九州のカルデラと大噴火2018/04/21 07:05

 『新しい高校地学の教科書』の「姶良(あいら)カルデラ」について記して いるコラム「灰に埋もれた日本列島」には、その前段がある。

 「カルデラの大きさは一度の噴火で放出した物質の量を表している。日本に は世界有数の大きさを持つカルデラがいくつもあり、その大きさから過去に極 端な規模の噴火を何度もしていたことがうかがえる。」

「直径が20kmにもおよぶ九州の阿蘇カルデラは、特に巨大な噴火を5回起 こしていることが、噴出物の調査からわかっている。約9万年前に起きた4回 目の噴火(Aso-IV)では、100立方km以上という途方もない量の物質が噴出 し、おびただしい量の火砕流が九州北部一円を覆った(一部は海を越えて天草 諸島や本州にも達した)。さらに火山灰は北海道の北端から小笠原諸島にまで堆 積した。日本列島全域が阿蘇山の灰に埋まったことになる。」

「(姶良カルデラの)他にも南九州には大きなカルデラを形成するような火山 活動がくり返された。縄文文化が西日本であまり発達しなかったのは、このよ うな激しい噴火の影響も大きかったに違いない。」

『ブラタモリ』「#99鹿児島の奇跡」で、「シラス」と「溶結凝灰岩」(「たん たど石」)は「姶良カルデラ」、「小野石」は「加久藤(かくとう)カルデラ」と いう説明の時に出た地図が、非常にわかりやすかったので、「九州のカルデラ」 で検索をしてみた。 「霧島は竜馬を変えた! 日本を変えた! ~霧島火山編 ~」というホームページにとてもいい地図と、大噴火の年代があったので、ご 紹介しておく。

http://www.miyazaki-catv.ne.jp/~n-satoh/kirishima/kazan3.html

「シラス」と「たんたど石」も元勲2018/04/20 07:14

 NHK『ブラタモリ』制作チームは、公益社団法人 地盤工学会の平成29年度 地盤工学貢献賞を受賞したそうだ。 受賞理由は「国民的人気番組によって、 古くから日本の文化や産業には地盤とそれを形成する地盤構造物が深くかかわ っていることを一般市民に広く発信し、地盤工学の社会的イメージの向上に多 大な貢献をした。」

 割に最近の『ブラタモリ』3月10日・17日放送、「#98鹿児島」「#99鹿児 島の奇跡」、共にお題は「なぜ鹿児島(薩摩)は明治維新の主役となれたか?」 だったが、鹿児島の地質学研究50年という大木公彦鹿児島大名誉教授が嬉し そうに解説していた。 鹿児島県を中心とする九州南部には、「シラス」で覆わ れた台地が分布する。 「シラス」は、火山から噴き出た火砕流が固まってで きた。 白色で孔隙(こうげき)に富み、崩れやすい。 「シラス」の特徴が 急な崖と平らな台地を生んだ。 あっけないほどすぐに本丸に達する鶴丸城の、 本丸の裏には切り立った崖が特徴の「城山」がある。 城山の上には平らな台 地があり、兵士を集め守りを固める「曲輪」や「武器弾薬庫」を置くのに好都 合だった。 城山の麓には、泥岩の層と「シラス」の層の境目があり、水が湧 き出ている。 やっかいなものと考えられがちな「シラス」を、さまざまな工 夫で活用しているのだ。

 鹿児島の台場は、嘉永6(1853)年のペリー来航で建設を始めた江戸の台場 よりも早く天保11(1840)年に築かれた。 鹿児島の位置は江戸より、西洋列 強の脅威を受けやすい場所にあり、文政7(1824)年には宝島事件というイギ リス人との銃撃戦が起きていたし、天保8(1837)年にはアメリカが通商要求 したモリソン号事件もあり、天保13(1842)年にはアヘン戦争で清が破れた。  この台場に使われた石は、「シラス」でなく、「たんたど石」で、この石があっ たから、鹿児島は明治維新の主役となれたというのだ。 タモリ一行がバス停 「たんたど」近くの石切り場へ行く。 正面はシラスの崖で、その下に「たん たど石」の石切り場があった。 「たんたど石」は「溶結凝灰岩」、火砕流が高 熱と高圧で溶け固まった岩石だ。 ともに巨大火山からの火砕流だが、固さの 違う二つの層になっているのは、時代が違うからだ。 「溶結凝灰岩」は、50 万年前、北京原人の頃。 「シラス」は、2万9千年前。 降り積もったシラ スの台地が、川の流れで削られて、「溶結凝灰岩」が顔を出した。 「溶結凝灰 岩」は、「柱状節理」(溶岩が冷えて固まる時にできる柱のような割れ目)とい う割れ目が目立ち、切り出しと加工がし易く、石材に最適。

 薩摩藩は、この「たんたど石」「溶結凝灰岩」を、さまざまな近代的事業に使 った。 タモリ一行は、万治元(1658)年に島津光久によってつくられた別邸、 磯庭園(仙巖園)に移動する。 そこには『西郷どん』で28代当主島津斉彬 を演じた渡辺謙が待っていた。 庭園の灯籠では、石炭でガスをつくり、配管 をしてガス灯を灯した。 有名な明治5(1872)年の横浜のガス灯より15年 も前のことだ。 松尾千歳尚古集成館館長が、竹林を切り開いてつくった反射 炉を案内した。 斉彬の命令で、3~5トンの大砲をつくるために、オランダの 本を参考に築いた。 土台の材料は「溶結凝灰岩」、剃刀の刃一枚も入らない精 密な加工ができた。 その土台の上に、非常に重量のあるものが載る。 何万 個という耐火煉瓦だが、鎖国で輸入はできないから、これも斉彬の厳命で、な んとか従来の技術、薩摩焼で白っぽく重い耐火煉瓦を焼いた。 15日に「滝野 川反射炉」に書いたように、ここに反射炉を築いたのは、砲身に咆腔を錐であ ける錐鑚機の動力として水車を用いるのに、仙巖園の裏山からの水利の便がよ かったからだ。

 いま尚古集成館の資料館になっているのは、全長77m(黒船と同じ長さ)の 機械工場の建物だが、「溶結凝灰岩」でも、赤煉瓦でもない。 「溶結凝灰岩」 は触ると冷たいが、その材料「小野石」は触っても冷たくない。 断熱効果が あって、夏涼しく、冬温かい。 「小野石」は10km先から採集されて来てい て、そこは加久藤(かくとう)カルデラの範囲である。 「シラス」と「溶結 凝灰岩」(「たんたど石」)は、「姶良(あいら)カルデラ」でつくられた。

 『新しい高校地学の教科書』に、こうある。 鹿児島湾は桜島で南北に仕切 られ、奥側はきれいな円形をしている。 これは「姶良カルデラ」といい、極 端な規模の噴火をしたところである。 約2万2千年前の大噴火では膨大な量 の火砕流が九州南部一円を埋めてシラス台地を形成し、大量の火山灰が日本中 を覆った。

「サイフォンの原理」の応用2018/04/16 07:16

 「滝野川反射炉」への分水を確認するために「年表」を参照した『ウィキペ ディア』の「千川上水」の「沿革」の項に、こんな記載があった。 「巣鴨に 達した上水の水は、地中に埋められた木樋により」(供給された)、「寛永寺への 給水は、途中で谷田川の流れる谷を越える必要があり、密閉された樋による「サ イフォンの原理」の応用で一度水を谷底まで落とし、掛樋で谷田川を渡し、寛 永寺のある対岸の台地上へポンプなしで上げることができたといわれる。」 本 郷台地と上野台地の間に谷田川(藍染川)が流れていた。 この付近の地形や 坂道が多いことは、慶應志木会・歩こう会の「田端から本郷、湯島までを歩く」 で体験し、「田端から上野・本郷両台地の谷間を歩く」<小人閑居日記  2016.10.12.>に書いていた。

 上水(水道)の供給に、江戸時代の初期から「サイフォンの原理」が応用さ れていたことは、『ブラタモリ』の桑子真帆アナの初期、2015年4月25日放 送の「#3 金沢」でやっていた。 金沢城も焼ける大火のあった翌年の寛永9 (1632)年、金沢城から11キロ先の犀川上流で取水して台地の縁を通る「辰 巳用水」を完成させる。 兼六園(竹沢御殿)と、金沢城の間には、堀がある。  兼六園から一旦下がって、また城の二の丸へ上げるのに、空気圧「逆サイフォ ンの原理」を使ったと実験をし、兼六園の徽軫(コトジ)灯籠のそばに石を刳 り貫いた石管の痕跡のあるのを、見に行っていた。 防火のために引かれた「辰 巳用水」は、田畑を広げ、城下町の暮しを潤し、その後も、金沢の繁栄を支え 続けたという。

 今でも、兼六園の噴水が「逆サイフォンの原理」で噴き上がっている話が、 「葬儀屋であり、母であり、自由人ですが何か。」という方のブログにあった。  文久元(1861)年に出来た「現存する日本最古の噴水」であるが、「逆サイフ ォンの原理」は飛鳥時代(7世紀)から「伏越(ふせごし)の理」として知ら れており、『続日本書紀』の持統天皇の条に飛鳥寺の西にこの原理の噴水がつく られたとあるそうだ。 このブログ、「サイフォンの原理」や「逆サイフォンの 原理」「金沢城でのその応用の図」などがあって、わかりやすい。

https://norikodiary.com/kenrokuen-hunsui-shikumi/

 『ブラタモリ』が近江友里恵アナになって3回目の2016年5月14日放送、 「#38横浜」「横浜の秘密は“ハマ”にあり!?」でも、横浜の近代水道に「サ イフォンの原理」が応用されたことをやっていた。 当時書いた、「横浜の水、 日本初の近代水道」<小人閑居日記 2016.8.25.>から、引いておく。

 開港当初、“ハマ”横浜村500人と吉田新田の田圃だった横浜は、明治15 (1882)年には人口が7万7千人にも増加した。 深刻な水不足に陥ったのだ。  そこで『ブラタモリ』一行は、尻こすり坂という急坂へ行く。 野毛山と藤棚 方面を結ぶ西区西戸部町1丁目付近。 地図に水道道とある。 明治20(1887) 年、相模川の取水口から野毛山の配水池までの、44キロのアップダウンを、逆 サイフォンの原理の自然の力で、水を引いてきた日本初の近代水道だ。 129 年後の現在も、横浜中心部の約10万世帯に水を供給しているという。

 明治20年、近代水道というので、私がすぐに思い出したのは、今まで、し ばしばこの日記でも書いてきたW・K・バルトンのことだ。 ただ、バルトン の来日は、まさにその明治20年なのである。 横浜市水道局のホームページ を見ると、日本初の近代水道である横浜の水道の顧問は、英国人技師H・S・ パーマーだった。 海を埋め立てて拡張した横浜は、井戸を掘っても塩分を含 んで良質の水は得られず、飲み水に適さなかった。 明治10(1877)年、12 年、15年、19年にはコレラの大流行もあった。 神奈川県知事は、H・S・パ ーマーを顧問として、相模川の上流に水源を求め、明治18(1885)年近代水 道の建設に着手し、明治20(1887)年9月に完成(三井取水所、野毛山浄水 場)、10月17日に給水が開始された。 横浜が発祥の地となった近代水道とは、 川などから取り入れた水をろ過して、鉄管などを用いて有圧で給水し、いつで も使うことのできる水道をいう。

 昭和60(1985)年厚生省選定の「近代水道百選」に横浜市の水道施設が4 つ選ばれている。 相模原市緑区青山の「旧三井用水取入口」、「旧青山取入口 と沈でん池」「城山ずい道」「水道創設記念噴水塔」だ。 「水道創設記念噴水 塔」は、日本近代建築の父と呼ばれ、鹿鳴館や山手聖公会などを設計したジョ サイア・コンドルにより選定され、英国のアンドリュー・ハンディサイド社で 製造された。 鋳鉄製で高さ約4・4メートル、重さ約1・3トン、イルカ、ラ イオン、葉アザミなどの模様が施されている。 現在は横浜水道記念館(保土 ヶ谷区川島町)に保存されている。 水道創設100周年を記念して、レプリカ が製作され、港の見える丘公園と、創設当時の水源地であった相模原市緑区(も との津久井町)に設置されている。

滝野川反射炉と関口製造所2018/04/15 07:15

 「滝野川反射炉」で検索をしたら、『ウィキペディア』の「関口製造所」が出 て来た。 「関口」については、書いたばかりだ。 内容を読むと、まったく 知らなかったことばかりで、実に興味深い。 「関口製造所」は、江戸幕府が 幕末に設置した兵器製造工場だという。

 幕府は、黒船来航で、急ぎ江戸湾防備の対策に取り組み、嘉永6(1853)年 8月下旬から品川台場の建設を始めた。 そこに設置する大砲を製造するため、 湯島(現在の東京医科歯科大学所在地)に幕府直営の「湯島馬場大筒鋳立場」 が設けられた。 安政2(1855)年の組織改革によって小銃製造も行われ「湯 島大小砲鋳立場」と改称した。 江川太郎左衛門英龍の指導で鉄砲鍛冶が大砲 の鋳造を行っていたが、従来からの製法による青銅砲であったため品質が低く、 そのため欧州の先進技術を導入した新工場が計画された。

 それが「関口製造所」である。 文久2(1862)年2月、関口水道町で新工 場の建設が開始され、12月に小栗忠順が銃砲製造の責任者に任ぜられると、製 造所頭取には武田斐三郎が任命され、同時に友平栄などを製造技術者として登 用した。 この場所が選ばれたのは、砲身に咆腔を錐であける錐鑚機の動力と して水車を用いるため、水利の便がよかったからである。(『ブラタモリ』#99 「薩摩の奇跡」の尚古集成館の立地で、同じことを言っていた。) 咆腔に螺旋 状の溝を切る旋条機などの機械類はオランダ、フランスから輸入された。 文 久3(1863)年に操業を開始し、文久元(1864)年には小栗により幕府大砲製 造事業の合理化が図られ、「湯島大小砲鋳立場」を廃止して「関口製造所」に統 合された。

 「関口製造所」で製造された大砲は青銅製であったが、当時の欧州では鉄製 大砲の時代を迎えていた。 そのため、元治元(1864)年、関口に反射炉を建 設することが計画されたが、低湿地のため反射炉の建設には不適だった。 他 に適地を求めて滝野川村(現在の酒類総合研究所東京事務所所在地)に建設を 決定し、武田斐三郎が責任者となり工事が進められた。 耐火煉瓦は伊豆梨本 から運び、器材は韮山反射炉で使用していたものを移転させ、慶応2(1866) 年には完成した。 これが「滝野川反射炉」である。

 明治元(1868)年、新政府は「関口製造所」・「滝野川反射炉」を接収し、軍 務官の管轄下に置き、兵器の製造修理を行った。 明治3(1870)年、兵部省 に造兵司が新設されると、その管轄下となり、翌明治4(1871)年、造兵司は 「関口製造所」・「滝野川反射炉」の設備を元に、近代兵器生産の拠点工場とし て東京工場を小石川の旧水戸藩邸跡(元後楽園遊園地)に建設し、火工所(小 銃実包の製造)が操業、翌年には銃工所(小銃改造・修理)、大砲修理所の作業 が開始された。 これが東京砲兵工廠の始まりとなった。

「海老床地図」で六義園からの流路を確認2018/04/14 07:07

 川口政利さんは、12日に書いた「B説・江岸寺、圓通寺門前を通り、東洋大 学を経て、鶏声ヶ窪に抜け、後楽園で小石川と合流していた」を裏付けるため に、「海老床地図」の圓通寺門前の下水の註に注目する。 「コノ下水ハ柳沢甲 斐ノ守下邸ノ池カラ出テ来ル物デ末は鶏声ヶ窪ノ虎ヶ橋へ落チルノデ夏大雨が 降ルト此側ノ寺ノ墓場ハドコモ出水スルナリ」。 圓通寺の上流にある江岸寺の 山門前には、そこに川が流れていたことを示す橋の跡がある。 圓通寺内とそ の先の住宅にある流路は、後で用意周到川口さん持参の風呂椅子に上がって、 参加者が確認したのだった。 「鶏声ヶ窪」とはどこか。 『ぶんきょうの坂 道』の「曙坂」(誠之小学校脇から指ヶ谷方面へと下る階段)の説明に、東洋大 学の北西に曙町という旧町名の町があったが、明治2(1869)年町ができたと き、その南の方に里俗に鶏声ヶ窪という所があり、「鶏声暁にときをつげる」と いう言葉から、あけぼの(暁とおなじ)をとり町名とし、とあるそうだ。 白 山下から指ヶ谷方面に掛けての白山通りは窪地で、その辺りを「鶏声ヶ窪」と 呼んでいたらしい。 「虎ヶ橋」は、この流路が中山道と交差する地点に架け られた橋だった。 本郷通りを本郷三丁目から東大赤門前を北に進んで、東大 農学部前の三叉路が本郷追分、まっすぐ行くのが日光御成街道で、左に大きく 曲がるのが中山道である。

 この流路は、後楽園で小石川(礫川)と合流するという話だった。 礫川は、 「こいしかわ」とも「れきせん」とも読める。 「礫川(れきせん)公園」と いうのをよく聞く、「文京区 礫川(れきせん)地域活動センター」のホームペ ージに、「礫川(れきせん)地区の地形は、小石川台地の東端と千川(小石川)、 江戸川(現在の神田川)がつくった低地から成り立っています。」「礫川(れき せん)の名称の由来は、昔、千川、江戸川及び周囲の高台から流れ出た細流が 現在の後楽園付近で合流していたことによります。これらの川は砂や小石が多 いことから、この付近一帯を小石川村と呼ぶようになりました。礫川の礫とは、 小石(礫/れき・つぶて)が多い川「小石川」に由来しています。」とあった。

 川口さんの話で、もう一つ興味を持ったのは、徳川幕府が幕末、滝野川に反 射炉を建設し、「千川上水」が使われていたことだ。 『ウィキペディア』「千 川上水」の年表に以下の記述があった。 「慶応元(1865)年9月中旬、滝野 川反射炉建設につき滝野川村裏(元大蔵省醸造試験場。現在の北区滝野川2-6) へ、約2ヶ月半を要して、千川を堀割る(工業用水が必要になる)。 明治3 (1870)年滝野川反射炉跡地に紡績工場が建てられ、千川用水を撚糸器の水車 に利用する。」 なお、『西郷どん』にも出て来た、薩摩の島津斉彬の尚古集成 館の反射炉が完成したのは安政4(1857)年、江川太郎左衛門英龍の韮山反射 炉を英龍没後2年、子の英敏が佐賀藩の技術者の援助で完成させたのも安政4 (1857)年であった。