畠山茂さんの「秋田案内記」2018/09/28 07:20

 『福沢手帖』第178号、つぎは畠山茂さんの「秋田案内記[第五十回 福沢 史蹟見学会]」である。 一泊二日の旅行なのに、私が当日記に下記の8日間 も書き、さらには秋田魁新報の文化欄に寄稿もさせてもらった、あの充実した 旅行を、案内人の立場から見事に描いたものだ。

 「秋田案内記」は「かつて百年も前であれば、嵐の海を恨み、しぶきの埠頭 で麗人の乗る汽船の着岸を待つ男の心中もかくありしか?」という名文で始ま る。 秋田空港の滑走路にタッチアンドゴーのあと、30分以上も降りてこなか った飛行機で到着したわれわれ一行は、バスで移動した秋田城跡のお堀ばた、 和食の席で、顔がやっとゆるみ、笑顔が広がった、という。 ご心配をかけま した。 用意周到の案内人、畠山さんだからこその記述、私が書き洩らしたり、 記録できなかったことが、沢山出て来る。

秋田魁新報社で一行を迎え、懇篤な説明をしてくれたのは村上昌人さん、塾 員で前論説委員長、営業局担当局長だった。 犬養毅の書簡の写真もある。 澤 木四方吉の死を悼んで、富裕な土地の名望家、父・晨吉が夏の別荘を伽藍とし て寄進した大龍寺を案内してくれたのは、当山三十七世の三浦昭翁老師。 本 堂の奥の位牌堂の広さを、畠山さんは「交詢社の大食堂ほどもある」と描く。  それぞれの場所で、西沢直子福沢研究センター教授と、小室正紀福沢協会理事 が、地元テレビ局の取材に応じて、各地の福沢門下生の活躍などを滑らかに語 っていた。 泊まった高級温泉宿「ホテル帝水」は、澤木四方吉の兄が開いた という。

翌日訪れたのは、井坂直幹(なおもと)が育てた、かつての東洋一の木材産 業都市・能代。 同行の坂井達郎さんは、地方で活躍した福沢門下生の中でも、 注目度が少なかった井坂に光を当て、「第一級の文明の経営者」と評価した石坂 巌福沢研究センター初代所長の懇願に応えて研究され、ご自身が今回初めて世 に出す膨大な井坂の経営に関する書簡集の現代語訳を講義して下さったのだっ た。

秋田空港ゴー・アラウンド始末<小人閑居日記 2018.5.22.>

美術に「あんべいい」秋田<小人閑居日記 2018.5.23.>

(なお、「あんべいいな秋田県」というキャッチコピーは、秋田県南部の隠語 では、ちょっと白昼の会話には使わない種のもので、それを知らない県外のラ イターが拾ってきたのだと、後で教えてもらった。)

木堂・犬養毅の秋田<小人閑居日記 2018.5.24.>

澤木四方吉、その生涯と足跡<小人閑居日記 2018.5.25.>

澤木四方吉を悼み父親が寄進した寺<小人閑居日記 2018.5.26.>

男鹿半島の「爆裂火口」と「石焼き」<小人閑居日記 2018.5.27.>

「なまはげ」、八郎潟干拓事業<小人閑居日記 2018.5.28.>

井坂直幹と木都(もくと)能代<小人閑居日記 2018.5.29.>

福沢の「国」・「官」・「民」、小室正紀さんの論考2018/09/27 07:13

 23日、『福沢手帖』第178号が届いた。 読み応えのある論考ばかりで、充 実の一冊になっている。

 まず、小室正紀さんの「『時事新報』における「国」の概念―明治20年1月 「国立の事業」から―」。 福沢は「国」という語を、さまざまな文脈で使って おり、現在われわれがイメージする「国」と単純に結びつけるべきではない、 という。 福沢の「国」を考える時、明治20年1月14日の『時事新報』論説 「国立の事業」(『福澤諭吉全集』には収録されていない)が興味深いとして、 要約が示される。 その一部を引く。

 「社会には、「官民共同」のいわゆる「国 立」の資格で行うのが適切な事業がある。しかし、わが国では「官民共同」の 思想が非常に乏しく、一般人民は官の事業に関心が薄く、官の方も一般人民の 事業を顧慮しない場合が少なくない。」 「西洋諸国では、公共の便益を目的と する事業で「国立」のものが少なくないが、わが国では遺憾ながら、「国立銀行」 以外には、「国立」の事業があるとは思えない。しかし、今のわが国には、「国 立」で行うべき事業はいくらでもある。中でも、最も急を要するものは、「商工 業を奨励するの方便」として、「国立美術館」と「国立輸出品見本縦覧所」を設 置することである。」 「この種の計画は、多くの資本と人材を要するものであ るので、官界であれ民間であれ「輿望(よぼう)の重き人々」が成否を主導し なければならない。思うに財産も輿望もある華族諸君などが企画すべきもので あり、官からも民からも資本の出所はある。」

 小室正紀さんの解説。 ここでは、治者・政府のことは「官」と言い、「国」 とは区別している。 現在われわれは、しばしば政府のことを国と俗称するが、 この論説での「国」は、「官民を合したる一体」であり、政府のことではない。  現在の国立博物館や国立大学は、この論説の概念からすれば、「官立美術館」「官 立大学」と称することになる。 唯一「国立」の例として挙げられている「国 立銀行」は、明治6年から12年にかけて全国に153行が設立された、完全に 民間資本による銀行である。 ただし、政府の条例を踏まえて紙幣の発行権を 持つ銀行であり、また信用保証の一端を政府が担っていた点で、「官民共同」の 実態が備わった民間組織と言える。 アメリカにあったナショナル・バンクと いう“民間”銀行の組織形態を模範にしており、それを直訳して「国立銀行」 と命名したのである。

 福沢の論説では、nationalに対応する訳語として「国立(ナショナル)」を 使っていて、その概念は、現在の日本の組織で使われている「国立(こくりつ)」 とは異なる。 西洋諸国には「国立(ナショナル)」の事業が多いと述べ、その 例としてフランスの「演劇場」や「観古美術館」を挙げている。 ナショナル を冠する美術館として直ぐ頭に浮ぶのは、ロンドンのナショナル・ギャラリー である。 ナショナル・ギャラリーは、ある銀行家の個人コレクションを基に、 彼の所有する建物で、1824年に発足した美術館で、政府の協力はあるが、評議 員会で運営管理されており、今の日本でいうところの国立(こくりつ)美術館 ではない。

 なぜ、福沢は「国立(ナショナル)」であることを望んだか。 『文明論之概 略』第9章「日本文明の由来」で、日本人は「国」を他人事と見なしていると 批判し、「日本には政府ありて国民(ネーション)なし」と断じている。 福沢 の概念では、主体性を持って国を形成する人民、およびその人民によって形成 される国が「ネーション」である。 そして、この論説の「国立の事業」にお ける「国立(ナショナル)」は、右の概念を備えた「ネーション」の形容詞形に 他ならない。

 さらに小室正紀さんの指摘で重要なのは、福沢の「官」・「民」・「国」につい ての以上の定義からすれば、福沢の思想において、「民権」と「国権」を対極概 念と捉えることも正しくない、とすることだ。 福沢は、明治10年以降、民 権論から国権論へ移ったと、しばしば批判される。 しかし、この論説によれ ば、「国」の構成要素の一半は「民」であり、「国権」の中には、当然「民権」 も含まれる。 福沢が「民権」と「国権」を、対立するものと考えていなかっ たことが、ここからも類推できる、というのである。

赤松小三郎「口上書」と『西洋事情』初編2018/09/15 07:18

 平山洋さんは『「福沢諭吉」とは誰か』(ミネルヴァ書房)で、赤松小三郎の 「口上書」の直接のモデルはその7か月前、前年の慶應2年10月に刊行され た福沢諭吉著『西洋事情』初編中のアメリカ合衆国憲法と英国政治の部だと推 測している。 赤松小三郎は優秀な西洋軍事学者で、京都で徳川慶喜の補佐官 をしていた西周とも交友があって、西洋の政治システムについての知識も豊富 といえたけれど、「口上書」の建白を独力で執筆できたかといえば、そこまでの 能力はなかったと思われる。 これほど体系性を備えた、いわば私擬憲法のさ きがけともいうべき文書を書くには、そのモデルになる何かが必要だったと考 えるからだ。

 昨日見たような「口上書」の内容は、身分にとらわれない民主的な普通選挙 による議会政治を提言した文書として、おそらく日本最初のものであろう、と する。 『西洋事情』初編は、アメリカの二院制議会を説明している。 「口 上書」の、議会の決議事項に対しては、天皇ですら拒否できないとされている のは、米国議会と大統領の関係に由来していると思われる。 「口上書」は、 天皇を世襲制の大統領とみなしているのである。 「口上書」の国家機構の説 明は、イギリスの体制からの影響が顕著だ。 『西洋事情』初編は、イギリス の立憲君主制を説明している。 二院制議会と立憲君主制以外にも、「口上書」 にある大学と教育の機会均等、税負担の平等についても、『西洋事情』にはそれ ぞれアメリカとイギリスの例が具体的詳細に紹介されている。

 一例を挙げれば、「口上書」で「遊民多くして農而巳(のみ)多く労し、他の 諸民は運上(税金)少なく候へば、第一百姓の年貢掛り米を減じ、士、工、商、 僧、山伏、社人之類まで、諸民諸物に運上を賦し…」という個所などは、『西洋 事情』でイギリスでの納税の実際が税金の種類と納税方法など、実に細かく説 明され、日本と異なり西洋では一般に農民の租税負担が軽減されているという 印象を与えているのに、影響を受けているのではないか、とみているのだ。

横浜正金銀行と福沢諭吉2018/08/20 07:14

 横浜正金銀行は、福沢諭吉と関係が深い。 そこで『福澤諭吉事典』の、杉 山伸也さんの「横浜正金銀行」の解説を見ておきたい。

 「横浜正金銀行」は、「明治12(1879)年12月に国立銀行条例に基づいて 横浜に設立された銀行で、外国為替など対外貿易金融を主要業務とした。設立 当初の資本金は300万円(大蔵省100万円、民間200万円出資)、10年の西南 戦争を機に政府紙幣の増発によりインフレが生じ、また輸入超過により正貨(銀 貨)が流出して、紙幣と正貨との格差(銀紙格差)が拡大した。福沢諭吉は『通 貨論』で銀紙格差の原因を「紙(紙幣)の過多」とみなしたのに対して、参議 兼大蔵卿の大隈重信はその要因を銀貨の供給不足と考え、洋銀取引所の設立 (12年2月)などの政策を講じたが、福沢も大隈も、外国商社・外国銀行に掌 握されていた「商権回復」のために正貨の安定的供給を担う貿易金融機関の設 立が必要である、という認識では一致していた。」

 「横浜正金銀行の設立は福沢と大隈の連携の所産で、福沢書簡には「バンク (の)一条」「銀行一条」と記されている。福沢は、12年8月に銀貨変動の安 定化のための「一種之常平局」のような金融機関の具体的提案書を大隈に送付 し、小泉信吉(のぶきち)や中上川彦次郎を通じて銀行設立が具体化してくる と、大隈に実務担当者として中村道太を紹介し、政府の出資を要請するととも に、丸善の早矢仕有的らと相談し、民間からの出資金の調達に尽力した。大隈 はおそらく福沢の提案書をもとに「貿易銀行条例」案を作成し、12年11月に 中村道太など23名を発起人として「金銀貨幣ノ供給運転ヲ便ニスル」目的で 正金銀行創立願が提出され、13年2月に営業を開始した。頭取には中村道太、 副頭取には小泉信吉が就任し、株主や行員には慶應義塾関係者が多く参加した。 民間の主要株主は、堀越角次郎をはじめ早矢仕有的、岩崎弥太郎など福沢の知 人が上位を占め、福沢自身も200株(1万2千円)を引き受けた。しかし正金 銀行は松方デフレの影響で損失額が増加し、15年7月に中村は引責辞職に追い 込まれた。」

 「正金銀行の主要業務は、設立直後の松方財政期に正貨蓄積の必要から対外 貿易金融に転換し、20年7月の横浜正金銀行条例により特殊銀行の性格を有す るようになった。明治22年9月の『時事新報』社説「横浜正金銀行に所望あ り」は、こうした正金銀行の海外支店の情実人事や業務の「御役所風」化が民 間の貿易商に不便をもたらし、日本の貿易の発展を妨げていることへの懸念を 表明したものである。」

 「正金銀行は、5回にわたる増資を経て大正8(1919)年に資本金は1億円 となり、ニューヨーク、ロンドンなど海外の主要都市に支店を置き、戦前期日 本の対外貿易金融の中心としての機能を果たした。昭和22(1947)年6月に 閉鎖機関に指定され、主要業務は東京銀行に継承された(現在の三菱(東京) UFJ銀行)。」

なお、富田鉄之助の日銀総裁在職期間は、前に見たように、明治21(1888) 年2月21日から翌22年9月3日までだった。

発券制度・金利政策の確立と、横浜正金銀行問題2018/08/19 08:05

 富田が日銀総裁になってから、大きな問題は三つあった。

 (1)明治21(1888)年8月1日、兌換銀行券条例が改正され発券制度とし て保証発行屈伸制限法がはじめて確立されている。 富田は、海外で得た知識 を活用し、英独の制度を参考に、このわが国独特の制度をつくった。 七千万 円という保証発行限度が確定され、場合によっては限度を越えられるという制 度で、ようやく金融政策運営の余地が出てきた。 その後、長期にわたってわ が国の発券制度の基本として存続した。

 (2)総裁就任後しばしば公定歩合を上下させて、弾力的な金利政策を運営 していること。 富田の総裁就任直前頃から、不換紙幣の整理と兌換制度の確 立という背景のもとに、産業革命の序曲が奏でられつつあった。 産業革命の進 展は、インフレとデフレ、あるいは幅の大きな景気変動をともなった。 企業 熱が余りに盛んになると、投機的な行き過ぎを心配して、富田総裁は再三公定 歩合を引き上げた。 初めて金融政策の古典的な範疇である金利政策、貸出政 策が弾力的に行われるようになったのである。

 (3)横浜正金銀行の問題。 横浜正金銀行は、日本銀行より1年半ほど早 く、明治13(1880)年に開業した外国為替の専門銀行である。 横浜正金銀 行の外国為替買取資金は最初政府が直接円資金を預託するという形で調達され ていたが、日本銀行ができてからは、政府の円資金預託と並んで、日本銀行か らも低利の資金を借り入れるという形で調達されていた。 富田が総裁になっ て約1年たった明治22年、政府は従来横浜正金銀行に預託していた円資金を 財政の金繰りの関係で引き揚げざるを得なくなった。 そこで横浜正金銀行は、 外国為替を買い取るための低利資金に事欠くこととなり、単なる国内の商業銀 行になってしまうか、それとも日本銀行からの低利の借り入れ枠を拡大しても らって、従来通り外国為替の専門銀行としてやってゆくか、選択を迫られるこ ととなった。 横浜正金銀行は、後者を選択するため松方正義大蔵大臣に陳情 し、松方蔵相は要請を容れて、日本銀行の富田総裁に伝えるが、富田は同意し ない。 松方はわざわざ日本銀行の重役会に出席して、「告諭」を行った。 富 田は「奉答卑見」と題する意見書で反対する。 中央銀行が、ある特定の銀行 に対して巨額の融資の枠を設定し、いわれるままに資金を供給することになっ てしまっては、金融の一元的調整ができない。 その融資枠が、本当に外国為 替の買取りに充てられるのか、外地での貸出しに利用されるのかわからなくな る。 つまり、外国為替の売買操作は日本銀行が行うべきだということを強調 した。 中央銀行の総裁がその正しいと信ずるところを、大蔵大臣に対してお そるるところなく述べている、堂々とした気魄の窺われる文章だった。 結局、 富田総裁は辞任に追い込まれる。 表面上は依願辞職だけれど、実際は「職権 ニヨル罷免」だった。 直後、川田小一郎が三代目の日銀総裁となり、明治22 年10月、横浜正金銀行との間に外国為替手形再割引契約を締結し、日本銀行 は横浜正金銀行に低利の円資金貸出しの枠を拡大することを承認し、ここに爾 後数十年にわたる横浜正金銀行の為替専門銀行としての地位は確立した。