福沢諭吉先生原作の落語「鋳掛久平冥土の審判」2024/11/01 06:55

 TBS落語研究会、国立劇場小劇場で出来なくなってから、定連席でなく、一回ごとのネットでの申し込みになった。 だから、以前から一緒に通っている仲間と、ばらばらの席になる。 それが10月22日の第676回、まったく偶然に仲間の一人と隣の席になった。 その彼が、慶應の落語研究会、オチケンのOBが、毎年開いている「慶應 落楽名人会」に行ってきたと、プログラムなどをくれた。 10月11日に深川江戸資料館小劇場で、第32回が開催された。 以前は、国立劇場小劇場の仲間の一人、同級生の雷門牛六(もうろく)が出ていた頃は、私も聴きに行っていたのだが、彼が亡くなってから、行かなくなっている。

 第32回「慶應 落楽名人会」は、14時半開演の昼の部に、廿一代目道楽、五代目つばき、三代目恋歌、二代目美団治、十一代目恋生、四代目道楽の6人、18時開演の夜の部に、トモロヲ、二代目三十助゛(みそづけ)、三代目恋生、七代目美団治、ノサック(マジック)、六代目恋生、五代目空巣の8人の出演である。 演目も、昼は「松山鏡」「火事息子」「紙入れ」「宮戸川」「禁酒番屋」「文七元結」、夜は「茗荷宿」「化け物つかい」「大工調べ」「七段目」「いかけ屋」「風呂敷」と、堂々たる大ネタが並んでいる。

 その中に混じって、私の仲間の友人、三代目恋生が夜の部の四番目、中ドリで演じたのが、「鋳掛久平冥土の審判」、原作福澤諭吉「鋳掛久平地獄極楽廻り」だった。 福沢諭吉先生が、『時事新報』のコラム「漫言」に掲載した「鋳掛久平地獄極楽廻り(散憂亭變調口演)」を、現代版に落語翻訳し復刻したものだという。 これはちょっと聴いてみたかった。

 私は23年前に「福沢さんの落語」と題して、「等々力短信」に、この落語のことを書いていた。

                   福沢さんの落語

          <等々力短信 第901号 2001(平成13)年3月25日>

 電力の鬼、松永安左ェ門さんが、人間をダンゴにまるめる話をして、人物が大きすぎて、とても、まるめることなど出来ないのが福沢先生だと書いている。(『人間・福沢諭吉』1964年・実業之日本社) 福沢諭吉が、汲めども尽きぬ泉だということは、しばしば実感してきたが、このたびもまた、その新しい面に目を開かせられる論文を読んだ。 『福沢諭吉年鑑27』(2000年・福沢諭吉協会)所収、谷口巖岐阜女子大学教授の「「漫言」のすすめ -福沢の文章一面-」である。 福沢は明治15(1882)年に『時事新報』を創刊し、それから死ぬまでの20年近くの間、ずっと今日の「社説」のような文章を書き続けた。 その量は膨大で、『福沢諭吉全集』21巻中、9巻を占めている。 その新聞論集の中に、「社説」と平行して収められている「漫言」307編に、谷口さんは注目する。 福沢は、奔放で多彩で茶目気タップリな「笑い」の文章を創造し、その戯文を楽しみながら、明るく、強靭な「笑い」の精神で、時事性の濃い社会や人事全般の問題について、論じているというのである。

 「漫言」の一例を挙げる。 創刊4日目の「妾の効能」(明15.3.4)英国の碩学ダーウヰン先生ひとたび世に出てより、人生の遺伝相続相似の理もますます深奥を究めるに至った。 徳川の大名家、初代は国中第一流の英雄豪傑で猪の獅子を手捕りにしたものを、四代は酒色に耽り、五代は一室に閉じ篭り、七代は疳症、八代は早世、九代目の若様は芋虫をご覧になって御目を舞わさせられるに至る。 それが十代、十五代の末世の大名にも、中々の人物が出る由縁は何ぞや。 妾の勢力、是なり。 妾なるものは、寒貧の家より出て、大家の奥に乗り込み、尋常一様ならざる馬鹿殿様の御意にかない、尋常一様ならざる周りの官女の機嫌をとり、ついに玉の輿に乗りて玉のような若様を生むものなれば、その才知けっして尋常一様の人物ではないのは明らかだ、と。

 福沢は新作落語も作っていた。 「鋳掛(いかけ)久平(きうへい)地獄極楽廻り」(明21.6.17) 散憂亭変調 口演 としてある。 鋳掛屋の久平が死んで冥土へ行くと、かつて懇意だった遊び友達の吉蔵が、シャバのお店での帳付の特技を生かし、無給金食扶持だけながら閻魔様の帳面をつけていた。 吉蔵に話を聞き、極楽を覗かせてもらうと、大入り満員で、蓮の葉の長屋にギュウ詰めになって、みんな退屈している。 近頃、シャバで教育が始まり、人に正直の道を教えたからだという。

日本の将来像、苅部直さんは「平等と平和 出発点に学べ」2024/11/02 07:20

 10月24日の朝日新聞朝刊「耕論」は、「2024衆院選 どう描く 日本の将来像」だった。 東京大学教授で日本政治思想史の苅部直さんは、「平等と平和 出発点に学べ」。

 苅部直さんは、政権の総合的な政策体系を「国家戦略」と呼ぶことは、今では普通になっているが、昔からそうだったわけではなさそうだ、という。 今世紀に入ってから、小泉純一郎内閣に「知的財産戦略会議」ができ、民主党政権になると「新成長戦略実現会議」や「国家戦略会議」が設置され、その流れが加速した。 国家戦略という言葉がシンボル化される現象は90年代の政治改革の落とし子だろう。 内閣機能を強化して縦割り行政を打破する/決定を迅速化させる/目的を明確化させる。 それらが大事だとされる時代背景があってのことだからだ。

 一般に国家戦略なるものの目的とされるのは「富と力」だろう。 しかし、いまや経済格差感の広がりを止めることはどんな政治家にも難しくなり、防衛力を整備しても安全が保たれるかは東アジアの状況次第というのが厳しい現実だ。 人々から安定した支持を集めるには、富や力を超える価値やビジョンを掲げることが必要になっている。

 そう前置きして、苅部直さんは、明治政府の発した「五箇条の誓文」と、戦後に生まれた日本国憲法を、現代的に再解釈することを提案する。

 五箇条の誓文で誓われているのは、「智識を世界に求め」て「天地の公道」に基づく統治をすることや、庶民を含めたすべての国民が「其志(そのこころざし)」を遂げられるようにすることだ。 現代の言葉で言えば、普遍的な原理に基づいて平等の理想を実現するという誓いだ。

 そして日本国憲法の前文には、「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」との文言がある。 「侵略戦争の禁止」と読む解釈も過去にはあったが、「国際秩序の維持に責任を果たす平和主義」と解釈し直すべきだと思う。 ひとことで言えば「積極的平和主義」。

 近代日本の出発点で示された「平等で開かれた社会」と、終戦後の再出発時に示された「積極的平和主義」という理念。 どちらも21世紀に生かせる財産ではないか、と苅部直さんはいうのだ。

 これを読んで、私がすぐに思ったのは、福沢諭吉だ。 「五箇条の誓文」と、日本国憲法の両方に、福沢の影響と、その理想の実現がある。 それは、明日から。

「五箇条の誓文」と、『西洋事情』文明政治の六条件2024/11/03 07:31

 まず、「五箇条の誓文」。 平山洋さん(静岡県立大学助教)の『福澤諭吉 文明の政治には六つの要訣あり』(ミネルヴァ書房)に、『西洋事情』と「五箇条の誓文」の関係についての指摘がある。 「五箇条の誓文」の骨子は、第一条・広く会議を起こしていっさいを議論によって決定すること、第二条・官民一体となって経済を盛り立てること、第三条・朝廷と諸侯は協力して庶民の生活向上に配慮すること、第四条・旧慣を打破して普遍的な価値観に基づいた政治を行うこと、第五条・知識を世界に求めて統治の基礎とすることの、五箇条である。 「五箇条の誓文」は、諸侯会議派の参与由利公正(福井藩)と福岡孝弟(土佐藩)が中心となって立案したものだが、由利は実学者横井小楠(熊本藩)の弟子、また福岡は後藤象二郎や坂本龍馬とともに土佐藩実学派を牽引してきた人物で、やはり小楠の影響下にあった。 福沢諭吉は熊本藩の大田黒惟信(これのぶ)や牛島五一郎といった小楠門下生と交流していたので、議会政治と経済振興政策を主眼とする小楠の思想は、福沢の発想にも影響を与えた可能性がある。 一方小楠の弟子筋としては、『西洋事情』が出版されたことで、それまで曖昧にしか把握できなかった議会や金融の仕組みを正確に理解できるようになった。

 「五箇条の誓文」は、相当に圧縮された表現になっているので、『西洋事情』からの直接の影響を指摘するのは難しい。 とはいえ、両者を読み比べたときの類似点は一目瞭然である。 たとえば誓文の第一条は『西洋事情』冒頭にある英国の政治機構の説明と、第二条は文明政治の六条件のうち第五条件「保任安穏」と、第三条は同じく第一条件「自主任意」と、第四条は『西洋事情』に掲載されているアメリカ独立宣言の最初部分と、そして第五条は文明政治の第三条件「技術文学」と相似た内容をもっている。 『西洋事情』は当時誰もが読んでいたという状況であったから、五箇条の誓文にその内容が反映されているのである。

 文久2(1862)年、遣欧使節団でヨーロッパに行った福沢諭吉は、のちに「西航手帳」と名付けられる手帳に、日々の取材メモを綴った。 その手帳に、文明政治の五条件として、(1)自由の尊重、(2)統治主義、(3)信教の自由、(4)学校教育の拡大、(5)科学技術の導入、と記している。 慶応2(1866)年刊行の『西洋事情』では、(6)福祉の充実、を加え、文明政治の六条件として、第一条・自由を尊重して法律は寛容を旨とすること、第二条・信教の自由を保障すること、第三条・科学技術を奨励すること、第四条・学校を建設して教育制度を整備すること、第五条・法律による安定した政治体制のもとで産業を振興すること、第六条・福祉を充実させて貧民を救済すること、を挙げたのだ。

日本国憲法と福沢、NHK「人権の時間」、『帝室論』2024/11/04 07:08

 日本国憲法と福沢諭吉。 太平洋戦争開戦の昭和16(1941)年に生まれて、空襲が最初の記憶であり、戦争直後に六三制二年目の小学校に入った私は、新憲法下で物心がついた。 NHKしかなかったラジオの(テレビはもちろんない)今でいうゴールデンタイムに、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」で始まる「人権の時間」というのがあった。 緊迫したようなテーマミュージックが流れ、労働三法の普及のためだろう、「○○労働基準監督署は…」と、労働問題の事例などを紹介していた。

 昭和10年代には次第に、「福澤思想抹殺論」が出回り、慶應義塾は西洋の自由主義を日本に入れた福沢諭吉の学校として、言わば国賊のように見られるようにもなっていた、という。 それが、敗戦によって一変した。 日本国憲法に、福沢の思想や理想が、きわめて近かったのである。 その一つに、象徴天皇制と福沢諭吉の『帝室論』の話がある。

 吉田内閣の時、天皇陛下から、民主主義の時代に国民と皇室の関係はどうなければならないかというご下問があった。 即答できずに、「本来なら切腹だ」と、真青な顔で官邸に帰ってきた吉田さんに、福沢諭吉の『帝室論』のことを話したのが、武見太郎さんだった。

 早速『帝室論』を読んだ吉田首相が、小泉信三さんに文部大臣を頼もうといい出す。 使いの武見さんに、小泉さんは戦災のけががまだ治っていないからと断わる。 それでは高橋誠一郎さんだということになり、武見さんは「先生、福沢の弟子として、こういう時に福沢の遺志が政府に伝わるのは非常にいいことなので、それをする義務は先生にだってあるでしょう」という殺し文句を使って、高橋さんを官邸に連れ込む。

 『帝室論』には、「帝室は政治社外のものなり」「我帝室は日本人民の精神を収攬するの中心なり」「帝室は独り万年の春にして、人民これを仰げば悠然として和気を催ふす可し」とある。

苅部直さんから、ブログにコメントを頂いた話2024/11/05 06:57

 苅部直さんは、日本政治思想史専攻だから、福沢諭吉の研究があって、福澤諭吉協会総会や福澤先生誕生記念会で記念講演を聴いたことがあった。 それを当日記に「難解で、まったく歯がたたなかった」と書いて、実は苅部直さんご自身から、コメントを頂いたことがあった。 まず、その講演を日記に綴ったものをリストして、最後にコメント一件に関係分を、再録しておく。

苅部直東大教授の講演<小人閑居日記 2011.5.25.>
苅部直東大法学部教授の講演の前に<小人閑居日記 2015.1.15.>
福沢先生、苦心の翻訳語の意義<小人閑居日記 2015.1.16.>
「福澤語」の「怨望」と社交、自由・寛容<小人閑居日記 2015.1.17.>
「福澤語」の「公徳」と多事争論<小人閑居日記 2015.1.18.>

       苅部直東大教授の講演<小人閑居日記 2011.5.25.>

 21日(土)は、福澤諭吉協会の総会と記念講演会があった。 講師は苅部直(かるべ・ただし)さんで、演題は「福澤諭吉における「公徳」―『文明論之概略』ななめよみ」だった。 案内文の苅部さんの肩書は「東京大学大学院法学政治学研究科教授」、次回9月17日の土曜セミナーの予告にあるロバート・キャンベルさんのそれは「東京大学大学院総合文化研究科教授」になっている。 司会の寺崎修常務理事が、当然、そのように紹介すると、苅部さんは異論をはさんだ。 東京大学大学院という団体はない(?)、それぞれの大学院研究科教授は、学部の教授を兼任している。 自分は研究者を養成することよりも、大学に入って来た学生を一人前の人間に教育することを、大学の教員の役割と思っているので、東大教授、法学部教授をメインに名乗っている、と。

 苅部さんの講演、レジメも、参考文献からのコピーもきちんとしたものを頂いて聴いているのに、難解で、まったく歯がたたなかった。 実をいうと、頭が痛くなった。 くやしいから、講演の筋道の題目だけ挙げておく。
1. “非道徳家”福澤のイメージ
2. 第6章「智徳の弁」をどう読むか
3. 造語家・福澤―「本位」「公徳」
4. 『文明論之概略』(1875年8月)の構成 : 8章以降の主題としての「公徳」
5. 国教問題の影
6. 「怨望」と「堪忍」: 福澤のリベラリズム

 16日、福澤先生ウェーランド経済書講述記念日の小室正紀さんの講演「福澤諭吉の経済論」の明快さとは、大違いだった。 東大、恐るべし。 八代目桂文楽が落語研究会の「大仏餅」で、台詞に詰まって言った「勉強し直して参ります」を、つぶやきながら、交詢社を後にした。

      苅部直東大法学部教授の講演の前に<小人閑居日記 2015.1.15.>

第180回福澤先生誕生記念会、記念講演は東京大学法学部教授の苅部直(かるべ・ただし)さんだった。 前の席にいた福澤諭吉協会会員で、このブログを読んでくれている黒田康敬さんが、振り向いて「馬場さんの天敵ですね」と言う。 脱線するが、その話から始めたい。 2011年5月21日、福澤諭吉協会総会の記念講演で、苅部直さんの「福澤諭吉における「公徳」―『文明論之概略』ななめよみ」を聴いた。 私は5月25日のこの日記に「苅部直東大教授の講演」と題して、こう書いた。 「苅部さんの講演、レジメも、参考文献からのコピーもきちんとしたものを頂いて聴いているのに、難解で、まったく歯がたたなかった。 実をいうと、頭が痛くなった。 くやしいから、講演の筋道の題目だけ挙げておく。」「東大、恐るべし。 八代目桂文楽が落語研究会の「大仏餅」で、台詞に詰まって言った「勉強し直して参ります」を、つぶやきながら、交詢社を後にした。」

すると、驚くべきことに、6月15日に苅部直さんご自身から、コメントを頂いた。 「苅部直です。5月25日の記事、拝見しました。どうも難解ですみません! 寺崎先生、松沢先生、井田先生、小室先生など福澤研究の大家の前でお話しするということで緊張し、情報過多の講演になってしまったと反省しています。『福澤諭吉年鑑』に載せるときは、もっと柔らかくしますので、ごらんいただけると幸いです。」

 私は驚いて、こう返していた。 「ワ゛――ッ!! 苅部直先生、直々のコメント、ありがとうございます。 かなり老耄が進んでおりますので、理解できなかったのかもしれません。 福沢流に「山出の下女をして障子越に聞かしむるように」、「猿に見せる積りで書け」というように、お願いできれば、と存じます。」

 福澤先生誕生記念会の記念講演は、「「福澤語」入門――「公徳」と「怨望」」だった。 苅部直さんは、不幸なことに自分は慶應の出身ではないが、こうした華やかな催しで話させてもらうのは光栄だと始めた。 慶應で日本政治思想史の非常勤講師を務めているので、先ほどの清家塾長の「半学半教」の話に納得がいく。 学校からの書類に苅部君と書いてある。 その精神は理解できるが、人情はついていかない。 学生の答案に、教師の名を書く欄があって、「苅部君」と書いてあるのがあった。 講評に「むかつく」と書いたが、先ほどの塾長のお話を聞いて、「私もマダマダだ」と思った。 学生を教えていて、同時に学生に教えられているという、福沢先生の精神に思いをいたさなければならない。 だが、人間の習慣は抜きがたい。 今日の話は「福沢先生」でさせていただくが、時に「福沢」と言ってしまうかもしれない。