福沢諭吉169回目の誕生日[昔、書いた福沢198]2020/01/21 07:06

      福沢諭吉169回目の誕生日<小人閑居日記 2004.1.11.>

 1月10日は第169回福澤先生誕生記念会があって、三田へ行く。 初め 例によって、幼稚舎生の「福澤諭吉ここに在り」(佐藤春夫作詞、信時潔作曲)、 ワグネル・ソサィエティーの「日本の誇(ほこり)」(富田正文作詞、信時潔作 曲)の合唱がある。 佐藤春夫作詞の二番は「とことんやれと 勇み立ち/錦 のみ旗 押し進め/幕府を伐つと 官軍は/長州 薩摩 土佐の兵/上野の山 を 攻め囲む」でニヤッとする、同六番は「洋学の灯は 消すまいぞ/これが 消えれば 国は闇/我らのつとめ 忘るなと/十八人を 励まして/福澤諭吉  ここに在り」。

 安西祐一郎塾長の年頭挨拶。 あと4年で創立150周年を迎える今年は、 慶應義塾の夢、実現の第一歩の年。 教育と研究の質の向上のための新しい仕 組と施設を整備して、国際水準での「未来への先導者をつとめる二十一世紀福 沢塾の出発点」である。 そうした150周年を社中(慶應では卒業生、教職 員、学生をこう呼ぶ)一同でつくりあげていこう。 慶應義塾が「国の発達を 測るメートルである」度合は、ますます増えている、と。

 部外(社中外)の人が聞いたら、どう思うだろうかと心配になる、その自画 自賛を聞いて、みんなで塾歌を歌うと宗教みたいな、ちょっとこそばゆい気も したが…。

        女子高校生のアメリカ論<小人閑居日記 2004.1.12.>

 福澤先生誕生記念会では神谷健一さん(三井住友銀行名誉顧問・前慶應義塾 評議委員会議長)の記念講演「三田山上の思い出」が予定されていて、私など は塾長の挨拶よりは、こちらを期待して行ったのだ。 それが神谷さんは、腰 を痛めていたのと、塾長が立派な演説(神谷さん)を長々とやったので、ごく 短い話で降りてしまった。 拍子抜けするとともに、集まっている人々に失礼 ではないかと思った。

 この会では毎年、小泉信三賞全国高校生小論文コンテストの表彰式がある。  その選評も、今年から割愛され「『三田評論』を読んでくれ」ということだった。  今年の小泉信三賞、次席、佳作三席の計五名は、ぜんぶ女性だった。 課題は、 福澤諭吉への質問、ユーモアについて、生命、アメリカと世界、から一つを選 択する。 言い付け通り『三田評論』で選評と受賞作を読んだ。 やはり小泉 信三賞の中央大学杉並高校三年小松原優美(ゆみ)さんの「幻想から現実へ~ 成長するアメリカへの期待~」に感心する。 多民族国家であるアメリカでは 「人種のるつぼ」というのをやめて「サラダボウル」と言おうという気運が高 まっているという。 つまり溶け合って一つになり、それぞれの原型がみえな くなるような融合のしかたでなく、同じボウルの中でそれぞれの見分けがつく 共存の仕方を目ざそう、と。 小松原さんには、そんなまだできあがっていな い「未完の大国」アメリカが世界をリードし、国際平和の担い手を自負してい るのだ、という危なっかしい地球の構図が見えてくる。 アメリカを構成して いるサラダボウルの中の野菜は、それぞれの畑から出てきているのだから、ア メリカは排他主義にはならない。 アメリカは完成されていないが、成長して いる、できあがっていない国の未来がある。 それはできあがっていない「世 界」の未来でもある。 アメリカを支え、ときには諌め、そしてアメリカと一 緒に成長するのだ。 というのが、アメリカへ行って自分の目で見、耳で聞き、 感じ、考えたことを、自分の言葉で素直に語った、彼女の結論である。

北里柴三郎と福沢諭吉[昔、書いた福沢191]2020/01/14 07:14

        北里柴三郎の三恩人<小人閑居日記 2003.11.18.>

 16日の日曜日、上野の国立科学博物館へ、前日から始まった「北里柴三郎 生誕150年記念展~感染症制圧への挑戦~」(12月14日まで)の、講演会 を聴きに行った。 北里一郎明治製菓会長の「祖父 北里柴三郎」と、大村智 北里研究所所長の「北里柴三郎の求めたもの」という話だ。

 北里柴三郎は嘉永5年12月20日(1853年1月29日)肥後国阿蘇郡 小国郷北里村に生まれた。 幼少より厳しい躾を受けて育ち、儒学を学び、世 のため人のために何かを実現したいという志を持つに至る。 明治4年(18 歳)熊本医学校に入り、オランダ軍医マンスフェルト(第一の恩人)に巡り合 い、その資質を認められて、医学の分野に突き進む。 苦学して明治16(1 883)年東京大学医学部を卒業(30歳)、ドイツ留学を命ぜられ(32歳)、 ベルリン大学ローベルト・コッホ(第二の恩人)研究室に入り、細菌学の研究 を開始する。 明治22(1889)年(36歳)破傷風菌の純粋培養に成功、 翌年には破傷風菌抗毒素(免疫体)を発見し血清療法を確立する。

 すぐれた学勲を打ちたてて、明治25(1892)年5月(39歳)帰国し たが、北里を迎えた日本の学界と帝国大学は冷淡で、北里が伝染病(今は感染 症という)が国内に侵入しても、いかに被害を最小限に食い止めるかが、国益 と国民の福祉にとって重要と考えて、訴えた一日も早い伝染病研究所の設立の 意見に耳をかすものはなかった。 適塾の同窓で親友の長与專斎からこの話を 聞いた福沢諭吉(第三の恩人)は、北里が研究室さえもてないのを日本の恥だ といい、芝公園内の自分の借地に私財を投じて伝染病研究所を建て、親友の実 業家森村市左衛門その他に資金援助を働きかけて、明治25年10月私立伝染 病研究所が設立された。 翌年には、福沢が白金三光町の地所を提供、森村と 建設費を半分ずつ出し合って、日本最初の結核サナトリウム「土筆ケ岡養生園」 が開設された。 北里は、医学を現実的に人々のために役立てるという実学の 立場から、予防医学を終生の指針とした。

         報恩の人、北里柴三郎<小人閑居日記 2003.11.19.>

 孫の北里一郎明治製菓会長だが、先日出た生誕150年の記念切手の北里柴 三郎にそっくりの方だった。 祖父柴三郎が、昨日書いた三大恩人に強い報恩 の気持を持っていたことを話した。 福沢については、その実学の精神に影響 を受け、コッホからも、実際に応用して、役に立たなければだめだという、こ れも実学の精神を教えられた。 明治33(1910)年にコッホが死ぬが、 翌年北里はコッホを祭った神社を建て、自分が死ぬまでの20年間、その命日 に祭事を続けた。 北里の死後は、その弟子たちが、北里の命日に祭事を続け ている(「北里・コッホ神社」というらしい)。

 明治25(1892)年10月に福沢の援助で設立された私立伝染病研究所 だが、明治32(1899)になって国立(内務省)に移管される話が出た。  北里が福沢に相談すると、「君の主義を立て、君の命令通りにするというなら、 官立にしてもいいけれど、政府の事だから何時どうなるかわからないから、足 もとの明るいうちに用意しておけ、即ち金を貯めなさい」と言われた。

 (これは一郎さんの話にはなかったが、福沢が北里に勧めて結核サナトリウ ム「土筆ケ岡養生園」を開設させたとき、学者は銭勘定に疎いものだから、経 営いっさいは自分の推薦する人物に一任するようにといって、その時北海道炭 砿鉄道会社いた田端重晟(しげあき)を事務長に据えてくれたので、養生園は 多額の積立金を保有することとなった。)

 福沢は明治34(1901)年に亡くなったが、その遺訓通りに、大正3(1 914)年政府は突如伝染病研究所を内務省から文部省に移管することを発表、 寝耳に水の北里は辞職、用意しておいた資金で即日、私立北里研究所を設立し たのだった。 北里は、福沢死後15年を経た大正6(1917)年慶應に医 学科(のちの医学部)設立の話が出ると、福沢の高恩にむくいるのは正にこの 時と、みずからの医科大学設立の構想をおいて、科長を引き受け、北島多一以 下門下の精鋭を率いて駆せ参じた。 北里柴三郎は、感染症の予防と治療を、 まことに丁寧に実践した。 「独立不羈」という言葉を好み、自分で考え、自 分で行動し、その行動に責任を持った。 「師のあとを追わず、師の求むる道 を歩むべし」と、言っていたという。

         田端重晟(しげあき)日記<小人閑居日記 2003.11.21.>

 北里柴三郎を雑務から解放し研究と医療に専念させるため、福沢の推薦で「土 筆ケ岡養生園」の事務長になり、養生園と北里研究所の経営基盤を確立するた めに生涯をささげた田端重晟(しげあき 1864.4.12-1945.2.12)は、日常生活 から仕事のことまで、一日も欠かさずに、毛筆で克明な日記を書いていた。

 北里研究所に保管されている(散逸した部分も多いというが)その日記を研 究して、正田庄次郎北里大学教授が「田端重晟日記からみた福沢と北里」(『福 沢諭吉年鑑8』1981)、「田端重晟日記にみる北里先生と養生園」(『福沢諭 吉年鑑10』1983)という貴重な論文を書いている。 「田端重晟日記」 は、その克明な記録としての価値から、『慶應義塾百年史』、『福澤諭吉全集』編 纂の際、慶應義塾に貸し出され、とくに『福澤諭吉全集』21巻の福沢の年譜 の作成に活用され、それを充実したものにするのに役立ったという。 そこに 記録されている、福沢と北里、福沢と養生園の詳細な関係は、福沢や北里とい う人物の肉声や行動、思想を伝えていて、まことに興味深い。

           牛乳瓶事件<小人閑居日記 2003.11.22.>

 正田庄次郎さんの論文「田端重晟日記からみた福沢と北里」に、「福沢と北里」 とでは、その思想、たとえば女性論(観)の面で、かなり隔たりのあったとい うことが述べられている。

 明治29年10月15日、福沢は田端に手紙を書いて、その朝、養生園から 福沢の家に配達された牛乳瓶に何か毛のような汚物が付いていたことを報せ、 その不潔な悪品一瓶を返却し「養生園之事業腐敗」記念として保存するように 指示し、養生園の不注意を厳しく叱った。 「細菌学の叢淵、消毒云々とて、 其注意の周密なるは、自家も信じ又世間も信ぜしめたる養生園のミルクにして、 斯の如しとは、何等之怪事ぞや。 畢竟病院事業之盛なるに慣れて、百事を等 閑に附し去る其結果之偶然に現れたるものと云ふの外なし」と、いかにも福沢 の手紙らしい文章である。

 その日夕刻、田端は三田へ行って福沢に謝罪、翌日報告を受けた北里も直ち に詫びに赴いたが、およそ3時間にわたって叱責されたという。 正田さんに よると、この年の2月の朝日新聞に北里が新橋の芸妓トンコを身請けしたとい う記事が出た、そのことが福沢の北里批判の背景にあったのではないか、とい う。 福沢死後まもなく、明治34年2月14日の田端重晟日記に、北里博士 がしきりに福沢の話をして、その遺著を求めたので、福沢が倒れる前に男子も この本を読むべしと書いた『女大学評論、新女大学』を贈ったとあり、「蓋シ、 此書ヲ再読シテ、博士ニ反省セシムルハ、福沢先生ノ本意ニテ、草葉ノ陰ニテ 喜バルルナラント思エバナリ」とある。

(参照 : 北里柴三郎と福沢諭吉の遭遇〔昔、書いた福沢30〕<小人閑居日記  2019.3.10.>)

橋本五郎さん「ジャーナリストとして福沢から学ぶもの」[昔、書いた福沢189]2020/01/12 08:26

     橋本五郎さんの福沢入門<小人閑居日記 2003.10.1.>

 9月27日、福沢諭吉協会の土曜セミナーがあった。 講師は読売新聞編集 委員の橋本五郎さん、演題は「ジャーナリストにとっての福沢諭吉」だった。  橋本五郎さんが昭和41(1966)年慶應の法学部に入学した時、自分は東 大なのに小泉信三さんを通じての福沢ファンだった10歳年上の兄さん(役人) が、『福沢諭吉全集』全21巻を買えと、安月給のなかから5万円余をくれたと いう。 どこで買うかわからず、塾監局(慶應の本部事務局)に行ったら、土 橋俊一さんが手配してくれた。 重い本だというのが第一印象で、提げて帰っ てくる時、4巻ずつ友達に持ってもらった。

 学生時代は軽い文庫本や『福沢諭吉選集』で、『福翁自伝』『学問のすゝめ』 『文明論之概略』を読んだ程度だったが、『福沢諭吉選集』第四巻の丸山真男さ んの解題(1952年7月)に衝撃を受けた。 それは手品のような解説で、 橋本五郎さんは丸山さんから福沢に入ったという。

 駆け出しの新聞記者だった昭和48(1973)年、福沢諭吉協会が発足し たので入会した。 その申し込みのハガキに「田中王堂『福沢諭吉』の復刊と、 丸山真男の福沢論をまとめて一冊にできないか」と書いたら、富田正文さんか らハガキが来た。 橋本さんが当日、会場に持参していたその宝物のハガキに は、「丸山真男の本は検討されているようだが、王堂本の再版は慎重を要する」 とあったそうだ。 橋本さんが衝撃を受けた『選集』第四巻解題を含む丸山真 男さんの福沢論が、岩波文庫『福沢諭吉の哲学』となって広く読まれるように なったのは、2年前の2001年6月のことだった。 この700円の文庫本 が、橋本さんには1万円位に価すると語った。

    「ジャーナリストとして福沢から学ぶもの」<小人閑居日記 2003.10.2.>

 橋本五郎さんは「ジャーナリストとして福沢から学ぶもの」として、つぎの 6項目を挙げた。

  (1)「議論の本位」を定めることの重要さ。

  (2)無原則な機会主義とは全く違う「状況的思考」。

  (3)責任ある言論。     (4)開かれた女性論、家庭論。

  (5)肉親・子女への愛情。

  (6)幻想を抱かず、惑溺に陥らず。

 (1)「議論の本位を定める事」というのは、福沢が『文明論之概略』の最初 にその大切さを説いたもので、それを定めなければ、物事の利害得失を論じら れないとした。 丸山真男さんは「何を何より先に解決しなければならないか、 何が現在の切迫したイッシュであるか、をまず明らかにする」(『「文明論之概略」 を読む』)ことだと説明した。

 (2)今、起きていることを理解するには、できるだけ多面的に見る。 個 人的自由と国民的独立、国民的独立と国際的平等は全く同じ原理で貫かれ、見 事なバランスを保っている。

 (3)「外交を論ずるに当りては外務大臣の心得を以て」(明治30(189 7)年8月の時事新報社説「新聞紙の外交論」) 「責任ある報道」をしようと すれば、自分がその立場にあったらどうするか、何が国益、全体の利益にかな うのかを絶えず自問し、答えられるようにしなければ、無責任のそしりを免れ ない。

       福沢の女性論と家族への愛<小人閑居日記 2003.10.3.>

 昨日の続き。  (4)開かれた女性論、家庭論。 政治記者の橋本さんは、夜討のハイヤー で帰宅すると、午前2時か3時、へたをすると朝駆けの迎えの車がもう来てい るという状態だった。 帰宅した時、和服の夫人が三ツ指ついて、おかえりな さいませというのが理想ではあった。 橋本夫人は総理府勤めで、結婚した時 も、子供が出来た時も、辞めたらどうかといったが、秋田でひとり暮ししてい る橋本さんのお母さんと、電話で話がついていた。 お母さんは「絶対、辞め るな」と言ったという。 ことほど左様に、今日の聴衆もそうだろうが、日本 の男は男女平等ということが理屈でわかっていながら、男女の役割分担といっ た固定観念にとらわれている。 あの時代の福沢の女性論、家庭論が、あれほ どまでに進歩的で、いささかの偏見もないのは、何ゆえか、橋本五郎さんは、 ずっと疑問に思っているという。 

 (5)肉親・子女への愛情。 岡義武さんは日本学士院百年記念講演「福沢 諭吉-その人間的一側面について」で、福沢は「愛情に全く惑溺した一人の父 親以外の何物でもない」とし、「人生をいかに理解すべきか、又ひとはいかに 世に処すべきか、これらの問題について孤絶、寂寥の境地にその身を置くこと をたじろがず、そのことをつねに堅く覚悟していた福沢は、そのような心境に 対する慰めを肉親、子女へのこの上なくふかいその愛に求めていたのではない であろうか」「その情愛は、寂寥、孤独、孤高を恐れず辞しなかった強く逞し い彼の性格の実は他の半面、しかも、不可分の半面であったように私には思わ れるのである」と語っている。

     「とらわれる」こと、そして小泉首相<小人閑居日記 2003.10.4.>

 (6)幻想を抱かず、惑溺に陥らず。 福沢が最も戒めたのは「惑溺(わく でき)」である。 『文明論之概略』の随所に出てくる。 丸山真男さんは「政 治とか学問とか、教育であれ、商売であれ、なんでもかんでも、それ自身が自 己目的化する。そこに全部の精神が凝集して、ほかが見えなくなってしまうと いうこと、それが惑溺です」(『福沢諭吉の哲学』)と説明した。 橋本さんは新 聞記者として、あるがままに見ることを心掛け、とらわれていることはないの か、たえず畏れをいだきながら、やらなければならないと、思っているという。  いつも(81歳で亡くなった)おふくろに分かるように、中学生に分かるよう にと、記事を書いてきた。

 講演は、しばしば小泉首相の話に脱線した。 曰く、自己中心、他人のこと は考えない、ただ一筋に行く、脇は見ない、自分は正しいと思っている、した がって確信に満ちているように見える。 三世で、地元の選挙活動もしていな いから、ひとの痛みがわかっていない。 他人から言われたことは、やりたく ない、しばしば反対のことをやる。 竹中、川口両大臣の留任はそのよい例で、 川口さんは外務省で退任の挨拶もしていた、その証拠にあの日、赤の勝負服で なく、黒と白の葬式用みたいな服を着ていた。 勉強はしない、あまり本を読 まない(『同期の桜』ぐらい)、ものを知らないだけ強い、わかっていることし か言わない。 「構造改革なくして成長なし」というが、構造改革がどう成長 に結びつくのか説明しない、何もわからない。 得意の郵政と道路公団の民営 化の話だけ、ガーッとやる。

 そういった話を聴いて、みんなアハハと笑い、私ももちろん笑ったのだが、 笑いながら、笑っていられる場合じゃないとも思ったのだった。 だから、敢 えて書くことにした。

横浜山手散歩、居留地・外人墓地[昔、書いた福沢188]2020/01/11 06:54

       トワンテ山とフランス山<小人閑居日記 2003.9.14.>

 13日は「新・横濱歴史散歩」の最終回で、横浜山手を散歩してきた。 私 は1992年(平成4年)4月26日、福沢諭吉協会の一日史蹟見学会で横浜 に行き、横浜開港資料館で開催中だった特別展「トワンテ山とフランス山~幕 末の横浜山手~英仏駐屯軍の四千二百日」を見て、初めて幕末にイギリスとフ ランスが横浜に軍隊を駐屯させていた事実を知った。

 イギリスとフランスは、1862(文久2)年に起きた生麦事件の翌年から 1875(明治8)年までの12年間、居留民保護・居留地防衛のため、横浜 山手に軍隊を駐屯させた。 外国軍隊の駐屯という事態に対し、幕府と明治政 府は粘り強い外交交渉を続け、ようやく明治も8年に至って主権を回復するこ とができたという。 現在の「港の見える丘公園」一帯は英第20連隊の陣地 があったことからトワンテ(トゥウェンティ)山と呼ばれ、現在のフランス山 にはフランス軍が駐留していた。 幕府の横浜居留地囲い込みの意図も、圧倒 的な軍事力の前には、簡単に破られてしまったことになる。 横浜居留民の数 をはるかに上回る英仏軍隊の駐屯は、生麦事件と同じ年に洋式軍制の導入を決 めた幕府にとって、恰好の教師になったのを始め、日本人社会にさまざまな影 響をもたらした。

       山手居留地の開発と発展<小人閑居日記 2003.9.15.>

 横浜の「山手(やまて)」というのは、居留地のある「海手(うみて)」に対 しての「山手」なのだという。 外国人はBLUFF(切り立った崖)と呼ん だ。 山手外国人墓地は1854年3月6日、ペリー艦隊のウィリアムズ二等 水兵が甲板に落ちて死亡したのを、元村の寺、増徳院裏山に埋葬したのが始ま りで、1864年(元治元年)幕府とアメリカ、イギリス、フランス、オラン ダの各国公使の間で締結された横浜居留地覚書によって、墓域の拡張が認めら れ、増徳院の上の高台に一区域が設けられた。

 「海手」の居留地は埋め立てなので、湿地で、水も悪かった。 商売は居留 地でしても、住居、学校、病院等は、よい土地にという希望から、1866年 12月(慶応2年11月)に幕府と外国側とで結ばれた「横浜居留地改造及競 馬場墓地等約書」により、山手の開発が進んだ。 住み始めたところから地番 がつき、その番号が現在に及んでいる。 これより先、1865年10月(慶 応元年9月)には、散歩の習慣のある外国人のための遊歩道がつくられた。 幅 3間(5.4メートル)全長2里12町(9.1キロ)、現在の山手本通りがそ れに重なるという。 1870年6月(明治3年5月)には、幕府時代から求 められていながら財政的に応じられなかった外国人用公園、山手公園がわが国 最初の西洋式公園としてオープンした。

 昨日書いた英仏両国守備兵だが、最初はイギリスが1,000名、フランス が250名という大規模なものだった。 若い兵隊の駐留だから、第二次大戦 後にあったと同じ混血児問題が発生したという話は、今回初めて聞いた。 そ うした混血児の教育の為に1871年にアメリカミッションホームという施設 が作られ、それはのちに横浜共立学園に発展したのだそうだ。

         山手西洋館めぐり<小人閑居日記 2003.9.16.>

 平成になってから、山手ではかつて外国人遊歩道だった山手本通り沿いに、 横浜市が整備したり移築復元したりして、7館の西洋館を公開している。 横 浜山手を訪ねても、海の見える丘公園と外人墓地を覗いただけで帰ってしまう と、見逃してしまう。 今回ゆっくり散歩したことで、よく整備されたいい建 物や庭園が、ゆったりと見られ、そこからの眺望もすばらしいことを知った。

 JR石川町駅の元町口(大船より)を出、元町に行く中村川沿いの一本裏の 道から、大丸谷坂(おおまるたにざか)にかかる。 左手にフェリス女学院の 高校・中学を望みながら登ると、一時イタリア領事館があったことからイタリ ア山庭園と呼ばれる庭園があって、(6)ブラフ18番館と(7)外交官の家の 2館がある。 ずっとカトリック山手教会の司祭館だったというブラフ18番 館を見学した。 この庭園の眺望はおすすめ。

 両側が落ち込んでいるので尾根道だということがわかる山手本通りを、カト リック山手教会まで行き、右折して山手公園へ。 日本で最初のローンテニス が1876(明治9)年に行われたというので建てられた、テニス発祥記念館 を見る。 英国人ブルックが1879(明治12)年にこの一帯に植えたこと から全国に広まったというヒマラヤ杉の巨木が見事だ。

 山手本通りに戻り、代官坂上へ、昭和5年に貿易商ベリック氏の邸宅として 建てられた(5)ベーリック・ホールを見学(一見の価値あり)。 ここ元町公 園地域には(3)山手234番館(4)エリスマン邸もある。 山手外国人墓 地入口前を右折、港の見える丘公園へ。 ここには(1)横浜市イギリス館(2) 山手111番館がある。 昭和12(1937)に英国総領事公邸として建築 されたという横浜市イギリス館は、昨年から一般見学もできるようになったの だという。 山手西洋館めぐりは約3時間、今は昔、デートコースとして最高 と思われた。

      外国人墓地とリチャードソンの墓<小人閑居日記 2003.9.17.>

 横浜山手散歩の最後に、外国人墓地に入った。 土曜日は維持費のための募 金をしながら、一部順路を公開しているのだ。 前に福沢諭吉協会の見学会で も入って、かなり丁寧に見て回ったことがあった。 ただ入口に墓地資料館と いうのが出来ていて、外国人墓地の概要がパネルで展示されている。 これを 先に見ておくと、墓の形やマークなどのことがよくわかる。

 前にも見た、青い目の噺家快楽亭ブラックの墓に頭を下げてきた。 生麦事 件のリチャードソンの墓は、一番下の順路外にある。 帰りに墓地に沿った坂 を元町へ下りた所を左にちょっと曲がって(元町から行くならウチキパン屋の 奥)、金網の塀から覗くと、見ることができる。 例の生麦事件参考館の浅海武 夫さんが、リチャードソンの墓のまわりに囲いを作ったりして整備し、覗く塀 にも看板を出したりしたのだという。 リチャードソンの墓に接した大きな桜 の樹はそのままだったが、前に墓の周りにあった十字の花を咲かせるドクダミ はなかった。 リチャードソンの墓の後ろに大きな四角錐の墓が見える。 ペ リー艦隊のウィリアムズの墓は三か月後に下田へ移葬されたので、この墓地で 一番古い墓だという。 1859年8月25日、横浜町で斬殺されたロシア海 軍の見習士官ローマンと水兵ソコロフの墓だそうだ。

横浜関内散歩[昔、書いた福沢185]2019/12/29 07:36

    横浜関内散歩1 桜木町から馬車道まで<小人閑居日記 2003.7.23.>

 いささか旧聞だが12日の土曜日の午後、「新・横濱歴史散歩」の4回目、関 内を散歩して来た。 雨の予想が、幸い晴れたものの、暑い中の長い散歩は、 なかなか大変だと思われた。 東横線の桜木町駅改札口で集合、石川潔さんに ここが最初の横浜駅だったという話を聞く。 明治5(1872)年に開通し た日本最初の鉄道は新橋-横浜間を一日二往復、53分という案外な速さで走 った。 国道16号線を渡って、ぴおシティ前から、大岡川にかかる大江橋(神 奈川権令(ごんれい)で明治5(1872)年マリア・ルース号事件の裁判長 を務めた大江卓の名を取った由)を渡り、指路教会へ。 指路教会はヘボン塾 に学んでいた青年たちを中心に、キリスト教禁令の高札が外された翌年の明治 7(1877)年、米国長老教会宣教師ヘンリー・ルーミスを初代牧師に設立 された。 「指路」はヘボンの命名。 関東大震災後の建築で、横浜市の歴史 的建造物だという現会堂の内部に入れていただく。 2000年11月に完成 したという立派なパイプオルガンの音が響いていた。 発祥の地という明治屋 を右折、裏へ回り込んで、右へ行けば伊勢佐木町、左へ行けば馬車道となる吉 田橋の跡へ。 ここに文久2(1862)年外国人居留地への主な入口となる 関門が設けられた。 最初は木の橋だったのを、お雇い外国人イギリス人技師 ブラントンに依頼し、「かねの橋」鉄橋に架けかえた(明治2(1869)年完 成)。

 左折して馬車道を歩く。 アイスクリーム発祥の地を記念する母子像彫刻、 写真機の形をした下岡蓮杖写真館跡の記念碑、明治5(1872)年に高島嘉 右衛門が灯したガス灯を複製した記念碑などを見ながら、今は神奈川県立歴史 博物館になっている青いドームが美しい旧横浜正金銀行本店へ。 明治32(1 899)年のドイツ・ルネッサンス様式、花崗岩の建物は、妻木頼黄の設計で 彼の代表建築という。 横浜正金銀行は、福沢諭吉とも縁が深い。 

       横浜関内散歩2 海岸通りの前半<小人閑居日記 2003.7.24.>

 馬車道を、桜木町駅から弁天橋を渡って来るメインの道である本町通りとの 交差点で右折、今は昔日のという感じの漂う横浜の銀行街を行き、横浜銀行倶 楽部のところで関内大通りへ左折、正面に二本線のマークの日本郵船の横浜支 店ビルが見えてくる。 16本のコリント式列柱が、50メートルに渡って並 んでいて壮観だ。 この高さで3階建、さぞ使いにくいだろうが、しばしば伝 記や小説に登場するミナトヨコハマの記念物である。 右折してその前の海岸 通りを行くと、左手にテレビのニュースでよく見る建物、悪名高き神奈川県警 だ。 左に「クィーンの塔」の横浜税関、右に「キングの塔」の神奈川県庁、 ともにチェスの駒からそう呼ばれたのに、今の横浜市開港記念会館をのちに「ジ ャックの塔」と呼ぶことにしたのは、チェスに「ジャック」がないのを知らな い田舎者の仕業だとは、石川さんの弁。

 税関を右折、いったん本町通りに出て県庁を回り込む。 日本大通りとの交 差点角が、開港時の神奈川運上所の跡、信号を渡った横浜港郵便局は日本最初 の外国郵便取扱の場所で、それまでは各国の領事館へ持って行ったのだそうだ。  日本大通りを旧イギリス領事館だった横浜開港資料館へ。 ここの中庭にはペ リー上陸、日米和親条約締結の絵に描かれている玉楠の木といわれる木がある。  入口の元の守衛詰所が喫茶店になっていて、その名も「ペリー」。 隣の日本最 初のプロテスタント教会である、横浜海岸教会を外から眺める。 この教会に まつわる私の個人的な思い出は、4月14日の日記に書いた。 何度もそばへ 行っていながら、その教会の前に立つのは、実に半世紀近い49年ぶりのこと だった。

    横浜関内散歩3 山下公園、ヘボン邸、中華街<小人閑居日記 2003.7.25.>

 開港広場の記念碑を見て、信号を渡るとシルクセンター。 角の木が、見覚 えのあるみずみずしい葉っぱをつけている。 桑の木だ。 山下公園に入り、 インド水塔というのを見る。 山下公園には何度も行っているが、こんなもの があるのを知らなかった。 インド商人・居留民が関東大震災の折に世話にな ったということで建てたもの、天井を見上げるとインドの色のタイルがある。  赤い靴はいていた女の子の像、女の子が宣教師に連れられてアメリカに行く前 に、結核のために麻布鳥居坂の施設で亡くなった話を聞く(そういえば麻布十 番にも像がある)。 氷川丸(1万2千トンだそうだ、1万トンという船の目安 になる)の所で山下公園を出て、バンド(海岸通り)を行き、ホテル・ニュー グランドの本館で右折、中庭に入れるので、ちょと覗く。

 一本裏の Water street 水町通りを、人形の家の裏まで行く。 合同庁舎の 所が居留地39番、ヘボン邸の跡で、記念碑がある。 そこから眺める道路標 識は MOTOMACHI と、ヘボン式だった。 谷戸橋を右折、居留地80番カソ リックの横浜天主教教会跡を左折して中華街へ。 関帝廟通りをまっつぐに、 関帝廟を覗いて、地久門を右折。 回転飲茶(回転寿司の亜流)や、中国喫茶 の店(けっこう高いらしい)が出来ている。 善隣門の前を左折、横浜スタジ アムの横浜公園へ。 「かねの橋」、燈台、下水道、都市計画など横浜に多大な 功績を残したブラントンの胸像を見て、日本大通りへ。 日銀横浜支店で左折 して、横浜市開港記念会館横の岡倉天心誕生地の碑(福井藩が土地の名主の名 義と土地を借り「石川屋」という生糸商をやった、天心はその家の息子)の前 で解散した。 水分補給のコーヒー・ブレイクを入れて3時間半、歩いた私も、 書いた私も、読んでくださった方も、くたびれた。