福沢諭吉と明治の歌舞伎界2024/12/07 07:01

 11月30日は、福澤諭吉協会の土曜セミナーが交詢社であって、松竹株式会社エグゼクティブフェローの岡崎哲也さんの「歌舞伎に生きる福澤精神」という話を聴いてきた。 岡崎さんは東京生まれで幼少期から歌舞伎に親しみ、中等部で司会の西澤直子教授と同級、1983年経済学部卒、松竹に入社、長く歌舞伎の制作に携わり、取締役、常務取締役を経て2024年より現職就任。 1987年の旧ソビエト公演以来、フランス、ドイツ、イタリア、アメリカ、韓国、イギリス、中国、ルーマニアなど海外公演を制作。 川崎哲男の筆名で歌舞伎・舞踊の脚本を手掛け、2014年『壽三升景清(ことほいでみますかげきよ)』で第43回大谷竹次郎賞を受賞されている。

 私は子供の頃から、松竹の映画や歌舞伎を観ているのに、松竹が大阪で双子の白井松次郎、大谷竹次郎兄弟によって創業されたので、その名にちなんで松竹となっていることを初めて知った。 明治42年に新富座を買収して東京に進出、大正3年に歌舞伎座の経営権を取得している。

 まず、福沢諭吉と明治の歌舞伎界。 福沢は明治20年3月54歳の時、はじめて欧米様式の大劇場となった新富座で歌舞伎を観た。 九代目市川團十郎、五代目尾上菊五郎、初代市川左團次の明治の名優が揃った大一座で、「正直清兵衛」「太田道灌」「扇屋熊谷」「戻駕色相肩」を観て感動し、漢詩で「梨園の一酔人」となったと詠んだ。 これをきっかけに『時事新報』に、「演劇改良」(20年5月4日)、「演劇演藝の改良」(6月9日)の社説や、「演劇改良比翼舞台の説」(7月25日)の漫言、総まとめとして「演劇改良論」(21年10月9日~15日、4回)を執筆した。 一方、〝團菊左〟との交遊を深め、三名優を三田の私邸に招いては、食事をしたり芸談を聞いたりした。 その交流から、福沢は歌舞伎の現実的な改良を訴えた。 〝團菊左〟を応援しつつ、厳しい意見(芝居茶屋や遊廓に関わる狂言の廃止など)もあった。 「演劇改良比翼舞台の説」は、幕間を減らすため、客席の両側に舞台を設け、180度動かす、今日のステージアラウンドに通じる珍説。

 これより先、福沢は、はじめて歌舞伎を観る前の明治19年7月1日~3日の『時事新報』に「劇場改良の説」3回を執筆、経済的基盤の視点から大劇場の建設を提案していた。 これは岡崎哲也さんが「歌舞伎座誕生の恩人」という末松謙澄の演劇改良会(明治19年8月)に先立つものである。 この会には、伊藤博文、福地源一郎をはじめ政・官・言論の名士が参加、日本の演劇の改良・優美高尚・大劇場の建設を説いた。

 明治20年4月、鳥居坂の井上馨外務大臣私邸(現、国際文化会館)で天覧歌舞伎が実現し、明治22年11月には歌舞伎座(第一期、二千人)が開場する。

 明治24年1月歌舞伎座で『風船乗評判高閣(ふうせんのりうわさのたかどの)』が、上演されている。 河竹黙阿弥の台本で、英国人スペンサーを演じたのは尾上菊五郎、気球から英語で挨拶し、『時事新報』のサービスチラシを撒いた。(明治23年、スペンサーの風船乗り〔昔、書いた福沢149〕<小人閑居日記 2019.11.6.>参照)

阿川尚之さん、トクヴィルと福沢諭吉『分権論』2024/12/03 07:03

 阿川尚之さんが亡くなったのを、11月18日の原武史さんのX(旧ツイッター)で知った。 「『東京人』で新幹線をテーマに対談したが、初めて会ったのに慶應の後輩として前から知っていたかのような物腰の軟らかさに感銘を受けた、いつだったか、たまたま自由が丘からたまプラーザまで電車でご一緒したときもそうだった、もちろん御父上(阿川弘之さん)の話題も出た。楽しいひと時だった。」とあったのだ。

 訃報を見ると、亡くなったのは「11月12日、73歳。米国憲政史が専門、知米派の法学者として活躍、慶應義塾大学名誉教授、慶應法学部を中退、ジョージタウン大学ロースクール卒。2002~05年駐米公使。阿川佐和子さんは妹。」

 阿川尚之さんは、2002年の5月18日に福澤諭吉協会総会の記念講演で「トクヴィルの見たアメリカ、福沢諭吉の見たアメリカ」を聴いた。 アレクシ・ド・トクヴィル(1805-1859)は、フランス・ノルマンディーの貴族出身の法律家で、革命に揺れ王制から共和制へ向う時代の1831年、26歳の時、親友で同僚のボーモンと二人、新生の民主主義実験国アメリカに渡り、10か月間各地を見て回り、『アメリカにおける民主主義』(1835年)を著した。 この本は、160年以上経った今日でも、アメリカ合衆国や民主主義研究の必須の書で、さまざまの身近な場面で引用されている。 福沢は、トクヴィルの『アメリカにおける民主主義』を、英訳本やその小幡篤次郎訳で読んでいて、『分権論』(明治10年・1878年)に、その影響が最も顕著に現れている。

 2011年3月11日の東日本大震災から4か月後の、7月25日の「産経ニュース」に阿川尚之さんが「かくなるうえは『殿様』の復活を」というのを書いていた。 その最後に≪福沢諭吉の「分権論」に学べ≫というのがある。

 「中央の政治家が人々の心を支えられないなら、今や失われた古いしきたりや伝統を意識的に復活してもいい。例えば、突飛(とっぴ)なようだが、各地で殿様を復活してはどうだろう。むろん殿様にはいかなる政治的権限も与えない。政治家になった殿様には遠慮してもらう。殿様がいない所では人望ある人を新しく選べばいい。そのうえで知事、町長、村長、地元出身の国会議員、大臣、みな羽織袴(はかま)でお城に上り、平伏して殿様に伺候(しこう)する。儀式はあくまで厳粛に行う。

 福沢諭吉は明治になって失われつつあった「士族の精気」の維持を説いた。一手段として、国権を中央の「政権」と地方の「治権」に分け、後者を旧士族に任せるよう提案している(『分権論』)。徳川幕藩体制の下2世紀半にわたり公の仕事を担ってきた士族の能力と精神を活用、地方の民の活性化と自立を目指したのである。

 震災で大きな被害を被った東北地方には、戊辰戦争に敗れて国が滅びた記憶が今も残る。殿様復活には、中央へ渡した権威と正統性を取り戻す象徴的な意味がある。東北だけでなく、北陸でも九州でも殿様と儀式を復活させれば、中央の政治家から失われた精神性が郷土に蘇(よみがえ)るだろう。中央主導で行われる地方分権の議論にも魂が入る。本格的なサムライの儀式復活は大きな観光資源ともなろう。

 長州農民の末裔(まつえい)は半分本気でそんなことを夢想したのである。」

『源氏物語』を書くのに使われた貴重な紙2024/11/13 07:06

 NHK総合テレビの『歴史探偵』という番組が、8月28日に大河ドラマ『光る君へ』とのコラボスペシャル2ということで、藤原道長の柄本佑、一条天皇の塩野瑛久(あきひさ)をゲストに放送された。 最初の問題は、『源氏物語』に使われた紙である。 当時、紙は貴重品だった。 書誌学の佐々木孝浩慶應義塾大学斯道文庫教授が登場、『源氏物語』は平安時代の写本はなく、鎌倉時代の最古の写本、幻の巻が千葉県銚子市の飯沼山圓福寺に残っている。 そこから推計すると、『源氏物語』全巻を書くのに、全紙判507枚、2000枚以上の紙が必要だったという。 倉本一宏国際日本文化センター名誉教授は、平安京の一条通に紙屋院という役所があり、紙はもっぱら公文書用だけで、一般に流通していなかったという。

 そんな貴重な紙を使って、紫式部が『源氏物語』を書くことができたのは、藤原道長から与えられたからだろうと推測するわけだ。 受領(国守)が税として徴収した紙(越前紙のような)の余りが献上されていた。 京都の陽明文庫にある藤原道長の国宝『御堂関白記』は上質の紙で書かれ、36巻26年にわたる日記である。

 大河ドラマ『光る君へ』第30回「つながる言の葉」。 清少納言の『枕草子』が広まっていた。 まひろ(紫式部)は、藤原公任の妻が主催する和歌の会に出ていたが、まひろの書いた「カササギ語り」が『枕草子』より面白いという話題が出る。 藤原道長は長女の彰子を一条天皇の中宮にしたものの、二人の仲はうまくいっていない。 道長は、陰陽師の安倍晴明に、闇の中からいずれ光が差し煌々と照らす、心の中に浮かんだ人に会いに行け、それが光だ、と言われる。 まひろが面白い話を書いたと聞き、会いに行く。

 『光る君へ』第31回「月の下で」。 しかし、物語を書くことに夢中な母に、かまってもらえぬ娘の賢子(かたこ)が「カササギ語り」の原稿を燃やしてしまっていた。 道長はまひろに、中宮彰子に献上したいので、もう一度思い出して書けぬか、あるいは新しい物語を書いてくれぬか、と頼む。 帝のお渡りがなく、寂しい中宮様のために。 お前には才がある、俺に力を貸してくれ、また参る、考えてくれ。

 そして、越前の紙が大量に届く。 せいいっぱい面白いものを書いてくれ、明るくてよい。 実は、中宮様にとは偽り、すまなかった、帝に献上したい、『枕草子』を超える書物を。 まひろも、帝がお読みになるものを書いてみたい、人柄、若き日のこと、生き身の姿、「帝もまた人でおわす」ということを、と。

 道長とまひろ、二人で月を見る。 きれいな月、人はなぜ月を見上げるのか。 月にも人がいて、こちらを見ているからか。 「おかしきことこそ、めでたけれ」。 誰かが今、俺の見ている月を見ていると願いながら、俺は月を見てきた。 (チェロの音楽が流れ、細かい色紙が舞った。)

『夏潮』連載、石神主水さんの『時を掘る』2024/11/11 07:00

 俳誌『夏潮』に、石神主水さんが『時を掘る』という連載を、2012年の8月号から続け、2024年11月号で、147回を数える。 2022年6月号で、なぜか一回休んだだけだ。 私も初期の『夏潮』に『季題ばなし』というのを連載させてもらったが、24回で種切れとなっていたから、その大変さは身に沁みて、よくわかる。

 石神主水さんは、考古学を学んだと聞いていたから、『時を掘る』という題は、まさにぴったりだ。 連載が一年ぐらい経った頃から、京都の話題が多くなった。 改めて、ネットで調べると、俳人、京都芸術大学教授とあった。 御粽司 川端道喜の川端知嘉子さん、秋野不矩先生の京都市立芸術大学ではなく、女優の黒木華が映画学科で学び、近くに四川料理の駱駝という店がある京都(造形)芸術大学だろう。 1973年神奈川県生まれ、千葉県鎌ケ谷市で育ち、2005年慶應義塾大学大学院文学研究科後期博士課程単位取得退学、2006年博士(史学)、考古学を専門とする傍ら慶應俳句研究会で俳句を学ぶ、とある。 夏潮会の第零句集18『神の峰』を2013(平成25)年に刊行しているが、本井英主宰はその序文「よき仲間に囲まれて」で、<春浅し発掘現場砂嵐><古伊万里のかけら打ち寄せ春浅し>を引き、『夏潮』2010年2月号に載った上高地での結婚式と披露宴での仲間に囲まれた幸せそうな顔の集合写真と記事に言及されている。 『神の峰』という題は、上高地での句<神の峰霧生れてまた霧生れて>に由来するそうだ。

 『時を掘る』2024年1月号「百人一首かるた」に、今年の大河ドラマが『光る君へ』で紫式部や源氏物語にスポットが当たる年となりそうだがと、百人一首の紫式部が詠んだとされる「めぐりあひて見しやそれとも分かぬまに雲がくれにし夜半の月かな」(『新古今集』「雑上一四九九」)にふれている。 歌意はシンプルで、「久しぶりにめぐり逢ってお会いしたのがあなたであるかどうかもわからないうちに、あなたは慌ただしく帰って行かれた。雲の間に隠れてしまった月のように」というもの。 「月」を誰に見立てたのかがポイントで、『新古今集』のこの和歌の詞書に、「はやくより童友達に侍りける人の、年ごろ経てゆきあひたる、ほのかにて、七月十日のころ、月にきほひて帰り侍りければ」とあると、石神主水さんは書いている。

 私は、大河ドラマ『光る君へ』の脚本を書いた大石静さんは、この詞書を読んで、物語の冒頭、紫式部(藤式部)となるまひろと、藤原道長の三郎が幼馴染だったことを、思いついたに違いないという気がした。 まひろと道長の二人には、相手のことを思って「月」を見上げる場面が、しばしばある。

福澤諭吉記念 慶應義塾史展示館「近代日本の格闘そのもの」2024/11/10 07:56

 「福沢の近代化構想は実現したか」、その挫折の物語は、2021(令和3)年7月に開館した「福澤諭吉記念 慶應義塾史展示館」のコンセプトとなった。 私は2022年5月11日に、コロナ禍で久しぶりに行われた福沢諭吉協会の一日史蹟見学会で見学、都倉武之副館長の講演を聴いた。 都倉さんは、ミュージアムの構想と計画が何度も挫折していたことも語った後で、こんな話をした。 私は、それを慶應野球と福沢諭吉<等々力短信 第1155号 2022(令和4).5.25.>に、こう書いていた。

5月11日、ひさしぶりに福澤諭吉協会の一日史蹟見学会があった。 時節柄一日ではなく半日で、「慶應義塾展示館を見る」。 まず演説館で、展示館の開設を準備し、副館長を務める都倉武之さんの話を聴いた。 福澤諭吉記念 慶應義塾史展示館は、赤レンガの旧図書館の二階にあり、無料で一般公開されている(月~土 10時~18時)。

 約150点の資料を展示する常設展示室(私の頃の大閲覧室)では、慶應義塾史=「近代日本の格闘そのもの」というコンセプトで、展示した。 福沢を語ることは、近代日本を語るということだ。 福沢の成功物語、完成した偉人伝として描くのではない。 格闘者、挫折者としての福沢、文字だけでなく、行動と激励の人だった福沢の不成功物語として描こうとした。 福沢の主張は結局かなりの部分、未完成で、まだまだほとんど実現していない。 現在進行形だから価値があり、その歴史が示す多くの未解決の課題を提示し、なぜ受け入れられなかったのか、なぜ実現しないかを来場者に考えてもらいたい。 福沢、慶應が本来秘めている激しい反骨精神を内外に意識づけたい、と言う。