小泉妙さんと、父信三さんの「始球式」 ― 2024/12/23 07:17
X(旧ツイッター)の「三田評論ONLINE」で、小泉妙さんが99歳で亡くなったことを知った。 いつ亡くなったのか、日にちはなかった。 『父 小泉信三を語る』(慶應義塾大学出版会)を見る。 あとがきに、「企画も編集も、父の死後に生まれた二人の方によってなされたことに、深い感慨を覚えます」とある。 山内慶太・神吉創二両氏との話が、「戦中戦後の厳しさ、辛い時代の話になりますと、聞き手の表情に一瞬ふっと違う影が射すような気が致しました。」「目前の二人、そろそろ中年に近い人の後ろに多数の人の存在を考えた時、これはやはり知っていてほしいと思うようになりました。語り部というには力不足ではございますが、「むかしむかしあるところに、明治生まれの両親と大正生まれの三人の子供が住んでいました」で始まる話としてお聞きくださいませ。」と。
小泉妙さんは、大正14(1925)年9月25日、7月に越したばかりの北品川御殿山の新築の家で生まれた。 岩崎邸(今の開東閣)の正門前、「今のラフォーレホテルの車の出口になっているあたりが家だったのですが、そこを通る時に人に『私ここで生まれたのよ』つて言うと、道で生まれたようで、何だか犬みたいな気がします。」
松竹の岡崎哲也さんが先日の土曜セミナーで手にして、新橋の芸者染福さんの一文が載っていると話していた『小泉信三先生追悼録』(新文明社)の冒頭に、小泉妙子さんの「始球式」がある。 ここでは、小泉妙子となっている。 古いアルバムに6歳の妙さんの投球姿が残っていて、「父はその頃私にボールの正しい握り方と、どうしたら上手に投げられるかを教へてくれました。」 女学生になると、狭い庭の中で、アメリカ製の硬式ボールでキャッチボールをし、「ミットをはめてゐても掌に痛い球を受けました。それは当時父の楽しみの一つで、私の機嫌をとる調子で『野球してくれないか』と言つてはさそひに参りました。」
戦後、妙さんが「隠退」し、野球の上手な同居の青年が相手をして、小泉信三さんは六十を越えてから、キャッチボールが上達したという。 始球式で投げたいと願っていた小泉信三さんだが、なぜか塾長時代を通じてその機会はなく、ようやく昭和39(1964)年の全日本学生選手権大会でその機会が訪れる。 しかし、その日は長年の練習の成果は発揮できなかった。 ワンバウンドになるのを恐れて、高目の球を投げたため、キャッチャーの頭を越す暴投になってしまった。 「たとえ暴投でも76歳であれだけ遠くに投げられるのは偉い」と、ほめてくれる人もいたが、家族は不満だったという。 本当はストライクを投げられる腕の持ち主なのだから…。
リベンジの機会が来た。 昭和40(1965)年4月10日、六大学リーグ戦の始球式。 前年秋に優勝した慶應が東大との開幕第一戦を戦った。 その日「父は家を出る前、野球部の学生を相手に肩ならしを致しました。暫く風邪で休んでいた為かコントロールがございません。心配する私を供に球場に参りました。時は来て、審判に導かれた父がマウンドの方へ歩き出しました。ステッキをつき片足を少しひく歩みのなんと遅く、そしてベンチとマウンドの間の遠かったこと。観衆の間に大丈夫かなあとのさゝやきが聞こえます。急に私は怖くなり、目をつぶりさうになりました。ところが、球はゆるく弧を描きつゝ、しかし確かなコースを通って「ストライク」。スタンドからも叫ぶ声があり、盛んな拍手とどよめきが続きました。」
一年ひと月後の、翌昭和41(1966)年5月11日午前7時30分、小泉信三さんは心筋梗塞で急逝した。 78歳だった。 『小泉信三先生追悼録』、妙さんの次に、姉の秋山加代さんが「臨終」を綴っている。 「五月十日の夜半、それまで元気だった父が、少しく不快を訴へて母ととり交した会話の最後は、「君に心配させて済まないね」といふものであつたと云ふ。母は「いゝえ」と云つたといふ。」「父はそれから安らかな眠りに入り、そして翌朝七時過ぎ(以下略)」「父と母が夜半に言葉を交した時、二人共、これが人の世に於ける最後の会話にならうとは、思ひもよらなすかつた事であらう。」
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