『全集』未収録論説を含めて読む重要性2022/06/25 07:04

 小室正紀さんの講座、『福澤諭吉全集』未収録論説を合わせて読まないとわからないことが多いというご指摘を、『時事新報』創刊間もなくの時期で、見てみよう。 未収録論説の多いことに、あらためて気づかせられた。

「商況金融」明治15年3月3日、「解惑」明治15年3月8日は未掲載、「通貨論」(『新報』)明治15年3月13/14/15/16日は掲載だが、「国立銀行の準備金」明治15年4月22日、「府県債ヲ論ス」明治15年5月2日、「中央銀行」明治15年5月19日、「日本銀行条例」明治15年6月29/30日,7月1/3日、「生糸荷作ノ説」明治15年7月10/11日、「亜国より来翰日本雑貨之説」明治15年7月15日、「亜国より来翰日本雑貨之説」明治15年7月15日は未掲載なのである。 なお、単行本『通貨論』が明治11年5月に出版されていて、紙幣主義を主張し、紙幣下落への警鐘を鳴らしていた。 それぞれの【主旨】を引いておく。

  「通貨論」(『新報』)明治15年3月13/14/15/16日
 【主旨】紙幣の過剰発行が経済の不振不健全を招いているので、政府は紙幣の処分をすべきである。

  「国立銀行の準備金」明治15年4月22日 未掲載
 【主旨】紙幣整理、紙幣価値を下げないためには、国立銀行の準備金を違法に貸し出させなようにすべき。

  「府県債ヲ論ス」明治15年5月2日 未掲載
 【主旨】陸路運輸の便を開く事業のような公共の事業のために府県債の募集を公許すべきである。しかし、公許にあたっては、府県債が発行されすぎず公共の目的にかなうようにするため、発行条件を規制する「一般の規則」を定める必要がある。

  「中央銀行」明治15年5月19日 未掲載
 【主旨】中央銀行設立の目的は「英国銀行」と同様に、政府が集めた税金を管理運用する政府のための出納局の役割を担い、収税・歳出にともなう民間流通資金の季節変動をなくすことに定めるべき。

  「日本銀行条例」明治15年6月29/30日,7月1/3日 未掲載
 【主旨】日本銀行条例の布告に接し、設立の目的を不明とした上で、各条ごとに検討批評する。批評の目指す所は、日本銀行を経済的に独立できる組織にすること、普通銀行と同様の機能も持たせるべきだということ(イングランド銀行型を狙っているのか?)。

  「生糸荷作ノ説」明治15年7月10/11日 未掲載
 【主旨】日本産生糸の米国輸出は増加しているが、「荷作り」不適当、品不揃のため声価が低く、品質上下の価格差が大きい。この問題を解決するには、製法を器械取りか座繰曳にすると同時に、生糸「荷作り」工場を設け、「荷作り」を改めて輸出すべきである。

  「亜国より来翰日本雑貨之説」明治15年7月15日 未掲載
 【主旨】亜国への日本雑貨の輸出に関して、技術はフランス産などより優れており安価であるにもかかわらず、国内業者が競って価格を下げて大量に輸出するため、値崩れし売りたたかれ声価を下げている。日本の雑貨商は仲間組合を立てて秩序ある輸出をするべき。

小室正紀さんの「『時事新報』経済論を読む」講座2022/06/24 07:05

 6月16日から坂井達朗さんの「福澤書簡を原文で読む」講座のことを書いたが、福澤諭吉協会の公開講座が、もう一つ、5月18日に(一応の)最終回を迎えた。 2018年4月25日に開講した、小室正紀慶應義塾大学名誉教授の「『時事新報』経済論を読む : 明治15年~20年―『全集』未収録論説を含めて―」、コロナ禍による長い中断を含めて足掛け4年、22回の講義だった(私は、2019年5月22日の回だけ欠席)。

 小室正紀さんの開講の趣旨は、「明治15年に創刊された新聞『時事新報』は、慶應義塾とならび福澤諭吉が最も力を入れた事業であり、福澤は、この新聞の実質上の主筆として、多くの論説・社説を執筆しました。また、明治15年以降の福澤のほとんど全ての著作は、まず『時事新報』に発表されました。/この講義では、このような『時事新報』の論説・社説の中から特に経済に関係するものを紹介しながら、その面白さを味わい、同時に思想史上の意義を考えます。」というものだった。

 明治15年~20年は、福沢が『時事新報』の編集に最もコミットした時期だそうだ。 講義の副題「『全集』未収録論説を含めて」にもあるように、『福澤諭吉全集』に収められていない論説も多く取り上げられ、毎回、各論説の【主旨】【要約】と、注目すべき文章(引用)が、資料として配られた。 まとめてみたら、改めて貴重な資料だと感じた。 最終回、その資料の準備に膨大な時間がかかるので、以前協会の弘前旅行でご一緒した奥様が「好きネ」とおっしゃった、と聞いて、なるほどと思った。 未収録論説を合わせて読まないとわからないことが多いという、ご指摘が、納得できた講義だった。

 2018年4月25日、「序 『時事新報』と福澤諭吉」の、「本紙発兌之趣旨」明治15年3月1日の【主旨】を引いておく。 「世間から誤解されないよう、我輩の持論・精神をこの新聞を発兌して毎日報道する。本紙は、党派新聞ではなく政権を執るつもりはない。求めるものは、一身一家の独立から、それをおしひろめて国の独立に及ぼすことであり、その精神から是々非々で記し評論を下す。」

 『時事新報』論説の、無著名、福沢の著作かどうかの問題については、小室さんは、未収録論説も含めて読むことにより、誰が執筆したかにかかわらず、『時事新報』を貫く主張とその変化を傾向として把握することを狙った。 個々の論説・文言の意図は、その全般的主張・傾向の中で位置づけるとした。 明治15年~20年は、福沢が『時事新報』の主筆としての指導力を発揮した時期であり、小室さんは一貫して「福沢、『時事新報』は…」と、語ったのだった。

忘れられた元日銀総裁富田鉄之助2022/06/21 07:14

 『福澤諭吉書簡集』第1巻[ひと]11の富田鉄之助も、見ておこう。 天保6(1835)年10月、仙台藩奉行高橋実保の四男として生れた。 安政4(1857)年、藩命により高島流砲術修業のため江戸に赴き、文久3(1863)年には勝海舟のもとに入門、慶応3(1867)年7月には、庄内藩士高木三郎とともに海舟の子息勝小鹿に随行してアメリカに留学した。 仙台藩江戸公儀使大童信太夫の尽力もあって、藩より年千両の学資金が支給された。 幕府公認留学生の第一号でもあった。 滞米中に幕府の瓦解と東北の争乱を知り、明治元年11月にいったん帰国したが、翌2年2月には再びニューヨークに戻った。 3年11月には、後に商法講習所に招くホイットニーが校長を務めるニュージャージー州ニューアークの商業学校Bryant Stratton & Whitney Business Collegeに入学した。

 明治4年2月、ニューヨーク在留領事を命ぜられ、6年2月には副領事に任ぜられた。 7年10月賜暇帰国し、杉田成卿の長女縫と結婚、この時二人の取り交した結婚契約書には行礼人として福沢諭吉、証人として初代駐米公使森有礼が署名している。 明治9年10月ニューヨークより帰国し、12月には上海領事館在勤を命ぜられたが、赴任しないままあらたに外務省少書記官に任じ、本省勤務となった。 11年12月イギリス公使館在勤を命ぜられた。 14年5月に帰国し、同年10月に大蔵省に移った。 その後、日本銀行創設に関与し、副総裁を経て明治21年には総裁に就任。 さらに東京府知事、貴族院議員、富士紡績社長、横浜火災海上社長等を歴任した。 廉潔の士として知られ、大正5年10月歿した。 『仙台先哲偉人録』、吉野俊彦『忘れられた元日銀総裁富田鉄之助』。

 明治8(1875)年5月1日に開館した三田の演説館の建物は、当時ニューヨーク駐在の副領事であった富田鉄之助から福沢のもとに送られてきた諸種の会堂の図面を参考に設計された和洋折衷の建造物である。

丸家銀行、早矢仕有的、福沢と金原明善2022/06/20 06:59

 『福澤諭吉書簡集』第4巻906は、富田鉄之助が日本銀行副総裁で、福沢が破綻した丸家銀行の善後策について早矢仕有的案にかわるものを求めている書簡だった。

 丸善、丸家銀行については、坂井達朗さんが講義のなかで、詳しく説明した。 早矢仕有的は、天保8年生まれ(福沢より3歳年少)岐阜県武儀(むぎ)郡笹賀村(現山県市美山町)出身で、漢方を学んだ農村医。 先祖は戦国大名土岐氏の家臣、弓術の名人。 それで早矢仕有的の名、学才を惜しんだ庄屋高折善六のすすめで、安政6(1859)年江戸に出て、坪井信道に蘭方医学を、信道の弟、谷信教に英語(阿部泰蔵と同門)を学ぶ。 慶応3年谷塾廃止、慶應義塾に転じ福沢に入門。 明治元年、新政府から大学小助教の資格を認められ、横浜で医院を開業、傍ら医療品医薬品、外国書籍、文具の輸入・販売を兼営。 福沢のアドヴァイスで、名義人は丸屋(初めは地球の球(まる)屋、世間が「たまや」と読むので)善七を名乗る。 高折善六にちなむ架空の名前。 西洋文明の有形の部分を輸入・販売・製造(福沢は無形の部分)、小売業から次第に製造業、金融業に進出。 福沢に簿記・会計に詳しい中村道太を紹介され、その協力もあり急速に経営が拡大する。 従業員の面倒をみる共済組合から、明治12年無限責任丸家銀行を創立した。

 福沢は丸屋の経営に深くかかわった。 文明の商業者として早矢仕を高く評価、自らも多額の投資を行なった。 門下生の有力者、旧藩主層にも紹介、協力や出資を勧めた。 中村道太、福沢英之助、小幡篤次郎、朝吹英二、阿部泰蔵、穂積寅九郎、馬越恭平、近藤孝行(水野忠弘家扶)、奥平昌邁(まさゆき)。

 明治17年、丸家銀行の経営破綻。 ピークに達した松方デフレの影響だが、特に山形県朝日山地方の殖産政策、旧山形藩士の結社「六行社」の事業不振に、水野家との関係で頭取近藤孝行が個人的に融資していた債務を、丸家銀行に付け替えたのが焦げ付いた。 取付騒ぎとなる。

 丸家銀行の再建をめぐって、福沢と金原明善の緊密な協力関係があった。 金原は、浜松時代の水野家家臣団と取引し債権を持っていたと推定される。 丸家銀行の経営破綻は、金原の債権の回収を困難にした。 個人として多額の出資をしていた福沢、子供名義で出資、丸家銀行は特に有限責任制度でなかった。 事後処理のため、福沢と金原の間では、膨大な情報が交換されたはずだ。 多数の福沢書簡が保管されていた金原の東京の屋敷、第二次大戦中に防空壕で水損に遭い、廃棄。 『全集』は、一点のみ収録。

『福澤諭吉書簡集』の「金原明善」2022/06/19 07:38

 『福澤諭吉書簡集』索引の「金原明善」、第4巻906富田鉄之助宛、910丸屋銀行維持社員宛、第5巻1079中村道太宛、第9巻2336。 第9巻2336は、金原明善宛、年不詳(明治19年前後と推定)9月14日付、要旨は【(鉄道の)井上(勝)は中上川(彦次郎)が懇意である旨を伝え、中村(道太)の消息を知らせ、秋山(恒太郎)の預金の利子の請取を依頼する】。

 第4巻[ひと]5の「金原(きんぱら)明善」。 「天保3(1832)年、遠州長上(ちょうじょう)郡安間(あんま)村(現浜松市内)に出生。 生家は七十町歩程の地主で、代々名主を務める家柄であった。 明治8年、私財をなげうち基金を醵出して治水協力社を設立、天竜川治水事業を進めた。 その後河川改修費が地方税によって支弁されるようになると、同社を解散して、天竜川上流の育林事業にのりだし、運輸製材業を営んだ。 また丸家銀行の経営が破綻するとその整理に参画した。 これがのちに金原銀行に受け継がれる。

 福沢との出会いがいつ生れたのかは明確にしえないが、子息明徳が明治6年6月入塾した時であったかもしれない。 しかし明徳は『勤惰表』には名前がない。 金原が丸家銀行の整理に関与した理由は、このとき頭取であった近藤孝行が旧山形藩水野家の家臣(水野忠弘家扶)であり、破綻は近藤が山形藩士の私的な結社である六行社に、個人的に融資したことに始まったからであると考えられる。 この山形藩水野家は、幕府老中を務めた忠邦が天保改革に失敗した結果改易されたものであり(忠邦→忠精(きよ)→忠弘(明治4(1871)年慶應義塾入社))、その故地は浜松であったから、その時代に水野家の家臣と金原との関係が生れていたからであろう。 また、早矢仕有的と並んで丸家の中心的存在であった中村道太が隣国三河の出身であり、かねて金原と親しかった故であったといわれている(『丸善百年史』)。 社会福祉事業に深い関心をもち、特に出獄人保護を熱心に行った。 大正12年歿。

 金原宛福沢書簡は今日わずかに1通残っているのみであるが、これは太平洋戦争の空襲の被害を避けようとして、地下(東京の屋敷の防空壕)に保管したためにかえって湿気の害にあったことが確認されており(渡部忠喜氏談)、銀行の整理の過程で、福沢は相当数の書簡を金原に宛てて発信していたものと考えられる。」

 第4巻906富田鉄之助宛、明治17年11月3日付、このとき富田は日本銀行副総裁、破綻した丸家銀行の善後策について、早矢仕有的案にかわるものを求めている。 第4巻910丸屋銀行維持社員宛、明治17年11月16日付、日本銀行副総裁富田鉄之助の助力による丸家銀行維持の可能性を述べる。 第5巻1079中村道太宛、明治19年8月8日付、京橋区南鍋町の出版社鳳文館の建物の買取について問い合わせ、丸屋銀行整理につき金原らと相談した内容を伝えている。 「時事新報計算簿」(『全集』21)によれば、明治19年冬から20年3月までの間に、建物の代金800円を「藤本氏」に、改装費320円を大工幸吉に、「交詢社新築費」の名目で支払っている。 時事新報社はこの年12月25日から発行所を日本橋から南鍋町(銀座)の同所に移した。

 この時事新報社移転の件は、都倉武之さんの「ウェブでしか読めない 時事新報史」第19回「社屋の移転 日本橋を経て銀座へ」に詳しい。 https://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/ko/jijisinpou/19.html