「枇杷の会」6月28日通信句会2020/07/06 06:48

 新型コロナウイルス感染症の影響で、俳句会や吟行が出来なくなっている。 慶應志木高校の同窓会の句会「枇杷の会」も、6月28日に広尾の有栖川宮記念公園で予定していた吟行を中止、代わりに通信句会を世話役の深瀬一舟さんのお世話で開催した。 当期、雑詠、七句投句、七句選句ということで、私はつぎの七句を出した。

朝顔市なくてあさがほどこで咲く
ボイスメモにつられて鳴くや雨蛙
整理券誇るごとくに濃紫陽花
夏芝居無くて幽霊出どこ無し
マスクして不要の散歩汗となる
がらがらの銀座通に雲の峰
距離取りし列に並びて氷菓買ふ

 参加者は、いつもの吟行よりも多く、本井英先生始め11名となった。
私は、つぎの七句を選句した。
青葉山躙りそめたり解纜す       英
出航のデッキ横切り夏燕        英
青田風安房もここらは米どころ     英
姉二人ずんずん進む大夏野      祐之
十薬や防災倉庫取り囲み        祐之
ブラウスの襟元白し夏は来ぬ     一舟
のびのびとラジオ体操夏座敷     一舟

 私の結果は、<がらがらの銀座通に雲の峰>を英先生と経さん、<ボイスメモにつられて鳴くや雨蛙>を経さん、<夏芝居無くて幽霊出どこ無し>を善兵衛さん、<距離取りし列に並びて氷菓買ふ>を伸次さんが採ってくれて、5票とちょぼちょぼだった。

 得票トップは世話役の一舟さん19票、英先生16票、祐之さん15票の順だった。 お手数をかけた一舟さんが好成績で、まことにおめでたい上々の通信句会となった。

家族主義的経営に道はないのか2020/07/01 07:04

 清宮政宏教授の「福沢山脈を引き継ぐ経営者たち」を読んで、当然、4月の「等々力短信」に「武藤山治の先見性」を書いたことを思い出した。 そこでは、武藤山治の鐘紡での革新的経営について、「生産会社には、生産、販売、労務の三要素があるが、一番力を入れたのが労務、人間尊重と家族主義的経営だ。 職工の優遇、福利厚生施設の充実、たとえば学校、託児所、娯楽施設をつくり、提案制度、社内報も日本で最初に始めた。 生産は、最新鋭の機械を金に糸目をつけず導入、テーラーシステムを取り入れ工場管理を徹底し、高品質の糸を紡出した。 販売では、アメリカ仕込みの宣伝を採用する。」と書いた。

 その武藤山治の人間尊重と家族主義的経営にふれている時、私自身の経験を思い出していた。 私はもう二タ昔も前、父の創業した零細なガラス工場を父や兄と経営していたのだが、戦後の集団就職で上京した中卒を職人に育てる家族的経営をモットーにしていた。 職工の優遇、福利厚生施設の充実、提案制度、社内報などにも、心を配っていた。 高度経済成長期に、効率や能率、生産性を重視する経営ばかりが持てはやされるなかで、人間尊重と家族主義的な日本的経営、小粒でも情と味のある工場にも、生きる道があるのではないか、という思いがあった。 当時、参考にしたのがソニー厚木工場での実践、小林茂著『創造的経営―その実践的探究』(マネジメントセンター出版局・1968年)だった。

 中小企業の銀行との付き合い方<小人閑居日記 2020.4.13.>で、少しふれたように、父の死後、家族的温情的な「いいわ、いいわ」の経営を続けていたこともあって、2000年直前の金融危機に、銀行の厳しい姿勢と貸し剥がしに直面し、にっちもさっちもいかなくなって、閉じることになった。 それでも工場の土地を処分し、借入金は完済、従業員には退職金も支払ったのであったが…。

 というわけで、日経新聞を読まなくなって二タ昔にもなる。 コロナ騒ぎで、「解雇」と合わせて「雇い止め」という言葉を聞く。 「雇い止め」を知らなかった。 有期で雇われていた人が、契約期間満了時に再契約されないことだそうだ。 非正規雇用というのが、爆発的に増えたのも金融危機以後のことである。 経営の形態も大きく変わっているのだ。 しかし、コロナ後の変化する世界に、もしかしたら、かつての人間尊重と家族主義的な日本的経営のような道もあるのではないか、などと思うのである。

清宮政宏教授の「福沢山脈を引き継ぐ経営者たち」2020/06/30 06:50

 『福澤手帖』185号、清宮(せいみや)政宏滋賀大学経済学部教授の「福沢山脈を引き継ぐ経営者たちについて」を、興味深く拝読した。 清宮さんとは、福澤諭吉協会で早稲田に行った時に、昼食の高田牧舎で同じテーブルになって以来の顔馴染みだ。 論文は、現代に通じる革新性を企業にもたらした経営者として、池田成彬と小林一三の業績と革新性を紹介した上で、その二人から連想される現代の経営者二人を取り上げている。 池田成彬からはサントリーの四代目佐治信忠へ、小林一三からは資生堂の福原義春につなげた着想は、秀逸だと思った。

 池田成彬は、三井家の同族経営から専門経営者へ「財閥転向」を進めた、革新的気概を持つ人物である。 佐治信忠は、同じ革新的気概を発揮して、2014年、同族企業のサントリーに、外部からローソン社長を務めた新浪剛史を招聘、経営トップに据えた。

 小林一三は、阪急電鉄で、路線沿線の土地を買収し大衆向けの宅地分譲を進め、宝塚の娯楽施設を創り上げ、梅田にターミナル型デパートを開店させ、多くの客を集めた。 小説家・文筆家としての才能も並行して発揮、文化的芸術的な感性・才能を経営に活かした人物だった。 福原義春は、蘭の栽培や写真の趣味を持ち、駒井哲郎のコレクションを世田谷美術館に寄贈しており、「経営とは経済的、文化的、社会的な総合活動」であり、「企業活動は文化を生産している活動」であると言う。

 清宮さんは、福沢山脈を今も脈々と引き継ぐ経営者たちは、独自の気概を持って、企業が本来目指さなくてはならないものを長期的な視点や幅広い視点で推し進め、革新性を社会や企業経営にもたらして先導している、とまとめている。

ニュース映画専門劇場2020/06/23 07:17

 高校は慶應義塾志木高校、中延の家を出て、東急池上線の荏原中延から五反田、山手線に乗り換えて池袋まで行き、東武東上線で志木まで通った。 東上線の準急に乗れても、1時間半弱かかった。 今、最寄りの自由が丘駅に行くと、志木行きの直通電車などが来て、夢のようだ。 通学途中には、渋谷、新宿、池袋があって、寄り道するところにはことかかなかった。 逗子、鎌倉から、朝日の昇るのを見ながら、通ってくる友達と、帰りによく渋谷で下車した。 新宿と池袋は、ちょっと怖かった。 寄り道して、遊ぶといっても、初心な高校生だから、大したことはしない。 喫茶店でコーヒーを飲んで、おしゃべりをするぐらいだ。 ロロという店や、コロンバンに行った。 もう一つ、ちょうど東急文化会館(今のヒカリエの所)が出来た頃で、地下にニュース映画専門の映画館(東急ジャーナルという名前だったか)があって、入場料が10円と高校生にはもってこいの値段、映画を観る気分も味わえるので、よく行った。 日本と海外のニュース映画を7、8本も上映していただろうか。

 「消えた映画館の記憶」の「1960年の映画館」に、渋谷以外にも、ニュース映画専門の映画館があったことが出ていた。 日劇ニュース、神田ニュース(神田鍛冶町1-5)、東京ニュース劇場(京橋1-2)、新橋ニュース劇場(芝新橋3-6)、内外ニュース劇場(角筈2-78)、新宿ニュース劇場(角筈3-25)。 渋谷以外では、ニュース映画専門の映画館に行ったことはなかった。

 なお、ついでに見てみた「1953年の映画館」に、スバル座(有楽町)の次に、オリオン座(有楽町)があった。 私が長く探していた映画館の名前は、オリオン座だったようだ。 死んだ兄に聞けば、たちまちわかるのにと、改めて思った。

 昨夜、風呂に入っていて、中延の(住所は戸越かと思う)タンクのニュース映画を観た映画館の名は、デンキカン(電気館)だったのではないか、と頭に浮かんだ。

保険会社の創始、明六社の人々と蕃書調所2020/06/16 06:54

座談会「150年のスパンで「統計学」を見る」で、初めて知ったことがある。  渋沢栄一と福澤が、大隈重信の家で将棋をさし、その対局中、三人で保険制度 について議論したと、渋沢の回顧にあるというのだ。

大久保健晴教授…言うまでもなく、保険制度は統計的思考を基礎に成立・定 着する。 福澤、渋沢、大隈。 彼らが個々の立場を越えて、社会のあり方を 統計的な眼差しで眺め、保険会社や銀行、統計局など新たな制度の創設に取り 組んだことは、近代日本の形成を考える上で、極めて重要な意味を持っている。

福澤諭吉は、西洋の保険制度を、『西洋旅案内』などを通じて日本に先駆的に 紹介した。 日本ではじめての保険会社・東京海上保険会社を創設したのが、 渋沢栄一だ(1879(明治12)年8月1日)。

馬場国博教諭…塾員の阿部泰蔵が明治生命を創る(1881(明治14)年7月9 日)。 そのように福澤は、門下生に統計を生かした仕事をさせている面もある。  それから1890(明治23)年に慶應の大学部ができるわけだが、開設当初から 理財科には「統計学」という科目を設置し、呉文聰(くれあやとし)、横山雅男 といった人物に講師を務めさせている。 横山雅男は、杉亨二が設立した共立 統計学校の卒業生で、スタチスチック社などで統計の普及に尽力した人物だ。

椿広計(ひろえ)統計数理研究所長…杉亨二とともに国勢調査に対して非常 に影響を与えたのが呉文聰で、蕃書調所の首席教授だった箕作阮甫(げんぽ) の孫だ。 明六社の人々につながる源泉は蕃書調所というところが大変大きな 影響を与えている。 そこに統計的方法を社会にどう使うかという話が脈々と あって、明治の初期に非常に優秀な統計学者が出たのではないかと感じる。

馬場国博教諭…ライデン大学(留学)から帰ってきた西周と津田真道、それ から西村茂樹、杉亨二、皆、明六社だ。 このように明六社の人々が中心とな って統計学が非常にブームになった。

大久保健晴教授…杉亨二は徳川末期、西周や津田真道、加藤弘之らとともに、 蕃書調所に所属していた。 蕃書調所は、徳川政権が西洋事情の調査と洋学教 育を目的に設立した学問機関であり、多くのすぐれた蘭学者・洋学者が登用さ れた。 杉亨二によれば、彼はオランダの新聞「ロッテルダム・コーラント」 を読み、ヨーロッパには統計というものがあると知って、面白いと思っていた。  そこに西と津田がオランダ留学から帰ってきて、ライデン大学教授フィッセリ ングから学んだオランダ語の統計学講義ノートを見せる。 杉はそれを読んで、 一気に統計学に深入りしたという。 フィッセリングは、当時のオランダを代 表する統計学者・経済学者で、隣国ベルギーでケトレーが統計学を大成させ、 政府統計局を創設したことに影響を受け、オランダでも政治的に中立な政府統 計局を作ろうと動く。 (13日に見たように、『文明論之概略』で福澤が取り 組んだバックルの『英国文明史』は、文明史の方法論としてケトレー統計学を 導入していた。)