【雑学】【私家版】【怒髪】2020/08/28 07:00

『現代語裏辞典』、試みに二、三、やってみていただくと、わかるのだが、そう簡単に浮ぶものではない。 なかなか大変だ。 大体三十の「お助け」項目が出題され、半日か一日の間に、それも先に書き込まれると使えないので、急がなければならない。 脳内在庫勝負のようなところもあれば、一発芸のようなところもある。 一時はまったく浮ばなくなって、しばらく書き込めなかった時期もあった。 結局、「文は人なり」で、自分の器だけの範囲にしか届かない。 自分自身を笑えるか、知の臭いがするかが、ユーモアのポイントだろう。 幸運にもたくさん採用されたのには、趣味の落語など雑学のおかげや、筒井さんに年齢が近いという利点もあったように思う。

グリコ【Glico】おまけについてくる不要の飴。
ごほう【午砲】静かならざるドン。
ざつがく【雑学】馬鹿な辞典を作る以外は役に立たない。
しかばん【私家版】出版社に断わられ、身銭を切って出す本。
しかんがっこう【士官学校】帽子を上手に放り投げる訓練をする学校。
そうせいじ【双生児】兄はウインナー、弟はボローニャ。
そんごくう【孫悟空】呉承恩がエノケンのために作ったキャラクター。
ちょうわ【調和】この国民にこの政府。
ちょくげき【直撃】キャッチャーが泣き、ベンチとスタンドが笑うもの。
でんきゅう【電球】三遊亭歌笑「球の切れたのは、停電用にお使いください」
どはつ【怒髪】ある種の人々には絶対に不可能な怒りの表現方法。
ヌーボーロマン【nouveau roman】与太郎が主人公の、つかみどころのない小説。
ぬけめ【抜け目】洗って干してある義眼。
ハイ・ソサエティ【high society】サッチモから見たグレース・ケリー。
パワー【power】名は、タイロン。
もんだいじ【問題児】歳とると問題爺。

筒井康隆さんの『現代語裏辞典』にアイディア2020/08/27 07:10

 「きんきゅう【緊急】-処置、-事態、-逮捕、-避難のように用いられるが、たいていはうろたえていて大事や失敗に終る。 筒井康隆」。 22日の朝日新聞朝刊、この鷲田清一さんの『折々のことば』1912は、筒井康隆さんの『現代語裏辞典』(文藝春秋)の一項目だ。 鷲田さんは、「「募集」には「まず詐欺を疑うべし」とあるが、「募っているが募集はしていない」という趣旨の発言をした人は、この項にあらかじめ目を通していたのかも。「適材適所」には「気に食わない奴が左遷された時の憎まれ口」とある。この辞典、10年前に公刊されている。鋭い風刺は時代を跨ぎ越す。」と続ける。

 この辞典、巻末の筒井康隆さんの「謝辞」にこうある。 「本辞典では朝日ネットにおける小生の会議室に集う諸兄姉から着想を募り、著作に貢献していただいた。筆頭の藤本裕之氏などは約三百項目に及ぶアイディアの提供者である(二番目の北野勇作氏が約二百三十項目)。」 総勢四十二人、総数約二千二百項目(辞典全体は一万二千項目)というアイディア提供者が列挙されているが、その六番目に「馬場紘二(轟亭)」の名がある。  書店で売られている本に、名前が出るようなことは、めったにあることではない。 まことに光栄なことであった。

 筒井康隆さんが『現代語裏辞典』の「か」の章を執筆中、いくつかの項目に苦戦して、応援の書き込み=「お助け」を募集し始めたのは、2002年6月のことであった。 ちょうど会社の清算も無事結了し、閑居生活に入ったところだったので、暇にあかせて参加させてもらった。 最初にご採用いただいたのが「カウチポテト」。 私の案は「河内生まれのイモ姐ちゃん。」、筒井さんの辞典では「河内の人間に対する悪口。「河内のイモ」の意。」となっている。 以来8年、ずいぶん楽しませていただいた。 『現代語裏辞典』は筒井康隆さんが8年の歳月をかけた金字塔だが、私にとっても閑居8年の成果の一つである。 以下は、私の案を使っていただいたものの、一部である。 シモネタや、ブラックなものがあるのは、偏に筒井さんの作風に合わせたためである(笑)。

げすいどう【下水道】糞尿をあつめて早し下水道。
ゴーギャン【Gauguin】ゴッホ曰く。「傲岸な奴だった」
さんしろう【三四郎】「あなたはよっぽど度胸がない方ね」と言われて発奮、柔道で名を成した男。
しかくしめん【四角四面】きっかり30分計って食後の薬を飲むやつ。
せいかんたい【性感帯】市民ふれあい広場ではふれあいが禁止されている。
ソムリエ【sommelier】ワインを飲ませて飯を食っている人。
タイマー【timer】電気椅子にもある。「チン」と鳴って生きていれば釈放。
だつじ【脱字】チンコ屋。
だんねつざい【断熱材】「明日BEST」といわれたのに……。
ちゅうさんかいきゅう【中産階級】中程度にしかお産しない階級。少子化の原因。
ちゅうせん【抽選】発送をもって抽選に代えます。
ちょくりつふどう【直立不動】温泉の風呂場で、ばったり天皇陛下にお会いした時。
ついし【墜死】ペタジーニ。
てきせつ【適切】大統領夫婦間の性交。
ぬえ【鵺】「日本夜鳥の会」会長。
はいしゃく【拝借】運動会のゲームに「パンティ」という紙を混ぜておくと……。
はいしょく【敗色】甲子園から阪神ファンが帰りはじめること。
ばっぽんてき【抜本的】虫歯もそうでない歯も全部抜いて、総入歯にする治療。

「グラスゴウ大学日本語試験委員・夏目漱石」2020/08/13 07:10

 加藤詔士先生の「グラスゴウ大学日本語試験委員・夏目漱石」(上)(中)(下)を読んでみよう。 スコットランドのグラスゴウ大学は、1451年創立、英国で四番目に古い伝統がある大学で、日本語を資格試験の選択科目に認めるという歴史をもち、しかもその最初の試験委員が夏目金之助(漱石)であった。 漱石が英国に留学中の明治34(1901)年のことだった。 短期の留学でなく、本科生として学位を取得しようとすれば、卒業までに資格試験の全科目に合格しなければならないという学則があった。 全科目とは、(1)英語、(2)ラテン語またはギリシャ語、(3)数学、(4)現代語の一つ(フランス語、ドイツ語、イタリア語、力学)だった。

 グラスゴウ大学に留学した福沢三八が問題にしたのは第4科目で、フランス人、ドイツ人、イタリア人なら母国語を選択できるのに、日本人留学生は不利だから、日本語試験の実施という条件緩和を求めたのだ。 福沢の発案が具体化するにあたっては、ヘンリー・ダイアーの支援を得ることができた。 日本でエンジニア教育の組織化と実学人材の育成に貢献して帰国したダイアーは当時、グラスゴウ・西部スコットランド技術カレッジの理事やグラスゴウ市教育委員などの要職のかたわら、日本とスコットランドの交流と親睦を推進するために活躍していた。 ダイアーの働きかけに資格試験の合同試験委員会は、日本語、中国語の選択を承認し、そのダイアー宛の書簡を、福沢が大学理事会に提出し、1901年2月7日の教授会で報告され、日本語の選択が承認されている。(その4日前、1901年2月3日、東京三田で三八の父、福沢諭吉が亡くなっている。)

 大学当局は資格試験の第4科目として日本語の承認はしたものの、試験委員を誰にするのか、選任から確保まで、かなり難航した。 グラスゴウ在住の日本通に打診して、試験委員を委嘱されたのは在ロンドン領事館の一等領事、荒川巳次だったが、辞退して、夏目漱石を推薦してきたので、大学理事会および教授会は任命することにした。 理事会議事録には「東京大学教授で現在英国を旅行中の夏目教授」とあるが、この頃、漱石は第五高等学校教授で、英語研究のため留学中だった。

 漱石は、在ロンドン領事館の諸井六郎領事館補が来て依頼を受け、二日後に決定の電報がきたので、問題を作って領事館に送った。 手当は4ポンド4シリング、ロンドン留学中唯一の臨時収入で、当時1ポンドは約10円、漱石の留学費は1カ月150円だったという。

 漱石は春季と秋季の2回、試験問題を作成しているが、それが具体的にどんなものだったかは、残念ながら、不明である。 漱石が出題した日本語の試験を実際に受け、合格した日本人は4名いる。 1901年4月の春季試験の福沢三八、鹿島龍蔵(鹿島建設創業者一族)、佐藤恒二、同年10月の秋季試験の岩根友愛(後の大阪高等工業学校教授)である。 この両試験で、福沢と鹿島は、日本語のほかに英語、上級数学、力学に、岩根は中級数学と力学にそれぞれ合格している。 佐藤は日本語のみに合格。

 グラスゴウ大学では、これ以後も、日本語の受験希望者が現れるたびに試験委員が任命されている。 その後も長く存続し、『グラスゴウ大学要覧』の1970年版まで関連の規定があるそうだ。

福沢三八、グラスゴー大学で夏目漱石の問題を受験2020/08/12 06:59

 ヘンリー・ダイアーがエンジニアをめざしてグラスゴー大学にやって来た日本人留学生を支援した話だが、それにヘンリー・ダイアーが関係したとは知らずに、以前、私も書いたことがあった。 『福澤手帖』132号(2007年3月)に「スコットランドにW・K・バルトンの記念碑建つ―百七年目の帰郷」に、日本人留学生が最も多かったのもスコットランドかもしれないとし、福沢の三男、三八はグラスゴー大学に留学したのだが、入学試験の第二外国語に日本語を希望し、大学の依頼でロンドン留学中の夏目漱石が試験を担当している(このことについては『福澤手帖』28号、北政已さんの「グラスゴウ大学と福沢三八―日蘇交流の一視点―」に詳しい)と、書いていた。

 加藤詔士先生も「ヘンリー・ダイアー エンジニア教育の創出」で当然、この件に触れている。 ただし、「入学試験」でなく、卒業に必要な「資格試験」なのだそうだ。 「1901(明治34)年に新入生の福澤三八が卒業に必要な資格試験の中の外国語選択科目に日本語も認定してほしいと大学に願い出たとき、ダイアーは同試験を管理・監督する委員会に働きかけた。これが功を奏したことで、日本人留学生は大いに便宜が図られることになった。興味深いことに、初代の日本語試験委員は夏目漱石であって、ロンドンに留学していた秋期と春期の二度出題した。それを受験し合格した留学生は、福澤三八、鹿島龍蔵、佐藤恒二、岩根友愛の四氏である。」

 実は以前、加藤詔士先生から『漱石と「學鐙」』(小山慶太編著・丸善出版・2017年)を頂戴していた。 丸善の明治30年創刊の広報誌「學鐙」創刊120年、夏目漱石生誕150年の記念出版で、「學鐙」に載った漱石自身の原稿と漱石関連の記事25本を収録した本だ。 その中に、加藤詔士先生の「グラスゴウ大学日本語試験委員・夏目漱石」(上)(中)(下)の3本が収録されていた。 「學鐙」1992年3月号~5月号の掲載、当時の肩書は神戸商科大学教授だった。

『広辞苑』で「――ぶね」を逆引き検索・「あ」2020/05/14 07:08

 「湯治舟」をいろいろに探した余談である。 実は『広辞苑』には、「湯治舟 (船)」がなかった。 『広辞苑』に、ゆぶね【湯船・湯槽】はあって、「(1) 入浴用の湯をたたえておくおけ。浴槽。(2)江戸時代、内部に浴室を設け、港 湾の船や川筋に漕ぎよせ、料金を取って入浴させた小船。」だった。 さらに「湯 治舟(船)」が、どこかにないかと、電子辞書『広辞苑』の逆引き検索機能を使 って、「――ぶね」で検索してみた。 何と305見出しもヒットしたのである。  これが、知らない言葉ばかりで、まことに面白い。 島国日本の文化、経済、 政治における「船」の存在の大きさを思い知る。 「あ」だけから拾っても、 こんなのが出て来た。

 あくしょぶね【悪所船】遊里に通う船。

 あさづまぶね【朝妻船】(1)琵琶湖東岸の朝妻と大津を結ぶ渡船。古代から 近世初めまで東国から京坂への旅客が利用した。遊女が乗って旅人を慰めたも のもあった。(2)英(はなぶさ)一蝶が描いた絵。烏帽子・水干姿の白拍子が 小舟に乗り、鼓を前にした姿を描いたもの。将軍徳川綱吉の所業を諷したもの として一蝶が罪せられたことから名高くなり、この趣向を取り入れた歌舞伎の 所作事が作られた。(3)(浅妻船)歌舞伎舞踊。長唄。本名題「浪枕月浅妻」。 七変化の「月雪花名残文台(つきゆきはななごりのぶんだい)」の一部。2世桜 田治助作詞。2世杵屋佐吉作曲。3世藤間勘兵衛ほか振付け。1820年(文政3) 初演。

 あたけぶね【安宅船】(敵を恐れず荒れ回る兵船の意)室町末期から江戸初期 にかけて用いた、重装甲・重武装の伊勢船・二形(ふたなり)船。水軍の主力 艦とした。大船。安宅。

 あまのいわくすぶね【天の磐櫲樟船】…イハ… 楠(くす)で造った堅固な船。 日本書紀で伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)の2神が子の蛭子(ひる こ)をのせて流したという。

 あまぶね【尼船】尼崎・大坂間にあった運送船。尼崎船。

 あやぶね【紋船・綾船】戦国時代、琉球国から薩摩の島津氏に世子嗣立を慶 賀するために派遣された使節船。船首に青雀黄竜が装飾してあるので竜舟とも いう。1481年から1611年までに13回派遣。近世、薩摩に服属以降は楷船(か いせん)と称し、年に春夏2回派遣された。

 あらきぶね【荒木船】長崎の貿易商荒木宗太郎(~1636)が海外貿易に用い た朱印船。