『ソール・ライター展』、俳句との近さ2017/05/29 07:04

 東急の株主なのらしい友人から招待券を頂いたので、Bunkamuraザ・ミュ ージアムで『ソール・ライター展』を、ドゥ マゴ パリでのランチがてら、見 て来た。 ドゥ マゴ パリは、ちゃんとした料理を出して、安いのがいい。 展 覧会の名を全部書くと『ニューヨークが生んだ伝説 写真家 ソール・ライター 展』(6月25日まで)である。 それで写真家とわかるソール・ライターを、 まったく知らなかった。 土曜日ではあったが、どうせ空いているんだろうと 入った会場で、びっくり、大勢の人が見ていた。

ソール・ライター(1923-2013)は、1950年代からニューヨークで第一線 のファッション・カメラマンとして活躍しながら、1980年代に世間から姿を消 した。 83歳の2006年にドイツで出版された作品集が、センセーションを巻 き起こし、展覧会開催や出版が相次ぎ、2012年にはドキュメンタリー映画『写 真家ソール・ライター 急がない人生で見つけた13のこと』(日本公開は2015 年)にまでなったのだという。

モノクロ写真に始まり、1950年頃からカラーになる(このあたりは、数年遅 れで私も体験している)。 もともとは画家志望だったが、売れなくて写真の 道に入ったのだそうで、カラー写真に通じるスケッチや絵も展示されている。 

ニューヨークの自分の住む地域で撮ったスナップが中心なのだが、私は「俳 句」と近いものを、そこに感じた。 それはソール・ライター自身の言葉に表 れている。 「美」を「詩」にすれば、俳句ではないか。 「写真家からの贈 り物は、日常で見逃されている美を、時折提示することだ。」 「雨粒に包ま れた窓の方が、私にとっては有名人の写真より面白い。」 「見るものすべて が写真になる。」 「私が写真を撮るのは自宅の周囲だ。神秘的なことは馴染 み深い場所で起きると思っている。なにも、世界の裏側まで行く必要はないん だ。」 「重要なのは、どこである、何である、ではなく、どのようにそれを 見るかということだ。」

時代が変わり、写真家の自由な創造性が束縛されるようになり、仕事も減少 してスタジオを閉じ、自分のためだけに作品を創造する「隠遁生活」へ入った。 「取るに足りない存在でいることは、はかりしれない利点がある。」 「私 は注目を浴びることに慣れていない。私が慣れているのは、放っておかれるこ とだ。」

女性の名前が題名になっている、日常生活の中で、身近な女性らしい人を撮 ったヌードや絵がある。 それが、何人もなのだ。 見逃したのか、説明がな かったようで、謎である。

鏑木清方『随筆集 明治の東京』<等々力短信 第1095号 2017.5.25.>2017/05/25 07:08

 岩波文庫が7月で創刊90年だそうで、記念の『図書』臨時増刊号「私の三 冊」が出た。 「各界を代表」している228人に、今までに読んだ岩波文庫の うち、心に残る書物、ぜひとも勧めたい本を、答えてもらっている。 女優の 有馬稲子は、チェーホフ『ワーニャおじさん』、太宰治『お伽草紙・新釈諸国噺』 と『鏑木清方随筆集』の三冊。 有馬稲子は今、老人ホームにいるらしいが、 テレビ朝日で昼に放送中の倉本聰の帯ドラマ『やすらぎの郷』にも出るようで、 タイトルに顔が見える。 私は昭和28(1953)年の東宝入社第一作『ひまわ り娘』を日劇で観たが、12歳、64年前のことになる。

 『鏑木清方随筆集』(山田肇編)を選んだのは、「友人の坂崎重盛氏より『「絵 のある」岩波文庫への招待』をいただき、あの美人画の鏑木清方が随筆の名手 と知りました。昭和の貴重な時代考証のような女性の描写、私の最後の一冊は これに決めています。」

 3月友人達と、鎌倉の鏑木清方記念美術館で「つつましく そして艶やかに~ 清方ゑがく女性~」展を見たばかり、静かで落ち着いたよい美術館だった。 私 はたまたま『「絵のある」岩波文庫への招待』(芸術新聞社)を持っていた。 『鏑 木清方随筆集』はなかったが、そこで紹介されているもう一冊『随筆集 明治の 東京』は書棚にあった。

 「名物無名物」(昭和19年)に、「明治の昔は東京も狭かった、(中略)駒込 の茄子、谷中の生姜、千住の枝豆、砂村の唐茄子、練馬大根、目黒の筍、三河 島の菜、大川の蜆、大森の海苔、深川のバカの目刺(バカも近頃は青柳と大層 優しい名前を持つようになった)、千住の豆は他のより大粒で莢に四粒入のがあ る、谷中の生姜は柔かで辛くない、根岸の先き諏訪台下の日暮里あたりが産地 である。」とあった。

 「明治の東京語」(昭和10年10月)に、若い人に通用しそうのないか、そ うなりかけている言葉が挙げてある。 近在、遠国(おんごく)者、常住(じ ょうじょう)、ぞんき(「のんき」より少し質のよくない)、今当世、跡月(あと げつ・先月)、でくま、ひくま(凸凹)、どうれ(道理)、煉瓦通(銀座通)、ハ ンチク(半端人足)、権妻(妾)。

 「甘いものの話」(昭和7年1月)に、「美術人には左傾が多い。ムッソリー ニと握手した横山大観先生などは、押しも押されもしない左翼の頭目だし、周 囲の友人知己、概ね左党ならざるはないといってよかろう。」 鏑木清方は下戸 なのだそうで、店名や甘いものが列挙されている。 汁粉屋というもの、あれ も明治趣味のものであった、「総じて人情本の挿画にでも見るような小粋な造り で、床にも細ものの茶懸に、わびすけでも活けてあろうという好み、入口には 茶色の短い暖簾、籠行燈という誂えの道具立も、器の物好きも」と、この随筆、 まさに「絵のない絵本」なのである。

「四月大歌舞伎」夜の部を観る2017/04/11 07:00

 7日は、歌舞伎座で「四月大歌舞伎」夜の部を観た。 頂いたチケットが花 道のすぐ横の素晴らしい場所だった。 演目は、一、近松門左衛門作「傾城反 魂香」土佐将監閑居の場、 二、「桂川連理柵(れんりのしがらみ)」帯屋、 三、 「奴道成寺」である。 偶然だけれど、「反魂香」と「桂川連理柵」は落語にも 出てくる。 落語の「反魂香」はまったく別の話だが、「桂川連理柵」のお半長 右衛門、「お半長」の心中話が、上方落語の「どうらんの幸助」では誰でも知っ ている話として笑いのもとに使われている。

 一、近松門左衛門作「傾城反魂香」土佐将監閑居の場は、通称「吃又(ども また)」、吃りの浮世又平(後に土佐又平光起。中村吉右衛門)(近年注目の絵師 岩佐又兵衛がモデルという。)が口の達者な女房おとく(尾上菊之助)と、師匠 土佐将監(土佐光信がモデル。中村歌六)に、土佐の名字を名乗ることと免許 皆伝を懇願する話だ。 子供の頃に小耳にはさんだ「吃又」という言葉の語源 が、この歳になってようやくわかったのだった。

 土佐将監が隠れ住む山科の閑居に、虎が出たと村人が追って来る。 藪から 顔を出す虎には、笑ってしまう。 日本にいないはずの虎は、名人狩野元信筆 の虎に魂が入って抜け出たものと、将監が見破ったので、弟子の修理之助(中 村錦之助)が筆の力でかき消し、将監に土佐光澄の名と免許皆伝を許される。  修理之助の兄弟子の又平と、女房おとくがやって来て、師匠の土佐将監に、土 佐の名と免許皆伝を頼み込む。 欲がなく、口の不自由な又平に代わって、お とくが切々と訴えるのだが、将監は大津絵でも描いて暮せと、許さない。 絶 望した又平は死を決意し、せめてこの世の名残りにと、最後の力を振り絞り、 手水鉢に自画像を描く。 すると、不思議なことに、その自画像が石を貫き、 裏側に突き抜ける。 その奇跡を目にした将監は、又平の筆力を認め、土佐光 起の名と免許皆伝を許す。 将監の北の方(中村東蔵)から羽織袴の礼服と両 刀を与えられ、嬉し気に祝いの舞を舞うのだが、その口上を述べようとすると、 何ときちんと話せるのであった。 めでたし、めでたし。

昔書いた「金子みすゞの詩を描く」2017/03/27 06:32

 金子みすゞのことを書こうと思って、前に書いたものを探したら、まだブロ
グにする前に、こんなことを書いていた。 それを、まず引いておく。 「こ
んどの戦争」というのは、イラクで大量破壊兵器が製造されているとの理由で、
2003年3月20日、アメリカ軍によるイラクの首都バグダードへの空爆で始ま
った米英を中心とする連合国軍によるイラク戦争である。

金子みすゞの詩を描く<小人閑居日記 2003.4.12.>

 生誕100年という金子みすゞの詩に、よしだみどりさん(幼児向けのテレ
ビ番組「ロンパー・ルーム」で3代目のみどり先生だったそうな)という人が
絵をつけたのを赤坂の画廊でやっていて、家内が見たいというので出かけた。

 金子みすゞについては、昨年の春だったか松たか子がやったテレビドラマを
見て、知ったぐらいの知識しかない。 渡部篤郎といったか、外国損保のコマ
ーシャルで、感じのよくない男だと思っていたのが、どうしようもない夫役で、
余計嫌いになったのは、お気の毒だった。

 よしだみどりさんの絵は、みすゞの詩によく合って、優しく、温かく、懐か
しい。 家内は、おばあさんの後ろ姿がとてもいいと言った。

 金子みすゞの詩はといえば、有名なのに「大漁」というのがある。

朝焼小焼だ
大漁だ
大羽鰮(いわし)の
大漁だ。

浜は祭りの
ようだけど
海のなかでは
何万の
鰮のとむらい
するだろう。

 それは、たとえば、こんどの戦争をイラク人の側の視点から見たらどうな
るだろうというようなことを教えてくれる。

明るい「北斎の晩年」像2017/03/26 06:57

 2月16日に「北斎を描いた藤沢周平の『溟い海』」を書いた、葛飾北斎の晩 年であるが、NHK日曜美術館は藤沢周平とまったく違う見方をしていた。 1 月8日放送の「果てしなき夢~画狂老人、北斎の晩年~」である。 晩年の北 斎は抜きん出て輝いていて、高齢化の進む社会を生きる、われわれ老人に勇気 を与えるものであった。

 北斎の死後40年、明治26年に出版された飯島虚心の『葛飾北斎伝』が最初 のまとまった伝記で、晩年の北斎の姿をリアルに描き出している。 茶も飲ま ず、酒もたしなまず、金を遣い尽くし、いつも貧乏で、心はひたすら絵を描く ことに向けて、打ち込んでいた老人であった。 <八の字のふんばり強し夏の 富士> 北斎。 72歳で《富嶽三十六景》を描いた葛飾北斎は、75歳から「画 狂老人卍(まんじ)」の雅号を使い始めた。 《富嶽百景》全三冊102点の奥 付あとがきに「七十五齢 前北斎為一改 画狂老人卍」として、「70歳まで描 いたものなど、取るに足らないものばかりだ。73歳で生き物の骨格の基本の成 り立ちをいくらか悟った。80歳にはますます進歩し、90歳になればその奥義 を極め、100歳になったら、まさに神業の域に至るだろう。そして110歳には、 絵の一点一格まで生きているように見えるだろう。」と記した。

 80代には毎朝、日課で毎日異なった図柄の獅子や獅子舞の絵を描き、日付を 入れて、丸めると、ポイと外に捨てた。 娘の阿栄が密かに拾っておいたので、 ≪日新除魔≫が残った。 飢饉で経済も停滞し、人々の心が荒んだ天保年間、 「天保の改革」で創作活動も制限された80代になって、83歳から4回信州の 小布施まで出かけている。 小布施の豪農で文人の高井鴻山の招きで、屋敷の 中にアトリエを設けてもらい、自由に描いた。 小布施では、86歳で祭屋台の 天井絵を描いている(長野県宝)。 上町(かんまち)の《怒涛(男波・女波)》 と、東町の《龍と鳳凰》で、小布施の北斎館に展示されており、《怒涛》祭屋台 は5月から大英博物館で開催される「北斎―富士を超えて」展での展示が検討 されているという(10月からは、あべのハルカス美術館で帰国展)。

 娘の阿栄によると、90近くなって、炬燵に足を入れて横になっていても、毎 日筆を取っており、猫が上手く描けないと嘆いたという。 龍が富士山から黒 雲に乗って天に昇る、最後の傑作《富士越(こしの)龍》を描き、1849(嘉永 2)年数え90歳で、「天がもし五年長生きさせてくれたら、本物の絵師になれ るだろう」と言って、死んだ。