「霧」と「衣被(きぬかつぎ)」の句会 ― 2024/09/19 07:03
兼題は、「霧」と「衣被(きぬかつぎ)」、私はつぎの七句を出した。
一瞬の摩周の湖面霧晴れて
こはごはと濃霧の釧路橋渡る
そろそろとオレンジ色のフォグランプ
横浜の坂を登れば霧笛かな
老い二人言葉なくとも衣被
熱々を生姜醤油で衣被
熱々をつるりと剥いて衣被
私が選句したのは、つぎの七句。
霧奥に打ち捨てられしサイロかな 照男
朝霧の川面に鮠(はや)のはねる音 盛夫
何処から投網打つ音霧流る 真智子
街灯の滲みて淡し霧の町 伸子
白魚の指には遠く衣被 さえ
きぬかつぎ糊のききたる割烹着 盛夫
ぬれ縁に月を待ちをり衣被 美保
私の結果。 <老い二人言葉なくとも衣被>を、庸夫さんと、千草さんが採ってくれた。 互選2票のみの、あいかわらずの低迷かと思っていたら、英主宰が選で、取り損ねたとおっしゃって、この句<老い二人言葉なくとも衣被>を採って下さった。 選評で、そのままの句だが、長い夫婦二人の人生、会話もいらない、思い出話もいらない。 不思議な句、いい句、と。
他に、私の選んだ句で、主宰選にもなった句の主宰選評。 <霧奥に打ち捨てられしサイロかな 照男>…何十年か前に、サイロは危険で必要ないということで、今はロールになった。屋根のペンキも剥げて、寂しい状態になっている。 <きぬかつぎ糊のききたる割烹着 盛夫>…この割烹着、心に描く理想の主婦像でなく、現実を考えてしまった。料亭などの女将の、売りとしての割烹着、ノスタルジアを狙う商売を。
「かかとで呼吸する」 ― 2024/07/05 07:09
6月22日に発信した「等々力短信」『新編 虚子自伝』(岩波文庫)を読む<等々力短信 第1180号 2024(令和6).6.25.>で、「道灌山で子規から後継者になれ、書物を読めといわれて、決裂した。 虚子は、生来の性質が呑気にやってゆく風で、母に「危ないところに近よるな」といましめられたままの臆病の弱虫、22、3から74歳の今日まで、書物より自然をよく見、自然を描くこと、俳句を作ったり、文章を書いたりして文芸に遊びつつ、荘子のいわゆる「踵で息をする」というような心持でやってきた。」と書いた。
荘子のいわゆる「踵で息をする」というのが、わからない。 踵は「きびす」とも読み、「踵を返す」「踵をめぐらす」(あともどりをする。引き返す。)、「踵を接する」(人のあとに密着して行く。転じて、いくつかの物事が引き続いて起こる。)、という慣用句もある。
「荘子」「踵で息をする」でネットを検索したら、【踵息】しょうそく 深く呼吸する。[荘子 大宗師]古の眞人~其の息するや深深たり。眞人の息するや、踵(かかと)を以てし、衆人の息するや喉(のど)を以てす、というのが出てきて、臨済宗大本山 円覚寺のサイトに『今日の言葉』2020.11.25.「かかとで呼吸する」があった。
『臨済録』では「一無位の真人」が、しばしば説かれている。 鈴木大拙先生は、『東洋的な見方』のなかで、「一無位の真人の意味が深い。無位とは、階級のないこと、数量でははかられぬこと、対峙的相関性の条件を超脱したということ。真人には道教的臭味があるが、仏者もよくこの字を使うこともある」と書かれているので、もとは道教において使われた言葉だったようだ。
『荘子』の「大宗師篇」に「真人」についての記述がある。 「通釈」を引くと、「むかしの真人は、失敗にさからいもせず、成功を鼻にもかけず、仕事らしい仕事もしない。こういうふうだと、しそんじても後悔などせず、うまくいっても得意にならない。こういうふうだと、高いところに登っても平気だし、水に入っても濡れず、火に入っても火傷をしない。知が道に到達した様子は、こういったものだ」というのだ。
さらに『荘子』では、「通釈」で、「昔の真人は、眠っているときには夢を見ず、起きているときには心配がなかった、うまい物を食べるわけでなく、呼吸はゆったりとしている。真人は踵で呼吸し、衆人(多くの人)は咽喉で呼吸する。人の議論に屈服しないものは、喉から出る言葉があたかも喉につかえた物を吐き出すように出てくるし、欲の深いものは、心の働きが浅い」
「真人の呼吸は踵を以てす」の一言は、白隠禅師もよく引用し、「其の息は深々たり」という様子を表している。
「喉で息をするのでもなく、胸で息をするのでもなく、腹式呼吸というものでもなく、もっと身体の奥深くまで息をして、踵まで達するというのです。 一歩一歩静かに歩いていると、この踵で呼吸していることが味わえるようになります。 真人は、今この生身の身体に生きてはたらいているものにほかなりません。 今現にはたらいているものであります」と、臨済宗大本山 円覚寺の横田南嶺師は説いているのだが、おわかりだろうか。
金玉均書の仮名垣魯文墓碑 ― 2024/06/25 07:00
谷中永久寺「猫塚供養碑」の右にある階段を上った墓地内に、仮名垣魯文の墓碑がある。 この墓碑は室町時代の板碑をはめ込んだもので、表に「韓人金玉均書/佛骨庵獨魯草文」(「草文」は「文を草す」)、裏は「遺言本来空/財産無一物」、その下に「俗名假名垣魯文」とある。 金玉均は、福沢諭吉と深い関係があった。 当時の朝鮮改革派の中心人物で、改革派が起こしたクーデター、甲申事変(1884)失敗後、日本に亡命し、囲碁の本因坊秀栄や中山善吉、明治のベストセラー『佳人之奇遇』の作者、柴四朗、さらに榎本武揚など各界の数多くの人物と交際した。 福沢の狂詩をほめているので、日本の文芸にも理解があったらしい。(と、金文京さんが書いているので、『福沢手帖』の連載「福沢諭吉の漢詩」をいくつか見てみたが、発見できなかった。ただ、金玉均に言及している箇所があったので、いずれ触れたい。) ただし、金玉均と魯文との具体的関係は不明だという。 魯文は明治27年11月8日に歿したが、金玉均はその前の3月に上海で暗殺されている。 だから、碑の字は、金の生前に魯文が頼んで書いてもらったものであろうという。
「猫塚供養碑」は最初、明治11年に浅草公園花屋敷の植木屋六三郎牡丹畠に建てられ、魯文はこの石碑建立に合わせ、同年7月21日、当時書画会会場としてよく用いられた東両国、柳橋の中村楼で珍猫百覧会を開催し、各界から猫にちなむ珍しい書画器玩の出品を求め、2千8百余人が参集したそうだ。 「猫塚供養碑」はその後、谷中墓地内の、これも魯文が建てた高橋お伝の碑の側に移された。 移転の時期は、正岡子規の<猫の塚お伝の塚や木下闇>が明治28年夏の句なので、それ以前である。 永久寺に移された時期は定かでないが、おそらく魯文歿後であろうという。
『図書』6月号は「谷中霊園「中村鶴蔵墓表」」であるが、谷中霊園にあった高橋お伝の碑について、仮名垣魯文が建てたものだが、碑陰の寄付者には、尾上菊五郎、市川左団次など歌舞伎役者が名を連ねる。 みな一代の毒婦といわれたお伝のおかげで一儲けした面々である、とある。
同じ谷中霊園にある「中村鶴蔵墓表」は、二代目中村鶴蔵(つるぞう)のもの。 二代目の師匠、初代中村鶴蔵は、すなわち三代目中村仲蔵。 落語や講談でおなじみの『忠臣蔵』五段目、斧定九郎を黒羽二重姿の色悪風にしたのは初代仲蔵であるが、三代目も明治の名優で、自叙伝『手前味噌』でも知られるという。
谷中本行寺「磬材之記」と太田道灌山 ― 2024/06/23 07:18
金文京さんの『図書』連載「東京碑文探訪」、2月号はまだ谷中本行寺で「磬材(けいざい)之記」である。 本行寺は太田道灌ゆかりの寺で、道灌の物見塚があったとする「道灌丘之碑」もある。 掛川藩主太田氏は道灌の子孫で、本行寺は太田氏の江戸での菩提寺である。 この「磬材之記」は、とても珍しい石碑で、ふつうの石碑にとっての石は碑文を刻むための素材にすぎず、主体は碑文であるのに、「磬材之記」の石は、そうではない。 磬とは、「へ」の字型の石をつるしてバチで叩く古代中国の楽器で、「磬材」は磬の材料となる石である。 儒教政治思想の要は礼と楽(がく)、かつ儒教は復古主義にして素朴を尊ぶ主義なので、石器時代の遺物であり、石をたたくだけの磬は、もっとも古くからの楽器として、楽器の王者とみなされた。
「磬材之記」を撰したのは松崎惟堂(こうどう)、熊本の農民出身で、江戸の昌平黌に学び、中年期の14年間、掛川藩の藩儒だった。 朱子学から考証学に転じた惟堂は、五経先生と号し、根本経典である五経(易、書、詩、春秋、礼)の本来の姿を復元することに努めた。 惟堂の薫陶を受けた藩主の太田資順(すけのぶ)は、その意義をよく理解し、もっとも古くからの楽器である磬となる石材を求めた。 家臣の長塩信行がようやくそれを探し出したのだが、石がとどく4日前に資順が死去したため、次の藩主、資言(すけとき)がその経緯を記した文を石に刻んで将来に伝えることを提案し、家臣一同賛同した結果が、この碑文となった。
ふつう石碑にとっての石は、碑文を刻むための素材にすぎず、主体は碑文である。 ところがこの「磬材之記」の石は、本来なら儒教が重んじる楽器である磬として治世の象徴となるべきはずであった。 貴重なのは石そのもの、碑文はつけ足しにすぎないわけで、「磬材之記」碑がとても珍しい石碑だというのは、そういうことなのである。
「道灌丘」から、すぐ「道灌山」が浮かぶ。 正岡子規が高浜虚子を後継者にしようとして呼び出して、茶店で話をしたが断られたのを「道灌山事件」という。 『広辞苑』の【道灌山】には、「東京の日暮里から田端に続く台地。武蔵野台地の縁辺部。太田道灌の館址、または谷中感応寺の開基である関長道閑の居所に由来すると名という。」とある。 『日本大百科全書』には「東京都荒川区西端の西日暮里から北区南東端の田端に続く丘陵。上野から赤羽に続く山手(やまのて)台地のいちばん高い所にあり、太田道灌の出城(斥候台)があったことから地名がおこった。眺望に優れ、また江戸時代から虫聴きの名所として知られ、よく文人が訪れた。浄光寺、本行寺、青雲寺をそれぞれ雪見寺、月見寺、花見寺とよんだのは、文人の風流好みの一例である。」とある。 落語好きは、いつも古今亭志ん生が、下を電車が通る諏訪神社のベンチで、稽古していたという話を思い出すのだ。
『新編 虚子自伝』(岩波文庫)を読む<等々力短信 第1180号 2024(令和6).6.25.>6/22発信 ― 2024/06/22 07:12
生誕150年の高浜虚子『新編 虚子自伝』が岩波文庫で刊行された(岸本尚毅編)。 昭和23(1948)年虚子74歳の菁柿堂版と、昭和30(1955)年81歳の朝日新聞社版をまとめて編集している。 まず「需(もと)めらるるままに、ごく平凡な人間のことをごく平凡に簡単に述べてみましょう」と始まる。 自伝というもの、なかなかこうはいかないだろう、どうしても自慢話になりがちだが、みずから信じてきた道を歩んできた自由人としての虚子の、ありのままが語られている。
伊予松山藩士の父池内(いけのうち)庄四郎政忠は剣術監、御祐筆だったが、一旦朝敵となった廃藩置県で、松山から三里「西の下(にしのげ)」に帰農したけれど、武士の農業だった。 清(虚子)8歳の時、一家は松山に帰り、祖母が亡くなったので、虚子はその生家高浜の姓を継いだ。 20上の長兄は県庁下級官吏となって生計を支え、17上の中兄は師範学校、15上の三兄は靴職工を志し、清は近所の小学校に入った。 中学ではトップの成績だったが、工科とか法科とか軍人を目指す者が多い中で、一人文科を志願する。 同窓の河東秉五郎(碧梧桐)から正岡子規のことを聞き、手紙を書く。 子規は「請ふ国家の為に有用の人となり給へ、かまへて無用の人となり給ふな。真成の文学者また多少の必要なきにあらず。」と返信する。 京都の第三高等中学校から、学制変更で仙台へ行くがすぐ退学、東京でも京都と同じく碧梧桐といた下宿が梁山泊のようになり、俳句に没頭した。
日清戦争に記者として従軍し大喀血をした子規を虚子が看病した。 そのあと道灌山で子規から後継者になれ、書物を読めといわれて、決裂した。 虚子は、生来の性質が呑気にやってゆく風で、母に「危ないところに近よるな」といましめられたままの臆病の弱虫、22、3から74歳の今日まで、書物より自然をよく見、自然を描くこと、俳句を作ったり、文章を書いたりして文芸に遊びつつ、荘子のいわゆる「踵で息をする」というような心持でやってきた。 仏道修業に定心散心という二つの道があるという。 定心は三昧ともいい、懸命に修業すること。 散心は、正常心でいて、それで仏の道を忘れずにいること。 虚子はどちらかというと、後者を選ぶものである、と。
昭和30(1955)年「ホトトギス」700号記念に、自選した48句に感想を付け加えたものがある。 虚子の代表句がすべて含まれているが、実はこんな句もあった。
<悔もなく誇もなくて子規忌かな><障子しめ自恃庵(じたいあん)とぞ号しける>何者にもわずらわされず何者にも動かされず、ただ自ら恃む。<懐手して論難に対しをり>戦後、新聞記者が必ず戦争は俳句に影響したかと聞いた。影響されません、と答えた。<萩を見る俳句生活五十年><恵方とはこの路をたゞ進むこと>
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