洛北圓光寺「十牛之庭」、「十牛図」2023/11/21 07:13

 19日、日曜日の朝日新聞「天声人語」、京都洛北の圓光寺へ紅葉を見に行っている。 「感に堪えない美しさである」と、ある。 「感に堪えない」、「感に堪えぬ」、何か否定するように感じて、『広辞苑』を見る。 「感に堪えない」は、「深く感動して、それをおもてに出さずにはいられない」とある。 なるほどだけれど、もう少しわかりやすい言い回しはなかったのか、と思った。

 書院の「薄暗い室内でひざを折ると、光あふれる「十牛之(の)庭」が絵巻のように広がった」という。 圓光寺「十牛之庭」で検索すると、「名前の由来は、牛を追う牧童の様子が描かれた「十牛図」を題材に近世初期に造られた池泉回遊式庭園」。 さらに「十牛図」を調べる。 禅の「悟りにいたる十の段階を十枚の図と頌(じゅ・詩)で表したもの」。 「真の自己」が牛の姿で表されているため十牛図といい、真の自己を求める自己は牧人(牧者・牧童)の姿で表されている。 十牛禅図や牧牛図ともいう。 作者は、中国北宋時代の臨済宗楊岐派の禅僧・廓庵(かくあん)。

 「十牛図」とは、1.尋牛(平櫛田中の彫刻にあった)、2.見跡(けんせき)、3.見牛、4.得牛、5.牧牛、6.騎牛帰家、7.忘牛存人、8.人牛倶忘、9.返本還源、10.入鄽垂手(にってんすいしゅ)。 人には本来仏性が備わっているが、人はそれを忘れ、分別の世界に陥って仏性から遠ざかっている。 1.~5. 仏性の象徴である牛を見つけようと、発心し、見つけ、捉まえ、放さぬように押さえ、慣れてくれば牛は素直に従うようになる。 6. 心の平安が得られれば、牛飼いと牛は一体となる。 7.~8. 家に戻れば、牛を捉まえてきたことも、牛も忘れる。忘れるということもなくなる世界。 9. 何もない清浄無垢の世界からは、ありのままの世界が目に入る。 10. 悟りを開いても、そこに止まっていては無益。再び世俗の世界に入り、人々に安らぎを与え、悟りへ導く必要がある。

 廓庵以降、日本でも室町時代(1392~1573)前期の禅僧・絶海中津、室町時代中期の画僧・周文が描いたと伝えられる「十牛図」が、相国寺に蔵されている。 狩野探幽、富岡鉄斎らの「十牛図」もあるそうだ。

 ついでに、「天声人語」後半の<昨日より今日はまされるもみぢ葉の明日の色をば見でや止(や)みなん>の恵慶法師だが、「えけい」でなく「えぎょう」、平安時代中期の歌人、寛和年間(985~987)を中心に活躍し、播磨の国分寺で経典の講義もしたらしい。

加藤秀俊さんに教わった雑学2023/11/13 07:00

 加藤秀俊さんの「パソコン通信」や沢山のご本から教わった雑学は数えきりない。 私が「等々力短信」に書き残していたので、確認できるものをいくつか並べてみたい。

 フリーマーケットというのをFREE MARKETだと思っている人が多いようだ、FLEA MARKETなのに、というのも、その一つ。 何を隠そう、私もてっきりFREEだと思っていた。 昔、経済学の初歩で教わった完全市場という用語の呪縛にとらわれていたと、釈明してもだめだろう。 FLEAはノミ、「蚤の市」だったのだ。

ロバート・ジェームズ・ウォラーの『マディソン郡の橋』(村松潔訳・文藝春秋)が評判になった時には、こんなことを書いていた。 アメリカで田舎というと、アイオワが定番のようだ。 映画『フィールド・オブ・ドリームス』の、あの風景だ。 みわたすかぎりの畑の中に、ぽつんぽつんと農家がある。 その風土と暮しは、加藤秀俊さんの『アメリカの小さな町から』という本で知っていた。 もちろん、農業共進会という行事も…。

 これも加藤さんに教えていただいたことだが、文通によって南方熊楠の学識と博覧強記に驚いた柳田國男は、自らを「遼東の豕(りょうとうのいのこ)」とへりくだって、教えを乞う姿勢を示した。 南方は紀伊田辺に住む在野無冠の学者、柳田はエリート官僚で、学界でも頭角をあらわしはじめていた時期である。 『広辞苑』によれば「遼東の豕」は、遼東では珍しい白頭の豚も、河東では珍しくないことから、世間ではありふれていることを知らずに自分一人が得意になることのたとえで、一口に「ひとりよがり」のことだという。 そういえば、加藤秀俊さんの論文のAbstractで、柳田國男が「やなぎだ」でなく「やなぎた」だったということを、初めて知った。

加藤秀俊さんの日本語自由化論2023/11/12 07:37

加藤秀俊さん監修、国際交流基金日本語国際センター編の『日本語の開国』(TBSブリタニカ・2000年←当時加藤さんは同センター所長)という本のはじめに、加藤さんの「四つの自由化-「日本語新時代」をむかえて」という文章がある。

 現在、世界で日本語を勉強しているひとびとの数はすくなく見つもっても五百万人、体験的に日本語を身につけた人口をふくめて推測すると、たぶん一千万人をこえるひとびとが日本語をはなすようになってきている、という。 少数の学者や物好きなインテリでなく、一般大衆が世界のあちこちで「日本語」をつかいはじめた、そうした「日本語新時代」をむかえて、加藤さんはいま「日本語」の根元的な「自由化」がもとめられているという。

 (1)完全主義からの自由化。 「ただしい日本語」の基準、モデル的な日本語などありはしないのだから、日本人と外国人のつかう日本語のちがいは「完全さ」の「程度」のちがいにすぎない。

 (2)文学からの自由。 ごくふつうの日常の言語生活を基準にすると、「文学」は異質の世界のいとなみ。 いま必要とされているのは、簡潔で意味が明確につたわる「実用日本語」、日本語の「はなしことば」。

 (3)漢字からの自由。 ワープロの登場で、漢字がおおくなった。 漢字の呪縛からみずからを解放することによって、日本語はよりわかりやすく、よみやすく、そしてかきやすいものになる。

 (4)文字からの自由。 「読み書き能力」がなくても日本語はつかえる。 「文字」がわからなくとも「言語」は学習できる。

 加藤秀俊さんの『常識人の作法』(講談社)を読んで、1930(昭和5)年生れの、歯に衣着せぬ物言いにびっくりした。 その頃、2011年8月29日の産経新聞「正論」に、加藤さんの「嗚呼、落ちた日本人の造語力よ」が出た。 「嗚呼」は、言うまでもないが「ああ」と読む。 原発事故で政府高官などが、「モニタリング・ポスト」を始め「ベント」「トレンチ」「ストレス・テスト」を連発した。 各地に配置された「観測装置」、「排気」か「換気」、「暗渠」、「耐久試験」といえばいいではないか、バカもいいかげんにしなさい、というのである。 夏目漱石がむかし「むやみに片仮名を並べて人に吹聴して得意がった男がごろごろ」していた時代があった、と回顧したのは大正3年。 おそらく漱石の念頭にあったのは、坪内逍遥が『当世書生気質』で戯画化した明治の学生たちのことだったろう、という。 加藤さんは、政治家のカタカナ好きは「当世書生気質」なのだろうかとしつつ、それだけではあるまい、と言う。 エライさんたちは、記者会見する担当省庁や電力会社の人たちとおなじく、原発関係者の仲間うちだけで通用する業界用語を借用しているだけなのではないか。 やくざ社会で、たとえば駅を「ハコバ」、指を「エンコ」、寿司を「ヤスケ」、しごとを「ゴト」などというように、ご同業仲間だけに通じる隠語として…。 加藤さんは、その隠語を政治家や官僚がそのまま借用して、われら民衆に解説なさるのはまことに迷惑である。 かれらは「業界」を批判しているようで、いつのまにやら、その仲間にひきこまれてしまったのである、と言う。

最後の部分は、わが意を得たので、そっくり引用する。 「学者先生のなかには、どうも日本語では表現できなくて、などとおっしゃるかたがおられるが、あれは知ったかぶりの大ウソである。たいていのことは日本語で表現できるのである。福澤諭吉、西周など明治の先人たちは「哲学」「経済」「主義」「社会」その他もろもろの造語をもふくめて外国語を日本語にするための努力をかさねた。なにが「ストレス・テスト」なものか。わたしの心は憤怒の「ストレス」をうけたのであった。」

やさしくかくということ2023/11/11 07:05

私は若い頃、加藤さんの『整理学』から始まり、梅棹さんの『知的生産の技術』や川喜田二郎さんの「KJ法」に進み、桑原武夫さんや今西錦司さんに組織された共同研究の成果をかじった。 実のところ慶應より京大に、大きな影響を受けたといえるかもしれない。

加藤秀俊さんや梅棹忠夫さんの本を読んで、おおきな影響を受けたのは、その文章が読みやすかったということがあった。 加藤秀俊さんの(梅棹さんもそうだが)かき方(この段落はその方式でかく)原則は、できるだけ「やまとことば」をつかい、かな表記し、そのなかで「音読み」するばあいにかぎって漢字をつかう。 漢字の量がへって、文章はあかるい感じになる。

 加藤秀俊さんの『暮らしの世相史』に「日本語の敗北」という章がある。 「日本語の敗北」とは何か。 明治以来、日本語の表記について、福沢諭吉『文字之教』の将来的には漢字全廃をめざす漢字制限論、大槻文彦の「かなのくわい」、羅馬字会や田中館愛橘のローマ字運動などがあった。 戦前の昭和10年代前半、鶴見祐輔、柳田国男、土居光知が、それぞれ別に、日本語はむずかしいとして、改革案を出した。 当時、日本語が世界、とくにアジア諸社会に「進出」すべきだという政治的、軍事的思想があった。 しかし、日本語を「世界化」するための哲学も戦略もなく、具体的な日本語教育の方法も確立されなかった。 なにしろ国内で、「日本語」をどうするのか、表記はどうするのかといった重要な問題についての言語政策が不在のままでは、「進出」などできた相談ではなかった。 日本は戦争に破れ、文化的にも現代「日本語の敗北」を経験した、というのである。

 戦後、GHQのローマ字表記案を押し切って制定された当用漢字は、漢字の数を福沢が『文字之教』でさしあたり必要と推定した「二千か三千」の水準に、ほぼ一致した。 だが、その後の半世紀の日本語の歴史は、福沢が理想としたさらなる漢字の制限とは、正反対の方向に動いてきている。 それを加速したのが、1980年代にはじまる日本語ワープロ・ソフトの登場で、漢字は「かく」ものでなく、漢字変換で「でてくる」ものになったからだという、加藤さんの指摘は毎日われわれの経験しているところである。 加藤さんや梅棹忠夫さんは、福沢の「働く言葉には、なるだけ仮名を用ゆ可し」を実行して、動詞を「かたかな」表記している。 私などは、見た目のわかりやすさから、そこまで徹底できないで、「きく」「かく」と書かず「聞く」「書く」と書いている。 それがワープロ以降、次第次第に、「聞く」と「聴く」を区別し、最近では手では「書けない」字である「訊く」まで使っているのだ。 「慶応」も気取って、単語登録し「慶應」にしてしまった。 福沢のひ孫弟子くらいのつもりでいたのに、はずかしい。 深く反省したのであった。

私は「やさしくかくということ」が、日本語の自由化や国際化につながるものであるということに気づかなかった。 加藤秀俊さんの日本語自由化論にそれが指摘されていた。 それは、また明日。

「たぶの森」と、池田弥三郎さんの「銀座っ子の「東京語批判」」2023/10/26 07:08

 過去に書いたもののうち、三田の「たぶの森」と、池田弥三郎さんの「銀座っ子の「東京語批判」」を紹介したい。

    「たぶの森」の移動と由来の碑<小人閑居日記 2011. 12. 15.>

 10日、折口信夫・池田弥三郎記念講演会が、三田の西校舎527番教室であり、聴きに行った。 まず、この会の事務局をその研究室が務める藤原茂樹教授が「師の声」と題して、折口信夫・池田弥三郎両先生の録音を紹介した。 折口信夫は歌の朗詠、高い声だった。 もはや、藤原教授は、池田弥三郎さんの謦咳に接する事の出来た最後の世代(一年前の)なのだそうだ。

 池田弥三郎さんは、昭和55(1980)年65歳(年譜は67歳、数え年)で慶應を定年退職し、折口信夫先生の記念にと退職金で三田の山の上に80本ほどの「たぶ」を贈り、新設の洗足学園魚津短期大学教授となる。 3月7日、演説館前に「たぶ」を植樹したあと、慶大言語文化研究所の総会で講演した。 寒い、冷たい雨の降る日だったそうで、宵から寒気があり、39度6分の熱、肺炎と診断された。 録音は、その日の慶應での最後の講演で、その一部が紹介された。 内容については、明日書くことにする。

 順調に育っていた池田弥三郎さんの「たぶの森」は、今年完成した南校舎の建替で、大きく様相を一変した。 この日配られた資料にあった藤原茂樹教授の「椨(たぶ)林の移動と釈迢空の歌の発見」(『三田評論』第1125号(2009年7月))によると、2009年5月正門左守衛室奥に28本あった「たぶ」とシラカシの林が間引かれて、選ばれた「たぶ」12本が、すでに桜の季節に移植されていた泰山木と創立百年記念のオリーブの隣に、移された、とある。 藤原教授に教えられて、この日の主講演、神野富一甲南女子大学教授の「海の補陀洛信仰」が始まる前の休憩時間に、西校舎に隣接する南館(ノグチルームのあった第二研究室跡の建物)と演説館の間へ、移植された「たぶ」の木を見に行った。 「たぶの森由来」の碑も、ここに移されていた。

 2008年11月1日の折口信夫・池田弥三郎記念講演会で、文芸評論家の梶木剛さんの「椨(たぶのき)のある風景」を聴いて、11月6日から8日までのこの日記に書いた。 その8日は「「たぶの森由来」の碑」。 ちょうどその日、日吉で慶應義塾創立150年記念式典が行われ、『慶應義塾史事典』が刊行された。 その事典の「「たぶの森由来」の碑」という項目に「昭和六二(一九八七)年折口信夫生誕一〇〇年記念講演会の際に、…除幕された」「この碑は、古代研究に関連してたぶの木に深い関心を寄せた折口を記念するものとして、門下生の池田弥三郎が発案、誕生した。」とあるが、池田弥三郎さんは昭和五七(一九八二)年七月五日に亡くなっているので、「原稿は「この碑は」ではなく、「この森は」になっていたのではないだろうか」と指摘したのだった。 このブログを読んだ、当時『福澤手帖』の原稿のことでやりとりがあった慶應義塾大学出版会の担当者に、メールで指摘のお礼をいわれた覚えがある。

 下記の『慶應義塾史事典』正誤表では、「この碑は」→「このたぶの森は」と、なっている。 http://www.fmc.keio.ac.jp/common/pdf/gijyukujitenseigo201108.pdf

    「江戸がり屋」の「東京語」を批判する<小人閑居日記 2011. 12. 16.>

 さて、録音で聴いた池田弥三郎さんの慶應での最後の講演だが、コピーを資料としてもらった『文藝春秋』昭和55年5月号に「銀座っ子の「東京語批判」」として載り、同年10月刊行の単行本『日本人の心の傾き』(文藝春秋)にも収録された。

 弥三郎さんは、周囲で粋がっている「江戸っ子がってる人」「江戸がる人」を、密かに「江戸がり屋」と呼んで、批判する。 「江戸っ子」、その引き続きとしての「東京っ子」なんてものは、講釈や落語とかの世界だけに棲んでいる概念というか通念としての「江戸っ子」じゃないか、という。

 そういう概念の「江戸っ子」が、言葉の上でも、いろいろ問題を起こしている。 たとえば「べらんめえ」口調、「べらぼうなことだ」とか「そんなべらぼうなことはないよ」とはいったけれど、「なに言ってやんでえ、べらんめえ」なんて言った人間てものは、実際はいなかった。

 芝居なんかで「髪結新三」が残っている「髪結い」、「髪ゆい」というと江戸は「髪いい」だと言われる。 ところが、「髪いい」も、「髪ゆい」も聞いたことがない。 「髪いさん」なんです。 「髪ゆい」といっているつもりが、東京風についなまって、「髪いい」になっている。 「髪いい」なんてことをいって、それが江戸だと思っているのは、「江戸がり屋」の江戸で、ムリなところが目につく。

 地名の「新宿」、「しんじゅく」といわれると、われわれ非常に田舎臭い感じがする。 軽い気持で言っていると「しんじく」と発音する。 だけど「しんじく」であって「しんじゅく」ではないということは、あまり声高に主張はしない。 むしろ「しんじゅく」のつもりなんだけど、私の発音が「しんじく」なんで、初めから「しんじく」とハッキリ言わなきゃ「江戸っ子」でも「東京っ子」でもないって言われると、私どもちょっと抵抗を感じる。

 慶應義塾の「塾」もそう。 戦後、潮田江次塾長時代、慶應義塾をローマ字で表記するのに“Keio-Gijiku”か “Keio-Gijuku”か非常に困って、結局「慶應大学」(“Keio University”)にしたという有名な話がある。 ただ、「塾」という字は、中国の音で「じく」という音があるんだということを聞いたことがある。 ご専門の村松(暎=慶大教授、中国文学)さんが目の前にいるから、それ以上のことはボロが出そうだからやめておきますが…。 福沢先生も「じく」とおっしゃって、書き表わすときも「じく」だったそうだ。 三田を訪ねて来る書生たちが福沢邸の立派な玄関を塾だと間違えて案内を乞うから、「じく→」と書いて貼り出したと(この「じく→」エピソードは「録音」だけ、『文藝春秋』にも『日本人の心の傾き』にもない)、富田正文さんにうかがったことがある。