福沢の出版事業の自営、「福沢屋諭吉」2025/03/03 07:06

富田正文先生の『考証 福澤諭吉』上「出版事業の自営」に、慶応2(1866)年『西洋事情』初編に関して、当時の出版の慣行の説明があった。 「著者が原稿を書き上げると、書物問屋(今日の出版業者)がこれを引き受けて、そのアトは版下書き(原稿を版木に掛けるための清書)、版木彫り、版摺り、製本という順序であるが、それらは一切書物問屋が取りしきって、著者は僅かに版下の校正にタッチするだけで、値段のつけかたも売り捌きも一切関係せず、ただ書物問屋のいうがままに「当合(あてがい)扶持」の金を受け取るというのが、長い間の習慣であった。」

『考証 福澤諭吉』に、福沢が『西洋事情』外編3000部の収支計算をしているのがある。 (支出)版木草稿代金1000両、3000部製本料750両(1部に付1歩)、計1750両。 (収入)3000部代金2250両(1部に付 価1歩)、書林に渡し 二割引450両、計1800両。 つまり3000部売って50両の利益があり、それ以上売れた分については、その版元の収入になるという計算である。

福沢諭吉は、こんな扱いに黙っているような人間ではなかった。 数寄屋町(現在の日動画廊付近)の紙問屋鹿(加)島屋から土佐半紙を千両の即金で買いつけて、芝新銭座の慶應義塾の土蔵に積み込み、次に書林(書物問屋)から版摺り職人を貸してもらい、何十人も集めて仕事をさせ、その職人から業界の内部事情を聞き出し、版木師や製本仕立師も次々と引き抜いて、最終的には全工程を福沢の直轄下に組み込むことに成功する。 その一方で既得権益を侵害された書林から苦情を言う者も出てきたので、『西洋事情』初編の版元だった芝神明前の書林、尚古堂岡田屋嘉七を証人として、明治2(1869)年書林の問屋仲間に加入した。 そのときの屋号が、「福沢屋諭吉」である。                               (つづく)