『広辞苑』を遊ぶ「たほいや」の答2018/02/16 07:20

一「たかしこぞう」。 正解は、C「管状・樹枝状の褐鉄鉱。鉄分が地中の植 物体のまわりに付着してできたもの。」 B「台風や低気圧によって、海水面が 異常に高まり、海水が陸上に侵入すること。高潮。」は「たかしお・高潮」。 D 「竹筒で作った、矢の容器。」は「たかしこ・竹矢籠」。

二「まひろげすがた」。 正解は、D「しどけない姿。」 A「昼の真中。ひる ひなか。」は「まひる・真昼」。 E「大名屋敷の小者・人足などの詰所。」は「お おべや・大部屋」

 三「ちちんこ」。 正解は、A「鰍(かじか)の異称。」 D「のどかで日の永 いさま。」は「ちち・遅遅」。 E「生まれた児に、まず他人の乳を飲ませる風 習。乳わたし。」は「ちちあわせ・乳合せ」

 「たほいや」の問題になりそうな言葉を、『広辞苑』から十ばかり拾っておく。  意味をご存知の言葉がおありだろうか。

「みこなす」「こちなし」「たかしこ」「たかしる」「たかたぬき」「まほら」 「いますがり」「こじはん」「ひかりだて」「かわおし」。

『広辞苑』を遊ぶ「たほいや」2018/02/15 07:18

 『広辞苑』で思い出したのは、『広辞苑』で遊ぶ「たほいや」というゲームで ある。 20年ほど前に、フジテレビの深夜番組でやっていたのだそうだが、私 はパソコン通信と呼んでいた頃のネットの会議室(フォーラム)で、小林恭二 さんに教えてもらったと思う。 当時の番組に出演していたというタレント・ 俳優の松尾貴史さんが、『図書』2017年6月号に「『広辞苑』を遊ぶ「たほいや」」 を書いていたので、細かいことを思い出した。 「たほいや」というのは、静 岡県で山畑を荒らす猪を追い立てるための番小屋だそうだ。

 5~6人で遊ぶのだが、一人が親(出題者)になって、『広辞苑』から「たほ いや」や「ちんこきり」のような、耳で聞いただけではわかりにくい言葉を見 つけて読み上げる。 他の参加者は、その言葉の意味を知っていても知らなく ても、辞書の説明のような文面を「捏造」するのだ。 実際に放映されたお題 「ちんこきり」では、A「人前でとつとつと話し出すこと」B「鉄板・鋼板に穴 を開ける道具」C「手間賃をとってタバコの葉を刻むこと。また、その業者」D 「ハンガリーの三拍子の踊り。チンコキル」E「近畿・四国地方などで、ハサ ミムシのこと。灌木や岩の裏などに生息する」といった風に、適当な思いつき の説明を紙に書き込み、親に渡す。 親は『広辞苑』の解説を書いた紙を混ぜ て、番号を振って、順番に読み上げる。 参加者は、どれが正解かを予想・推 理し、チップを賭ける。 正解者には点数が加算され、間違った人はその答を 創作した人にチップを渡す。 それを出題者を代えながら繰り返す。 出題者 が一回りするか、制限時間が来れば、集計して、その日の優勝者が決まる。

 私も、三題出してみよう。 一「たかしこぞう」。 A「鷹匠の弟子。」B「台 風や低気圧によって、海水面が異常に高まり、海水が陸上に侵入すること。高 潮。」C「管状・樹枝状の褐鉄鉱。鉄分が地中の植物体のまわりに付着してでき たもの。」D「竹筒で作った、矢の容器。」E「和泉国の歌枕、高師の浜付近の子 供。」

 二「まひろげすがた」。 A「昼の真中。ひるひなか。」B「身分の低い者らし い恰好。」C「展開により切り広げられた図。展開図。」D「しどけない姿。」E 「大名屋敷の小者・人足などの詰所。」

 三「ちちんこ」。 A「鰍(かじか)の異称。」B「乳汁。」C「乳飲み子。」D 「のどかで日の永いさま。」E「生まれた児に、まず他人の乳を飲ませる風習。 乳わたし。」

 答は明日ね。

残念『広辞苑』第七版の【福沢諭吉】2018/02/14 07:22

 「『等々力短信』1000号を祝う会」の記念品として「電子辞書」を頂戴した ことは、「等々力短信」第1005号(2009年11月25日)「おかげさまの電子辞 書」に書いた。

http://kbaba.asablo.jp/blog/2009/11/25/4720064

 ずっと便利に使ってきたのだけれど、『広辞苑』第七版が入った最新機種が出 たというので、さっそく入手した。 それで複数の辞書を対象に、「奴雁」を引 いてみた。 「奴雁」は、『広辞苑』にはない。 国語辞典では『明鏡』『新明 解』も収録されているが、それにもない。 唯一あるのは、『デジタル大辞泉』 だ。 どがん【奴雁】⇒がんど【雁奴】「夜、砂州で休んでいる雁の群れの周囲 で人や獣の接近を見張っている雁。転じて、見張り役。奴雁。/◆「奴雁」と したのは福沢諭吉という説があるが、真偽不詳。」 福沢諭吉にまで言及してい た。

 私が『広辞苑』第七版で、まず見たかったのは【福沢諭吉】であった。 第 六版について、「等々力短信」第988号(2008年6月25日)「『広辞苑』の【福 沢諭吉】」を書いていたからだった。

     等々力短信 第988号 2008(平成20)年6月25日

             『広辞苑』の【福沢諭吉】

 15日、紫陽花真っ盛りの鎌倉極楽寺の成就院で開かれた、小尾恵一郎ゼミ OB会「紫陽花ゼミ」で、光栄にも「福沢諭吉」について話をさせてもらった。  柱の一つに、『広辞苑』【福沢諭吉】に苦情を言う、を選んだ。 『広辞苑』第 六版には、こうある。

 『ふくざわ‐ゆきち【福沢諭吉】思想家・教育家。豊前中津藩士の子。緒方 洪庵に蘭学を学び、江戸に洋学塾を開く。幕府に用いられ、その使節に随行し て三回欧米に渡る。維新後は、政府に仕えず民間で活動。一八六八年(慶応四) 塾を慶応義塾と改名。明六社にも参加。八二年(明治一五)「時事新報」を創刊。 独立自尊と実学を鼓吹。のち脱亜入欧・官民調和を唱える。著「西洋事情」「世 界国尽」「学問のすゝめ」「文明論之概略」「脱亜論」「福翁自伝」など。(一八三 四/一九〇一)』 手元の第四版もほぼ同じで、「豊前中津藩の大坂蔵屋敷で生 まれ」、「江戸に蘭学塾を開き、また英学を研修」とあり、「(幕府)に用いられ」 の句がないのが、違うだけだ。

 苦情の第一は、福沢の生年の西暦、「一八三四」。 福沢が生れたのは天保5 年12月12日だが、西暦では1835年1月10日に当る。 天保5年の大部分 は1834年にはなるけれど…。 そして『福翁自伝』などの福沢の年譜は、数 え年で書かれているため、天保5年暮の生れは、満年齢より二歳多くなる嫌い がある。 塾創立は実に満23歳。

 第二は、「独立自尊を鼓吹。のち…」。 福沢は晩年の大患後、近代化に伴う 国民の道徳水準を心配して、高弟達に「修身要領」29条を編纂させた(明治 33(1900)年2月24日発表)。 その中心にすえられたのが「独立自尊」だっ た。 福沢は、この四字熟語を明治23年8月の『時事新報』社説や明治30年 6月の演説で使ってはいるが、その根本思想を表すものとして一般化したのは、 あくまでも明治33年以降なのだ。

 第三は、「脱亜論」と「脱亜入欧」。 著書の中に「脱亜論」があるが、「脱亜 論」は明治18(1885)年3月16日の『時事新報』社説の題目で、本ではない。  「『脱亜入欧』を唱えた」とあるが、丸山真男さんによれば(『三田評論』昭和 59年11月号の座談会「近代日本と福沢諭吉」)、福沢は「脱亜」という言葉は、 この社説の題目に一度使っただけだし、「入欧」という言葉は使っていない。 戦 後、この「脱亜論」と「脱亜入欧」のレッテルを貼って、福沢はアジアを蔑視 し、大陸侵略的だったと批判する人々が現れた。 一人歩きしたそのレッテル に『広辞苑』は引きずられている。  (馬場紘二)

 この「等々力短信」第988号は岩波書店にも送った。 そこで『広辞苑』第 七版だが、電子辞書購入前に図書館で見てきた。 ふくざわ‐ゆきち【福沢諭 吉】の記述は、第六版とまったく変わっていなかった。 まことに残念である。

2004(平成16)年暮「創立150年への宿題」2018/01/26 07:09

 平山洋さんの『福沢諭吉の真実』(文春新書)が出版された2004(平成16) 年の暮、私は「等々力短信」に「創立150年への宿題」というのを書いていた。  そこには、昨日の短信に書いた俵元昭さんも登場していたので、再録しておき たい。 もう、13年も経ったのか、と思う。 井田進也さんも亡くなられた。

 平山洋さんは、2008年に『福澤諭吉』(ミネルヴァ書房)を出版され、私は それについても「等々力短信」に書き、議論の進むことを期待していたので、 それは明日再録したい。

      等々力短信 第946号 2004(平成16)年12月25日

                 創立150年への宿題

 8月20日、平山洋さんの『福沢諭吉の真実』(文春新書)という衝撃的な本が 出た。 帯に「慶応義塾も福沢研究者も岩波書店も、すべてが気づかなかった 全集と伝記に仕掛けられた巧妙なトリック」とある。 平山さんは、1925年の 大正版『福澤全集』、1933年の昭和版『続福澤全集』を編纂し、『福澤諭吉伝』 全4巻(1932年)を著した石河幹明を名指しして、その犯人だという。 それら の全集を継承した現行『福澤諭吉全集』全21巻(1958年)では「時事新報論集」 が9巻を占めている。 その全てが福沢の筆ではないことは1996年から大妻 女子大学の井田進也さんが「無署名論説認定基準」によって指摘してきた。 平 山さんは石河幹明が、時流に合わせ、領土拡張、天皇賛美、民族差別という自 らの主張に沿って、自筆の論説をもぐりこませたり、福沢や他の記者のものを 取捨選択し、福沢を大陸進出論の思想的先駆者に仕立てたというのである。

 石河幹明とは、どんな人物だったのか。 私はまず「石河幹明の真実」から 始めなければならないと思った。 富田正文さんの「石河幹明氏を語る」 (1988・89年『福澤手帖』59・60・61号)を読む。 石河幹明は人名辞書にも 出ていない、『福澤諭吉伝』の著述と正続『福澤全集』17巻の編集以外には仕 事が残っておらず、『時事新報』以外に書かなかった(ペンネームは「碩果生」)。  福沢生存中は陰の人で女房役だったが、没後は主筆として全部で2300編の社 説を書いている。 大逆事件と乃木大将の自殺に対する論説は大したものだと いう。 松崎欣一さんの「石河幹明―福澤諭吉の名を今日に伝えた人々②」(『三 田評論』6月号)は、福沢書簡から見た石河の姿を描いている。 『時事新報』 記者駆け出しの頃は文章も下手で、編集長に反抗したりしていたが、4、5年で 福沢の納得する社説原稿が書けるようになった。 福沢は晩年も『時事新報』 の編集に子細な指示を出す一方、石河達を旅行や芝居見物に誘い出し休息の機 会を与えようと気を配ったりしている。 俵元昭さんは「義塾の先人たち11」 (1990年6号『塾』)で、石河には、伝記編纂中に情報売り込みを断った他に、 逸話、挿話、秘話の類が一切ない、趣味も、避暑のほか植木屋の指図くらい、 謹厳温厚実直の人だったと書いている。

新年からは、2008年の慶應義塾創立150年に向けて、井田進也さんの方法 をとっかかりにして、「時事新報論集」についての議論を活発にするとともに、 ぜひとも『福澤諭吉全集』のCD-ROM化を実現してもらいたいと思う。

独立維持と日本における文明の模索2018/01/25 07:08

 都倉武之さんの論文「福沢諭吉における執筆名義の一考察」の「おわりに」 も読んでおく。  福沢は、著作や『時事新報』を通じて、戦略的な情報発信、情報戦を展開し 続けていたと見ることができよう。 自分が発した情報が、どのように社会に 受容されるか、あるいは世界に伝播するか、どのようにすればより効果的であ るか、そのような関心を生涯持続していたのが、福沢という人物であった。 効 果を期待する相手は、時に身の回りの人であり、慶應義塾の人々であり、政府 の高官であり、実業家たちであり、日本国民であった。 時にその範疇は朝鮮 へ、そして欧米諸国の国際世論にまで広がった。 それを支えていたのは日本 各地のみならず、世界各地に輩出した門下生たちの存在であり、彼らと頻繁に 文通や往来を維持することで情報を収集し、それを『時事新報』等にける戦略 的な情報発信に活かしていた。

 別の言い方をすれば、福沢は民間独立の情報機関の主宰者とでもいうべき役 割を自負していた。 それは第一に西洋列強に対して日本の地位を維持してい くために民情を先導していくための自主的な輿論工作であり、政府と直接利害 を持たず、あくまで福沢に主体性のある活動であった。 のみならず、実は福 沢には日本政府を換骨奪胎して、より「文明」的に持続する日本の国家体制へ と徐々に作り替えようという、より上位の工作が企図されていた。 福沢の後 半生は、この両者――すなわち独立維持という卑近な課題と、日本における文 明の模索という高遠な課題の二つ――を同時に見据えた、たゆまない政治工作 の日常だったといえるのではなかろうか。

 正月早々、よい論文をじっくり読むことが出来て、教えられることが多く、 勉強になったのだった。