福沢の歌舞伎脚本『四方の暗雲(くろくも)波間の春雨』2024/12/21 07:18

 7日に、福澤諭吉協会の土曜セミナーで聴いた、松竹株式会社エグゼクティブフェローの岡崎哲也さんの「歌舞伎に生きる福澤精神」の話を、福沢諭吉と明治の歌舞伎界<小人閑居日記 2024.12.7.>に書いた。 明治24年1月歌舞伎座で上演された『風船乗評判高閣(ふうせんのりうわさのたかどの)』については、ブログに書いたことを(明治23年、スペンサーの風船乗り〔昔、書いた福沢149〕<小人閑居日記 2019.11.6.>参照)と挙げていたが、「等々力短信」にも、10年ほど前に「福沢諭吉と歌舞伎」を書いていた。 岡崎哲也さんも講演で言及し、しかし実際の上演には難点があると指摘していた、福沢執筆の歌舞伎脚本『四方の暗雲(くろくも)波間の春雨』にも触れていたので、再録する。

      等々力短信 第1061号 2014(平成26)年7月25日                   福沢諭吉と歌舞伎

 前号「神式の結婚式、芝居茶屋」について、ちょうど一年前の第1048号「江戸の「辞典・小百科」を読み解く」の田中朋子さんに、毎月恒例の返信で教えていただいた。 福沢諭吉が「芝居茶屋」の不用に言及していたと思い、『福澤諭吉事典』を開いたら261頁にあった、というのである。 「演劇改良論」という項目だ。 福沢は、50歳を越えた明治20(1887)年頃、末松謙澄らが唱えていた「演劇改良論」に刺激されて、20年3月初めて新富座で芝居を観て、いたく感激、その後はすっかり芝居好きになり、『時事新報』に漫言や社説を書いたり、市川団十郎や尾上菊五郎らと交流するようになる。 21年10月の「芝居改良の説」では、商売経営の方法を芝居にも取り入れ、芸を売り買いする正しい仕事にすること、料金についても芝居茶屋が間に立つ慣習は不明瞭、不便なので、このような曖昧なやり方でなく、明白な見物料を取るべきだとしていた。 福沢は、社会形成にとって人間(じんかん)交際が大切だと考えていた。 芝居見物もその社交の一つであり、これまでの芝居は下等社会を相手にしていたけれど、今日は上等客の所望にも応えなければならないとし、経営や観客サービスばかりでなく、歌舞伎の内容から脚本、役者の演技に至るまで、改革の提言、改良の注文を出している。

 その明治21(1888)年の7月頃、団十郎を主役にあてて歌舞伎の脚本『四方の暗雲(くろくも)波間の春雨』を書き下ろした(『福澤諭吉全集』20巻)。 ゼルマニア皇室の皇女、安那姫の危機を救った波瀾(ぽーらん)国の太子歴山公子との恋物語が発端で、イギリス、ロシア、フランスなどの国際情勢をからませ、大宰相美寿麿(みすまろ)公の苦衷を中心に、国際スパイの暗躍、電信技士の暗号解読などもある筋立て、結局悪人は亡び忠臣さかえ皇室万歳、安那姫と歴山公子の悲恋もハッピーエンドを迎える全編十幕の大脚本だったが、なぜか上演はされず、幻の台本に終わったという。

 明治23(1890)年10月12日、横浜公園、英人スペンサーによる風船乗り(軽気球揚げ)に沢山の見物人が集まり、その中に尾上菊五郎もいた。 軽気球には『時事新報』の牌(ふだ)が下がり、その広告のビラも撒かれたようだ。 11月11日には、W・K・バルトン設計の浅草凌雲閣が開業した。 その両方を取り入れ、菊五郎は翌24(1891)年1月、歌舞伎座で河竹黙阿弥作『風船乗評判高閣(うわさのたかどの)』を上演した。 洋楽に乗って、菊五郎扮するスペンサーが軽気球で上昇、客席にビラを撒く、『時事新報』の広告だ。 次に花道から人力車で登場した菊五郎、“Ladies and Gentleman, I have been up at least three thousand feet.”と演説を始める。 この仕掛け人は福沢諭吉、英語は甥の今泉秀太郎が書き、塾の教員マコーレーが直した。