槇文彦さんと谷口吉生さんの対談「慶應建築の系譜」 ― 2024/10/24 07:02
小林博人教授が追想「槇文彦さんと慶應義塾」で触れていた『三田評論』2020年2月号の、槇文彦さんと谷口吉生さんの対談「慶應建築の系譜」を、あらためて読んだら、面白かった。 槇文彦さんの曽祖父は槇小太郎(以下、親族は敬称略)という長岡藩の藩士(藩主は誤植だろう、前に読んだ時、鉛筆で訂正してあった)で、戊辰戦争で負け、一族ばらばらに仙台や会津へ行った。 小太郎はもう侍の時代ではないということで、福沢先生の門をたたいた。 その息子が槇武(祖父)で、五人の息子がいて、長男が槇智雄、三男が文彦さんの父だった。 槇智雄は幼稚舎が三田から天現寺に移転する頃に、小泉信三塾長のもとで常任理事をやっていて、谷口吉生さんの父、谷口吉郎に幼稚舎本館の設計を依頼した。 槇文彦さんの家は、従兄弟をはじめ、皆、慶應で、文彦さんも三田の幼稚舎に入り、二年の三学期に天現寺に移った。 新しい幼稚舎本館の「東洋一」といわれた素晴らしい建物で、あとの四年間をエンジョイした。 二階から階段で運動場に出られ、皆、元気に駆け回っていた。 先生が上の方にいる工作室、理科室もあった。
谷口吉郎が、最初に設計したのが、大岡山の東京工業大学水力実験室、当時日本に導入され始めていたインターナショナルスタイルの建築だった。 谷口吉郎は、はじめに槇家のお墓を設計し、墓とか記念碑の類を、生涯に70件ぐらい設計しているので、「博士」より「墓士」と書いたほうが合うと言われると、本人が話していたという。 槇文彦さんは、自分も谷口先生のお墓に入るはずだったのだけれど、三男の(「男の」は、脱字)父は子供のいない同じ槇家に養子に行ったので、文彦さん自身が設計したお墓に入ることになっている、と。
幼稚舎本館(1937年)のほかに谷口吉郎が設計した慶應義塾の建物は26棟あるが、代表的なものは、戦前の日吉の大学予科寄宿舎(1938年)(「東洋一」といわれ、ローマ風呂がある)、戦後の三田キャンパスの学生ホール(1949年)(猪熊弦一郎の壁画「デモクラシー」は西校舎の生協食堂に移されて現存)、イサム・ノグチとのコラボレーション万来舎(ノグチルーム)、慶應病院の病棟(臨床研究棟)、「慶應義塾発祥の地記念碑」、幼稚舎の講堂、自尊館(1964年)。
槇文彦さんと谷口吉生さんの、ハーバードでの出会いや、アメリカの賞金やフェローシップの高額で義務は自由な話があって、お二人の現在の慶應義塾の建物の話題になる。 槇文彦さんの初めての仕事は、三田の新図書館、黒川紀章がやりたがっているという話を聞いたので、やはり慶應は自分の縄張りだと思って(ヤクザと同じですね)、生まれてはじめて営業をした。 石川忠雄塾長のところに行き、「新図書館をやらせていただけますか」と言うと、快く「うん、やりたまえ」と言っていただいた。 その後、日吉の図書館もやり、石川塾長から藤沢にキャンパスをつくるので、ビレッジのようなのをつくってほしい、と言われ、できたのが湘南藤沢キャンパス(SFC)。
谷口吉生さんの慶應建築の初めは、幼稚舎の新体育館(1987年)。 幼稚舎新館21。 SFCの南側に、湘南藤沢中高等部。 コートハウス(中庭形式)的に、周りを一般教室で囲み、中心部に図書館、特殊教室、体育館を置く、小さな街のような学校を考えた。
(この対談で2019年に出来た谷口吉郎・吉生記念 金沢建築館の話が出るが、私は昨年10月、福沢諭吉協会の旅行で金沢へ行き、谷口吉郎・吉生記念 金沢建築館<小人閑居日記 2023.10.16.>を見学していた。)
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