私たちは岩石の上に立っている2018/04/18 06:40

 近所の図書館で借りて来たのは、左巻健男編著『面白くて眠れなくなる地学』 (PHP研究所・2012年)と、杵島正洋・松本直記・左巻健男編著『新しい高 校地学の教科書』(講談社ブルーバックス・2006年)。 左巻健男さんは法政大 学生命科学部環境応用化学科教授、杵島正洋さんと松本直記さんは慶應義塾高 校教諭とある。

 まずは、『新しい高校地学の教科書』で基礎的なところを読んでみた。 2-1 (2章1節)「元素・鉱物・そして岩石」-1(その1)「月も火星も岩石ででき ている」に、「私たちが立つ大地は、表面の土砂やアスファルトなどを取り除け ば、主に岩石という物質でできている。」 アスファルトの舗装は原油を精製し て残るタール状の成分を砂利と混ぜたものだし、コンクリートも石灰岩という 岩石を砕いてつくったセメントを水に溶き、砂利と砂を混ぜたものなので、「結 局私たちは今も岩石の上に立っている」とある。

 「地球をつくる岩石、そして岩石の構成要素である鉱物は、大気や海洋、生 命圏を含む地上の世界とも密接に関係している。私たちの住む地上の世界がど のようにしてつくられてきたかを知る手がかりが、これら鉱物や岩石の中に隠 されている。」

2-1-3「地球は鉱物の集合体」。 地球上の岩石は鉱物でできている。 学術 的には岩石には「○○岩」と名づけ、鉱物には一般に「○○石」や「○○鉱」 といった名称をつけることが多い。 花崗岩は岩石の仲間であり、石英や長石 や雲母という鉱物でできている(ただし「御影石」「大理石」のように「○○石」 が岩石の通称になっていることも多い)。

2-2「岩石をつくるプロセス:火成岩とマグマ」-1「地球上の岩石」 地球は 金属鉄でできた中心部の核(地球体積の16%)を除くと、ほとんどが岩石でで きている。 私たちが知り得た地球の表層の岩石を、含まれる鉱物や組織で区 分すると、火成岩・堆積岩・変成岩の3つに大別される。

火成岩……マグマが冷えて固まった岩石、固まり方の違いで火山岩と深成岩 の2つに分類される。火山岩(流紋岩・安山岩・玄武岩)、深成岩(花崗岩・ 閃緑岩・斑れい岩)。

堆積岩……岩石の破片などが運ばれ堆積して固まった岩石。

変成岩……熱や圧力を受けて元の岩石から変化した岩石。

『ブラタモリ』で最近の「地学」に興味2018/04/17 07:20

 『ブラタモリ』で興味深いのは、都市や観光地の発展に、地形や地質との密 接な関係があることだ。 「地学」は高校の科目にはなく、大学の教養課程で 「地学」を取ったが、何を習ったか、まったく憶えていない。 津屋さんとい う東大の先生で、調べると津屋弘逵(ひろみち)さん、私が教わった1960年 は現役の東大教授、63年に定年退官して名誉教授になっている。 「地質学的・ 岩石学的研究から富士山が三つの火山体からなることを解明した」そうだ。

 当時はまだ、プレートテクトニクスは登場していなかった。 プレートテク トニクスを辞書で見ると、「1960年代後半以来発展」と書いてある。 後のい わゆる「プレート」によって地殻変動が引き起こされているという考えが、初 めて認められたのは、1964年のイギリスの王立学会の討論会だったそうだ。  竹内均さんが、ウェゲナーの「大陸移動説」(1912年)から説き起こし、プレ ートテクトニクスの解説を盛んに始めたのは、1963年に東大教授になってより 後のようだ。 「大陸が動くと言って飯を食い」と言っていたのが、印象に残 っている。  竹内均さんが、科学雑誌『ニュートン』を初代編集長になって 創刊したのは、東大を定年退職した1981年だった。

 プレートテクトニクスは、「地学」を一変したのだろう。 この大陸や大洋底 の位置の変動を、プレートの水平運動によって理解する理論(学説)によって、 大地形(大山脈・弧状列島・楯状地(たてじょうち…古い地質時代に地殻変動 をうけた大陸の核心部をなす地塊))、地震活動、火山噴火、造山運動などの諸 現象を統一的に解釈できるようになったからだ。

 『ブラタモリ』が近江友里恵アナに変った最初の回、2016年4月30日放送、 「#36京都・嵐山」「嵐山はなぜ美しい?」で、タモリが岩肌を触って「チャー ト」だと言った。 「チャート」という言葉を知らなかった。 「地学」では、 英語のchertのまま使っているらしい。 『広辞苑』をみると、「珪質堆積岩の 一種。きめこまかで非常に固い。獣角様の光沢があり、赤褐色または薄黒いも のが多い。層状チャートは、放散虫の遺骸や珪質海綿の骨針が深海底に堆積し 固結してできたもの。角岩。」とある。 この「チャート」、その後の『ブラタ モリ』で、何度か出て来た。

 まだ桑子真帆アナだった2016年1月16日放送、「#27熱海」「人気温泉熱海 を支えたものは?」で、京都府立大学の松田法子さん(生活文化・生活美学) という温泉に詳しい美人が初めて登場したのは、ホテルニューアカオのレスト ランだったが、その外の海に突出した岩山をタモリは、「水冷破砕溶岩」だと言 った。 昨年11月25日放送、「#91室蘭」「工業都市・室蘭を生んだ奇跡とは?」 でも、船に乗って地球岬という絶壁を太平洋から眺め、もろく崩れた岩肌をタ モリが「水冷破砕溶岩」だと言い当てた。 すると、同行していた北海道地質 学研究センターの山岸宏光さんが、「水冷破砕溶岩」の名付け親だということが、 判明したのであった。

 話は脱線して、というか反射炉や大砲製造の話に戻るが、この「#91室蘭」 で、室蘭の日本製鋼所は明治40(1907)年の創業当時、英国のアームストロ ング・ホイットワースやヴィッカースの技術と資本を導入して国産の兵器、ア ームストロング砲などをつくっており、戦艦長門や戦艦陸奥の主砲を製造した ことをやっていた。 ちなみにロシアのアジア進出を牽制する日英同盟は、明 治35(1902)年に締結されていた。

 最近の「地学」はどうなっているのか、私は「地学のやさしい本」で検索し て、世田谷区の図書館から、適当なものを何か借りて来ようと考えたのであっ た。

戦争犠牲者への感謝と鎮魂2018/03/24 07:17

 宮川幸雄さんが、婦人参政権が戦後授けられたもので、戦争の犠牲者のおか げなので、鎮魂の意味を込めて、100%投票に行くべきだと、語ったのは強く 印象に残った。 宮川さんは、私より3学年下である。 私が志木の高校で3 年生の時、中等部の3年生で、日吉の高校に進み、新聞会に入った。 慶應3 高校の新聞部OBOGの集まりであるジャーミネーターの会でお会いし、ともに 会員の福沢諭吉協会でお目にかかり、中等部同窓会の俳句会「心太会」を本井 英先生が指導されていたことから、俳誌『夏潮』の会でもご一緒することにな った。 だから、お話を聞いたり、『うらら』という同人誌にお書きになるエッ セイを読んだりして、宮川さんのことはいろいろ承知している。

 宮川さんは昭和21年に、満洲の大連から、お母さんと佐世保港へ引き揚げ て来た。 3学年下だから昭和19年(か20年)生まれ、2歳(か1歳)だっ たろう。 お父さんは、昭和20年5月に大連で現地召集され、終戦後、北へ 向かう列車を怪しみ、関東軍から脱走して炭鉱に入って、シベリア抑留を免れ た。 戦後、ご両親が奇跡的に再会し、お母さんの強い力によって、満洲で「残 留孤児」とならなかったのは、ご自身の「人生の幸運」だと思っているそうだ。  お父さんは、先に引き揚げていたという。 この原体験から、戦争の犠牲者の おかげとか、鎮魂という言葉が出てくるのであろう。

 昨年4月29日の「昭和の日」、慶應志木高同窓会志木会の俳句の会「枇杷の 会」で、深川を吟行した。 句会場は近くにお住いの宮川さんに教えていただ いたと聞いた。 句会後、「しか野」という居酒屋で小酌したが、本井英先生が 戦争で亡くなった方々への深い感謝と鎮魂の思いを話された。 先生は終戦直 前の昭和20年7月26日のお生まれだったから、私は不思議な感じがした。 4 歳で空襲も体験していたのに、能天気な私にはそういう気持はまったくなかっ たからで、その時もそうお話をした。 お父上か、そのご兄弟が出征されたの かと思った。

最近になって、先生のその思いの根源がはたと分かったような気がした。 先 月25日の「等々力短信」第1104号<時ものを解決するや春を待つ 虚子>に 書いたように、咽頭癌の療養中で『夏潮』新年会に出席された先生が、まとめ て出版したい本の一つに、『夏潮』別冊『虚子研究号』の「「戦地より其他」を 読む」を挙げられたからである。

世間に受け入れられなくても、突破口はサービス精神2018/03/22 07:18

 (3)世間が受け入れてくれなかった時の知恵、突破口はサービス精神。 福 沢は明治15年3月『時事新報』を創刊したが、この新聞、なかなか受け入れ てもらえなかった。 あらゆるしがらみにとらわれず、自分の考えのままを主 張する「独立不羈」を掲げ、政府寄りと反政府寄りの間、中立の立場を取った。  インタビューで、これもおなじみ都倉武之慶應義塾福澤研究センター准教授登 場。 『時事新報』は独自のスタンスを打ち出す、政府が薩長出身者ばかりな のはどういうことか、自由民権運動家は個人の不平を言うために権利を振りか ざすな、と主張。 両方から批判された、「ほらを福沢、うそを諭ゥ吉、一向に 信用できぬ」と。 売薬の広告は大口スポンサーだったが、社説で売薬の効用 がないと書いて、広告撤退の大打撃を受ける。

 その突破口は、サービス精神だった。 明治21年から初の天気予報を掲載、 料理コーナー、歌舞伎役者の人気投票、スカイダイビングに『時事新報』の宣 伝ビラをまかせる、など。 当初の1500部が1万部、東京最大の新聞になっ た。 都倉さんは、政治の問題だけでなく、社会の問題、歌舞伎、相撲も論じ た、福沢は気軽に政治を扱えるのが、よりよく世の中を変えて行けると考えた、 と。 明治20年代、福沢は国民への啓蒙活動がうまくいっていないと、苛立 ちを募らせていた。 明治27年、日清戦争勃発、国家主義、社会主義が現れ る。 福沢の考え方は、置き去りになっていく。 著作を、できるだけ多くの 人に手を取ってもらいたい。 尾崎行雄に「猿にもわかるように書け」と言っ た。 『福翁自伝』の最後に「人は老しても無病なる限りはただ安閑としては 居られず、私も今の通りに健全なる間は身にかなうだけの力を尽くす積りです」 と書いて、明治34(1901)年67歳(満66歳)で亡くなった。

 小室さんは、「一定の政党とか、派閥とかに縛られない、中立で客観的にもの を見る新聞。 個人としての中立で客観的。 当時は二つの全体主義が盛んに なって来ていた、「国家主義」と「社会主義」。 どっちも、国家や社会がまず あってという考え方。 福沢がずっと唱えてきたのは、一人一人、まず「個人」 がある。 当時若い評論家は、福沢たちを「天保の老人」と呼んだが…。 福 沢はけして諦めず、フェミニズムの本を何度も出した。 女性の自立、男尊女 卑の否定は、彼の生涯の目標だった。 マイナス思考をしながらも、「最後の決 戦」をしている。」と語った。

福沢諭吉の「新しい世界の切り開き方」2018/03/21 06:36

 NHKのEテレに『先人たちの底力 知恵泉(ちえいず)』という番組があり、 2月13日は「しがらみから独立しよう~福沢諭吉 新しい世界の切り開き方 ~」だった。 「ちえいず」といえば、知恵伊豆と称された松平伊豆守信綱(の ぶつな)、江戸前期の幕府老中、川越藩主、将軍家光・家綱に仕え、島原の乱・ 慶安事件・明暦の大火などに善処した人物だ。 こちら「知恵泉」は居酒屋の 設定、この回から店主は三代目の二宮直輝アナになった。 客は、パトリック・ ハーラン(お笑い芸人)、豆腐会社の鳥越淳司社長、おなじみ小室正紀(まさみ ち)慶應義塾大学名誉教授。 まったく知らなかった鳥越さんは前橋市の相模 屋食料(株)社長で、「誰もやっていないことをやれば成功できる、目の前にブ ルー・オーシャン、大海原が広がっている、豆腐を世界に広める」と全工程機 械化、チョコ味、抹茶味、モッツァレラ味などの豆腐も作り、ガンダムの「ザ ク豆腐」(枝豆味)は初日に14万丁売れたという。

 そこで福沢諭吉の「新しい世界の切り開き方」、(1)しがらみに困った時、(2) 自分でムチャだとわかった時、(3)世間が受け入れてくれなかった時、どうす るか?

 (1)しがらみに困った時の知恵、しがらみを抜けるついでに、もっ と先まで行く。 中津の下級武士に生まれた福沢、土蔵の二階で勉強していた が、万事に門閥制度がついてまわる。 中津を出るよりしようがないと、嘉永 7(1854)年長崎に留学するが、家老の息子の奥平壱岐のやっかみで、中津に 呼び戻されそうになると、同行の商人をうまく利用して、さらに先の大坂へ行 き緒方洪庵の適塾に入門、二年で塾長になる。 小室さんは、「目的は勉強する ことなので、Aが駄目ならBで行こうと、パッと切り替えられる」、と指摘。  大坂での勉強が認められ、安政5(1858)年江戸に呼ばれて中津藩中屋敷で蘭 学塾を開くが、開港された横浜へ行くとオランダ語が通じず、英語が飛び交う、 落胆したけれど、翌日から英語を猛勉強、それで幕府の使節団の通訳としてア メリカ、ヨーロッパに渡るチャンスを得る。 アメリカで70年前の大統領ワ シントンの子孫のことを聞いてもわからない、門閥制度でなく個人の能力が評 価される、進んだ社会を築いている、日本はどうすれば、この差を埋められる か。 富国強兵のためには、人材の育成が急務であると、西洋の教育制度に目 をつける。

 (2)自分でムチャだとわかった時の知恵、自分一人で進め。 慶應3(1867) 年12月、浜松町(芝新銭座)に1300平米の土地を購入、校舎をつくる。 慶 應義塾、論理的に自分の頭で考えられる人材を育成し、日本を新たな文明国へ 導こうとする。 彰義隊の戦争の日も、平然と講義を続けた。 世間にとんじ ゃく(頓着)するな。 小室さんは、「スピード感が違う、1.大胆な賭けをする チャレンジ精神、2.冷静な判断力。戦争は半日で終わると判断」と。 福沢は よく「ママヨ浮世は三分五厘」と言う。 社会を変えるのに、人を変える。 普 通の人をつくりたい。 会社や社会の流れに対して、たった一人でも「ノー」 と言える、それが健全な国民、それを育てたい。

 (3)世間が受け入れてくれなかった時の知恵は、また明日。