嵩が好きになった小松暢のこと ― 2025/06/20 06:53
『月刊高知』創刊号が発売になった7月末、編集部員みんなで東京へ取材旅行に行くことになった。 高知県出身の国会議員や作家へのインタビュー、東京の盛り場のルポなどが目的である。 外食には「外食券」が必要で、自分の食べる米は靴下に入れて持っていかなければならない時代だ。 嵩は、編集室で前の席に座る暢(のぶ)のことが気になっていたので、一緒に行動できるのもうれしかった。 紺色のスラックスにジャンパーの暢は、童顔でショートヘアということもあって、まるで少年のよう、横になって休むこともできない汽車旅だったが、好奇心に目を輝かせている。
飯倉片町にあった高知新聞社の支局に宿泊、まず国会議事堂で高知県出身の林譲治内閣書記官長にインタビューした。 嵩の役目は、林の似顔絵をスケッチすることだった。 東京での取材もほぼ終わったので、闇市の屋台でおでんを食べた。 ところが翌日、暢をのぞく皆が腹痛と下痢、食中毒になった。 暢がなんともなかったのは大根ばかり食べていたからだった。 暢の看病で、最初に回復したのは嵩だった。 暢と嵩は荷物を整理し、高知に送るためリヤカーで駅まで運んだ。 途中、通り過ぎるトラックやすれちがう男たちが、冷やかしの声をあびせる。 嵩は、いやだね、とは言ったが、自分たちが恋人のように見えたのかと思うとうれしかった。
高知に戻り、ふたりで取材に行った帰りの夜道で、ふとしたことから暢にキスをしてしまった。 すると、ひきよせた彼女のからだが急に重くなって、嵩の胸にたおれこんできた。 ふだんの気の強い暢とのギャップに、嵩は「なんてかわいいんだ」と、愛しさでいっぱいになった。 暢も嵩のことが好きだとわかり、ふたりは晴れて恋人同士になった。
暢の父・池田鴻志(こうし)は、高知県安芸郡安芸町の生まれ、高知高等商業(現・高知市立高知商業高校)、関西法律学校(現・関西大学)を卒業して、大正5(1916)年、鈴木商店の系列の九州の炭鉱会社に入社、すぐに鈴木商店本体に引き抜かれ、大阪木材部に勤務した。 鈴木商店は、当時日本一といわれた総合商社で、大番頭の金子直吉は、高知県吾川郡名野川村(現・吾川郡仁淀川町)の出身で、高知高等商業の卒業生を積極的に採用していた。 暢は、父の大阪木材部時代に生まれ、兄と二人の妹がいた。 父は大正8(1919)年に釧路出張所の所長になるが、大正13(1924)年に亡くなった。 暢が6歳のときである。
家族との縁の薄さは、父との死別だけではなかった。 暢には結婚歴があったが、その相手も若くして亡くなっている。 暢は大阪府立阿倍野高等女学校(現・府立阿倍野高校)を卒業し、しばらく東京で働いたあと、21歳のときに結婚した。 相手は6歳上で、高知県出身の小松總一郎、日本郵船に勤務していたが、一等機関士として海軍に召集され、終戦直後に病死した。 ひとり残された暢は、自活の道を求めて高知新聞社の記者募集に応募したのだった。
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。
※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。