伊藤塾長年頭挨拶、石破茂さんの戦後80年所感 ― 2026/01/16 07:18
伊藤公平塾長は次に、『三田評論』1月号で、石破茂前首相、佳子夫妻と、「慶應義塾での学びと戦後80年―無知を知ること」という新春対談をしたことを述べた。 石破さんと佳子夫人は、1979(昭和54)年法学部法律学科卒の同級生である。 石破さんは辞める直前に「戦後80年所感」を出した。(石破茂前首相の駆け込み「戦後80年所感」<小人閑居日記 2026.1.6.>)
『三田評論』の対談での、石破さんの発言を、以下に紹介する。 先の戦争の開戦にあたって、なぜ政治家が歯止めたり得なかったのか、政治家がそれを考察しなければ駄目だという意識があった。 「なぜ政治家が歯止めたり得なかったのか」をきちんと総括した上で、「では今の日本において歯止めたり得ているか?」ということを問いたかった。 当時は、政府、議会、メディアの三つにおいて、それぞれがなぜ機能しなかったのか。 では、今なら本当に機能するかと。 根源は「文民統制とは何か」という、ギリシャ、ローマからずっと問いかけられてきた問いに対する答えを、少しでも書きたかった。
ここ20年ほど考えているのは、今の日本国は、インデペンデントでも、サスティナブルでもない、独立していないし、持続可能性も低い。 食糧もエネルギーも人口構成もそうで、自衛力だって、はっきりいえばそうだ。 もちろん日米同盟は大切で、日中の信頼関係も大切だ。 しかし、その前提として、インデペンデントな日本とは何かということを突き詰めて考えたことがない、ということは恐ろしいことだと思う。 福沢先生のおっしゃる「独立自尊」というのは何なんだというのは、常に塾員、塾に学ぶ者が問いかけなければならないことだ。
生涯学び続けられるのも、慶應のすごいところだなと思う。 勉強すればするほど「なんて自分はものを知らないんだ」ということがあって、でもそれに打ちのめされて、くじけてはいかんのだと思う。 世の中に知らなければいけないことが千あるとしたら、多分自分が知っていることは百もないなと思うからこそ、日々学びなのだと。 先の戦争で、フィリピンのマニラ市街戦、シンガポールにしたことなど、知らないことが山ほどある。 無知の恐ろしさだ。 「何があったのか」ということをきちんと記憶しておく責任は、やはり引き継いでいるのだと思う。
伊藤公平塾長は最後に、今年の抱負として、3年で人間中心のAIキャンパスを実現すると述べた。 学生のSNSとのつながり、人間同士の付き合い、人と人とのつながり、好奇心は大切だ。 精神的自立は、最も大切だ。 好奇心を育てるのに、中等高等教育で、さまざまな分野の本物にふれ、幅広い教養を身につける。 リベラルアーツに触れて、自分の進む道がわかる。 小中高大の一貫校では、AIも好奇心の対象として示す、沢山の寄り道の場、最高のリソースを用意する。 そして、さまざまな社会貢献に尽くしてもらいたい。
伊藤公平塾長の年頭挨拶、前半 ― 2026/01/15 08:29
1月10日は、第191回の福澤先生誕生記念会で、三田へ行った。 私の唯一の自慢、1960(昭和35)年に第125回の福澤先生誕生記念会が大阪で開催されたのに、志木高から行かせてもらったのは3年生の18歳、66年前のことだった。 1901(明治34)年2月3日に福沢先生が66歳で亡くなってから、今年は没後125年になる。 先生より18年も余計に生きて、小人閑居、何もできずにいるのが、どうにも恥ずかしい思いがする。
伊藤公平塾長は、年頭挨拶の冒頭、「慶應義塾の年末年始はコレだった」として、花園で活躍した志木高蹴球部のタイガージャージー色の応援タオルを掲げ、拍手を受けた。 12月27日の青森山田との一回戦を、塾長が花園で応援したと聞いている。(全国高校ラグビー一回戦、慶應志木48対12で青森山田に快勝<小人閑居日記 2025.12.29.>、全国高校ラグビー慶應志木高、東福岡高校に善戦健闘<小人閑居日記 2026.1.2.>)
塾長は、昨年、世界のリーダーたちが慶應義塾を訪れたが、それは塾に会いたくなる教授、研究者がいるからだ、と言う。 歴史の厚みがあり、これからにも期待している。 7月、1875(明治8)年の開館から150年になる三田演説館で、ウルズラ・フォン・デア・ライエン欧州連合(EU)委員長がスピーチした。 福沢の説いた「自由と独立」は、19世紀と今日をつないでおり、現在の課題の大切な答だというのだった。(慶應義塾が名誉博士号を授与したEU委員長<小人閑居日記 2025.11.14.>、福沢の「自由」と「独立」の追求は、現在の課題の答<小人閑居日記 2025.11.15.>、欧州と日本のパートナーシップ、学生へのメッセージ<小人閑居日記 2025.11.16.>)
11月、ICC国際刑事裁判所(赤根智子所長)のアジア太平洋学術フォーラムを慶應義塾で開催、アジア太平洋地域の10の大学が集い、国際刑事司法の地域連携、学術的立場から「自由と独立」を協議した。 ICCはプーチン氏やネタニヤフ氏など、戦争犯罪者に逮捕状を出している。 この問題は、19世紀末に重なる。 福沢は『文明論之概略』で、愚かな者に権力を与えると、どんなことも出来るといい、目的を定めて文明に進むの一事、内外の、明らかな独立を説いた。 智徳の進歩に、四章を割いている。 智恵では西洋に立ち遅れている、五官で感じ、好奇心を持って研究、探究するのが大事。 役立つものは受け入れ、害するものは外す。 学問、文学は心を和らげる。 歴史は、今後を明らかにする。
当時の日本は、外国交際病、貿易の搾取、「利を争うことは古人の禁句なれども、利を争うは即ち理を争うことなり」、外国人は利益を求めて、理屈を出してくる。 一人、一人の能力を高める必要がある、「一国の人民として地方の利害を論ずるの気象なく、一人の人として独一個の栄辱を重んずるの勇力あらざれば、何事も論ずるも無益なるのみ」。 昨今の国際情勢、利と理を考えないと、弱肉強食の世界になってしまう、現在進行形の問題である。(この部分は、安西敏三甲南大学名誉教授が、あとの記念講演「福澤諭吉の智徳論―J・S・ミルとの関連を中心に」で、述べたことと一致していたので、それで補った。)
豪徳寺、井伊家墓所と「桜田門外の変」 ― 2026/01/14 07:17
三田あるこう会、次に行ったのが豪徳寺。 世田谷に長く住んでいるが、豪徳寺へ行くのは、初めてだ。 「招き猫」の写真がSNSで広まってのことだろうが、行く途中で、外国人観光客と沢山すれ違うのに、びっくりする。 彦根藩二代藩主井伊直孝が鷹狩りの帰りに、門前で手招きする猫に導かれ寺の中に入ると、突如雷鳴が起こり、このことが縁で豪徳寺は井伊家の菩提寺になり栄えたそうだ。
豪徳寺には、大老井伊掃部守直弼の墓を中心にして、彦根藩主井伊家の広大な墓所がある。 実は本日の当番、日下部共代さんが「桜田門外の変」の日下部三郎右衛門の子孫、日下部家の方だという話は、前に南麻布の光林寺へ行き丸亀藩主京極家や高鍋藩主秋月家の墓所があった時に聞いていた。
安政7年3月3日は早朝から牡丹雪だった、午前9時頃、彦根藩上屋敷の門が開き、大老井伊掃部守直弼の行列60人余が、桜田門まで三、四町(約400m)を進んだ。 雪で視界が悪く、護衛の伴侍たちは雨合羽を羽織り、刀の柄、鞘ともに袋をかけていた。 行列が桜田門外の杵築藩邸の前に近づくと、水戸浪士の森五六郎が駕籠訴を装って行列の供頭に飛び出した。 彦根藩士・日下部三郎右衛門は、これを制止し取り押さえに出たが、森は即座に斬りかかったため、日下部は面を割られ前のめりに突っ伏した。 森が護衛の注意を前方に引きつけた上で、水戸浪士・黒澤忠三郎(関鉄之介、ほか多数とも)が合図のピストルを駕籠めがけて発射、これを合図に浪士本隊による抜刀襲撃が開始された。 防御側不利な形勢の中、彦根藩一の剣豪の河西忠左衛門や永田太郎兵衛正備も二刀流で奮戦し襲撃者側に重傷を負わせたが、共に倒れ、護る者のいなくなった駕籠に、次々に襲撃者の刀が突き立てられ、銃弾を受けて動けなくなっていたと思われる井伊直弼は討たれて、首級をあげられてしまった。
豪徳寺、井伊直弼の墓のある井伊家の墓所の入口に、日下部三郎右衛門の墓と、大きな石碑がある。 藩主を護れずに生き残れば切腹のところを、藩主を護って討ち死にしたので、こういう扱いになっていると、日下部共代さんは話す。 御主人は次男なのでこの墓には入れないが、そのご両親は入っているという。 立派な石碑は、維新後、朝敵の筆頭格と目された彦根藩の不遇の中、筆で身を立てた子孫の書だと聞いた。
世田谷区の中心部は、中世には吉良(きら)氏の所領で、この後、前を通った世田谷城跡が残っている。 江戸時代には、幕府領と彦根藩井伊氏の支配下となった。 この後、行った世田谷代官屋敷は、都内に現存する唯一の代官屋敷で、彦根藩世田谷領の代官を代々務めた大場家の居宅で、その居宅と表門は国指定重要文化財になっている。 門前の通りは、毎年12月と1月の15日、16日に世田谷ボロ市で賑わう。 ちょうど、明日明後日の開催だ。
「旧尾崎テオドラ邸」尾崎行雄・テオドラ夫妻と福沢諭吉 ― 2026/01/13 07:17
1月11日、第584回の三田あるこう会の例会「豪徳寺から馬事公苑散策」があった。 小田急線豪徳寺駅集合、最初に行ったのが「旧尾崎テオドラ邸」だった。 当番の日下部共代さんの案内に、「明治21年、かっての東京市長で憲政の神様と言われた尾崎行雄の妻、尾崎テオドラ英子の父である男爵が建築し、昭和8年に港区から豪徳寺の地に移築され現在に至っています。」とあった。
この水色の洋館は、尾崎テオドラ英子がイギリスから日本に渡って来る際に、テオドラの父である尾崎三良男爵が建てたもので、建築様式は19世紀後半に日本に流入した下見板コロニアルと呼ばれるコロニアル様式が基盤になっている。 この洋館を愛していた漫画家の山下和美さんが発起人となり、笹生那実さんとそれぞれほぼ全財産をつぎ込んで土地建物を取得、二人が共同代表になって保存プロジェクトを設立、沢山の人の支援を受けて、2024年3月に喫茶・ギャラリーを擁する施設に生まれ変わったのだそうだ。
咢堂、尾崎行雄(安政5(1858)年~昭和29(1954)年)は、相州津久井、現在の神奈川県相模原市の生まれ、後の選挙区となる三重県の宇治山田へ越す、明治7(1874)年5月慶應義塾に入学、童子局に入って福沢諭吉に認められ、飛び級して中年寮の最上級に進む。 英語教師で福沢家の家庭教師のカナダ人聖公会宣教師ショーから、洗礼を受けた。 やがて義塾に反抗的態度をとるようになり、9年初め退学。 次いで大学予備門を経て工学寮に学ぶが、これもまもなく退学。 10年「討薩論」を『曙新聞』に投書して文才を認められ、『民間雑誌』の編集、英書の翻訳に従事。 12年9月福沢諭吉の推薦で『新潟新聞』の主筆となる。 この頃処女著作『尚武論』執筆に際し、福沢から「猿に見せる積りで書け」とアドバイスを受けた。 14年大隈重信に招かれ統計院書記官となるが、明治14年の政変で退官。 立憲改進党創立に参加、保安条例により東京から退去を命じられ、アメリカ、イギリスに外遊、23年第1回総選挙に三重県から立候補して当選、以後昭和27年の総選挙まで25回連続して63年間衆議院に議席を占め、その間、第一次護憲運動に活躍、「憲政の神様」と称される。 36年東京市長(東京市電の経営、桜の苗木3千本をワシントンDCに贈る)、大熊内閣の法相。 第一次世界大戦後には国際協調主義の立場から軍縮論を唱え、治安維持法の全廃を主張、反軍国主義、反ファシズムの立場を明確にし、太平洋戦争期、翼賛選挙を批判し告発される。 昭和35(1960)年国会前に尾崎記念館(衆議院憲政記念館)が建てられた。
尾崎三良(天保13(1842)年~大正7(1918)年)は、幕末・明治期の政治家。 三条実美(さねとみ)に仕え、七卿落で大宰府へ行った後、実美の世子公恭に従ってイギリスに留学、帰国後太政官に出仕し、勅選議員、松方内閣の法制局長官などを務めた。 明治29(1896)年、維新と法制の功で、男爵に叙された。
尾崎三良は、ロンドン留学中、英語教師のウィリアム・モリソンの家に同居し、その一人娘のバサイア・キャサリン・モリソンと明治2(1869)年に明治初の国際結婚をし、三女をもうけた(1881年に離婚)が、妻子を置いて帰国した。 離婚同意書に母バサイアが子供の養育に困った際は子供を日本に送ることができるという条項があり、明治3(1870)年生まれの英子テオドラ尾崎が、明治20(1887)年に16歳で来日した。 頌栄女学校のアメリカ人女性宣教師や式部権頭の桜井能監に半年ほど預けられたのち、聖アンデレ教会のショー牧師夫妻(上記、福沢家の家庭教師と同一人物。軽井沢の開拓者)に引き取られ、香蘭女学校の助教師となった。 20歳で父親三良から独立して教師で身を立て、明治24(1891)年に駐日英国公使のヒュー・フレイザーの妻メアリーの個人秘書となり、英国大使館に住み込んだ。 フレイザー公使の急死によりイタリアに転居したメアリーを追って明治28(1895)年に渡欧し、2年間メアリーとともにイタリアに滞在したのち、ロンドンの母のもとに戻った。 ロンドンでの母子の生活は楽でなく、明治31(1898)年に母子宅に下宿していた門野幾之進(後の千代田生命社長)から窮状を聞いた福沢諭吉が同情し、慶應義塾幼稚舎の英語教師の職を紹介し、明治32(1899)年に再来日。 幼稚舎の英語教師と頌栄女学校の英会話講師を務めた後、明治36(1903)年に教師を辞め、巌谷小波のお伽噺をもとに、日本の有名な昔話22編を収録した『Japan Fairy Tales』を出版した。
テオドラは、同姓のために郵便が間違って配達されたのをきっかけにして尾崎行雄と親しくなり、明治38(1905)年に結婚した。 夫婦の間の会話は英語で、洋式の生活をし、品江、雪香の二人の娘が生まれた。 幸せな結婚生活を送っていたが、肉腫を患い、アメリカで手術をしたが、昭和7(1905)年に行雄らと滞在中のロンドンで死去した。
福沢諭吉「日本国の人心は、一方に凝るの弊あり」 ― 2026/01/09 07:15
私は、酒井啓子さんの益田肇『人びとの社会戦争 日本はなぜ戦争への道を歩んだのか』の書評を読んで、福沢諭吉に「日本国の人心は、一方に凝るの弊あり(全集11-184)」という言葉があるのを、思い出した。 明治20年、慶應義塾の学生に対して行った講演「社会の形勢学者の方向第一」にある。
「日本国の人心は、ややもすれば一方に凝るの弊ありというて可ならんか。その好むところにはげしく偏頗(へんぱ)し、そのきらふところにはげしく反対し、熱心の熱度ははなはだ高くして、久しきに堪へず(耐久力がなく)、一向の方向直に直線にして、たちまち中絶し、前後左右に些少の余裕をも許さずして、変通流暢の妙用に乏しきもののごとし。すなはち事の一方に凝り固まりて、心身の全力を用ひ、さらに他を顧みることあたはざるものなり。」 「その凝り固まるの極度に至りては、他の運動(他人の活動)を許さずして、自身もまた自由ならず、内にありては人生居家の辛苦不調和となり、外に現はれては交際の猜疑確執となり、また圧制卑屈となり、社会の不幸これより大なるはなし。」
「ゆゑに今余が諸氏に向かって望むところは、生涯の行路、すべて事物に凝ることなく、何事を執り、何物に熱心するも、常に余力を貯へて、変通流暢の資に供するの一事なり。今月今日本塾にありて学問に従事するも、決してこの学問に凝るなかれ。常に心身を屈強にして、事に堪ゆるの資を作り、その進退敢為(活発)のさまにおいては、外見あるいは奮発の極度と思はるるにもかかはらず、内に実力を余して、心思を百方にはせ、いやしくも判断の明を失ふなかれ。すなはちこれわが同学(同志の学徒)、文明の大主義として忘るべからざるものなり。」
映画『国宝』は、SNSや口コミで皆同じ「横浜流星と吉沢亮が一年半ほどの稽古で、あれをやったのがすごい、実際の歌舞伎を観てみたい」という感想で、爆発的にヒットしていき、昨年末で1209万人を動員、興行収入184.7億円、邦画実写第1位になったそうだ。 その過程で、私は何か「日本国の人心は、一方に凝るの弊あり」という恐れのようなものを感じた。 それで映画は観なかった。 吉田修一の原作は、朝日新聞の連載時に読んでいたのだけれど…。


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