小倉の野戦重砲聯隊に入隊、一年半で軍曹になる ― 2025/06/16 06:41
だが、そんな宣伝部での日々は一年も続かなかった。 昭和16(1941)年1月、嵩のもとに召集令状が届く。 本籍地の高知で徴兵検査を受けると、「第一乙種合格」、乙種となったのは近眼のためである。 検査官は、戸籍に嵩がたった一人なのを見て、「係累がないならどこへ行ってもいいな、心おきなく忠誠をつくせ」と、高知の部隊ではなく、福岡県小倉の陸軍第十二師団野戦重砲第六聯隊の補充隊(通称・西部第七十三部隊)第一中隊に配属した。 満年齢21歳で入営したこの日から、終戦をはさんで昭和21(1946)年1月に復員するまで、嵩は5年間に及ぶ軍隊生活を送ることになる。
初年兵は、年齢も学歴も職業も関係なく、まずは軍という組織の最下級に位置づけられる。 そして全員が、毎日のように殴られる。 平等といえば、これほど平等なことはなかった。 訓練でミスをしたり、命じられたことができなかったりして上官に殴られることもあったが、それとはべつに、消灯前の点呼のとき、毎晩のように古兵から「精神を鍛え直すため」に殴られる。 「一歩さがって足をひらけ! 眼鏡をはずせ! 奥歯をかみしめろ!」
嵩が入隊した野戦重砲聯隊は、大砲で戦う部隊であり、要塞攻撃で用いられる十五センチ重砲を扱う訓練をしたが、これが素人の嵩が見てもわかるほど旧式のものだった。 タコツボ(一人用の塹壕)の中にひそみ、敵の戦車が来たら、竿の先につけた爆雷をキャタピラーの下に差し込む訓練もあった。 昭和14(1939)年のノモンハン事件の教訓からの、対戦車作戦だった。 だが、高価な戦車が部隊にあるはずもなく、大砲を乗せる木製の大八車(大型の荷車)を戦車に見立てていた。
兵隊としてやっていくには要領、つまりコツがある。 それは、言われたことだけはきっちりやり、自分の頭で考えないことだ。 考えるのをやめて上に従うことで、初年兵は一人前の兵隊になっていく。 まじめに訓練に取り組んでいるうちに、ひょろっとした細身のからだに筋肉がついてきた。 そんなふうにして軍の生活に順応できるようになると、まわりが見えてくる。 上官や古兵もいろいろで、殴らない人は決して殴らない。 どんな環境にあっても、自分を保つことのできる人がいることにも、嵩は気づいていった。
野戦重砲聯隊は、大砲をトラックで運ぶ機械化部隊と、馬で運ぶ馬部隊に分かれていた。 嵩が配属されたのは馬部隊で、馬の世話が日課だった。 輓馬(ばんば)という種類の、力が強くがっしりした馬である。 はじめて厩舎に行ったとき、たてがみや尻尾にリボンをつけている馬がいるのに、驚いた。 聞けば、かみつく癖のある馬や、人を蹴る馬に、注意するためだった。
軍隊に入ると、全員が二等兵でスタートするが、旧制中学や実業学校以上の学歴がある者は、二等兵を4か月経験すると、幹部候補生の試験を受けることができる。 嵩も上官の勧めに従うことにした。 試験前夜、病気の馬の厩舎で不寝番を担当していて、嵩が居眠りしたのを、見回りの士官に見つかってしまう。 試験の翌日、中隊長に「君は試験の成績では甲幹に合格だが、居眠りをしたので乙幹だ」と告げられた。 教育期間を経て甲幹は士官(少尉→中尉→大尉)に、乙幹は下士官(伍長→軍曹→曹長)に進む。 実はこれは幸運なことだった。 甲幹に合格して士官になった嵩の同期は満州や中国の前線に送られ、多くの戦死者が出た。 生き残ったものの、戦後、シベリアに抑留された者もいる。
嵩は伍長となって内地に残り、暗号班に配属された。 暗号手になった嵩は、昭和17(1942)年8月、軍曹に昇進する。 営内では班長として新兵の教育も担当することになったが、嵩は絶対に兵たちを殴らなかった。
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