「和歌山・高野山・白浜を訪ねる」(1)〔昔、書いた福沢114-1〕2019/09/19 07:09

『福澤手帖』第111号(2001(平成13)年12月)の「和歌山・高野山・白浜を訪ねる―第36回福沢史蹟見学会―」。

 10月21日(日)アメリカでの同時多発テロの影響を受け、手荷物検査が厳 しいというので早めの7時20分に集合し、8時5分のJAL343便で関西空港 まで飛んだ。 小さな刃のついた髭剃り、鍵、小銭入れで、検査に引っかかっ た方もいたそうだ。 関空到着は9時20分、福沢美和さんがベルトが出来な いため飛行機に乗せてもらえないという盲導犬エドワードとともに、新幹線経 由ここで合流され、参加者33名が揃った。

 曇空を、三日間行を共にする和 歌山南海バスで、紀ノ川流域岩出町の根来(ねごろ)寺へと向う。 根来寺は 保延6(1140)年覚鑁(ばん)上人(興教大師)が高野山から独立して開いた 新義真言宗の総本山で、鎌倉から戦国期には栄えに栄え、堂塔二千七百、寺領 七十二万石といわれるまでになった。 根来衆と呼ばれる多くの僧兵を擁し、 使者を送って種子島に伝来した二丁の鉄砲の一丁を入手、製法技術を学ばせ大 量に製造して装備するなど、日本最大の武装勢力の一つとなった。 これを恐 れた秀吉は天正13(1585)年3月、根来寺を攻め、現在の大塔、大師堂を残 し、すべてを灰燼に帰した。 江戸時代に復興、京都の智積院、川崎大師、成 田山などは、その傘下だという。 がっちりした形状で、さび漆と黒漆の上に 朱漆を塗り放しにした根来塗の漆器でも知られる。 国名勝の庭園などを見て、 名物僧兵鍋が看板の国分屋という旅館で、幕の内弁当の昼食を取る。 この旅 行記、以後私のインチキ俳句と無理矢理お付き合い願うことになる。

  つはものや名残りの鍋もまぼろしか

 那賀(なが)町に平成11年4月にオープンしたという華岡青洲ゆかりの「青 洲の里」を訪れる。 青洲は研究を重ねてマンダラゲ(朝鮮朝顔)から麻酔薬 「通仙散」を作り、文化元(1805)年、世界で初めて全身麻酔による乳癌の手 術に成功した。 その際の母と妻の献身的な協力と葛藤は有吉佐和子の『華岡 青洲の妻』によって広く知られるようになった。 青洲の里には、自宅兼診療 所で、多くの門下生を育てた医学校でもあった「春林軒」が復元され、遺品や 資料を展示したミュージアムがある。 一篇の小説は偉大である。 有吉佐和 子の作品がなければ、おそらくこの里の復元はなかったであろう。 薬草の現 物も育てられていて、マンダラゲはちょうど実をつけていた。

  嫁姑とげとげの実や曼陀羅華

 徳川御三家のひとつ紀州徳川家の居城、和歌山城の天守閣に登って、和歌山 市とその周辺を一望した後、和歌山南港に隣接した水軒川河口にある池泉回遊 式庭園の養翠園を巡る。 紀州第十代藩主治宝(はるとみ)が八年の歳月をか て造営したものという。 松や池が美しく、遠くの山(焼山章魚頭姿(たこず し)山)を借景した見事な庭で、思わず嘆声がもれる。 たいした降りではな いが、雨になった。 当地の産という青石を主とした敷石を伝い、三ッ橋や太 鼓橋を渡って一周する気分は、殿様である。 和歌山名産備長炭になるウバメ ガシの木を教わる。 ハゼの木が色づいている。

  青石を濡らして見せる秋夕雨

ああ、江國滋さん〔昔、書いた福沢80〕2019/07/21 07:24

                 ああ、江國滋さん

        <等々力短信 第782号 1997(平成9).8.25.>

  8月10日に江國滋さんが亡くなり、その後の夏休みの五日間をぼーっと過 ごした。 ただでさえ、ぼーっとしているのだから、ぼーっとの二乗である。 いつまで続くか、お楽しみにと始めた「等々力短信」が、こんなに長く続いて きたのは、一つには江國滋さんのおかげがあったと思う。 一人よがりでこん なものを出していて、いいのだろうかという思いが、いつもあった。    

  そんな「等々力短信」を偶然の機会から読んでいただくことになった江國さ んが、短信を評価して下さり、最初に本にした『五の日の手紙』を私家本にも かかわらず、新潮社の『波』で1986年の「今年の本」の一冊にあげ、「読 書の散歩道」という放送番組でも紹介して下さった。 読者の一人として来て 下さった500号記念の会(1989.6.27.)では、短信の読者人脈に驚いたとい うスピーチをされたあとで、その皆さんを前にカードマジックの妙技をたっぷ りと披露して下さったのだった。 プロの随筆家に、それも長く愛読していた 江國さんに認めていただいたことが、私にとって、どれほどの力と自信になっ たかは、はかりしれないものがある。

  江國滋さんと知り合えたのは、実は、福沢先生のおかげであった。 江國さ んの『俳句とあそぶ法』(朝日新聞社)の「寿(ほ)ぎの天敵-慶祝句」の章 の結論に、福沢の人生訓の第一条というのが出てくる。 「人間にとっていち ばん醜いことは、人をうらやむことであります」。 俗に福沢「心訓」と呼ば れるこの七則は、福沢の書いたものではない。 偽作であることが、富田正文 先生によって『福沢諭吉全集』別巻の228ページに明記されている。 その 旨、お知らせした手紙が、江國さんとの文通の発端となった。       

 だが、後に「心訓」によって私は、江國さんの文章に対する頑固で厳しい姿 勢を知ることになる。 『俳句とあそぶ法』の続編として、『週刊朝日』に連 載された「滋酔郎俳句館」の「人のふところ」に、また「心訓」が登場したの を読んだ私は、再びそれを指摘した。 だが、連載が『江國滋俳句館』として 単行本になったのを見ると、直っていない。 それをいぶかった私の手紙に対 する江國さんの返信「いつぞやのご教示は、もちろんよく覚えており、承知の 上で、ああ書いたのです。 理由はただ一つ、文章の上から、福沢センセイも いっておる、と書かないと文章にならなかったからで、ほんとは偽作だそうだ が、と付言したら、めりはりがくずれてしまいます」

 彫心鏤骨の文人、62歳11か月の死であった。 ご冥福を祈る。

福沢のあかるさ〔昔、書いた福沢69〕2019/06/24 06:52

                  福沢のあかるさ

           <等々力短信 第745号 1996(平成8).8.5.>

 司馬遼太郎さんが亡くなった頃、パソコンネットである句会が始まり「道」 という題が出た。 いつもは参加していない句会なのだが、次の句が浮かんだ ので投句しようかと思っているうちに、その句会は中止されてしまった。 少 し残念だった。

           街道をゆけば菜の花大入り日    轟亭

 あれから半年、ようやく司馬さんのことを落ち着いて考えることができるよ うになった。 いろいろなことを教えてもらったなあと思う。 特に福沢諭吉 を通じて興味を持っていた幕末から明治にかけての、時代のイメージのかなり の部分が、司馬さんの本によって形作られたといっても、よいのではなかろう か。 というわけで、司馬さんの見た福沢諭吉というあたりから、ぼつぼつ司 馬遼太郎さんのことを考えてみたい。

 「街道をゆく」の「中津・宇佐のみち」で、司馬さんは中津へ行き、福沢の 家族や家系のことを考える。 中津奥平氏も、伊予宇和島の伊達氏も十万石。  中津最後の殿様奥平昌邁(まさゆき)は伊達宗城の三男で養子に来たから、 両都は親戚で、規模も、県庁を他市にとられた立地条件も似ているのだが、中 津が、かつてありもしなかった天守閣を、「再建」(と天守閣入場券の解説文 にあるそうだ)したのに、宇和島は市長の城址に武道館を建てる計画が市民の 反対で沙汰やみになったから、このことについては宇和島の勝ちだと司馬さん は書いている。 この天守閣は、福沢もきらいだろう。

 奥平氏の前の小笠原氏時代の中津に、福沢の先祖はあらわれる。 小笠原氏 は信州松本が封地だったこともある古い大名で、家臣に信州人が多かった。  福沢の祖も信州茅野あたりから出たと福沢家の伝説にいう。 福沢諭吉自身が 書いた東京の福沢家墓地の碑文に「……これに由て考れば福澤氏の先祖は必ず 寒族の一小民なる可し」とあって、これを司馬さんは「福沢のあかるさがよく 出ていて、いい文章である」という。

 司馬さんは、福沢の母お順の、聡明で、物事を「平明」にみる性格を特筆し ている。「平明」というのは、物事をことさらむずかしく表現したり、形式ば ったりしないということだ。 明治になって東京に迎えたこの母が死んだ時、 福沢は葬儀に貴顕紳士の参葬を受けたり、塾生を参列させるといったことは一 切しなかった。 福沢は着物にパッチ尻端折で、二人の孫の手をひいて、棺の あとに従った。 司馬さんは「このあたりも、福沢の生涯で、いちばん感じの いいあたりである」と、書いている。

「若楓」と「立夏」の句会2019/05/16 07:14

 9日は、『夏潮』渋谷句会があった。 兼題は「若楓」と「立夏」、私は次の 七句を出した。

若楓のトンネル抜けて開山堂

雲水の頭(ツムリ)に映る若楓

若楓と新しき代の風を受け

ジャスミンの風がふはりと夏来る

バラの枝雨に垂れ来て夏に入る

アウトバウンドの女は半裸夏に入る

すは海への齢でなけれど夏来る

 私が選句したのは、次の七句。

若楓葉先に仄と紅(コウ)掃きて      和子

小康を得るは大慶夏は立ち         英

駒下駄の鼻緒のきつく夏に入る       和子

トランペット明るく響き夏来る       孝治

立夏かな日がな一日海を見て        真智子

大木の花のにほひや夏は来ぬ        淳子

フランスパン脇に抱へて夏に入る      庸夫

 私の結果。 <若楓のトンネル抜けて開山堂>を英主宰と正紀さん、<雲水 の頭に映る若楓>を英主宰とさえさん、<ジャスミンの風がふはりと夏来る> をななさんと正紀さん、<アウトバウンドの女は半裸夏に入る>を正紀さんが 採ってくれた。 主宰選2句、互選5票、計7票、いつもと同じような成績だ った。

 主宰選評。 <若楓のトンネル抜けて開山堂>…うなずける句。伽藍の中で の開山堂の在り場所は、個別のお堂と少し離れたような、そんな所にあるのを、 素直に詠んだ。 <雲水の頭に映る若楓>…若い雲水の頭は、鏡のようにテラ テラとしていて、それに若楓が映る様子が見えて、いいと思う。

 私も選句した句の主宰選評。 <駒下駄の鼻緒のきつく夏に入る>…駒下駄 は毎日履くものではないが、浴衣の折などに履き、秋風の立つ頃には馴染んで くる。 <トランペット明るく響き夏来る>…トランペットは、周辺の楽器の 中でも、底なしに明るいリズムと音色が、夏来るに合う。サキソフォーンでは だめ。 <立夏かな日がな一日海を見て>…人気のあった句、若い人にはわか らないかもしれないが、心を落ち着けて、海を眺めている。やって来た海へ、 戻って行く。

旧古河庭園と古河虎之助2019/05/13 07:19

 福澤諭吉協会の一日史蹟見学会「北区・飛鳥山を訪ねて」、最後は旧古河庭園 へ行った。 旧古河庭園には何度か行ったことがあり、2008年のバラの盛りに 枇杷の会の吟行で行った時は、<薔薇の香や英国の話聴きに行く><風匂ひ人 集ひ薔薇盛りなり><コンドルの黒き洋館椎咲く香><プリンセスミチコ五月 の風に揺れ><両洋の庭を分けたり木下闇><下闇や虎の顔して猫が出る>< 椎の花降る中雨の降り来たる>などという句をつくっていた。

 旧古河庭園の土地はもと明治の元勲・陸奥宗光の邸宅だったが、宗光の次男 が古河家の養子になった時、古河家の所有になった。 1919(大正8)年、古 河家三代目当主・古河虎之助によって現在の「和と洋が調和する大正の庭」に 整えられた。 洋館と洋風庭園の設計者は、英国人建築家のジョサイア・コン ドル(1852-1920)、日本庭園の作庭者は、京都の庭師・植治こと小川治兵衛 (1860-1933)である。

 古河虎之助は、小室正紀さんに頂いた資料によると、1887(明治20)年-1940 (昭和15)年、古河財閥創業者古河市兵衛の実子で三代目当主、古河財閥を総 合財閥に発展させた。 1898(明治31)年、慶應義塾に入り、小幡篤次郎の 薫陶を受ける。 1903(明治36)年、慶應義塾普通部を卒業、コロンビア大 学に留学。 1905(明治38)年、二代目である義兄が若くして病没したため、 三代目当主となる。 当時、足尾銅山の鉱毒のため、同社への非難は根強かっ たが、翌年古河鉱業社長に就任して間もない虎之助は、非難を緩和すべく、東 北帝国大学と九州帝国大学の校舎建設費用を寄付した。 慶應義塾評議員を第 10期より長く務めた。 

 第一次大戦以降、経営を多角化し鉱業(古河鉱業)・金融(古河銀行)・商社 (古河商事)を中心として、横浜ゴム、旭電化、富士電機、東亜ペイント、大 日電線、帝国生命保険、富士通信機、日本アルミ、古河鋅造、古河電池、日本 軽金属、日本特殊軽合金などを傘下に抱く20社以上の企業を束ねる一大コン ツェルンに拡張させた。

 しかし1920(大正9)年の戦後恐慌に際しては経営が失速、翌年には古河商 事が破綻、1931(昭和6)年には古河銀行を第一銀行に譲渡し、総合財閥の基 幹である商社と金融の機能を喪失した。 関東大震災の際、邸内を解放、避難 者約2000人を受け入れ、医療団に負傷者の治療に当たらせ、バラック住居86 戸を建てて避難者524人を収容した。

 その一方、社長在任中には重化学工業部門の規模拡大を図り、古河電気工業 (1920(大正9)年合併)、富士電機製造(1923(大正12)年設立)、富士通 信機製造(1935(昭和10)年設立)などを誕生させ、鉱業部門に代わって工 業部門を発展させた。

 古河系、第一銀行本店にいた私には、懐かしい名前の会社が多い。