西郷隆盛・勝海舟江戸開城会見、旧芝浦花柳界の見番 ― 2025/02/07 07:02
「さつまの七曲がり」の終わりに、西應寺へ行く。 創立を応安元(1368)年、開山は北条時頼の伯母明賢尼と伝え、近世には家康から寺領を給された。 幕末には最初のオランダ公使館となって、初代クルチウス公使らが滞在したが、関係史料は薩摩藩邸焼き討ち事件で類焼して失われた。 この後、西郷隆盛・勝海舟江戸開城会見記念の碑へ行ったが、俵元昭さんの見解が、若い時に石井孝著の岩波新書『明治維新の舞台裏』を読んで知った、幕末の歴史を補強するものだった。 江戸無血開城は、倒幕を目的に進軍して来た官軍に認められるはずはなかったが、勝の機略に会って譲った。 腹芸というよりは、江戸っ子ふうにいえば、わかっていながらのおとぼけだったと思う。 その背後の外国勢力の圧力も考慮されていたに違いない、というのだ。
西郷・勝の会見は、慶応4(1868)年3月14日の本会談が記念碑のある薩摩藩蔵屋敷(正確にいえば蔵屋敷門前の抱(かかえ)屋敷という薩摩藩が買い求めた町家)と、その前日には品川駅前、高輪の以前ホテル・パシフィツク東京があった場所、薩摩藩下屋敷で行われた。 二つの会見場所の真ん中あたりに、両者の背後勢力である英仏の両公使館にあてられた寺があったのである。 三田あるこう会で、2020年9月6日に高輪ゲートウェイ駅から行った東禅寺がイギリス公使館、昨年2月3日に行った「御田」の済海寺がフランス公使館だった。 薩摩藩邸焼き討ち事件で焼け出されたオランダ公使館は泉岳寺近くの寺に移ったそうで、オランダの圧力もあったのだろう。
西應寺は、みなと幼稚園を併設した、近代的な珍しい建物だった。 西應寺から芝4丁目の交差点へ出て、JRのガードをくぐって、右側へ進み、港区伝統文化交流館(旧協働会館)へ行く。 昭和11(1936)年に芝浦花柳界の見番として建設された、都内に現存する唯一の木造見番建造物だそうだ。 戦後は、東京都の港湾労働者の宿泊所として使われていた。 お仲間の中に、慶應中等部で先生から、田町駅の向こう側へは行かないようにと、何度も言われたという人がいた。 見学中、「見番」と「検番」の違い、「三業地」とか「岡場所」とかいう言葉が話題になった。 私は「検番」には、検査の意味もあるのかなどと出まかせを言ったが、「見番」と「検番」は同じだと、スマホで調べてくれた人がいた。 それぞれの言葉を漠然と捉えていたので、帰宅して辞書などを見る。 「見番・検番」は、料理屋・待合茶屋・芸者置屋の三業組合の事務所の俗称。遊里で芸者を登録させ、客席に出る芸者の取次や玉代の計算などの事務を取り扱ったところ。 待合茶屋…客が芸妓を呼び遊興する茶屋。 「三業地」は、料理屋・待合茶屋・芸者置屋の三業種が営業を許可された特定の地域。 「岡場所」は、吉原にたいして、「傍(おか)」、すなわち脇の場所の意。官許の吉原に対し、非公認の深川・品川・新宿などの遊里。
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