戦地、1000キロの行軍、マラリアと飢え ― 2025/06/17 06:59
昭和19(1944)年7月25日、いよいよ嵩たちの部隊は戦地の中国に向けて輸送船で門司港を出港する。 釜山をへて、8月7日に上海に着いた。 しばらく上海付近で警備などを行ったあと、台湾の対岸の福州(現在の福建省福州市)に上陸した。 すでに日本軍の主力部隊が、一週間ほどの戦闘で福州を占領しており、嵩たちの部隊は中心地を離れた農村地帯に何の抵抗もなく上陸し、米軍の上陸を食いとめる要塞を築き、大砲を据える役割だった。 敵がやってくる気配もなく、嵩はビラやポスターなどで、占領地の住民の敵対心をやわらげる宣撫班の仕事を手伝って、紙芝居をつくったりした。 (昨日の朝ドラ『あんぱん』、漢字を学んだ国、現地の人の前で、「宣撫班」などという腕章をしていたのだろうか?)
嵩たちは福州で年を越したが、米軍はやってこないし、中国軍との戦闘もない。 昭和20(1945)年5月、日本軍は福建省の福州、厦門(アモイ)、浙江省の温州にいた部隊のすべてを上海に集め、そこで決戦にそなえることを決定した。 米軍は4月1日に沖縄本島に上陸していて、この先、台湾やその対岸に上陸することはないと判断したのだ。 嵩たちの部隊も、上海に移動することになり、大砲は船で海路を運び、人は陸路を行軍する。 一日40キロの道のりを重い装備を背負って歩いた。
途中で何度か中国軍の襲撃があった。 そのたびに人が死に、まだ息のある者を置き去りにしながら、行軍は続いた。 1000キロにおよぶ苦しい行軍の途中で、嵩は何度か父のことを思った。 嵩が歩いた道は、父が30年前に上海の東亜同文書院の調査旅行で通ったルートと重なっていたのだ。 長い行軍を生き延びたあと、嵩は父が自分を守ってくれたのだと思った。
嵩たちの部隊が駐屯したのは、上海の近郊、江蘇省松江県(現在の上海市松江区)にある泗渓鎮(しけいちん)で、上海決戦の準備をすることになった。 着く早々、嵩にマラリアの症状が出たが、二週間ほどで起き上がることができた。 軍医は、軽症だといったが、行軍中なら死んでいた。 上海決戦はなかなか始まらず、いったん始まれば長期戦になる見込みというので、食糧をぎりぎりまで切りつめることになった。 ひもじさのあまり、嵩たちはそのへんに生えている草をゆでて食べ、最後は、上官が飲んだあとの茶がらも食べた。 空腹があまりにもつらく、腹にたまるものなら、もう何でもよかったのである。 食べるものがないと、からだがつらいだけではなく、心もみじめになる。 精神がけずられ、気力がなくなってしまうのだ。 飢えが人間の尊厳を奪うことを、嵩は心の底から実感した。
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