渡辺洪基とは何者か、福沢諭吉との関わり2023/08/25 07:09

 そこで、「慶應義塾卒業生渡辺洪基を介し、福沢が助言したか」という渡辺洪基とは何者か。 名前を見たことはあるが、どういう人物か知らなかった。

 『福澤諭吉事典』[人びと]に、「渡辺洪基(こうき)」の項があった。 「弘化4(1847)年~明治34(1901)年。教育者、初代帝国大学総長、東京府知事、衆議院・貴族院議員。号は浩堂。越前国府中善光寺通り(現福井県越前市)に福井藩士で医者の渡辺静庵の長男として生まれる。家系は代々医業を営み、幼少より漢学、蘭学、医学を修め、開成所や慶應義塾で英語を学び、慶應3(1867)年幕府の西洋医学所の句読師となる。戊辰戦争に際しては松本良順に従って会津・米沢に赴き、かたわら英学校も開いた。明治2(1869)年大学少助教となり、翌年外務大録に転じ、4年岩倉使節団に随行、さらに外務書記官としてイタリア、オーストリアに赴任する。9年に帰国し、外務省、法務局にかかわりながら、12年には学習院次長として改革に努めた。翌年太政官法制部主事として集会条例を起案した後、14年外務省での『外交志稿』の完成を機に官を退き、全国巡遊に出る。18年東京府知事、19年帝国大学の創設とともに初代総長に就任。その後、23年特命全権公使としてウィーンに駐在、25年に帰国して衆議院議員に当選、30年には貴族院議員に勅選される。28年慶應義塾評議員。

さらに、地理研究を目的とする地学協会をはじめ36団体の会長を歴任、立憲政友会の創立委員としても尽力し、両毛鉄道社長や大倉商業学校督長などを勤めるなど、その活動は多岐にわたる。府知事時代には東京府マークの制定を提案し、帝大総長時には角帽五つボタンの制服も導入した。終始官界に身を置いたが、福沢との交友は続き、東京府知事時代には義塾を訪れた渡辺を福沢が「知事様を見ておけ」と塾生に紹介したことがあった。義塾同窓会にも多く出席したが集会条例の立案者として同窓に批難されたこともあったという。34年5月24日没。墓所は東京港区の長谷寺。[米山光儀]」

 熊澤恵里子教授が、「渡辺洪基を介し、福沢が助言したか」とした時期の渡辺は、何をしていたか。 康荘専用の学問所設立の明治14年頃は、外務省を最後に官を辞して全国巡遊に出ている。 留学目的を変更した明治22年頃は、まだ帝国大学総長だったと思われる時期(明治23年5月、加藤弘之が就任)にあたる。

康荘の欧州留学、兵学から農学へ目的変更2023/08/24 07:07

 松平康荘(やすたか)は、明治16年6月に学習院に入学した。 しかし、翌年1月には一転して陸軍兵学修行のためのドイツ行きを決定し、父茂昭が6か年の洋行願を華族局に提出した。 海外留学が浮上した背景には、大山巌陸軍卿の欧州行があった。 康荘の送別会には東京在住の旧藩関係者百名余が集まり、慶永を中心とした旧臣の結束力が依然として高いものだったことが判る。

 康荘の留学には重臣子弟三名(橋本春、岩佐新、天方通義)が同行修行した。 しかし、康荘は陸軍兵学修行を断念し、イギリス王立農学校での農学修行に、留学目的を変更することになる。 このことについては、慶應義塾卒業生渡辺洪基を介し、福沢が助言したか、という。 この松平家家督相続人の留学目的変更には、旧家臣たちが憤慨した。 福井出身の在パリ公使館付海軍大佐で康荘の後見人、八田裕次郎も、単に農学を勧めたわけでなく、まずケンブリッジ大学なりとも入学し、貴族の貴族たる教育を受けるようにと勧めた。 慶永は、覚書に、康荘は大学校に入り大学者にならなくとも、心得違いなく、松平家を保護すれば幸福このほか無しと書いている。 慶永にとっての一番の幸福は「家の保護」であった。

 これはアメリカ留学中の長男一太郎が、学問の方向について迷ったのに対し、「何科にても、一人前の男と為りて自活の道を得れば夫れにて沢山なり」、「拙者の所望は唯貴様生涯の幸福に在るのみ」と書き送った「幸福」とは対照的である。

 このことで八田裕次郎は後見人を固辞し、慶永は農学校入学に合わせて、第一高等中学校教諭松本源太郎を学事監督として派遣する。 松本源太郎は、旧福井藩家老本多家の重臣松本晩翠の長男で、当時30歳、学術修行のため3年の予定で渡英した。 オックスフォード大学近辺に居住し、哲学や宗教等を聴講、同大での勉学と人的交流を深め、帰国後、第一高等学校教授。

 慶永が家の存続を強く望む一方で、旧態依然とした「御殿風」手法は次第に求心力を失っていった。 康荘は、明治22年5月、英国サイレンセスター王立農学校へ入学した。 翌明治23年4月28日付、慶永宛書簡で、「昨夏農学校ニ入学仕り候より此ニ始メテ生涯の目的も自立、尓来都合も宜敷、今日迄勇テ勉強罷在り候事ニ御座候」と書き送った。 慶永の下では混迷を深めた康荘も、長期にわたる留学の中で、自ら学ぶ目的を見い出し、ようやく自立の道に辿りついた。 同年6月2日慶永死去、7月25日茂昭死去、康荘は一旦帰国後、英国に再留学した。

 明治26年5月、福井城址に松平試農場を創設した。 これも渡辺洪基を介し、福沢が助言したか、という。 松平試農場Experimental Stationは、その後の華族農場のモデルとなった。

福沢諭吉と横井小楠の関わり2023/08/22 07:12

 福沢諭吉と横井小楠の関わりだが、『福澤諭吉事典』を索引から見ると、[人びと]「徳富蘇峰」の項に、蘇峰の父一敬が横井小楠の高弟で肥後実学党の中心人物だというのと、「松平慶永(春嶽)」の項に、文久期に三岡八郎や肥後から招いた横井小楠を抜擢・重用し、藩政改革を押し進めた、とあるだけで、直接の関係は見られない。

 平山洋さんの『福澤諭吉』(ミネルヴァ書房)は、副題が「文明の政治には六つの要訣あり」で、その要訣は慶應2(1866)年3月から6月にかけて執筆された『西洋事情』初編に述べられていた。 元治元(1864)年にできあがっていた未刊行の『西洋事情』は、江戸の各藩実学派によって次々と書写されたという。 外国の情勢はもとより、来たるべき日本の国の形はどうあるべきかを考える手引書として読まれるようになった。 そこには、政治や議会についても書かれていたから、「幕末にそんなことを考えたのは小楠だけだった」わけではなかったのだ。

 そこで、改めて平山洋さんの『福澤諭吉』の索引から、「横井小楠」を見てみたら、二か所があった。 一つは、「五箇条の誓文と『西洋事情』」の小見出しのところ。 五箇条の誓文は諸侯会議派の参与由利公正(福井藩)と福岡孝弟(たかちか・土佐藩)が中心になって立案したもので、由利は実学者横井小楠の弟子、福岡は後藤象二郎や坂本龍馬とともに土佐藩実学派を牽引してきた人物で、やはり小楠の影響下にあった。 「諭吉は熊本藩の太田黒惟信(これのぶ)や牛島五一郎といった小楠門下生と交流していたので、議会政治と経済振興策を主眼とする小楠の思想は、諭吉の発想にも影響を与えた可能性がある。一方小楠の弟子筋としては、『西洋事情』が出版されたことで、それまで曖昧にしか把握できなかった議会や金融の仕組みを正確に理解できるようになったという利点があった。」

 もう一つは、小見出し「日本全国にパブリック・スクールを作る」のところ。 「新政府は薩摩・長州・土佐・肥前の四藩が中心となって組織された寄り合い所帯であったばかりでなく、思想的な立場も尊王派と実学派がいがみ合いつつ同居しているという状況にあった。薩・土・肥は維新直前まで幕府と協同歩調をとっていた実学派指導の藩で、横井小楠の実学思想の影響下にあった熊本藩や福井藩の勢力をも与党としていた。五箇条の誓文の原案を練ったのはこのグループである。新政府実学派は西洋の技術や文明にも造詣が深く、諭吉の著作もよく読んでいて、彼に私淑していたとさえいってよいほどであった。」

横井小楠、「全世界の道理」を討論で2023/08/21 07:11

 幕末の儒学者・開国論者の横井小楠(1809(文化6)~1869(明治2))については、7月30日の朝日新聞朝刊「日曜に想う」、有田哲文記者の「幕末に夢見た 世界レベルの討論」である。 勝海舟は、「おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠と西郷南洲だ」、西郷隆盛のすごさはその行動力にあり、小楠は「その思想の高調子な事は、おれなどは、とても梯子を掛けても、及ばぬ」(「氷川清話」)と言った。

 熊本藩士の子として藩校に学び、江戸にも遊学したが、藩の主流派と対立し、重用されなかった。 しかし、その有能さを見ていた幕末のキーパーソンの一人、福井藩主、松平春嶽から顧問に招かれ、そのブレーンとして一気に表舞台に立つ。 各藩を疲弊させる参勤交代をやめ、代わりに藩政の報告・討論を藩の任務としてはどうか。 小楠の提案は一時、幕府も容れるところになる。 クライマックスは1863(文久3)年、京都での「大会議構想」である。

 開港か、条約破棄かで日本が割れ、異人を斬るのが攘夷だと考える者たちが跋扈する。 そんな時代に小楠がこだわったのが「話し合い」だった。 公家や大名、庶民の代表まで交えた会議を京都で開く。 開国派も攘夷派も含めて。 日本に駐在する各国の代表も呼び、討論に加わってもらう。 小楠のアイデアをもとにした春嶽の意見書によれば、めざすのは「地球上の全論」を通じて「全世界の道理」を発見することだ。

 小楠の思想の大きさに魅せられ、研究してきた歴史学者の松浦玲さんは、「みなに思うことを徹底的にしゃべらせれば、そこから真理が出てくる。日本だけの話ではなく、世界を含めて。幕末にそんなことを考えたのは小楠だけだった」と言っているそうだ。

 むろん小楠も、強制力なしにそんな会議ができるとは思っていない。 開催のために福井藩の全軍事力を動員し、薩摩など他藩にも協力を仰ごう。 しかし足元の福井藩にも慎重論が強まってくる。

 夢破れて郷里に戻った小楠が、地元の若者と問答した記録がある。 「日本が自ら強くなって宇内(世界)に横行するために、海軍を創設し、航路を開く」という当時盛んだった積極的開国論を批判してこう述べている。 一国の横行は「公共の天理」に反している。 世界に乗り出すには国際紛争を解決するくらいの意気込みが必要だ。 単に勢力を張るだけなら後に必ず「禍患を招く」。 欧州では偏狭なナショナリズムが戦争をもたらしている、とも口にしている。 列強にいかに対抗するか、という発想はそこにはない。

 明治新政府ができると、小楠は参与に招かれたが、1869(明治2)年に暗殺された。 享年61。 毎年2月の命日に、熊本市内の墓前で慰霊の行事があり、近くの小学校の子供たちが小楠の言葉を朗誦するのだそうだ。 「尭舜孔子の道を明らかにし/西洋器械の術を尽くさば/何ぞ富国に止まらん/何ぞ強兵に止まらん/大義を四海に布(し)かんのみ」

個人の自立を守る自由主義、理想を捨てない現実主義2023/08/20 07:28

 「石橋湛山 先見の思想」、つぎは政治思想史研究者の上田美和さん、1973年生れ、オックスフォード大学院、早稲田大講師などを経て共立女子大准教授。 著書に『石橋湛山論』『自由主義は戦争を止められるのか』。

 上田美和さんが、石橋湛山にひかれた最初はやはり「小日本主義」、1920年代、経済ジャーナリストとして日本の自発的な植民地放棄論を打ち出したのは、歴史に名を残す成果だったと思う。 ただ、湛山は当時の国益を考えた結果として大日本主義を批判したのであって、生涯、小日本主義を言い続けたわけではない。 湛山の根底にあるのは、小日本主義ではなく、経済合理主義であり、植民地支配には合理性がなく、国益に合致しないと考えた。 もう一つは、自己の支配を重んじる自立主義で、現地の人が自分で決める意思を踏みにじる植民地支配は、放棄すべきだと考えた。

 ただ、小日本主義は「時期限定」で、30年代になると朝鮮・台湾植民地の存在を認める主張をしている。 言論統制に屈したのではなく、戦時経済の下で小日本主義を唱える余地がなくなったためだ。 さらに言えば、自分の自立が揺るぎかねない事態に、他者の自立をどこまで受け入れるのか、という問題にもなってくる。 戦争になると、湛山は愛国者でもあるので、「自分の国はどうなってもいい」とは言わなかった。 開戦後は筆を折る選択肢もあったが、湛山は愛国者として、言論で抵抗を続けた。 「戦争の遂行は誤りだ」と忠言する「争臣」がいなければ国は危うくなると考えたのだ。 終戦直後、湛山は「日本の発展のために米英とともに日本内部の逆悪と戦っていたのだから、今回の敗戦は悲しくない」と日記に書いているそうだ。

 石橋湛山の思想を貫くものとして上田美和さんは、自由主義を挙げ、そこにはナショナリズムが含まれると見る。 徹底した民主主義者でもあり、平和な方が国益に合致するので戦争はしない方がいいと考える一方、民主主義による選択の結果、国民が戦争を選ぶなら仕方ないという考えも示している。

 戦後、自民党の首相にもなった湛山が、軍事の役割を否定しなかったのは、彼なりの現実主義であり、再軍備論を主張し、「経済を圧迫しない程度に」という限界点を設けた。 「米国への過度の依存はよくない」という自立の考え方からだ。 一方で、「日中米ソ平和同盟構想」を提唱し、中国やソ連などを単身、訪問したりして、自民党内から冷たい目でみられることもあった。

 理想と現実の二者択一ではなく、上田美和さんは、湛山を経済合理性と自立を考えながら、「理想に近づくために現実的に行動する」、「理想を捨てない現実主義者」ととらえている。

 上田美和さんが重要だと思うのは、湛山の個人主義だという。 駆け出し記者時代、個人の人生を邪魔するなら、国家の方を変えなければならない、と述べ、30年代にも「自由主義は個人主義の別名である」と述べている。 でも戦時になると、「個人の生命よりも国家の存亡が優先だ」となりがちで、湛山も戦争を止めることはできなかった。 そこに示された自由主義の難所をどう乗り越えるのかが、今日的課題かもしれない、と上田さんは指摘する。 そして戦時でも、国家の自立だけでなく、個人の自立をできるだけ守るべきだと、考える。 現在のウクライナ危機に対して何ができるのか。 具体策として、現地の希望する人々を国外に救出する「人道回廊」への支援を挙げ、戦争中でも個人の存在に目を向けて「人間の安全保障」に力を入れていく。 自由主義には、まだやれることがあるはずだ、と言っている。