ミレニアムの頃、「浪速の爆笑王」桂枝雀を失った2026/04/08 07:12

 パソコンやコンピューターで、ミレニアム問題が騒がれたことがあった。 1999年から2000年に変わる時に、誤作動を起こす可能性があるというのだった。 結局は、大したことはなかったのだったけれど…。

 朝日ネットのパソコン通信の電子フォーラムに、「演劇談話室」があり、その中に「浮世床談笑噺」という落語について語り合う分科会があった。 朝日ネットでは、そのパソコン通信も、電子フォーラムもなくなり、今や、ブログ「アサブロ」も2月24日で新規アカウントの発行とブログの新規開設受付を終了し、存続が風前の灯かと心配される状況になっている。 その「浮世床談笑噺」に、1999年7月11日、私は「桂枝雀さんの追悼番組」という書き込みをしていた。

 「TBSテレビが13日(火)未明の午前1時30分から3時まで、桂枝雀さんの追悼番組を放送します。 国立小劇場での落語研究会には、枝雀さんが22回も来演されていますが、その中から『三十石 夢の通い路』を選んでの放送です。 関東エリアの方は、必見、必録画かと思います。 山本文郎さんと榎本滋民さんが司会と解説をする例の「落語特選会」という時間枠です。」

 落語研究会で、桂枝雀を22回も聴けたことは、私の落語愛好の歴史で、大きな財産だったというほかない。 その高座は、身振り手振りも含めて、とにかく面白く、爆笑の連続だった。 だが鬱病を発症し、自殺を図り、意識不明のまま1999年4月19日に亡くなった。

 私は、ようやく翌年になって「等々力短信」に、2月15日の第868号に「緊緩の法則」、25日の第869号「桂枝雀哀惜追善 マクラ「進化論」」、3月5日第870号「ナマンダブ」を書いていた。

 「ナマンダブ」から、一部を引く。 「もうすぐ一年になるのだけれど、日増しに桂枝雀という落語家を失ったことの大きさを感じるようになってきた。 枝雀が「緊張と緩和」などと言い出したのは、笑いの法則のようなものが発見できれば、笑いの量産も可能になると考えたからで、あとは日なたでぼーっと暮していればよいといっていたという。 しかし枝雀自身は「緊張と緩和」の法則の発見にあきたらず、「緊張」のしっぱなしで、ついに日なたで「緩和」することがなかった。 毎回グロッキーになるまでやる大熱演で、あれだけの笑いを取りながら、それに満足できなかった真面目な性格が、哀しく、お気の毒なことだった。」

 「国立小劇場の落語研究会へは、昭和55(1980)年1月22日のくしゃみ講釈から、平成9(1997)年12月26日の天神山まで、合計22回の来演があった。 饅頭こわい(2回)、寝床(2回)、くやみ、植木屋娘、代書屋、ちしゃ医者、どうらんの幸助、崇徳院、高津の富、花筏、愛宕山、舟弁慶、住吉駕篭、宿屋仇、軒づけ、三十石、宿替え、高津の富、とネタも厳選し、東京落語への対抗意識を燃やして、この会に臨んでいたのではないだろうか。 マクラは、新幹線、リニア・モーター・カアというのが多かったように思う。 新大阪で買った駅弁の…(ピューッ)…フタを開けたら「トーキョー、トーキョー」という話だった。 合掌。」