国権」(立法、軍事、外交、徴税、貨幣鋳造など)と「治権」(警察、道路・橋梁・堤防の営繕、学校・社寺、衛生など)に分け、前者は中央政府が一元的に担い、後者は地方に分権する、わが国最初の本格的地方分権論を提案した。 その地方自治を担う存在、ミドル・クラスとして期待したのが、士族であり、豪農・豪商だった。

 『学問のすゝめ』冒頭の天賦人権平等の宣言は、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり」となっている。 「云へり」というのだから、福沢がどこかから引用したように見える。 いろいろの学者が出典を探したが、的確には突き止められておらず、諸説の中でアメリカ独立宣言中の一句の名訳であろうとする説が有力だと、富田正文先生の『考証 福沢諭吉』にある。 『福澤諭吉事典』は、独立宣言に加え、ジョン・ヒル・バートンの『政治経済学』Political Economy(チェンバーズ経済書)を挙げている。 『学問のすゝめ』は、そのあとで「賢人と愚人の別は、学ぶと学ばざるとにあり」、「唯学問を勤て物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり。」と説く。

横松宗さんの『福沢諭吉 その発想のパラドックス』(梓書院・2004年)から、以下のことを教わった。 福沢は遣欧使節の一員としてヨーロッパへ行った時、ヨーロッパの近代的制度や先進文化に感動すると同時に、その往復の途中、香港、シンガポール、セイロンなどで、中国人やインド人が(つまり日本人と同じアジア人が)、イギリスその他の文明国、先進国の人たちに屈従した生活をしている姿を見た。 ヨーロッパでも、搾取され、酷使されている労働者、悲惨な貧乏人の生活や、そうした弱い人たちのための福祉施設も見てきた。 その両方で、福沢はヨーロッパ近代文明の矛盾を知り、感じた。

一方では加害者であるイギリス人が、国内では労働者である場合、逆に被害者になることを知ったことは、福沢に、もともと自分もそうであったと自覚させた。 自分は下士として上士から非常な屈辱を受けたが、自分もやはり武士であって、町人や百姓に対しては優位の立場にある。 このことはまた国際関係においても、自分たちが他国人に対して加害者にもなり、被害者にもなり得るということを知ったともいえる。 このことは、内からと外からの双方から見るという福沢の複眼思想の一つになったのではないか、と。