森まゆみ著『彰義隊遺聞』の渋沢栄一2017/06/18 07:46

昨日、森まゆみさんが、彰義隊のことを調べたことがあると書いた。 そし て書いた本が『彰義隊遺聞』(新潮社)で、すっかり忘れていたが、私はそれを 読んで、なんと「小人閑居日記」にも書いていたのである。 それを再録する。

   森まゆみさんの『彰義隊遺聞』<小人閑居日記 2005.7.27.>

 吉村昭さんの『彰義隊』に影響されて、いま森まゆみさんの『彰義隊遺聞』(新 潮社)を読んでいる。 とてもよい本で「彰義隊」の全体像が見えてくる。 知 らないことも多かった。 とりわけ「幕末三舟」「東叡山寛永寺」「栄一と成一 郎」の章。

 徳川慶喜が上野の寛永寺に謹慎した後、恭順の意を伝えるために、側近の高 橋泥舟に相談し高橋の義弟山岡鉄太郎(鉄舟)が、勝海舟の屋敷に江戸攪乱の罪 で捕われていた薩人益満休之助を伴い、官軍が江戸に迫り来る中、駿府の大総 督府の西郷隆盛の所に赴く。 山岡は六尺二寸、二十八貫(187センチ、105キ ロ)という巨漢、剣の達人だった。 西郷は山岡に降伏条件を提示、後日の江戸 城無血開城を決めた西郷・勝会談の道筋がつく。 三遊亭円朝の墓があり、こ の時期、円朝忌が催される谷中の全生庵は、明治16年、その山岡鉄舟が戊辰 の際の国事殉難者のために建てた寺であった。 明治になって、子爵となった 山岡鉄舟は「喰て寝て働きもせぬ御褒美に か族となりて又も血を吸ふ」と狂 歌を詠んだという。

 「東叡山寛永寺」という寺の江戸と幕府における位置、輪王寺宮という存在、 そして天皇家、水戸徳川家、有栖川宮家の複雑な縁のからまりあいを知った。  「彰義隊」の時の輪王寺宮(十三代、公現法親王)の前三代の輪王寺宮は、有栖 川宮家から出ている。 十三代輪王寺宮が、山岡鉄舟より前に慶喜恭順の意を 伝えるために、駿府の東征軍大総督有栖川宮熾仁親王のもとに赴くが、けんも ほろろの扱いを受ける。 輪王寺宮の側近、寛永寺執当の覚王院義観がそれを 怒り、のちに江戸城に入った東征軍の要求を再三跳ねつけたことが、上野の山 の戦争につながるのだ。

    渋沢栄一と彰義隊<小人閑居日記 2005.7.28.>

 森まゆみさんの『彰義隊遺聞』、「栄一と成一郎」というのは渋沢栄一と渋沢 成一郎の話である。 成一郎(喜作)は、渋沢栄一の従兄で、栄一が例のまだ攘 夷倒幕の過激派で高崎城襲撃・横浜居留地攻撃計画をした頃から行動を共にし、 一転、幕府方の一橋家に雇われた時も、一緒だった。 成一郎は、一橋慶喜が 徳川宗家を継ぎ、将軍となると、陸軍奉行支配調役、奥右筆格に取り立てられ た。 慶喜が謹慎する事態になって、担がれて彰義隊の頭取になる。 幹事の 須永於莵之輔、参謀として関わった尾高新五郎藍香(惇忠)も、栄一の身寄りの 者だった。 栄一の養子平九郎も隊列に加わっていた。

 だから渋沢栄一が、日本にいたなら、かなり高い確率で彰義隊に加わってい ただろう、と森さんはいう。 栄一は、その前年慶應3(1867)年に慶喜の弟、 民部卿徳川昭武が幕府からパリ万国博覧会に派遣されたのに従って渡欧してい て、日本にいなかった。 帰国したのは上野戦争の半年後、明治元(1868)年11 月3日のことである。

彰義隊の頭取渋沢成一郎派と、副頭取天野八郎派の間で、路線の対立が生じ る。 渋沢は日光へ退却してたてこもることを主張し、天野は諸隊を率いて上 野の山に入った。 慶喜が水戸に退くと、渋沢成一郎は彰義隊を脱退する。 成 一郎は同志とともにあらたに振武軍千二百をおこし、5月15日の当日には、隊 士四百余人を率いて援軍にむかったが、田無にいたるころ、彰義隊の潰滅を知 った。 成一郎は飯能戦争を戦い、箱館へも転戦、榎本軍の一員として捕えら れたが、明治5年大赦にあって、有能をみこまれ大蔵省七等出仕となる。 再 び名を喜作に戻し、欧米巡視に赴き、横浜で生糸貿易にたずさわることとなる。  平九郎は飯能での戦いに敗れて、大宮へ落ちる途中の黒山村で、官兵と遭遇、 腹切って死ぬ。 尾高新五郎は、辛うじて郷里に帰り着いた。

このとき、渋沢栄一が日本にいたら、どうなっていたか。 その後の日本の 会社や経済社会は、おそらくいろいろ違っていただろう。 ごく身近な小さい 例では、私が第一銀行に勤めることはなかったであろう。

富岡製糸場と渋沢栄一、尾高惇忠2017/06/17 07:16

 富岡製糸場へ行く途中、バスは深谷を通った。 渋沢栄一の出身地である。  富岡製糸場でのガイドでは、渋沢栄一やその従兄で初代場長を務めた尾高惇忠 (あつただ)の話が出た。 前に引いた『写真集 富岡製糸場』の今井幹夫富岡 市立美術博物館館長の論考では、「器械製糸場設立の目的」のところで、明治6 年の中ごろに尾高惇忠自身が書いたと思われる公の記録『富岡製糸場記 全』が 引用されている。 明治新政府は明治3(1870)年2月、生糸の輸出に大量の 粗悪品が出たことや旧来の製糸法を改善するために、指導者を海外に求め、一 大製糸場を設立して模範を示すことが肝要だという結論に達した。 設立の命 を受けたのが、大蔵少輔伊藤博文と租税正(そぜいのかみ)渋沢栄一だった。  伊藤、渋沢らは、政府顧問のフランス人ジブスケや生糸貿易商の紹介で、ブリ ュナを雇い入れることにした。 ブリュナや玉乃正履らは、製糸場の適地を求 めて武蔵・上野・信濃を巡視し、最適地に富岡を選定した。

 『写真集 富岡製糸場』巻末の座談会に、岩本謙三さんと共に出席している森 まゆみさんが、なぜ富岡になったかという事情を語っている。 地元の深谷に 近いということで、渋沢栄一がかなりかかわっていたらしい。 深谷の辺りも 養蚕が盛んで、本人の家も蚕糸関連の仕事をしていた。 松浦利隆群馬県世界 遺産推進室長も、渋沢栄一が一橋家に仕えていたときに、一橋家の領地がこの 近くにあったので、もともと富岡を知っており、もし近在の農家だけで繭を調 達できなかったら、元の領地から持ってこられるということもあったらしい、 と言っている。

 森まゆみさんは、彰義隊のことを調べたことがあるが、尾高惇忠はその一員 で知恵袋だった。 従弟の渋沢栄一も幕臣だから彰義隊にかかわったはずなの だが、ちょうど徳川慶喜の弟の昭武に随行して渡欧していて、その間にご一新 になってしまった。 西洋の様子を実見し、近代化を進めて銀行や株式会社な どの新しいシステムをつくろうとした一つである、富岡製糸場に尾高惇忠を登 用した。 そういう意味では、明治維新の負け組の人たちがかかわって、薩長 の人たちとは違う形で明治をつくっていく、富岡製糸場はその象徴的な建物だ ということが言えると思う、そこが個人的に富岡に惹かれるところだと、森ま ゆみさんは言っている。

 松浦利隆さんによれば、製糸業の経済史を研究した石井寛治東大名誉教授が、 モデル工場ということについて、日本と中国で差があったことを指摘している。  日本の場合、富岡製糸場も新町屑糸紡績所も、民間に教えるから見に来いとい う、どんどん民間が真似をして、民間の資力が足りないから国の工場を払い下 げる。 中国では、模範工場をつくると民間が真似するのを禁止して、国家で しかやらなかった。 アジアの産業革命には、そういう二つのやり方があった が、わりと最初から自由経済主義的だった日本は成功した。

 全国から糸繰りの仕方などの技術を習いに来た女性は「伝習工女」と呼ばれ ていたが、工女募集の通達を出しても、最初の内はなかなか人が集まらなかっ た。 人々がフランス人の飲むワインを血と思い込み、「富岡製糸場に入ると外 国人に生き血をとられる」というデマが流れたためだった。 尾高惇忠は、率 先垂範で自分の娘「勇(ゆう)」(14歳)を工女第一号として入場させ、その後、 井上馨の姪二人とか、いろいろな華族や士族の人たちが娘や姪を、何人も連れ て駆けつけた。 女性がかなりプライドを持って工女として働いた。 婦女教 育を最初からやっていて、国家がつくったところに行くというのは、幕府に行 儀見習いに行くのと同じで、糸をひきながら行儀見習いをするということだっ たようだ。 明治初期の工女は、後年の『ああ野麦峠』の暗いイメージとはだ いぶ違う。

自動繰糸機の導入と日本製糸業の延命2017/06/16 07:11

 『写真集 富岡製糸場』「歴史考/文化考」「昭和(片倉)時代の富岡製糸場の 歴史」(松浦利隆群馬県世界遺産推進室長)に、第二次大戦後の製糸業と富岡製 糸場の話がある。 そこに今回の見学でも、工場の繰糸所で見た自動繰糸機、 トヨタ(自動織機)製ではなく日産自動車製だと聞いた機械が出て来る。

 自動繰糸機は、長い間夢の繰糸機と考えられ、昭和初期の好景気時代に片倉、 グンゼなどで研究が始まっていた。 片倉では昭和15(1940)年に本格的研 究を開始した時点から定繊式(一定の生糸の太さ(繊度)を保つために、巻き 取られる生糸そのものの繊度を監視して行う方法)を採用した。 戦後の昭和 26(1951)年、世界初の実用自動繰糸機K8A型が完成、翌27年には富岡製糸 場に12セット240台が導入された。 自動繰糸機の開発はさらに進み、プリ ンス自動車の定粒式(繭の個数を監視して行う方法)「たま10型自動繰糸機」 などが各地で稼働し始めた。 昭和31(1956)年、現在の自動繰糸機の基本 となっている繊度感知器が国の蚕糸試験場で開発され、自動繰糸機はこの感知 器を使った定繊式のものに統一されていった。 富岡製糸場では、自動機に合 わせた繭の乾燥、貯蔵、さらに煮繭の研究が盛んに行なわれ、屑糸の量を半分 に減らせるまでになった。 この結果、工員一人当たりの製糸量は激増し、戦 前の多条機時代におおむね1日1キログラムであった生産量が14キログラム まで向上したという。

 自動繰糸機は、この後全国各地の製糸工場に普及し、昭和40(1965)年頃 には、ほぼすべての製糸工場で自動化が完了した。 昭和30年代には約5万 人だった製糸関係の工員は、自動機の導入で2万人程度で済む生産性の向上が 達成された。 かつての製糸大国フランスは20世紀初頭に、またイタリアも 戦後復興が本格化する時期には、実質的に製糸業が消滅したけれど、日本の場 合、自動繰糸機の実用化により、経済成長に伴う賃金の上昇をしのぐような高 い生産性が確保できたことが、製糸業が延命できる一つの要因となった。

 富岡製糸場では、昭和34(1959)年までに当初のA型の繊度感知器や給繭 器を改造したK8C型を使用していたが、片倉工業内部の業務見直しで、製糸機 械の生産を中止し、以後日産自動車(当初はプリンス自動車)から購入するこ とになり、富岡製糸場でも昭和36(1961)年にRM型に全面更新し、昭和41 (1966)年にはわれわれが見学で見た「ニッサンHR-2型(一部は3型)」に 更新されたのであった。

 『写真集 富岡製糸場』に、夕映えの木々をバックに「残照――未来への遺構」 という、その後の製糸業にふれた一文がある。  「時は過ぎゆく ありとしあるものはいずれうつろう わが国の製糸業の喘 ぎは国際化とともにもたらされた 昭和の終わりころから海外の安価な生糸に 圧迫され 日本の市場は狭められて製糸場の工業的価値が薄れ やがて製糸場 そのものが姿を消していった 富岡製糸場も時の流れに抗えず昭和六十二年に 操業を停止した  富岡製糸場は開国を経て世界を望む風潮の中で生まれ 日本を世界最大の生 糸輸出国へ押し上げる原動力となり 世界の第一線で活躍を続けたのち 国際 的な市場開放のあおりを受けて操業停止を余儀なくされた 雄々しくも粛々と  哀しくも潔く 富岡製糸場は終始 日本と世界が関わり合いせめぎ合う象徴で あり続けた その誕生のときから日本が辿る国際化への道を 共に歩む運命を 背負わされていたと言うべきであろう」

 これを読んで私は、ごくごくちっぽけな町工場ではあったが、家業のガラス 工場の窯の火を落した頃のあれこれを、鮮明に思い出したのであった。

『写真集 富岡製糸場』2017/06/15 07:14

 富岡製糸場には、世界遺産に決まる前、富岡市が2007(平成19)年4月に 公開を開始した半年後の10月27日、福澤諭吉協会の旅行で訪れたことがあっ た。 それを富岡製糸場の見学<小人閑居日記 2007. 11.3.>ブログに書いた。

http://kbaba.asablo.jp/blog/2007/11/03/1887175

 ブログを読んでくれた当時の片倉工業社長の岩本謙三さんから、豪華本の『写 真集 富岡製糸場』を頂いていた。 2007(平成19)年8月12日、片倉工業 株式会社発行、上毛新聞社出版局制作、吉田敬子撮影。 改めて今回、その写 真集を見直した。

 「歴史考/文化考」に、今井幹夫富岡市立美術博物館館長の「富岡製糸場の 超近代性とその使命について」があり、その「はじめに」が設立事情をよくま とめているので、引用紹介したい。

 「官営富岡製糸場は、明治5年(1872)10月4日に、石炭を燃料とするフ ランス製の蒸気エンジンと製糸器械によって操業を開始した。ポール・ブリュ ナを首長としたフランス人技術者の指導で稼働した「300人繰り繰糸機」は当 時、世界最大の規模を有する製糸器械で、わが国の近代産業発祥の原点となっ た。

 富岡製糸場設立の背景には安政6年(1859)の横浜開港に伴う生糸の輸出で 大量の粗悪品が出回ったのを正すことと、西欧に劣らない生糸の大量生産や、 外国資本の国内投資を防ぐなど、多様な要因があった。

 これらに対応した明治政府は、直営で富岡製糸工場を設立。時代を超えた近 代的な施設・設備を整え、西欧の製糸技術や管理(検査)の生産組織と工場制 度を導入した。そして全国の「模範伝習工場」として、その役割を果たさせた のである。」

 夜明けの赤い空をバックに、妙義の山並みがブルーグレイに浮び、手前に黒 く富岡製糸場がまだ眠っているかのような写真がある。 「曙光――近代の出 発」と題した、詩のような一文が添えられている。 「城郭でも寺院でもない  消長をくりかえす工業建築のなかで 一世紀余の星霜を超えて動きつづけ 閉 鎖を余儀なくされてもなお 草創のありようをとどめて遺存することに 我々 は瞠目するのである 愛すべきは巨大さである まだこの国が産業革命の洗礼 さえ受けていないころ 西洋の水準を遥かに凌駕する製糸場を創ることに 人 びとは心をかたむけた 近代化への夢というほの明るい光を照射して まだ明 瞭でない国家のかたちを 構造物の大きさに投影しようとしたのである。 奇跡といい偶然という しかしおそらくは時が移ろうともこの建物を 守り 遺したいと願う人びとの想いが 存亡の機に際して凝集し あるいは日常の光 景の中で揺曳(ようえい)し 連綿と受け継がれてきたのではないか 利害や 打算ではない その思いは愛着に似ている」

世界遺産富岡製糸場を見学2017/06/14 06:31

 6月5日、文化地理研究会の1964年卒業同期の会「六四の会」、学生時代の 代表加藤隆康さんの肝煎りで、世界遺産富岡製糸場を見学するバス旅行をした。  はとバスのツアーに便乗して、一般の方々とご一緒したのである。 ツアー名 は「世界遺産富岡製糸場と峠の釜めし&鉄道文化むら」。 このところ毎年、会 員ではない家内も参加させてもらっているので、後で、すっかり昔からの仲間 のような顔をして混ざっていると、笑ったことだった。

 富岡製糸場は、明治5(1872)年10月政府の殖産興業政策の先駆けとして 操業を開始、明治26(1893)年に三井家へ払下げられ三井富岡製糸所、明治 35(1902)年原富太郎(三渓)の原合名会社に譲渡され原富岡製糸所を経て、 昭和13(1938)年からは片倉製糸紡績、片倉工業が昭和62(1987)年まで、 115年間にわたって操業していた。 操業停止後も、片倉工業はほとんど旧状 を変えることなく多額の費用をかけて保存管理し、平成17(2005)年9月す べての建造物を富岡市に寄贈した。 寄贈当時の片倉工業社長の岩本謙三さん は、実は大学の同期だった。 私は柔道部だった友達の友達だったことで知り 合い、彼に「等々力短信」を読んでもらっていた。 その岩本謙三さんは、長 い闘病の後、昨年8月17日に亡くなった。 19日朝日新聞朝刊の死亡記事に 「同社が所有・管理していた富岡製糸場を、群馬県富岡市に05年に寄贈した 当時の社長。14年の世界遺産登録につながった。」とあった。 短い訃報なの に、こう書かれていたのが嬉しかった。

 今回は、解説員によるガイドツアーで見学した。 音声ガイド機のイヤホー ンに、解説員の声が入ってくる。 まずアーチのキーストーンに「明治五年」 とある国宝「東置繭(おきまゆ)所」、乾燥させた繭の貯蔵所。 木で骨組みを 造り、柱の間に煉瓦を積み上げて壁を造る「木骨煉瓦造」、材木は妙義山から、 煉瓦は瓦職人が甘楽町福島の窯で製造したという。 煉瓦は、表面が長短互い 違いになるフランス積。 この建物の1階では、後で繭から糸を巻き出す(機 械化以前の)座繰りの実演を見た。

 解説で初めて知ったのは、世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」に荒船風 穴(下仁田町)のあること。 日本最大級の蚕種(さんしゅ・蚕の卵)の貯蔵 施設である。 俳句の季題「蚕(かひこ・かいこ)」に、「春蚕(はるご)」とい う傍題がある。 『ホトトギス新歳時記』の「蚕」には、「蚕といえば「春蚕(は るご)」をいうので、夏、秋の蚕はとくに「夏蚕(なつご)」「秋蚕(あきご)」 と呼ぶ。四月中旬に蚕卵紙から孵化し、盛んに桑の葉を食べて六センチくらい の蒼白い虫に成長する。養蚕のことを俳句では「蚕飼(こがひ)」という。(傍 題に)蚕飼ふ。種紙。掃立(はきたて)。飼屋。蚕棚(こだな)。蚕室(こしつ)。 捨蚕(すてご)。蚕時(かひこどき)。」とある。 荒船風穴の蚕種(さんしゅ・ 蚕の卵)の貯蔵施設で温度管理をし、種紙の出荷時期を調節しての養蚕が、富 岡製糸場の東置繭所と西置繭所の繭倉庫2棟合わせて5000石、年間280日の 操業でも万全な収繭量と、計画的な大量生産につながったのであろう。