トレインド・ナースの誕生、医科大学附属第一医院2026/08/03 07:18

 明治20(1887)年秋、桜井看護学校に、ナイチンゲール方式の看護教育を行うべくアグネス・ヴェッチが赴任する。 すでに慈恵看護婦教育所はメアリー・リードを、京都看護婦学校はリンダ・リチャーズをそれぞれアメリカから招き、ナイチンゲール方式の看護教育を始めていた。 同時期、これまで大勢の「看病婦」を使っていた帝国大学医科大学附属第一医院(現東京大学医学部附属病院。以下第一医院)が、トレインド・ナースを養成することを決定、アグネスが桜井看護学校に勤務するため来日したことを知ると、看護教師として招聘したため、彼女は桜井看護学校と第一医院の教師を兼ねることになった。 すかさず、マリア・トゥルーが第一医院に交渉し、実習病院を持っていない桜井看護学校の学生たちも、同院の看護学生らとともに、実習をさせてもらえることになった。

後年、植村正久の三女環(たまき、朝ドラでは一ノ瀬りんの娘の名にしている)は「大関ちか女史は傑出した婦人であったが、よく泣かれた。繁々来られては堰を切って落とされる。すると大関さんを愛敬していた父は慰めるのか揶揄(から)かうのか分からぬ調子で『あなたはナイチンゲールなんでしょう。それじゃ宛然(えんぜん)『泣キチン蛙』ではないか』などといっていた」(『植村正久と其の時代』第二巻)

 明治21(1888)年10月26日、桜井看護学校の6人は、第一医院の看護学生22人とともに一年間の実習過程を終え、修了試験にも合格することができた。 同年2月には慈恵看護婦教育所が、6月には京都看護婦学校が最初の卒業生を出していることから、この年は日本におけるトレインド・ナース誕生の年といえる。

 第一医院で、英語が堪能でアグネスの授業で通訳を務めた雅は内科の「看病婦取締」、和は外科の「看病婦取締」として働くことになった。 「看病婦取締」は「看護婦取締」「看護婦長」と同義で、今日の「看護師長」にあたる。 雅は、小石川の傳通院近くに家を借り、静岡の子供たちを呼び寄せ、同居を始める。 和も、第一医院にほど近い千駄木に家を借り、母と子供たちと四人で暮らすことにした。

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