樹木希林さん、平気で生きているという強さ2018/09/17 07:23

 15日に交詢社で仲間内の情報交流会の打合せと、福澤諭吉協会の土曜セミナ ーがあって、銀座に出た。 銀座千疋屋でもらってきた『銀座百点』9月号の 山川静夫さんの「百点対談」で、樹木希林さんの「平気で生きていく強さ」を 読んだのが16日の午後だった。 テレビで大相撲9月場所の中日を見ていた ら、ニュース速報で「樹木希林さん死去(75)」というテロップが流れた。

 対談で、樹木希林さんが、「最近になって、松尾芭蕉や正岡子規ってすごいん だなって思えるようになったんですね。」と言っている。 「子規が書いてるで しょ、「悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間 違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居ることであつた」っ て」。

 樹木さんは、一昨年、宝島社の正月の新聞全面広告に出た、水に沈むオフィ ーリアの扮装で、キャッチコピーは「死ぬときぐらい好きにさせてよ」。 『ハ ムレット』のオフィーリア、あのテート・ブリテン美術館のジョン・エヴァレ ット・ミレーの絵の、デンマークの川で歌を口ずさんでいる姿だ。 「いつで も死ねる覚悟がある人間だということで選ばれたんだと思うし、自分でもそう 思ってはいたけど、子規は違うというのね。いつでも、どんな場合でも平気で 生きているという強さ、それこそが悟りだと。だからわたしも病気にかかって この年齢になった今こそ、やっと平気で生きているんだと、みなさんにお伝え できるのね。」

戦前のつらい体験、戦後は貧困のなか絵を描く2018/09/04 07:17

いわさきちひろさんを扱った8月12日放送の日曜美術館が、「“夢のような あまさ”をこえて」という題だったことにも、ちょっと触れておきたい。 当 然、やわらかな色でほんわかと描かれた、可愛らしい子供や花の絵を、批判し ている題ではない。 それを描くに至るまでの、いわさきちひろさんの人生の 軌跡を物語ったのだった。 いわさきちひろ記念財団のサイトの年譜を参照し て見てみたい。

いわさきちひろ(岩崎知弘)さんは、1918(大正7)年12月15日に、父・ 岩崎正勝(陸軍築城本部の建築技師)、母・文江(女学校の教師。博物家事・理 科)の長女として、母の単身赴任先の福井県武生(現・越前市)で生まれた。  ことし生誕100年になるわけだ。 渋谷の道玄坂、四反町(現・東)、向山町 (現・恵比寿南)で育ち、12歳で府立第六高女(現・三田高校)に入る。 第 六高女は自由な学校で、短髪が多く、いわさきちひろさんの後までの短髪はそ れに由来するそうだ。 14歳、目黒に住み、岡田三郎助に師事、デッサンや油 絵を学ぶ。 17歳、第六高女卒業。 1939(昭和14)年20歳、4月婿養子を 迎え結婚、夫の勤務地満州の大連へ。 1940(昭和15)年21歳、母が第六高 女を退職して、大日本連合青年団(のちの大日本青年団)主事となる。 1941 (昭和16)年22歳、3月夫の自殺により帰国。 書家をめざし、文化服装学 院で習字を教える(絵のように、左手で書いたのだろうか?)。 中野区千代田 町(現・本町付近)に住む。 1942(昭和17)年23歳、中谷泰に師事。 1944 (昭和19)年25歳、4月女子義勇隊に同行し、中谷泰、妹・世史子とともに 満州勃利(中国黒龍江省)渡る。 夏、戦況悪化のため帰国。

1945(昭和20)年26歳、5月東京山の手の空襲で、中野の家を焼かれ、母 の実家(長野県松本市)に疎開、終戦を迎える。 (「日曜美術館」で見たのだ が、母が満州への「大陸の花嫁」運動に関わっていたため、両親が公職追放処 分を受け)秋、両親が北安曇郡松川村(現・安曇野ちひろ美術館所在地)で、 開拓を始める。 1946(昭和21)年27歳、松本市で日本共産党に入党。 春、 上京し人民新聞の記者になる。 日本共産党宣伝部・芸術学院に入る。 赤松 俊子(原爆の絵の丸木俊)に師事。 1947(昭和22)年28歳、4月前衛美術 会創立に参加。 5月初めての単行本『わるいキツネそのなはライネッケ』(霞 ヶ関書房)の挿絵を描く。 日本民主主義文化連盟(文連)の依頼で紙芝居『お 母さんの話』を描く。 このころ、画家として立つことを決意する。

1950(昭和25)年31歳、1月、前年、日本共産党の活動のなかで知り合い 「いわさきちひろ、絵描きです」と名乗ったという松本善明と結婚。 紙芝居 『お母さんの話』で文部大臣賞受賞。 1951(昭和26)年32歳、4月長男猛 誕生。 6月、経済的事情のため、やむなく息子を長野県松川村の両親に預け る。 この間、ひんぱんに松川村に通い、多くのスケッチを描く。 1952(昭 和27)年33歳、練馬区下石神井(現・ちひろ美術館所在地)に家を建て、家 族3人で暮し始める。

岩崎さんが岩崎さんになって行く過程2018/09/03 06:55

 いわさきちひろさんの年譜を見ると、こうある。 1958(昭和33)年39歳 ……至光社の月刊絵雑誌『こどものせかい』に描き始める。 1968(昭和43) 年49歳……絵で展開する絵本を試みた最初の作品『あめのひのおるすばん』(至 光社)を描く。以後、至光社の武市八十雄とともに意欲的に絵本を制作する。   1969(昭和44)年50歳……『あかちゃんのくるひ』(至光社)。 1970(昭和 45)年51歳……パステルで『となりにきたこ』(至光社)。現存するパステル 画のほとんどは、この年に描く。『あかちゃんのくるひ』(至光社)(重複してい るのは、パステル画版ということか?)。 1971(昭和46)年52歳……『こ とりのくるひ』(至光社)を描き、1973年ボローニャ国際児童書展にてグラフ ィック賞を受賞。 1972(昭和47)年53歳……『ゆきのひのたんじょうび』 (至光社)。 1973(昭和48)年54歳……『ぽちのきたうみ』(至光社)。 1974 (昭和49)年8月3日、肝臓ガンのため死去、55歳。

 至光社と武市さんというお名前に関して、私には、知っている方が、大学の 同期に二人いた。 一人は、武市純雄さん、ご実家が至光社と聞いていた。 さ っそくメールで、武市八十雄さんについて伺うと、14歳年上のお兄様で、昨年 亡くなられたとのことだった。

 もう一人は、絵本編集者の末盛千枝子さん、最初、至光社にお勤めになった と、記憶していた。 メールでお尋ねすると、いわさきちひろさんと武市八十 雄さん、お二人についての思い出は尽きないという。 ちょうど、その頃、至 光社にいて、岩崎さんが岩崎さんになって行く過程を見ていたそうだ。 実に 恵まれた時代にいたことになる、と。 展覧会で、そのあたりのことが、きち んと紹介されていることに安堵するとも、おっしゃる。 しかし、それは、私 には展示の説明文の中にあった「武市八十雄」というお名前に反応したことか ら、わかってきたことで、展覧会を見た人の誰もがそれを認識したかは、はな はだ疑問である。

いわさきちひろ、新しい試みの陰に2018/09/02 08:10

 8月12日放送の日曜美術館、いわさきちひろ、「“夢のようなあまさ”をこえ て」を見て、ぜひ行きたいという家内のお供で、東京ステーションギャラリー の「生誕100年 いわさきちひろ、絵描きです。」展を見た(9日まで)。 放 送では、誰もが思い浮べることのできる可愛らしい絵、みんなに愛され、心の なかにしまっている、あの愛にあふれた、いわさきちひろの作品の誕生が、画 家になってだいぶ経ってからのものだったことが語られた。 少女の頃から、 岡田三郎助や中谷泰に師事してデッサンや油絵を描いていたものの、戦前は満 州でつらい体験をし、戦後は働きながら絵を描き、子育てをしながら、少しず つあの画風に迫って行ったのだという。

 いわさきちひろ記念財団の公式サイトに、「ちひろの技法」というのがあって、 水彩技法や制作プロセスを、詳しく解説している。 水彩絵具を駆使し、やわ らかで清澄な、独特の色調を生み出した。 水をたっぷり使ったにじみやぼか し、大胆な筆使いを活かした描法などは、西洋で発達した画材を使いながら、 むしろ中国や日本の伝統的な水墨画の技法や表現に近いものが見られる。

 「白抜き」……白い紙の地色を残して、その周りに、色を塗ることで、形を 表す。 「たらし込み」……たっぷりと水を含んだ筆で色を薄く塗り、その色 が乾かないうちに濃い色をおく。濃い色が薄い色ににじみ込んで乾き、偶然的 な色のグラデーションができる。 「渇筆法」……筆に水をあまり含ませない で、絵具をかすれさせる。 「潤筆法」……筆に水をたっぷり含ませて、絵具 をにじませる。絵具が乾く前に別の色をおくと、色が混ざり合い、複雑な色調 が得られる。

 展示の説明文を読んでいて、いわさきちひろさんの、にじむ色彩や絵具の押 し付け、余白の活用、用紙に変化を加えるなど、かずかずの新しい試みに、至 光社の武市八十雄さんという方との共同作業があったことを知った。 同じ公 式サイトの「いわさきちひろについて」に、武市八十雄さん自身が座談会でそ れを語っているのがあった。 絵本の制作にあたって、毎年3月から5月の10 日間、岩崎さんと武市八十雄さんと編集者とで、熱海ホテルへ武市さんの運転 で、いわゆる缶詰に行く。 文章と絵を支えるような案を、武市さんが出す。  言うにいわれないようなものをなにか、しかもその一言を聞いたら、絵描きさ んがもう全部わかったというよう気持になれるだけのものを、用意する。 そ うして出来たのが、『あめのひのおるすばん』であり『あかちゃんのくるひ』だ った。

 もう一つ、武市さんが岩崎さんとの仕事で、ものさしにしたのは、引き算を やろうということ。 これは10年前に海外に出て、日本の絵本全体について 忌憚のない意見を、向こうの編集者や画家やライターの人たちに聞いたところ、 つまり足し算じゃないか、悪いとはいわないが、引き算の感覚がぜんぜんない と言われた。 ちょうどその頃、武市さんは禅にこっていたので、禅の絵の世 界では、絵というものは、破墨、それから捨業、捨てる業、捨てることにある、 と聞いていた。 それが岩崎さんと二人、ピンときたもので、ギリギリまで捨 てていこう、となった。 それで引き算の絵本が4冊ぐらい出来、『ゆきのひ のたんじょうび』あたりから、今度は掛け算を狙っていこうとなった。 マイ ナスとマイナスを掛けるとプラスになるじゃないか、とか言って。

映画と実際、虚実のあわい2018/06/13 06:38

「豊島区立 熊谷守一美術館だより」2018年春号vol.52に、熊谷守一次女の 榧館長(89)が、映画『モリのいる場所』について書いている。

脚本を最後まで読ませてもらう条件で、映画にする話を承諾した。 脚本が 届いて、事実と違うところや、モリが絶対に言わないセリフなどがあったので、 何度か手紙を出した。 撮影の前に、沖田修一監督が訪れ、出来れば大きな修 正をしないまま作らせて欲しい、映画はドキュメンタリーでなくフィクション だということを理解して欲しい、という丁寧な説明を受けた。 結局は、榧さ んがどうしてもというところ以外は、沖田監督が最初に書いた脚本に近い感じ で撮られたという。

モリのことを好きだという山崎努さんは、顔の感じや着ているものを良く似 せていた。 母は、樹木希林さんみたいに聡明でなくて、女学生のまま婆さん になったような人だったから……、希林さんの方が素敵だった。 アトリエな どはよく再現されていたけれど、庭と家の中は、あんなに広くない。 モリは 人が好きだったんだけど、家に男の人をあげるのを嫌った。 どんなに仲が良 くても、信時潔さんですら家に泊めたことがない。 だから映画にあったよう に、知らない男が大勢うちの居間で夕食するってことは、まず考えられない。  家の敷地から一歩も出られなくなったのは最後の数年だし、母方の姪の恵美ち ゃんも、映画とちがって本当はとてもおとなしい性格だった。

あくまで映画は映画。 心配なのは、エピソードや会話がすべて事実に忠実 だと誤解されないかということ。 勲章内示の電話のくだりなんかは、特にね。 映画に関わった多くの方の、心に描いた[熊谷守一]が、ひとつの作品となっ ているので、それを楽しんでいただければいいかなと思う。

私も、まったく同感である。 沖田修一監督と、そのスタッフ、キャストは、 [熊谷守一]という画家の世界「モリのいる場所」の雰囲気を、一本の映画に つくりあげた。 テレビドラマでは、「このドラマはフィクションです」という お断わりが出る。 それとは、ちょっと意味が違うけれど、この映画もフィク ションである。 その証拠に、深海に棲むチョウチンアンコウのように、額に 生えたものの先に光を灯した、見知らぬ謎の男(昼間も家に来ていた)が登場 して、モリに「この狭い庭から外へ出て、広い宇宙へ行きたいとは思いません か?」などと、尋ねるのだ。 そういえば、警視庁のマスコット「ピーポくん」 も、額に生えたものの先に光を灯しているが、あれは世の中を照らしているの ではなく、世の中の動きをキャッチするアンテナらしい。