秋野不矩先生との出会いは、川端知嘉子さんの宝2024/10/15 07:03

川端知嘉子さんの御粽司 川端道喜『手の時間、心のかたち』、『図書』9月号―五は「錆びの美」。 川端さんが在学した頃の京都市立芸術大学は、全科合わせても一学年わずか百十名ほどの学生に、今では口にするのもちょっと気恥ずかしい“芸術家”という冠を堂々と載せてしかるべき先生たちが沢山いる、贅沢な場だった、という。 雑誌フォーカスの表紙で大人気だった三尾(みお)公三先生と、たった一ヶ所のトイレの前で何故かよく鉢合わせして、「君は日本画だったねえ」と声をかけてもらった。

六人の子供を産み育てながら創作活動をされていた秋野不矩先生への憧れもあって、当時多くの女性が結婚し、子供を産み育てるように、できれば自分もそんな生活の実感を土台に、絵を描きたいと思っていた。 秋野不矩先生が、「通りかかった女性のサリーがとっても美しくてね。新しいサリーを買って交換してもらうことにしたの。さらさらとすぐに着替えてくれてね。」と、インドでの話をしてくれたことがあった。 仏画や曼荼羅も護摩の煙に何百年も燻(いぶ)されると別次元の美しさを湛えるようになる。

10月号―六は「婆々友」。 「友だち」とはいくらなんでもあつかましくて言えないけれど、たおやかでしなやかで心も体も強いお婆さんの代表として秋野不矩先生のことは伝えなくちゃと思っている。 六十五才で大学を退官されたから、今の私より若かったはずなのに、既に貫禄と深みのあるお婆さんだった。 退官される直前のたった半年間の受けもちだが、ほんの数回ではあっても“生身の” 秋野不矩と出会う機会を得たことは私の宝でもある。 文字として書かれた言葉でも、AIアキノフクに頼らなくても頭の中で先生の言葉として生き生きと甦るからだ。

退官と前後して、二度火事に遭われたのだが、誰が招集したのかその後始末が自然発生的に集まった卒業生・在校生の手で、三日ほどの内にきれいに整地までされたのだ。 先生が何度も身柄を引き受けに警察署まで出向いたという、学生運動をしていた息子さんの筋から、セクト名をマジックで書いたヘルメットが沢山あって、私もどこかのセクト名が書かれたヘルメットを被って淀のゴミ処理場までダンプの助手席に乗って行ったりした。 ご近所の炊き出しもあって、火事場の後始末なのにまるでお祭りのようだった。 そこで先生が、通りがかりに言われた言葉は、「神様がワルイ絵を焼いて下さったのね」。

その四年後、移られたアトリエがまた火事に遭い、いくらなんでも今回はまいっていられるだろうと思いつつ手伝いに行ったが、「ゼロからの出発ね」が先生の言葉だった。 原画を持っていられたのだろう、「火の神様だから焼けなかったのね」と言って縁が少し焦げたヒンドゥーの神様のポスターを一枚下さった。

「どなたかインドの大学で教えてくださる方はおられませんか」という仏教美術の佐和隆研(りゅうけん)氏の問いかけに、五男一女のいる家に帰って相談してから、ということもなく「行きます!」と即座に名乗りを上げたのが、通算四年半暮らすインドとの出会いである。 インドについては「自然、動物、人間……すべてが同じ次元で生きていて圧倒されます」とおっしゃっていた。

「絵描きは我流であるべきなんです。アマチュア精神を保つ必要があります。常に偉大なアマチュアであり続けること。売れようが、売れまいが、そうした態度で、自分の絵を描いていく」「作家というものは、自分自身が常に一番でないと。寄り掛かる精神は、作家の精神じゃないの」「自分の責任で描くことが、一番大切なんです」(八十七才の言葉)

九十三才で亡くなられた時は、まさにアフリカ旅行に出発される予定だったとも聞いている。(アフリカ旅行は馬場が書いていたように92歳の2000年で、最後の海外旅行だった。2001年、第28回創画会に出品した《アフリカの民家》が最後の出品となった。アフリカ旅行で、彫の深い精悍な顔立ちの一人のガイドを気に入って、描いた《砂漠のガイド》が秋野不矩美術館にある。亡くなる前に計画していたのは、インド旅行だったようだ。)