『新日本風土記』「東京 池上線の旅」町工場2023/06/06 07:04

 「風の中に、土のにおいに、もういちど日本を見つける。私を見つける。」と、松たか子がナレーションする『新日本風土記』「東京 池上線の旅」を見た。 「蒲田から五反田へ3両編成の池上線に乗って全15駅。10.9キロの旅に出れば、活気あふれる商店街、歴史や信仰の地が次々と。戦前・戦後を生き抜いた家族の物語をつづる」というテーマだ。

 池上線は、荏原中延駅と、大井町線の中延駅の間、中延駅寄りで生まれ育った。 とても、懐かしい。 地元の延山小学校(えんざん、中延の「延」と、小山の「山」と聞いた)を卒業して、白金今里町の明治学院中学校に入った。 池上線で荏原中延から五反田まで行き、都電で二本榎に通った。 池上線の満員電車で通学する様子を面白おかしく書いた作文を、国語の久保山昌弘先生が褒めてくれた。 先生が学校新聞を作るのにも、声をかけて下さって、当時の新聞(一般日刊紙)で流行っていたクロスワードパズルを作って載せたりしたことが、後の高校新聞につながった。 考えてみれば、「等々力短信」や「小人閑居日記」は、池上線の満員電車に一つの起源を持つと言えるのかもしれない。

 そこで、「東京 池上線の旅」である。 蒲田の町工場から始まった。 かつては日本有数の町工場地帯だったここで、金属を「曲げ」る専門工場の三代目、川端さんといったか、いい顔をした優しい人だ。 初代の祖父は、金沢から出て来て、起業した。 海外に出た大量生産の工場など、ほかでは出来ない、さまざまな単品の特殊な仕事が舞い込む。 何回か機械で曲げた品を、最終的にきちんと目標の寸法に合わせる技術を持っている。 もう一軒残る「曲げ」工場、バイクのハンドルを「曲げ」る特殊技術を持つ社長が、相談に来る。 小学校の先輩は、納期の厳しい円形のカーテンレールを頼みに来る。 祖父が一つ一つ手作りした治具を当てていくと、曲げの角度がピタリと判る。 納期、もちろんクリアーした。

 よその工場で人間関係に疲れた前歯のない新入社員、45歳、きちんと準備してもらった機械で、初めて「曲げ」に挑戦する。 合格と言ってもらって、ホッと息をつく。 それを見守る親方、「つぶらな瞳がいい」と、笑うのだ。

 町工場の話、ガラス工場をやっていたので、いろいろなことが思い出されて、身につまされる。

誤解の原因と、大久保利謙論文2023/05/04 06:58

 誤解の原因は、何だったのか、朝日新聞の記事をさらに読む。 五代が設立に関わった「大阪商業講習所」が源流となっている大阪市立大学(現・大阪公立大学)の関係者らで作る「五代友厚官有物払い下げ説見直しを求める会」などによると、誤解のもとは1881(明治14)年7月26日付の東京横浜毎日新聞の社説。 「五代らが関わる関西貿易商会が開拓使と結託し、北海道物産のすべてを入手しようとしているという情報を得た」と記したが、その事実はなかった。

 五代は沈黙していたが、当時の本人の手紙によれば、政府の重要な地位の人物から「決して気にかけるな」などと諭され、きっと深い意味があるのだろうと、弁明を断念したらしい。

 1952(昭和27)年に歴史学の大家、大久保利謙(としあき)がこの社説などをもとに、実際に五代が払い下げを求めたかのように論文を書き、学界に定着してしまったという。

 昨日引用した私の「五代友厚がきっかけ、「明治14年の政変」」は、『福澤諭吉事典』のI生涯・5建置経営・②民権と国権の、「北海道官有物払い下げ事件」「明治一四年の政変」の項を参考にしていた。 ともに、「参考」(文献)に、大久保利謙「明治十四年の政変」『大久保利謙歴史著作集』2、吉川弘文館、1986年、が挙げられている。 両項目の執筆は、寺崎修さん、福沢研究でいろいろなことを教えていただいたが、12月3日に76歳で亡くなられたそうで、『三田評論』4月号に長谷山彰前塾長が「追想」「大仏心の人 寺崎修さん」を書かれている。 そういえば、福澤諭吉協会の一日史蹟見学会で多磨霊園などへ行った時、寺崎さんのお寺に寄ったことがあった。

五代友厚、官有物払い下げと「無関係」2023/05/03 08:03

 4月5日の朝ドラ『らんまん』に、ディーン・フジオカが坂本龍馬になって登場したので、私はこうツィートした(@goteikb1)。 「五代から龍馬になりて春らんまん。朝ドラ『らんまん』。朝井まかてさんが牧野富太郎を描いた『ボタニカ』を読んで、昨年2月4日~18日ブログ<轟亭の小人閑居日記>に書きました。龍馬は出て来ませんでした。」 ディーン・フジオカは、2015年12月21日からの朝ドラ『あさが来た』で五代友厚を演じて、大ブレークし、物語から消えた時は「五代ロス」と騒がれたのだった。 なおディーン・フジオカは、2021年の大河ドラマ『青天を衝け』でも、五代友厚を演じていた。

 「五代友厚 濡れ衣だった「汚点」/官有物払い下げ「無関係」教科書修正」という朝日新聞4月12日朝刊の見出しには、びっくりした。 私は、五代友厚がきっかけ、「明治14年の政変」<小人閑居日記 2015.12.28.>でこう書いていたからである。

「明治14年、北海道開拓使の官有物を五代の関西貿易商会に非常な廉価で払い下げる計画が発覚、五代と開拓使長官の黒田清隆が共に薩摩出身であったため問題化し、憲法制定と国会開設に関する路線選択と主導権をめぐる明治政府内部の対立[イギリス流の議院内閣制による国会を早期に開設すべしとする参議大隈重信と、プロイセン流の帝王大権優位の国会を漸進的に開設すべしとする伊藤博文らとの対立]とも結びついて、大隈重信や民間の諸新聞、民権派運動家らによる薩長藩閥政府批判、国会開設請願運動が沸き起こった。 追い詰められた政府の危機的状況の下で、伊藤博文・井上馨・岩倉具視・井上毅・黒田清隆ら薩長藩閥を中心とした勢力は、一種のクーデターを起こす。 明治14年10月12日、明治天皇の東北・北海道巡幸から帰還の日に、プロイセン流の欽定憲法路線の選択を意味する明治23年国会開設の勅諭の発布、ならびに筆頭参議大隈重信の罷免と官有物払い下げを中止の発表をするのだ。 これが「明治14年の政変」である。 同時に、大隈の与党と目された河野敏鎌・前島密・小野梓らに加え、福沢諭吉の慶應義塾系の少壮官僚、矢野文雄・中上川彦次郎・犬養毅・尾崎行雄・牛場卓蔵・森下岩楠らも、官界から追放された。 一方、五代もこの事件で「政商」として世論の非難を浴びた。」

 そこで、朝日新聞の記事である。 長年、五代友厚は、北海道開拓使の官有物払い下げ事件に関わったとされ、歴史教科書にもそう記されてきたが、最近の研究で無関係だったという可能性が高まり、この春から教科書の記述が書き換えられたというのだ。 住友史料館(京都市)の末岡照啓(てるあき)さんや『新・五代友厚伝』を著した八木孝昌さんの研究で、五代の汚点とされるこの事件が濡れ衣だったことがわかってきたのだそうだ。 政府が官有物の払い下げを決めた書類や、太政大臣だった三条実美あての「伺(うかがい)」に五代の名前は一切なく、政治家・佐々木高行の日記には黒田から聞いた話として、五代に払い下げを打診したが「採算が合わない」と断られた、と書かれていたという。

「ごきぶりホイホイ」50年、赤穂市大泊の工場2023/04/10 07:03

 6日朝日新聞(東京本社)の夕刊のトップが「ホイホイ こつこつ50年」で、アース製薬の「ごきぶりホイホイ」を取り上げ、赤穂市の工場を訪ねていた。 赤穂市坂越(さこし)にはゼミで一緒だったO君が在住していて、年賀状の返信メールに、坂越港から隣の入江「大泊(おおとまり)」までは山沿いに上って下っての狭いバス道で、大泊には「ごきぶりホイホイ」のアース製薬があるとあったのを記憶していたので、こう知らせた。

 「貴メールで、その存在を知った工場です。 アース製薬は69年に行き詰り、大塚グループの資本参加を受ける状態だったのが、当時の社長が71年夏、バスで赤穂の工場へ向かう途中、セミの声を聞き、少年の頃、トリモチでセミや鳥をつかまえていたことを思い出し、研究開発の結果、73年3月、あの家の形の「ごきぶりホイホイ」を発売。 大ヒットしてアース製薬はよみがえり、虫ケア業界で不動の地位を得たという。」

 すると、彼が毎月300円寄付をしているというWikipediaから、まず下記の引用があり、さらに返信があった。 「当時の社長」は創業者の孫・木村碩志(ひろし)さん、近所に住むその娘さんとは顔見知りだそうで、この工場のために坂越に至る道路が舗装されたのだということだった。

1892年 木村秀蔵が大阪(難波)で創業
1910年 兵庫県(赤穂市坂越)に工場を建設
1916年 炭酸マグネシウムの国産化に成功
1925年 株式会社木村製薬所を設立
1929年 家庭用殺虫剤「アース」発売
1940年 「アース渦巻香」発売
1953年 「アースエアゾール」発売
1964年 アース製薬株式会社に社名変更 「バスロマン」発売
1970年 大塚グループ資本参加
1973年「ごきぶりホイホイ」発売

木村碩志(ひろし)1930~2012 ごきぶりホイホイの開発者 木村秀蔵が祖父。

松平定信意見書、通商不可、外国徹底排除2023/03/15 07:00

 ロシア船による攻撃という事態に、幕府は弘前、盛岡、秋田、庄内の各藩に蝦夷地に兵を出すように命令、3千人の兵が箱館、宗谷、斜里など海岸線の要所に配置された。 老中首座は松平信明(のぶあきら)に代わっており、松平定信の腹心だったので、定信に意見を求めた。

 定信は、三つの意見書を書いている。 第一は文化4(1807)年6月15日、エトロフ攻撃直後で、エトロフまで打ち払えというもの。 第二は、シャナ攻撃後の7月2日、ロシア領迄踏み込んで「武威」を示さないと、他の国からも日本の武力を軽蔑されるというものだった。

 蝦夷地での敗戦が世間に露見、江戸でも評判となった。 箱館奉行所の田中伴四郎の書状には、エトロフの大敗、日本国の大恥と。 船を捨てて逃げたというので、こんな狂歌も出た。 「蝦夷の浦に打出てみればうろたへの武士のたわけのわけもしれつつ」

 定信の第三の8月3日の意見書は、通商不可、外国徹底排除だった。

同じ文化4(1807)年12月には、ロシア船打ち払い令が出て、秋田、庄内、仙台、会津の各藩に出兵命令が出、クナシリ、エトロフ、宗谷、カラフトに配置された。

 4年後の文化8(1811)年クナシリ島にロシア軍人ゴローニンが上陸して捕えられ松前に送られた。 それで先年のロシア側の襲撃には、皇帝の許可がなく行われたこと、レザノフは命令を撤回したが、部下が暴走したことが判明した。 ロシアから謝罪文が届けられ、ゴローニンは釈放された。 ここに露寇事件は、一応決着したのである。

 松平定信は、文化14(1817)年、この経験を踏まえ、「ロシアのみ蛮国にあらず、トルコ、イタリア、ポルトガル、イギリスなどの大国もまだ多し、されば不慮に備えるのが防禦の肝要なり」と『函底秘説』に記している。 こうして「鎖国」が強く意識されるようになった。

 幕府は、天文台に、蛮書和解(わげ)御用(翻訳機関)、地図御用所(世界地理研究部署)を設置して、世界情勢研究、近代に向けた、明治維新に向けた準備を始めていた。

 アヘン戦争の情報を受けて、天保13(1842)年外国船に対する薪水給与令を出す。 嘉永6(1853)年、ペリーが来航する。

 磯田道史さんは、露寇事件の「前触れ」性に注目し、西洋の科学と強さへの憧れ、日本の国を意識し大和魂で西洋と戦う(攘夷)の、二つの対応を指摘し、「前触れ」を意識することは現在に通じると結んだ。