「世間話」こそ、「社会学」の萌芽2023/11/15 06:57

 加藤秀俊さんの中公新書『社会学』(2018年)の第一章は「「社会学」――現代の世間話」。 加藤さんは、「社会」というのは、「世間」のことだ、と理解すれば、べつだん「社会学」などと名づけなくても、われわれはずいぶん以前から世間を学ぶことを知り、それを日常経験としてきた、という。 「世間話」こそ、「社会学」の萌芽なのだ。

 その世間話のあれこれに興味をもち、それをこまやかに記録する伝統にかけては日本は世界で突出していた。 一般に「江戸随筆」とよばれている厖大な量の雑記録がそれである。 『浮世のありさま』、松浦静山『甲子(かっし)夜話』、大田南畝『一話一言』、喜多村信節(のぶよ)『嬉遊笑覧』などなど。 世間話の運搬者、「遊行女婦(ゆうこうじょふ)」や宗教的布教者たち、行商人などが、たくさんいた。 さらに、ほうぼうを遍歴し、職業を転々として、数奇な人生をおくった「世間師」がいた。 いまでも現代版「世間師」なのかもしれない「話題の豊富なひと」がいる、落語の横町の隠居のようなひと、それが市井の「社会学者」なのだ、と加藤さんはいう。

 加藤秀俊さんは、この時88歳、米寿だったが、学問と年齢は関係ないと、あとがきにある。 私は77歳になったところで、まさに隠居だけれど、当<小人閑居日記>や<等々力短信>も、「江戸随筆」の流れをくむ、昭和平成の「世間話」の末端をうろついているとすれば、「社会学」なのかもしれないと思って、ニヤリとした、と書いていた。

 加藤秀俊さんの中公新書『暮らしの世相史 かわるもの、かわらないもの』(2002年)は、かつての加藤さんの著作の印象にくらべて、暗く、悲観的な色が濃い。 還暦をすぎて、大学人としての現役を退き、大病をされたこともあるのだろうか。 戦後五十数年を経た世相を、しっかりみつめなおしてみると、暗く、悲観的なものばかり、うかびあがってくるということだろうか。 9つの章があり、大まかに商、衣、住、日本語、言論、宗教(「餓鬼」の時代、「世直し」の系譜)、アメリカ、外国人を扱っている。

 たとえば「餓鬼」の時代とは何か。 いまや都会の団地やマンションには仏壇はなく、少子化は「後嗣」のない「家」の断絶をもたらす。 子孫がなければ、死んだ人間の霊魂は「無縁仏」となり、現世にもどってきてもゆくところもなくさまよう、そのさまよえる霊魂を仏法で「餓鬼」という。 そもそも、墓をもつ、ということじたいが近代にはじまった習慣であったが、「家存続の願い」は、わずか一世紀の理想、あるいは幻想にすぎなかったのである、と加藤秀俊さんはいうのだ。

加藤秀俊さんの日本語自由化論2023/11/12 07:37

加藤秀俊さん監修、国際交流基金日本語国際センター編の『日本語の開国』(TBSブリタニカ・2000年←当時加藤さんは同センター所長)という本のはじめに、加藤さんの「四つの自由化-「日本語新時代」をむかえて」という文章がある。

 現在、世界で日本語を勉強しているひとびとの数はすくなく見つもっても五百万人、体験的に日本語を身につけた人口をふくめて推測すると、たぶん一千万人をこえるひとびとが日本語をはなすようになってきている、という。 少数の学者や物好きなインテリでなく、一般大衆が世界のあちこちで「日本語」をつかいはじめた、そうした「日本語新時代」をむかえて、加藤さんはいま「日本語」の根元的な「自由化」がもとめられているという。

 (1)完全主義からの自由化。 「ただしい日本語」の基準、モデル的な日本語などありはしないのだから、日本人と外国人のつかう日本語のちがいは「完全さ」の「程度」のちがいにすぎない。

 (2)文学からの自由。 ごくふつうの日常の言語生活を基準にすると、「文学」は異質の世界のいとなみ。 いま必要とされているのは、簡潔で意味が明確につたわる「実用日本語」、日本語の「はなしことば」。

 (3)漢字からの自由。 ワープロの登場で、漢字がおおくなった。 漢字の呪縛からみずからを解放することによって、日本語はよりわかりやすく、よみやすく、そしてかきやすいものになる。

 (4)文字からの自由。 「読み書き能力」がなくても日本語はつかえる。 「文字」がわからなくとも「言語」は学習できる。

 加藤秀俊さんの『常識人の作法』(講談社)を読んで、1930(昭和5)年生れの、歯に衣着せぬ物言いにびっくりした。 その頃、2011年8月29日の産経新聞「正論」に、加藤さんの「嗚呼、落ちた日本人の造語力よ」が出た。 「嗚呼」は、言うまでもないが「ああ」と読む。 原発事故で政府高官などが、「モニタリング・ポスト」を始め「ベント」「トレンチ」「ストレス・テスト」を連発した。 各地に配置された「観測装置」、「排気」か「換気」、「暗渠」、「耐久試験」といえばいいではないか、バカもいいかげんにしなさい、というのである。 夏目漱石がむかし「むやみに片仮名を並べて人に吹聴して得意がった男がごろごろ」していた時代があった、と回顧したのは大正3年。 おそらく漱石の念頭にあったのは、坪内逍遥が『当世書生気質』で戯画化した明治の学生たちのことだったろう、という。 加藤さんは、政治家のカタカナ好きは「当世書生気質」なのだろうかとしつつ、それだけではあるまい、と言う。 エライさんたちは、記者会見する担当省庁や電力会社の人たちとおなじく、原発関係者の仲間うちだけで通用する業界用語を借用しているだけなのではないか。 やくざ社会で、たとえば駅を「ハコバ」、指を「エンコ」、寿司を「ヤスケ」、しごとを「ゴト」などというように、ご同業仲間だけに通じる隠語として…。 加藤さんは、その隠語を政治家や官僚がそのまま借用して、われら民衆に解説なさるのはまことに迷惑である。 かれらは「業界」を批判しているようで、いつのまにやら、その仲間にひきこまれてしまったのである、と言う。

最後の部分は、わが意を得たので、そっくり引用する。 「学者先生のなかには、どうも日本語では表現できなくて、などとおっしゃるかたがおられるが、あれは知ったかぶりの大ウソである。たいていのことは日本語で表現できるのである。福澤諭吉、西周など明治の先人たちは「哲学」「経済」「主義」「社会」その他もろもろの造語をもふくめて外国語を日本語にするための努力をかさねた。なにが「ストレス・テスト」なものか。わたしの心は憤怒の「ストレス」をうけたのであった。」

やさしくかくということ2023/11/11 07:05

私は若い頃、加藤さんの『整理学』から始まり、梅棹さんの『知的生産の技術』や川喜田二郎さんの「KJ法」に進み、桑原武夫さんや今西錦司さんに組織された共同研究の成果をかじった。 実のところ慶應より京大に、大きな影響を受けたといえるかもしれない。

加藤秀俊さんや梅棹忠夫さんの本を読んで、おおきな影響を受けたのは、その文章が読みやすかったということがあった。 加藤秀俊さんの(梅棹さんもそうだが)かき方(この段落はその方式でかく)原則は、できるだけ「やまとことば」をつかい、かな表記し、そのなかで「音読み」するばあいにかぎって漢字をつかう。 漢字の量がへって、文章はあかるい感じになる。

 加藤秀俊さんの『暮らしの世相史』に「日本語の敗北」という章がある。 「日本語の敗北」とは何か。 明治以来、日本語の表記について、福沢諭吉『文字之教』の将来的には漢字全廃をめざす漢字制限論、大槻文彦の「かなのくわい」、羅馬字会や田中館愛橘のローマ字運動などがあった。 戦前の昭和10年代前半、鶴見祐輔、柳田国男、土居光知が、それぞれ別に、日本語はむずかしいとして、改革案を出した。 当時、日本語が世界、とくにアジア諸社会に「進出」すべきだという政治的、軍事的思想があった。 しかし、日本語を「世界化」するための哲学も戦略もなく、具体的な日本語教育の方法も確立されなかった。 なにしろ国内で、「日本語」をどうするのか、表記はどうするのかといった重要な問題についての言語政策が不在のままでは、「進出」などできた相談ではなかった。 日本は戦争に破れ、文化的にも現代「日本語の敗北」を経験した、というのである。

 戦後、GHQのローマ字表記案を押し切って制定された当用漢字は、漢字の数を福沢が『文字之教』でさしあたり必要と推定した「二千か三千」の水準に、ほぼ一致した。 だが、その後の半世紀の日本語の歴史は、福沢が理想としたさらなる漢字の制限とは、正反対の方向に動いてきている。 それを加速したのが、1980年代にはじまる日本語ワープロ・ソフトの登場で、漢字は「かく」ものでなく、漢字変換で「でてくる」ものになったからだという、加藤さんの指摘は毎日われわれの経験しているところである。 加藤さんや梅棹忠夫さんは、福沢の「働く言葉には、なるだけ仮名を用ゆ可し」を実行して、動詞を「かたかな」表記している。 私などは、見た目のわかりやすさから、そこまで徹底できないで、「きく」「かく」と書かず「聞く」「書く」と書いている。 それがワープロ以降、次第次第に、「聞く」と「聴く」を区別し、最近では手では「書けない」字である「訊く」まで使っているのだ。 「慶応」も気取って、単語登録し「慶應」にしてしまった。 福沢のひ孫弟子くらいのつもりでいたのに、はずかしい。 深く反省したのであった。

私は「やさしくかくということ」が、日本語の自由化や国際化につながるものであるということに気づかなかった。 加藤秀俊さんの日本語自由化論にそれが指摘されていた。 それは、また明日。

「等々力短信」千号、加藤秀俊さんの励まし2023/11/10 06:59

「等々力短信」が1000号に達した時、友人5人が発起人となり、2009年7月4日、表参道の青山ダイヤモンドホールで、「『等々力短信』1,000号を祝う会」を開いてもらった。 64名の方々(私ども夫婦以外に)が参加してくださって、温かくて、楽しい、なんとも濃密な二時間を、経験することになった。 ずっと「書き手は三流だけれど、読者は一流」と言ってきた。 お集まりの大先輩、諸先生方、同期のお仲間、後輩、それぞれ、社会的に立派なお仕事をなさってきた方ばかりだ。 それが私のような、落語に出てくる「世の中をついでに生きているような人」の「読者」ということで、お気の毒にも十把一からげにされて、ここにいらっしゃる、と言って、こんな挨拶をした。 沢山の方が「継続は力なり」と言ってくださったけれど、つまらないことを書いていても、千回続けておりますと、これだけの皆様が集まって下さる。 「継続は力なり」の「力」は、人を集める「力」だったんですね、と。

 この会のために、私は「等々力短信 1000号の歩み」と「「等々力短信」千号によせて」の二冊の小冊子を用意した。 前者は1000号の目次と短い内容、後者は読者から頂いたご感想のアンケートをまとめたものだった。 それは私を励まし力づける過褒ともいえる数々のお言葉であり、おかげで「等々力短信」を現在1172号まで続けてこられたといってもよいほどだ。

その中には、加藤秀俊さんのご感想もあったので、引かせていただく。

「    ひとりで黙々と             加藤 秀俊

「等々力短信」の編集人、発行人、そして執筆者である馬場さんを知ったのはインターネット以前の「パソコン通信」時代のことであった。したがって、面識はほとんどない、といってもよい。それにもかかわらず、この人物を深く知り、「短信」を愛読しているのは、かれが短文の名手であり、同時に福沢研究の第一人者であるからだ。わたしなどが軽率に知っていた福沢のさまざまな側面や挿話を「短信」によってどれだけ教えられたかわからない。ひとりで黙々と「短信」を1000号まで書き上げてきたこの風変わりで実直な人物に縁あってめぐりあうことができたのは人生の快事であった。うれしいことである。」

「パソコン通信」で落語の話題2023/11/08 07:05

「現代文化研究フォーラム FBUNKA」で、いま廓ばなしは放送禁止なのだろうかという話題が出た。 私は、寄席やホール落語では、今でもどんどん演じられているけれど、放送ということになると、ある程度は放送局のほうで自主的に演目を選ぶということはあるだろうから、放送の機会は少なくなっているかもしれないと書いて、戦争中の「はなし塚」のことにふれた。

 昭和16年、落語関係者が寄り集まり、折からの戦時色にふさわしくない演題は遠慮したほうがいいだろうという相談をして、廓もの、花柳界もの、酒もの、妾もの…を中心に53種の演目を自粛することとし、その姿勢を示すために、浅草本法寺に「はなし塚」というのを建てて、そこへ葬るという形をとった。  53種(「禁演落語」と呼ばれたが、当局が「禁止」したという形はとっていない)のうち、廓ばなしは31種あった。 たとえば「五人回し」「品川心中」「三枚起請」「居残り佐平次」「明烏」「子別れ上」「付き馬」といった咄である。 こんなのがやれないんじゃあ、世の中真っ暗という気がする。 放送局の「はなし塚」は、勘弁してほしいものだ、と。

 加藤ご隠居の、戦後、葬った「はなし」を再びこの世に生き返らせるための儀式かなんかあったのだろうかというお尋ねで調べると、敗戦の翌年昭和21年9月30日、復活祭をやっていた。 戦後の落語黄金時代の幕開けである。

 そんな関係で、加藤秀俊さんから「パソコン通信」についての教科書か入門書のようなものをつくるのでと、原稿の依頼があった。 私のような者でいいのかと確かめて、資料をいろいろ集め、某大手家電メーカーで「パソコン通信」を運営している友人にも相談したりしていたのだが、なぜか出版に至らず、その話は立ち消えになった。 むしろ、ホッとしたのを憶えている。

 「現代文化研究フォーラム FBUNKA」がなくなったあとも、加藤秀俊さんから落語についてお尋ねの電話があったりした。 かつて「唖の釣」という演目があったが、今は何というのか、と。 「まぬけの釣」と、答えることができた。 この噺、今村信雄『落語事典』(青蛙房)も、矢野誠一『落語手帖』(講談社)も、「唖の釣」となっているが、まぬけなワープロソフトは「おし」では、すんなり変換しない。