中流家庭、佐々木邦一家の太平洋戦争 ― 2026/07/09 07:14
『豊分居雑筆』(昭和16年刊)という邦の随筆集がある。 125坪の借地に、日本家屋を林蔵の弟が建て、二階の応接間だけはマントルピースのある洋間で、その奥の和室に絨毯を敷いた邦の書斎があった。 長男仙一、長女アヤ、次女ふさ、三女うめ(松井和男さんの母)、次男英二、邦の小説のような、二男三女の中流家庭だった。 仙一と英二は、慶應義塾大学で学んでいる。
作家としての成功と引き換えのように、不幸が邦を襲う。 昭和7年の4月、岡山の邦の家から六高に通い、帝大を出て名古屋で判事をしていた末弟の義朗が40歳の若さで、腸チフスで急逝した。 その年の暮、新婚の長女アヤが21歳で産褥熱で亡くなった。 50歳を目前にした邦は、残された初孫のとも子を養女として引き取り、夫婦で育てることにした。
親思いの邦は、林蔵が70歳を迎えた時、郷里・沼津の千本浜に、100坪余りの土地を買い、二階建ての両親の隠居所を兼ねた別荘を建てている。 母はるは77歳のとき老衰で、この隠居所で息を引き取った。 父林蔵は、現在の国会議事堂が完成した4年後の昭和16年6月に、眠るように82年の生涯を閉じた。 遺品の中に、建設中の国会議事堂の写真があった。
日米開戦の翌昭和17年、邦は数えで60歳、還暦を迎えたが、お祝いどころではなかった。 2月には、慶應の英文科を繰り上げ卒業した英二が入隊。 春には妻の小雪が病に倒れ、闘病生活をおくったのに次いで、秋には次女のふさが乳がんで亡くなった。 享年29、商社マンの夫の赴任にともなってアメリカで暮らしたこともある二児の母だった。 18年に入ると、2月にはジャパンタイムズの長男の仙一が同盟通信社特派員としてジャカルタに赴任、4月には、小雪、とも子、三女うめと前年に生れたその長男を沼津の別荘に疎開させている。
戦況が悪化し、迎えた20年の6月22日、フィリピンのミンダナオ島で次男の英二が戦死した。 26歳だった。 終戦のわずか1か月前の7月17日未明、沼津市が大空襲に遭い、邦の別荘も全焼したが、幸い家族は全員無事だった。 いったん、奇跡的に焼け残った東京豊分に戻ったが、すでに罹災した親戚や知り合いで満員状態だったこともあり、小雪の故郷山形県に再疎開することにした。 山形県西田川郡温海町五十川(いらがわ)(現・鶴岡市)という日本海に面した漁村、小雪の女学校時代の同級生の家だった。
慶應義塾予科教授から、「ユーモア小説」の第一人者へ ― 2026/07/08 07:07
独りユーモア文学の孤塁を守ってきた佐々木邦に、日の当たる時が近づいた。 きっかけは上京で、大正6(1917)年、34歳の邦は、長年の就職活動が功を奏して、慶應義塾の予科の教授に就任したのだ。 六高の後釜には、東大の英文科を卒業した弟の順三を推薦した。 まだ一面に麦畑が広がる豊多摩郡渋谷豊分(とよわけ・現在の渋谷区広尾)の借地に家を建て、9月に家族とともに移り住んだ。
さっそく、邦の家で飼っていた鳩が、同じ町内の開業まもない主婦の友社の社長石川武美(たけよし)の家に迷い込み、付き合いが始まるという、幸運な出来事が起こった。 大正7年3月『主婦の友』に、イギリスの作家シムスの小説を翻案した「主婦采配記」の連載を開始すると、適度に知的で、適度に間が抜けている、平凡な家庭を舞台にした滑稽小説が、大評判になった。 第一次大戦後の平和ムードの中で、人々は「富国強兵」から個人や家庭の幸福に向かい始めていたのだろう。 邦は、自信をつけたが、すぐに専業作家になったわけではない。 学生時代は馴染めなかった慶應だったが、官立の学校にはない自由な雰囲気が気に入っていた。 同僚には明治学院の大先輩戸川秋骨もいた。 安定した収入をもたらす教師の仕事を続けながら、副業で小説を書く生活に満足していたのである。
邦の執筆が忙しくなるのは、大正13、4年頃からである。 大正12年の関東大震災後、雑誌の大量生産が始まった。 今まで知識階級の高い所を目標にしていた雑誌が、一般大衆に狙いを移し、大衆雑誌や婦人雑誌が幾種類も出た。 雑誌も儲けたが、大衆も今まで味を知らなかった娯楽のための読書という文化的習慣を獲得したのである。 裏を返せば、「文筆も今は食える職業」になった。 時代小説や講談の流れを汲む作家が多い中で、「ユーモア小説」という言葉が定着し、その第一人者となった邦は、昭和3(1918)年、慶應の教授を辞任し、作家活動に専念することになる。
雑誌『講談倶楽部』を出していた講談社の昭和5年の広告には、「日本で一番売れている九大雑誌」とあるが、邦は、そのうち『幼年倶楽部』を除く8誌に、大正14年から昭和5年までの6年間に、長編だけで43本の小説を連載している。 『少年倶楽部』「苦心の学友」「村の少年団」、『少女倶楽部』「プラスとマイナス」「小女権論者」、『キング』「親鳥子鳥」「新家庭双六」「ガラマサどん」、『講談倶楽部』「愚弟賢兄」「御婦人閣下」、『冨士』(面白倶楽部)「容姿端正会」「或良人の惨敗」、『婦人倶楽部』「主権妻権」「美人自叙伝」、『現代』「使う人使われる人」「村の成功者」、『雄弁』「凡人伝」「駄弁無任所」。 昭和5(1930)年~6年、大日本雄弁会講談社から『佐々木邦全集』(全十巻)が刊行された。
「独立自尊の意義・修身要領」個人の尊重、未完の理想 ― 2026/07/02 07:25
「修身要領」は、福沢諭吉の死の1年前の明治33(1900)年2月、福沢が門下生と共に、これからの日本人の生き方の指針として編纂した「独立自尊」の精神を柱とした道徳要領である。 しかし発表されると、忠孝を論じず教育勅語を軽視しているなどと激しい批判を浴びた。 批判に対して編纂者たちは「独立自尊の意義」と題し、さらに平易に「独立自尊」を解説した箇条を発表して、この綱領を広く日本中に普及しようとした。
その「独立自尊の意義」から、いくつか引いてみる。
独立自尊の人は能く人と交り人を敬愛すれども苟(かりそめ)にも己の所信を抂(ま)ぐることなし
独立自尊の人は自治自制の人たらざる可らず
独立自尊の人は常に信義を重んじ人を欺き己を欺くことなし
独立自尊の人は亦(また)よく人を助けて其独立自尊を全からしめんと欲するものなり
自労自活よく一身一家を修るも未だ社会に対して其義務を尽さゞるものは独立自尊の人と云ふ可らず
独立自尊の人は守るべき紀律は人の命を俟(ま)たずして自ら能く之を守るの人なり
独立自尊の人は一身一家一国は無論、人類一般に対し又下等動物に対して其義務を尽さゞることなし
(以下略。『慶應義塾学報』明治33年6月号)
6月13日の日本経済新聞夕刊は、この企画展の開催を報じ、展覧会を主催した都倉武之教授の談話を、こう紹介していた。 「個人の独立と尊重という未完の理想を考える手がかりにしてほしい」、「どう表現すれば個人の重要性が社会に伝わるか」。 福沢の死後、門下生たちは「修身要領」の普及を図ったが、十分に広まらなかった、その後、日本は個人の尊重とは逆方向に進み、太平洋戦争の敗戦に至った。 「偉人と思われがちな福沢だが、その夢は未完だと言える。失敗を恐れずに歩み続けた人間として福沢を捉える機会になれば」と。
「日本初の女子留学生 大山捨松のチャレンジ」 ― 2026/06/22 07:11
19日は、慶應義塾3高校(女子、日吉、志木)の新聞編集者の集い「ジャーミネーターの会」が、三田キャンパス北館のファカルティクラブであった。 私は何年ぶりかの参加だった。 少し早く行って、前日始まった慶應義塾史展示館の春季企画展「福澤諭吉の臨終―『独立自尊』の誕生」を覗く。 明治34年元旦の揮毫「独立自尊迎新世紀」や、福沢が「戯去戯来」について自ら孫に「お祖父さん記して中村壮吉くんへ」と記した書を見た。
「ジャーミネーターの会」、講演は久野明子さんの『日本初の女子留学生 大山捨松のチャレンジ』。 久野明子さんは、大山捨松の曾孫で、昭和39年塾文学部卒、現在日米協会副会長。 昭和39年卒といえば、私と同期の105年三田会だが、まったく知らなかったので、名簿を見たら文学部西洋史学科だった。 講演後、同期だとお話すると、一年上なのだがアメリカに留学したので105年三田会、104年三田会の名簿にも載っているそうだ。
朝ドラの『風、薫る』を一緒に見ている家内が常々、多部未華子演じる大山捨松が、自宅でも鹿鳴館などと同様に洋服に帽子まで被っているの、おかしいと言っていた。 そこで、そのことを久野明子さんにお尋ねすると、「着物、着物」、朝ドラにはときどき違和感があるそうだ。 久野明子さんの著書『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松―日本初の女子留学生』(中公文庫)に、たくさんの写真がある。 実は、渋谷区隠田(原宿)の大山巌邸は第二次大戦の空襲で焼失、写真や手紙や日記など多くの資料が失われたため、これらの写真にはアメリカで発見された写真が多いのだそうだ。 その中に、明治33年、女子英学塾設立のため来日したアリス・ゴードンと、津田梅子、瓜生繁子とのもの、明治37年、日露戦争出征の日、大山邸で大山巌と子供たちとのものがある。 両方とも、大山捨松は「着物」姿である。
久野明子さんは、この本を、「鹿鳴館の貴婦人」「鹿鳴館の華」として名高い大山捨松でなく、副題の「日本初の女子留学生」としての大山捨松の「チャレンジ」を、ぜひ伝えたいために書いたという。 講演で、その発見の物語を話してくれた。 それは、明日から。
「卒業62年目の同期会」 ― 2026/06/13 07:15
6月4日、去年の6月9日に「卒業61年目の同期会」を書いた文化地理研究会の同期の会「六四の会(むしのかい)」が、今年も加藤隆康さんのおかげで東京會館のロッシーニであった。 卒業62年の爺さん婆さん14名の集合、女性8名、男性6名は、去年とメンバーが二人変わっただけだ。 今年も元気で集まれたことに(そして、六大学野球の優勝に)乾杯、スパークリングワインにも、ノン・アルコールがあるというので、私はそれにする。
今年は、ロッシーニ看板のローストビーフ、料理長が出てきてカットしてくれたのだが、ちょうど順番にスピーチしている途中だったので、盛り上がらなかったのは、ちょっと料理長に気の毒だった。 Appetizer「天使の海老のマリネ クスクス、そら豆のムース」は、去年とほぼ同じ、Soupは温かい「ミネストローネ」だった。 去年、調べた二つ。 「天使の海老」は、世界有数の美しい島ニューカレドニアで、マングローブ林に囲まれた絶好の養殖環境下、100%自然由来の餌で育てられた、アミノ酸含有量の多い旨味と甘味の海老。 Dessert「ヴェリーヌ」…フランス語でグラスデサートを意味する言葉。
スピーチが、病気の話の各科総合オン・パレードになるのは、年齢からいってやむをえないところである。 仲間の一人中島勲さんが、「六四の会」の2009年からの日時や場所、参加人数など開催経過の一覧表を、手帳から作ってきてくれた。 彼はスピーチで、老年を健康に過ごす数字の話をしてくれた。 「11111」一万一千百十一。 一日に一万歩を歩く、(本でも新聞でも)千字を読む、百字を書く、十人の人と会う、一回大笑いをする。 私は、一万歩と十人の人に会う、は駄目だけれど、ほかはいいかもしれないと思ったのであった。
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