小人閑居日記 2020年3月 INDEX2020/03/31 08:24

桂宮治の「権助芝居」<小人閑居日記 2020.3.1.>
柳亭小痴楽の「巌流島」<小人閑居日記 2020.3.2.>
桂吉弥の「胴乱の幸助」前半<小人閑居日記 2020.3.3.>
桂吉弥の「胴乱の幸助」後半<小人閑居日記 2020.3.4.>
桂やまとの「ひなつば」<小人閑居日記 2020.3.5.>
柳家喬太郎「夢の酒」のマクラ<小人閑居日記 2020.3.6.>
柳家喬太郎「夢の酒」の本篇・前半<小人閑居日記 2020.3.7.>
柳家喬太郎「夢の酒」の本篇・後半<小人閑居日記 2020.3.8.>
福沢索引2006年4月のブログ[昔、書いた福沢230]<小人閑居日記 2020.3.9.>
福沢索引2006年5月のブログ・武器が時代を動かす[昔、書いた福沢231]<小人閑居日記 2020.3.10.>
福沢索引2006年5月のブログ・小泉信三博士歿後40年[昔、書いた福沢232]<小人閑居日記 2020.3.11.>
福沢索引2006年5月のブログ・W・K・バルトン生誕150年[昔、書いた福沢233]<小人閑居日記 2020.3.12.>
福沢索引2006年5月のブログ・「明治美人帖」ゲイシャとセレブ[昔、書いた福沢234]<小人閑居日記 2020.3.13.>
福沢索引2006年6月のブログ・「明治美人帖」女学生と主婦[昔、書いた福沢235]<小人閑居日記 2020.3.14.>
福沢索引2006年6月のブログ・中津とのご縁[昔、書いた福沢236]<小人閑居日記 2020.3.15.>
福沢索引2006年6月のブログ・薩英戦争と福沢の翻訳[昔、書いた福沢237]<小人閑居日記 2020.3.16.>
福沢索引2006年6月のブログ・『時事新報』論説の扱い方[昔、書いた福沢238]<小人閑居日記 2020.3.17.>
福沢索引2006年6月のブログ・近代大阪を作った慶應出身の企業家[昔、書いた福沢239]<小人閑居日記 2020.3.18.>
福沢索引2006年7月のブログ・福沢家は年収200万円、火の車[昔、書いた福沢240]<小人閑居日記 2020.3.19.>
福沢索引2006年7月のブログ・読史五十年から得たもの[昔、書いた福沢241]<小人閑居日記 2020.3.20.>
短信 詩人たちの国で<等々力短信 第1129号 2020(令和2).3.20.>
福沢索引2006年8月のブログ・『清富の思想』、遊びのすすめ[昔、書いた福沢242]<小人閑居日記 2020.3.21.>
福沢索引2006年10月のブログ・竹田行之さんの『小泉信三と岩波茂雄、小林勇』[昔、書いた福沢243]<小人閑居日記 2020.3.22.>
福沢索引2006年10月のブログ・福沢著作の検閲、『岩波茂雄への手紙』と苦難の時代[昔、書いた福沢244]<小人閑居日記 2020.3.23.>
野次馬の高輪ゲートウェイ駅見物<小人閑居日記 2020.3.24.>
「俳句のおもしろさ」を中高生に語った芳賀徹さん<小人閑居日記 2020.3.25.>
藤永貴之第一句集『椎拾ふ』<小人閑居日記 2020.3.26.>
絵本作家スズキコージさんと、堀内誠一さん<小人閑居日記 2020.3.27.>
「高齢ナンパ」と『老人流』<小人閑居日記 2020.3.28.>
『暮しの手帖』の新編集長<小人閑居日記 2020.3.29.>
「司馬遼太郎で歴史の理解が止まっている人」<小人閑居日記 2020.3.30.>
「応仁の乱」前夜、混乱の時代の幕開け(前半)<小人閑居日記 2020.3.31.>

福沢索引2006年10月のブログ・福沢著作の検閲、『岩波茂雄への手紙』と苦難の時代[昔、書いた福沢244]2020/03/23 06:48

福沢著作の検閲<小人閑居日記 2006.10.10.>
 竹田行之さんの講演『小泉信三と岩波茂雄、小林勇』の中で、検閲の話題が
出た。 1936(昭和11)年7月18日、岩波文庫『文明論之概略』の皇室に関
する記事を問題にされ次版改訂処分。 1937(昭和12)年版から、いわゆる
「伏字もの」となった。 1941(昭和16)年慶應義塾は『福澤選集』を企画
するも第一回配本「経済論集」のみでおわる。 第二回の「教育論集」が事前
検閲で大幅な削除を求められたことによって、企画中止。 講演後の西川俊作
さんの質問の中で、1941(昭和16)年改造社文庫『福翁百話』を10か所削除
して出したことに富田正文が言及していることがわかった。 竹田さんは戦後
のGHQによる『福翁自伝』の検閲にもふれ、今後の研究課題だと述べた。
 福沢著作の検閲については、ずいぶん前の「等々力短信」で書いたことがあ
った。 第390号「言論の自由について」(1986.(昭和61)5.5.)、第392号
「『福翁自伝』削除、その後」(1986.5.25.)。(参照 : 言論の自由について〔昔、
書いた福沢25〕<小人閑居日記 2017.11.16.>、『福翁自伝』削除、その後〔昔、
書いた福沢27〕<小人閑居日記 2017.11.18.>)

 1936(昭和11)年『文明論之概略』の改訂については、丸山真男『『文明論
之概略』を読む』(中)(72~75頁)に書かれている。 建武の中興に関連して、
天皇の徳・不徳を論じた部分が問題にされたのだった。
戦後の『福翁自伝』の削除は、占領国を誹謗しているとされた箇所、薩英戦
争のところの「元来イギリスとロシアの間がらは犬とサル」が1950(昭和25)
年5月10日発行の昭和19年第二版第五刷本では、削除され、削除のあとが分
からないように、註をふやして、空白を埋めている。 これは私が疑わしいと
推定した箇所を、『『文明論之概略』を読む』のささいな誤植の件でつながりの
出来た、岩波書店の担当編集者伊藤修さん(今も「等々力短信」を読んで頂い
ている)が、当時、編集部、製作部にあった『福翁自伝』4種類の版に当って
確認してくれたのだった。

『岩波茂雄への手紙』と苦難の時代<小人閑居日記 2006.10.11.>
 2003年11月に『岩波茂雄への手紙』(岩波書店)という本が出て、編集に関
わられた伊藤修さんから頂戴して、「等々力短信」第935号で紹介したことが
あった。 この本巻末の「岩波茂雄宛書簡差出人一覧(個人)」の「小泉信三」
は、封書56通、葉書4通の計60通という多数に上っている。 収録されてい
るのは、それぞれの人が一通だから、1936(昭和11)年6月16日付、この時
刊行が開始された『新輯定版 鴎外全集』を手にしての手紙である。 鴎外漱石
「此両文豪と時代を同じうして生れたることを喜ぶ念は昨今に至つて愈々切な
るを加へ候折柄此両巨匠の全集が相並んで貴兄の手に依て刊行せらるゝを見て
衷心感喜に堪へざるものに候」とある。
竹田行之さんの講演で、戦中戦後、関係者が受けた苦難の中に、小林勇の逮
捕投獄の話も出たが、上に書いた「等々力短信」「『岩波茂雄への手紙』」で岩波
書店とその執筆者である学者や文化人の苦難の時代についてふれていたので、
その全文を別に掲げることにする。

『岩波茂雄への手紙』<等々力短信 第935号 2004.1.25.>
 岩波書店主のデスクに座り、来信を読んで、寄せられた難問や企画に、あな
たならどう対処するだろうか。 『岩波茂雄への手紙』(岩波書店)は素晴しい
本だ。 創業九十年記念に社員などの関係者向けにつくったのが「面白い」と
評判で、市販されたのだと聞く。 岩波書店編集部の編集、飯田泰三さんの監
修である。 飯田さんは『福澤諭吉書簡集』の編集委員のお一人で、10月松崎
欣一さんと一緒に講師を務められた、当の岩波セミナールームでの「福澤書簡
を読む」読書会で、お話を聴いたばかりだった。
 『岩波茂雄への手紙』でまず感じるのは、岩波茂雄にはよい友達がたくさん
いたということである。 32歳の茂雄が古本屋として創業した1913(大正2)
年、夏目漱石のところへ看板の字を書いてもらいに行ったとき、同行してもら
ったのは一高以来の親友安倍能成だった。 翌年の処女出版物が漱石の『こゝ
ろ』、ついで『道草』『硝子戸の中』『明暗』を出し、没後の『漱石全集』で岩波
書店は出版社として確立する。 『全集』の編者に名を連ねた漱石門下の阿部
次郎、安倍能成、小宮豊隆、鈴木三重吉、寺田寅彦、野上豊一郎、松根東洋城、
森田草平らは、その後の「岩波文化」形成に多大の役割を果たした。 初期岩
波書店のもう一つの柱だった「哲学叢書」の刊行も、阿部次郎、安倍能成、上
野直昭という茂雄の一高以来の親友たちが編集し、執筆陣も明治末年に東京帝
大哲学科(茂雄はその選科)を卒業した新進学徒たちであった。
1928(昭和3)年頃から、岩波書店とその執筆者である学者や文化人が、苦
難の時代を迎える。 茂雄あてのそれぞれの手紙の前に、差出人の略歴が付け
られている。 それを見ると、主に治安維持法によって逮捕、投獄されている
のは、河上肇、久保栄、柳瀬正夢、吉野源三郎、中野重治、久野収、玉井潤次、
大塚金之助、小林勇、羽仁五郎、大内兵衛、三木清(獄死)。 辞職を余儀なく
されているのが、恒藤恭、美濃部達吉、末川博、矢内原忠雄。 刊行停止や発
禁にされたのが、天野貞祐、津田左右吉。 ごく普通の学者や文化人が弾圧の
苦難に遭う、それらの手紙を読んで、言論出版の自由の有難さ、貴重さを感じ、
何としてもそれを守らなければいけないと思わずにはいられない。 飯田さん
の解説に、1936(昭和11)年7月、岩波文庫の福沢諭吉『文明論之概略』で
さえ、皇室に関する不敬な記述があるとして、次版改訂処分を受けたことが見
える。 この削除については、昔短信(390号)に書いたことがあった。(上記)

福沢索引2006年10月のブログ・竹田行之さんの『小泉信三と岩波茂雄、小林勇』[昔、書いた福沢243]2020/03/22 07:28

福澤諭吉協会の土曜セミナー<小人閑居日記 2006.10.7.>
 9月30日、福澤諭吉協会の第99回の土曜セミナー、次は第100回。 33
年間のほとんどを聴いてきた。 講師は、伊藤正雄、池田弥三郎、ヨゼフ・ピ
タウ、と続き、吉野俊彦、緒方富雄、高橋誠一郎、飯沢匡、富田正文、武見太
郎、丸山真男、永井道雄、江藤淳、横松宗の名前もある。 私の福沢知識は、
土曜セミナーの耳学問によるところが多い。
 今回は、元福澤諭吉協会理事、元岩波書店編集部長の竹田行之さんの『小泉
信三と岩波茂雄、小林勇』。 今年は小泉信三の没後40年で、岩波茂雄の没後
60年、小林勇の没後25年の年にも当る。 竹田さんは、昭和の初めから第2
次世界大戦を経て戦後に続く数々の福沢著作の編纂と刊行が、小泉信三と岩波
茂雄、小林勇、三人の友情を絆とした、揺るがぬ信頼関係に支えられて、行な
われたことを語った。 小泉が岩波、小林に宛てた書簡は110通にのぼるそう
だが、『小泉信三全集』にはその三分の一しか収録されていない。 その未発表
書簡をよりどころに、福沢著作出版にまつわる美しい人と人の交流の物語を、
聴くことができたのであった。

小泉信三と小林勇<小人閑居日記 2006.10.9.>
 小林勇は小泉信三の『社会問題研究』が出た1920(大正9)年に、17歳で
岩波書店の住み込み店員となり、ただ一人の編集員として、著者達の間を駆け
めぐる。 1927(昭和2)年、岩波文庫の創刊に携わるが、翌年、岩波書店の
ストライキで、店員側の排斥の対象になり退社する。 その時「小林勇君の如
き、その勤勉にして信義に厚き、平生小生の最も敬重する所なるに」という小
泉信三の岩波茂雄宛書簡がある。 小林勇は、翌1929(昭和4)年鉄塔書院を
設立、岩波茂雄の次女小百合と結婚、小泉信三著『リカアドオ研究』を出版す
る。 小林勇は1934(昭和9)年、幸田露伴、寺田寅彦、小泉信三のすすめに
より岩波に復帰、1938(昭和13)年岩波新書の創刊に携わる。
 1937(昭和12)年岩波文庫『福翁自伝』出版。 校訂にあたったのが富田
正文だったが、小泉信三は小林勇宛書簡で富田に謝礼を出してもらえるか「富
田君なる人物は、心事頗る高尚にて、自分の取るべき報償などの事に付き曾て
小生等にも要求を漏らしたる事なく、従つて校訂の困難などに就いても吹聴せ
ぬ人に付き」と「能書き」を述べている。
 1942(昭和17)年12月、岩波文庫『学問のすゝめ』刊行。
 戦後、1950(昭和25)年初秋、岩波書店の一室に福沢著作編纂の事務室が
おかれる。 この年、岩波書店に入社した竹田行之さんは、隣のデスクにいた
そうだ。 翌1951(昭和26)年5月、小泉信三を理事長に福澤諭吉著作編纂
会設立、『福澤諭吉選集』8巻の刊行が始まる。 1958(昭和33)年、福澤著
作編纂会は慶應義塾に著作権を寄付、創立百年記念『福澤諭吉全集』21巻の刊
行が開始される。

福沢索引2006年8月のブログ・『清富の思想』、遊びのすすめ[昔、書いた福沢242]2020/03/21 07:06

『清富の思想』、遊びのすすめ<小人閑居日記 2006.8.24.>
 18日、三田で小泉信三記念講座の講演会、講師は塩澤修平経済学部長の『清
富の思想』。 その「清貧」でなく、「濁富」でなく、ましてや「濁貧」でない
ところに、これからの日本の経済社会のあり方を求めようとするものだ。
「清・濁」は環境面への負荷、「貧・富」は経済的繁栄の指標。 ライフスタイ
ルとしての「清貧」の思想は、富める社会の中で、少数の人々が実践するなら
ばよいが、皆がそうしたライフスタイルをもったら、大量失業が発生し、最低
限の生活もできなくなってしまう。 現在の日本では持続不可能だ、という。
 それでは「清富」とは、どういう考え方か。 物的には「もったいない」に
基づき、出来るだけ無駄を省いて節約する。 だが「遊び」には大いにカネを
つかい、有効需要を高め、失業を減らす。 文化・芸術を含む「遊び」に関す
る経済活動は、物的資源はあまり使わず、付加価値が高いからだ。 各世代が
「遊ぶ」ことにより、経済は活性化し、環境にもやさしい。 そのキーワード
が「遊び心」で、「遊び心」にもとづき積極的に人生を楽しむことが、同時に世
のため人のためになるという。

「遊び心」で世のため人のため<小人閑居日記 2006.8.25.>
 塩澤修平教授の『清富の思想』を、もう少し。 武士道で利を悪徳だとする
のは、第一次産業の作り出す社会の富が一定だというゼロサム社会だからだ。 
だが福沢先生や初期慶應の先輩たちは、ゼロサム社会とは見ていなかった。 ア
ジアの各国がつぎつぎに欧米列強の植民地にされていた時代に、日本の独立を
いかに保つか。 ゼロサム社会では切り抜けられないと考えて、殖産興業の道
を選択し、それを支えたのが慶應の大先輩たちである。
ゼロサムでない状況では、取引をしてお互いに得をする場合もあり得る。 そ
こに新たな価値(富)が創造されるからだ。 利潤を上げても悪ではなく、み
んなが得をする状況もあり得るのだ。 少子高齢化を迎えた日本経済活性化の
鍵になるのが「遊び心」である。 文化・芸術を含めた、広い意味での「遊び
心」に基づく消費活動は、作り出される付加価値の大きさに比べて、そのため
に使われる天然資源の量はきわめて少ない。 日本が国際的に競争力を持つも
のとして、工業製品(自動車、電器など)は基本だが、伝統的な「遊び心」と
最新の技術が融合した分野としてのアニメ、発想の勝利であるゲームソフトな
どが、世界に誇るひとつの文化を創りあげている。
「遊び心」は、生き方においても旺盛な好奇心と柔軟な発想、そして余裕に
通じる。 慶應は伝統的に、浮世絵蒐集の高橋誠一郎、芸術写真の千種義人
(2005.11.21.の日記参照)、蝶の蒐集の福岡正夫といった方々、学問の世界だ
けでなく趣味の世界でも超一流の、人間的に幅の広い大先達を輩出している。 
「遊び」に強い人が沢山いる塾員の人脈、ネットワークを活かさない手はない。 
その道のプロ・達人が多く、相互に補完的な関係を築くことができ、「遊び心」
を実践できるのだ。 そんな嬉しくなるような話を、塩澤修平教授はした。

福沢索引2006年7月のブログ・読史五十年から得たもの[昔、書いた福沢241]2020/03/20 06:53

読史五十年から得たもの<小人閑居日記 2006.7.25.>
 22日、慶應義塾創立150年記念事業の一つ「復活!慶應義塾の名講義」の第
6弾、森岡敬一郎名誉教授の「読史五十年から得た教訓と反省」。 三田キャン
パスの第一校舎121番教室、きれいに改装はしてあるが、40年以上の昔、高木
寿一教授の「財政学」や飯田鼎助教授の「社会政策」の講義を受けた記憶のあ
る教室だ。

 森岡先生は文学部の西洋史、マグナ・カルタの研究がご専門、9月には84
歳になられる。 戦争から帰って、なぜイギリスに負けたのかを考えた。 そ
れでイギリスの歴史、憲法や制度、マグナ・カルタの研究に入って行った、と
いうのだ。 私は、司馬遼太郎と同じだ、と思った。

 肝心の、なぜイギリスに負けたのかの要因(つまりあちらにあって、こちら
にないもの)。 一つは、最大のものや理想的なものでなく、考えられる次善の
ものを選択すること。 もう一つは、人間は不完全なものであるという人間観。 
それは、福沢先生の人間蛆虫論、人事には絶対の美がない、どこか欠陥がある
けれど、それを承知の上で謙虚に努力する、というのに通じるところがある。 
利己心を捨てることで、謙虚さを得るというアダム・スミスの話も出た。

 専横な王様にマグナ・カルタを認めさせる以前の時代には、王様は毎年赤字
なので、戦争をやる、つまり「桃太郎」をやった。 太平洋戦争で、日本が中
国に出かけ、さらに南方の石油を目指したのは、8~9世紀の頭で、20世紀を
やったのだ。 古い歴史も、現代につながる教訓がある、というお話だった。