藤沢宿、常光寺のヨネ・ノグチ=野口米次郎の墓 ― 2025/01/09 06:58
三田あるこう会の「藤沢七福神初詣」、遊行寺を出て、ふじさわ宿交流館へ。 藤沢は、東海道五十三次整備以前から清浄光寺(遊行寺)の門前町として栄えていたが、慶長6(1601)年に東海道の宿場となった。 境川にかかる遊行寺橋(昔は大鋸(だいぎり)橋)を渡って、右に折れると、藤沢宿の本通りに出るのだが、その手前が防御目的の枡形という鉤の手になっている。 清浄光寺の東側(遊行寺坂の上)に江戸方見付があり、現在の小田急江ノ島線藤沢本町駅を越えた西側に京都側の上方見付があって、この範囲が藤沢宿だった。 四谷見付、赤坂見付などの「見付」とは何か、という話が出て、関所の小さいものだろうなどと言ったが、『広辞苑』には「枡形がある城門の、外方に面する部分。番兵の見張る所。」とあった。
藤沢宿の本通りを京都側へ進むと、本陣の跡が二つあり、左に常光寺(福禄寿)がある。 これで七福神の内、四つ(この後、時間の関係で、予定していた白旗神社の毘沙門天は省略)。 常光寺は、たまたま来月の命日に三田あるこう会で行く、上大崎の旧福沢諭吉墓所と同じ名前、同じ浄土宗の寺である。 この寺には、ヨネ・ノグチ、野口米次郎の墓がある。 野口米次郎は、詩人、慶應義塾大学部文学科初代教授。 1875(明治8)年、愛知県海部郡津島町(現津島市)に生れた。 慶應義塾で英語、歴史、経済学を学んだが卒業せず、1893(明治26)年19歳の時単身アメリカに渡る。 野口米次郎については、以前この日記に縷々書いたことがあって、改めて読んでも興味深いので、明日から紹介することにしたい。 その前に、今度見つけたものをいくつか。
藤沢の常光寺に墓があるのは、三兄野口祐眞(鶴次郎)がこの寺の住職で、帰国後一時寄寓したことがあった。(ウィキペディア)
三田評論ON LINEの2023年5月23日で、「福澤諭吉をめぐる人々」野口米次郎を、末木孝典さん(慶應義塾高等学校主事・福澤研究センター所員)が、堀まどか著『「二重国籍」詩人野口米次郎』(2012年)を参照して、書いているのを読むことができる。 それによると、野口米次郎と福沢が対面したのは一度だけで、渡米前の挨拶に福沢宅を訪れた。 野口は回想で、蝋燭の光が二人を照らしていたことを記している。 福沢は、一文無しで外国へ出かけることを勇気があると褒めて、「所詮人生は一六勝負だ、危険を恐れては最後の果実は握れない」と励まし、自分の写真を取り出して漢詩を書いてくれ、「それでは体を大事にしてくれ」と玄関まで送ってくれた。 漢詩を書くために墨を摺る福沢の姿が、鎌倉の大仏のように大きかった、という。
また、野口の存在が、戦後忘れられた一因は、熱心な戦争への賛同姿勢にあった、とする。 ただ、その裏には、一度祖国を捨てた野口にとって、もう一度祖国を捨てるわけにはいかなかったという、複雑な事情があった、とも。 三田あるこう会で、宮川幸雄さんが教えてくれた。 野口米次郎は戦犯になったが、小泉信三は戦犯にならなかった、マッカーサーは来日した時、ヨネ・ノグチはどうしていると聞いた、と。 どちらも、知らない話だった。
イサム・ノグチの母、レオニー・ギルモアはボルティモアのブリンマー大学に学んだが、三年上には日本からの留学生、津田梅子が在籍していた。 レオニーは1912年日本で娘、エイルズ(アイリス)・ギルモアを出産したが、相手が誰であったかは謎のままである。(ドウス昌代の『イサム・ノグチ 宿命の越境者』は、相手をレオニーが家庭教師をしていた学生の一人だと推測している。) アイリスは、コネティカット州の進歩的な学校に入学し、卒業後はマーサ・グラハム舞踏団のダンサーになった。(ウィキペディア「レオニー・ギルモア」)
遊行寺が舞台、古今亭志ん生の「鈴ふり」 ― 2025/01/08 07:06
遊行寺が出てくる落語がある。 古今亭志ん生が、雨が降ってお客がごく少ないような晩の寄席でやる「鈴ふり」という珍品の噺である。 昔、広尾のマンションにいた頃、昭和43(1968)年から始まったTBS落語研究会へ既に通っていて、それを知った隣人が密かにカセットテープを貸してくれて聴いたのだった。
その「鈴ふり」の舞台が遊行寺である。 住持は大僧正の位を持っている。 大僧正になるまでは大変な修行が必要で、江戸時代の浄土宗では関東に「十八檀林」という学問所があって、その十八カ所の寺を抜けて行かなければ大僧正になれなかった。 志ん生は、マクラで、「その修行の一番最初(はな)へ飛び込むのはってェと、下谷に幡随院という寺がある。その幡随院に入って修行をして、その幡随院を抜けて、鴻巣の勝願寺という寺へ入る、川越の連馨寺、岩槻の浄国寺、下総小金の東漸寺、生実(おいみ)の大厳寺、滝山の大善寺、常陸江戸﨑の大念寺、上州館林の善導寺、本所の霊山寺、結城の弘経寺(ぐぎょうじ)へ入って、ここで紫の衣一枚となるまで修行する。それから下総の国飯沼の弘経寺に入る。ここは「十八檀林」のうちで「隠居檀林」といって、この寺で、たいがい体が尽きちゃう。そこを一身になって修行をして、この寺を抜けて、深川の霊厳寺、上州新田の大光院、瓜連(うりずれ)の常福寺を抜けて、紫の衣二枚となって、それより、えー、小石川の伝通院、鎌倉の光明寺に入って、緋の衣一枚となり、江戸の増上寺に入って修行して緋の衣二枚となって、はじめて大僧正の位になる……ここまでの修行が大変」と言い立てる。
そのころ、藤沢に、遊行寺という寺があった。 この遊行寺の住職はてェと、大僧正の位があって、「遊行派」といって、千人からの自分のお弟子さんがいる。 それがみんな、十九、二十というところが、一心に、わき目もふらずに、修行をしている。 でも、どのお弟子に自分の跡を継がせるか、わからない、相談をして、旧の五月の二十八日、大僧正を継ぐ者を選び出す会を催すことになる。
客殿に控えた千人を、一人ずつ一間に呼び出し、手箱から太白の紐がついた小さな金の鈴を出し、若い僧のセガレの頭へ、ちょいと結びつける。 ご住持が御簾の内から、「本日は、吉例吉日たるによって、神酒、魚類を食するように……」と声をかけ、酒とか刺身とか、卵焼きだの鰻だの、付き合ったこともねえ食物(もの)ばかり、ズーッと並んでいる。 お酌の者が出て来る。 これが新橋、柳橋……そういう花街(ところ)の指折りの芸者なンですナ。 年のころは十七から二十まで……。 旧の五月だから、着てェる着物は、全部、揃いで、紺の透綾(すきや)でナ、「紺透綾」。 それに「ゆもじ」が、三尺の丈(たけ)で、ごく幅のせまいものをしめている。 肌の上に、ジカに紺透綾を着る。 肌の色は、ってぇと、抜けるように白いところへ、紺透綾……すき通って見えちゃうわけです。 <庭に水、新し畳に、伊予すだれ 透綾縮みに、色白のたぼ> お乳なんぞ、蕎麦まんじゅうに隠元豆が乗っかってるようなのでね。 こんな姿の、三百人からの女がパアーーッと出て来て、前に座った。 おひとつお酌を、と飲まされる。
ウッ! ウッ! ウッ! チリーン! チ、チ、チリーン! チリン、チリン、チリン、チリン……。 千人からのセガレにつけた鈴でございます。 それがいっぺんに。 チリーン! チリーン! と鳴ってきたから、客殿の中は大騒ぎ。
御簾の内にいて、その音を聞いていた大僧正のご住持が、ハラハラと涙をこぼし、「アーア、情けない。もう仏法も終わりだ。これだけの若者が修行をしていて、全部が全部、鈴を鳴らすとは、何事であろうぞ!?」
正面に一人、十九か二十の青き道心が、目を半眼に閉じて、墨染の衣で数珠をまさぐりながら、静かに座禅を組んでいる。 耳を澄ますと、その若い僧からだけは、鈴の音がしない。 この遊行寺の跡目を継ぐのは、あの僧だ、あの僧をおいてない。 と、呼び寄せて、係の者が、「どうぞ、どうぞ、お見せを願います、さァ、どうぞ…。あッ! あ、あなた、鈴が、ありませんな!?」 「ハイ、鈴は、とうに、振り切れました――」
「藤沢七福神初詣」遊行寺坂を登る ― 2025/01/07 07:09
5日は、三田あるこう会の第573回例会「藤沢七福神初詣」があった。 JR東海道線の藤沢駅集合、最初に江の島へ行く江の島道の分岐点「江の島弁財天道標」へ行く。 集合場所で2日、3日の「箱根駅伝」の話がたくさん出たので、当番の辻龍也さんが急遽予定コースを少し変え、箱根駅伝で名前の出る「藤沢橋」を渡ることにし、「遊行寺坂」の登りにかかる。 坂の手前を右に入って、感応院の「寿老人」に寄り、遊行寺を左に見ながら、坂を登って、諏訪神社、72段の階段を上って「大黒天」。 地元の建築関係の頭の名前の入った「四神剣(旗)」の保管庫があり、落語の「百川」「主人家のかきゃあにん」「四神剣の掛合人」を思い出す。 遊行寺へは、遊行寺坂からは入らず、細い道を山門の方へ回って、正面からまっすぐ本堂へ、石畳を登る。 立派なお寺だ、回廊の下をくぐって、境内の宇賀神社「弁財天」へ。
遊行寺は俗称で、正式には藤沢山(とうたくさん)無量光院 清浄光寺(しょうじょうこうじ)、時宗総本山。 一遍が諸国遊行の際、鎌倉入りを武士に阻止されて、ここを念仏道場としたのに起源、1325(正中2)年遊行四代上人呑海が寺院を創建したから、開山700年になる。 時宗は、1274(文永11)年に一遍が開宗した日本浄土教の一門で、一遍が門下の僧尼を唐の善導にならって時衆と称したのに始まる。 浄土三部経のうち、特に阿弥陀経を所依とし、平生を臨終と心得て念仏することを旨とする。 遊行(僧が修行・説法のため諸国をめぐり歩くこと)と賦算(ふさん、一遍が熊野神から受けた神託にもとづいて「南無阿弥陀仏、決定往生(けつじょうおうじょう)六十万人」と記した札を配ること)・踊念仏(空也念仏のこと。太鼓や鉦を打ち念仏・和讃を高唱する所作が踊るのに似るからいう)を行う。 2019年5月の「日曜美術館」に「踊らばおどれ~一遍聖絵の旅」、一遍の生き方に心酔する舞踏家の田中泯さんが、絵巻に描かれた踊り念仏発祥の地を訪ねる番組があった。
「遊行寺の札切(ふだきり)」という季題が『角川俳句大歳時記』にあった。 季節は「新年」、傍題は「お符切(おふだきり)」「初お札(はつおふだ)」。 解説「神奈川県藤沢市の時宗総本山遊行寺(清浄光寺)で、正月11日に行われる行事。宗祖一遍上人自らが刻した六字名号の札を刷り、これを截つ。この念仏札には「南無阿弥陀仏」と書かれ、その下に小さく二行に「決定往生・六十万人」と記してある。これは一遍上人の神授感得の頌(じゅ)の「六字名号一遍法。十界依正一遍体。万行離念一念証。人中上々妙妙華」の中から、頭の一文字ずつを取って「六十万人の頌」ともいう。この札は、遊行人が諸国に遊行する折に、結縁のため大衆に配られた。(榎本好宏)」
近代と散歩、始まりは勝海舟か、福沢散歩党 ― 2025/01/04 07:33
鷲田清一さんの「折々のことば」3069(2024.4.27.)「時間さへあらば、市中を散歩して、何事となく見覚えておけ、いつかは必ず用がある 勝海舟の教師」。 鷲田さんは解説する。 「徳川の旧幕臣は、かつて長崎で修業中、教師に教わったこのことを肝に銘じているという。政治はつねに世態や人情を「実地」でよく観察し、事情に通じていないとだめだ。だから江戸に戻っても、暇さえあれば、目抜き通りから場末、貧民窟まで歩き回った。それが官軍による江戸攻めという非常の時に役立ったと。『氷川清話』から。」
日本で最初に散歩をしたのが、勝海舟だったと、どこかに書いたことがあるような気がして、探してみたが、見つからなかった。 彰義隊の戦争のさなか、福沢が日課の講義を続けたという「福澤先生ウェーランド経済書講述記念日」、2009年5月15日の記念講演会は、前田富士男さん(慶應義塾大学名誉教授・アートセンター前所長)の「モダン・デザインへの眼差し―美術史学からみる福澤諭吉」だった。 その中で、前田富士男さんは、アメリカとヨーロッパで、福沢が近代を「散歩と乳母車と写真と椅子」からみた、と指摘した。
福沢たち遣欧使節団は蒸気機関車に乗ってロンドンに到着した。 前田さんは、W・フリスの《鉄道駅(パディントン)》1862の絵を見せる。 多くの人が右往左往する駅の情景を、肖像画の伝統にしたがって、大人から子供までいろいろな人物像で描いている。 勃興してきた市民階級、大衆だ。 J・リチー《夏のハイドパーク》1858、モネ《ピクニック(草上の昼食)》1865や《散歩》1865では、夏の公園に遊ぶ人々や散歩する人々が描かれている。 そこには椅子や乳母車がみえる。 散歩は1840年代から市民社会の興隆とともに流行し始めたのだそうだ。 40年ほど前にドイツに留学した前田さんは、人々が森を正装して散歩しているのを見て、驚いたという。 C・シュピッツヴェーク《日曜日の散歩》1841を示す、日曜日の礼拝の帰り、家族みんなが正装して散歩している。 散歩は一人でしちゃあいけない、グループで談笑しながら歩く、文化的伝統がある。 散歩党と話しながら歩いた、あのパッチを穿いて、尻をからげた福沢の散歩姿を、福沢はどうも正装と考えていたらしい。 あの恰好で葬式に出て、顰蹙を買ったという話もあるそうだ。
昭和天皇と母皇太后節子の確執 ― 2024/12/30 07:26
原武史さんの『拝謁記』「読みどころ」(6)(8)、皇太后節子(さだこ)、他の皇族との関係の問題である。 まず昭和天皇の母である皇太后節子。 1921(大正10)年皇太子裕仁が訪欧し、大正天皇の体調悪化に伴い、11月に摂政になったが、裕仁が英国の王室に影響され、祭祀をおろそかにすることに不安をいだき、女官制度の改革や宮中祭祀をめぐって皇后と裕仁の間に確執が生じるようになる。 1926年12月の大正天皇死去で、皇太后となり、現在赤坂御用地内の仙洞御所が建っているところにあった大宮御所に住み、「大宮様」と呼ばれた。 皇太后と天皇との確執は敗戦までずっと続き、皇太后は空襲が激しくなってもなお「かちいくさ」を祈り続けるなど、戦勝に固執した。 戦地から帰還した軍人をしばしば大宮御所に呼び寄せ、激励の言葉をかけていた。 皇太后を恐れていた天皇は、その意向に逆らうことができなかった。 「おたゝ様(お母様)はそんなこといつては悪いが、所謂虫の居所で同じことについて違った意見を仰せになることがある。其点は困るが」(1950(昭和25)年1月6日)
戦争が終わると、「時流に阿ねる御性質」が一転して、合法化された日本共産党に対する同情となって表れていると天皇は考えていた。 田島は天皇に対して、「大宮様は(中略)進歩的に考へらるることを仰せになることがおすきと存じます」(1949(昭和24)年11月8日)と私見を述べ、対策としてマルクス主義を批判する経済学者の小泉信三に依頼し、「共産党の駄目のことを御進講願ふことも考へられます」(同)と進言している。
(25日の<小人閑居日記に「昭和23(1948)年5月1日に、芦田均首相が小泉信三さんの家に来て、宮内庁長官になってほしいと言った」と書いていた。田島道治が芦田均首相に任命されて宮内府長官になったのは昭和23(1948)年6月。翌昭和24(1949)年6月宮内府は宮内庁と改称され、田島は宮内庁長官となる。同年10月15日芦田均内閣は昭和電工事件で総辞職し、第二次吉田茂内閣となる。なお、高橋誠一郎さんが文部大臣だったのは第一次吉田茂内閣の昭和22(1947)年1月11日~5月24日。高橋誠一郎さん〔昔、書いた福沢12〕<小人閑居日記 2013.11.27.> 吉田茂と『帝室論』〔昔、書いた福沢13〕<小人閑居日記 2013.11.28.>参照)
1951(昭和26)年5月17日に急逝し、「貞明皇后」と追号されるが、『拝謁記』では皇太后に対する言及が非常に多くなっていて、天皇が敗戦後もなお皇太后を恐れていたことが分かる。
亡くなったあとも、「私はおたゝ様とは意見が時々違ひ、親孝行せぬといふやうな事にもあるかと思ふが、同居が長ければもつと意見が一致するのかも知れぬが……」(1953(昭和28)年4月10日)
原武史さんは、皇太后遺書の謎を二つ挙げている。 皇太后が死去して約一カ月後、大宮御所から遺書が発見された。 大正天皇が亡くなる約二カ月前の1926(大正15)年10月22日に皇后として記したものだった。 高松宮が日記に概要を記しているだけで、公表はされていない。 『拝謁記』の二人のやりとりから、一つは、秩父宮や澄宮(後の三笠宮)に「何か由緒ある家宝となるやうなもの」を渡したい、というもの。 もし「家宝」が「三種の神器」を指していれば、草薙剣の分身と八尺瓊勾玉(いわゆる剣璽)で、明治の皇室典範では新天皇が継承することになっていたので、皇太子裕仁が天皇になれないことを意味していた。 もう一つ、皇后は1924(大正13)年筧克彦が提唱していた「神ながらの道」に関する講義を八回にわたって聴き、大きな影響を受けた。 その時書いたものを秩父宮に渡すように遺書に書いてあった。 原武史さんは、秩父宮に天皇になってもらいたいという皇太后の希望のあらわれのように見える、とする。
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