「見て見ぬ振り」「いないこと」2017/10/22 08:19

 昨日見たように、政府が移民政策を取らないとしているから、ごく少数の「難 民」と、「移民」はいないけれど、沢山の「移民のような」人々がいる、という 認識なのだろうか。 現実には在留外国人は250万人、外国人労働者数は約108 万人に達している。 その朝日新聞の記事は、現実を「見て見ぬ振り」するこ とのひずみは、日本社会に積み重なっているという。 まず学校現場。 公立 学校に通う外国籍の子は約8万人、うち日本語指導が必要な子は3万4千人と 10年前の1・5倍。 多くの親は子が将来も日本で生きていく前提で暮らして いるのに、学校現場は人材もノウハウも足りないという。 それを埋めてきた のは、先生たちの気持ちだけというのは、心許ない。

 日本社会を支える外国人たちもいずれは老いる。 自分たちで考えなければ と、在日フィリピン人労働者のための高齢者施設を造る計画を持っている人も いるという。

 多くの外国籍の人たちが日本で働き、その労働力で社会が成り立っている。  その外国人が、生活者としては「いないこと」になっているのだそうだ。 技 能実習生制度など様々な形で人権侵害も起きているらしい。 何か変だ、と言 わざるを得ない。

すでに「移民」頼みになっている日本の現場2017/10/21 07:00

 日本は移民を受け入れるべきだ、という議論がある。 だが安倍晋三首相は 昨年、「いわゆる移民政策を取ることは全く考えておりません」と参院で明言し たそうだ。 また、日本の難民認定者数がごく少ないことが、話題になる。

 移民と、難民の違いを、ほとんど意識していなかった。 【移民】「他郷に移 り住むこと。特に、労働に従事する目的で海外に移住すること。」 【難民】「戦 争・天災などのため困難に陥った人民。特に、戦禍、政治的混乱や迫害を避け て故国や居住地外に出た人。」 と、辞書にある。

 日本の難民認定者数は、平成28年はたったの28人だが、前年より1人増え た。 難民認定申請者数は、過去最多の10,901人で、前年より3,315人増え た。 申請に比べて認定者数が極端に少ない気がするけれど、難民を支援する NPOの役員で、委員に任命されてその認定に携わったことがあるという人に話 を聞いたことがあるが、申請者の多くは就労目的なのだそうだ。

 自由が丘に近い奥沢に住んでいると、背後にお屋敷町をひかえているせいか、 タガログ語で話すフィリピン人らしい女性とすれ違うことが多い。 家事手伝 いとか、介護とかに従事しているのかと思われる。 解体現場やコンビニ、飲 食店で、たくさん外国人労働者を見かけるようになって久しい。

 7月24日の朝日新聞朝刊に、「分断世界」「「移民」頼み 日本の現場」という 記事があった。 日本の総人口に占める在留外国人の割合は、250万人、2%に 近づきつつある。 昨年10月末の外国人労働者数は約108万人と過去最高。  半面、外国人労働者の在留資格別割合は近年ほとんど変化がなく、就労目的は 18・5%。 就労が主目的でない外国人によって国内産業が支えられている。  2016年時点で全就業者の59人に1人が外国人だった。 7年前と比べ、卸売・ 小売業(76人に1人)は約2・5倍、農林業(85人に1人)は3・1倍になっ た。 こうした数字は、日本が事実上、「移民国家」に足を踏み入れている現実 をつきつけるという。

「温水路」と江戸の絶景・象潟2017/09/25 06:59

 『新日本風土記』「鳥海山」で、もう一つ初めて知ったのが、「温水路」のこ とだった。 秋田県にかほ市の小滝地区、5月2日に田圃に「水入れ」を行な っていた。 鳥海山の冷たい雪解水や湧水を、階段状の6キロメートルの「温 水路」を通すことによって、やさしい水に変える。 階段で空気を混ぜ、3~6℃ 水温が上がるのだそうだ。 以前は、「水ぬるめ」の田圃と言って、一番上の田 圃一枚に稲を植えず犠牲にして、水を温めていたという。 昭和2年から、村 人たちが鳥海山の溶岩を積み上げて「温水路」を作り始め、完成したのは昭和 32年だった。 「温水路」によって、米の収量は3割増えたそうだ。

 ネットで探したら、「日本初の温水路」[秋田県にかほ市象潟町上郷地区]と いうのがあって、小滝温水路の写真や、長岡地区に始まり、大森、水岡、小滝、 象潟の温水路が出来た事情の詳細を見ることが出来た。

http://www.pref.akita.lg.jp/uploads/public/archive_0000003874_00/onnsuiro.pdf

 象潟(きさがた)は、松尾芭蕉『奥の細道』の<象潟や雨に西施がねぶの花 >の句で知られるように、昔は入江で八十八潟九十九島(つくもじま)といわ れた「鳥海山」噴火の「溶岩の島」、松島とともに奥羽の二大景勝地だったが、 1804(文化元)年の象潟大地震で隆起し、陸地となった。 『新日本風土記』 「鳥海山」では、象潟で田圃の広がる中に、松の生えた旧九十九島が点在する 風景を、代々守っている方が登場した。 田植えが終わった時期は、水に浮ぶ 九十九島、江戸の絶景が蘇る、その背景にはまだ雪の残る「鳥海山」があった。

 にかほ市の観光案内に写真等があったが、天然記念物 九十九島(クジュウク シマ)という読み方になっていた。 はてな!

http://www.nikaho-kanko.jp/pwm/area-5.html

小野ファミリーのミッション(使命)2017/08/24 07:12

 「オノ・ヨーコのファミリー・ヒストリー」のつづき。 同志社政法学校教 授として苦労していた小野英二郎は、明治29(1896)年、川田小一郎総裁に 誘われて、銀行運営を総覧する総裁のアドバイザーとして日本銀行に入る。 ヘ ンリー・アダムスとの合著『公債論』も出版する。 日本は、経済、財政を盛 んにして、国の基盤をつくり、国の文化を大事にして、世界の人々には平等に、 世界のために貢献することというのが、小野英二郎の持論だった。 大正12 (1923)年には58歳で、日本興業銀行総裁になる。 半年後の9月1日、関 東大震災で試練に直面、銀行の取付け騒ぎに遭う。 海軍からの川崎造船への 融資要請を突っぱねるなど、硬骨ぶりも示した。

 小野英二郎には7人の子があり、長男俊一は動物学者、次男篤二は鶴の実家 税所家を継ぎ美術の道へ、三男英輔がヨーコの父となる。 英輔は帝大で数学 を専攻したが、英二郎に銀行家になることを期待され、経済学を学んで、横浜 正金銀行に入る。 父英二郎は63歳で亡くなった。 英輔は、昭和6(1931) 年夏軽井沢の安田財閥の別荘で、安田善次郎の孫・磯子と出会う。 磯子は、 善次郎の娘暉子と婿善三郎の娘。 善三郎は安田財閥を任されるが、金融より 製造業に向かい、釘の生産にのめり込んで失敗、会社を追われ、善次郎が復帰 したりした。 でも磯子は財閥のお嬢様として育ち美人、身長1メートル80 の英輔とはハンサムカップルと言われ、昭和6(1931)年11月9日結婚、昭 和8(1933)年2月18日、洋子(ヨーコ)が誕生する。

 小野英輔は、横浜正金銀行のサンフランシスコ支店を経て、昭和12(1937) 年ニューヨーク支店勤務となる。 家族は帰国、磯子の兄安田岩次郎が建てた 九段下の、今はフィリピン大使館公邸になっている屋敷に住んだ。 英輔は、 昭和17(1942)年ハノイ支店副支配人となる。 横浜正金銀行は国策銀行で、 一部の軍の資金の調達窓口だったという。 戦争中、母磯子と洋子、啓輔(4 歳下)、節子(8歳下)の一家は、信州佐久に疎開した。 今はワシントンDC 在住で、世界銀行で働いた節子さんは、四大財閥のお嬢様だった母はさぞつら かったろう、東京に帰る時も、トラックなどの交渉を12歳の姉洋子がしたと、 語った。

 昭和21(1946)年になって英輔帰国、昭和22(1947)年東京銀行外国部長 兼秘書室長となる。 毎朝、ピアノで磯子のリクエストのショパンなどを一曲 弾いて、出勤した。 日本が独立した昭和27(1952)年、東京銀行ニューヨ ーク支店の初代支店長となる。 学習院大学哲学科にいた洋子もニューヨーク へ、サラ・ローレンス大学で詩と声楽を学んだ。

 洋子は、既存のアートとのずれを感じ、ニューヨークで独自のアート(前衛 芸術)に打ち込むようになる。 家を出て、最初の結婚もする。 アルバイト などをしていたのだろうが、母は助けなかったと、節子さん。

 父英輔が昭和27(1952)年、日本への出張中に脳血栓で倒れる(55歳)、一 命は取り留めた。 その後、湘南で啓輔の家族と穏やかに暮らし、昭和50(1975) 年に73歳で永眠した。

 オノ・ヨーコのパフォーマンス「カット・ピース」などは、次第に評判にな る。 1962(昭和37)年には東京で個展を開くが、酷評にさらされた。 ベ トナム反戦運動の高まりとともに、1964(昭和39)年の作品「グレープフル ーツ」などが認められ、1967(昭和42)年にはジョン・レノンと結婚する。  1971(昭和46)年の「イマジン」には、「グレープフルーツ」の全ての人々が 平和に暮らせたら、世界は一つ、という姉の考え方が影響していると、節子さ んは言う。 自分も1976(昭和51)年に世界銀行に入行したのは、日本のた めに何かしたいと考えたからで、祖父、父、姉、小野家には、何しろ頑張って 働くという「ミッション(使命)」を持ってしまうところがある、と語った。

『生きるとか死ぬとか父親とか』の原稿料は?2017/08/18 07:08

 ジェーン・スーさんが『生きるとか死ぬとか父親とか』で父親のことを書く ことになったのには、こういう事情があった。 小石川にあった実家を手放し 要町に移って五年、父が引越しをすると言い出して、娘の仕事先に相談に来た。  資料を見ると、23区内だが池袋から電車で30分の団地の2LDK、60平米を優 に超えていた。 家賃を聞くと、彼が毎月もらっている少額の年金より一万円 ほど多かったので、娘は爆笑してしまった。 いつもは自分を呼び出す父が、 なぜわざわざ足を運んできたのかが、これでわかった。 とぼけ顔の父は、さ らに続けて、収入がない賃貸希望者は一年分の家賃を前納する必要があり、す でに物件の仮申し込みをしてきたので、早めに入金しないといけない、担当の 女の人が良くしてくれて、先客がいたのを、こっそり自分に回してくれたのだ と言う。 彼女は「いいよ」と返事をした。 なにしろ父のプレゼンが面白か ったし、ある算段があった。 「いいけど、君のことを書くよ」と娘は言い、 今度は父が「いいよ」と言って、連載が始まることになった。

 ジェーン・スーさんの父の商売は、貴金属の卸と小売りだった。 彼女が中 学生の頃、実家は一階と二階が会社で、三階と四階が自宅だった。 百貨店に も店を出していた。 仕事熱心で、大晦日に自宅の方にまで顔を出して、報告 をしていた社員を、見かけなくなった。 父に聞くと、「ああ、在庫を盗んで逃 げたよ」と、こともなげに言った。 その男、在庫のほかに、取引先の名簿も 盗んだ。 その名簿は後で、店の信用を貶める怪文書の発送に使われた。

 精神的番頭とも言える母親が亡くなった後、家の経済状況はゆるやかに悪化 していった。 いくつか手を出した貴金属以外の商売が赤字続きになったのも 大きいが、最後の一撃になったのは株取引だったことに間違いはないという。  通常の売買では飽き足らず、ベンチャー企業の未公開株とやらをじゃんじゃん 買い漁った。 しかし、どの企業も終ぞ上場することはなかった。 銀行への 借金も優に億を超えていたようで、なぜもっと手前で退けなかったかと父をな じると、大袈裟に声を作って言った。 「お金ってねえ、目に見えてなくなっ ていくわけじゃないのよ。少しずつ少しずつ減っていって、気付いたら手が打 てないところまで行ってるの」

 父が派手に株へのめり込んでいった時にも、父の傍らには特定の女たちがい た。 家族ではないから、株取引を止めるどころか、父にそそのかされ結構な 額を株に投資したようだ。 彼女たちも、父に出会わなければ独り身のまま老 後を迎えることはなかったろう。 なのに、一銭もなくなった今でもまだ父の そばにいる。 父にお金があった時には、それなりに良い思いもしたはずだが、 父の様子を見ると今ではそれ以上の額を父に使っているようだ。 父が成功し た唯一の投資は「女」だ。 先行投資した分が見事に利息を生んでいるではな いか。 この嗅覚を株取引に活かせなかったのが残念で仕方がない、と娘は書 く。

 そもそも、母のサポートで父の商売は軌道に乗った。 その結果、ひとり娘 のジェーン・スーさんは十分にお金をかけて育ててもらった。 それには感謝 している。 やがて父はスッカラカンになり、私生活を晒す代償として、『生き るとか死ぬとか父親とか』の原稿料をまるまる娘から受け取っている。