つい検索させられるカタカナ語や広告 ― 2025/05/22 07:08
辞書を引くことが減って、もっぱら検索する。 パソコンの下に「検索」欄があって、最近、その日の絵が出る。 その絵にマウスをポイントするだけで、字が出る。 クリックすれば、検索したことになる。 5月18日は「国際博物館の日」だという。
5月13日は、「フムスの日」だった。 「フムス」が分からない。 辞書を引くと、「フムス(ホムス)…リビア北西部の港湾都市」とある。 絵をクリックしたら、「フムス」は、「中東、地中海地域で、ゆでたひよこ豆に、調味料やオリーブオイルを加え、ペーストにして作られる料理」と出た。 なお、5月20日は、「世界ミツバチの日」、5月21日は、「国際お茶の日」、今日5月22日は、「MUSIC AWARDS JAPAN」だそうだ。
最近、目にしたカタカナ語で知らなかったもの、「バーラト」、「スティグマ」、「ヒムパシー」。 「バーラト」は、インド憲法が定める、インドのヒンディー語による正式国号。 大阪万博2025のパビリオンの開館が遅れたニュースで知った。 「スティグマ」は、差別や偏見。 「ヒムパシー」はhim+sympathy、彼への同情、その彼は性暴力の加害者だそうだ。 杉村太蔵さんは、永野芽郁さんの一件で、CM降板、大河やラジオ出演辞退を過剰反応でないかとコメントしていたが、こういうのを、her+sympathyで、「ハーマシー」というのだろうか。
ジャイアンツ、読売巨人軍の試合を、東京ドームからの中継で見ている。 ネット裏の変化する広告のボードに、知らない会社の名前が出るのが、気になる。 検索させる、一種のじらし広告なのだろうが、まんまと引っ掛かって、つい調べてしまう。
「RENOSY」 リノシー、オンラインで不動産投資サービスをする会社だそうだ。
「COMZUS Japan」 Uの中に・・と、絵文字の笑いみたいになっている。 カムツス、韓国のモバイルゲームの会社だという。
東京ドームの三塁側ブルペンに、「妻や子が一つの願い、父の無事」フジムラ FUJIMURA 洋 という、不思議な垂れ幕が掲げられている。 江戸川区にある総合解体業(ビル・工場・プラント他)の会社で、安全を最優先にしてきた創業以来のスローガンなのだそうだ。
つい検索させられるカタカナ語や広告 ― 2025/05/22 07:08
辞書を引くことが減って、もっぱら検索する。 パソコンの下に「検索」欄があって、最近、その日の絵が出る。 その絵にマウスをポイントするだけで、字が出る。 クリックすれば、検索したことになる。 5月18日は「国際博物館の日」だという。
5月13日は、「フムスの日」だった。 「フムス」が分からない。 辞書を引くと、「フムス(ホムス)…リビア北西部の港湾都市」とある。 絵をクリックしたら、「フムス」は、「中東、地中海地域で、ゆでたひよこ豆に、調味料やオリーブオイルを加え、ペーストにして作られる料理」と出た。 なお、5月20日は、「世界ミツバチの日」、5月21日は、「国際お茶の日」、今日5月22日は、「MUSIC AWARDS JAPAN」だそうだ。
最近、目にしたカタカナ語で知らなかったもの、「バーラト」、「スティグマ」、「ヒムパシー」。 「バーラト」は、インド憲法が定める、インドのヒンディー語による正式国号。 大阪万博2025のパビリオンの開館が遅れたニュースで知った。 「スティグマ」は、差別や偏見。 「ヒムパシー」はhim+sympathy、彼への同情、その彼は性暴力の加害者だそうだ。 杉村太蔵さんは、永野芽郁さんの一件で、CM降板、大河やラジオ出演辞退を過剰反応でないかとコメントしていたが、こういうのを、her+sympathyで、「ハーマシー」というのだろうか。
ジャイアンツ、読売巨人軍の試合を、東京ドームからの中継で見ている。 ネット裏の変化する広告のボードに、知らない会社の名前が出るのが、気になる。 検索させる、一種のじらし広告なのだろうが、まんまと引っ掛かって、つい調べてしまう。
「RENOSY」 リノシー、オンラインで不動産投資サービスをする会社だそうだ。
「COMZUS Japan」 Uの中に・・と、絵文字の笑いみたいになっている。 カムツス、韓国のモバイルゲームの会社だという。
東京ドームの三塁側ブルペンに、「妻や子が一つの願い、父の無事」フジムラ FUJIMURA 洋 という、不思議な垂れ幕が掲げられている。 江戸川区にある総合解体業(ビル・工場・プラント他)の会社で、安全を最優先にしてきた創業以来のスローガンなのだそうだ。
等々力短信五十年、量と質<等々力短信 第1188号 2025(令和7).2.25.>2/18発信 ― 2025/02/18 07:00
等々力短信五十年、量と質<等々力短信 第1188号 2025(令和7).2.25.>
「短信五十年量と質とを比ぶれば夢幻の如くなり」と、年賀状の多くに添え書きした。1975(昭和50)年2月25日、「広尾短信」第1号を創刊した。 原紙を和文タイプで打ち謄写版印刷したハガキ通信だった。 月に三回の発行で400号を迎えた1986(昭和61)年、私家本『五の日の手紙』を刊行、はしがきに「中学生の時、「ささやかなる しずくすら ながれゆけば うみとなる うみとなる」という讃美歌を教わった。海とは、ほど遠いものにしろ、ささやかな積み重ねが、ここに一冊の本になった」と書いていた。 以来、ことあるごとに「量が質に転化するか」と言ってきたのだった。
1991(平成3)年3月からはパソコン通信ASAHIネットにフォーラム「等々力短信・サロン」を設けてもらい、そちらにも配信を開始した。 家業を畳むことにした2001(平成13)年から短信は月一回の発行にしたが、ネットには日記を綴っていて、2005(平成17)年5月からはブログ「轟亭の小人閑居日記」として毎日発信している。
1185号の原田宗典著『おきざりにした悲しみは』を読んだ大学の同級生が、毎年(毎月でなく)一冊、本を推薦してくれというので、10月に亡くなった高階秀爾さんの『本の遠近法』(新書館)を2006(平成18)年11月25日の969号「「メタ情報」の力」で、紹介した。 短信は「私にとっての『リーダース・ダイジェスト』」と評した読者がいた。 洪水のように出版される本の中から読むに足る本を見つけ出すのに、ダイジェストやアブストラクト、書評といったさまざまな「メタ情報」を活用すべきだ、と加藤秀俊さんの『整理学』に教わった。 『本の遠近法』は「メタ情報」の宝庫だ、と伝えた。
すると友人は、私が2006年の短信を取り出したのに驚いて、ハガキをくれた。 彼は同窓会の案内を一人一人ハガキで出すので、パソコンを使えばアッという間に全員に伝わるのに、と言われる。 しかし、ハガキを書き終えると、近くのポストまで全力疾走して、パソコンの遅れを少しでも取り戻そうと対応していると、反論するそうだ。
何か調べたいことや、どこかに書いたと思い出したことがあると、パソコンに作ってある「等々力短信」と「小人閑居日記」のINDEXを、まず検索する。 すると、自分でも忘れていた、思いがけないものが出てくるのだ。 大河ドラマの『べらぼう』の蔦屋重三郎などは、べらぼうな数が出てきた。 『光る君へ』については、「紫式部と藤原道長」を2005年3月7日の「小人閑居日記」に、丸谷才一さんの『輝く日の宮』を読んで書いていた。 『源氏物語』には、二巻目に「輝く日の宮」という帖があったが、紫式部(37歳)との関係があって藤原道長(44歳)が隠蔽したというのだ。
短信五十年、量が質に転化したのかどうか、第二の脳がパソコンにある。
福沢諭吉の「漫言」と、ジョークの鼓吹―『開口笑話』 ― 2025/01/16 07:05
JR湘南新宿ライン宇都宮線で大宮へ<小人閑居日記 2021.12.14.>
北沢楽天のさいたま市立漫画会館<小人閑居日記 2021.12.15.>
福沢と北沢楽天(清水勲さんの「福沢諭吉と漫画」再録)<小人閑居日記 2021.12.16.>
北沢楽天デビュー政治漫画の発見<小人閑居日記 2021.12.17.>
飯沢匡さんの「知られざる福沢諭吉」<小人閑居日記 2021.12.18.>
福沢の「ちんわん之(の)説」<小人閑居日記 2021.12.19.>
宣伝絵画の嚆矢―伝単「北京夢枕」<小人閑居日記 2021.12.20.>
福沢諭吉の「漫言」とは何か<小人閑居日記 2021.12.21.>
「漫言」の「笑い」は文明開化の有力な武器<小人閑居日記 2021.12.22.>
「漫言」は、なぜ書かれたか<小人閑居日記 2021.12.23.>
福沢諭吉のジョークの鼓吹―『開口笑話』<小人閑居日記 2021.12.24.>
福沢諭吉のジョークの鼓吹―『開口笑話』<小人閑居日記 2021.12.24.>
飯沢匡さんの『武器としての笑い』の「ジョークの鼓吹―『開口笑話』の重要性」にある『開口笑話』についても、書いていたのを再録する。
ジョークをひろめようとした福沢諭吉の失敗〔昔、書いた福沢29〕<小人閑居日記 2019.3.9.>
広尾短信 58 1976(昭和51).10.5.
ジョークをひとつ、題は「記憶をよくする法」。 わしもだんだん年をとって記憶の悪くなったのには困るよ/先生、それはすぐに直す方法があります/どんな方法かね/私に五億円貸してごらんなさい。
「欧米を漫遊して帰国すると日本では一夕の宴に小噺を語る人が少ないことに気がつく」とは加藤周一さんの感想だが、外人に「今、日本で流行っているジョークを教えて下さい」といわれて喜劇一筋の飯沢匡さんでさえ狼狽するというのだから、欧米での社交術の重要部分をなすジョークが、日本でどれだけ無視されてきたかがわかる。
飯沢さんの発見によると明治二十年代に早くもこの風潮に気付いた福沢諭吉は、長男一太郎訳で『開口笑話』という英和対訳のジョーク集を出して啓蒙に乗り出した。 それが失敗したのは今日ごらんの通り。 冒頭のは全集二十巻所収の福沢諭吉訳のジョークをほんの少し現代風にアレンジしてみた。
(註・1976(昭和51)年は、2月にロッキード事件が発覚、7月27日事件当時の首相だった田中角栄が逮捕された。)
万年の春〔昔、書いた福沢39〕<小人閑居日記 2019.3.20.>
万年の春<等々力短信 第479号 1988.(昭和63).11.15.>
飯沢匡さんの福沢諭吉論で、私が共感している第一点は、福沢のユーモアを高く買っていることである。 一昨年の暮、飯沢さんは、福沢の『開口笑話』(明治25(1892)年刊)という対訳ジョーク集を発掘して、みずから現代語訳を付け出版した。(冨山房刊) 『開口笑話』は「福沢諭吉閲、(長)男一太郎翻訳」ということで出版されていたために、福沢全集にも、ごく一部しか収録されていない。 福沢の、この早い時期での、ジョークの紹介と鼓吹は、残念ながら実を結ばなかった。 儒教的精神に凝り固まった当時の識者たちに受け入れられなかったばかりでなく、今なお日本人にはジョークを楽しむ感覚が根づいていないというのが、飯沢さん、年来の主張である。 福沢諭吉のユーモア、特に漫画との深い関係については、飯沢さんの岩波新書『武器としての笑い』に詳しい。
第二は『帝室論』だ。 『異史 明治天皇伝』のなかで、飯沢さんは福沢の『帝室論』を高く評価している。 明治15(1882)年に発表された『帝室論』で、早くも福沢が今日の目で天皇を論じ、そこには「象徴天皇」の像がはっきりと浮び上っている、と指摘する。 さらには、福沢が逸早く、天皇が政治家によって政治的に利用される弊害を見越して、「帝室は政治社外のものなり」と簡潔明快に言い切った先見性に、敬服している。
『帝室論』百年だった1982(昭和57)年、等々力短信257号(吉田茂と『帝室論』〔昔、書いた福沢13〕<小人閑居日記 2013.11.28.>参照)に、こう書いた。 「吉田内閣の時、天皇陛下から、民主主義の時代に国民と皇室の関係はどうなければならないかというご下問があった。 即答できずに、「本来なら切腹だ」と、真青な顔で官邸に帰ってきた吉田さんに、福沢諭吉の『帝室論』のことを話したのが、武見太郎さんだった。 早速『帝室論』を読んだ吉田首相が、小泉信三さんに文部大臣を頼もうといい出す。 使いの武見さんに、小泉さんは戦災の怪我がまだ治っていないからと断る。 それでは高橋誠一郎さんだということになり、武見さんは「先生、福沢の弟子として、こういう時に福沢の遺志が政府に伝わるのは非常にいいことなので、それをする義務は先生にだってあるでしょう」という殺し文句を使って、高橋さんを官邸へ連れ込む。」
このエピソードは、武見太郎さんの『戦前 戦中 戦後』(講談社)に書かれている。 その時、私は「帝室は政治社外のものなり」と一緒に「我が帝室は日本人民の精神を収攬するの中心なり」と「帝室は独り万年の春にして、人民これを仰げば、悠然として和気を催ふす可し」も、引用した。
いま、三度目の『帝室論』の季節が、めぐってきたようである。
本は読まないで置くと、『読んでくれ』と夜泣きする ― 2025/01/05 07:08
11月の「等々力短信」で紹介した、原田宗典さんの『おきざりにした悲しみは』(<等々力短信 第1185号 2024(令和6).11.25.>11/22発信)の本を読んで、毎月一冊、私が推薦する本を知らせて欲しい、と葉書をくれた友人がいる。 12月31日に「高階秀爾さんの『本の遠近法』、「メタ情報」の宝庫」を出したが、これまでの「等々力短信」や<小人閑居日記>でも、そういうことを心掛けてきたつもりだった。 本を読まない人が増えて、本屋さんが減っているという。 本についての、鷲田清一さんの「折々のことば」を、いくつか拾ってみよう。
「折々のことば」2592(2022.12.21.)「本当に文学や哲学を理解する人間しか本を買わないのなら、文学者や哲学者は食べていけない 鹿島茂」 鷲田解説「フランスでは近世より、文学や哲学について「一家言ある」か、なくてもそのふりができてやっと一人前にされたと、仏文学者は言う。才気を競うこうした「負けじ魂」が青年らに流行(はやり)の本を追わせた。等身大をよしとせぬこの「見えっ張り」たちが実は文化を支えてきたのだと。山田登世子との往復書簡(「機」1998年4月号)から。」
「折々のことば」1964(2020.10.15.)「若いときに読んだ本のなかで最も重要なものを、人生のある時間に、もう一度読んでみることが大切だ。 イタロ・カルヴィーノ」 鷲田解説「古典とよばれる書物は、集団や個人の無意識の記憶の襞(ひだ)の内にまでしみ込むことで時代を潜り抜けてきた。つまり読む人の経験を分類する枠、価値を測る尺度ともなってきたとイタリアの作家は言う。だから時を経て読み返すと、自分がどう変わったかを知る、別の新しい出来事が起こると。『なぜ古典を読むのか』(須賀敦子訳)から。」
「折々のことば」2856(2023.9.20.)「本は読まないで置いておくと、『読んでくれ』と夜泣きする 井伏鱒二」 鷲田解説「作家の開高健は文豪宅を訪れた時、書斎に広辞苑しかないのを見て、なぜ蔵書がないのか訊ねた。開高はこの返答に倣って自身の蔵書も売り払ったと言う。これを聞いて真似た編集者・島地勝彦は、それが願望であって実は地下室に詰まっていたのではと、後に訝(いぶか)しむ。机の背後に置かれた本は、読まねばならぬという焦燥を表すだけのものが多い。島地の『甘い生活』から。」
鷲田清一さんの「折々のことば」、朝日新聞は今年から土曜日、日曜日は休載だそうで、ちと寂しい。
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