「修身要領」と「教育勅語」2024/01/15 07:00

 慶應義塾には、福沢の言ったことが残っている。 自立、自分で働いて、暮らす。 留学させてもらって入婿になった桃介は、自由に発言して、大金を儲けようという奴は慶應に来ないと言ったが、自分は投資で大儲け、寝ていて稼ぐのは嫌な福沢に怒られた。 家庭の福沢が面白い。 家族を非常に大事にする、「修身要領」の29条を見るとわかる。(古本屋で見つけたという「修身要領」の掛軸を披露) (29条「吾党の男女」は「修身要領」を「服膺(ふくよう)」するだけでなく、「広く之を社会一般に及ぼし、天下万衆と共に相率いて最大幸福の域に進む」ことを期待する。) 先ほど塾長も触れられた21条には、文芸、芸術、娯楽の類いが、生きる上で重要で、そういうことにお金を使うことが、心や品位をアップして、人生の幸せを導くと言っている。

 福沢の教えは、一般の人にはわかりやすい、説得力がある。 本来、「塾」というそういうことを、暮らしを教えるところだった。 こういうのは、政府からは嫌がられる。 東京大学は、学位を与え、証書を出す、博士を作る、厳しい試験制度を始める。 私学のいいところがなくなる。 そうじゃない教育、福沢は義塾、「塾」を残したのがすごい。 明治30年代、教育が役所のシステムに入って、証明書を出す。 「塾」的私学をつぶそう、慶應をつぶせ、というのに、福沢は抵抗し、憎い敵「教育勅語」(明治23(1890)年10月30日発布)に反対した。 制度的に、私学はやりにくくなった。 くやしいけれど、「教育勅語」はうまくできすぎている。 福沢の『学問のすゝめ』をみんな読んでいたから、皇室も読んだろう。

 明治30年代、日本は西洋化している。 本では駄目、要領、標語で覚えさせる。 (福沢は晩年、日清戦争後の思想界の混迷、条約改正による内地雑居という新しい事態に対して、「現時の社会に適する」修身処世の綱領を作成することを提唱、福沢の高弟たちが編纂に当り、明治33(1900)年2月1日に独立自尊の「修身要領」29条が完成した。) 自然を大切に、博愛、共存の世界、戦争をやることは仕方がない、家族を守るためには、等々。 大講堂では、アインシュタインが講演するなど、慶應は新しい学問の入口になっていた。

 「教育勅語」の原本を見たが、原稿用紙で二枚、9割は「修身要領」と同じことが書いてある。 しかも短い、標語の形だ。 明治天皇の言葉、キャッチーなキャッチワード。 実は国粋的ではない。 福沢は、やられたと思った。 一番いけないこと、恐ろしいことは、二つ。 親に孝、国に忠。 永遠のキーワード。 井上毅(こわし)の起草、頭にすっと入る、やわらかい言葉、小学生でも理解できる。

                                     (つづく)

「金がない」福沢、暮らしの隅々まで関心2024/01/14 07:39

 記念講演は、作家の荒俣宏さんの「わが『福澤伝』を語る」だった。 荒俣宏さんは、『福翁夢中伝』上下巻を、12月に早川書房から出版した。 1970(昭和45)年法学部卒、日魯漁業に10年勤務、サラリーマン時代に出した『帝都物語』が500万部の大ヒット、以後、ジャンルを超えた執筆活動を続け、著書は300冊ある。

 荒俣さんは、女性の司会者に「荒俣宏君」と呼ばれ、「荒俣宏君とは、俺のことかと思った」、団塊の世代(1947(昭和22)年生れ)も長老になった、と始めた。 早川書房の社長に、福沢諭吉を小説的に書いてくれと頼まれ、4年かかってやった。 今日、慶應義塾に来て、福沢の考え方が残っているなあ、と感じた。 誕生記念会と名刺交換会がくっついている。 福沢を読むと、「金がない」というのが、何度も出て来る。 学校を、一人で作ったんだから、無理もない。 しかも洋学だから、攘夷の連中に殺されるという時に、生徒を集めて、飲み食いもさせて。 それも脱サラで、子供を十何人も育てるようなものだ。 福沢式経済学は、「金がない主義」、経済に生かす。 アルバイトで、翻訳家、作家になる。 自分も、大学3年の時、アルバイトで早川書房に雇われて、SFの翻訳をしたのが始まりで、福沢さんと同じようになった。

 福沢は、本屋の株に入って、福沢屋諭吉、本屋になった。 本屋は、作者を生かさず殺さずで、金を取るのは技術者、板を彫ったり、デザイナー、本を売る人。 作家じゃ食えないので、本屋になる。

 塾では先生にお辞儀をしなくてもいい、目礼すればいい。 理由が偉い、忙しい世の中だ、時間の節約になる。

 福沢は、消費組合(共済組合)も作った。 寄宿舎、アパートをつくった。 生活の場、大きな洗濯場があり、赤ちゃんのおしめが干してある。 つまり、生活の段階からスタートしている。 まず、食わなければならない。 暮らしの隅々まで関心を持っていた。 平田彩奈惠(獨協大学?)の国学の研究によると、昔は、町の人に教えるのに絵で図解して教え、弟子の若いのは2歳からいて、身体で吸収する、お母さんの役割を果たしたという。 福沢も、そういうことをやっている。 生活の立ちゆくことが、世の中を独立自尊の世にする。 現在の、ヒントになる。 小銭をこそこそ貯めて、貯金をする。 一般の日本人の暮らし方、貯蓄(個人資産)の多いのを世界の人は驚く、特にアメリカ人は…。                          (つづく)

降伏した庄内、西郷隆盛の寛大な処置2024/01/12 07:10

 9月、新政府軍の拠点、秋田中央部の刈和野で、一進一退の攻防になった。 庄内軍は、新政府軍の増援に苦戦している折、9月11日酒井玄蕃が病気になり立ち上がれなくなった。 それでも輿に乗って進軍し、16日勝利した。 だが、12日には会津藩が降伏し、庄内藩主酒井忠篤(ただずみ)は降伏を表明した。 領地に攻め込まれる前に、戦いを終えようとしたのだ。

 9月25日、謝罪降伏か徹底抗戦かを協議する会議が開かれ、26日謝罪降伏に決定した。 酒井玄蕃も、藩主に従う。

 黒田清隆、西郷隆盛が鶴ヶ岡城に入城したが、処分は意外にも寛大なものだった。 藩主は自宅謹慎、誰の命も奪われず、刀を差しての外出も許された。 城下でも、新政府軍による略奪などなく、領民は通常の生活をしていた。 この措置を指示したのが西郷で、「士が兜を脱いで降伏した以上は、後のことは何も心配はいらぬ」とした。 会津は28万石が、斗南3万石に、という過酷な処分だったが、庄内は17万石が、12万石に。 転封も取りやめになった。 これは本間家と領民たち、庄屋たちの反対運動があり、本間家が5万両を新政府に献金したことで、方針転換となった。

 庄内の人々はこの寛大な措置に感謝していて、酒田市には西郷隆盛を祀る南洲神社がある。 荘内南洲会理事長、小野寺良信さんは語る。 庄内藩士3千名が失職し、どう生きたらよいかと、数次にわたり西郷のところへ留学生を送り、助言をもらった。 それで出来たのが、松ヶ岡開墾場で、明治5年刀を鍬に持ち替え、荒地を開墾、2年後311ヘクタールの桑畑とし、養蚕業を興し、日本有数の絹の産地となり、明治の日本経済を支えた。 大正15年12月、50周年記念の松ヶ岡開墾場綱領に、「徳義を本とし、産業を興して、国家に報じ、以て天下に模範たらんとす」とある、ここに賊軍という汚名を晴らした。

 酒井玄蕃は、明治政府の軍人となり、清国へ渡航、地理気候を始め軍事の探索を続け、清国と戦争になった場合の戦略を練った。 報告書に「戦ふの難きにあらず、戦に至るの難きなり」と、戦いを避けるべきとした。 明治9(1876)年肺病のため33歳で亡くなった。

 佐藤賢一さん…西郷は当初戊辰戦争に関わらず、最後の局面で乗り込んでいる。古い武士だった。

 森田健司さん…西郷は伝説的な庄内の名を残してくれた。転封の指令は2回出ている。1回目は明治元年12月25日、ちょうど鳥羽伏見の戦いの一年後だ。

 磯田道史さん…玄蕃の先生は家康。家康が小牧長久手でやったのと同じことをやった。清国調査のリアリズムは、徳川武士の奥深さだ。

 私は、酒井玄蕃が活躍する佐藤賢一さんの小説『遺訓』に関連して、いろいろ書いていた。
佐藤賢一さんの小説『遺訓』と鶴岡<小人閑居日記 2016.2.23.>
西郷隆盛の「征韓論」は「遣韓論」だった<小人閑居日記 2016.2.24.>
西郷と庄内を警戒する大久保利通<小人閑居日記 2016.2.25.>
福沢諭吉と西郷隆盛<小人閑居日記 2016.2.26.>
西南戦争への福沢の運動と、言論の自由<小人閑居日記 2016.2.27.>
『丁丑公論』と日本国民抵抗の精神<小人閑居日記 2016.2.28.>
福沢の西郷銅像建設趣意書<小人閑居日記 2016.2.29.>
『現代語訳 福澤諭吉 幕末・維新論集』<小人閑居日記 2016.3.1.>
『福澤諭吉事典』の『丁丑公論』<小人閑居日記 2016.3.2.>
佐藤賢一さんの『遺訓』は『新徴組』の続編<小人閑居日記 2018.1.12.>

「英学者としての小幡篤次郎」、societyの訳語2023/12/20 07:09

 そこでまず、「小幡篤次郎の再発見」の5回目、池田幸弘さんの「英学者としての小幡篤次郎」である。 『小幡篤次郎著作集』第三巻所収の『英氏経済論』(英氏はフランシス・ウェーランド。私は2020年12月2日の福澤先生ウェーランド経済書講述記念講演会で、当時経済学部長だった池田幸弘さんの「福澤諭吉と経済という言説:新旧両理念のはざまで」を聴いていた)で、小幡の訳業の特質を考える。 巻の一から巻の三までは、明治4年刊行開始で、文体は漢字カタカナまじり文。 三の途中までは、やや特殊な振り仮名が頻出する。 巻の四から巻の六までは、明治6年8月刊行開始で、振り仮名は激減。 巻の七から巻の九までは、明治10年10月刊行開始で、振り仮名は激減。

 頻出するやや特殊な振り仮名というのは、「財本」に(モトデ)、「勤労」に(ホネオリ)といったもの。 小幡自身が本書の凡例で、振り仮名は初学者の「記憶」を助けるためのもので、訓ではなく音で読み下すよう述べている。 訓の振り仮名、例えば(ホネオリ)は意味を伝えるもので、読み下す時は音で「キンロウ」と読めという、諸文献でいわれている二重表記に近いともいえる。

 早川勇氏は『ウェブスター辞書と明治の知識人』(春風社・2007年)で、英和対訳袖珍辞書、英和字彙、西周の三者を比較した結果、それぞれの段階に大きな断絶があることを明らかにした。 例えば、actを、袖珍は仕業、働ラキ→字彙は所業(シワザ)、行為(オコナヒ)→西周は行為とし、行為が定着していく。 小幡のスタイルは英和字彙に近いが、現在時点から評価すると、勝利したのは、漢字のみで振り仮名のない西のスタイルである。

 経済関連用語の小幡訳「」を、現代の訳語[]と比較する。 individual「一人」・[個人] society「一国」・[社会] science「学」・[科学] capital「財本」(もとで)・[資本] wages「工銀」(てまだい)・[賃金] company「社中」・[会社]

 福沢にも『英氏経済論』の抄訳があり、societyを「一国」と訳しており、当時「一国」と訳すのは一般的だったのか、という話があった。 私は、福沢が初めsocietyを「人間交際(じんかんこうさい)」と訳していたと聞いていたので、「一国」との時期の関係を質問させてもらった。 西澤直子さんから、後年の女性論の頃にも「人間交際」も使っていたというコメントがあり、平石直昭さんからは「覚書」で「社会」を使っていることを教えていただいた。 帰宅して、「覚書」を探したら、明治10年の西南戦争を書いた直前に、それらしいのがあった。 「人間社会、最上の有様は知る可(べか)らず。唯、今の社会の有様の宜(よろ)しからざるを、論ずべきのみ。 Positive knowledge of the best form of society is impossible. We know only what it ought not to be.」

 『福澤諭吉事典』のVことば・3社会の「人間交際」によると、「人間交際」の初出は、『西洋事情』外編(慶応4年)で、「人間交際の大本」は「自由不羈(ふき)の人民相集(あつまり)て、力を労し、各々その功に従(したがい)てその報を得、世間一般の為めに設けし制度を守ることなり」とある。 さらに、当時の日本には「社会」に当たる概念がなかったことから、『西洋事情』では文脈に合わせて、「交際」「交(まじわり)」「世人」といった語も用いられている。 その後、福地源一郎によって「社会」という訳語が生まれ、福沢はしばらく「社会」と「人間交際」を併用したが、「人間交際」は次第に用いられなくなった、とあった。

ヴィッセル神戸のJ1初優勝2023/11/29 07:20

 サッカーは日本代表の試合以外ほとんど見ないのだが、25日にヴィッセル神戸がJ1の優勝を決めた名古屋グランパスとの試合は、慶應の武藤嘉紀がいるので見た。 すると、知らないことばかり。 「神戸讃歌」というのをサポーターが大合唱するのだが、どこかで聞いたメロディだと思ったら、エディット・ピアフの「愛の讃歌」だった。 1995年、ヴィッセル神戸が誕生し、初練習の予定日に阪神・淡路大震災が起こった。 「神戸讃歌」は、「共に傷つき共に立ち上がり」「これからもずっと歩んでゆこう」「命ある限り神戸を愛したい」と歌う。 ユニフォームの色は、クリムゾン・レッド。 プロ野球の楽天の色だ。 2004年に経営難のヴィッセル神戸に変わり、クリムゾンフットボールクラブ(現・楽天ヴィッセル神戸)が新たな運営会社になった。

 試合は、前半12分、左サイドのスローイン、怪我で先発しなかった山口螢に代わってボランチに入っていた酒井高徳からのパスを大迫勇也がトラップして、左を駆け上がってきたMF井出遥也にパスを合わせ、井出が右足で決めた。 直後の前半14分、左サイドで大迫が相手をドリブルで揺さぶって、中央に走り込んでいた武藤嘉紀の足元へ。 武藤は、ワンタッチでネットを揺らした。 2対0。 次に名古屋が得点すれば、試合の行方はわからなくなる前半30分、名古屋はユンターが1点を返す。 前半の残りと、後半、さらにロスタイムの5分、神戸はずっと緊張を強いられることになって、終盤さすがの武藤も足が吊っていた。

 26日の朝日新聞朝刊、堤之剛記者の解説を読んで、わかったことが多かった。 2022年度のチーム人件費はJ1最多の48億3千万円、J1クラブの平均の約2倍。 資金力にものを言わせ、18年にイニエスタ、19年にビジャと元スペイン代表のスターを獲得した。 19年にはMF山口螢、DF酒井高徳、21年にはFW大迫勇也にMF武藤嘉紀、日本代表経験がある大物も次々に加入した。 タレントをずらりとそろえ、スペインの強豪バルセロナの短いパスをつなぐスタイルをめざした。 しかし高い攻撃力を示せず、22年は開幕から不振を極めた。

 潮目を変えたのが、最下位に沈んでいた昨年6月に就任した46歳の吉田孝行監督、守備重視の戦術で立て直し、降格を回避した。 高い強度で球を奪いきり、速く攻めるサッカー、挽回を期す今季、選手には守備での球際の激しさを求めた。 「バルセロナ化」からの転換こそが、神戸が初の頂点をつかめた理由だと、堤之剛記者は書く。 「バルセロナ化との決別」の象徴がイニエスタの退団だ。 守備で目立った貢献のない選手は重宝せず、今期39歳になった世界的な司令塔も特別扱いしなかった。 守備の強度を上げるうえで、かっこうのお手本になったのが、大迫、武藤、山口、酒井たちだった。 欧州でもまれた彼らのフィジカルは強靭で、動きも速い。 若手は練習でぶつかることで、意識を高め、筋力トレーニングを変えた。 この試合で活躍が目立ち、胸を痛めてもがんばっていた24歳のMF佐々木大樹は、その若手の代表格だという。