『学問のすゝめ』のすゝめ・「人間交際」〔昔、書いた福沢129〕2019/10/16 07:17

       『学問のすゝめ』のすゝめ<小人閑居日記 2002.2.3.>

 2月3日は、福沢諭吉の命日。 「21世紀、あらためて福澤諭吉を読む」 をキャッチコピーに、『福澤諭吉著作集』(慶應義塾大学出版会)全12巻の刊 行が始まっている。 第1回配本は、1月15日発行の第3巻『学問のすゝめ』 (小室正紀、西川俊作編)。 福沢の著作で最も名高い『学問のすゝめ』だが、 いったいどれだけの人が、読んだことがあるだろうか。 この著作集、新時代 を生きる指針として、福沢の代表的著作を収録し、読みやすい表記、わかりや すい「語注」「解説」による新編集で、全巻予約の特典として特製CD-ROM 「福澤諭吉資料館」がつくという。

 西川俊作さんの解説によれば、『学問のすゝめ』全編をパソコンで検索したと ころ、「実学」は、わずかに3回しかヒットせず、「社会」は、十七編(明治9 年11月出版)に1回出て来るだけだという。 ちなみに、福沢は当初、 “society”の訳語に主に「人間交際」(じんかん、または、にんげんこうさい) を使っていた。(ほかに、「交際」「交(まじわり)」「国」「世人」などというの もある) 「社会」は、福地源一郎の初訳といわれる。

            「人間交際」<小人閑居日記 2002.2.6.>

“society”の訳語に、「社会」でなく、もし福沢諭吉の「人間交際」(じんか ん、または、にんげんこうさい)が定着していたら、どうなっていただろうか。  社会科、社会学は、人間交際科、人間交際学、何となく勉強してみたくなる科 目である。 社会党は、人間交際党だから、おそらく何度も政権を取っていた だろう。 社会主義は、人間交際主義で、やさしい感じになる。 人間交際保 障というのも、相互扶助の精神が出る。 グレース・ケリーは『上流人間交際』 だし、ラグビーは「人間交際人ラグビー」、学生でも軽く勝てそうではないか。  新聞の三面が、人間交際面というのもいい。

「始造」〔昔、書いた福沢125〕2019/10/13 08:17

         「始造」<小人閑居日記 2001.12.3.>

久米宏の「ニュース・ステーション」は、一千万人もの人が見ているそうだ から、ごらんになった方も多いと思うが、11月22日に大江健三郎さんが出 ていた。 各人が個を見つける(アイデンティティーを確立する、ということ か)ための三つとして、たしか、

1.さと(悟)る 2.始造する 3.capability を挙げていた。

このうち「始造」は福沢諭吉の作った言葉だという話だった。 しかし、こ の「始造」、『広辞苑』には出ていない。

 「始造」が、福沢の著作のどこに出てくるかと、調べてみると(積んどくの 参考書だけは沢山ある)、『文明論之概略』(明治8年)の緒言(しょげん)にあ った。  「今の我文明は所謂(いわゆる)火より水に変じ、無より有に移らんとする ものにて、卒突(そつとつ)の変化、啻(ただ)に之を改進と云ふ可らず、或 は始造と称するも亦不可なきが如し。」

 維新後の日本が、文明へと進もうとすることは、火から水に変り、無から有 に移ろうとするような急激な変化であり、これは「改進」というよりも、始め から造り出す「始造」と言うべきような大難題である、ということだろうか。  西欧列強による植民地化の危険もあった当時の日本が、独立を守るためには急 いで文明へと進まなければならないというのが、福沢諭吉の認識であった。

『福翁自伝』の表と裏―松沢弘陽さんの読みなおし(2)〔昔、書いた福沢122-2〕2019/10/06 10:06

 演説館の講演に移ろう。 松沢弘陽さんは、1960年代、30歳代の初めに内 村鑑三研究を手がけていて、福沢の著作に出合った。 政治思想史を専攻する 者にとって、福沢は避けて通れない。 実に面白かった。 当時、内村鑑三と 福沢諭吉を読めば、近代日本はたいてい解ると、公言していた。 今日は福沢 を「福沢先生」と呼ぶ慶應義塾の演説館での講演だが、その意味で、私にとっ ても「福沢先生」であると言う。 たとえば、「政治の診察医にして開業医に非 ず」(『福翁自伝』の見出し)という福沢は、現代社会、日本でますます意味を 持っている。 一方、『福翁自伝』には、自分の信条に照らして、無条件に受け 入れられない部分もあった。 たとえば、奥平壱岐を評した部分で、「大家の我 儘なお坊さんで智恵がない度量がない。その時に旨く私を籠絡して生捕ってし まえば譜代の家来同様に使えるのに…」の、「籠絡」。 これは福沢の行為のか なり多くを理解するキーワードではないか、と。 私が理解できなかったこの 「籠絡」については、『福沢諭吉集』に脚注があり、福沢を籠絡できない奥平壱 岐と「門閥制度の下で弱い立場におかれているがゆえに壱岐をことばと態度の 演出によって手玉にとる福沢との対照、またそのような関係についての福沢の 自己意識が生き生きと描かれる」とあった。

つぎに松沢さんは福沢のテキストをどう読むかを語った。 福沢のそれは厚 みを持っていて、重層的である。 表面の明るさの下に、別のメッセージが込 められている。 注解は難航したが、松崎欣一氏・竹田行之氏の示唆に、新し い視点があって、何とか乗り越えることができたという。 その視点は、(1) 福沢晩年の危機意識、失望、挫折感。日清戦争の勝利に酔った以後、新たな危 機を感じ、悲哀の感情が生まれた。 (2)「気品の泉源、智徳の模範」「無限 の苦痛あり」「恰も遺言の如くにして之を諸君に嘱託す」(明治29年11月1日、 慶應義塾懐旧会での演説)。 没後の世代に対しても、慶應義塾や日本の未来を 託そうとした。 そのために『福翁自伝』を書いたのではないか。 結びは「気 品」というキーワード。

松沢さんが、松崎・竹田両氏の示唆が有用だったとしたのは、(一)福沢の「心 の養生法」、(二)緒方塾物語である。

 (一)福沢の「心の養生法」「事を為すに極端を想像す」―「独立」の哲学。  『福翁自伝』「老余の半生」は、よく言われるような満足し切った成功物語、ハ ッピーエンドではない。 人間にとって「独立」とは何かの総括だ。 福沢は たびたび挫折を経験し、一、 企ての始めにおいて挫折を覚悟。 「浮世の戯れ」 「浮世の事を軽く視る」…現在の社会の活動を相対化。 「安心決定」…「独 立」について考えて来た福沢の結論、“宗教”である。 二、究極の挫折・挫折 の原型としての死。 死をそう考えて、そのほかのさまざまな挫折を受け止め る。 「暗殺の心配」は福沢の生涯を通して、生きた体験だった。 同世代が 死んでいき、自分もまもなく死ぬだろう。

(二)緒方塾物語。 『福翁自伝』で一番面白い、旧制の寮生活を思わせる といわれる「大阪修業」「緒方の塾風」を読みなおすと、“緒方塾物語”に「老 先生」福沢の慶應義塾への思いを読み取る。 面白いのは表のメッセージで、 裏には慶應義塾の現状、勉強をせず贅沢な塾生を憂うるメッセージがある。  “緒方塾物語”の結びは「目的なしの勉強」だった。

 松沢弘陽さんは最後に、彼方を行く晩年の福沢のイメージと、ご自分の現在 や死生観とを重ねて考えた。 福沢諭吉という人物は、学問的探求では収まり きれないところがある。 この社会に生きて、死んでゆく人間にとって、汲ん でも尽きないものがある。 現代社会に生きる人間として、同じ平面上で、福 沢を語る機会があっても、よいのではないか。 昨年3月11日、その月に81 歳になった松沢さんは、東日本大震災を三鷹で経験して、直下型大地震、立川 断層を思い、死と生について考えたという。

 成功せる大ブルジョア・市民、大知識人の福沢は、強靭な知性と意志の持主。  その練り上げた哲学、「浮世の戯れ」「浮世を軽く視る」を、松沢弘陽さんはご 自分の「安心決定」にはならないという。 福沢は自分と異なる道を、はるか 先を行く。 道を異にするにもかかわらず、偉大な先達である、と。

 『福沢諭吉集』解説の末尾に戻る。 福沢の、死を覚悟してなお生のある限 り進んでやまない生のあり方を導いた動因は何だったろうか。 福沢には後世 への期待があった。 福沢は『福翁自伝』の物語によって、一身の生をこえて 「独立の手本を示」し続けようとしたのではないか。 存命中に自ら編み刊行 した『福沢全集』全五巻、それに先立つ『福沢全集緒言』と『福翁自伝』は、 福沢が「老余の半生」の終わりに力を振り絞った白鳥の歌三部作といえよう。  その中でも後世へのメッセージの音色が最も濃いのが『福翁自伝』であった、 と松沢さんは言う。

 松沢さんより十歳年下の私は、この本の脚注と補注を手掛かりに、『福翁自伝』 を読みなおすことから、つぎの十年を始めねばなるまい。

中津・小倉・下関・萩の旅(3)〔昔、書いた福沢120-3]2019/10/03 07:26

          萩で吉田松陰の史蹟を巡る

 最終日の9日(月)、降っていた雨も、萩に入って松陰神社に着いた頃には ほぼ上り、やがて晴れてきた。 萩への途中、画家・香月泰男さんの愛したい わゆる「私の地球」、絵やテレビ番組で見慣れた山陰三隅の風景が車窓を流れた。 萩で吉田松陰の史蹟を案内してくれたボランティア・ガイドの弘長久美子さ ん、吉田松陰の人と業績を伝えたいという熱意にあふれ、その「至誠」は真っ 直ぐに聞く者の心に通じたのだった。 松陰神社と、その中の松下村塾の建物 を見た後、松陰の誕生地と墓のある、城下町全体と日本海を見下ろす高台(田 床山麓)へ行った。 もうすぐ日本海という松本川の河口近く、雁嶋(がんじ ま)別荘で昼食。 食後、服部禮次郎理事長は、天保元年の吉田松陰と天保5 年の福沢諭吉の生れ年の4年の違いが、両者の運命と日本近代化に対する役割 の明暗を分けたと、今回の中津から萩への旅行を、短いスピーチで見事に総括 して下さった。

         萩の夏みかんと福沢のマルマレット

萩城の城下町周辺を自由散策。 武家屋敷に夏みかんが生っている。 夏み かんは萩の名物・特産品で、維新後、生活に困った武士の庭に植えさせたもの が発端だそうだ。 三本植えると子弟の教育費になるということで…。 それ で山口県の県花は夏みかん、県道や国道の県管轄部分のガードレールは、白で なく、オレンジ色に近い黄色で塗られている。

昼食後の服部さんの話にも出てきたが、福沢は夏みかんでマーマレードを作 っていた。 明治26(1893)年7月2日付、長州阿武郡萩下五間町五十三番 屋敷、松岡勇記宛書簡。 松岡勇記は『福翁自伝』で真っ裸になって物干に涼 む女中をどかしたという適塾の同窓生で、茨城県病院長も務めた医者。 松岡 が送ってくれた夏みかんの礼を述べ、マーマレードの作り方を教えている。

「…夏みかん到来、子供打揃ひ喜び候て毎日\/いたゞき居候。又かの皮は裡 面の綿のやうなる処を去り、表面の方を細に刻み、能くうでこぼして大抵苦味 を除き、一夜水にひやして、更に砂糖を入れて能く\/煮詰めし後ち、所謂マ ルマレットと為り、之をバンなどに付けて用ひ、誠に結構なり。マルマレット とはジャムの一種、西洋にてはヲレンジの皮にて製するものにして、舶来屋に て買へば〔此処に直径一寸七分高さ二寸五分ぐらゐの円筒缶の略図が描いてあ る…『全集』の注〕此位の鑵にて二十五銭位の小売なり。馬鹿に高きものに御 座候。其価は兎も角も、試に御製し被成度、宅にては昨日作りて甚だ評判宜し。 但し砂糖は思切て沢山に用、凡そ皮のうでたるものと当〔等〕分位に致し、或 は水飴を少し混ずるも可なり。随分面白き調理に御座候。」

福沢の中津から始まり、福沢とは無関係かと思われた萩で終ったこの旅に、 福沢のマルマレットという素敵な落ちがついた。

中津・小倉・下関・萩の旅(1)〔昔、書いた福沢120-1〕2019/10/01 07:09

 『福澤手帖』第144号(2010(平成22)年3月)の「「中津・小倉・下関・ 萩の旅 第44回福澤史蹟見学会」

長年福沢をかじりながら、恥しいことに中津に行ったことがなかった。 福 澤諭吉協会の第44回福澤史蹟見学会、二泊三日で中津・小倉・下関・秋芳洞・ 長門湯本・萩を巡ってきた。 11月7日(土)8時羽田発の日本航空で大分空 港10時着。 快晴、無風、大分空港は国東半島の海辺にあり、中津方面へ行 く間、国東半島に石仏やお寺の多い話を聞く。 宇佐、中津周辺は肥沃そうな 平野が広がり、豊かな土地柄だという印象を持った。

   小春日や九重連山ぽこりぽこり

八面山の金色温泉こがね山荘で、新貝正勝中津市長や中津三田会の皆様と昼 食、鱧しゃぶ、鱈白子天麩羅など、豊前海の幸、山の幸。 青の洞門、耶馬溪 へ。 菊池寛の「恩讐の彼方に」は、中学の国語の教科書で読んだ。 僧・禅 海が競秀峰の難所に三十年の歳月をかけて、鑿と槌だけでトンネルを掘り進め た。 福沢は明治7年11月17日には日田-耶馬溪-中津を結ぶ「豊前豊後道 普請の説」を発表し、明治27年3月帰郷の時以来、競秀峰の風景を保全する ため、三年がかりで一帯の土地を買収し、ナショナル・トラスト運動の先駆け ともいわれている。 羅漢寺門前に、つい3日前の4日に建てられた「福澤諭 吉羅漢寺参詣記念之碑」も見てきた。

              念願の中津を歩く

中津に着く。 寺町を散策、石畳できれいに整備してある。 福沢家の菩提 寺、明蓮寺は古い木造の大きな寺だった。 曾祖母の墓、福沢家とほとんど一 体ともいう親戚飯田家の墓があった。 明蓮寺とその末寺の光善寺が不仲にな っているのを、福沢が直接本山に苦情を言った大谷光尊宛書簡がある(『福澤諭 吉書簡集』第四巻992番)。 偶然その書簡の発見を仲介したことを思い出す。 黒田如水孝高の謀略で知られる合元寺の赤壁はどぎつい色だった。 大法寺 (日蓮宗)では、福沢の長姉、小田部礼の墓を見た。

   小春日の中津寺町歩く幸

 いよいよ福沢旧居に到着。 以前福澤協会の旅行で知り合った相良照博さん が待っていて下さった。 福澤記念館で毎月開かれる「福沢諭吉の本を読む会」 などの講師をなさっている。 福沢と中津についてしばし歓談、最後は握手を して別れて来た。 福澤記念館の展示の中に、小幡篤次郎が小旗の号で詠んだ 俳句があった。  <映ふて水に花増す人の影(花時大坂桜宮)><うぐいすの法華経清し彼岸 寺><大仏や三千世界春の雲>。

 昔はなかった(有力な説)のに、昭和39年に“再建”された中津城天守閣 や、中津が海に面した町であることを、はっきりと見られなかったのは、少し 残念だった。