鏑木清方『随筆集 明治の東京』<等々力短信 第1095号 2017.5.25.>2017/05/25 07:08

 岩波文庫が7月で創刊90年だそうで、記念の『図書』臨時増刊号「私の三 冊」が出た。 「各界を代表」している228人に、今までに読んだ岩波文庫の うち、心に残る書物、ぜひとも勧めたい本を、答えてもらっている。 女優の 有馬稲子は、チェーホフ『ワーニャおじさん』、太宰治『お伽草紙・新釈諸国噺』 と『鏑木清方随筆集』の三冊。 有馬稲子は今、老人ホームにいるらしいが、 テレビ朝日で昼に放送中の倉本聰の帯ドラマ『やすらぎの郷』にも出るようで、 タイトルに顔が見える。 私は昭和28(1953)年の東宝入社第一作『ひまわ り娘』を日劇で観たが、12歳、64年前のことになる。

 『鏑木清方随筆集』(山田肇編)を選んだのは、「友人の坂崎重盛氏より『「絵 のある」岩波文庫への招待』をいただき、あの美人画の鏑木清方が随筆の名手 と知りました。昭和の貴重な時代考証のような女性の描写、私の最後の一冊は これに決めています。」

 3月友人達と、鎌倉の鏑木清方記念美術館で「つつましく そして艶やかに~ 清方ゑがく女性~」展を見たばかり、静かで落ち着いたよい美術館だった。 私 はたまたま『「絵のある」岩波文庫への招待』(芸術新聞社)を持っていた。 『鏑 木清方随筆集』はなかったが、そこで紹介されているもう一冊『随筆集 明治の 東京』は書棚にあった。

 「名物無名物」(昭和19年)に、「明治の昔は東京も狭かった、(中略)駒込 の茄子、谷中の生姜、千住の枝豆、砂村の唐茄子、練馬大根、目黒の筍、三河 島の菜、大川の蜆、大森の海苔、深川のバカの目刺(バカも近頃は青柳と大層 優しい名前を持つようになった)、千住の豆は他のより大粒で莢に四粒入のがあ る、谷中の生姜は柔かで辛くない、根岸の先き諏訪台下の日暮里あたりが産地 である。」とあった。

 「明治の東京語」(昭和10年10月)に、若い人に通用しそうのないか、そ うなりかけている言葉が挙げてある。 近在、遠国(おんごく)者、常住(じ ょうじょう)、ぞんき(「のんき」より少し質のよくない)、今当世、跡月(あと げつ・先月)、でくま、ひくま(凸凹)、どうれ(道理)、煉瓦通(銀座通)、ハ ンチク(半端人足)、権妻(妾)。

 「甘いものの話」(昭和7年1月)に、「美術人には左傾が多い。ムッソリー ニと握手した横山大観先生などは、押しも押されもしない左翼の頭目だし、周 囲の友人知己、概ね左党ならざるはないといってよかろう。」 鏑木清方は下戸 なのだそうで、店名や甘いものが列挙されている。 汁粉屋というもの、あれ も明治趣味のものであった、「総じて人情本の挿画にでも見るような小粋な造り で、床にも細ものの茶懸に、わびすけでも活けてあろうという好み、入口には 茶色の短い暖簾、籠行燈という誂えの道具立も、器の物好きも」と、この随筆、 まさに「絵のない絵本」なのである。

緒方洪庵の墓、「おとめ山公園」2017/04/25 04:59

 4月22日の土曜日、「早稲田・白山・駒込を訪ねて」という福澤諭吉協会の 第26回一日史蹟見学会があった。 最後の駒込というのは、福沢の師・緒方 洪庵の墓所のある高林寺と、福沢が庇護した朝鮮の開化派・金玉均の墓所のあ る真浄寺を訪ねるものだった。 実は私は、1990(平成2)年の同じ4月22 日に行われた第2回一日史蹟見学会で、高林寺と真浄寺に行っていた。 27年 前になる。 当時は若手の会員だったが、今は古参になっていることを実感す る。 その時は諭吉の曽孫・福沢美和さんが盲導犬アンナと参加されていて、 緒方洪庵の墓の前で、こちらも曾祖父だからと花を手向けられたのが印象に残 っている。 『福澤諭吉全集』第26巻の「福澤諭吉子孫系圖」を見ると、美 和さんは諭吉の長男一太郎の長男八十吉を父に、(緒方)淑子(よしこ)を母に、 長女として昭和2(1927)年に生れている。 この母上が洪庵の孫なのだろう。  美和さんは先年亡くなられて、遺産が福澤諭吉協会に寄付されたと聞いている。

 一日史蹟見学会では、同行の方からも、いろいろな情報を得ることが出来る。  このブログを読んで下さっている黒田康敬さんには、松永安左エ門について、 全く知らなかったことを教えて頂いた。 今回行った早稲田最寄りの高田馬場 近くに「おとめ山公園」というのがあるが、ここに松永安左エ門が住んでいて、 戦時中、空襲に遭った人々に炊き出しをしたという話だった。 さっそく「お とめ山公園」で検索する。 新宿区下落合2丁目、新宿区が整備し平成26年 10月26日に「区民ふれあいの森」として全面開園している。 妙正寺川・神 田川の落合崖線に残された斜面緑地。 江戸時代、この辺りは将軍家の鷹狩や 猪狩の場所で、湧水が他にないため休息所とされ、一帯を立ち入り禁止として 「御留山」と呼ばれたのが、現在の「おとめ山公園」の名前の由来だという。  明治以降は東西に二分され、東側を近衛家、西側を相馬家が所有し、屋敷を構 えた。 相馬家は大正3(1914)年に長岡半平に広大な庭園「林泉園」を造ら せた。 その後、松永安左エ門の自宅兼茶室となっていた、という。 「炊き 出し」の件は、出て来なかった。 東西とも、戦後大蔵省管轄地となり放置さ れていたのを、森林の喪失を憂える地元の人たちが「落合の秘境」を保存する 運動を起し、昭和44(1969)年に新宿区が一部を公園として開園した。 隣 接地も取得し、拡張整備事業を進め、平成26年に「区民ふれあいの森」とし て全面開園したのだそうだ。

責任は原子力の安全管理システム全体に2017/04/24 07:03

 日本の原子力政策については、二つの立場があった。 その推進を「国策」 として円滑にするために、原子力事業者が民間企業である場合、事故の「リス ク」を国が肩代わりする仕組みを作るべきだという「推進派」。 1955(昭和 30)年末の「原子力基本法」の生みの親、中曽根康弘を始め、通産省、経済産 業省。 さらに我妻栄は、肩代わりを可能にする法的な枠組みである「原子力 損害賠償法」(1961(昭和36)年6月)の制定に向けて尽力した。

 もう一つは、発電に原子力を選ぶか、火力発電など他の形態を選ぶかは、あ くまでも経済上の観点から決められるべきであって、事故発生の「リスク」の 計算自体が経営判断の一つの重要な要素なのだから、原子力事故の「リスク」 についてだけ、民間企業の負担を国が肩代わりすることは、望ましくないとす る立場、「慎重派」である。 松永安左エ門はもちろん、政府の中では水田三喜 男が大臣であった頃の大蔵省。

 1961(昭和36)年成立の「原子力損害賠償法」は「推進派」と「慎重派」 の折衷案であったため、法律上曖昧な点を残し、2011年3月12日に発生した 原発事故に対して、東京電力支援策の方針について混乱が発生する原因になっ た。 竹森俊平教授は、「推進派」に福島原発事故の責任を求めるのは酷である といい、この50年間に原子力は日本の発電能力の3割を占めるまでになって いたのだから、本当に責任があるのは、それに対応して拡充されるべきであっ た、日本の原子力に対する安全管理システム全体である、とする。

 欧米の電力モデルと違って、地域独占という日本の電力体制は、もともと原 子力事故のリスクが経営に反映されにくいモデルである。 原発事故をカバー する保険料が高騰しても、電気料金に上乗せができる。 資本コストについて も、国の支援で低位で安定している。 そのため、スリーマイル島事故の後、 ほとんどの国で30年間にわたり原発建設がストップしたのに、日本では続け られた。

 「原子力損害賠償法」があることによって、電力会社は原発事故のリスクを 過小評価するようになり、同時に事故防止のための安全管理を怠るようになる 懸念がある。 電力業者がもし我妻答申通りの保護を受けたとしたら、万一原 発事故が発生しても、契約を交わしている「保険措置」もしくは「補償措置」 を行使するだけで責任を果たせ、賠償措置額を超える負担については国が肩代 わりしてくれるので、心配の必要がない。 電力事業者が原発事故の回避に全 力を尽くす必要もなくなる。

 竹森俊平教授は、これは経済学で「モラル・ハザード」と呼ばれる古典的な 問題だ、と言う。 自分のペナルティーを逃れる道が開かれれば、主体は過ち を回避する努力を怠るようになるわけだ。 そうであれば、その分だけ、国が 安全管理に気を付けねばいけなかったのだが、安全管理を担当する原子力安 全・保安院が原子力政策を推進する経済産業省の下に置かれているような状態 なので、原子力政策に「待った」をかけたり、電力会社が安全管理を怠る「モ ラル・ハザード」を抑制したりできる可能性は著しく低下した、と指摘してい る。

 巨大な賠償責任を背負った東京電力をどうするべきか。 資産をすべて売却 して賠償責任を果たせるだけ果たし、破綻するのがベストだというのが、2011 年10月執筆時の竹森俊平教授の立場であった。 電力会社が原子力の桎梏(し っこく)を外れ、一番効率的な電力システムを自由に模索できる体制をつくる べきだ、国も経営上の合理的な判断を狂わすような、特定の発電方式への過度 の肩入れを控えるべきだろう。 かつて松永安左エ門が述べたように、商売は 商売、技術は技術で、両者の混同を生むような「国策民営の罠」ほど、経済に とって迷惑なものはないのだから、と。

日米合同の原発「産業政策」、東芝のWH買収2017/04/23 06:16

 竹森俊平教授は、福島第一原子力発電所事故の問題を考え始め、原発はビジ ネスモデルとして破綻しているのではないかという素朴な疑問を抱く。 まず 原発のトータルコストについて調べ、ミルケン研究所の2007年のレビューで、 世界の主要機関の研究が「もし化石燃料による発電に対して、炭酸ガス排出へ の課徴金が掛けられず、さらに原子力発電に対して特別の補助金がなかったと したら、(以下傍線)≪原子力発電への投資は同じ発電量の微粉炭発電(粉末化 した石炭を用いた発電)に匹敵できない≫」としているのを知る。 「原発は コストが高い」のは、世界の専門家の常識だった。 だが日本では、原子力政 策の推進という「国策」を遂行している電力会社が原発を建設するから、資本 コストも国債並みの低金利に抑えられる。 市場は、「国策会社」が危機の際に は政府が救済すると判断して、電力債を引き受けても支障がないのだ。

 1980年代のレーガン政権から、1990年代のクリントン政権の時期、日本の 非関税障壁を問題視する日米経済摩擦が激化した。 それによって消滅した通 産省の伝統的な「産業政策」の中で、「電力産業」だけは例外的に展開し続ける ことができた分野だった。 電力は容器につめて輸出することができない。  1979(昭和54)年のスリーマイル島事故以来30年、ほとんどの先進各国で原 発の新設がストップしていた。 アメリカは自国メーカーのための原発市場の 拡大に、さほど執心していなかったのだ。

 2000年代の中頃になって、アメリカ政府の方針が変化した。 新興国での原 発ラッシュがその原因だった。 スリーマイル島事故以来30年、原発の生産 を停止していたアメリカは、そのギャップを埋めるために、日本との提携によ る日米合同の「産業政策」という斬新な方式を取ることによって、自らも原子 力の「産業政策」を推し進めようとしたのだ。 2006(平成18)年、東芝が アメリカの主力原子炉メーカー、ウェスチングハウス(WH)社を買収した。  東芝の西田厚聡社長の狙いは、中国市場ではなく、世界最多の103基の原発を 保有しながら、30年近く新設のない米市場にほかならない、という2006年6 月9日の日経産業新聞「原発復活」「原油・天然ガス高で再評価」記事を、竹 森教授は引用している。 今日の東芝危機の原因である。

次第に「国策会社化」する電力会社2017/04/22 04:58

 竹森俊平教授は、橘川武郎氏の『日本の電力業発展のダイナミズム』によっ て、電力業界のさらなる変貌の軌跡を追う。 少なくとも1960年代中頃まで は、政府・通産省との間に十分な距離を置いていた電力業界が、次第に国策会 社的な性質を持つようになっていく。 もちろん、価格規制を必要とする「自 然独占」(「競争」を発生させるためには必要がない投資を重複しなければなら ず、無駄が発生する場合)という電力業の特徴からして、電力業界が政府から 完全に独立であることは初めから無理なのであるが、価格規制以外の分野でも、 政府との接近が不可避となる出来事がつぎつぎと起ってくる。

 日本の電力会社が「国策会社化」する第一のきっかけは、日本の国内市場を 国産メーカーのために確保することを通じて、国産メーカーの育成を図ろうと いう産業政策に、電力会社が付き合わされたことである。 具体的には、発電 機を生産する重電機メーカーの育成のために、電力会社が「1号機輸入、2号 機国産」という方針で、発電設備の発注を行ったことだ。 この方針は、大型 火力発電所の建設にも適用されたが、原子力の場合には、特にはっきりとした 形で推し進められた。 東京電力は、福島原子力発電所の一号機建設に当たっ て、GE社が主契約先であったにもかかわらず、圧力容器の制作と原子炉周り の据え付け工事は、東芝と石川島播磨とに下請けを依頼し、タービン発電機の 据え付け工事は、日立製作所に下請けを依頼するなど、「日本原子力発電」敦賀 発電所の建設時の両社の下請け担当範囲を入れ替え、技術経験が蓄積するよう 配慮した。

 原子力発電は日本の電力会社にとって鬼門であった。 それまで政府とある 程度の距離を保っていた電力会社は、特に原子力をめぐって、政府の方針にど んどん吸い寄せられていったのである。 この傾向は、1970年代に入ってます ます加速することになる。 発電所用地の取得困難、環境問題への認識の深化 から、窮地に立たされた電力会社は政府に救援を求め、両者の間には次第に持 ちつ持たれつの関係が築かれていき、1974(昭和49)年に成立した「電源三 法」の成立で、電力会社が政府の庇護の下に活動するという構図が確立した。  さらに発電所用地確保の困難は、火力や水力に比べて、原発の場合、リスクが 別格だから、その困難を乗り越えるために、政府の一層強力なバックアップが 必要だった。 株主に対しても、なぜそんな無理をしてまで原発を建設するの かと、問われた時に、「国策」を遂行しているのだという大義名分が必要だった。  こうして原子力政策の推進を通じて、電力会社は「国策会社化」していく。 原 発反対運動の高まりに対抗して原子力開発を推進するには、九電力会社は、「国 のエネルギー政策への協力」という「お墨付き」を必要不可欠とするようにな った。 日本の原子力発電事業は、「国策民営」の性格を色濃くするようになっ たのである。 

 松永安左エ門は1971(昭和46)年に97歳で大往生を遂げた。 その前年に は関西電力が美浜に、電力会社による商業用原子炉の一号機を建設して、操業 を開始しているから、日本における原子力事業の展開を、ある程度は見ていた はずだ。 彼が、自ら創設して委員長を務めた「産業計画会議」の1956(昭和 31)年の「レコメンデーション」と呼ばれる報告書がある。 松永の見解は、 原子力を商業べースで活用するのは、まだまだ時期尚早で、検討に値しないも のである以上、電力業界に無理やり原子力発電を押し付けるようなことは、日 本経済に歪みをもたらすから、やめてくれというものだった。 その採用は、 電力会社が純粋に経済コストの観点から考えて、原子力が一番有利だと判断す るようになる時期まで、待ってくれということだった。 松永がこれだけはっ きりと、電力業界は原子力発電の商業化に協力しないとはねつけているのであ るから、1960年代に日本がイギリス産原子炉の建設を進めるときに、「国策会 社」である「日本原子力発電」に事業を委ねるしか国には選択肢がなかったの だろう。 竹森俊平教授はそして書く、「だが、このような松永の断固とした姿 勢を、その後の電力会社の経営者は引き継ぐことができなかった。もし、電力 会社の歴代の社長が、このレコメンデーションを座右の銘としてしっかり心に 刻んでいたなら、日本の電力業と、日本経済そのものの運命は大きく変わって いただろう。」と。