#ブログサイトの火を消すな!!! ― 2025/10/07 07:10
私が驚いたこの9月25日の記事を読んだ天声人語氏は、10月2日にそれを取り上げた。 「俳誌の「ホトトギス」は、明治の一時期、読者から1週間分の日記を募って掲載していた。ある教師は「十一日 六時が鳴りました、妻に驚かされて起く。急ぎて行く。八時前五分学校に着く」▼事件が起きたわけでも、有名人が日常をのぞかせるわけでもない。鋳物師や病気の子のいる親など、じつに多くの市井の人が、己の行状を他人の目にさらした。これは何なのか▼でもよく考えれば、日々感じたことや何げない光景を記録し、多くの人に見てもらいたいというのは、今も変わらぬ心理だろう。ネット社会で、その実現を飛躍的に簡単にしたのがブログだった。2000年代初頭に広まり、日記などを発信できるツールとして人気に。匿名で書かれた「保育園落ちた日本死ね!!!」は社会を動かした。」
天声人語は、この後、記事にふれて、「ブログの時代は終わった」そうだ、としつつ、「子育てで、仕事で、病床で。同じような境遇で奮闘しているブログの書き込みに励まされた人も少なくないだろう。自分と誰かをつないだ見えない言葉の糸。そんな記録が丸ごと消えてしまうとしたら、何とも残念だ」とした。
実は、9月25日の記事では、「現在残るサービスは「はてなブログ」「ライブドアブログ」のほか、「Amebaブログ」「FC2ブログ」などだ」として、朝日新聞にルーツを持つASAHIネットの「アサブロ」に言及がなかった。 朝日新聞「天声人語」のブログに対する評価と応援を得て、ぜひASAHIネットは「アサブロ」を続けて欲しいと思う。 多くのブロガーも、読者も、ブログの存続を希望する意見を発表して、一大運動に盛り上げて欲しい。 我田引水の感はあるけれど、ぜひ皆様に拡散していただきたい。 #ブログサイトの火を消すな!!!
朝日(ASAHI)ネットは、ぜひブログを続けて欲しい ― 2025/10/06 07:08
恐ろしい記事が、9月25日の朝日新聞朝刊の経済面に出ていた。 こうなっているとは、ぜんぜん知らなかった。 見出しは、「消えゆくブログサイト」「アクセス数1/3に 運営撤退相次ぐ」。 「闘病記や被災体験…「消えるのは惜しい」」「保存議論は進まず」。 SNSの普及などに伴い、ブログサイトの閉鎖が相次いでいる。 閉鎖されたブログの記事は消滅する。 保存の動きもあるが、無数の私的な記録を後世に残すべきなのか、議論は深まっていない、とある。
ブログの全盛期は2000年代前半、03年に「はてなダイアリー(はてなブログに統合)」が開始、「ライブドアブログ」などが相次いで参入した。 だが、05年ごろからmixi、Twitter(現X)やFacebookといったSNSの台頭で、ブログの存在感は急速に薄れていった、という。 2019年に「Yahoo!ブログ」、23年には「LINE BLOG」がサイトを閉じ、「gooブログ」は今年4月に11月でサイトを終了させると発表した。
私は、1991(平成3)年3月から、パソコン通信ASAHIネットに電子フォーラム「等々力短信・サロン」を設けてもらい、「等々力短信」を配信し始めた(ASAHIネットは、2019(令和元)年5月31日に電子フォーラムのサービスを終了した)。 パソコン通信からインターネットのプロバイダーとなったASAHIネットは、2005(平成17)年5月にブログサイト「アサブロ」を開設したので、私は同月14日から「轟亭の小人閑居日記」http://kbaba.asablo.jp/blogを始めた。 少し経って、ブログの内容に個人名を書くことも多いので、パソコン通信時代のASAHIネットの実名公開の方針に従い、「轟亭の小人閑居日記 馬場紘二」と表題に実名を加えて、現在に至っている。
2005年5月から、20年間、ブログは毎日約1200字、原稿用紙3枚、A4判一枚ほどの分量を書き続けている。 ブログは生き甲斐だ。 どんなことを綴っているか。 毎月月末に、その月の分のINDEXをアップしているので、欄外「索引」のカテゴリーをクリックして頂くと、ヅラヅラと出て来る。 主なテーマは、福沢諭吉、落語、俳句。 膨大な蓄積ができ、しかも、どなたでも読むことができる。 たとえば落語だけでも、明治時代からという伝統ある落語会、落語研究会を毎回、マクラからオチまで書いている。 この20年の平成から令和にかけての落語家がどんな噺をしていたか、後の世に参考になることもあるのではないだろうか。
今のところ、そんな動きはないけれど、ASAHIネットは、ぜひ「アサブロ」を続けてもらいたいものだ。 気がつけば84歳になった、一老ブロガーの切なる願いである。
江戸の学び方「会読」、遊びの精神・異論尊重 ― 2025/09/12 07:00
4月に亡くなった、森に落葉樹を植え、養分を海に循環させて環境保全を行う運動をした畠山重篤さんのことを書こうと思って、新聞の切り抜きを「糠味噌」のようにかき回していたら、有田哲文記者の「日曜に想う」、「江戸の「会読」育まれた学び」(2024年12月29日朝日新聞)が出て来た。
江戸前期の儒者、伊藤仁斎(1627~1705)は、京都の町人の家に生まれ、若い頃から儒学に打ち込んだ。 家業を全くかえりみない姿勢は、周囲の批判を浴びる。 人間嫌いとなり、引きこもりがちになった。 しかしあるとき、人との交わりに学問の活路を見いだす。 それが「会読(かいどく)」で、友人たちと共に書経や易経などを読んだ。 一人が書物の意味を講じ、他の者が疑問点をただし、討論に至る。 講じる者が交代し、会読は続く。 この学習法は、仁斎の塾を超え、各地の私塾や藩校へと広がっていった。
江戸時代は武士と町人とを問わず、多くの人が儒学に専心した。 しかしその動機は、同じ文化圏である中国や朝鮮とは全く違っていた。 日本は、官僚登用のために儒学の知識を問う「科挙」を採り入れなかった。 それは学問が立身出世に直結しないことを意味した。 何もせずに身分制社会の中で草木のように朽ち果ててしまうのを拒否し、生きた証しを残したいと儒学を究めた人たちがいた。 彼らに教えを請い、自己修養をめざした多くの人たちがいた。 その学び方が「会読」だった。(前田勉愛知教育大学名誉教授『江戸の読書会』平凡社ライブラリー)
「科挙」受験のために一人で学ぶのとは違う世界が生まれた。 一つの特徴が「遊び」の要素で、誰が書物を深く読めるかを競い合った。 身分上下に関係なく、実利にもつながらないからこそ、熱くなれた。 もう一つの特徴は、異なる意見に出合い、そこから学ぼうとする姿勢だ。 加賀藩の藩校・明倫堂は学生に、明白な結論に至るため、虚心に討論しようと求め、みだりに自分の意見を正しいとし、他人の意見を間違いとする心を持つのは見苦しいとした。
共同研究の場でもある「会読」は、蘭学、国学、そして明治の初めには自由民権運動の学習結社にも引き継がれた。 しかし明治期は「会読」がすたれていく時代でもあった。 高級官僚を養成する東大を頂点として、学問が立身出世と直結したからだ。
前田さんは、「列強に追いつくためには必要だったのでしょう。しかし半面では、日本の学問が『科挙化』したともいえる。真剣に議論を戦わせながらも、お互いを認め合う『知の共同体』は忘れ去られていきました」と、言ったそうだ。
有田哲文記者は、おそらく「科挙化」は、いまも進行中なのだろうとし、既存の社会の在り方を絶対視するなら、学問の可能性は狭められる。 世襲にしばられた江戸の身分制社会のなか、そこから抜け出すための装置であった「会読」。 育まれた遊びの精神や異論の尊重には、いまも新鮮な響きがある、とした。
ワクワク「学ぶ」と、高齢でもつまらないということがない ― 2025/09/11 07:03
Eテレ「100分de名著」『福翁自伝』第2回は「自分を高める勉強法とは」、斎藤孝明治大学教授の解説。 福沢の青春は、とにかく勉強だった。 長崎で蘭学を学び始めるが、中津に帰されることになり一計を案じて、大坂にいた兄を頼って緒方洪庵の適塾で学ぶことになる。 これほど夢中になって、勉強を楽しむことができるのか。 知らなかったことを知る喜び、日々向上している感覚、「向上感」があると人は命が尽きるまでモチベーションを維持できる。 何のために勉強するのか、「学びの本質」が『福翁自伝』には書かれている。 適塾の勉強法は、素読(繰り返し声に出して読み、暗唱する)→講釈→会読(内容を解釈して説明)、身体を使って刻み込む、毎月六度ずつ試験があるようなもので、席次によって居る場所が決まっていた。 現在のわれわれ、情報は自分の外側を流れて行く、刻み込んでいない。 師の緒方洪庵は名医、大らかな人で、家族に接するようにしてくれた、福沢が腸チフスに罹った時、自分で治療せずに、朋友の医者に頼み任せている。 兄が死んで、一度中津に帰った福沢が書き写してきた、オランダの築城書を訳させることで学費の代りにしてくれた。 教育は素晴らしいと感じ、だから自分も慶應義塾を創ろうということになった。
適塾で、酒好きな福沢は、いったんは禁酒しようとしたが、その間に煙草を勧められ、一か月で「両刀遣い」となった、今日60余歳になり、酒は自然に止めたが、煙草は止められそうもない。 ざっくばらんで、率直。 くだらないことを楽しむ、「学ぶ」という確固たるものを持った仲間。
安政5(1858)年25歳で、中津藩の命令で、江戸で蘭学塾を開いた。 だが、翌年開港した横浜を見物すると、話は通じず、看板の字も読めない、オランダ語は時代遅れで、一切万事英語と知る。 なりふり構わず、翌日、英語に転向する。 「大局観」、「時代の見極め」。 英語もオランダ語も「等しく横文」、蘭書を読む力は、おのずから英書に適用して決して無理がない。 一つ突き抜けて学習方法をつかむと、他の勉強にもそれが役立つ。 技として身に付いているのが大事、自信をもって臨める。 福沢は、何かの為に勉強するのではなく、ただ知りたい、目的を持たずに勉強することが一番幸せだと説いている。
「西洋日進の書を読むことは、自分たちの仲間に限って出来る。智力思想の活発高尚なることは、王侯貴人も眼下に見下すという気位で、ただ六(むつ)かしければ面白い、苦中有楽、苦則楽という境遇。たとえばこの薬は何に利くか知らぬけれども、自分たちより外(ほか)にこんな苦い薬を能く呑む者はなかろうという見識で、病の在るところも問わずに、ただ苦ければもっと呑んでやるというくらいの血気であったに違いはない。」 目的もなく苦労する。
好きでやると、ワクワクする。 一生、ワクワクしたいから勉強したいとなっていく。 自分の好きなもの、「向上感」を持てるものを見つけよう。 「これがやりたいからやる」という気概で貫くことが新領域を開く。 斎藤孝さんは、大学院に8年在籍して、満期退学して、33歳まで無職だった。 だが、自分より勉強してる人間はいないと、誇りを持っていた。 「一生の柱」、学ぶことを柱にしていたら、高齢になっても、つまらないということがない、勉強してみようという気になる。 「学び」を軸にした人生をみんなで歩んで行く、緒方の塾の塾生になった雰囲気で…。 『福翁自伝』は、自分は今、学んでいるというエネルギーを感じる本であり、自伝でこれほど「学び」をテーマにした本はない。
Eテレ「100分de名著」『福翁自伝』第1回 ― 2025/09/04 07:03
9月1日のEテレ「100分de名著」『福翁自伝』の第1回は、「カラリと晴れた独立精神」だった。 解説は、斎藤孝明治大学文学部教授(教育学者)。 『福翁自伝』はトップクラスに面白い、まず、時代が幕末から明治という激動の時代、率直で嫌味がない。 口述筆記、喋ったのに手を入れた、そのバランスがいい。 硬軟取り混ぜた、最高の言文一致。
中津の少年時代。 「門閥制度は親の敵で御座る」 古い因習の社会に、「ノー」を突き付けている。 その怒りが、後年の自由平等思想につながる。 上士と下士の差から、解放されたいというエネルギーで、外に飛び出す。 その語り口は、精神を表している。 『増訂 華英通語』で、Vをヴで表したように、既存のものが無ければ、生み出せばいい、と。
藩主の名を書いた紙を踏んで叱られ、神棚の御札を踏み、何でもないので、少し怖かったが、さらに手洗場(ちょうずば、便所)で踏み、お稲荷さんの御神体の石を取り換えておく。 子供ながらも、精神をカラリとして、生まれつきの合理主義。 「仮説、実験、検証」の実証科学のプロセスを踏む、合理主義・科学主義が初めからあった。 権威に対して、疑いを持っている。 上から押し込めていく圧力に対して、「それをなくしても大丈夫なのでは」という実験をやり続けた人生。
拝領の御紋服の羽織より、金の方がよい、一両三分あれば、原書を買う、酒を飲む。 「カラリ」とカタカナで書いているので、湿度が低い。 日々変わる「心」でなく、「精神」という安定したもの。 学問も、ユーモアもある。
「喜怒色に顕さず」の「精神」を、練習して、手に入れた。 格言→心の技→精神。 他人の価値観に左右されない。 自分は、ここにいるんだ。 「独立自尊」。
「浮世のことは軽く視る」 中津の時代から成年になるまで、「莫逆の友(親友)」はいない。 他人に傷つけられない。 少年時代から、確固たる存在。
『福翁自伝』の少年時代からは、「カラリ」とした精神的独立を学べればよい。 幕末明治初期の時代と、超グローバル社会の今とは、よく似ている時代だ。 福沢諭吉は、明るく、ポジティブ、アクティブに生きていくロールモデルだ。
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