高浜虚子『斑鳩物語』の法起寺三重塔2024/10/17 06:53

 高浜虚子が、「塔は京都より奈良のほうが素晴らしい」と書いているのが、どこなのかわからないが、小説『斑鳩物語』に法起寺の三重塔に登る話があるのは、知っていた。 たまたま、雑誌『サライ』11月号の特集が「うるわしき「奈良」へ」で、その第1部が「「塔」がわかれば「奈良」がわかる」だった。 薬師寺東塔、法隆寺五重塔、法起寺三重塔、當麻寺東西両塔(三重塔)、室生寺五重塔、浄瑠璃寺三重塔、失われた東大寺東塔(七重塔)、興福寺五重塔を紹介している。 私は『夏潮』渋谷句会で<猿沢の浮草紅葉塔映し>と詠んだが、興福寺五重塔は今、十年以上かけた大規模修理工事中で、素屋根で覆われ、傍に巨大クレーンが立っているのだった。

 薬師寺東塔については、先日、『プロジェクトX』「薬師寺東塔大修理」を見た。 1300年ほど前の建築、令和3年に全面的な解体修理を終えた。 西岡常一さんに学んだ宮大工棟梁石井浩司さん(奥さんの支えと死があった)、心柱の白蟻に喰われたところを、つぎ足しでなく刳り抜いて嵌め込んだ松本全孝さん。 石井浩司さんは、『サライ』でも、「先人たちは残してやろうと思ってこの塔をつくったわけではないと思います。鑿(のみ)で材木を削るにしても、当時の宮大工はひと思いにザクッと削っている。腕自慢より、この塔を何としてでも完成させるんだという、信念のようなものが感じられます。」と、語っている。

 日本人は、ずっと古い建築を大事にしてきた。 古くなっても、解体修理して建築物を使い続ける文化があり、それは単に技術の継承ではなく、各時代の人々の心を受け継ぐことで、古建築はその想いと努力の結晶だといわれる。

 法起寺(ほっきじ・ほうきじ(法隆寺などと合わせて))は、聖徳太子が『法華経』を講じた岡本宮をあらためたものとされ、古くは岡本寺と呼ばれた。 卍崩しの高欄が特徴の三重塔を、高浜虚子が訪れたのは明治40(1907)年で、『斑鳩物語』はその経験をもとに著された。 私は『斑鳩物語』をポプラ社の「百年文庫」『音』で読み、ポプラ社の「百年文庫」『音』<小人閑居日記 2010.12.4.>を綴っていた。 そこに、『斑鳩物語』については別のところに書いたとあったので、探したら俳誌『夏潮』の虚子の一句(明治)に書いていた。

虚子の一句(明治)  後家が打つ艶な砧に惚れて過ぐ 虚子

 『五百句』所収。明治三十九年九月二十四日、虚子庵での第二十六回「俳諧散心」の会、第一回の運座での句。掲句は、「砧」が季題で秋。砧はキヌイタ(布板)の約、布地を打ちやわらげ、つやを出すのに用いる木槌。また、その木や石の台。秋の夜、いつもの道を歩いていると、近所で評判の美しい未亡人の住む家から、心に響くような、砧を打つ音が聞こえてくる。ちょっと、恋心へ誘われた、というのである。惚れっぽい虚子の面目躍如といったところだ。

「俳諧散心」「砧十句」には<新田のお辰が打てる砧かな>の句もある。松山での思い出か、明治の東京では、砧を打つ音が普通に聞こえていたのだろうか。

 今日、車の音や宣伝放送など、いろいろな騒音に囲まれている。かりに砧の音があったとしても、心には響かないのではないか。この句で、私は「ホトトギス」明治四十年五月号掲載の虚子の小説『斑鳩物語』を思い出した。<村の名も法隆寺なり麦を蒔く>の句もある、法隆寺南門前の宿屋に泊る。宿を手伝いに来る色の白い、才はじけた十七八の隣の娘、お道は平生(ふだん)家で機械機(きかいばた)を織っている。蛙の声がする静かな夜。カタンカタンと冴えた筬(おさ)の音がする。筬の音に交って唄が聞こえる。お髪サンに聞いて、お道サンのと知れるのだった。

「冷(すさ)まじ」と「浮草紅葉」の句会2024/10/16 07:11

 10日は、『夏潮』渋谷句会、10月になっても夏日がつづいていたのだが、前日から急に涼しくなった。 兼題は「冷(すさ)まじ」と「浮草紅葉」、本井英主宰は兼題を「冷まじ」とした幹事を「先見の明」だと。 「浮草紅葉」「萍(うきくさ)紅葉」「水草紅葉」は、水生植物の菱・睡蓮・沢瀉(おもだか)・水葵(みずあおい)などが、花が終わり、秋も深まってくると、そこはかとなく色づいてくることをいう。

 私は、つぎの七句を出した。
冷まじや月に浮かべる石舞台
屏風岩波に切立ち冷まじき
冷まじや動物園裏咆哮が
冷まじや夕闇迫る古墳群
冷まじや村の外れの土葬墓地
猿沢の浮草紅葉塔映し
尾瀬行けば池塘は浮草紅葉かな

 私が選句したのは、つぎの七句。
昨夜(よべ)雨に濁る水嵩冷まじや     伸子
人棲まぬ家の片づけ冷まじや        さえ
電線の唸り冷まじ旅寝かな          裕子
すさまじや俎板の鯉ひくひくと        照男
魚信探る水草紅葉濃きあたり        裕子
ハケ下の池の萍紅葉かな           英
白き根のゆらぐ浮草紅葉かな        礼子

私の結果。 <冷まじや月に浮かべる石舞台>を照男さん、作子さん、礼子さん、英主宰が、<屏風岩波に切立ち冷まじき>をさえさんと英主宰が採ってくれた。 さらに、<冷まじや夕闇迫る古墳群><冷まじや村の外れの土葬墓地><猿沢の浮草紅葉塔映し>の三句が英主宰選に入り、互選四票に、主宰選五句という望外の「前代未聞」「冷まじい」結果となった。

 主宰選評。 <冷まじや月に浮かべる石舞台>…人気のあった句、今行けば石舞台だが、元は古墳、亡くなった人の生命が籠もっている。 <屏風岩波に切立ち冷まじき>…どこの屏風岩か(私は銚子の外れの)、季節が急に秋に変った、岩の色、波の色が目に浮かぶ。 <冷まじや夕闇迫る古墳群>…古墳巡りをしている内に夕刻となり、古墳に人間の魂を実感した。 <冷まじや村の外れの土葬墓地>…今でも田舎にはいったん集落の隅などに土葬し、骨になったのを墓に入れるところがある。ワッと焼かれるのとは違う。何千年も続いている生死の習わし、無常観がある。 <猿沢の浮草紅葉塔映し>…奈良は、塔が素晴らしい。虚子も、塔は京都より奈良のほうが素晴らしいと書いている。

「霧」と「衣被(きぬかつぎ)」の句会2024/09/19 07:03

 12日は、あいかわらずの残暑が続いていたが、『夏潮』渋谷句会だった。 療養中で<暑中見舞読み返しては恢復期>の本井英主宰、9月からは日常の生活にもどっているけれど、各俳句会に出るつもりだが、若干の「不安」もある、と『夏潮』9月号の「消息」にあった。 ご出席かどうか、心配していると、「電気咽頭」のお声が聞こえ、拍手で迎えられた。 句会を大事にされる、その気力のものすごさに、ただ頭が下がる。 4日には池袋の句会に出られたそうだが、帰りの電車の不通で、深夜の帰宅になり、大変な思いをされたらしい。

 兼題は、「霧」と「衣被(きぬかつぎ)」、私はつぎの七句を出した。
一瞬の摩周の湖面霧晴れて
こはごはと濃霧の釧路橋渡る
そろそろとオレンジ色のフォグランプ
横浜の坂を登れば霧笛かな
老い二人言葉なくとも衣被
熱々を生姜醤油で衣被
熱々をつるりと剥いて衣被

 私が選句したのは、つぎの七句。
霧奥に打ち捨てられしサイロかな     照男
朝霧の川面に鮠(はや)のはねる音   盛夫
何処から投網打つ音霧流る        真智子
街灯の滲みて淡し霧の町          伸子
白魚の指には遠く衣被            さえ
きぬかつぎ糊のききたる割烹着      盛夫
ぬれ縁に月を待ちをり衣被         美保

 私の結果。 <老い二人言葉なくとも衣被>を、庸夫さんと、千草さんが採ってくれた。 互選2票のみの、あいかわらずの低迷かと思っていたら、英主宰が選で、取り損ねたとおっしゃって、この句<老い二人言葉なくとも衣被>を採って下さった。 選評で、そのままの句だが、長い夫婦二人の人生、会話もいらない、思い出話もいらない。 不思議な句、いい句、と。

 他に、私の選んだ句で、主宰選にもなった句の主宰選評。 <霧奥に打ち捨てられしサイロかな 照男>…何十年か前に、サイロは危険で必要ないということで、今はロールになった。屋根のペンキも剥げて、寂しい状態になっている。 <きぬかつぎ糊のききたる割烹着 盛夫>…この割烹着、心に描く理想の主婦像でなく、現実を考えてしまった。料亭などの女将の、売りとしての割烹着、ノスタルジアを狙う商売を。

「かかとで呼吸する」2024/07/05 07:09

 6月22日に発信した「等々力短信」『新編 虚子自伝』(岩波文庫)を読む<等々力短信 第1180号 2024(令和6).6.25.>で、「道灌山で子規から後継者になれ、書物を読めといわれて、決裂した。 虚子は、生来の性質が呑気にやってゆく風で、母に「危ないところに近よるな」といましめられたままの臆病の弱虫、22、3から74歳の今日まで、書物より自然をよく見、自然を描くこと、俳句を作ったり、文章を書いたりして文芸に遊びつつ、荘子のいわゆる「踵で息をする」というような心持でやってきた。」と書いた。

 荘子のいわゆる「踵で息をする」というのが、わからない。 踵は「きびす」とも読み、「踵を返す」「踵をめぐらす」(あともどりをする。引き返す。)、「踵を接する」(人のあとに密着して行く。転じて、いくつかの物事が引き続いて起こる。)、という慣用句もある。

 「荘子」「踵で息をする」でネットを検索したら、【踵息】しょうそく 深く呼吸する。[荘子 大宗師]古の眞人~其の息するや深深たり。眞人の息するや、踵(かかと)を以てし、衆人の息するや喉(のど)を以てす、というのが出てきて、臨済宗大本山 円覚寺のサイトに『今日の言葉』2020.11.25.「かかとで呼吸する」があった。

 『臨済録』では「一無位の真人」が、しばしば説かれている。 鈴木大拙先生は、『東洋的な見方』のなかで、「一無位の真人の意味が深い。無位とは、階級のないこと、数量でははかられぬこと、対峙的相関性の条件を超脱したということ。真人には道教的臭味があるが、仏者もよくこの字を使うこともある」と書かれているので、もとは道教において使われた言葉だったようだ。

 『荘子』の「大宗師篇」に「真人」についての記述がある。 「通釈」を引くと、「むかしの真人は、失敗にさからいもせず、成功を鼻にもかけず、仕事らしい仕事もしない。こういうふうだと、しそんじても後悔などせず、うまくいっても得意にならない。こういうふうだと、高いところに登っても平気だし、水に入っても濡れず、火に入っても火傷をしない。知が道に到達した様子は、こういったものだ」というのだ。

 さらに『荘子』では、「通釈」で、「昔の真人は、眠っているときには夢を見ず、起きているときには心配がなかった、うまい物を食べるわけでなく、呼吸はゆったりとしている。真人は踵で呼吸し、衆人(多くの人)は咽喉で呼吸する。人の議論に屈服しないものは、喉から出る言葉があたかも喉につかえた物を吐き出すように出てくるし、欲の深いものは、心の働きが浅い」

 「真人の呼吸は踵を以てす」の一言は、白隠禅師もよく引用し、「其の息は深々たり」という様子を表している。

 「喉で息をするのでもなく、胸で息をするのでもなく、腹式呼吸というものでもなく、もっと身体の奥深くまで息をして、踵まで達するというのです。 一歩一歩静かに歩いていると、この踵で呼吸していることが味わえるようになります。 真人は、今この生身の身体に生きてはたらいているものにほかなりません。 今現にはたらいているものであります」と、臨済宗大本山 円覚寺の横田南嶺師は説いているのだが、おわかりだろうか。

金玉均書の仮名垣魯文墓碑2024/06/25 07:00

 谷中永久寺「猫塚供養碑」の右にある階段を上った墓地内に、仮名垣魯文の墓碑がある。 この墓碑は室町時代の板碑をはめ込んだもので、表に「韓人金玉均書/佛骨庵獨魯草文」(「草文」は「文を草す」)、裏は「遺言本来空/財産無一物」、その下に「俗名假名垣魯文」とある。 金玉均は、福沢諭吉と深い関係があった。 当時の朝鮮改革派の中心人物で、改革派が起こしたクーデター、甲申事変(1884)失敗後、日本に亡命し、囲碁の本因坊秀栄や中山善吉、明治のベストセラー『佳人之奇遇』の作者、柴四朗、さらに榎本武揚など各界の数多くの人物と交際した。 福沢の狂詩をほめているので、日本の文芸にも理解があったらしい。(と、金文京さんが書いているので、『福沢手帖』の連載「福沢諭吉の漢詩」をいくつか見てみたが、発見できなかった。ただ、金玉均に言及している箇所があったので、いずれ触れたい。) ただし、金玉均と魯文との具体的関係は不明だという。 魯文は明治27年11月8日に歿したが、金玉均はその前の3月に上海で暗殺されている。 だから、碑の字は、金の生前に魯文が頼んで書いてもらったものであろうという。

 「猫塚供養碑」は最初、明治11年に浅草公園花屋敷の植木屋六三郎牡丹畠に建てられ、魯文はこの石碑建立に合わせ、同年7月21日、当時書画会会場としてよく用いられた東両国、柳橋の中村楼で珍猫百覧会を開催し、各界から猫にちなむ珍しい書画器玩の出品を求め、2千8百余人が参集したそうだ。 「猫塚供養碑」はその後、谷中墓地内の、これも魯文が建てた高橋お伝の碑の側に移された。 移転の時期は、正岡子規の<猫の塚お伝の塚や木下闇>が明治28年夏の句なので、それ以前である。 永久寺に移された時期は定かでないが、おそらく魯文歿後であろうという。

 『図書』6月号は「谷中霊園「中村鶴蔵墓表」」であるが、谷中霊園にあった高橋お伝の碑について、仮名垣魯文が建てたものだが、碑陰の寄付者には、尾上菊五郎、市川左団次など歌舞伎役者が名を連ねる。 みな一代の毒婦といわれたお伝のおかげで一儲けした面々である、とある。

 同じ谷中霊園にある「中村鶴蔵墓表」は、二代目中村鶴蔵(つるぞう)のもの。 二代目の師匠、初代中村鶴蔵は、すなわち三代目中村仲蔵。 落語や講談でおなじみの『忠臣蔵』五段目、斧定九郎を黒羽二重姿の色悪風にしたのは初代仲蔵であるが、三代目も明治の名優で、自叙伝『手前味噌』でも知られるという。