テレビやぶにらみ2023/06/01 07:01

 テレビを見ていて、あれあれと思うことが、ときどきある。 出演者が「見れる」「食べれる」としゃべったのを、テロップでは「見られる」「食べられる」と表示する。 おそらく、ご本人から失礼だという、文句の来る心配はないのだろうが…。

 5月初めの能登半島の地震、某ニュースショーで女性のコメンテーターが、「倒壊したのは日本「かや」」と、二度言った。 「日本家屋」のことだと気づく。 スタジオでは、誰も指摘しなかった。 凍り付いたように見えた。 読み違い、覚え違いということはある。 私も子供の頃、新聞に日本共産党の伊藤律の「手記」というのが出て、問題になった。 「てき」と読んで、少し大きくなるまで、てっきり「てき」だと、思っていた。

 岸田文雄総理大臣が29日夕、ぶらさがりの記者団に、政務担当の秘書官を務める翔太郎氏を交代させると語った。 「公的立場にある政務秘書官として不適切で、けじめをつけるため」と、「G7広島サミットが終わって、地元広島との折衝が「ひとだんらく」したため」と、理由を述べた。 「ひとだんらく」は、「いちだんらく」(一段落)が正しい。 もともと、芝居の一段から来ていると聞いたことがある。 『大辞泉』は「いちだんらく(一段落)の誤読」、『明鏡』は「誤用」「△ひとだんらく○いちだんらく(一段落)」、「「ひと段落」も増えているが、「いち段落」が本来。」としている。

 日米首脳会談で総理の隣りや、ゼレンスキー大統領の出迎えなど、最近活躍が目立つ木原誠二官房副長官、28日の大相撲夏場所千秋楽で、優勝した照ノ富士に内閣総理大臣賞を授与した。 土俵に西から上がって、裏正面に回ってから、正面を向いた人は初めて見て、礼儀正しいと思ったのだが…、表彰状を代読して、「内閣総理大臣杯にその名を「刻し」」のところで、ちょっとつまって「きざし」とやった。 私のような閑人と違って、毎場所、千秋楽の表彰式など見ていないのだろう。 天皇杯の授与に日本相撲協会八角信芳理事長(元保志・北勝海)は「天皇賜杯にその名を「こくし」」と読む。 そういえば、北勝海を「ほくとうみ」とは、強引で難読だ。

松居直さんの『私のことば体験』2023/03/26 07:50

 銀座に行ったついでに、教文館9階のナルニア国で、「松居直の遺した『ことば』展」を見てきた。 福音館書店の編集者として多くの絵本作家を世に出し、昨年11月2日に亡くなった松居直(ただし)さんの残した印象的な言葉を集めたパネルや写真が展示されていた。 例えば「革命というのは物をつくるのが一番いいんです。理屈だけでは革命はおきません。」という言葉などだ。

 松居直さんのことをよく知らず、その言葉をきちんと見てみたいと思って、著書の『私のことば体験』(2022年9月10日発行・福音館書店)を会場で求めてきた。 月刊誌『母の友』2009年4月号~2011年3月号の連載をまとめたものだという。 安野光雅さんの装画がたくさんあり(表紙も)、松居直さんの言葉である見出しが色刷りになっているのも独特で、美しい本だった。

 松居直さんは、1926(大正15)年の京都に、近江商人の家系で呉服を商う家の6人姉兄弟の5番目として生まれた。 一番上が女で、あと5人は男、二つぐらいから寝る時に母が絵本を読んでくれ、「読んだのではなく聞いた――それが、私のことばへの感覚を開いてくれました」。 『コドモノクニ』は当時の童謡の最新作が発表される場で、北原白秋や西條八十、野口雨情の詩、もちろん意味がわかっているのではなく、ことばそのものを活字ではなく音声で受け止める、声のことばが大切だというのが、体験からの実感だという。 三つぐらいの時、「女中さんに手をひかれて賀茂川へよく遊びに行ったのを覚えています」。

 とても熱心な浄土真宗の家庭で、毎晩父か母が立派な仏壇の前で小一時間お経を唱える。 家にいれば必ずその間、親の後ろにちゃんと座っていなければならないのだけれど、それがいやじゃなかった。 「それはつまり、祈りの姿だったんです。本当に祈っているという姿です。」 最後に蓮如上人の「御文(おふみ)」という書簡集を朗読するのだが、これが名文で、母の朗読を聞いて、日本語の語りの美しさを感じた、とくによく心に入ってきたのが、中学生の頃だという。

 ここを読んで、すぐ私が思い出したのは福沢諭吉、「福澤全集緒言」(全集第1巻7頁)に、中津で実兄が朋友と文章のことを論じて「蓮如上人の御文章(おふみさま)に限る」と言っていたのを、後年江戸で洋書翻訳の折に思い出し、「御文章」の合本一冊を買い求めて読むと、いかにも平易な仮名交りの文章で読みやすい、これは面白いと幾度も通覧熟読して一時は暗記したものもあり、これによって仏法の信心発起は疑わしいけれど、仮名文章の風を学ぶことができたのは、蓮如上人の功徳なるべし、とある。 これが広く読まれることになった、福沢の平易達意の文章の、一つの基になっているのだ。

私が「馬場文耕」の名を知っていたのは…2022/10/11 07:02

 『広辞苑』が満三十五歳になった1990(平成2)年、岩波書店の『図書』が一月号から、各分野で活躍している方々の「『広辞苑』と私」というコラムを連載した。 八月号は劇作家の木下順二さんで、「遊び」の本として『広辞苑』を楽しむ、と書いていた。 馬に感心を持っている木下さんは、馬についての見出し語を、ぶうぶういうセクレタリに手伝ってもらいながら、総点検したのだそうだ。 たとえば「下馬」を含む見出し語だけでも、「下馬売」「下馬将軍」「下馬雀」「下馬牌」「下馬評」などがあり、それら馬用語の解説と関連項目の解説などを読み合わせてみていると、「室町から江戸期へかけての社寺や貴人の門前で主人とそのお供がつくりだす光景や、正月初乗(はつのり)からその他武家の乗馬万端の光景を、ちょっと気取っていえば、髣髴と浮び上らせてくれるようなのである」という。 武家の正月乗初(のりぞめ)では、「馬場始(はじめ)」などという、個人的に興味をひかれる項目があるのを知った。

 そこで私は、さっそく『広辞苑』で「馬場」を引いたのだった。 出るは出るは、「馬場――退(の)け」「馬場金埒(きんらち)」「馬場孤蝶」「馬場先」「馬場先門」「馬場佐十郎」「馬場三郎兵衛」「馬場末」「馬場辰猪」「馬場恒吾」「馬場殿」「馬場の舎(や)」「馬場乗」「馬場文耕」「馬場見せ」「馬場本(もと)」と出た。

 <等々力短信 第547号 1990.10.25.>に「それぞれの『広辞苑』」を書き、「これらの解説を読んで、『広辞苑』の関連項目を、あちこちひっくりかえしているだけでも、秋の夜長を楽しめそうだ。 『広辞苑』の、ふところは、まことに深い。」としていた。

 「馬場文耕」は、この時、その名を覚えたのだが、残念ながら、この日本にただひとりだけ、その芸によって死刑(獄門)に処せられた芸人だというところまでは、調べなかった。

『ちむどんどん』、反省会じゃない弁2022/10/02 06:59

 朝ドラの『ちむどんどん』(羽原大介脚本)が、9月30日で大団円となった。 SNSに「ちむどんどん反省会」というのがあるとかで、途中、まことに評判が悪かった。 批判が多いらしいという情報が、一人歩きして、見ている人も、見ていない人も、これは駄目だと思い込んでしまったのではないか。 私は、ずっと見ていたのだが、なかなか良かったように思う。

 ヒロインの比嘉暢子(のぶこの字が珍しいが、暢気の暢だった)の黒島結菜、きりっとした顔立ちは2015年の大河ドラマ『花燃ゆ』で高杉晋作の妻を演じた時から、印象に残っていた。

 何といっても、母親の優子(優の字は人偏に憂だが、「憂」は憂える(もともと、頁の下に心という字)意でなく、「大きなかしらをつけて足踏みする意味。面をつけて舞う人、わざおぎ(俳優。役者。また、楽人)の意味を表す」という)の仲間由紀恵の優しいのがよかった。 終盤近く、素敵な着物で沖縄の舞を舞ったのが素晴らしかった。 やわらかい表情も、ことばも優しい。 仲間由紀恵に「大丈夫」と言われると、大丈夫のような気がするのだった。 磯田道史さんの本を下敷きにした映画『武士の家計簿』で、加賀藩の堺雅人の御算用者(算盤ざむらい)の妻を演じた時も、夫と家を支える優しさが光った。 ドラマが不評の時期、キャストやスタッフは、仲間由紀恵の「大丈夫」に救われたのではないだろうか。

 優しいといえば、山原(やんばる)の共同売店の山路和弘をやった前田善一と、猪野養豚場の猪野寛大をやった中原丈雄の、二人も挙げなくてはならない。 彼らが時折見せる笑顔が素敵で、安心させられるのだった。 猪野寛大の「寛大」さには、娘の清恵(佐津川愛美)も、失敗ばかりしていたが、養豚場に収まるニーニーの賢秀(竜星涼)も、救われたのであった。 ニーニーが額に卷く「一番星のスーパーバンド」だが、昔の少年雑誌の通信販売広告、スポンジらしい四角四角状の健脳器「エジソンバンド」の絵を思い出した。

 最終回あたりで、ヤンバルクイナの映像や音が流れた。 沖縄の言葉や食べ物の名前には、少しなじめないところがあった。 「ちむどんどんする」は、胸がわくわくする気持だという。 「真(まくとぅ)そーけー、なんくるないさ」とは、人として正しい行いをしていれば、自然と(あるべきように)なるものだ。 ちゃんと挫けずに正しい道を歩むべく努力すれば、いつかきっと報われる良い日がやってくるよ、ということだそうだ。 朝ドラ『ちむどんどん』のキャストとスタッフに、「なんくるないさ」と言いたい。

Pruyn駐日米公使とSeward国務長官の氏名表記2022/06/28 06:58

 小室正紀さんの「『時事新報』経済論を読む」講座、一旦お休みして、『福沢手帖』第193号が届いて、巻頭に大島正太郎さんの「慶応三年遣米使節団の交渉相手Pruyn公使とSeward国務長官の氏名表記について」という論文が出たので、それに触れておく。

 ハリスの後の駐日公使Pruynが、一般に「プリュイン」とか「プリューイン」とか表記されるけれど、『福翁自伝』「再度米国行」で福沢が書いているように「プライン」が正しい。 慶応三年遣米使節団がアメリカで会った国務長官Sewardは、「シューワード」、「スーワード」等と表記され、福沢も「シーワルト」と表記しているけれど、「スワード」が正しいと、大島正太郎さんはいうのである。

 2021年12月4日、福澤諭吉協会の土曜セミナーで、大島正太郎さんの「日米関係事始め~1850年代、60年代の両国関係~」という話を聴き、衝撃を受けた。 大島さんは、元外交官で日本国際問題研究所客員研究員。 私は、日本開国に向けた外交を主導しペリーを日本に派遣した大統領、フィルモアの名前を知らなかった。 また小野友五郎がアメリカと三隻の軍艦購入交渉をし、ハリスの後の駐日公使プラインに80万ドルを渡してあったのに、一隻しか来ていなかったことについての交渉が、使節団の遣米目的だったのだ。

 それで、この日記に下記を書いていた。 そこでは、大島さんのお話通りに、「プライン」公使、「スワード」国務長官と書いていたので、安心した。

ペリーを日本に派遣した大統領<小人閑居日記 2021.12.9.>
慶応3(1867)年、軍艦受取委員の実相<小人閑居日記 2021.12.10.>
南北対立、フィルモアの「1850年の妥協」で安定、日本開国を追及へ<小人閑居日記 2021.12.11.>
日本開国、フィルモア大統領とペリー<小人閑居日記 2021.12.12.>
日米ともに、近代化の「生みの苦しみ」<小人閑居日記 2021.12.13.>