川内由美子さん蒐集の極小雛道具2024/02/21 07:05

川内由美子コレクション 極小のギャマン

 ホテル雅叙園のキンキラキンのエレベーターで3階に上がったところから始まる、唯一の木造建築(昭和10(1935)年)の東京都指定有形文化財「百段階段」に沿った七つの部屋に、お雛様が展示してある。 だから、入口で靴を脱いで上がる。 そういえば昔、ここの便所の便器が独特の陶器で、杉の葉が敷き詰めてあったような記憶がある。 現在のトイレは、角張ったTOTOではあったが、当然今風になっていた。

 座敷全体を埋め尽くしている、座敷雛(福岡・飯塚 旧伊藤伝右衛門邸)に驚く。 炭鉱王の伊藤伝右衛門は、朝ドラ『花子とアン』で吉田鋼太郎がブレークした嘉納伝助のモデル、その二番目の妻は柳原白蓮で、後に宮崎龍介と白蓮事件を起こす。 この座敷雛は、白蓮のものなのだろうか。

 そして、お目当ての極小雛道具研究家の川内由美子さんが長年にわたり蒐集されたコレクションである。 優美な極小のギャマンと染付や、象牙製芥子雛。 江戸の名店「七澤屋」製など、もともと小さく作られた雛道具をさらに小さくしたもの、何とも可愛らしい。 私は元はガラス食器を作っていたので、薩摩切子など江戸時代のギャマンを見てきているが、それをそっくり小さくしている見事な技に驚く。 わが家でも季節になったので、独楽の形につくった雛を玄関の下駄箱の上に飾るのだが、川内由美子さんの極小雛道具の展示と保管、どんなに手間のかかる仕事だろうかと、あらためて感じた。 川内由美子コレクションは、この時期、引っ張りだこで、この雅叙園の「千年雛めぐり~平安から現代へ受け継ぐ想い~百段雛めぐり2024」(3月10日まで)のほか、山形県鶴岡市の致道博物館の「鶴岡雛物語」展(3月1日~4月3日)、港区南青山の紅(べに)ミュージアムの「ミニチュア愛(らぶ)!」展(4月7日まで)でも見ることが出来る。

豆大福の「松島屋」、英一蝶の墓2024/02/13 07:01

 三田あるこう会の「「御田」から常光寺参拝」、伊皿子から豆大福の松島屋の前を通った。 宮川幸雄さんによると、「東京三大豆大福」は高輪「松島屋」、原宿「瑞穂」、護国寺「群林堂」だそうで、「松島屋」は予約しておかないと買えないと聞いていた、受け取っている人もいたが、直前に電話した人は駄目だったようだ。 我が家で豆大福といえば、虎ノ門の岡埜榮泉だけれど…。 旧高松宮邸の界隈に、かつて虎屋という和菓子屋があって、赤坂や銀座の「とらや黒川」と関係ないので、地元の人は「にせ虎」と呼んでいると、ご近所生れの銀行の支店長に聞いたことがあった。 今は、閉店したようだ。

 高輪消防署二本榎出張所と高輪警察署の少し手前で、私は明治学院中学に通ったという話をしていたら、岡部健二さんが、左手の承教寺にハナブサイッチョウの墓があると言う。 当時、高輪警察の前は、明学の隣の意だろう明隣堂という本屋さんだったが、今はビルの名に残っているだけだ。 ハナブサイッチョウ、聞いたことはあるが、どんな人だったか、その時は浮かんでこなかった。

 雑誌『サライ』3月号の第409回「難航 十字語判断」クロスワード・パズルに、「綱吉の頃の画家。幕府の怒りに触れ三宅島に流罪となり、赦免後に――(9文字)と改名。俳諧をよくし芭蕉や其角とも交友があった。『布晒(ぬのさらし)舞図』『四季日待図巻』」という問題があった。 答を入れていくと、これが「ハナブサイツチヨウ」となった。 『サライ』の「難航 十字語判断」だが、それにはまって「等々力短信」第864号(平成11年12月25日)に「1999年末クロスワード・パズル」というのを書き、自作の問題まで作っているのが、私家本『五の日の手紙 4』370~373頁にある。 以来23年も、ずっとやっていることになる。

 そこでハナブサイッチョウ、英一蝶だが、1652~1724、江戸前期の画家。 英派の祖。 医師多賀伯庵の子として京都に生まれる。 幼名猪三郎、諱(いみな)は信香(のぶか)、字(あざな)は君受(くんじゅ)、剃髪して朝湖(ちょうこ)と称した。 翠蓑翁(すいさおう)、隣樵庵(りんしょうあん)、北窓翁などと号し、俳号に暁雲(ぎょううん)、夕寥(せきりょう)があった。 1659(万治2)年ごろ江戸へ下り、絵を狩野安信に学んだが、いたずらに粉本制作を繰り返し創造性を失った当時の狩野派に飽き足らず、岩佐又兵衛や菱川師宣によって開かれた新興の都市風俗画の世界に新生面を切り開いた。 機知的な主題解釈と構図、洒脱な描写を特色とする異色の風俗画家として成功。 かたわら芭蕉に師事して俳諧もよくした。 1698(元禄11)年幕府の怒りに触れ三宅島に流されたが、1709(宝永6)年将軍代替りの大赦により江戸へ帰り、画名を多賀朝湖から英一蝶と改名した。 晩年はしだいに風俗画を離れ、狩野派風の花鳥画や山水画も描いたが、終生俳諧に培われた軽妙洒脱な機知性を失うことはなかった。 代表作に、いわゆる「島(しま)一蝶」として珍重される三宅島配流時代の作品《四季日待図巻》(出光美術館)や《吉原風俗図鑑》(サントリー美術館)、《布晒舞図(ぬのざらし)まいず》(埼玉・遠山記念館)などがある。(『日本百科全書』榊原悟) 遠山記念館は、昨年3月に三田あるこう会で行った。(遠山記念館で「雛の世界」展を見る<小人閑居日記 2023.3.17.>)

 俵元昭さんの『港区史蹟散歩』(学生社)には、流罪の原因を元禄11(1698)年『当世百人一首』『浅妻船』の図などが将軍幕府を風刺したからとある。 三宅在島11年、58歳で許され、赦免の報に蝶が飛ぶのを見て一蝶と号し、宝永6(1709)年江戸に帰った。 土佐派を折衷した技法で人気に投じた。 享保9(1724)年73歳で死去。 承教寺(高輪二-8-2)は、本堂前の墓碑(都旧跡)に画家らしい辞世「まぎらはす浮き世のわざの色どりもありとや月の薄墨の空」があり、数少ない一蝶の仏画、細密謹厳な筆法の《釈迦如来画像》一幅(区指定文化財)を所蔵する。

江戸っ子の月見の名所「月の岬」2024/02/10 07:14

 そこで御田小学校「岬門」の「岬」の件であるが、亀塚や済海寺が面した丘の上の道は、御田小学校の入口から、この後行った旧高松宮邸前、高野山東京別院を経て、高輪台方面へと続く。 この台地の稜線は江戸時代、「月の岬」という名で、月見の名所として知られていた。 「ウィキペディア」の「月の岬」は、月の見崎ともいい、「東京都港区三田四丁目付近である台地の一角を指した地名。名称としての用法は明治中後期には廃れている。」としている。 御田小学校は、まさしく東京都港区三田四丁目にある。

 「ウィキペディア」は、「月の岬」の名前の由来として、4つの説を挙げている。 (1)慶長年間、徳川家康が名付けた。(2)三田台町一丁目の高札場付近を名付けた。(3)元は伊皿子大円寺境内の名であったが、転じてそのあたりの名称とされた。(4)三田済海寺の総名(総称)であった。 (伊皿子大円寺は曹洞宗寺院、慶長8(1603)年赤坂溜池のあたりに徳川家康が開基となって創建し、寛永18(1841)年伊皿子に移転、寺号を大渕寺から大円寺に改号、島津家の江戸菩提寺などとして栄え、維新後の明治41(1908)年杉並区和泉に移転した。)

 浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」というブログの第96回に、『月の岬』というのがある。 歌川広重『名所江戸百景』第八十二景「月の岬」、広重著『絵本江戸土産十編』のうち第二編(1851(嘉永4)年頃刊、国会図書館蔵)より「同所(高輪)月の岬」の、二つの絵を見ることができる。 https://www.nippon.com/ja/guide-to-japan/gu004096/

 『名所江戸百景』第八十二景「月の岬」は、品川宿の廓の座敷から、江戸湾に浮かぶ満月を望んでいる。 「月の岬」は、江戸湾に月が浮かぶと、海岸線と高台の稜線が岬のように望める場所で、江戸っ子には月見の名所として知られていた。 正確な場所には諸説あるが、大まかには現在の港区高輪から三田にかけての台地の一角を指すようだ、とある。

 『絵本江戸土産十編』の第二編「同所(高輪)月の岬」は、品川駅の南にあった高台「八ツ山」(後に、海辺の石垣整備、目黒川洪水の復旧など土木工事のために崩したが、地名は残る)の南から、高輪、芝浦の海岸線を望んでいる。

 前者の浮世絵は、広々とした妓楼の座敷の外に、満月が高輪沖を照らし、雁が鉤の手の編隊で飛び、停泊している無数の船がシルエットで浮かぶ。 座敷の中は閑散としているが、奥には手を付けていないマグロの刺身と、扇子や手拭、煙管入れと煙草盆が見え、廊下には食器や酒器が雑然と置かれている。 左端には、障子に遊女の陰が映っていて、その着物の裾だけが見えている。

 品川宿の廓のことは、落語「品川心中」「居残り佐平次」などで、おなじみだ。 当日記でも、五街道雲助の「品川心中(通し)」上中下を2016.11.29.~12.1.で、古今亭志ん輔の「居残り佐平次」前・後半を、2013. 2. 18.~19.と、2018.7.3.~4.の二回で読んでもらえる。

 浮世写真家 喜千也さんは、品川宿の廓の大見世といえば、「土蔵相模」と呼ばれた「相模屋」であり、安政7(1860)年3月3日、「桜田門外の変」を起こした水戸浪士たちも、その3年後の文久3(1863)年12月12日には、長州藩の高杉晋作、伊藤博文(俊輔)らが、「英国公使館焼き討ち事件」の現場へと、この「土蔵相模」から出発したという、歴史を記している。

舟越保武さんの《原の城》2024/02/07 07:15

 彫刻家舟越保武さんの代表作の一つに《原の城(じょう)》という作品がある。 副題は「切支丹武士の最期」、全身像の背面に「寛永十五年如月二十八日原の城本丸にて歿」という字が彫られている。

 舟越保武画文集『巨岩と花びら』に、「原の城」という一文がある。 「日本ではキリシタン弾圧が永く続いた。私は長崎に行っても、天草に行っても、国東半島や津和野でも、キリシタン弾圧の遺した痕跡がまだ消えていないことを知った。/天草の乱でキリシタンと農民三万七千人が一人のこらず全滅した原の城址へ行ったとき、この近くの町には、現在でも一人のクリスチャンもいないと聞いた。」と、始まる。

 静かな海を背にひかえた原の城址は、睡気を誘われるように長閑で、この場所で、あの凄惨な絶望的な戦いがあったとは信じられないほどに、明るく落ち着いた丘であった。 「それが明るく静かであるだけに、かえって私には、天草の乱の悲惨な結末が不気味に迫って来る思いがした。鬼哭啾々という言葉そのままのようであった。私が立っている地の底から、三万七千人のキリシタン、武士と農民の絶望的な鬨の声が、聞こえて来るような気がした。」

 「私はこの丘の本丸址に続く道に立って、この上の台地の端に討死したキリシタン武士がよろよろと立ち上がる姿を心に描いた。雨あがりの月の夜に、青白い光を浴びて亡霊のように立ち上がる姿を描いて見た。」

 《原の城》の像、両眼と口のところを穴にしたので、凄みがあるように見える。 これを見に来た彫刻科の学生に、この彫刻は丘の上に立てると風の吹くときにはホーンホーンと咽び泣くような音がするのだ、と法螺をふいた。 全くの法螺ではなく、ブロンズなので中はがらん胴になっているので、アトリエで台に上がって、眼の横から強く息を吹いたらホーンというかすかな音が像の中から聞こえた。

 「破れ鎧をつけた年老いた武士の憔悴した姿のこの彫像は、どこか私に似ているような気がする。これが出来上がったとき、息子がアトリエに入って来て、「あ、遺言みたいだ」と辛辣なことを言った。」

ある画家の自画像、野見山暁治自伝2024/01/23 07:10

 昔、野見山暁治さんの自伝『一本の線』を読んで、「等々力短信」に「ある画家の自画像」を書いていた。 最近の「日曜美術館」が、二人の妻に先立たれた、と言っていたことにも、少し触れていた。 父親の年齢から、長生きの家系だということもわかる。

    ある画家の自画像 等々力短信 第533号 1990(平成2)年6月5日

 その人の父親は、九州の遠賀川流域の炭坑地帯で、地主の三男に生れた。 その辺りが、ゴールドラッシュの夢にわいていた頃で、どうしても炭坑をやって、一旗あげたいと考えた。 わずかな元手で、まず質屋を始める。 それで資金をつくろうという遠大な計画だったが、そのうちに炭坑の利権をカタにして金を借りに来た人がいた。 渡りに船と、ほうぼうから借金をして、貸す金を作り、炭坑に手を染めた。 天性の行動力と弁舌と、それらを具現化した体格と容貌を誇る、その父親は、手に入れた炭坑の事業を、大きく軌道に乗せようと燃えていた。 ところが、九大の工学部へ入れて、炭坑の跡をつがせるつもりにしていた長男が、中学卒業を前に「絵描きになりたい」と言いだしたのだ。

 画家、野見山暁治さんの自伝、『一本の線』(朝日新聞社)である。 「あとをつがせるべき長男をそんな訳の分からぬ道楽者にさせてたまるか。これが父の本音だった。父に限らない。これは世の中のホンネで、親戚や知人の子供たちが絵描きになりたいと言いだせば、ぼくもぞっとする」。 でも、野見山さんは上京して、美術学校に入った。 十七歳のその年から、戦争の時代をはさんで、二十七歳までの十年間の青春が、確かな、手応えを感じる、信頼できる「線」によって、描かれている。

 画家の、鋭い目が、光る。 たとえば、クロッキー研究所に通って、モデルの「おおっている着物を脱ぎ捨てる瞬時の羞じらいだけが女の姿だと思えるようになってきて、その一瞬を捉えるために、ぼくはその時だけを待つようになっている」

 自伝は、むずかしい。 どれだけ自分を「まるはだか」にして、語ることができたか、にかかってくるからだ。 ひとは、おおむね、自分の失敗や弱点を語りたがらない。 結局は、自慢話と、自己弁護になってしまう。 そうした制約から自由な、ごくまれな自伝だけが、成功する。 『福翁自伝』を、ひきあいに出すまでもなかろう。 野見山さんはみごとに成功した。 それは、かなりの痛みを、ともなうものだったはずである。

 百歳まであと二、三年という父親が寝たきりになり、末の妹が世話をしている福岡の家で、野見山さんは、この本を書いた。 あとがきに「女と出会い、女と別れてゆくいきさつは、いくら年を経てもやはり同じ屋根の下にいる親には秘めておきたい。それどころか、妹がお茶を持ってきてくれるたびに、あわてて原稿を伏せる始末だ」とある。 三人の女性との「いきさつ」を描いたことが、『一本の線』を本物にした。