映画『鎌倉アカデミア 青の時代』2017/05/25 07:06

 そこで、新宿のK’s cinemaで観た映画『鎌倉アカデミア 青の時代』「ある 「自由大学」の記録」である。 大嶋拓監督は、4年半で消え去ることになる 「鎌倉アカデミア」の存続のために三枝博音(ひろと)校長とともに奔走した 演劇科教授・青江舜二郎の長男なのだそうだ。 『カナカナ』『火星のわが家』 (日下武史、鈴木重子、堺雅人)『影たちの祭り』という監督作品、著書『龍の 星霜 異端の劇作家 青江舜二郎』(春風社)があり、慶應義塾大学文学部人間関 係学系卒という。

 映画は、江ノ電の長谷駅に大嶋拓監督手持ちのビデオカメラが到着するとこ ろから始まる。 改札口には、演劇科1期の加藤茂雄(俳優、東宝専属として 黒澤明作品など数多くの映画に出演。後で書く鎌倉アカデミア創立70周年記 念祭実行委員長を務めた。今年91歳。)が待っていて、パッと開ける海岸に案 内する。 兵隊から帰って、地引網漁をやっていたが、昭和21(1946)年5 月、あちらの材木座に屋根が見える光明寺に、大学が出来る、「新しい日本を担 う若者を育成する」というので駆けつけた。 (開校は5月13日で、昨日引 いた「等々力短信」冒頭の「昭和21年4月」は間違い。)

 鎌倉に進駐軍の慰安施設が出来るというのに反対した地元の有志が、文化都 市鎌倉に大学をつくることを計画したのだ。 戦争末期、軍隊に行ったり、勤 労動員で、学ぶことのできなかった若者たちが集まって来た。 教鞭を執った のは、西郷信綱、吉野秀雄、林達夫、中村光夫、高見順、吉田健一、服部之総、 三枝博音、村山知義、三上次男、長田秀雄、千田是也、野田高梧、三浦光雄、 邦正美、藤間勘十郎など、数多くの著名な学者・文化人だった。 「教師と学 生とが相互に鍛え合い、各自の個性を創造する学園」を目指した。 大学の設 立は文部省に認可されず、鎌倉大学校を名乗り、「鎌倉アカデミア」と呼ばれて いる。 当時珍しい男女共学。 当初、産業科、演劇科、文学科があり、後に 映画科が出来た。  吉野秀雄作詞の「学生歌」には、<いくさ やぶれし くにつちの/おきて  ことごと あたらしく/もゆる めばえに さきがけて/ここに われらは  つどひけり>とある。

 映画では、光明寺での鎌倉アカデミア創立60周年、70周年の記念祭(昨年 6月4日開催、私はその日たまたま文化地理「六四の会」で建長寺の「虫塚」 を訪れていたが、この記念祭のことを全く知らなかった)の映像、当時学生だ った20人ほどの証言、現地訪問や再現映像などで、4年半で消え去った「幻の 大学」が描かれる。 そこからは鎌倉アカデミアが、高度成長時代の芸術や文 化をひっぱった多彩な人材、映画・演劇・放送などの分野で活躍した人々を輩 出したことがわかるのだ。 山口瞳、いずみたく、前田武彦、高松英郎、沼田 陽一、廣澤榮などもそうだし、映画で証言する鈴木清順(映画科1期・映画監 督『ツィゴイネルワイゼン』『陽炎座』)、岩内克己(演劇科1期・映画監督『エ レキの若大将』『砂の香り』)、勝田久(演劇科1期・声優、『鉄腕アトム』のお 茶の水博士役、勝田声優学院主宰)、川久保潔(演劇科2期・ラジオ「朝の歳 時記」や洋画の吹き替え)、若林一郎(演劇科2期・劇作家、アニメ『オバケ のQ太郎』児童劇『かぐや姫』)などがいた。 鎌倉アカデミアの演劇サークル 「小熊座」を母体に1952年、影絵専門劇団「かかし座」も創立されている。

「鎌倉アカデミア」という学校2017/05/24 06:35

 22日、新宿のK’s cinema という映画館で『鎌倉アカデミア 青の時代』と いう映画を観て来た(26日まで12時30分から上映)。 昔から新宿のゴール デン街に馴染みのある大学の同級生が、勧めてくれたのだ。 私は山口瞳の愛 読者だったので、「鎌倉アカデミア」については興味があった。 まず、以前 「等々力短信」第718号(『五の日の手紙4』78頁)に書いたものを引いてお く。

    鎌倉アカデミア <等々力短信 第718号 1995.9.15.>

 昭和21年4月、19歳の山口瞳さんは、鎌倉にできた鎌倉アカデミアとい う学校の生徒になった。 はじめ、この学校は鎌倉大学校といっていたが、文 部省の認可がおりなくて、鎌倉大学を名乗ることができなかった。 光明寺の 本堂や庫裡を仕切って教室にしていた。 国文学西郷信綱、文学史林達夫、仏 文学中村光夫、英文学高見順、吉田健一、日本史服部之総、哲学三枝博音(ひ ろと)という、そうそうたる顔ぶれの教授陣であった。 そして「万葉集と短 歌」を担当したのが、44歳の吉野秀雄だった。

 山口瞳さんの『小説・吉野秀雄先生』(文藝春秋)には、鎌倉アカデミアで 出会ったこの巨人に、決定的な影響を受けたことが書かれている。 吉野秀雄 は容貌魁偉の偉丈夫で、誰がみても、一見して、尋常な男ではないと思った。  はげしくて、きびしくて、おそろしい。 同時に、やさしくて、やわらかい のだ。 その前にいると、いつも春の日を浴びているようだった。 無限の抱 擁力を感じたという。 吉野秀雄があまりに魅力的だったので、すぐに授業と は別に短歌会が作られた。 その仲間に、のちに山口夫人となる、18歳、体 重60キロの治子(小説では夏子)さんがいた。

 吉野秀雄は慶應義塾理財科予科に学んだが、肺患のため中退、以後長く療養 生活を送った。 最初の夫人はつは、第二次大戦の激化しはじめた昭和19年 夏、胃病のため4人の子を残して42歳で亡くなる。 『寒蝉集』(昭和22 年)所収の亡妻追慕の連作悲歌は名高い。

 「病む妻の足頚にぎり昼寝する末の子をみれば死なしめがたし」   

  「亡骸(なきがら)にとりつきて叫ぶをさならよ母を死なしめて申訳もなし」

 そして、死の前夜の、生命の極みの、厳粛な事実を詠んだ勇気ある歌。

   「これやこの一期(いちご)のいのち炎立(ほむらだ)ちせよと迫りし吾妹 (わぎも)よ吾妹」

 その年の暮、亡きキリスト教詩人八木重吉の妻だった八木登美子が子供達の 教育のために吉野家に来た。 山口さんが吉野家に出入りするようになった昭 和21年から、吉野と登美子の恋愛と、瞳さんと治子さんの若い恋が併行して 進むことになる。 翌年の再婚後、吉野は登美子を通じて知った八木重吉への 敬愛から、重吉の定本詩集や新発見の詩稿による新詩集を編集刊行した。 今 日重吉の詩が広く知られるになったのは、そのためである。

   「末の子が母よ母よと呼ぶきけばその亡き母の魂(たま)も浮ばむ」 

    「重吉の妻なりしいまのわが妻よためらはずその墓に手を置け」

オマーン大使館で天満敦子のヴァイオリンを聴く2017/05/21 06:48

 まずクイズから始めたい。 (1)いつか来たこの道に、咲いていた花の名 と垂れていた枝は何ですか? (2)城ヶ島の磯に降る雨の色は、何色ですか?  (3)からたちが秋に実って出来るものは? (4)𠮟られて、あの子とこの子 は、何をさせられましたか?

 16日、広尾の駐日オマーン・スルタン国大使館で開かれた天満敦子ヴァイオ リンリサイタルを聴いた。 千代田キワニスクラブ主催のチャリティーコンサ ートである。 家内の友人からこのコンサートの話が来た時、二つ返事で「天 満敦子さんなら行く行く」と言った。 以前、藤原一枝さん主宰のホモ・ルー デンスの会のカザルス・ホールで、天満敦子さんのヴァイオリンを聴く機会が 何度かあって、これはすごいと思った。 音痴にも、本当に良いものは、わか るらしいのだ。

 広尾は、結婚当初住んだ懐かしい町である。 駐日オマーン国大使館への道 の一本上、日本赤十字社医療センターの方へ上がって行く道は、生まれたばか りの息子を乳母車に乗せて、よく散歩した道である。 大使館は立派な建物だ った。 チケットの他に身分証明書をと言われていたが、警備担当者の簡単な 荷物検査もあった。 会場は男子禁制かと思われるほど、女性ばかりだった。  キワニスクラブのキワニスは「皆で集まろう」の意味、79か国に20万人の会 員のいる国際的な社会福祉団体で、千代田キワニスクラブは「子供の貧困」を テーマに活動し、破傷風撲滅のワクチンへの支援もしているという。

 天満敦子さんのヴァイオリン演奏は、期待通りだった。 前半は、バッハ「ア ダージョ」、シューマン「トロイメライ」、マスネ「タイスの瞑想曲」、ドヴォル ザーク「ユーモレスク」、ブロッホ「祈り」、イギリス民謡「グリーンスリーヴ ズ」、フォスター「スワニー河」、そして天満敦子さんの看板であるポルムベス ク「望郷のバラード」。

 天満敦子さんは中間のショート・トークで、1992年にルーマニアで「望郷の バラード」と運命の出会いをしてから、今年で25年、1735年製アントニオ・ ストラディヴァリウスと結婚してから30年、パール婚だと語った。 このス トラディヴァリウスはイタリア人だけれど、日本の曲でも素敵な音を出す、毎 度、発見と熱愛があるので、聴いて欲しい。 入口のチャリティーの箱、寝て いたのを立てておいたので、ご協力を、なるべく紙の方で、と。

 後半は、和田薫「独奏ヴァイオリンのための譚歌より<漆黒・萌黄>」、山田 耕筰・梁田貞/竹内邦光編曲「この道・城ヶ島の雨」、山田耕筰「からたちの花」、 弘田龍太郎「𠮟られて」、菅野よう子「花は咲く」、ホルスト「ジュピター」。

 「望郷のバラード」を始めとする前半の各曲が、心に沁みてきたのはもちろ んだが、天満敦子さんの素晴らしさを実感したのは、後半の日本の曲だった。  日本の曲では、ヴァイオリンの弦にゴムのようなものを挟んだが、チューブと いうらしい、音色を穏やかに変えるのだろうか。 アンコールに贅沢な伴奏で 皆で歌った「故郷」を含め、幼い時に母がよく歌っており、憶えていた曲ばか りだったので、あやうく涙がこぼれそうになった。 弦をはじくピチカートを 織り交ぜた「花は咲く」には、東北の被災地のことが頭に浮かび、感情を揺さ ぶられる。

 クイズの答、(1)あかしあの花・山査子の枝、(2)利休鼠、(3)まろいまろ い金のたまだよ、(4)あの子は、町までお使いに・この子は、坊やをねんねし な。 作詞は「この道」「城ヶ島の雨」「からたちの花」が北原白秋、「𠮟られて」 は清水かつら。

慶應大学は大阪弁の大学か2017/05/10 06:33

 「枇杷の会」深川吟行句会後の小酌で、福沢諭吉は大阪弁だったという話題 が出た。 福沢は大坂で生れ、緒方洪庵の適塾で学んだ。 慶應大学は大阪弁 の大学、新島襄は江戸育ち、大阪でキリスト教の学校をつくろうとしたが、耶 蘇を反対され京都で同志社をつくった、というような話だった。 私は、聞か れたので、福沢は堂島の中津藩蔵屋敷で生れたが、父親が死んで数え3歳で中 津に帰り、一家は大坂風の生活をして中津に馴染めず、孤独な少年時代を過ご したという話をした。 先日、駒込の高林寺の緒方洪庵の墓へ行ったとも言っ たら、洪庵が江戸で死んだこと、幕府の要請で奥医師兼医学所頭取になるため、 江戸へ来たことは、知られていなかった。 洪庵の墓は、大阪市北区同心の竜 海寺にもあり、そこも行ったことがある。

 すると、たまたま、志木高新聞の創刊に当たり、中心になって活躍した一年 先輩の猪尾泰久さんが、<等々力短信>第1094号「大学の独立と自由」を読 んでだろう、4月28日の日本経済新聞夕刊「プロムナード」というコラムの切 り抜きを送ってくれた。 作家・門井慶喜さんの「慶応大学は大阪弁で」だっ た。 29日に居酒屋で出た話題は、これがもとだったのだ。

 門井慶喜さんは、中津では福沢一家の大阪弁の話が通じず、いじめられたか もしれない、青年となり再び大坂へ出て、一種、帰郷のようなよろこびも大き かったのではないかとして、「ざっくり言うと、慶応大学は、大阪弁でつくられ た大学なのだ」と書いている。 さらに、新島襄はアメリカから宣教師になっ て帰国後、はじめは学校を大阪にひらこうとして、「耶蘇は、あかん」と、市民 に拒絶された。 門井さんは、もしかすると、このこころみは、福沢諭吉なら 成功していたのではないか、大阪の人は、大阪弁で「建ててええか」と聞かれ れば、キリスト教の学校であろうとも、「ええよ」と応じたのではないか、彼ら には新島襄のぺらぺらの江戸ことばが気にくわなかった、というより、そもそ も理解できなかったのだ、というのだ。

 私は、猪尾さんへのお礼のメールに、こう書いた。 「「慶応大学は大阪弁で つくられた大学なのだ」というのは、ちょっとどうかと思います。 大阪弁と いうよりも、福沢先生が大坂の適塾で感じ、身につけたのは、大坂という経済 の町の合理性、武士よりも商人が力を持っている自由な雰囲気だったのでしょ う。」  <等々力短信>第1094号「大学の独立と自由」で扱った「私立」の学校と 政府の関係、福沢が国民の「独立心」と「官・政府・国」の関係を若くして悟 り、その後「官尊民卑」を攻撃してやまなかった発端は、適塾時代の大坂での 経験が大きかったと思われるのだ。

井上円了と石黒忠悳、福沢を冷やす氷2017/05/01 07:10

 東洋大学の三浦節夫教授が配ってくれたプリントには「第一章 創立者井上 円了」とあるので、おそらく『東洋大学百年史』のコピーではないかと思う。  「第一節 小伝」「一 履歴書・読書録(明治八年)」がある。 明治8(1875) 年というと、井上円了17歳の時のものである。 明治元(1868)年春より2 年の春まで、10歳からの一年間、石黒忠悳(ただのり)に学んだとある。 三 浦教授によると石黒忠悳は、円了の慈光寺のある浦村の隣村、片貝村に明治維 新により一時帰郷していた。 当時23歳、蘭方医で後に軍医総監になった人 だから、漢籍を教えたが、褒美に洋紙をくれたりしたというから、西洋のこと も語ったのであろう。 円了は歩いて一時間ほどの道を熱心に通い、大雪の日 に戸を叩くのを、石黒夫妻は「円了だろう」と開けると、まさに円了がいたと いう。

 石黒忠悳の名は、福沢諭吉との関連で記憶していた。 明治3(1870)年5 月、福沢は発疹チフスにかかり、連日高熱が続いていた。 ドクター・シモン ズや高木兼寛の師ウィリス、伊東玄伯、石井謙道、島村鼎甫、隈川宗悦、早矢 仕有的という最高の医師団が治療にあたった。 福沢の高熱を冷やすために氷 が必要だったが、当時東京市中には氷を売る店がなかった。 たまたま旧福井 藩士主松平春嶽が製氷器を外国人から買って持っているが、使い方がわからず に放置しているという話を聞き、これを借り出して、福沢の親友の化学者で、 大学東校の教授宇都宮三郎に実験を依頼した。 宇都宮三郎は、いろいろと原 書も調べて、製氷を試みる。

 明治31(1898)年8月28日の『時事新報』は、宇都宮三郎が試運転をして 「何の苦もなく氷塊を造り出でたり」として「是れ実に本邦人造氷の元祖」と たたえているそうだが、実のところは、小さな氷塊がいくつか出来たという程 度だったらしい。 その時、製氷作業を手伝ったのが、石黒忠悳だった。 富 田正文先生の『考証 福沢諭吉』上(岩波書店)には、晩年の石黒忠悳に直接面 接して聞いた談話があり、皆で汗だくになって骨折ったが、結局結氷を見るこ とができず、やや冷たくなった水に手拭いを浸して、これでも氷のたまごだか ら、これで先生の額を冷やしたらどうかというくらいに過ぎなかった、とある。

 石黒忠悳は、弘化2年2月11日(1845年3月18日)父・平野順作良忠が 幕府代官の手代を務めていた奥州(福島県)梁川の陣屋で生れたが、父母が早 く亡くなり、父の姉が嫁いでいた越後国三島郡片貝村(今の新潟県小千谷市) の石黒家の養子になった。 私塾を開き、松代の佐久間象山に会って感銘を受 けた。 江戸へ出て、幕府の医学所を卒業、医学所句読師となる。 幕府が倒 れて医学所が解散し、一時帰郷するが、再び東京に戻り、医学所の後身である 大学東校(東京大学医学部の前身)に勤める。 明治4(1871)年、松本良順 の勧めで兵部省に入り、草創期の軍医となった。 明治23(1890)年、陸軍 軍医総監、陸軍省医務局長。 除隊後、貴族院勅選議員、日本赤十字社社長。  昭和16(1941)年4月26日に96歳で没。 余談だが、その翌日、私が生ま れた。