福沢諭吉の「無限の苦痛」[昔、書いた福沢196]2020/01/19 08:09

         福沢の「無限の苦痛」<小人閑居日記 2003.12.28.>

 21世紀に向けて福沢を読み直すための事業として慶應義塾大学出版会から 刊行が続けられていた『福澤諭吉著作集』全12巻が完結した。 その第12 巻『福翁自伝・福澤全集緒言』を編集した松崎欣一さんから、ご自身の書かれ た同巻の解説のコピーを送っていただいた。 この解説は、西川俊作さんが『三 田評論』12月号に書かれた「『福澤諭吉著作集』全12巻完結」で「立派な解 説」と評価されたものである。 福沢は『福翁自伝』でも、それを補う自身の 翻訳・著作活動の解説である『福澤全集緒言』でも、前半生には生彩に富むス トーリーを語っているのに、後半生に関しては、あっさりとしか語っていない。  それはなぜか、福沢が言い残し、後世に託したものは何か、それについて松崎 さんが「立派な解説を与えられた」と、西川さんは言ったのだ。

 私は松崎さんに、こんなお礼のハガキを書いた。 「(あいさつ部分・略)一、 『緒言』中の自らの著作に対する福沢自身の評価を「行数」で考察された思い 付き(スタチスチク)に感心。 二、著作が読まれず理解する者も少ないとい う福沢の実感が『全集』編纂の原動力というご指摘。 三、文明の精神を担う 拠りどころとしての「慶應義塾」を、担う一ランナーであったのに、その付託 に気付かなかったという私の反省。 四、自身の描いた筋書(理想)と現実と の乖離に対する福沢の「無限の苦痛」が『全集』『緒言』『自伝』を生んだこと。  等々、教えられる所が多く、今年の最後をしめくくる、よい勉強になりました。」

小室正紀さんの「草間直方と福沢諭吉」[昔、書いた福沢194]2020/01/17 07:11

       「草間直方と福沢諭吉」<小人閑居日記 2003.11.24.>

 22日、福沢諭吉協会の土曜セミナーだが、慶應義塾大学経済学部教授(近 世経済思想史)で最近福沢研究センター所長になった小室正紀(まさみち)さ んの「草間直方と福沢諭吉」という話だった。 草間直方(伊助、宝暦3(1 753)-天保2(1831))は、福沢が生れる前に死んだ(つまり時代が違 う)大坂のビジネス・エリート、京都の商家に生まれ、鴻池に奉公し、鴻池の 三別家の一つ尼崎草間家の女婿となり同家を継いだ。 文化5(1808)大 坂今橋に両替商を開業、大名貸で取引のできた肥後、山崎、南部など諸藩の財 政整理に尽した。 その一方で、貨幣史、物価史の精密な研究『三貨図彙(さ んかずい)』『草間伊助筆記』『篭耳集』などを著した。

 なぜ「草間直方と福沢諭吉」なのか。 草間直方の活躍した19世紀初頭は 転換期、変化の時代であって、そこからの草間の時代認識と展望が、福沢の考 え方につながるのだという。 19世紀初頭が転換期というのは、幕府や藩で 財政システムが行き詰まり、地方の経済が活発に動き出す。 草間は長期的に 米価は低下せざるを得ないと見通し、米(コメ)経済の限界を見た。 それは 大名貸、大坂利貸(りたい)資本の、貸倒れ、不良債権化による危機を意味し た。 草間は米価が下落しても、金銀の融通(流通)さえ円滑にいけば、経済 は問題ないとして、貸出を生産的投資のためのものに振り向け、各藩が特産品 の殖産興業に力を向けるべきだと、考えた。

 変革期の人間が何かを主張するためには、「客観的認識」と「内面的自己確立」 (自らの確信)が必要である。 草間の場合、それは『三貨図彙』にみられる ように変っていく現実をくわしく調べることであり、懐徳堂で学んだ儒学(「折 衷学」…朱子学・古学・陽明学などの派にとらわれず、それらの諸説を取捨選 択して穏当な説をたてようとする)に立脚点を求め、道徳性が経済の信用を支 え、万物の融通(流通)が宇宙の根本に通じると、考えた。 福沢のそれは『福 翁自伝』のいう「数理学」と「独立心」。

 小室正紀さんは新発見資料、金沢市立図書館稼堂文庫蔵の草間が肥後熊本藩 大坂勘局頭尾崎氏あて私書『むだごと草』(文化8年、1811)を主な材料に、 この講演をした。

        コメ経済とゼニ経済<小人閑居日記 2003.11.25.>

 小室正紀さんの指摘した、草間直方の活躍した19世紀初頭は転換期、変化 の時代だったという話だが、司馬遼太郎さんだとこうなる。 草間直方とほぼ 同時期に、大名貸の番頭で、しかも学者だった(草間とそっくり同じ、小室さ んの話にも出た)山片蟠桃(1748-1821)について書いている文章に ある(『十六の話』)。

 「江戸体制を考える上で、はたして、この体制が建前であるコメ経済であっ たのか、それともゼニ経済だったのか、ということに迷ってしまう。」 播州赤 穂の浅野家はわずか五万石ながら、赤穂塩という商品の収入(みいり)で、江 戸初期以来、城下の各戸に上水道がひかれていた。 仙台伊達家は五十九万五 千石、家格の差がありすぎて、たとえば両藩の通婚などはとてもできない。 家 格はコメで量(はか)られ、「貴穀賎金」穀ヲ貴(たか)シトナシ、金ヲ賎シト ナスといわれ、それは幕府の一貫した農本主義を言いあらわしていた。

 しかしながら、実質的にはゼニ経済なのである。 たとえば、仙台五十九万 五千石の米は、入用分をさしひき、余った一部は江戸へ飯米(廻米)として移 出されるものの、大部分は大坂へ換金のために運ばれ、堂島相場によって相応 のゼニに化して仙台に送られた。 仙台藩ではそのゼニでもって藩財政がまか なわれる。 藩は貴であるという建前があるため、それをゼニにする機関にじ かに触れることはできない。 建前では賎しいゼニに触れる機能は、いやしい 町人、大坂の町人がやるのである、と。

 小室正紀さんは講演のあとの質疑のなかで、19世紀初頭以来、全国の大小 260藩、各藩が行き詰まった経済をなんとかしようと苦闘した。 勘定方の 武士を中心に、藩札を出したり、物産を開発したりして、「国益」をはかった(「国 益」という言葉は、漢語ではなく、この頃できた新しい考え方だそうで、この 国は藩)。 その7~80年の試行錯誤の経験が、維新後に生きた(江戸時代と 明治の連続性)という話をした。

         山片蟠桃(ばんとう)<小人閑居日記 2003.11.26.>

 「コメと大坂」という題で、山片蟠桃について書いていたのを思い出した。  司馬遼太郎さんの『十六の話』(中央公論社)の「山片蟠桃のこと」という文章 を読んで、その清々しい生き方につよく惹かれたからだった。

    コメと大坂(等々力短信 第748号 平成8年(1996)9月5日)

 江戸中期以後、貨幣(流通)経済が盛んになると、コメを基本にして成立し ている各藩の財政は、どこも苦しくなってきた。 その対策として、外様藩は 換金性の高い商品、たとえば蝋、特殊な織物、紙、砂糖などを生産することに よって、金銀貨幣を獲得するように努めた。 その点、譜代藩はおっとりして いて、ことに中津奥平家は累代幕政に関与したから、幕府の直轄領政治が産業 に鈍感だったのに影響されてか、ほぼコメ依存のままだから、とくに苦しかっ たという。(『街道をゆく』「中津・宇佐のみち」) 

 福沢諭吉は天保5(1835)年、大坂堂島浜通りの中津藩蔵屋敷内の勤番長屋 で生まれた。 父百助(ひゃくすけ)が、回米方という蔵屋敷詰の役人だった からである。 回米方は、コメその他の藩地の物産を売りさばいて、換金する のを職務とする役人であるが、その実は、藩の物産を担保にして大坂の豪商か ら借金することや、その返済遅延の言い訳けをするのが、主な仕事だったらし い。 『福翁自伝』には、百助の人物について、普通(あたりまえ)の漢学者 で、金銭なんぞ取り扱うよりも読書一偏の学者になっていたいという考えだか ら、そんな仕事が不平で堪らなかった、と書いてある。

 藩も蔵屋敷も、お侍としての威厳は保っているものの、実権はカネを持って いる豪商が握っていた。 福沢百助の時代より少し前、豪商のひとつ升屋に、 高砂から13歳の久兵衛少年が奉公に来る。 久兵衛は、のちに『夢の代(し ろ)』を書く山片蟠桃(ばんとう・1748-1821)になる。 主の重賢は、読書好 きの蟠桃に、大坂でもっとも権威のあった学塾懐徳堂に通うことを許した。 こ の恩は蟠桃にとって終生のものとなる。 重賢が死に、主家はにわかに傾く。  蟠桃は24歳の若さで、6歳の遺子重芳を擁して、升屋の再建にのりだす。 1 1年間の苦闘の末、天明3(1783)年、伊達59万5千石の仙台藩との信頼関 係を確立する。 蟠桃は、年貢を取り立てたあとの農民の「残米」を藩が現金 で買い取る方式を提案し、その「買米」を日本最大の消費地である江戸に回し た。 江戸市民の食べる米のほとんどは、仙台米になった。 仙台藩は、その 売上げで得た現金を、両替商に貸して得た莫大な利息によって、財政の建て直し に成功する。 コメ経済に、貨幣経済を組み込んだ合理的なシステムが、いか にも蟠桃らしいという。 仙台藩は、あたかも一藩の家老のように、蟠桃を遇 した。 あくまでも主家を立てた蟠桃は、番頭だからと蟠桃と号した。(司馬遼 太郎『十六の話』)

北里柴三郎とノーベル賞[昔、書いた福沢192]2020/01/15 07:05

       北里柴三郎とノーベル賞<小人閑居日記 2003.12.1.>

 北里柴三郎について、一つ書くのを忘れていたことがある。 ノーベル賞の 問題だ。 図書館で見つけた最近の北里柴三郎伝、砂川幸雄著『北里柴三郎の 生涯』(NTT出版)などは、副題が「第1回ノーベル賞候補」となっているほ どだ。 ノーベル賞は福沢の死んだ1901(明治34)年にスタートしたの に、日本人がこれを初めて手にしたのは、48年後、私もその騒ぎを記憶して いる1949(昭和24)年の湯川秀樹さんの物理学賞だった。 その間の日 本人の学問水準は、低かったのだろうか。

 実は、1901年の第1回ノーベル・生理学医学賞から、日本人北里柴三郎 に与えられるべきものであったというのだ。 その第1回の生理学医学賞は、 ドイツの細菌学者エミール・ベーリングに授与された。 受賞理由は「血清療 法、特にジフテリアに対する血清治療の研究」における業績だった。 しかし、 ベーリングのこの業績は、彼と同じロベルト・コッホの弟子で、先輩に当る北 里柴三郎との共同研究によるものだった。 しかも、北里は、それ以前に、こ の研究の前提となる「破傷風の免疫血清療法」という革命的な研究を成し遂げ ていたのである。

 砂川幸雄さんによると、北里とベーリングが二人の共同研究「ジフテリアと 破傷風の動物実験による免疫性の成立」を『ドイツ医事週報』に発表したのは 1890(明治23)年12月4日号・11日号で、それは医学の世界に革命 的な気運を巻き起こすことになる。 そのわずか一週間後、ベーリングはなぜ か単独で「ジフテリアの血清療法」を発表している。 そして1892(明治 25)年にはジフテリア坑毒素を市販し、コッホとの間に「感情のもつれが生 じたらしく」(科学朝日編『ノーベル賞の光と陰』)、1894年にはハレ大学の 助教授に転じ、ついで1894年マールブルク大学教授になっている。 そし て1901年の第1回ノーベル・生理学医学賞の5年ぐらい前には、ベーリン グによる「血清療法の単独発見工作」が、たぶん完了していた(113頁)、と 砂川さんは推測している。

        北里柴三郎とベーリング<小人閑居日記 2003.12.2.>

 ちょっと昨日の補足。 ノーベル賞の選考過程は50年間は公開されないこ とになっているそうだが、すでに第1回の生理学医学賞の選考過程は明らかに なっている。 最初46人の候補者がおり、コッホやベーリングと共に北里も 入っていた。 選考委員会がさらに15人に絞った時も、北里は残っていた。  一方、ベーリングの名前は、この段階で落ちていた。 それが最終選考で、な ぜかベーリングが復活したという。

 昨日みたようにベーリングは「ジフテリアの血清療法」の論文を単独で発表 していた。 ジフテリアが、当時のヨーロッパで大流行していた深刻な小児病 で、ベーリングは世間から救世主のように見られたために、彼がだれよりも早 くノーベル賞を受賞したのではないかと、砂川幸雄さんは推測している。

 明治28(1895)年、東京でコレラが流行した。 5万5千人がかかり、 うち4万人が死亡している。 北里は府立広尾病院の嘱託になり、コレラの免 疫血清をはじめて試用した。 血清療法を施した193人のコレラ患者中、死 亡者は64人にとどめる、画期的成果をあげた。 この血清は北里の伝染病研 究所で製造されたものだったが、血清製造を官業にしたいという政府の要請を、 北里はこころよく承諾した。 明治29年、国立の「血清薬院」が芝公園でそ の事業を開始し、北里研究所はただちに血清製造を中止し、免疫動物や諸設備 一切を「血清薬院」に献納した。

 ところで、免疫血清療法の共同研究者で、この研究でノーベル賞を受けたベ ーリングは、製薬会社から権利料を受け取っていた、という。

福沢研究集中月間[昔、書いた福沢190]2020/01/13 06:59

        福沢研究集中月間<小人閑居日記 2003.10.17.>

 10月は、1日に日記に書いた9月27日の福沢諭吉協会の橋本五郎さんの 土曜セミナーに始まって「福沢研究集中月間」の趣がある。

 4日、11日、25日、11月1日の各土曜日は、『福沢諭吉書簡集』全9巻 完結記念の慶應義塾福沢研究センター主催の講演会と座談会が、三田キャンパ ス内の演説館で開かれている(各14時から)。 すでに終わった4日は坂野(ば んの)潤治さんの「『官民調和』と『保革伯仲』-福沢諭吉の二大政党論をめぐ って-」、11日は金原左門さんの「『近代』づくりを地域の水脈に求めて-い くつかの福沢書簡を手がかりに-」、まだこれからの25日は佐藤能丸さんの 「海から陸への飛躍-岩崎・大隈・福沢-」、11月1日は金文京さん、中野目 徹さん、比屋根照夫さんの座談会「『福沢諭吉書簡集』の完結を記念して」。 こ のシリーズは慶應義塾主催なので無料だし、三田の演説館で開かれているので、 テーマに興味のある方、三田の構内や演説館を見たり入ったことのない方は、 ぜひ参加されるとよい。 これまでの2回、かなりの空席があった。 私は全 部出るつもりでいる。

 きのう16日と23日の木曜日の夜は、福沢諭吉協会の読書会「福沢書簡を 読む-「原点」を探る」が、神保町の岩波セミナールームで開かれている。 講 師は書簡集の編集委員を務めた飯田泰三さんと松崎欣一さん、書簡集第1巻の 安政4年から明治9年まで、福沢数え24歳から43歳までの青壮年期の手紙 から、福沢の原点を探っている。

 26日(日)から28日(火)は、福沢諭吉協会の福沢史蹟見学旅行で、長 崎と佐賀へ行く予定になっていて、楽しみにしている。 (実は、この10月24日に兄晋一が急逝したため、この旅行には参加できなか った。)

          二大政党制?<小人閑居日記 2003.10.18.>

 4日、腕を組んで演説している像を描いたとされる福沢が見下ろす三田の演 説館で聴いた坂野(ばんの)潤治さんの「『官民調和』と『保革伯仲』(187 9~1898)-福沢諭吉の二大政党論をめぐって-」。

 1879(明治12)年は、福沢の『民情一新』や『国会論』が出た。 『民 情一新』当時、西南戦争が平定され、自由民権の運動が勢いを得ようとしてい る時期だった。 急激苛烈な政治的変革を好まないで福沢は、英国流の二大政 党制によって、適当な時期に平穏な政権交代の行われることを勧説した。

 1898(明治31)年6月は、板垣退助の自由党と大隈重信の進歩党が大 同団結して憲政党が生まれた。 坂野潤治さんは、ここで生まれた「官民調和 体制」は、その後ずっと続いて、戦後も「55年体制」として続き、10年前 まではこの体制だったという。 今は、壊れそうで、壊れない状態だという。

 坂野さんは、二大政党制への失望を語った。

 1)現在の政治状況に関連させて、小選挙区制やマニフェストなどによって 制度的・人為的に二大政党制をつくろうとしても駄目、形ばかりの二大政党制 の議論にけりをつけ、福沢流の二大政党制論から足を洗う時かもしれないとい う。

 2)急進派(左派)なき保守・中道対立は面白いか?

 3)今度の選挙に勝つと、小泉政権は挙国一致の体制となる可能性があり、 読売新聞社説が書いたように、小泉挙国一致内閣はあと3年は続くのではない か?

        地方から近代化を推進する<小人閑居日記 2003.10.19.>

 三田の演説館での『福沢諭吉書簡集』完結記念講演会、11日は金原左門さ んの「『近代』づくりを地域の水脈に求めて-いくつかの福沢書簡を手がかりに -」だった。 金原さんは中央大学教授で、大正の民衆史がご専門の由。 「『近 代』づくり」というのは、“nation building”をイメージしていて、国の基礎 づくりに関心を持つ。 福沢の方法は、大久保、大隈とは明確に異なる。 地域 における民衆の「シビック・カルチャー」をどう創り出すか。 公的な面と、 私的な面の両方で、広くは学校教育を通じて、狭い範囲としては経済の分野な どで…。 福沢書簡の中から、福沢のそうした地域へのこだわりの水脈を読み 取ることが出来た、という。

 1)福沢の原体験のかけがえのない重み。 幕末の門閥制度を批判した福沢 だったが、中津の「福沢をめぐる人脈」が福沢を蘭学修業へ押し出し、以後、 旧中津藩の事業に助力や助言をし、特に中津市学校の設立にかかわった。

 2)「書簡」からみた福沢の地域へのこだわり。 「近代化」への教育条件を 探り、洋学校の設立を奨め、教師の斡旋・派遣をして、英語のできる「人物の 養育」に努めた。 産業経済の「近代化」に関心を持ち、商品流通のための市 場拡張を指南し、「生産力」増強のテコ入れとして、道路や鉄道など交通手段改 良のアイディアを出した。 地方政治に公論を生かすことを目指して、「民権の 保全」(民産の富殖、安寧の保護、民智の開闡(かいせん=ひろめること))を はかるため、代議制への道を説いた。

 3)地域の近代を担う日本型「ミッズルカラッス」に目をつけた福沢。 「智 識」を身につけた生活者で、かつ「近代化」の推進者層として、伝統思想(土 着思想)に立つ豪農商層に目をつけた。 旧士族の開明派リーダーへの育成を 考え、「西欧近代」型タイプの創出(洋学教師と実業人)をはかった。

 結論。 「民」の底力と「官」の支えによる後発型日本の近代へのハンドル さばき。 県・郡の政治・行政における「民」と「官」の気脈を通じての構図 づくり。 福沢は、この営為によって「独立自尊」の道を地で示した。

         箱根福住旅館と福沢<小人閑居日記 2003.10.20.>

 金原左門さんは『神奈川県史』のための「万翠楼福住」家の調査で、福沢に 出会ったという。 福住正兄(まさえ、九蔵)という人物がいた。 『福沢諭 吉書簡集』第一巻の【ひと】16などによれば、福住正兄は相模国大住郡片岡 村(現平塚市)の代々の名主で精農であった大沢市左衛門家の五男として文政 7(1824)年に生れた。 幼名、政吉。 二宮尊徳のもとで五年間学び、 『二宮翁夜話』をまとめるなど、明治期の報徳運動の推進者の一人となった。

 嘉永3(1850)年、箱根湯本の「万翠楼福住」家の養子に入って九蔵を 襲名し、報徳思想の「分度」(生活を倹約し)「推譲」(余ったものを拠出して、 社会へ還元、拡大再生産で貧困から脱出)の法により破綻に瀕した家業を再興、 翌年27歳で湯本村名主となった。 明治3年9月、発疹チフスでかろうじて 命を取り留めた福沢が、病後静養のため熱海、湯本、塔之沢などで湯治した際、 福住正兄(明治4年長子に家督を譲り「九蔵」を襲名させ、自らは正兄を名乗 る)と出会ったらしく、以後たびたび湯本福住、塔之沢福住に出かけている。

 明治6年塔之沢福住に滞在中、福沢は『足柄新聞』に箱根湯本から塔之沢ま での新道開鑿の提言を寄稿した。 その頃、東海道の本街道に沿っていたのは 湯本宿で、塔之沢は脇道へそれていたのでロクな道路もなく、早川に架けた仮 橋は大雨出水のたびに流されて、まことに交通不便だった。 福沢はみずから 資金を投じ、志を同じくする者が醵金に応じて新道を造り、永久的な橋を架け ることを呼びかけた。 この新道は福住らの尽力で14年11月に完成した。

 金原左門さんは、きのう書いた講演の柱2)3)の一例として、福住正兄の ケースを挙げ、ずっとかかわりを持ち続けた足柄県での実験には、福沢の一貫 性があらわれていると述べたのだった。

橋本五郎さん「ジャーナリストとして福沢から学ぶもの」[昔、書いた福沢189]2020/01/12 08:26

     橋本五郎さんの福沢入門<小人閑居日記 2003.10.1.>

 9月27日、福沢諭吉協会の土曜セミナーがあった。 講師は読売新聞編集 委員の橋本五郎さん、演題は「ジャーナリストにとっての福沢諭吉」だった。  橋本五郎さんが昭和41(1966)年慶應の法学部に入学した時、自分は東 大なのに小泉信三さんを通じての福沢ファンだった10歳年上の兄さん(役人) が、『福沢諭吉全集』全21巻を買えと、安月給のなかから5万円余をくれたと いう。 どこで買うかわからず、塾監局(慶應の本部事務局)に行ったら、土 橋俊一さんが手配してくれた。 重い本だというのが第一印象で、提げて帰っ てくる時、4巻ずつ友達に持ってもらった。

 学生時代は軽い文庫本や『福沢諭吉選集』で、『福翁自伝』『学問のすゝめ』 『文明論之概略』を読んだ程度だったが、『福沢諭吉選集』第四巻の丸山真男さ んの解題(1952年7月)に衝撃を受けた。 それは手品のような解説で、 橋本五郎さんは丸山さんから福沢に入ったという。

 駆け出しの新聞記者だった昭和48(1973)年、福沢諭吉協会が発足し たので入会した。 その申し込みのハガキに「田中王堂『福沢諭吉』の復刊と、 丸山真男の福沢論をまとめて一冊にできないか」と書いたら、富田正文さんか らハガキが来た。 橋本さんが当日、会場に持参していたその宝物のハガキに は、「丸山真男の本は検討されているようだが、王堂本の再版は慎重を要する」 とあったそうだ。 橋本さんが衝撃を受けた『選集』第四巻解題を含む丸山真 男さんの福沢論が、岩波文庫『福沢諭吉の哲学』となって広く読まれるように なったのは、2年前の2001年6月のことだった。 この700円の文庫本 が、橋本さんには1万円位に価すると語った。

    「ジャーナリストとして福沢から学ぶもの」<小人閑居日記 2003.10.2.>

 橋本五郎さんは「ジャーナリストとして福沢から学ぶもの」として、つぎの 6項目を挙げた。

  (1)「議論の本位」を定めることの重要さ。

  (2)無原則な機会主義とは全く違う「状況的思考」。

  (3)責任ある言論。     (4)開かれた女性論、家庭論。

  (5)肉親・子女への愛情。

  (6)幻想を抱かず、惑溺に陥らず。

 (1)「議論の本位を定める事」というのは、福沢が『文明論之概略』の最初 にその大切さを説いたもので、それを定めなければ、物事の利害得失を論じら れないとした。 丸山真男さんは「何を何より先に解決しなければならないか、 何が現在の切迫したイッシュであるか、をまず明らかにする」(『「文明論之概略」 を読む』)ことだと説明した。

 (2)今、起きていることを理解するには、できるだけ多面的に見る。 個 人的自由と国民的独立、国民的独立と国際的平等は全く同じ原理で貫かれ、見 事なバランスを保っている。

 (3)「外交を論ずるに当りては外務大臣の心得を以て」(明治30(189 7)年8月の時事新報社説「新聞紙の外交論」) 「責任ある報道」をしようと すれば、自分がその立場にあったらどうするか、何が国益、全体の利益にかな うのかを絶えず自問し、答えられるようにしなければ、無責任のそしりを免れ ない。

       福沢の女性論と家族への愛<小人閑居日記 2003.10.3.>

 昨日の続き。  (4)開かれた女性論、家庭論。 政治記者の橋本さんは、夜討のハイヤー で帰宅すると、午前2時か3時、へたをすると朝駆けの迎えの車がもう来てい るという状態だった。 帰宅した時、和服の夫人が三ツ指ついて、おかえりな さいませというのが理想ではあった。 橋本夫人は総理府勤めで、結婚した時 も、子供が出来た時も、辞めたらどうかといったが、秋田でひとり暮ししてい る橋本さんのお母さんと、電話で話がついていた。 お母さんは「絶対、辞め るな」と言ったという。 ことほど左様に、今日の聴衆もそうだろうが、日本 の男は男女平等ということが理屈でわかっていながら、男女の役割分担といっ た固定観念にとらわれている。 あの時代の福沢の女性論、家庭論が、あれほ どまでに進歩的で、いささかの偏見もないのは、何ゆえか、橋本五郎さんは、 ずっと疑問に思っているという。 

 (5)肉親・子女への愛情。 岡義武さんは日本学士院百年記念講演「福沢 諭吉-その人間的一側面について」で、福沢は「愛情に全く惑溺した一人の父 親以外の何物でもない」とし、「人生をいかに理解すべきか、又ひとはいかに 世に処すべきか、これらの問題について孤絶、寂寥の境地にその身を置くこと をたじろがず、そのことをつねに堅く覚悟していた福沢は、そのような心境に 対する慰めを肉親、子女へのこの上なくふかいその愛に求めていたのではない であろうか」「その情愛は、寂寥、孤独、孤高を恐れず辞しなかった強く逞し い彼の性格の実は他の半面、しかも、不可分の半面であったように私には思わ れるのである」と語っている。

     「とらわれる」こと、そして小泉首相<小人閑居日記 2003.10.4.>

 (6)幻想を抱かず、惑溺に陥らず。 福沢が最も戒めたのは「惑溺(わく でき)」である。 『文明論之概略』の随所に出てくる。 丸山真男さんは「政 治とか学問とか、教育であれ、商売であれ、なんでもかんでも、それ自身が自 己目的化する。そこに全部の精神が凝集して、ほかが見えなくなってしまうと いうこと、それが惑溺です」(『福沢諭吉の哲学』)と説明した。 橋本さんは新 聞記者として、あるがままに見ることを心掛け、とらわれていることはないの か、たえず畏れをいだきながら、やらなければならないと、思っているという。  いつも(81歳で亡くなった)おふくろに分かるように、中学生に分かるよう にと、記事を書いてきた。

 講演は、しばしば小泉首相の話に脱線した。 曰く、自己中心、他人のこと は考えない、ただ一筋に行く、脇は見ない、自分は正しいと思っている、した がって確信に満ちているように見える。 三世で、地元の選挙活動もしていな いから、ひとの痛みがわかっていない。 他人から言われたことは、やりたく ない、しばしば反対のことをやる。 竹中、川口両大臣の留任はそのよい例で、 川口さんは外務省で退任の挨拶もしていた、その証拠にあの日、赤の勝負服で なく、黒と白の葬式用みたいな服を着ていた。 勉強はしない、あまり本を読 まない(『同期の桜』ぐらい)、ものを知らないだけ強い、わかっていることし か言わない。 「構造改革なくして成長なし」というが、構造改革がどう成長 に結びつくのか説明しない、何もわからない。 得意の郵政と道路公団の民営 化の話だけ、ガーッとやる。

 そういった話を聴いて、みんなアハハと笑い、私ももちろん笑ったのだが、 笑いながら、笑っていられる場合じゃないとも思ったのだった。 だから、敢 えて書くことにした。