「笑いを忘れた時代」と『江戸狂歌』 ― 2025/02/27 07:03
12日の「なだいなださんの『江戸狂歌』を探して」に、なだいなださんの『江戸狂歌』(岩波書店「古典をよむ-24」)という本を思い出して、「書棚を探したのだが、見つからない」と書いていた。 それは、落語関係のあたりではなく、句集や俳句の本などが並んでいる大岡信・谷川俊太郎編『声でたのしむ 美しい日本の詩』二冊(「和歌・俳句編」「近・現代詩編」岩波書店1990年)の隣に、ひっそりとあった。
あらためて読むと、1929(昭和4)年生れの なだいなださん(本名堀内秀(しげる)、ペンネームの「なだいなだ」はスペイン語のnada y nada「何もなくて 何もない」に由来、2013(平成25)年83歳で没)は、戦争が終わった時16歳で陸軍幼年学校にいた。 少年のこころにも、ハッキリと分かったことがあった。 笑いたいのに笑えない時代が、けっして、よい時代とはいえないことである。 笑えない時代は、戦争の時代と重なっていた。 それで、戦争が終わった時、やれやれやっと、これから、笑ってもいい時代がくるのだな、と期待した。 だが、平和の方は戻ってきたが、笑いの方はおかしなことに、期待したほど戻ってこなかった。 もっともっと笑っていいと思うのに、みんな笑わないのである。 真面目に復興に励み、真面目に社会主義建設の夢を見ていた。 人間は、戦争中とあまり変わらない顔付きをしていた、というのである。
それで、疑いはじめる。 日本は、あの戦争の時代だけ、笑いを忘れていたのではなく、もともと、笑いなど、持っていなかったのではないかと。 しかし、過去に目を向けると、日本人は、けっこう、けたたましく、あるいは豪快に、声をあげて笑っていたのだ。 中世には、豪快な笑いを持った民話がいくつもあり、狂言という舞台芸術もあった。 江戸時代には、狂歌が、満開の花のように咲き狂っていたのである。
明治から現代にかけての、勤勉と生まじめさを売り物とする日本は、決して日本的な日本ではなかった。 上から見下ろすだけで、下から上を見あげる民衆の目を欠いた、一眼の日本に過ぎなかったのである。 と、なだいなださんは、まえがきの「笑いを忘れた時代」に書いていた。
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