『世界ふしぎ発見!』「家康、天下統一の秘策はベトナムにあった」2024/03/19 07:13

 TBS土曜夜の『世界ふしぎ発見!』が、今月末で約38年続いたレギュラー放送を終了するそうだ。 その『世界ふしぎ発見!』でも、2月10日に「家康、天下統一の秘策はベトナムにあった」というのをやっていた。 NHKスペシャル『家康の世界地図~知られざるニッポン“開国”の夢』より、少し前の朱印船貿易の話だが、家康はずっと貿易には関心を持っていたことがわかる。

 取り上げられた輸入品は、生糸と沈香。 ベトナム中部に江南(?)という国があり、その古都ホイアンが貿易の拠点だった。 ホイアンの名物は、中国からもたらされた色とりどりのランタン。 貿易に携わる日本人町があり、来遠橋(らいおんばし、別名日本橋)が最近JICAの協力で修復されたという。 絹糸を使って絵を描く刺繍絵画があり、カオラウという麺料理は、伊勢うどんがルーツとされる。 室町時代末期から江戸時代初期にかけては、グローバルな大航海時代だった。

 ベトナムでは、貿易で入ってくる日本の銅を使っていて、通貨の単位ドンは、それに由来するという。 御朱印船は、鎖国までの30年間に72隻を数え、茶屋一族が担っていた。 主な輸入品は生糸と沈香で、薬としてのアロエもあった。 沈香は、ゾウボウというジンチョウゲ科の常緑高木の樹脂で、特に良質なものは伽羅として珍重された。 家康は、沈香を日用品の整髪料に使ったというクイズがあった。

 武器弾薬の輸入もあったのだろう、貿易による経済力は、家康の天下統一の軍事力をも支えたのであった。

スペイン航路に参入する、貿易立国の夢2024/03/18 07:10

 転機は、慶長14(1609)年、スペイン船が(千葉県)御宿で座礁したことで訪れる。 スペイン国王の重臣の一人、フィリピン臨時総督のロドリゴ・デ・ビベロが乗っていて、駿府城で交渉が始まる。 ビベロは厳しい条件を出す。 キリスト教の布教、オランダ人の追放、鉱山を発見したらその利益の3/4を贈与、全沿岸の測量、関東の港を与え救援体制を整備。 家康は、側近全員の反対を押し切って、オランダ人の追放と鉱山の利益だけを除き、この厳しい条件を飲んでもスペイン航路に参入しようと考え、スペイン王からの回答を待つ。

 スペイン南部セビリアのエスピリトゥ・サント女子修道院で、大発見があった。 「聖櫃(せいひつ)」が、調査の結果、日本製の螺鈿の豪華な漆器と判明した。 1610年頃の主力輸出品で、30個以上が残っている。 オビエド大学の川村やよい准教授(美術史)は、ヨーロッパの人のために作ったもので、形も模様も非常に派手な贅沢品、家康も西洋人の好みがわかっていたのだろう、と。 スペインからは、黄金に輝く世界最高水準の洋時計が届く、国王の家康への贈り物だった。

 フェリペ3世の回答、許可証が発せられた。 しかし、それが届くことなく、大坂の陣があり、家康が75歳で死ぬ。 世界を股に掛けた貿易、それは見果てぬ夢に終わった。 許可証は、アメリカ大陸のアカプルコで止まっていた。 キリスト教徒の増加を脅威に感じた家康が禁教令を出したという情報がスペインに届き、発送が差し止められていたのだ。 貿易と布教を別のものとした家康に対し、それを切り離せないスペインは禁教令に反発し、白紙に戻したのだ。

 二代秀忠は、父の対外政策を転換していく。 ウィリアム・アダムスは、全てのものが、余りにも大きく変わってしまった、と手紙に書いているという。 秀忠は貿易の制限令を出し、窓口は平戸と長崎だけになった。 寛永18(1641)年には、長崎の出島のオランダのみに限る鎖国体制へ移行、以来200年続くことになる。 家康が恐れなかったが、秀忠は出来なかった。

 《二十八都市萬国絵図屏風》には、太平洋の真ん中にも、ヨーロッパの港にも、日本の船が描かれていたが、それは家康の貿易立国の夢の跡だった。 貿易立国の道は、戦後の高度成長を支え、日本経済の原動力となっていく。 そして今もなお、島国日本が世界に生き抜くための「国のかたち」であり続けている。

 私は、学校を卒業して銀行に入った頃、高坂正堯さんの『海洋国家日本の構想』(1965・中央公論社)を読んだことを思い出した。 高坂正堯さん、最近再評価されているようだ。

ポルトガルからオランダへ、さらにイギリスも2024/03/17 09:19

 大きな苦境の原因は、生糸だった。 絹織物が好まれ、着飾るようになったので、生糸の需要が高まり、最大の輸入品になって、貿易赤字となった。 生糸の輸出は、中国を拠点にしたポルトガルが握っていた。 家康は、慶長14(1609)年、オランダに有利な条件を与え、関税をかけず、平戸に商館を許して、ポルトガルの独占を抑えようとする。 競争が起これば生糸の価格を下げることが出来、日本は有利な立場に立てると考えたのだ。 ポルトガルの独占は解消した。 ヨーロッパ諸国の競争を巧みに利用した。  家康がつぎに目をつけたのは、イギリスだ。 イギリスにも破格の待遇を与え、加えて蝦夷の通行権を与えた。 イギリスは当時、未開拓の北西航路を探索中だったので、それを後押しした。

 さらに今回、家康の壮大な野望が明らかになった。 日本自らが世界の海に乗り出そうとするものだ。 スペインのインディアス総合古文書館で、家康と秀忠連名のスペイン副王宛書簡が発見された。 アントニオ=サンチェス・デ・モラ専門職員によると、ヌエバ・エスパーニャ(スペイン領。現在のメキシコ)のアカプルコと貿易船を毎年往来させ、日本船を送り込んで新たな貿易利益を得るとともに、現地に渡った日本人に先端の技術、銀を精錬する技術、巨大な船を作る技術、大海原を航海する技術などを学ばせようとするものだった。 その全てに家康は、興味を持っていた。 ヨーロッパ文明の持つ優れたものを、日本のために利用すること、それは一種の革命だった。 しかし、当時ヨーロッパの国々は自国の航路に他国が参入してくれば、武力を使って締め出していた。 そうした中で、家康は、スペインの航路に参入しようとしたわけだが、それはスペイン国王が断り続けた。                   (つづく)

家康の対外政策ビジョン2024/03/16 07:19

 家康の対外政策のビジョンについて、国際日本文化研究センターのチームが20年前から研究を続けている。 海外に眠る史料は、家康の手紙、面会した外国使節の日記などが、さまざまな言語で書かれ、10万ページに及ぶ。 フレデリック・クレインス教授(日欧関係史)によると、家康は多くの国に書簡を送って交渉していた。 アジア諸国42通(カンボジア19通、アンナン13通、シャム4通、バタニ4通、チャンパ1通、タタン1通)、ヨールッパとその植民地64通(ルソン(スペイン領)32通、ノビスパン(メキシコ。スペイン領)6通、ゴア(ポルトガル領)8通、マカオ(ポルトガル領)9通、オランダ4通、イギリス3通、スペイン2通)。 13の国と地域に、合計106通も送っていて、全方位外交と呼ぶべきものだ。

 1611年、オランダ使節が家康、秀忠と面会し、日本は異国に対し自由で開かれている、警備や監視に邪魔されることなく自由に売買することが許されると言われた記録がある。 戦乱から国の経済を立て直し、成長する狙いがあった。 ただ、壁になったのは前政権秀吉の外交政策で、朝鮮を侵略しアジア諸国に領土を拡大する姿勢を見せ、宣教師たちを迫害したのを、諸外国が警戒したことだった。 ライデン大学の日本学科長イフォ・スミッツさんによると、オランダのマウリッツ公に送った書簡で、家康はオランダと新たな道を切り拓きたいとして、日本を陋国(ろうこく。取るに足らない国)とへりくだった表現で、警戒心を解こうとしている。 イギリスには、ジェームズ1世宛に破格の対応、どの港を利用しても構わない、江戸の好きな所に屋敷を建ててもよいなど、誘惑的な書簡を送っている。 家康は、狡猾な政治家で、優れた軍人であるだけでなく、外交問題にも戦略を巡らせた。

 各国の商人が来日し、スペインの商人は羅紗や眼鏡を家康に見せ、久能山の東照宮には家康愛用の鉛筆、コンパス(金銀象嵌けひきばし、地図の距離を測る)、ギヤマン、伽羅(香木)などが残っている。 鉄砲や大砲などの武器も、銀で購入し、石見銀山など鉱山を開発し、銀の産出量は世界の三分の一を占めたといわれる。 こうして、日本には世界の富が集まるようになる。 しかし、日本は大きな苦境に立たされる。              (つづく)

『家康の世界地図~知られざるニッポン“開国”の夢』2024/03/15 07:08

 12月17日放送のNHKスペシャル『家康の世界地図~知られざるニッポン“開国”の夢』が、とても興味深かったので、書いておきたい。 関ケ原で勝利した家康は、国内の政権基盤を確立するとともに、新しい国づくりを構想していた。 時は世界的に、大航海時代だった。 その秘策は、日本を世界に開く自由貿易で、この国を豊かにしようというものだった。 グローバルな国を目指す壮大な構想が、海外と日本の最新の歴史研究で、明らかになってきたという。

 《二十八都市萬国絵図屏風》(皇室所蔵)を家康が愛用しており、『駿府記』慶長16(1611)年9月20日に、これを見ながら海外の国々について議論していたとの記述がある。 左端のアメリカ大陸から、右端の日本までの世界地図と、42の民族が描かれ、もう一隻には世界の覇権を争う国王たちの姿(トルコ、スペイン、ペルシャなど)や名だたる都市や港の絵が描かれていた。 この絵図がどのようにして描かれたのか、その謎を解く鍵が、オランダ、アムステルダムの国立海洋美術館で見つかった。 地図製作者のブラウ家が1606年から1607年にかけて作った世界地図と一致した。 学芸員のディーデリック・ワイルドマンさんは、「航海に1年かかるのに、わずか4年後という驚異的な早さで世界情報を入手している。地図は家康が依頼したものと考えられる」と言う。

 家康が海外に関心を持ったきっかけは、慶長5(1600)年イギリス人航海士ウィリアム・アダムス(後の三浦按針)が豊後国にオランダ船リーフデ号で漂着したことだった。 アダムスが家族や友人に宛てた11通の手紙が残っている。 漂着すると、5隻の軍艦で王(家康)の宮殿(伏見城)に呼び出された。 家康に、日本に来た目的を聞かれ、オランダとイギリスから来て(スペインやポルトガルでなく)、貿易をしたい、友好を深めたい、と言った。 どういうルートで来たかは、世界地図を示し、マゼラン海峡を抜けてきた、と説明した。 時は大航海時代、ポルトガルは東回り、スペインは西回りの航路で、ヨーロッパからアジアへ向かい、各地でキリスト教を布教しながら、香辛料や武器の売買をして、巨万の富を得た。 16世紀後半、新勢力のイギリスとオランダが台頭し、各地で旧勢力と世界の覇権をかけて戦うようになっていた。 こうした世界情勢の中、日本では家康が関ケ原で勝利して、政権基盤を確立、外国との新たな関係を模索し始めていた。

 家康はアダムスに、世界情勢から、西洋人の習慣や信仰、家畜の種類まであらゆる質問をし、夜晩くまで側にいることになったという。 アダムスは、海外と貿易する利点を力説し、家康は日本にないものを貿易し、この国を豊かにすることを考えるようになった。                    (つづく)