『夏潮』連載、石神主水さんの『時を掘る』2024/11/11 07:00

 俳誌『夏潮』に、石神主水さんが『時を掘る』という連載を、2012年の8月号から続け、2024年11月号で、147回を数える。 2022年6月号で、なぜか一回休んだだけだ。 私も初期の『夏潮』に『季題ばなし』というのを連載させてもらったが、24回で種切れとなっていたから、その大変さは身に沁みて、よくわかる。

 石神主水さんは、考古学を学んだと聞いていたから、『時を掘る』という題は、まさにぴったりだ。 連載が一年ぐらい経った頃から、京都の話題が多くなった。 改めて、ネットで調べると、俳人、京都芸術大学教授とあった。 御粽司 川端道喜の川端知嘉子さん、秋野不矩先生の京都市立芸術大学ではなく、女優の黒木華が映画学科で学び、近くに四川料理の駱駝という店がある京都(造形)芸術大学だろう。 1973年神奈川県生まれ、千葉県鎌ケ谷市で育ち、2005年慶應義塾大学大学院文学研究科後期博士課程単位取得退学、2006年博士(史学)、考古学を専門とする傍ら慶應俳句研究会で俳句を学ぶ、とある。 夏潮会の第零句集18『神の峰』を2013(平成25)年に刊行しているが、本井英主宰はその序文「よき仲間に囲まれて」で、<春浅し発掘現場砂嵐><古伊万里のかけら打ち寄せ春浅し>を引き、『夏潮』2010年2月号に載った上高地での結婚式と披露宴での仲間に囲まれた幸せそうな顔の集合写真と記事に言及されている。 『神の峰』という題は、上高地での句<神の峰霧生れてまた霧生れて>に由来するそうだ。

 『時を掘る』2024年1月号「百人一首かるた」に、今年の大河ドラマが『光る君へ』で紫式部や源氏物語にスポットが当たる年となりそうだがと、百人一首の紫式部が詠んだとされる「めぐりあひて見しやそれとも分かぬまに雲がくれにし夜半の月かな」(『新古今集』「雑上一四九九」)にふれている。 歌意はシンプルで、「久しぶりにめぐり逢ってお会いしたのがあなたであるかどうかもわからないうちに、あなたは慌ただしく帰って行かれた。雲の間に隠れてしまった月のように」というもの。 「月」を誰に見立てたのかがポイントで、『新古今集』のこの和歌の詞書に、「はやくより童友達に侍りける人の、年ごろ経てゆきあひたる、ほのかにて、七月十日のころ、月にきほひて帰り侍りければ」とあると、石神主水さんは書いている。

 私は、大河ドラマ『光る君へ』の脚本を書いた大石静さんは、この詞書を読んで、物語の冒頭、紫式部(藤式部)となるまひろと、藤原道長の三郎が幼馴染だったことを、思いついたに違いないという気がした。 まひろと道長の二人には、相手のことを思って「月」を見上げる場面が、しばしばある。

「紫式部」『源氏物語』の誕生、「越前紙」2024/11/12 06:54

 石神主水さんの『時を掘る』、『夏潮』2023年11月号は「紫式部」。 <禅寺の犬おとなしき落葉かな>という高浜虚子の句で始まる。 この句は紫野の大徳寺で詠まれ、その大徳寺塔頭の真珠庵にある井戸は、紫式部産湯の井戸とされている。 出生は天禄元(970)年から天延元(973)年の間と推定されている。 父は藤原為時で「式部丞(シキブノジョウ)」であったことから、後年「藤(トウ)の式部」と呼ばれる。 「紫」に変ったのは、式部の死後で、紫野で生まれたという逸話が背景になったという説もあるそうだ。

 長徳4(998)年に、藤原宣孝(ノブタカ)と結婚し、娘の賢子(のちの大弐三位)が誕生する。 しかし長保3(1001)年4月に、宣孝が急死し、その秋ごろから『源氏物語』を書き始めたという説がある。 そして、寛弘2(1005)年12月29日には、一条天皇の中宮彰子(藤原道長の長女)に仕えるべく宮廷に召し出されることになる。 途中、宮仕えを退いた時期もあったようなのだが、寛仁2(2018)年ごろに、再び彰子に出仕したようだ。 史料で確認できるのは、寛仁3(2019)年正月5日に取次ぎ女房として登場するのを最後として、それ以後の活動は認められない。 なお『源氏物語』の完成は、寛弘7(1010)年夏ごろとされており、宮仕えの合間を縫って完成されたと考えられている。 寛弘5(1008)年11月1日の『紫式部日記』(現存写本は「紫日記」)に、藤原公任が紫式部を「若紫」と呼ぶ記事があり、『源氏物語』の存在を示す初出であるということから、11月1日を「古典の日」とすることが法制化されたそうだ。

 『時を掘る』、2023年11月号は「越前紙」。 紫式部は生涯に一度だけ都を離れたことがあり、長徳2(996)年の夏、父の藤原為時が、春の除目(ジモク・『時を掘る』、2023年1月号は「除目」)で越前国の国守に任じられたので、父とともに国府があった現在の福井県武生市へ行った。 この時の逸話として、『日本記略』には、一度は淡路守に任じられたものの、右大臣であった藤原道長が参内して、藤原為時を淡路守から越前守に変更したことが記されている。 その背景には、前年に越前の隣国若狭へ北宋の商人朱仁聰が来着する事件が起こっていて、交渉相手として漢文の才を持つ為時が選ばれたとする説もある。

有力な天延元(973)年生誕説をとると、数え24歳のころになる。 『紫式部集』に、<こゝにかく日野の杉むら埋む雪小塩(ヲシオ)の松に今日やまがへる(ここ日野山の杉木立を埋めるように雪が降り積もっていることよ。都の小塩山の松にも今日は雪が散り乱れているのだろうか)>という和歌があり、遠く越前から都を恋しく思う心が表れている。

 越前といえば、その特産の一つが紙で、越前和紙とも呼ばれ、とくに奉書紙とよばれる上質の楮で漉かれた紙は、公家や武家などの公の用紙として重用された。 越前紙は、楮、三椏、雁皮などの植物を材料として、その靭皮(ジンピ)繊維を主原料に、溜め漉き(漉舟に、水、紙の原料をいれ、それを金網ですくい上げて漉く方法)や、流し漉き(漉舟に、水、紙の原料、ネリ(トロロアオイ)を入れ、次に漉簀で数回すくいあげて漉く方法)などで作られる。 紫式部がその工房を訪れたのかどうかわからないが、越前紙を使う機会はあったのではないか、と石神主水さんは書いている。

『源氏物語』を書くのに使われた貴重な紙2024/11/13 07:06

 NHK総合テレビの『歴史探偵』という番組が、8月28日に大河ドラマ『光る君へ』とのコラボスペシャル2ということで、藤原道長の柄本佑、一条天皇の塩野瑛久(あきひさ)をゲストに放送された。 最初の問題は、『源氏物語』に使われた紙である。 当時、紙は貴重品だった。 書誌学の佐々木孝浩慶應義塾大学斯道文庫教授が登場、『源氏物語』は平安時代の写本はなく、鎌倉時代の最古の写本、幻の巻が千葉県銚子市の飯沼山圓福寺に残っている。 そこから推計すると、『源氏物語』全巻を書くのに、全紙判507枚、2000枚以上の紙が必要だったという。 倉本一宏国際日本文化センター名誉教授は、平安京の一条通に紙屋院という役所があり、紙はもっぱら公文書用だけで、一般に流通していなかったという。

 そんな貴重な紙を使って、紫式部が『源氏物語』を書くことができたのは、藤原道長から与えられたからだろうと推測するわけだ。 受領(国守)が税として徴収した紙(越前紙のような)の余りが献上されていた。 京都の陽明文庫にある藤原道長の国宝『御堂関白記』は上質の紙で書かれ、36巻26年にわたる日記である。

 大河ドラマ『光る君へ』第30回「つながる言の葉」。 清少納言の『枕草子』が広まっていた。 まひろ(紫式部)は、藤原公任の妻が主催する和歌の会に出ていたが、まひろの書いた「カササギ語り」が『枕草子』より面白いという話題が出る。 藤原道長は長女の彰子を一条天皇の中宮にしたものの、二人の仲はうまくいっていない。 道長は、陰陽師の安倍晴明に、闇の中からいずれ光が差し煌々と照らす、心の中に浮かんだ人に会いに行け、それが光だ、と言われる。 まひろが面白い話を書いたと聞き、会いに行く。

 『光る君へ』第31回「月の下で」。 しかし、物語を書くことに夢中な母に、かまってもらえぬ娘の賢子(かたこ)が「カササギ語り」の原稿を燃やしてしまっていた。 道長はまひろに、中宮彰子に献上したいので、もう一度思い出して書けぬか、あるいは新しい物語を書いてくれぬか、と頼む。 帝のお渡りがなく、寂しい中宮様のために。 お前には才がある、俺に力を貸してくれ、また参る、考えてくれ。

 そして、越前の紙が大量に届く。 せいいっぱい面白いものを書いてくれ、明るくてよい。 実は、中宮様にとは偽り、すまなかった、帝に献上したい、『枕草子』を超える書物を。 まひろも、帝がお読みになるものを書いてみたい、人柄、若き日のこと、生き身の姿、「帝もまた人でおわす」ということを、と。

 道長とまひろ、二人で月を見る。 きれいな月、人はなぜ月を見上げるのか。 月にも人がいて、こちらを見ているからか。 「おかしきことこそ、めでたけれ」。 誰かが今、俺の見ている月を見ていると願いながら、俺は月を見てきた。 (チェロの音楽が流れ、細かい色紙が舞った。)

「平安の花見」、そうだ、京都を知ろう2024/11/14 07:03

 石神主水さんの『時を掘る』、『夏潮』2024年4月号は「平安の花見」。 <山門も伽藍も花の雲の上  虚子> 奈良時代までは中国の詩歌の影響もあり、「梅」を好む傾向があったようだが、平安時代になると、「桜」への想いが強くなるようで、『源氏物語』のなかに登場する「花」について調べた研究によれば、「梅」が52例、「桜」が50例と拮抗している。(伊井春樹「王朝貴族の花見と源氏物語の桜」『京都語文』2003年) 平安の貴族たちも、山へと桜を愛でに訪ね歩いていて、『源氏物語』の紫の上との出会いでも、「わらわやみ」を患った光源氏が北山の「なにがし寺」へ加持祈祷に行き、山桜が盛りの境内で、幼い紫の上を垣間見する場面が出てくる。 石神主水さんは、紫の上と山桜を重ねた描写は、平安の貴族社会における「桜」の捉え方を示しているということができるだろう、という。

 実際の貴族の花見については、彼らが残した日記から知ることができる。 花山院に仕えた藤原実資の日記『小右記』には、旧暦三月に色々な場所へと花見に訪れていることがわかる。 たとえば花山院は東山椿ヶ峰の西麓にあったとされる円成寺(現・大豊神社)や現在の岡崎付近を頻繁に訪れており、大抵は馬で出掛けている。 そして紫式部の母方の曽祖父にあたる藤原文範の山荘を訪れていたようだ。 上記の北山の「なにがし寺」のモデルと言われる大雲寺を創建したのも文範だ。

 藤原道長も、花山院と花見に出掛けている。 『御堂関白記』には、やはり東山の白河院から観音院へ牛車で行き、お昼ご飯を食べつつ、お題を出して歌を詠んでいる。 こうした花見のあり方は、平安貴族に共通したものだったようで、いくつかの花の名所を訪ねて、歌を詠むことが主たる目的であったことができる、と石神主水さんは指摘する。

 ことほどさように、石神主水さんの『時を掘る』によって、京都の歴史をあれこれ知ることができる。 2024年11月号までの題名を列挙しておく。 2020年12月号に「紙屋院」もあった。

 2012年 8月号 1. 星宿図 9月号 2. 波除碑 10月号 3. 長陽の節句 11月号 4. 神在月 12月号 5. 炭
 2013年 1月号 6. 矢の考古学 2月号 7. 絵踏 3月号 8. 白魚と台場 4月号 9. 鐘供養 5月号 10. 競馬と馬場 6月号 11. 鰹船 7月号 12. 水売 8月号 13. 盆踊り  9月号 14. ご遷宮 10月号 15. きのこ 11月号 16. 七五三 12月号 17. 煤拂と鯨汁
 2014年 1月号 18. 初夢と富士山 2月号 19. 針供養 3月号 20. 屋根替 4月号 21. 蚕 5月号 22. 粽 6月号 23. 鮎 7月号 24. 氷室 8月号 25. 地蔵盆 9月号 26. 角切 10月号 27. 団栗と稲 11月号 28. 芭蕉忌 12月号 29. 顔見世
 2015年 1月号 30. 鬼 2月号 31. 初午 3月号 32. 涅槃会 4月号 33. 桜 5月号 34. 茶壺 6月号 35. 嘉祥 7月号 36. 蟲干 8月号 37. 大文字 9月号 38. 晴明祭 10月号 39. 去来塚 11月号 40. 炉開 12月号 41. 一陽来復
 2016年 1月号 42. 三猿 2月号 43. 山焼く 3月号 44. 利休忌 4月号 45. 十三詣 5月号 46. 葵祭 6月号 47. 信長忌 7月号 48. 千日詣 8月号 49. 迎鐘 9月号 50. 若冲忌 10月号 51. 十夜念仏 11月号 52. 龍馬忌 12月号 53. すぐき
 2017年 1月号 54. 蹴鞠始 2月号 55. 菜種御供 3月号 56. 釈迦堂の御身拭 4月号 57. 島原太夫道中 5月号 58. 京の筍 6月号 59. 鞍馬の竹伐 7月号 60. きうり塚 8月号 61. 丹波太郎 9月号 62. 鳥相撲 10月号 63. 牛祭 11月号 64. お火焚き 12月号 65. おことうさんどす
 2018年 1月号 66. はなびらもち 2月号 67. 左女牛の神事 3月号 68. はねず踊り 4月号 69. 種物屋 5月号 70. 栴檀講 6月号 71. 初繭 7月号 72. どんどん焼け 8月号 73. 糸人形 9月号 74. 石清水祭 10月号 75. 小倉山 11月号 76. 明治節 12月号 77. にしん蕎麦
 2019年 1月号 78. 弓始 2月号 79. 懸想文売り 3月号 80. 大石忌 4月号 81. 春水 5月号 82. 海龜 6月号 83. 鮎 7月号 84. 屏風祭 8月号 85. 六地蔵 9月号 86. 伏見御香宮 10月号 87. 赦免地踊 11月号 88. 大嘗祭 12月号 89. 除夜の鐘
 2020年 1月号 90. 左義長神事 2月号 91. 太子正当忌 3月号 92. 和泉式部忌 4月号 93. やすらゐ祭 5月号 94. 嵯峨祭 6月号 95. 県祭 7月号 96. 厄除粽 8月号 97. 六斎念仏 9月号 98. 櫛祭 10月号 99. 虚子塔 11月号100. 魚山声明 12月号 101. 紙屋院
 2021年 1月号 102. 楊枝のお加持 2月号 103. 燃灯祭 3月号 104. 小倉餡 4月号 105. 大原野 5月号 106. 駈馬神事 6月号 107. ぬりんべ地蔵 7月号 108. かじのき 8月号 109. 嵯峨天皇祭 9月号110. 真葛ヶ原 10月号 111. 御所 11月号 112. 祇園小唄 12月号 113. 大根焚
 2022年 1月号114. 寅年 2月号 115. 宇治橋 3月号 116. 六波羅野 4月号 117. 鞍馬花供養 5月号 118. 城南宮 7月号 119. 祇園会と祇園祭 8月号 120. 定家忌 9月号 121. 瑞光寺 10月号 122. 狭小神輿 11月号 123. 植物園と占領軍 12月号 124. 龍馬忌
 2023年 1月号 125. 除目 2月号 126. 岡崎神社 3月号 127. 二条城会見 4月号 128. 親鸞 5月号 129. 先斗町 6月号 130. 京の橋 7月号 131. 天文密奏 8月号 132. 瑞泉寺 9月号 133. 比叡山焼き討ち 10月号 134. 社寺林 11月号 135. 紫式部 12月号 136. 宇治橋断碑
2024年 1月号 137. 百人一首かるた 2月号 138. 越前紙 3月号 139. 闘鶏 4月号 140. 平安の花見 5月号 141. 紫野斎院  6月号 142. 鯖鮨 7月号 143. 駒形権現 8月号 144. 天下の三鐘 9月号 145. 地震 10月号 146. 高雄 11月号 147. 讃州寺

田中優子さんの「本を読まない・読めない」人びと2024/11/15 07:09

10月18日刊行の、田中優子さんと松岡正剛さんの岩波新書『昭和問答』のあとがきで、田中優子さんがこういうことを書いている。

「『昭和問答』は、明治から終戦まで77年間に及ぶ時代をたどった。そして戦後、国民は武力を放棄し、戦力を保持しないことを決め、それを憲法に明記した。その日本国憲法施行から今年、2024年まで、やはり77年経った。/その2024年7月、じわじわと進んできた「新しい戦前」はその姿をはっきり見せるようになり、その過程を許してきた国民がどういう人たちなのか、その姿も見えてきた。それは、「本を読まない・読めない」膨大な数の人びとだった。東京都知事選では、政策をもたず、語らず、議論しない候補者が多くの票を集めた。ほとんどの都民は政策を出しても理解できず、長い話を聞くことができないからだという。」

「在日米軍は統合軍司令部をつくり、自衛隊は米軍との連携のための統合作戦司令部を設置することになった。いよいよ日本は、主権の一部を米国に渡すことになる。いま九州では日米の合同軍事訓練が行われており、沖縄では避難シミュレーションがつくられている。「新しい戦前」は米国と戦う戦前ではなく、米国支配下の戦前なのだ。」

「2015年の集団的自衛権行使容認、2020年の日本学術会議会員任命拒否、2022年の「安保三文書」による、敵基地攻撃能力保有と軍事予算の倍増、学問の排除を含んだかつての戦前とそっくりの経緯が、展開している。」

「この本の冒頭で私は、「なぜ戦争から降りられないのか?」「国にとっての独立・自立とは何か」「人間にとって自立とは何か」という問いを置いた。40年も教育にたずさわったが、一斉教育を全面的に切り替えることはできなかった。本を読み文章を書き、考え、自分の言葉を発見し、他者とともに語り合う。そういう機会は、自分の設定した少人数授業のなかでしか、実現できなかった。結果的に、本など読まず時間をかけず、効率的に社会的な地位を得る競争に邁進する世の中になった。ますます競争から降りられず、ますます大樹に依存して、自立からは程遠くなった。」

「それでも私は、松岡正剛のつくってきた編集工学研究所の仕組みと、その私塾であるイシス編集学校に、望みを託している。なぜならそこでは、本を読むこととみずから書くことのなかに、絶対とも言える信頼を置いているからだ。「千夜千冊」は1850冊を数えた。つまりは1850の扉をもっている。その扉の前に立ちその扉を開けることで、古今東西の無数の本の世界に一歩を踏み出せる。」

「本を読むとは、みずからの座標軸を得ること。それは世界という座標か、宇宙という座標か、無限につづく時間の座標か? 1850の扉の向こうに、さらに扉がつづいていることを、私は知っている。」