やさしくかくということ[昔、書いた福沢186]2019/12/30 06:21

       再録:やさしくかくということ<小人閑居日記 2003.8.26.>

 <等々力短信 第930号 2003.8.25.>に書いた「漢字仮名交じり文の運命」 だが、そのテーマで<小人閑居日記>に書いていたことを、思い出した。 毎 日書き飛ばしていると、ぜんぶ憶えているわけにはいかなくなる。 それは昨 年12月7日の「やさしくかくということ」で、加藤秀俊さんの中公新書『暮 らしの世相史 かわるもの、かわらないもの』を読んで書いた何回かの一回だ った。 この問題もまさに「かわるもの、かわらないもの」なので、まず、そ の12月7日の日記を再録する。

        やさしくかくということ<小人閑居日記 2002.12.7.>

 加藤秀俊さんの『暮らしの世相史』に「日本語の敗北」という章がある。 「日 本語の敗北」とは何か。 明治以来、日本語の表記について、福沢諭吉『文字 之教』の末は漢字全廃をめざす漢字制限論、大槻文彦の「かなのくわい」、羅馬 字会や田中館愛橘のローマ字運動などがあった。 戦前の昭和10年代前半、 鶴見祐輔、柳田国男、土居光知が、それぞれ別に、日本語はむずかしいとして、 改革案を出した。 当時、日本語が世界、とくにアジア諸社会に「進出」すべ きだという政治的、軍事的思想があった。 しかし、日本語を「世界化」する ための哲学も戦略もなく、具体的な日本語教育の方法も確立されなかった。 な にしろ国内で、「日本語」をどうするのか、表記はどうするのかといった重要な 問題についての言語政策が不在のままでは、「進出」などできた相談ではなかっ た。 日本は戦争に破れ、文化的にも現代「日本語の敗北」を経験した、とい うのである。

 戦後、GHQのローマ字表記案を押し切って制定された当用漢字は、漢字の 数を福沢が『文字之教』でさしあたり必要と推定した「二千か三千」の水準に、 ほぼ一致した。 だが、その後の半世紀の日本語の歴史は、福沢が理想とした さらなる漢字の制限とは、正反対の方向に動いてきている。 それを加速した のが、1980年代にはじまる日本語ワープロ・ソフトの登場で、漢字は「か く」ものでなく、漢字変換で「でてくる」ものになったからだという、加藤さ んの指摘は毎日われわれの経験しているところである。 加藤さんや梅棹忠夫 さんは、福沢の「働く言葉には、なるだけ仮名を用ゆ可し」を実行して、動詞 を「かたかな」表記している。 私などは、見た目のわかりやすさから、そこ まで徹底できないで、「きく」「かく」と書かず「聞く」「書く」と書いている。  それがワープロ以降、次第次第に、「聞く」と「聴く」を区別し、最近では手で は「書けない」字である「訊く」まで使っているのだ。 「慶応」も気取って、 単語登録し「慶應」にしてしまった。 福沢のひ孫弟子くらいのつもりでいた のに、はずかしい。 深く反省したのであった。

      加藤秀俊さんの日本語自由化論<小人閑居日記 2003.8.27.>

 近所の図書館で、井上ひさしさんの『ニホン語日記』(文藝春秋)のすぐそば に、加藤秀俊さん監修、国際交流基金日本語国際センター編の『日本語の開国』 (TBSブリタニカ・2000年←当時加藤さんは同センター所長)があった。  『日本語の開国』のはじめに、加藤さんの「四つの自由化-「日本語新時代」 をむかえて」という文章がある。

 現在、世界で日本語を勉強しているひとびとの数はすくなく見つもっても五 百万人、体験的に日本語を身につけた人口をふくめて推測すると、たぶん一千 万人をこえるひとびとが日本語をはなすようになってきている、という。 少 数の学者や物好きなインテリでなく、一般大衆が世界のあちこちで「日本語」 をつかいはじめた、そうした「日本語新時代」をむかえて、加藤さんはいま「日 本語」の根元的な「自由化」がもとめられているという。

 (1)完全主義からの自由化。 「ただしい日本語」の基準、モデル的な日 本語などありはしないのだから、日本人と外国人のつかう日本語のちがいは「完 全さ」の「程度」のちがいにすぎない。  (2)文学からの自由。 ごくふつうの日常の言語生活を基準にすると、「文 学」は異質の世界のいとなみ。 いま必要とされているのは、簡潔で意味が明 確につたわる「実用日本語」、日本語の「はなしことば」。  (3)漢字からの自由。 ワープロの登場で、漢字がおおくなった。 漢字 の呪縛からみずからを解放することによって、日本語はよりわかりやすく、よ みやすく、そしてかきやすいものになる。  (4)文字からの自由。 「読み書き能力」がなくても日本語はつかえる。  「文字」がわからなくとも「言語」は学習できる。

     加藤秀俊、梅棹忠夫、そして司馬遼太郎<小人閑居日記 2003.8.29.>

 若いとき、加藤秀俊さんや梅棹忠夫さんの本を読んで、おおきな影響を受け た。 一つには、その文章が読みやすかったということがあった。 それが『日 本語の開国』にあるような、日本語の自由化や国際化につながるものであると いうことまでは、気がつかなかった。

 加藤秀俊さんの(梅棹さんもそうだが)かき方(この段落はその方式でかく) 原則は、できるだけ「やまとことば」をつかい、かな表記し、そのなかで「音 読み」するばあいにかぎって漢字をつかう。 漢字の量がへって、文章はあか るい感じになる。

 いただいたばかりの木村聖哉、麻生芳伸往復書簡『冷蔵庫 7』(紅ファクト リー)の麻生さんの手紙に、岡本博さんという方のことを書いたのがあって、 なかに司馬遼太郎さんが岡本さんの本『映像ジャーナリズム』に寄せた序文が 引用されている。 司馬遼太郎さんも、読みやすい文章を書いた。 短文なが ら、岡本博さんという人のことがよくわかり、「雨ニモマケズ」ではないが、そ ういう者になりたいように描かれている。

 「岡本博は、経歴をみるとおそろしいばかりにオトナくさい元肩書がならん でいるが、自分自身を少年の心のままにとどめることにこれほど努力してきた 人はまれだし、そのことにみごとに成功した人である。  かれの感受性と洞察力は、澄みとおってしかも多量な少年のそれそのもので あり、自分の「見てしまったもの」をばらしたり組みあわせたり、あるいはも う一度のぞきこんだりする能力は、いうまでもなくかれのすぐれた知性と教養 である。  岡本博は、群れて歩いている人ではない。独りで歩き、独りで観客席にすわ り、ひとりでデモに加わり、ひとりで公園の水を飲んでいる。ひとりが似合う、 あるいはひとりが風景をなしているという人は、私の友人のなかでもきわめて すくない。                          司馬遼太郎 」

     「漢字をつかわない日本語」の方向<小人閑居日記 2003.8.30.>

 井上ひさしさんの漢字仮名交じり文についての考えと、加藤秀俊さんの日本 語自由化論をならべてみて、あらためてつくづく、ひとつの問題にもいろいろ な見方があることを感じた。 私などは、加藤論にひかれながら、井上論も捨 てがたく、「ゆれ」ているというのが実情である。

 『日本語の開国』の野元菊雄元国立国語研究所長の「日本語改革の思想史」 には、戦争の時代、生産力や軍事力を上げるために、用語の簡素化と発音式仮 名遣が推進されたこと、井上ひさしさんの本にあったように満州事変で新聞紙 面に中国の地名人名が多く出て漢字制限が無意味になった後も、漢字制限の底 流は依然として流れていたことが書かれている。 戦後割に早く、新かな・当 用漢字という今の表記法などが確立したのは、それなりの準備があったからで、 その中心になったのは保科孝一(1872-1955)という人物だったという。

 野村雅昭早稲田大学文学部教授(前に短信676号で『落語の言語学』をと りあげた)は『日本語の開国』の「漢字をつかわない日本語」で、漢字制限と 言文一致という語彙の改良をおしすすめ、正書法が可能なハナシコトバにもと づく語彙体系を確立する必要を説いている。 日本語をかえなければならない のは、わたしたちが近代国家としての言語を自分のものにし、それを世界中の 人々に解放するためである。 いうならば、真の精神の自由を獲得することに ほかならない。 言論の自由の保証は、ハナシコトバにもとづくものでなけれ ばならない。 できることからはじめる必要がある。 できるだけ漢字をつか わないようにという加藤秀俊、梅棹忠夫両氏のこころみなどは、その準備であ る。 漢字をつかわない日本語の時代は、まちがいなくおとずれる、と野村教 授は断言している。

中川眞弥さんの「『文字之教』を読む」[昔、書いた福沢181]2019/12/25 07:02

         『文字之教』を読む<小人閑居日記 2003.6.25.>

 6月の第三金曜日には、毎年「ジャーミネーターの会」がある。 近年は有 楽町の日本外国特派員協会が会場になっている。 高校時代に、日吉の慶應高 校と三田の女子高、それに私の志木高で、新聞を作っていた仲間の会だ。 「ジ ャーミネーター」というのは、発芽試験器だそうで、三校の新聞部が新人研修 のために出していた研究紙の名前だった。 洒落た先輩(生意気な高校生)が いて、名前にしても、そんな新聞を出していたことも、大したことをやってい たものだと思う。

 毎年スピーチがあるが、今年(20日)は幼稚舎の舎長をなさった先輩(9 年上)中川眞弥さんの「『文字之教』を読む-徳富蘇峰の指摘-」という話を聴 いた。 『文字之教』は、福沢諭吉が明治6年に刊行した子供向きの国語教科 書である。 従来の難しい四書五経の素読といった方法でなく、やさしく、漢 字をわずか928種しか使わずに、日常の役に立つ言葉や文章が身につくよう に工夫されたものだ。 『第一文字之教』『第二文字之教』『文字之教附録 手 紙之文』の和綴三冊本、『手紙之文』は草書体の木版刷り、実際に手紙を書くた めの手本になっている。 今日、ほとんど、読んだ人はいないだろう。 中川 眞弥さんの話を聴くうちに、それが、素晴らしいものだということが、徐々に わかってきた。

      蘇峰の挙げた福沢文章の特色<小人閑居日記 2003.6.26.>

 『文字之教』がどんなものか、『第一文字之教』から例を示す。

    第七教

   酒  茶  飯  砂糖

   買フ 喰フ 良キ 悪キ

  酒ヲ飲ム○茶ヲ飲ム○飯ヲ喰フ○子供ハ砂糖ヲ好ム

  ○良キ子供ハ書物ヲ買テ読ミ悪キ男ハ酒ヲ買テ飲ム

    第十五教

   角  尾  毛  髪

   髭  魚  蛇  坊主

  牛ニ角アリ○犬ニ尾アリ○魚ニ毛ナシ○蛇ニ足ナシ○女ニ髭ナシ

  ○女ニモ男ニモ髪アレドモ坊主ニハ髪ナシ

 徳富蘇峰は、明治23年4月『国民之友』80号に、前月(つまり出版から 17年を経て)この『文字之教』を読み、福沢について、世間が認める新日本 の文明開化の経世家としてではない一面、つまり文学者としての福沢の役割、 日本文学が福沢に負うところの多いことを説明するのに、この本が「大なる案 内者」となる、と書いた。 福沢が、すでに明治6年の時点で、平易質実、だ れでも読むことができ、だれでも理解できる「平民的文学」に注意したことを 知るのだ、と。

 蘇峰は、そうした「平民的文学」の先駆者としての福沢の文章の特色として 七つを挙げる。 1.その言葉の使い方に警句(「警策」エピグラム)があって、 一種の気迫がある。 2.身の回りの卑近な例を引くので(「直截」)、誰でも理 解しやすい。 3.他人が考えもしない発想(「非常の事を通常に云う」)。4. 比較が巧みで難しい理屈が納得しやすい(「不釣合」に突飛な対比)。 5.用 語の意味をつまびらかにして、分かりやすい(「死中に活」)。 6.諧謔、頓智、 諷刺、嘲笑、中でも最も多いのは嘲笑。 7.「嘲笑的な特色と相伴ふて離れざ るものは、懐疑的香味是なり。」

 この七つのうち、5までは、人がもし子細に学習すれば、その一片を学ぶこ とができるだろうが、6.7.は福沢に天性のもので、実に旧日本破壊、新日 本建設に際して、人々を目覚めさせるのに一大利器になったという。

幕末横浜と事始め、ヘボン、岸田吟香[昔、書いた福沢180]2019/12/24 06:58

        横浜「中華街」の誕生<小人閑居日記 2003.6.8.>

 きょうは石川潔さんの「新・横浜歴史散歩」の3回目、講義の日で「よこは ま」の歴史を八つのなぜに分けて話を聴く。 1859年7月1日の開港にあ わせて新しく町を造成し「横濱町」が誕生した時、横濱村は消えてしまった、 というのがあまり郷土史家は書いていないという石川さんの見解である。 そ れまでの住民は、みんな移住させられてしまったから、「村」と「町」は不連続 で、名前を取られただけだというのだ。 日本人町の住民はといえば、幕府が 江戸や駿河(静岡)、武州(埼玉)、上州(群馬)、甲州(山梨)の商人を集めて 来た。

 なぜ「中華街」が誕生したか。 港に向って右手の外国人町(居留地)の欧 米商社の使用人として、中国人(当時は清国人)はやってきた。 通訳、買弁、 コック、下僕などとして。 条約を結んでいないのでパスポートがなく、18 78年に清国領事館が出来るまでは、集会所で籍牌という身分証明書を発行し ていた数が明治元年で660人、千人はいただろうといい、外国人の中では一 番数が多かった。 やがて、自分たちの家を持ち始め、それがチャイナ・タウ ン(清国人居留区)となる。 横浜の地図を見るとわかるが、風水の関係で、 この地域だけ東西南北の正方向に道路が走っている。 日本人向け中華料理屋 が出来たのは、案外遅く、明治の末になってからだったという。 私も親達が 言っていたので子供の頃は「南京街(まち)」とおぼえていた。 中国人を「南 京さん」と呼んでいたことによるという。 「中華街」となったのは、昭和3 7年の日中国交回復で善隣門がつくられ、「中華街」の看板が掲げられてからだ そうだ。(神戸はいまも「南京町」)

         横浜ことはじめ<小人閑居日記 2003.6.9.>

 前にペンキ塗りの日本発祥が横浜だと書いたが、横浜開港から文明開化のこ ろにかけて、そのほかにもたくさんのモノやコトが横浜をその発祥の地となっ ている。 パンフレットにまとめられているのをもらったので、その項目だけ を抜き書きしておく。

 <交通・通信>乗合馬車、乗合汽船、電信、電話、人力車、鉄道

 <商工業>クリーニング、洋服屋、理髪店、ビール、せっけん、西洋かわら、 マッチ、自転車製造

<建造物>運上所、町会所、イギリス領事館、ホテル、製鉄所、鉄の橋、公 衆便所、ガス灯、外国為替銀行、水道、大桟橋、生糸検査所、倉庫会社

<文化>横浜天主堂、和英辞典、新聞広告、日刊新聞、女学校、聖書和訳

<飲食物>牛乳屋、パン屋、牛肉屋、西洋野菜、西洋料理

<娯楽>マンガ雑誌、写真屋、競馬、外人劇場

          ヘボンの四大事業<小人閑居日記 2003.6.10.>

 「横浜ことはじめ」のうち、「和英辞典」と「聖書和訳」にかかわったのがヘ ボン、James Curtis Hepburn (1815~1911)だ。 当時は耳で聞いてヘボン とかヘイボンと呼ばれ、本人もそれを使ったが、ヘップバーンが正しい。 女 優のオードリーやキャサリンを、孫などと書く人もいるが、まっ赤な偽り、親 戚ではない。 キャサリンはスコッチ・アイリッシュなので、広くいえば一族 だが、オードリーはフランス系ベルギー人。 医療を通してキリスト教を伝え るための宣教医(医療宣教師)として横浜に来た。 牧師ではない。 最初が、 先月散歩で行った神奈川の成仏寺、それから居留地39番、やがて山手と、3 3年間、横浜に住んだ。 その間、四つの大事業を行なった。

 それは「和英辞典」「聖書和訳」に加え、「施療」と「教育」である。 無料 で医療活動を行なう「施療」に当り、たくさんの患者が押しかけた。 診た患 者の数は、10万人近いといわれ、西洋医療(手術や器具なども)が実地に行 なわれ、それを見られたことが、いろいろな影響を与えた。 入院患者に牛乳 を飲ませ、氷を使ったこと(函館から運び、室に入れておく商売になった)も そうで、医療器具は門下の医者早矢仕有的が仲間と輸入を試み、初めは店に陳 列しておく器具がないので、洋書を並べたのが丸善になる。 「教育」活動は、 1863年主に夫人のクララが担当してヘボン塾を始め、女子のためにつくっ たが、英学志望の男子が押し寄せ、男女共学の英学塾になった。 これがのち に明治学院となる。

 ヘボンは、77歳で隠居し、アメリカに帰るが、浦島太郎状態、96歳で亡 くなる。 日本ではヘボン式ローマ字にその名を残すが、アメリカでは、いま だに無名という。

       ヘボンの『和英語林集成』<小人閑居日記 2003.6.11.>

 ヘボンの「和英辞典」『和英語林集成』は、見出し語をローマ字で掲げ、片カ ナと漢字を並べ、用言には活用を簡単に示し、品詞を記してある。 つぎに語 の意味をやさしい英語で説明して引用例を示し、できるだけ同義語を加えてい る。 だが当時の日本には、これを印刷できる技術も機械もなかった。 ヘボ ンは、元治元(1864)年からその家に寄寓して辞書の編纂を手伝っていた 岸田吟香を連れて、印刷出版のため慶應2(1866)年10月上海へ行く。  二人は米人ウィリアム・ガンブル主宰の印刷所「美華書院」に通いつめ、ガン ブルは吟香が書いた五ミリ角の日本文字(国字…辻・凪・峠・袴・畠など)、片 カナ、平ガナをもとに、木の母型を作り、鉛活字を鋳造した。 印刷が長期に わたることがわかり、ヘボンは索引として英語で引くsecond partを付けるこ とにし、夜を日についでこれに打ち込む。  印刷製本が出来上がったのは慶應 3(1867)年4月だった。 初版1200部。  

 代価は18両と高価だったが、さる遠国大名の意向を受けた武士が三十冊の まとめ買いをしたのがきっかけになって、諸藩が競って買いに来るようになる。  その命運がつきようとする時期であるにもかかわらず、幕府の開成所も200 冊を購入した。

 この辞書については、望月洋子さんの『ヘボンの生涯と日本語』がくわしい。  望月さんは、ヘボンの『和英語林集成』が単なる和英辞書でなく、「本格的な日 本最初の「国語辞書」」であり、「言葉の大切さを教え、扱い方を示し、近代的 辞書の理念を日本人に贈った」、ごく普通に用いられている語彙を採用したので 「「気どりのない」言葉の宝庫となって、江戸時代末期の日本人の語彙を今に伝 える役目を果す」と、指摘している。

           岸田吟香のこと<小人閑居日記 2003.6.12.>

 名前が出てきたので、岸田吟香についてちょっとあたってみた。 なかなか 面白い人物である。 天保4(1833)~明治38(1905)、ほぼ福沢と 同時期の、新聞人、薬業界の功労者。 岡山の生れで、本名は銀次。 江戸の 藤森天山について漢学を学び、安政2(1855)年には三河挙母(ころも) 藩主の侍読に推挙される。 水戸派の藤森天山は幕府に追放され、その過激な 攘夷建白書が弟子の岸田の筆によるものだろうと疑われて、公儀の追及を受け 潜伏する。 吉原や浅草の芸妓屋で箱屋をしたり、湯屋の三助に身をやつした 当時の呼び名「銀公」をもじって吟香と名乗る。

 元治元(1864)年4月、眼疾をこじらせ、衣類も垢じみ、尾羽うち枯ら した風体で、箕作秋坪の紹介状を持ってヘボンを訪れる。 治療に通ううち、 ヘボンが吟香の憎めない人物と深い学識を知って気に入り、吟香もヘボンの人 柄に感じて攘夷をやめ、住み込みで辞書編纂を手伝うようになる。 ヘボンは 「ギンさん、ギンさん」と家族同様に扱い、『和英語林集成』初版の「申ス」の 用例に「名ヲギント申ス」の一行が見られるのを、望月洋子さんは「ほほえま しい」と記している。 前述した同辞書印刷の上海行きの頃、アメリカ帰りの ジョセフ・ヒコ、浜田彦蔵に啓発されて新聞に興味をもち、浜田の『海外新聞』 発行に協力した。 慶應3(1867)年回船商社を設立、汽船を購入して江 戸-横浜間の運送に従事。 68年にはアメリカ人ウェン・リード(バン・リ ード)と共同で『横浜新報もしほ草』を創刊、また独力で『金川日誌』を発行 した。 明治6(73)年『東京日日新聞』に招かれ、主筆として健筆をふる い、同紙の声価を高めた。

 その後、新聞界を離れ、ヘボンに伝授された目薬「精錡水(せいきす い)」を銀座に開業した楽善堂で製造・販売するとともに、上海に支店を開き、 日中貿易の促進や日中友好に奔走、日清貿易研究所、東亜同文会などの創設に 尽力した。 また新聞広告を重視したり、盲唖学校の先駆である訓盲院を設立 (1876)するなど、多角的な業績を残した。 画家の岸田劉生はその四男 である。

水の江戸・水の東京、池田弥三郎さん[昔、書いた福沢169]2019/12/12 06:55

      等々力短信 第925号 2003(平成15)年3月25日

                水の江戸・水の東京

 テレビ50年のNHKアーカイブスから選りすぐった、「思い出の日曜美術 館」の初回(3月17日)は、池田弥三郎さんの「私と広重」だった。 亡く なる前年の、昭和56(1981)年に放送されたものだそうだ。 斜めの雨 が降って、対岸も斜めに霞み、筏がただ一流大川(隅田川)を行く、新大橋に は足早な六人、ゴッホも油絵にした「大はしあたけの夕立」。 弥三郎さんは、 江戸の水、江戸の橋、江戸の雨、どれも広重が発見し、広重が取り上げたこと で、アッそうか、と目を開かれたものだと言う。 斜めの雨については、京都 へ行って、京都の雨がまっすぐに降ることに気がついた。 関東、関東平野に は、風があるのだ、と言う。 「永代橋佃しま」は夜景、弥三郎さんのひいお じいさんが永代橋を渡って、川向こうの悪所、賭場へ通っていた。 すってん てんになって、もうこんなことは止そうと改心し、永代橋の上からサイコロを 大川へ捨てて、てんぷら屋を始めたというのが、銀座天金創業の伝説なのだそ うである。

 広重『名所江戸百景』(平成3年、東海銀行国際財団刊行本が便利)を、あら ためて見てみると、江戸の町には水景が実に多い。 それどころか、水のない 絵は、ほんの数えるほどしかないのである。 家康が秀吉の悪知恵で関東六か 国の領主にされ、ひなびた一漁村だった江戸に入った天正18(1590)年、 まず手をつけたのが小名木川の開削だった。 現在の江東区の中央を東西一文 字に貫いて隅田川と旧中川を結ぶこの運河は、行徳の塩を江戸城に運ぶために 開かれ、東北・関東各地と江戸を結ぶ動脈になっていく。 神田山(駿河台の 続きが、今の岩本町の方まであった)を切り崩して、新たに神田川を掘り、そ の土で江戸城前面の日比谷入江を埋め立て、浜町以南、南新橋までの土地を造 成した。 漱石の『硝子戸の中』、幕末から明治の初年、裕福な名主であった夏 目家の姉達が、真夜中に牛込の揚場から、あつらえて置いた屋根船に乗り、神 田川をお茶の水から柳橋へ下り、大川に出て遡り、浅草猿若町の芝居見物に行 く。 同じ道を船で帰ると、家に着くのは十二時頃、つまり夜半から夜半まで かかったという。

 弥三郎さんの話に出た永井荷風の「日和下駄」(岩波文庫『荷風随筆集』上) と、幸田露伴の「水の東京」(岩波文庫『一国の首都』)を読む。 空襲の時、 先日ボラが湧いたドブ川立会川で命を拾い、花火見物の船が渋滞で神田川を出 られず、江戸川で父とハゼ釣や投網をしたことなど、自分史「水の東京」の断 片が浮んで消えた。

         顰(ひそみ)に倣(なら)う<小人閑居日記 2003.3.29.>

 「水の江戸・水の東京」<等々力短信 第925号>に、池田弥三郎さんのご 長男光(ひかる)さんから葉書をいただいた。 光さんは、短信の読者である。  私が高校3年生の時、大阪で開催された福沢諭吉生誕125年の記念会に、志 木の高校から遣ってもらった時、光さんが幼稚舎の代表(6年生)で来ていた というご縁だ。 お名前は、折口信夫さんの命名と聞いた。

 短信をコピーしてお母様と、二人の弟さんにも渡して下さったそうで、番組 への反響は非常に大きく、お母様は毎日電話の応対に忙しい由。 光さんも、 ひさしぶりにお父上の著書『広重の東京』を取り出して、絵など眺めたりして いるとのことだった。 ひいおじいさんの銀座天金創業の伝説は、光さんも直 接お父上から聞いていて、弥三郎さんご本人も「その顰にならったのでしょう。  簿記の本などを数寄屋橋から投げ捨てて、経済学部から国文科に転向したのだ そうです」と、あった。

 さっそく辞書を引いて「顰(ひそみ)に倣(なら)う」を復習したのも、国 文科池田弥三郎教授のご縁ということになる。

『福澤諭吉書簡集』編集の苦楽談・数学で和歌俳句をつくる[昔、書いた福沢167]2019/12/10 07:08

     『福澤諭吉書簡集』編集の苦楽談<小人閑居日記 2003.3.16.>

 15日、福沢諭吉協会の総会と土曜セミナーが日本橋室町の三井本館であっ た。 セミナーの講師は慶應義塾大学文学部教授で福沢研究センター所長の坂 井達朗さん、「『福澤諭吉書簡集』の編集を終えて」という話であった。 2年 半の準備期間を経て、福沢諭吉没後100年を記念して2001年1月23日 に刊行が開始され、その第一巻が同年2月3日の墓前祭に捧げられたこの新書 簡集は、さらに2年をかけて当初予定の七冊よりも多い全九巻で、今年1月2 8日完結した。 『福澤諭吉全集』刊行以後、新たに発見された480通を加 えて、収録総数は2564通になった。 編集委員は飯田泰三、川崎勝、小室 正紀、坂井達朗、寺崎修、西川俊作、西沢直子、松崎欣一の8氏で、委員会は 多くの苦悩と試行錯誤の中、4年半にわたって毎月1回ずつ、4回の合宿を含 めて50回以上の会合を重ねてきたという。 その過程を時折、外野から、垣 間見る機会のあった者として、そのご苦労を多としたい。

 編集の基本方針として、矛盾する二つの方向を追った。 一つは、福沢研究 の、そして近代日本研究の、基本史料集として研究者の使用に耐えるものを編 集すること。 もう一つは、一般の読者のために出来るだけ読みやすくするこ とだった。 原本の持つ雰囲気を出来るだけ再現することが試みられ、たとえ ば福沢がカタカナをある種の思いを入れて使っているので、カタカナや主な変 体仮名をそのまま残した。 それぞれの書簡に要約をつけ、直後注を充実した ほか、最新の福沢研究の成果を取り入れて、巻末に【ひと】【こと】という補注 をつけ、各巻に時代背景などの丁寧な解題を載せた。

 個人的なことをいえば、この新書簡集に新発見の一通の手紙(第四巻九九二 番大谷光尊宛)を加えるお手伝いが出来たのが嬉しかった。(「等々力短信」7 55号~『五の日の手紙4』152頁~)(奥沢の福沢〔昔、書いた福沢74〕<小人閑居日記 2019.7.15.>)

       数学で和歌・俳句をつくる<小人閑居日記 2003.3.17.>

 坂井達朗さんは「『福澤諭吉書簡集』の編集を終えて」の「書簡集を刊行する 意味」という所で、新発見の書簡から面白い事がわかってきた話をした。 『書 簡集』第九巻所収、安永義章宛の明治16年12月26日付二五一八番書簡は、 安永が提案した和歌に関する時事新報社説を執筆中であり、年が明けてから掲 載する予定であるというもので、明治17年1月7日付二五一九番書簡は、そ の社説原稿のチェックのための来訪を求めている。 安永義章は、安政2(1 855)年佐賀生れ、明治13年工科大学卒業、工部省に入り、大阪製鉄所技 師を経て陸軍省から欧米留学、帰国後大阪高等工業学校長などを務め、土曜セ ミナーにご出席の曾孫によればダイハツの創立者の一人だそうだ。

 問題の時事新報社説は「数学ヲ以テ和歌ヲ製造ス可シ」(明治17年1月1 1・12日)で、31文字の和歌の総数は数学の(今日の)順列組合せの考え 方で、いろは47文字の31乗、 6,839,645,551,362,303,414,388,150,265,489,536,773,690,760,229,559,503首 (52桁の数字)になる。 だから47枚の歯を持つ歯車を31個組み合せれ ば、和歌を製造する器械を造ることも可能で、製造可能なあらゆる和歌に一連 番号を付けることも簡単にできる。 俳句・川柳や都々逸(どどいつ)の総数 も計算してあって、それぞれ 47の17乗で29桁の数、47の27乗で46桁の数になる。 俳句の「い いい…」17字重なりを1番とする一連番号でいうと、芭蕉の「ふるいけやか はつとひこむみつのをと」は、17,697,009,146,269,768,286,022,336,542番の 俳句になる。「詩人歌人ヲシテ苦吟ノ労ヲ省キ其精神ヲ他事ニ用ルノ閑ヲ得セシ ムル」「文明ノ学術益洪大ナルヲ知ル可キナリ」というのである。

      時事新報社説の思わぬ影響?<小人閑居日記 2003.3.18.>

 坂井達朗さんは、福沢がこの安永義章の議論を時事新報社説に取り上げたの は、和歌などの創作といった神秘的なものと考えられていたものにも、数学の ような合理的精神が適用できるといった趣旨なのだろうが、その社説が福沢の 予期しなかった影響を及ぼしたふしがあるという。 当時の歌壇の状況はとい えば、香川景樹の流れを汲む桂園(けいえん)派と賀茂真淵を祖とする国学派 の二派があり、宮中御歌所を占める桂園派が有力だったが、それは古今集を宗 とするもので、沈滞していた。 これに対して、新体詩の運動が起こり、明治 20年代以降、和歌・俳句の革新運動が起こることになる。

 正岡子規の『獺祭書屋俳話』(明治28年)「俳句の前途」という文章に、数 学者が「日本の和歌俳句の如きは一首の字音僅に二三十に過ぎざれば之を錯列 法(パーミテーションとふりがな、順列コンビネーションの誤り、子規は数学 が苦手だったそうだ)に由て算するも其数に限りあるを知るべきなり」といっ ており「和歌は明治已前に於て略ぼ盡きたらんかと思惟するなり」と書いてい る。 子規の後輩で後に大蔵大臣などを務めた勝田主計(かずえ)は「子規を 憶う」という回想の中に、明治20年前後の学生時代、子規が暑中休暇で帰省 し、俳句談をやっていたが、当時は序次配合と訳していたコンビネーション、 パーミテーションの何たるかを無論心得ていた子規が、「序次配合の理屈から俳 句の数は自ら一定したもので、古今暗合の多いのは当然であるなどと論じ立て、 月並の発句詠みなどを煙に巻いたものであった」と語っているという。 坂井 さんは、時事新報に「数学ヲ以テ和歌ヲ製造ス可シ」社説が出た明治17年1 月11・12日というと、正岡子規は明治16年6月に上京して予備校にいた 時期なので、それを読んでいた可能性は十分あるというのだ。