多磨駅から調布飛行場、野川周辺の公園群を歩く2024/12/08 07:45

野川公園

 12月1日は、三田あるこう会、JR中央線を武蔵境で乗り換えて、西武多摩川線の多磨駅集合。 西武多摩川線は、初めて乗ったが、サイクルトレインと称し、自転車をそのまま持ち込める車両があるのだった。 平日は9時~17時、土休日は終日、一人1台、1号車(武蔵境駅側)のみ。 多磨駅で集合の待ち合わせ中、雪化粧した富士山がよく見え、是政駅方面が単線なのに気付く。 多摩川線の多摩と、多磨駅の多磨の違いはなぜなのか、多磨霊園の墓を磨くからだろうなどと、冗談を言う。 帰宅して、『広辞苑』で「たま【多摩】」を見たら、「(「多磨」「多麻」とも書く)武蔵国南西部の郡名。1878年(明治11)東多摩・西多摩・南多摩・北多摩の4郡に分割。」とあった。 ネットを検索すると、毎日新聞の校閲係の薄奈緒美記者が書いた「毎日ことば」「多摩と多磨 「たま」の謎」が出てきた。 多磨駅の旧称は「多磨墓地前駅」で、2001年に改称されたという。 多磨墓地は現在の多磨霊園、北多摩郡多磨村に造られた。 多磨村は1954年に合併し府中市になったが、府中市多磨町として残っている。 私の冗談も、まんざら当たっていなくもなかった。

 そこで多摩と多磨の二通りの表記があるのは、なぜかの問題である。 多摩の語源は、諸説あるが、多摩川の上流、山梨県の丹波山(たばやま)地方の「たば」という読みが、東京に入ると「たま」になったというのが一般的だそうだ。 音で伝わったので、表記としてはさまざまなものがあり、「万葉集」や「延喜式」などの古い書物には多摩や多磨、多麻といったものもみられる。 いつの頃からか、多摩の文字が多く使われるようになったようだ、と薄奈緒美記者は書いている。

 三田あるこう会、多磨駅を出発して、すぐそばの東京外国語大学TUFSキャンパスに入る、散策の許可を得ていて、円形広場を通り、都立武蔵野の森公園へ。 東京2020自転車ロードレースのスタート地点から、右のふるさとの丘に登ると、調布飛行場の滑走路が目の前に広がっていた。 修景池を回り込んで道路を渡り、戦時中の戦闘機の防空壕が残されている、掩体壕(えんたいごう)大沢2号、大沢1号を見る。 1号を埋めたコンクリートの壁には、三式戦闘機「飛燕」の絵が描かれ、「飛燕」のブロンズ模型も展示されている。 住宅地を抜けて、龍源寺の近藤勇像へ。 近藤勇(1834-1868)は、幕末の新選組局長、武蔵国多摩郡上石原村(東京都調布市)に宮川久次郎の三男として生まれ、剣を天然理心流宗家三代近藤周助の試衛館に学び、嘉永2(1849)年にその養子になった。 文久3(1863)年2月将軍徳川家茂上洛に先んじて、門下の土方歳三、沖田総司、山南啓助らを引き連れて浪士組に加わった。 京都で芹沢鴨らと京都守護職支配下に属して新選組を組織し、京の治安維持に努めた。

 つづいて都立野川公園(元ICUゴルフ場)に入り、野川(世田谷に至る)沿いを歩いて、二枚橋バス停から、武蔵小金井駅までバスで移動、近くの寿司屋銀蔵で昼食となった。

 日曜日、快晴、紅葉は今一つというところだったが、広々とした芝生で、のどかに過ごす家族連れを眺めながら、欅の落葉を踏んでの散策、14,599歩を何とか完歩できた。

 終着の武蔵小金井駅は、11月の「等々力短信」に書いた原田宗典さんの『おきざりにした悲しみは』(岩波書店)で、主人公の長坂誠(65歳)が京王線中河原の勤め先から小平市の外れのさくら荘へ帰る中継地点であり、駅ビルでおにぎりと野菜ジュースを買ったり、駅前のスーパーで材料を買ってカレーをつくったりするのだった。

福沢諭吉と明治の歌舞伎界2024/12/07 07:01

 11月30日は、福澤諭吉協会の土曜セミナーが交詢社であって、松竹株式会社エグゼクティブフェローの岡崎哲也さんの「歌舞伎に生きる福澤精神」という話を聴いてきた。 岡崎さんは東京生まれで幼少期から歌舞伎に親しみ、中等部で司会の西澤直子教授と同級、1983年経済学部卒、松竹に入社、長く歌舞伎の制作に携わり、取締役、常務取締役を経て2024年より現職就任。 1987年の旧ソビエト公演以来、フランス、ドイツ、イタリア、アメリカ、韓国、イギリス、中国、ルーマニアなど海外公演を制作。 川崎哲男の筆名で歌舞伎・舞踊の脚本を手掛け、2014年『壽三升景清(ことほいでみますかげきよ)』で第43回大谷竹次郎賞を受賞されている。

 私は子供の頃から、松竹の映画や歌舞伎を観ているのに、松竹が大阪で双子の白井松次郎、大谷竹次郎兄弟によって創業されたので、その名にちなんで松竹となっていることを初めて知った。 明治42年に新富座を買収して東京に進出、大正3年に歌舞伎座の経営権を取得している。

 まず、福沢諭吉と明治の歌舞伎界。 福沢は明治20年3月54歳の時、はじめて欧米様式の大劇場となった新富座で歌舞伎を観た。 九代目市川團十郎、五代目尾上菊五郎、初代市川左團次の明治の名優が揃った大一座で、「正直清兵衛」「太田道灌」「扇屋熊谷」「戻駕色相肩」を観て感動し、漢詩で「梨園の一酔人」となったと詠んだ。 これをきっかけに『時事新報』に、「演劇改良」(20年5月4日)、「演劇演藝の改良」(6月9日)の社説や、「演劇改良比翼舞台の説」(7月25日)の漫言、総まとめとして「演劇改良論」(21年10月9日~15日、4回)を執筆した。 一方、〝團菊左〟との交遊を深め、三名優を三田の私邸に招いては、食事をしたり芸談を聞いたりした。 その交流から、福沢は歌舞伎の現実的な改良を訴えた。 〝團菊左〟を応援しつつ、厳しい意見(芝居茶屋や遊廓に関わる狂言の廃止など)もあった。 「演劇改良比翼舞台の説」は、幕間を減らすため、客席の両側に舞台を設け、180度動かす、今日のステージアラウンドに通じる珍説。

 これより先、福沢は、はじめて歌舞伎を観る前の明治19年7月1日~3日の『時事新報』に「劇場改良の説」3回を執筆、経済的基盤の視点から大劇場の建設を提案していた。 これは岡崎哲也さんが「歌舞伎座誕生の恩人」という末松謙澄の演劇改良会(明治19年8月)に先立つものである。 この会には、伊藤博文、福地源一郎をはじめ政・官・言論の名士が参加、日本の演劇の改良・優美高尚・大劇場の建設を説いた。

 明治20年4月、鳥居坂の井上馨外務大臣私邸(現、国際文化会館)で天覧歌舞伎が実現し、明治22年11月には歌舞伎座(第一期、二千人)が開場する。

 明治24年1月歌舞伎座で『風船乗評判高閣(ふうせんのりうわさのたかどの)』が、上演されている。 河竹黙阿弥の台本で、英国人スペンサーを演じたのは尾上菊五郎、気球から英語で挨拶し、『時事新報』のサービスチラシを撒いた。(明治23年、スペンサーの風船乗り〔昔、書いた福沢149〕<小人閑居日記 2019.11.6.>参照)

阿川尚之さんの『アメリカが見つかりましたか-戦後篇』〔昔、書いた福沢144〕2024/12/06 07:10

阿川尚之さんの『アメリカが見つかりましたか-戦後篇』〔昔、書いた福沢144〕                 <小人閑居日記 2019.11.1.>

      自分で考えるということ<小人閑居日記 2002.7.22.>

 6月のワールドカップ・サッカーの熱狂ぶりをみていて、そういう私もかなりテレビを見てはいたのだが、日本人が集団で一方向に走りだす傾向が、気になった。 日本が負けた瞬間、もう一つ上に行けたのにという声が、瞬時に圧殺され、よくやったに世論が統一されたのには、何となく不安を感じた。 そういえば昨年の4月頃は、小泉人気というものがあったと、思ったのである。

 このところ、そんなことを考えているものだから、阿川尚之さんの『アメリカが見つかりましたか-戦後篇』(都市出版)を読んでも、アメリカ人の個別主義についての記述が気になる。 たとえば、後にジャパンタイムズのジャーナリストになる村田聖明(きよあき)さんの章。 村田さんは、日米開戦の6か月前にアメリカへ留学し、戦争が始まると一時アリゾナの収容所に入れられたが、10か月で出所、普通に大学生活を送る。 戦争相手である日本人の村田さんを、当り前に遇する普通の市民が、思いがけなく大勢いる。

 「目の前に敵国人が現れたとき、その人物を個人として評価する。 政府が何と言おうと新聞が何と書こうと、自分で考え、それを遠慮なく口にする。」 「おそらく日本にも、戦争中アメリカ人の捕虜を人道的に扱い、占領地の住民と個人として親交を深めた人はたくさんいたに違いない。 しかしどちらの国民が、戦争という極限状況下における集団ヒステリーから比較的自由であったかと言えば、どうもアメリカに軍配を上げざるをえないだろう。」

       自分の意見、相手の意見<小人閑居日記 2002.7.23.>

 阿川尚之さんの『アメリカが見つかりましたか-戦後篇』の山本七平さんの章に、天皇訪米に合せアメリカへ行ってみないかといわれた山本七平さんが、キリスト教指導者植村環(たまき)女史の戦争直後のアメリカ講演旅行のことを思い出す話がある。 昭和21年5月渡米した植村環女史は、「石もて追われる」ような、きわめて厳しい旅を経験する。

 「しかし、植村女史の記録を仔細に読むと、アメリカ人の反応は同じ状態に陥ったときの日本人の反応と違うと、山本は感じる。いかに非難すべき相手でも、その発言自体は決して非難・妨害しないのである。」

 「面と向かって日本人は悪魔だと言いながら、納得すると照れずに意見も態度も変える。植村女史は『トルーマン大統領その他知名な人々も、高圧的な態度で自分の意見を他に圧しつけることがないかわりに、自分に納得のいかない不審な点は、あくまでも、きく』と記した。どうも日本人とは異なる反応の仕方だ。多数は流動的で固定しないから、『これが天下の世論だ』などと高圧的に言ってもききめがない。『一夜にして全国民が一定“世論”のもとに一変するといった事態は逆に起こらない』。」

トクヴィルと福沢諭吉(2)〔昔、書いた福沢143-2〕2024/12/05 07:05

         トクヴィルと福沢諭吉(2)〔昔、書いた福沢143-2〕

                <小人閑居日記 2019.10.31.>

    自治のアメリカ、群れるアメリカ<小人閑居日記 2002.5.28.>

 トクヴィルとボーモンは、とくにボストンやフィラデルフィアで、アメリカ民主主義の実態と根幹に触れた。 州は、小さな共和政体である町(タウン)の連合だ。 それぞれ首長を選び、自分たちのことは自分で行なっている。 彼らを結びつけるのが州議会。 町の権限は法律で定められ、その範囲を越えることがらだけが、州議会の管轄になっている。 さらに、州が集まって、国をつくっている。 政府が口出ししない結果、個人が自分自身で何でもやる習慣がつく。 他から助けを求めず、自分で考え、自分で対処する。 大学、病院、道路などを建てよう、改良しようとするとき、政府に陳情することなど考えもしない。 教育も政府に任せては駄目だ、フランスで教育助成のための公的基金を設けることなど、絶対やめろと言われている。(阿川さんは金をかけた「本郷の大学」にふれた)

 裁判もまた自分たちの手で行なう。 トクヴィルは、陪審制度が人々に、自分達の問題を自分自身で解決することを教え、社会問題解決を自分自身の仕事とみなすようにさせることの重要性を見た。

 アメリカ人はまた、何かというと集まってアソシエーション、すなわち各種の団体を、変幻自在に結成する傾向がある。(阿川さんは福沢諭吉協会はアソシエーションそのものと言った) 商業上の連合、政治、文学、宗教上の団体をつくる。 決してお上へ陳情して成功をめざすのではなく、個人の才覚に訴えて調和ある行動を組織し、成功へと進む。 その最も極端な例が禁酒協会で、ニューヨークに727、マサチューセッツに209、全国で2千以上ある、とトクヴィルは報告している。 民主政体のもとでは、すべての人は独立しており力がない。 自分一人では何もできない。 互いに協力し、共同歩調を取る習慣を身につけないかぎり、文明は危殆に瀕するからだろうと、トクヴィルは考える。(つづく)

       握手、対等なアメリカ<小人閑居日記 2002.5.29.>

 阿川尚之さんは『トクヴィルとアメリカへ』で、イギリス人や日本人が初対面の人にたいして回りくどい態度をとるのに対して、アメリカ人は簡単に握手する、と書いている。(講演では、瀋陽の副領事は握手しますけどと言った(5月8日北朝鮮人5名が瀋陽の領事館に亡命のため駆け込む事件があった)) トクヴィルの時代も同じだったようで、「アメリカには少なくとも表面上、信じられないほどの平等が行き渡っている。 すべての階層の者が、常に互いに交流している。 社会的地位の差ゆえの傲慢は、露ほども見かけられない。 みんな握手を交わす。 カナンダイグアの刑務所では(トクヴィルとボーモンはアメリカの刑務所制度視察の名目で渡米した)、検察官が囚人と握手しているのを見た」

 トクヴィルとボーモンは、ホワイトハウスでアンドリュー・ジャクソン大統領に面会している。 19世紀には大統領が面会日を定めていて、その日訪れればだれでも大統領に会えたらしい。 それから35年後にワシントンを訪れた福沢諭吉は、日記帳にホワイトハウスの見取り図を描いて、その片隅に「冬の間一週一度大統領国民え面会」と記した。 福沢が会ったのは、リンカーン暗殺のあとを継いだアンドリュー・ジョンソン大統領だ。 漂流民ジョセフ・ヒコにいたっては、ホワイトハウスでビアス、ブキャナン、リンカーンの三人の大統領に面会している。 ヒコはビアス大統領を訪れた時、護衛も家来もなく、大して豪華でない家に住み、普通の服を着て気さくに対等に客と話す紳士が国家元首だとは、どうしても信じられなかったと、自伝に記しているという。

     『トクヴィルとアメリカへ』の雑学<小人閑居日記 2002.5.30.>

 初期の植民地では、ヴァージニアあたりでも当然、インディアンとの確執があった。 ディズニーのアニメにもなった「ポカホンタス」は、12歳のインディアンの少女で、ヴァージニアの初期植民地ジェームズタウンの長、キャプテン・ジョン・スミスがインディアンのラパハノック族に捕らわれた時、スミスと仲良くなって、父親である部族の長ポーハタンが処刑を命じると身を投げ出して、彼の命を救った。 万延元(1860)年に遣米使節を乗せ、咸臨丸とともに太平洋を渡ったアメリカの軍艦ポーハタン号は、「ポカホンタス」の父親の名に由来していたのであった。

 トクヴィルはメンフィス滞在中、二年前にこの地区から選出された、変り者の下院議員の話を聞く。 学校へ行ったことがなく、ほとんど字が読めない。 財産がなく、住所不定。 森の中に住み、狩りをして獲物を売って生計を立てている。 トクヴィルは日記に「普通選挙が実施されると、これほどひどい人を選ぶことになる」と記し、民主主義の弊害を心配した。 その議員の名は、デーヴィッド・クロケット。 5年後、テキサスの独立をめざすアメリカ人の一群が、サンアントニオの町にあるアラモの砦で玉砕したなかに、この冒険家がいて、アメリカ史に名を残すことになるとは、さすがのトクヴィルにも想像がつかなかった。

 ミシシッピー川をニューオーリンズへ向う船上で、サム・ヒューストンという面白い男に会った。 テネシー州の知事まで務めたが、家庭がうまくいかず、妻を捨てて奥地に逃げ込み、チェロキー族インディアンの社会に入り、族長の養子となって、その娘をめとって、何年間かを暮した。 トクヴィル達が会った時は、再び白人社会に戻る決心をして、同じルイヴィル号の船客となっていたのだった。 5年後、サム・ヒューストンはテキサスに姿を現わす。 馬にまたがり、テキサス独立軍の指揮官として、「アラモの屈辱を忘れるな」と叫びながら、メキシコ軍を散々に打ち破った。 彼はメキシコから独立したテキサス共和国の初代大統領になり、その名は、テキサスの大都会の名として、今でも残っている。

トクヴィルと福沢諭吉(1)〔昔、書いた福沢143-1〕2024/12/04 07:06

 阿川尚之さんについては、2002年の5月18日に福澤諭吉協会総会の記念講演で「トクヴィルの見たアメリカ、福沢諭吉の見たアメリカ」を聴いた後、著書の『トクヴィルとアメリカへ』(新潮社)と『アメリカが見つかりましたか-戦後篇』(都市出版)を読んで、この日記に書き、後に〔昔、書いた福沢〕としてブログにも出していた。 それを改めて、三回に分けて再録することにしたい。 折から、石破茂首相は所信表明演説で、地方こそ成長の主役であり、地方創生を強力に推進し、来年度予算では交付金を倍増すると語っている。

トクヴィルと福沢諭吉(1)〔昔、書いた福沢143-1〕<小人閑居日記 2019.10.30.> トクヴィルと福沢諭吉(2)〔昔、書いた福沢143-2〕<小人閑居日記 2019.10.31.> 阿川尚之さんの『アメリカが見つかりましたか-戦後篇』〔昔、書いた福沢144〕<小人閑居日記 2019.11.1.>

     トクヴィルと福沢諭吉(1)〔昔、書いた福沢143-1〕                      <小人閑居日記 2019.10.30.>

      日本橋界隈の句碑など<小人閑居日記 2002.5.18.>

 福沢諭吉協会の総会が、日本橋の三井本館に間借り中の交詢社であった。 阿川尚之さん(慶應義塾大学総合政策学部教授・作家阿川弘之氏の長男)の「トクヴィルの見たアメリカ、福沢諭吉の見たアメリカ」という記念講演を聴いた。 その話は、また別に書く。

 日本橋に行ったので、神茂のはんぺんと、高島屋で扇屋の玉子焼を買ってきた。 神茂で日本橋一歩会という「日本橋北・室町・本町」名店会の地図をもらったら、界隈にある「芭蕉句碑」や「日本橋魚河岸記念碑」「三浦按針屋敷碑」の場所と説明があった。 このあたり、割によく行く所だが、そんな碑をあらためて見たことがなかった。 神茂の斜め前、日本橋鮒佐の所にある「芭蕉句碑」は「発句也松尾桃青宿の春」、ここ日本橋小田原町で宗匠として念願の独立を果した芭蕉の喜びと意気込みが伝わってくるという。 日本橋橋際の「日本橋魚河岸記念碑」には、竜宮城のお遣いとしての乙姫像と久保田万太郎の「東京に江戸のまことのしぐれかな」の句があるという。 今度、ゆっくり見に行ってみよう。

      トクヴィルと福沢諭吉<小人閑居日記 2002.5.26.>

 「また別に書く」と書いた阿川尚之さん(慶應義塾大学総合政策学部教授・作家阿川弘之氏の長男)の「トクヴィルの見たアメリカ、福沢諭吉の見たアメリカ」という5月18日の講演は、なかなか歯切れがよくて面白く、勉強になった。 阿川さんは、慶應を二度中退しているという。 法学部3年の時、ジョージタウン大に留学して一回、ソニー勤務の折か、友達の結婚式の司会をしたら列席していた法学部の教授に「もったいない」といわれたので通信教育で卒業しようとしたが、またアメリカのロースクールへ行くことになったので二回。 1951年生れで、ニューヨーク州およびワシントンDCの弁護士資格を持ち、アメリカの法律事務所勤務、ヴァージニア大学ロースクール客員教授などを経て、二度中退した大学の教授になった。

 アレクシ・ド・トクヴィル(1805-1859)は、フランス・ノルマンディーの貴族出身の法律家で、革命に揺れ王制から共和制へ向う時代の激しい流れの中、1831年、26歳の時、親友で同僚のギュスターヴ・ド・ボーモンと二人、新生の民主主義実験国アメリカに渡り、10か月間、当時はミシシッピーの東側24州だったアメリカ合衆国の各地を、当時すでに発達していた蒸気船網などを使って、精力的に見て回り、フレンドリーでよくしゃべる沢山の人々に会い、克明なノートや日記、たくさんの手紙を書いた。 その体験をもとに深い考察と思索によって著された『アメリカにおける民主主義』(1835年)は、160年以上経った今日でも、アメリカ合衆国や民主主義研究の必須の書で、さまざまの身近な場面で引用されている。

 福沢諭吉(1835-1901)は、トクヴィルの約30年後の1860年(25歳)と、1867年(32歳)の二回アメリカへ渡航している。 トクヴィルの『アメリカにおける民主主義』は、英訳本やその小幡篤次郎訳で読み、『分権論』(明治10年・1878年)に、その影響が最も顕著に現れている。 (つづく)