「大河の主人公は直虎を名乗らなかった?」2017/12/13 07:24

 大河ドラマ『おんな城主 直虎』が始まる直前に、「大河の主人公は男だっ た?」という新聞報道があった。 もともと井伊直虎については、史料が少な いらしい。 そこに新史料が出たとかいう話だった。 井伊美術館(京都市東 山区)が、井伊家が所有する古文書に「井伊(次郎)直虎」を男子とする記述 が見つかったと発表した。 古文書は、直虎を補佐していた今川家の武将、新 野左馬助親矩(にいのさまのすけちかのり)の娘らから、彦根藩(井伊家)の 家老(左馬助の孫)が寛永17(1640)年に聞き書きし、子孫が約100年後に まとめた『雑秘説写記(ざつひせつしゃき)』で、そこに「(領地は)新野殿の おいの井伊次郎殿に与えられた」「関口越後守氏経の子が井伊次郎」とあるのだ というのだ。

 磯田道史さんも『日本史の内幕』で、この新史料に触れて、こう書いている。  新聞各紙は「大河の主人公に男説」というタイトルを打ったが、正確には「大 河の主人公(は)直虎を名乗らなかった?」とすべきであった。 大河ドラマ の主人公になった井伊谷の女性領主「次郎法師」は確かに実在した。 数々の 古文書や一次史料をあわせてみれば歴史的に明らかで動かない。 しかし尼の 彼女が「次郎直虎」と名乗り、男のように花押(サイン)までしたか。 新史 料発見でその点に疑義が生じたのが事の真相だ。

 磯田さんは、さらに言う。 戦国は江戸以降に比べ極端に古文書が少ない。  識字率が低く紙が貴重。 お寺以外の建物の多くは堀立柱(ほったてばしら) 建物。 建て替えが多く古文書が残りにくかった。 しかも戦乱がある。 そ れで「次郎直虎」と署名された史料は一点しか残されていない。 そのため戦 国井伊家の歴史の細部は江戸期の伝承によるところが多い。 「女領主」の物 語は井伊家菩提寺の龍潭寺で1730(享保15)年に記された『井伊家伝記』に よる。 86歳まで生きた僧・松岩(しょうがん)などの記憶をもとに伝承を住 職がまとめたもので、創作物ではないが変な記述もある、という。

 井伊美術館で見つかった新史料も、似ている。 「次郎法師」の母方いとこ の女性が96歳まで生きた。 当時としては奇跡的長寿。 死の3年前、1640 (寛永17)年に実家の井伊家への功績を語った。 これを井伊家家老・木俣守 安が書記し、1735(享保20)年に子孫がまとめた『守安公書記・雑秘説写記』 である。 そこに問題の記述があった。  「一、井の谷ハ面々持ちにてしつまりかね候ニ付て、其後関口越後守子を井 の次郎に被成(なされ)、井の谷を被下也。然(しか)れ共、井の次郎若年……」。  井伊谷は銘々が領有して鎮まらない。 そこで関口越後守の子を井の次郎(井 伊家の当主の呼称)にし、これに井伊谷を与えたが、若年で、という意味だ。  その頃、井伊家は駿河の大名今川家の家臣。 今川家が「若年」の男子を連れ てきて井伊家を継がせたとの記述だ。 本当なら井伊家に未知の当主がいたこ とになる。 ただ、これが、いつのことだかは書かれておらず、新当主が「直 虎」と名乗ったとも記されていない。

 1568(永禄11)年旧暦9月14日の時点では、「次郎法師」が井伊谷の支配 者。 今川家=氏真もその認識であった(「瀬戸方久宛今川氏真判物」)。 とこ ろが、この時、氏真は滅亡寸前。 東から武田信玄が侵攻。 西からは徳川家 康が遠江の豪族たちに廻覧状を回し、今川からの離反内通を公然と誘っていた (同年8月3日付家康書状)。 そんななか、同年11月9日付関口越後守との 連名書状に突如「次郎直虎」が登場する(「蜂先(はちさき)神社文書」)。

 磯田さんは、ひょっとすると、井伊家当主「直虎」は約1か月だけ存在した のかもしれない、と言う。 滅亡寸前に追い込まれた氏真が、家康との戦闘準 備のため、国境地帯の井伊谷に、少年の傀儡当主を立てようとした可能性があ る。 しかし翌12月に家康軍が井伊谷に侵攻し併呑。 13日には信玄の攻撃 で駿府の氏真政権は崩壊。 「直虎」少年はいたとしても井伊谷を追い出され たに違いない。 それで「直虎」は幻の当主になったのではないか、と磯田道 史さんは考えている。

 興味深いので、ほぼ全文を引くことになった。

二人の男に天下を獲らせたパワースポット2017/12/12 07:17

 浜松には日本史上最強のパワースポットがあると、磯田道史さんは『日本史 の内幕』に書いている。 今は小さな神社になっている、わずか50メートル 四方の狭い空間だが、恐るべき霊力を持った場所らしく、ここにやってきた二 人の男に天下を獲らせた、というのである。

 ここには浜松城の前身、引間(ひくま)城があった。 最初にやってきたの は、昨日みた豊臣秀吉。 当時の引間城主飯尾豊前守の娘キサが、80歳近くま で長生きし、豊臣滅亡後まで生き延びて語ったことを、孫が『太閤素性記』に 記録した。 ある日、配下の「松下」が「異形なる」面相の少年を連れてきた。  浜松の町はずれ「曳馬(ひくま)ノ川辺(馬込川)」で拾った、白い木綿の着物 は垢だらけ、「猿かと思えば人。人かと思えば猿」。 国は尾張、「奉公望み(武 家に就職希望)」というので、松下は宴会の見世物にしようと考え連れてきた。  キサも見て、「皮のついた栗を取り出して与え、口で皮をむき喰う口元が猿にそ っくり」だった。 体を洗い古い小袖を与えられ袴を着けると清潔になった。  聞けば猿は16歳、父の遺産永楽銭一貫文(千文)の一部を貰い、尾張清洲で 木綿着を作り針を仕入れて、それを売りながら浜松まで来たという。

 松下は猿をはじめ草履取と一緒に置いたが、側近に抜擢してみると「なに一 つ主人の心にかなわぬことがない」完璧な勤めぶりなので、納戸の出納管理を 命じた(このあたり、大河ドラマ『おんな城主 直虎』の井伊万千代を思わせる。 脚本の森下佳子さんは、磯田道史さんの初出、『読売新聞』連載「古今をちこち」 を読んで影響を受けているのだろうか)。 ところが他の小姓が妬んだ。 たび たび物が無くなり「猿が盗んだ」とイジメた。 松下は慈悲ある人で「おまえ はよそ者だから無実の罪を言いかけられるのだ。 不憫だが本国に帰れ」と路 銀に永楽銭三十疋(三百枚)を与えて暇を出した。 この猿がすなわち秀吉で、 16歳から18歳まで3年間、浜松に、キサがいた引間城本丸の場所にいた。

 それからしばらくして引間城は落城する。 キサはかろうじて逃げおおせた。  代って、この引間城に入ってきたのは徳川家康であった。 家康はこの狭苦し い空間に一年ほど寝起きして城を拡張、城の名前を浜松城とした。 家康は、 この城を根城にして、遠江一体を侵略した。 天正10(1582)年に武田氏が 滅亡、同じ年に織田信長が京都本能寺で殺されると、ここから出陣して一挙に 甲斐・信濃と領土を拡大。 天下を狙うポジションに躍り出て、秀吉の天下を 奪った。

 秀吉と家康、二人の天下人の人生の転機となった、この場所の所番地は、浜 松市中区元城町(もとしろまち)111の2、今、浜松東照宮がある。

浜松の松下家に少年秀吉が仕えた2017/12/11 07:21

 その本というのは、磯田道史さんの『日本史の内幕』(中公新書)である。 「戦 国女性の素顔から幕末・近代の謎まで」という副題がついている。 磯田さん は、茨城大学准教授で有名になった後、浜松市にある静岡文化芸術大学教授を 務めていた(昨年から日本国際文化研究センター准教授)。

 驚いたのは、浜松の松下家に16歳から18歳までの豊臣秀吉が仕えていたと いうのである。 松下氏は頭陀寺(ずだじ)という修験者(山伏)の多い集落 の豪族で、これが秀吉の最初の武士への就職だという。 磯田道史さんは、古 文書の中に意外な一文を見つけた。 江戸期に編まれた徳川家康の伝記「大三 川志」の小牧長久手合戦出陣の条に、「茂るとも羽柴は松の下水哉(かな)」と いう不思議な連歌の句が書き込まれていた。 「羽柴秀吉は反映しているよう にみえても松(平)の下っ端にすぎない」という意味で、松平とは、徳川家の ことである。 磯田道史さんは、浜松市文化財課と一緒に浜松市長に頼んで、 松下館跡を小学生も参加して発掘したが、室町時代の中国製の青磁と白磁のか けらが出土し、室町の豪族居館であることがはっきりしたという。

 つまり秀吉は浜松で下積み時代を過ごした。 浜松人はみすぼらしかった秀 吉少年の姿を知っており、秀吉との戦いに出陣の時、「秀吉は所詮、松下の元奉 公人、松下や松平の下働きだ」と噂していた可能性だってあるというのだ。

 磯田道史さんは書いている。 松下氏は井伊直虎の親戚にあたる。 しかも、 武田軍に井伊谷城を奪われた直虎は松下館に一時身を寄せていた可能性が高い。  直虎の養子・直政は幼時、松下姓を名乗っていた。 松下家の娘が柳生家に嫁 ぎ、剣豪・柳生十兵衛を産んでもいる。 秀吉は松下から「公」をとって「木 下」を名乗ったともいう。 秀吉は織田家の家臣丹羽と柴田から「羽柴」の苗 字を拵えたぐらいだからありうる、と。

『おんな城主 直虎』の松下家2017/12/10 07:14

 大河ドラマ『おんな城主 直虎』で、松下という家が出て来た。 松下常慶(じ ょうけい・和田正人)は、初め秋葉山(現、浜松市天竜区の秋葉山本宮秋葉神 社)の山伏で、松平元康(徳川家康)が織田と結んで今川に反旗を翻した時、 駿府の今川に残された瀬名と信康を人質交換で救い出すための仲立ちの依頼に 松平の使者として、龍潭寺の次郎(直虎)の所にやって来る。 しかし、この 件で先に松平家からやって来た山伏と、常慶が別人であることに次郎は気づい て、不安になる。 先の山伏が携えた書状を元に井伊直親(三浦春馬)が対面 した「松平元康」が、今川の偽計による偽者だった。 今川から離れ、松平に 付くことを決断し、表明した直親は、今川に殺されてしまう。 松下常慶は、 その後も井伊谷を訪れては、周辺国の情勢を直虎に知らせてくれ、松平(徳川) との仲介を続ける。

 松下源太郎(古館寛治)は、常慶の兄、遠江引間(浜松)の豪族。 松下家 は元は今川家の家臣であったが、徳川が独立してからは、その配下に加わり、 徳川家のために尽力して、家中で一目おかれる存在となっている。 死んだ井 伊直親の妻しの(貫地谷しほり)を、人質として、妻にする。 後には、直親 としのの子である虎松(後の井伊万千代=直政・寺田心、菅田将暉)を養子と して迎える。 虎松を松下家の嫡子として徳川に出仕させたが、家康の意向も あって井伊万千代となった際は落胆するが、松下と井伊が心を合わせて万千代 を盛り立てていく決意をする。 井伊谷の城主、近藤康用(橋本じゅん)に仕 えていた中野直之(矢本悠馬)の弟・直久を養子にする。

 この松下家、ある本を読んだら、日本の歴史になかなか重要な役割を果たし ていたことが、わかったので、それはまた明日。

柳家花緑の「中村仲蔵」後半2017/12/09 07:07

 中村仲蔵、あれこれ考えるが、なかなかいい案が思い浮ばない、神信心だと 柳島の妙見様に日参する。 急な雨になって、本所割下水の蕎麦屋に入った。  許せよ、と入って来た侍、旗本だろう、年ごろは二十七、八、苦み走ったいい 男だ。 黒紋付だが、垢で汚れて赤羽二重の黒紋付、駄菓子屋の婆さんに借り た傘を、破れて半開きのままポーンと放り出す、びしょびしょに濡れた袂をし ぼる。 袷の裏を自分で取っ払った糸が垂れている、茶献上の帯、艶消しの大 小を落とし差しに、尻はしょり、五分月代(さかやき)。 お前、じろじろ見て、 役者だな、俺も旗本の端くれ、仁村新次郎だ、真似をするとお礼参りに行くぞ、 と言い残して、チャッ、チャッ、チャッと去って行った。 ありがてえ、これ だ、妙見様を信心したお蔭だ。

 斧定九郎は、どてらにたっつけ山岡頭巾という山賊の恰好のはずだが、お侍 の形(なり)を借り、真っ白に塗って、茶献上の帯は白献上に、艶消しの大小 は朱鞘に、カツラの五分月代は熊の皮にして、水を三杯かぶって舞台に出た。  与市兵衛を殺して、金を奪い、ヤァー、カラリと舞台中央で見得を切って、刀 を鞘におさめる。 白と黒、パンダですかね。 あまりの美しさに、観客は誰 も何とも言わない。 しくじったか! 追って来た勘平が、猪に打った鉄砲が 定九郎に当る。 蘇芳紅を口に含んでいて、吐いた赤い血がビビビッと走る。  観客が唸る。 三度、唸らせた。

 お吉、しくじった。 お前さん、ごめんなさい、私が余計なことを言って。  この足で、上方へ行く、あっちで生涯芝居をする。 尾頭付きのお赤飯を用意 してあるから、一口手を付けて下さい。 私は近所の子供に手習いを教えて暮 します。 仲蔵が住吉町を出て、日本橋を通る。 おじさん、芝居を観て来た って。 五段目の定九郎が駄目だったのは、昨日までだ。 山賊の恰好だった けれど、家老の倅だろう、白塗りで、鷹の羽のぶっ違えの紋付、いい形なんだ。  仲蔵は末には偉えもんになるぞ、いいものを見た、冥土の土産だ。 五段目の 定九郎を観なくちゃあいけない、明日はみんなで行こう。

 それを聞いて、仲蔵はお吉に話そうと戻りかける。 ちょいと、お前さん、 親方が使いを寄越したから、親方の所へ行ってちょうだい。 仲蔵、やっと来 たか、小屋でえれえことをしてくれたそうだな。 伝九郎さんが、おたくの堺 屋さんが、えらいことをした、と言うんだ。 五段目が終ると、お客様がぞろ ぞろお帰りになる、五段目はよかった、明日は仲間を誘って観に来ようと、皆 様口々に言うんだ。 親方はいいお弟子さんをお持ちになりましたなって。 顔 が赤いだろ、飲めない酒を飲んだんだ。 お前は、いずれ檜の座頭になる男だ。  仲蔵でかしたぞ、江戸中で評判だ。 でも、天狗になるな。 天狗が、芸の行 き止まりだ。 小芝居の気持でやれ。 明日から盛り場の総見だ、おめでとう。  あっしは、まずくはなかったんですか。

 女房のお吉が心配していると思いますから。 お前さん、どこにも行かない んだね。 よかった、何か私、安心して、お腹が空いているのに気がついた。  お前もか。 家で、弁当幕の定九郎だ。