倉本聰『やすらぎの郷』を見始めた理由2017/06/21 06:37

 4月からテレビ朝日が昼、『徹子の部屋』の後で放送している倉本聰脚本のド ラマ『やすらぎの郷(さと)』を見ている。 2月6日にNHKの『プロフェッ ショナル 仕事の流儀』で「いつだって、人間は面白い 脚本家 倉本聰」を見た からだ。 倉本聰さん(82)は富良野で、新しいドラマの執筆をしていた。 そ の姿を、邪魔しないように、窓の外から撮影するのが、条件だ。 早朝から起 きて、一人書斎に籠って、線香を焚いて書く。 すると何かが降りて来て、自 分の力を超えたものが書ける。 何かが降りて来るには、自分がピュアになる ことが条件だという。 ともかく、毎日書く。 感覚を忘れない為もあるが、 何事も続けることが大事だ。 やっぱり一本道、自分自身も進歩の途中、この 世界には完成などない、と言う。

 新ドラマは、テレビに功績のあった者だけが入れる老人ホームの物語だとい う。 石坂浩二や浅丘ルリ子、加賀まりこ、八千草薫、野際陽子、有馬稲子、 ミッキー・カーチスなどが出演するというから、何やら楽屋話めく感じがする。  倉本聰さんは、ドラマの台本を書く時、半年ぐらいかけて、登場人物の緻密な 履歴書をつくるのだと言って、それを見せていた。 父母の出身地、実家付近 の地図、初恋、処女を喪った時、恋愛の経歴などまで、年譜のようなものをつ くる。 (井上ひさしさんと同じやり方だ。)

 テレビに功績のあった者だけが入れる老人ホームという設定は、テレビに尽 した人が大切にされていないことへの怒りがあったようだ。 現在のテレビに 対する不平不満、何か物申すというところもある。  私は「倉本聰 新ドラ マ」で検索し、それがテレビ朝日が4月から放送する昼の帯ドラマだと知った。

倉本聰さんは、かつて大河ドラマ『勝海舟』の脚本執筆の途中でスタッフと もめて降板、北海道へ行き、トラックの運転手でもするつもりだったという。  一時期、北島三郎に頼み込んで付き人になり、ファンに溶け込む姿勢を見て歩 いた。 その後民放で『北の国から』がヒットすることになるが、私はこれは 見ていなかった。 因縁のNHKの『プロフェッショナル 仕事の流儀』に出て、 ドラマの脚本を書く「仕事の流儀」を語り、それがテレビ朝日の番宣になった のだから、「人生は面白い」。

銀行「カードローン」急増の裏に2017/06/20 07:07

 昨日のリスト中の、「拝啓 渋沢栄一様」<小人閑居日記 2007. 3.4.>と世 のため、人のために働く喜び<小人閑居日記 2007. 3.5.>は、十年前の2007 (平成19)年2月15日から3月2日まで朝日新聞夕刊連載の“ニッポン人脈 記”「拝啓 渋沢栄一様」(中島隆記者)を取り上げていた。 その第2回で、 もう二十年前になる1997(平成9)年、第一勧銀の総会屋事件の時、広報部次 長だったという作家江上剛さんが、渋沢栄一が唱えた「人々のために」という 銀行の初心が薄れてきてしまったと、春から銀行員になる若者に言いたい「銀 行は金もうけの事業ではなく、社会のインフラ。世のため、人のために働く喜 びを知ってください」と語っていた。

 最近の銀行は、「今日借りられる」、「口座がなくても」、「テレビ窓口で審査、 カード発行」、「勤務先に電話しない、自宅に郵送なし、WEB完結」などの宣 伝文句で、盛んに「カードローン」を宣伝している。 銀行が無担保で金を貸 す「カードローン」が急増しており、この4年で2兆円増の5兆4千億円にま で増え、消費者金融を上回ったという。 かつて個人向けの無担保ローンでは、 消費者金融による多重債務が社会問題になった。 利息の高いお金を借り、そ れを返すためにまた借金を重ねて、生活が行き詰まる人が続出した。 対策と して2006(平成18)年に消費者金融などに適用される貸金業法が改正され、 年20%超の「グレーゾーン」金利が撤廃され、合計で年収の3分の1を超える 貸し出しを原則禁止する「総量規制」も導入された。 その後、消費者金融の 残高は急減していた。

 銀行の「カードローン」は、なぜ簡単にお金を貸してくれるのか。 私はま ったく知らなかったのだが、消費者金融会社などの貸金業者の保証がついてい るのだそうだ。 多くの銀行の「カードローン」は、「保証人は不要」としつつ も、「保証会社の保証を受けること」を利用条件としている。 メガバンクの「カ ードローン」では、三菱東京UFJ銀行がアコム、三井住友銀行がSMBCコン シューマーファイナンス(プロミス)、みずほ銀行がオリエントコーポレーショ ンと、グループ内に保証会社を抱える。 地方銀行も多くは消費者金融などの 保証がつく。

 銀行は保証料を消費者金融に払い、お金を借りた人が返済に行き詰まると、 消費者金融が返済を肩代わりして、ノウハウを生かして取り立てをすることに なる。 貸金業法の「総量規制」で貸し出しが激減していた消費者金融は、貸 金業法でなく銀行法が適用され「総量規制」の対象外なので、年収の3分の1 を超える貸し出しを禁止する規制がない銀行の「カードローン」の「保証人」 となり、実質的に貸し出しを増やす形になっている。

銀行は、日銀の低金利政策により、従来の貸し出しや運用では、利ざやをと りにくくなっている。 住宅ローンや企業向けの融資は金利引き下げ競争が続 く。 その中で高金利の「カードローン」は、貴重な収益源になっているのだ。

 常時流れているテレビ・コマーシャルの甘い誘惑に乗って、安易に「カード ローン」を借りて、後戻りできなくなる人は多いのではないか。 返済不能に なれば、銀行は消費者金融などの保証会社に肩代わりさせればいい。 焦げ付 きはないのだ。 銀行「カードローン」の急増が、再び多重債務問題を起こすの は目に見えている。

 銀行は本来、なりふり構わず儲ければいいという存在ではないだろう。 銀 行は「カードローン」で、明らかに「人々のために」ならないことをしている のだ。 銀行の初心は「人々のために」あると唱えた渋沢栄一は泣いているに 違いない。

渋沢栄一について書いたこと一覧2017/06/19 07:12

 そのほかにも「小人閑居日記」には、渋沢栄一について、いろいろ書いてい
る。 興味のある方には読んでいただきたいので、関連のものも含めて、ちょ
っと、まとめておく。 「渋沢栄一と福沢諭吉」は、同じ題で三回も書いてい
た。
渋沢栄一と福沢諭吉〔昔、書いた福沢14〕<小人閑居日記 2013.11.29.>
(「時代を動かした四つの瞳」等々力短信 第294号 1983(昭和58)年8月5日)
http://kbaba.asablo.jp/blog/2013/11/29/
福沢諭吉の「西航手帳」〔昔、書いた福沢15〕<小人閑居日記 2013.11.30.>
(等々力短信 第295号 1983(昭和58)年8月15日)
渋沢栄一が欧州で驚いた三つ〔昔、書いた福沢16〕<小人閑居日記 2013.12.1.
>(「『新日本事情』のすゝめ」等々力短信 第296号 1983(昭和58)年8月25日)
王子飛鳥山公園の渋沢史料館<小人閑居日記 2002.5.6.>
「渋沢栄一と福沢諭吉」<小人閑居日記 2002.5.7.>(西川俊作先生講演)
日本史における「会社」<小人閑居日記 2006.12.18.>
「会社」という言葉<小人閑居日記 2006.12.19.>
渋沢栄一と「会社」の普及<小人閑居日記 2006.12.20.>
「拝啓 渋沢栄一様」<小人閑居日記 2007. 3.4.>
世のため、人のために働く喜び<小人閑居日記 2007. 3.5.>
「拝啓 福沢諭吉様」ならば<小人閑居日記 2007. 3.6.>
「商」「町人」諭吉<小人閑居日記 2007. 3.7.>
「壬申 三十七歳ト十一ヶ月」<小人閑居日記 2007. 3.8.>
渋沢栄一と福沢諭吉<小人閑居日記 2012. 6. 14.>(二人の関わりを訊かれて)
福沢諭吉の渋沢栄一宛書簡<小人閑居日記 2012. 6. 16.>
福沢書簡に登場する渋沢栄一<小人閑居日記 2012. 6. 17.>

富岡製糸場と渋沢栄一、尾高惇忠2017/06/17 07:16

 富岡製糸場へ行く途中、バスは深谷を通った。 渋沢栄一の出身地である。  富岡製糸場でのガイドでは、渋沢栄一やその従兄で初代場長を務めた尾高惇忠 (あつただ)の話が出た。 前に引いた『写真集 富岡製糸場』の今井幹夫富岡 市立美術博物館館長の論考では、「器械製糸場設立の目的」のところで、明治6 年の中ごろに尾高惇忠自身が書いたと思われる公の記録『富岡製糸場記 全』が 引用されている。 明治新政府は明治3(1870)年2月、生糸の輸出に大量の 粗悪品が出たことや旧来の製糸法を改善するために、指導者を海外に求め、一 大製糸場を設立して模範を示すことが肝要だという結論に達した。 設立の命 を受けたのが、大蔵少輔伊藤博文と租税正(そぜいのかみ)渋沢栄一だった。  伊藤、渋沢らは、政府顧問のフランス人ジブスケや生糸貿易商の紹介で、ブリ ュナを雇い入れることにした。 ブリュナや玉乃正履らは、製糸場の適地を求 めて武蔵・上野・信濃を巡視し、最適地に富岡を選定した。

 『写真集 富岡製糸場』巻末の座談会に、岩本謙三さんと共に出席している森 まゆみさんが、なぜ富岡になったかという事情を語っている。 地元の深谷に 近いということで、渋沢栄一がかなりかかわっていたらしい。 深谷の辺りも 養蚕が盛んで、本人の家も蚕糸関連の仕事をしていた。 松浦利隆群馬県世界 遺産推進室長も、渋沢栄一が一橋家に仕えていたときに、一橋家の領地がこの 近くにあったので、もともと富岡を知っており、もし近在の農家だけで繭を調 達できなかったら、元の領地から持ってこられるということもあったらしい、 と言っている。

 森まゆみさんは、彰義隊のことを調べたことがあるが、尾高惇忠はその一員 で知恵袋だった。 従弟の渋沢栄一も幕臣だから彰義隊にかかわったはずなの だが、ちょうど徳川慶喜の弟の昭武に随行して渡欧していて、その間にご一新 になってしまった。 西洋の様子を実見し、近代化を進めて銀行や株式会社な どの新しいシステムをつくろうとした一つである、富岡製糸場に尾高惇忠を登 用した。 そういう意味では、明治維新の負け組の人たちがかかわって、薩長 の人たちとは違う形で明治をつくっていく、富岡製糸場はその象徴的な建物だ ということが言えると思う、そこが個人的に富岡に惹かれるところだと、森ま ゆみさんは言っている。

 松浦利隆さんによれば、製糸業の経済史を研究した石井寛治東大名誉教授が、 モデル工場ということについて、日本と中国で差があったことを指摘している。  日本の場合、富岡製糸場も新町屑糸紡績所も、民間に教えるから見に来いとい う、どんどん民間が真似をして、民間の資力が足りないから国の工場を払い下 げる。 中国では、模範工場をつくると民間が真似するのを禁止して、国家で しかやらなかった。 アジアの産業革命には、そういう二つのやり方があった が、わりと最初から自由経済主義的だった日本は成功した。

 全国から糸繰りの仕方などの技術を習いに来た女性は「伝習工女」と呼ばれ ていたが、工女募集の通達を出しても、最初の内はなかなか人が集まらなかっ た。 人々がフランス人の飲むワインを血と思い込み、「富岡製糸場に入ると外 国人に生き血をとられる」というデマが流れたためだった。 尾高惇忠は、率 先垂範で自分の娘「勇(ゆう)」(14歳)を工女第一号として入場させ、その後、 井上馨の姪二人とか、いろいろな華族や士族の人たちが娘や姪を、何人も連れ て駆けつけた。 女性がかなりプライドを持って工女として働いた。 婦女教 育を最初からやっていて、国家がつくったところに行くというのは、幕府に行 儀見習いに行くのと同じで、糸をひきながら行儀見習いをするということだっ たようだ。 明治初期の工女は、後年の『ああ野麦峠』の暗いイメージとはだ いぶ違う。

自動繰糸機の導入と日本製糸業の延命2017/06/16 07:11

 『写真集 富岡製糸場』「歴史考/文化考」「昭和(片倉)時代の富岡製糸場の 歴史」(松浦利隆群馬県世界遺産推進室長)に、第二次大戦後の製糸業と富岡製 糸場の話がある。 そこに今回の見学でも、工場の繰糸所で見た自動繰糸機、 トヨタ(自動織機)製ではなく日産自動車製だと聞いた機械が出て来る。

 自動繰糸機は、長い間夢の繰糸機と考えられ、昭和初期の好景気時代に片倉、 グンゼなどで研究が始まっていた。 片倉では昭和15(1940)年に本格的研 究を開始した時点から定繊式(一定の生糸の太さ(繊度)を保つために、巻き 取られる生糸そのものの繊度を監視して行う方法)を採用した。 戦後の昭和 26(1951)年、世界初の実用自動繰糸機K8A型が完成、翌27年には富岡製糸 場に12セット240台が導入された。 自動繰糸機の開発はさらに進み、プリ ンス自動車の定粒式(繭の個数を監視して行う方法)「たま10型自動繰糸機」 などが各地で稼働し始めた。 昭和31(1956)年、現在の自動繰糸機の基本 となっている繊度感知器が国の蚕糸試験場で開発され、自動繰糸機はこの感知 器を使った定繊式のものに統一されていった。 富岡製糸場では、自動機に合 わせた繭の乾燥、貯蔵、さらに煮繭の研究が盛んに行なわれ、屑糸の量を半分 に減らせるまでになった。 この結果、工員一人当たりの製糸量は激増し、戦 前の多条機時代におおむね1日1キログラムであった生産量が14キログラム まで向上したという。

 自動繰糸機は、この後全国各地の製糸工場に普及し、昭和40(1965)年頃 には、ほぼすべての製糸工場で自動化が完了した。 昭和30年代には約5万 人だった製糸関係の工員は、自動機の導入で2万人程度で済む生産性の向上が 達成された。 かつての製糸大国フランスは20世紀初頭に、またイタリアも 戦後復興が本格化する時期には、実質的に製糸業が消滅したけれど、日本の場 合、自動繰糸機の実用化により、経済成長に伴う賃金の上昇をしのぐような高 い生産性が確保できたことが、製糸業が延命できる一つの要因となった。

 富岡製糸場では、昭和34(1959)年までに当初のA型の繊度感知器や給繭 器を改造したK8C型を使用していたが、片倉工業内部の業務見直しで、製糸機 械の生産を中止し、以後日産自動車(当初はプリンス自動車)から購入するこ とになり、富岡製糸場でも昭和36(1961)年にRM型に全面更新し、昭和41 (1966)年にはわれわれが見学で見た「ニッサンHR-2型(一部は3型)」に 更新されたのであった。

 『写真集 富岡製糸場』に、夕映えの木々をバックに「残照――未来への遺構」 という、その後の製糸業にふれた一文がある。  「時は過ぎゆく ありとしあるものはいずれうつろう わが国の製糸業の喘 ぎは国際化とともにもたらされた 昭和の終わりころから海外の安価な生糸に 圧迫され 日本の市場は狭められて製糸場の工業的価値が薄れ やがて製糸場 そのものが姿を消していった 富岡製糸場も時の流れに抗えず昭和六十二年に 操業を停止した  富岡製糸場は開国を経て世界を望む風潮の中で生まれ 日本を世界最大の生 糸輸出国へ押し上げる原動力となり 世界の第一線で活躍を続けたのち 国際 的な市場開放のあおりを受けて操業停止を余儀なくされた 雄々しくも粛々と  哀しくも潔く 富岡製糸場は終始 日本と世界が関わり合いせめぎ合う象徴で あり続けた その誕生のときから日本が辿る国際化への道を 共に歩む運命を 背負わされていたと言うべきであろう」

 これを読んで私は、ごくごくちっぽけな町工場ではあったが、家業のガラス 工場の窯の火を落した頃のあれこれを、鮮明に思い出したのであった。