「終わらない記憶の冒険 田名網敬一」 ― 2024/09/10 06:54
9月1日、三田あるこう会の第567回例会で両国駅周辺を散策する予定だったが、台風10号の影響が長引き、8月29日に中止することになった。 それで『日曜美術館』「終わらない記憶の冒険 田名網敬一」を見た。 お名前も知らなかったが、松岡正剛さんと同じく「編集」を口にし、私より少し上だが、まさに同じ時代を生きてきた人だった。 極彩色の派手な絵を描くアーティスト、グラフィックデザイナー、イラストレーター、映像作家。 8月7日から国立新美術館で開催の「田名網敬一 記憶の冒険」展の準備をしている田名網敬一さんの、いろいろな様子の映像が流れ、おしゃべりも元気そうだったのだが、なんと8月9日に88歳で亡くなったのだそうだ。
京橋の羅紗問屋に1936年7月生まれというから亡兄と同じ年で、戦争で空襲が始まると目黒の祖父の家に移り、9歳で東京大空襲を経験、新潟に疎開、目黒に帰ると、権之助坂からの眺めは、焼野原の赤い焦土とその上の青空、その赤と青が作品の基調に流れているという。 祖父の飼っていた畸形の金魚、目黒雅叙園の赤い太鼓橋を大きく扱ったり、伊藤若冲《動植綵絵》の鶏の赤を貼り込んだりしている。 轟音を響かせるアメリカの爆撃機B29、それを探照するサーチライト、B29が投下する焼夷弾、火の海と化した街、逃げ惑う群衆、脳裏に焼き付いたそうした戦争の光景や、戦後の多感な時代に影響を受けた映画やコミックスなどのアメリカ大衆文化もテーマになっている。
武蔵野美術大学デザイン科卒。 広告代理店に就職するも、個人への仕事のオファーが多すぎて一年足らずで退社。 グラフィックデザイナー、イラストレーターとして多忙な日を送る一方、戦後日本を象徴する芸術運動の一つ、赤瀬川原平や篠原有司男らネオ・ダダイズム・オルガナイザーズと行動を共にし、番組にもボクシング・ペインティングの篠原有司男・乃り子夫妻がアメリカから来ていた。 そうした多彩な人生についても「編集」ということを言い、列車の窓から見る景色もそれぞれの人が頭の中で「編集」しているのだと話す。 1967年、ニューヨークに行き、ウォーホルの作品に触れて、シルクスクリーンにアートの新たな可能性を感じ、やりたいことはいろいろな方法でやっていこうと考える。 ポップでカラフルなイラスト、デザインワークは、国内外で高く評価され、1968年「反戦ポスターコンテスト」で「NO MORE WAR」が入賞する。 1975年、日本版『PLAYBOY』の初代アートディレクターとなる。 この頃はプリントワークと映像作品を中心に活動、高い評価を得る。 1981年結核になり、4か月入院、薬の副作用で病院の庭の松の木がぐにゃぐにゃになって動き出す幻覚を見たが、その松の木も以降の作品に頻出する。 最近は、ピカソの模写、といってもピカソの作品の田名網なりの変奏を数多く描いていた。
番組では、「田名網敬一 記憶の冒険」展を概観、山下裕二さん、篠原有司男・乃り子夫妻、作家の朝吹真理子さんなどが感想を述べながら、見て回っていた。 池上裕子神戸大教授がコメントしていた。
出版社「工作舎」、雑誌『遊』、杉浦康平さんと造本 ― 2024/09/07 07:00
松岡正剛さん、父親の残した借金をなんとか返し終わって、自分なりに何かを始めなければという時期だった。 次は雑誌だな、と思っていたら、稲垣足穂の本を作った仮面社が雑誌を作らないかと言ってきた。 でも、うまくいかず、いったん断った。 誰も見たことのないメディアにするつもりで、再生して止めて、また再生する、早送りや巻き戻しができる、そういうビデオ的な雑誌が作りたかった。 1971年、元上司に100万円を借金して出版社「工作舎」を作り、雑誌『遊』を創刊した。 「遊」は、遊牧民(ノマド)からきていて、じっとして動く、動いてじっとする、読む人が遊牧的になるメディアを試したかった。 学問も自由にしたい。 国語、算数、理科、社会じゃなくて、それらをまたぐ対角線を発見したいと思っていた。 そのためには、メタフォリカル(隠喩的)な連想や見立てがもっと入っていい。 言語的で、かつ映像的な見立てが利くメディアを模索したかった。 後にこの方法を「編集工学」と呼ぶのだが、編集的な見立ての可能性をふんだんに増やそうと思った。
前に言った航空会社と化粧品会社は両方とも「お出かけ」でしょうみたいな見立てが入ると、まったくちがうものが連動する。 たとえば「神道」の特集に「化学」をぶつけるとか、見立てが利くか利かないか、ギリギリのところへ言葉を持っていく。
ただし、これをビジュアルデザインでやれるのは世の中に一人しかいないと思った。 それでグラフィックデザイナーの杉浦康平さんにお伺いを立てに行った。
杉浦康平さんは、東京芸大の建築科の出身なのに、グラフィックデザインに比べて「建築は線が甘い」と、驚くべき発想をする。 それと、広告ではなく、編集されたものをデザインすることに特化したいという思いを持っておられた。 正剛さんは、編集を生涯の仕事にしようと覚悟を決めていたので、作業と表現を厳しくやる人に学びたいと思った。 自分で『遊』創刊号のダミーを作って、「これをむちゃくちゃにしていただきたい」と頼みに行った。
杉浦さんは目が悪くて、「近乱鈍視だ」と言っていた。 お月様が九つに見えるらしく、そういう「知覚の月」をどうやったら表せるのかを考えていた。 デザインをお願いしたというよりも、考え方や後の「編集工学」の基礎を教わった。
杉浦さんの言うとおりにしようと思っていた20代後半と30代だった。 稲垣足穂『宇宙論入門』、「夕方に行ったらカフェが閉っていたけれども、月が昇ったら扉が開いて、そこに『宇宙論入門』があった、みたいな本にしたい」と言ったら、「ふうん、じゃあ穴をあけよう」と。 「そんなこと製本屋がやりますか」 「やらない。だから松岡君、見本持って工場を探してきてよ」と。 それからが大変だった。 稲垣足穂『人間人形時代』も、真ん中に穴があいている。 『全宇宙誌』は漆黒で、工作舎時代の造本はいまも語りつがれる。 正剛さんは、もうこれをやらないかぎりだめだと思っていた、編集力には「形」がいるのだ、と。
松田正平さんの絵と展覧会 ― 2024/08/23 07:01
私は松田正平さんが好きで、『風の吹くまま 松田正平画文集』(2004年、求龍堂)も持っていた。 あらためて見たら、1931年の浪人時代から東京美術学校卒業までの6年間を過ごした文京区小石川にあった寄宿舎、日独館前での写真があった。 この寄宿舎には同郷の美術を志す若者が人づてに集まっていて、汚い学生服の五人と着物姿の一人、なぜか前掛けをした坊ちゃん刈りの子供も写っている。 眼鏡の松田正平の前にいるのが、一年前に美校に入学した香月泰男だという。
この日記にも、松田正平さんの絵や、展覧会を見た話を書いていた。
松田正平さんの絵<小人閑居日記 2004.5.17.> 瞬生画廊の「松田正平展」<小人閑居日記 2008.5.23.>
松田正平さんの絵<小人閑居日記 2004.5.17.>
15日に画家の松田正平さんが亡くなったと、新聞に出ていた。 ご自宅は山口県宇部市、91歳だったという。 先日図書館で借りてきた『香月泰男の絵手紙』という本の解説を、絵手紙の小池邦夫さんが書いていて、その中に香月さんと松田さんが同郷で、美大では藤島武二教室の仲間だったという話が出ていた。 松田さんが二歳下だったが、お互いに頑固で自分の考えを曲げず、二人は取っ組み合いの喧嘩をよくしていたという。 小池さんは三年前(ということは四年前か)まで、松田さんからよく手紙をもらったという。 その手紙は美しく、作品にも決して負けない線の鋭さと品位とがあって、見ているだけで幸せになれた、豊かな静けさが漂っていた、と小池さんは書いている。
洲之内徹さんの「きまぐれ美術館」のことを等々力短信に書いた時、松田正平さんのことにちょっと触れたことがある。 あらためて「きまぐれ美術館」のカタログを見ると、松田さんの絵は、香月さんの絵によく似ているのだった。
瞬生画廊の「松田正平展」<小人閑居日記 2008.5.23.>
20日、朝方の激しい雨風が収まってきたところで、銀座に出た。 瞬生画廊に「松田正平展」(24日まで)を見に行ったのだ。 瞬生画廊は並木通りの空也ビルの2階にある。 家内が珍しく貼り紙がないからと、空也を覗くと案の定、雨風のせいだろう、予約なしでも最中が手に入った。
松田正平さんの絵は、好きだ。 実は、その素朴な署名も、好きなのだ。 油彩の小品が3点。 あとは、水彩やグワッシュのスケッチが10数点。 やはり案内のハガキになっている4号の「バラ」がいい。 グレーっぽい地で、そのグレーがそのままゆがんだ花瓶に使われている。 花瓶のひしゃげたのが、いい加減なようでいて、どこか惹かれる。 それが正平さんなのだ。 スケッチには、ピンクの「周防灘」、べら、いか、などがあった。 いいな、と思うのもあれば、ちょっと、というのもある。
画廊のご主人は、なかなか松田正平さんの絵が集まらなくなった、という。 年々、高くなって、去年の売値が、仕入れ値だとか。 テレビでやって、人気が出た。 ここで毎年やる香月泰男さんもそうだが、命日から展覧会を始めるのだそうだ。 松田正平さんは、2004(平成16)年5月15日、91歳でなくなった。
亡くなった年の2月に出た画文集『風の吹くまま』(求龍堂)にある正平さん91歳の言葉、
「油絵がわからんから、生涯描くでしょう。本気で。/だから絵を描くのに邪魔になるものは、できるだけ捨ててきた。/自分がきれいだなと思ったものを、率直に表現したいというのが、/私の願いだ。」
「一気につかみたいような気分はあるね。/結局、線こそ命ですよ、絵は。/線がひけたらたいしたもの。」
松田「正平さんのベクトル」と川端道喜 ― 2024/08/22 07:03
7月22日から通崎睦美著『天使突破一丁目―着物と自転車と』(淡交社・2002年)を読んで、京都の話を書いたが、京都には「川端道喜」という和菓子屋さんのあることは知っていた。 岩波書店の『図書』5月号で、川端知嘉子さんの御粽司 川端道喜『手の時間、心のかたち』一「正平さんのベクトル」を読んだ。 「正平さん」といっても、自転車こころ旅の火野正平さんではない。 画家の松田正平さん、私の好きな画家である。
川端知嘉子さんは、白洲正子さんの住まいを撮った写真に、憧憬する松田正平さんの短冊「犬馬難鬼魅易」が写り込んでいるのを見つけて、嬉しくなったという。 1937年から39年までフランスへ絵画研鑽のための留学もし、当然アカデミックなデッサンを基にした写実絵画はお手のものだが、一見、あんなに「ヘタクソ」風に子供の絵のような表現ができるのはタダ者でない証(あかし)である。 川端知嘉子さん(肩書は川端道喜代表、画家)は、つい力いっぱい描いて、そこから余分なものを引いていく余裕がまだない、という。 掲載されている、歯の抜けた口を大きく開けて、たぶんガハハと笑っている丸眼鏡の、松田正平さんの鉛筆描き《自画像》(1996年)に出合って以来、今はもう天国にいる、この天衣無縫な老人に「ぞっこん」なのである、と書く。
自画像の横には、「流行を追うな、有名になるな、よい職人のようにこつこつと腕を磨け。 もっとしっかりした絵を、私は描きたいんだ。」という言葉が、『風の吹くまま 松田正平画文集』(2004年、求龍堂)では掲げられている。 川端さんは、この言葉には、AIとか現代もて囃されている技術革新の中で置き去りにされがちな、しかし人間にとってとても大切で高潔なる精神が裏打ちされていると感じている、という。 さしずめ今なら、いち早く流行をキャッチし、あるいは流行するように企(くわだ)て、上手くあらゆる手段を使って有名になり、てっとり早くお金を儲け……、といった現代社会に蔓延(はや)る風潮と真逆なベクトルなのだ、と。
川端さんは、「これは何かに似ている!」と気付く。 店の包装紙にも使い、毎日のように目にしている川端道喜の起請文の内容と同じ方向を向いていることに。
一、正直なるべきは無論のこと、表には稼業大切に内心には慾張らず品を吟味し乱造せざる事
一、声なくして人を呼ぶという意 味(うじわ)う事
右祖先伝来の遺訓確(しか)と稼業相続(あいつづけ)可仕(つかまつるべし)依而如件(よってくだんのごとし)
乱れた作り方をしてはいけない。 あくまで味、品質を大切にすること。 宣伝で人を呼んではいけない、といった内容である。
東京遷都の折、長年御所に奉仕したこともあって、東京について来るように再三お誘いを受けたらしいが、十二代道喜は「水が合わん」とか言って京都に残った。 明治4年と6年に、御所で日々の儀式に使われるお餅などの作り方、盛り方、餝(かざ)り方などを記した「御定式御用品雛形」を携えて東京に出向き、当地の絵師に図柄を写し取らせ、方法を伝授して京都に戻った。 御所蛤御門の西に住まって様々な奉仕をしていた六丁衆のまとめ役として、町衆を置いてきぼりにしたまま、道喜が天皇さんやお公家さんに従って東京に行くわけにはいかなかったであろう、という。
道喜のように宣伝をしないという家訓があっても、今の情報社会は中国や台湾などからもお客様を呼び寄せてくれるという恩恵はあるが、時流から抜け落ちたような手作りの仕事ではそうたいした(最近の「京都風、和風」イメージの)経済効果がある訳ではない。 そんな小さいままの店ではあっても、作る喜びと共に細々と続けていられるのは、京都という質と大きさの町の奥深くに、松田正平さんのことばのような精神が根付いて、まだふんばっていると信じている、信じたいからだと思う、と川端知嘉子さんは結んでいる。
京都の老舗あれこれ、着物のコーディネート ― 2024/07/24 06:53
通崎睦美さんは、京都には、老舗の風格が漂う「今昔西村」をはじめ、結構な数の古着屋さんがあって、店主の「目」を感じることができるという。 睦美さんが通いつめているのは、東山三条にある「裂(きれ)・菅野(すがの)」、店主の菅野伸子さんを勝手に師と仰いで、勝手になついているそうだ。
自分は古道具屋でみつけた扇子を使っているが、プレゼントのお扇子は、やっぱり「宮脇売扇庵」で買い求める。 お客さんがあるというと、麩は「麩嘉(ふうか)」まで買いに行こうか、漬け物はどこにしよう、と自然に老舗の看板が頭に浮かぶ。 考えてみれば、京都は老舗でなくても上質なものが手に入りやすいうえに、老舗は「そのへん」にある。
老舗は「せめて百年でないとね」と、よく耳にするが、創業百年以上の店が京都の街には軽く五百軒を超えるという。 「とらや」は、1600年頃には、すでに菓子業を営んでいた記録があり、お店のいろいろに使われている虎の絵のことをたずねたら、うちが鉄斎さんに間貸しをしていたことがありましてね、ときた。 「宮脇売扇庵」の扇面画をちりばめた格天井も、明治京都画壇の作品がずらり、富岡鉄斎、竹内栖鳳、山元春挙等々が並んでいる。
着物に興味を持ち始めた頃、弘法さんの市で、とても雰囲気のある下駄が目にとまって、買った。 家で早速履いてみようとしたが、鼻緒がきつくてどうにも足が入らない。 行きつけの店はないし、デパートでは直してもらえそうにない。 思いついたのが、四条河原町の「伊と忠」、老舗履物店として雑誌などによく登場している店だ。 遠慮がちに風呂敷包みをといて下駄を出すと、奥から出てきた番頭さんが「へぇ、桐の柾目のいい下駄ですね、今ではなかなか手に入りませんよ。どうしはったんですか。」と声をかけてくれた。 それですっかり気持がほぐれ、たくさんの伊と忠製鼻緒の中から、黒と茶の縦縞のものを選び、その場で新しいものにすげ替えてもらった。
変わった図柄の色足袋・がら足袋を履いて歩いていると、着物好きの人からよく声をかけられる。 「へぇ、めずらしい足袋。御誂えでしょ。」 ほとんどが誂えではなく既製品。 実は、東京で買う、向島の「めうやが」、江戸の老舗が並ぶデパートの催事で出会った。
アサヒビールが主催する文化講座で、「アンティークきものの世界~きこなすアート」という話をした。 着物の図案をアートとしてとらえる。 152~153頁に、「銘仙のきもの」の写真がある。 大正から昭和初期、図案を「デザイン」としてとらえ始めた頃の、気迫や楽しみが見える着物だ。 講師だから「かしこそうに見える」コーディネートの着物にした。 箪笥の中から、からし色の無地に、蜘蛛の巣文様が描いてある錦紗の着物を選びだした。 地味な色目ながら、蜘蛛の巣文様というひねりがいい。 あまりさみしいのもよくないかと、帯はピカソを思わせるような派手めなものを合わせてみた。
ところが後日、ある本にこう書いてあった。 「蜘蛛の巣の糸が張られた意匠は、よい鴨がひっかかりますように、と花柳界の女性が好んで着た着物。」
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