読書会「福澤諭吉の女性論・家族論」(2)〔昔、書いた福沢117-2〕2019/09/28 07:00

【3】明治31年から亡くなるまで…「新女大学主義」。

福沢は明治31年8月から9月にかけて、集中的に「女大学評論」「新女大学」 を執筆した。 当時は貝原益軒著とされていた「女大学」的な修身道徳が、女 性を縛る規範としてなお活きていて、それを復活助長する動きもあり、福沢は 一夫一婦制、男女同等といった新しいモラル確立を妨げるものとして「女大学」 を槍玉に挙げて論じたのだった。 福沢はまた、男性の意識改革がなければ状 況は変わらないことを強調し、他人の目を気にして育児に協力しない父親を「勇 気なき痴漢(ばかもの)」と書いている(「新女大学」)。

明治33年4月15日付の『時事新報』社説「最後の決戦」(日原昌造草稿) は、当時の社会状況を分析して、維新以後「有形の区域」物質文明においては 「文明流」が勝利をおさめたが、「無形のもの」では抵抗力が強く「文明の進歩 を渋滞せしむるの憂」があると述べて、「新旧最後の決戦とも云ふ可きものあり て存するは即ち道徳修身の問題なり」「儒教主義の旧道徳を根柢より顛覆して文 明主義の新道徳を注入せん」とした。 福沢はこの「文明流」対「儒教主義の 旧道徳」を、女性論では「新女大学主義」対「女大学風の教育」として展開し た。 それは福沢の近代化構想の一端であり、「女大学」(「女大学」的規範)は 福沢が構想する日本の近代化とは相容れない存在として強く認識されていた。  福沢の女性論・家族論は、山川菊栄、堺利彦、福田英子、与謝野晶子から、昭 和初期の金子(山高)しげり、戦後の本間久雄に至るまで、高い評価を受け続 ける。 福沢の指摘している問題点が今日的であり続けるということは(私は、 福沢のいう「男女共有寄合の国」と、「男女共同参画社会」担当大臣の存在を思 った)、とりもなおさず、それらの問題点が近代化の過程で解決されてこなかっ たことを示している。 福沢の女性論・家族論は、「最後の決戦」に敗れたと、 西澤さんは結論する。 明治10年代半ば以降「儒教主義の旧道徳」が示した 「女大学」風の“新しい”女性像では、良妻賢母を国を担う女性の役割として 位置づけ、国家富強に結びつけた。 それは日清、日露の戦争を経て、特に顕 著になり、国民総動員体制へとつながったのだった。

かつて獅子文六は福沢を小説に書こうとして、断念した。 小説の主人公は、 もう少し不幸で、曲折や陰翳がある方が書き易いのに、ほとんどトントン拍子 で、性格も明るく無類に健康的で、まるで朝の太陽だというのだ。 『福翁自 伝』の終りの「自身の既往を顧みれば遺憾なきのみか愉快なことばかり」を思 い出す。 しかし、福沢研究の最先端はどうも一味違った福沢像を提示してき ているようだ。 この読書会で西澤さんが、福沢の女性論・家族論は「最後の 決戦」に破れたというし、昨年の読書会では松崎欣一さんが、福沢の晩年、文 明の主義を説く年来の主張が、必ずしも世間に浸透していない、またその真意 が十分理解されていないという思いが、『全集』編纂『全集緒言』執筆へと、福 沢を突き動かしたのではないかと述べた。 今年6月の福澤研究センターのセ ミナーでは、竹森俊平経済学部教授の松方正義と福沢(大隈)の経済論戦の話 で、「明治14年の政変」で日本が松方の路線を選択したことによって、福沢(大 隈)の英国流議院内閣制憲法の路線は消えたと聞いた。 福沢の実像は、平成 の獅子文六に小説の材料を提供しているだけでなく、日本の近代化は真に達成 されたのだろうか、日本の社会は文明の精神を置き去りにして、かたちだけの 文明開化に終始しているのではないか、という疑問を私達につきつけているよ うである。

読書会「福澤諭吉の女性論・家族論」(1)〔昔、書いた福沢117-1〕2019/09/27 07:23

『福澤手帖』第127号(2005(平成17)年12月)の「読書会「福澤諭吉の女性論・家族論」―西澤直子さんの話を聴いて―」。

    読書会「福澤諭吉の女性論・家族論」―西澤直子さんの話を聴いて―

福沢があの時代になぜ、あれほど斬新な女性論・家族論を書くことができた のかは、私の長い疑問だった。 高校生の頃に出合った伊藤正雄さんの『福沢 諭吉入門』(毎日新聞社)には、「女性の解放―男女平等論と一夫一婦論―」と 「親子の独立―道徳教育はすなわち親父教育」という章があって、前者には「男 ひとりに妾八人もまた不都合ならん」「新婚の新家族は、新苗字を創造すべし」、 後者には「子として家産に依頼すべからず」「第二世にはおのづから第二世の生 活法あり」といったフレーズがあった。 戦後教育、それも六三制実施の初期 に小学校に入学した私は、民主主義のシャワーを浴びて育った。 だが、そこ で教えられた理想が、現実の大人たちの世界と微妙にずれていることに、次第 に気づくようになる。 そんな高校生が、伊藤正雄さんによって紹介された福 沢の女性論・家族論に目をみはり、明治の初期、既にこんな進んだ民主主義的 な議論をしている人のいたことに驚き、たちまち魅せられたのだった。

福澤諭吉協会の2005年度読書会は「福澤諭吉の女性論・家族論」をテーマ として、慶應義塾福澤研究センター助教授の西澤直子さんを講師に、10月29 日と11月5日の二回、三田の研究室で開かれた。 最初に私の挙げた疑問に、 西澤さんは明快に三つの要因を示した。 (1)西洋の論説…J・S・ミルThe subjection of woman『女性の隷従』、(2)西洋体験…幕末三度の海外渡航体験 で女尊男卑の風俗や女性の生き方を実見したこと、(3)成育環境…三田でも親 戚や旧藩主奥平家の沢山の女性に囲まれ、頼られていた。

西澤さんは、福沢の女性論・家族論を、まず三つの時期に分け、福沢の著作 以外の書簡や実際の活動に、さらには読者の反響にも、留意しつつ検討を加え た。

【1】西洋事情外編・中津留別之書から、明治10年頃まで…「一身の独立」。

明治維新後の福沢の最大の関心は、「民」(新しい形の日本人)の創出であっ た、と西澤さんはいう。 一身独立して一家独立、一家独立して一国独立、天 下独立という主張だ。 一身独立した「民」は、精神的に自立し、経済的にも 自立していなければならない。 「男も人なり女も人なり」(『学問のすゝめ』 第8編)、「民」には女性も含まれる。 一国を構成するのは独立した男女でな ければならない。 福沢にとって女性の地位を論じることは、近代のあり方を 論ずることであり、生涯の関心事となるのは当然だった。 「一身独立」のた めには封建的な「家」の解体が重要な命題になる。

【2】明治18,9年から20年代前半まで…「新しい「家」の確立=体系的女性論」。

明治18年『日本婦人論』『日本婦人論後編』『品行論』、明治19年『男女交 際論』『男女交際余論』、明治21年『日本男子論』で福沢が説いたのは、社会 を構成する単位としての新しい「家」の確立と、女性であっても社会的役割を 果たすことだった。 新しい「家」は(1)一夫一婦によって構成される、(2) 対等な男女が愛・敬(尊敬)・恕(お互いの気持になって許しあう)によって結 びつく、(3)夫婦間でも各々の「私有」財産を有し、各「家」ごと独立した活 計を営む、ものだった。 女性の社会的役割については、「男女共有寄合の国」 「日本国民惣体持の国」「国の本は家に在り」と書き、女性に学習・交際の場を 与えることを考えて、著述活動や教育活動を行った。

「徳島慶應義塾・内田彌八・子規と松山」の時代(3)〔昔、書いた福沢115-3〕2019/09/25 06:59

         正岡子規と俳句の都・松山

 10月29日、ふなやの朝湯を楽しむ。 正岡子規がこのあたりで「亭ところ どころ渓に橋ある紅葉哉」と詠んだという庭園が素晴しい。 山頭火の句碑が あった。 「朝湯こんこんあふるるまんなかのわたくし」。 道後温泉を出て、 四国八十八ケ所の五十一番札所、子規が「南無大師石手の寺よ稲の花」と詠ん だ石手寺を参詣。 松山市立子規記念博物館へ。 常設展示にも、短時間では とても見きれないほどの正岡子規があったが、この日から11月24日まで特別 企画展「子規と故郷」の開催中だった。 「春や昔十五万石の城下哉」「城山の 浮み上るや青嵐」「松山や秋より高き天守閣」の正岡子規を中心に、松山は高浜 虚子、河東碧梧桐、中村草田男、石田波郷など数多くの俳人を輩出し、今も俳 句がさかんで「俳都」と呼ばれている。 ところどころに「観光俳句ポスト」 が設置されていて、投句用紙が置いてある。 私も川柳もどきを二句詠んだ。 「冬近しぼっちゃーんと入る道後の湯」、松山城四百年祭「マドンナの時給はい くらそぞろ寒」。 砥部焼観光センター、伊予かすり会館などに寄り、松山空港 から帰京した。

          『坂の上の雲』の時代

 明治のこの時期は、明るい希望と颯爽とした青春のある時代だった。 それ は政治の季節でもあった。 慶應義塾の徳島への誘致にも、自由民権運動の政 治結社「自助社」が蜂須賀家の援助を受けて、活動したらしい。 『自由党史』 に「自助社」は、土佐とも通じ、同地の立志社につぐ名声を博したとあるとい う。 城泉太郎の徳島慶應義塾についての回顧談によると「演説が主で、教授 は従」だったそうだ。 徳島慶應義塾に学んだ学生たち一人一人が、その後の 自由民権運動や日本の近代化にどのようにかかわったかは、興味深い研究テー マだろう。

 子規記念博物館の「子規と故郷」展に、明治11(1878)年6月草間時福(と きよし)の北予変則中学校(松山中学の前身)の総教辞令、13(1880)年4月 西川(河)通徹の松山中学校長兼総教辞令があった。 草間も西川も慶應義塾 の出身者で、進歩的な思想を持つ愛媛県権令岩村高俊によって抜擢された。 岩 村は、人々の自由な主張の場である新聞を二紙発行させ、中学校にも草間のよ うな自由民権思想を抱く人物を配し、松山に自己の確立と民権の向上を論じる 新しい風を吹かせたのであった。 自由民権思想の持つ、土地の習慣に縛られ ない全国的な視野と意識は、若い世代の多感な感情を揺さぶった。 少年期の 正岡子規も、強い影響を受け、政治に興味を持ち、演説に熱中していたという。

松崎欣一著『三田演説会と慶應義塾系演説会』の「梅木忠朴の場合」による と、草間時福が明治12(1879)年7月任期を終って松山を去った時、たくさ んの門下生が前後して上京し慶應義塾に入っている。 山路一遊、村井保固、 宮内直挙、矢野可宗、浅岡満俊、門田正経、梅木忠朴、細井重房で、ほかにも 三菱商業学校、司法省法律学校、東京府商法講習所などに入学した者もいた。  当時一般的だった地方青年の遊学熱が、松山では草間時福という指導者を得て、 それが一層大きなものになったのだという。

 内田彌八について、服部理事長は井川町公民館佃分館での見事なお礼の挨拶 で、次のような話をされた。 当時全国の勉学を志すたくさんの若者の内で、 東京へ行けた者も、行けなかった者もいた。 行けなかった多くの若者の、声 なき声に支えられて、その代表、阿波の選抜選手、チャンピオンとして、内田 彌八は東京という勉学の場、全国大会に出て、大活躍をした。 いよいよ本戦 という時期に、東南アジアやオーストラリアから貿易の可能性を郷里の新聞に 寄稿するなど、相当いい所まで行き、残念ながら病を得、あたら若い命を落と した、と。 ここにも、明治の青春の一つがあった。 子規も、彌八も、病に 倒れたけれど、どこか明るいのは、時代を反映しているのだろう。

『ベアテの贈りもの』<等々力短信 第1122号 2019(令和元).8.25.>2019/08/25 05:42

 上野の国際子ども図書館(国立国会図書館の支部)をご存知だろうか。 ここは幕末三 度洋行した福沢諭吉が西洋列強の「ビブリオテーキ」を紹介し、明治政府の文部官僚永井 久一郎(荷風の父)が近代国家には国立図書館が必要だと奔走し、曲折を経てようやく明 治39(1906)年に開館した「帝国図書館」の理念と建物を受け継いでいる。 中島京子さ んの小説『夢見る帝国図書館』(文藝春秋)は、何度も図書館の費用が戦費に食われ、リベ ラルアーツと国威発揚的国策が衝突する、苦難の歴史を背景にして描かれた。 アメリカ 占領下の昭和21(1946)年2月4日、ジープを駆ってGHQ職員のアメリカ人女性ベアテ・ シロタ(22)が「憲法関連の本」を探しにやって来る。 マグナ・カルタから始まる一連 のイギリスの本、ワイマール憲法、北欧諸国の憲法を始め、ありったけの憲法関連書籍を 借り出す。 以後の運命の9日間で、日本国憲法の「GHQ草案」を作り上げた25人の民 生局員にとっての、最重要参考文献だった。 中島京子さんは、これは帝国図書館にとっ て、最後にして最大の仕事だったかもしれない、と書く。

実はベアテ、隣の東京音楽学校でピアノ教授をしたレオ・シロタの娘で、5歳から15歳 まで日本で暮していた。 シロタといっても、日系人ではなく、ウクライナ出身のユダヤ 人だ。 昨年6月に亡くなった藤原智子監督にドキュメンタリー映画『ベアテの贈りもの』 (2004年)がある。 レオ・シロタは全ヨーロッパの楽壇で「フランツ・リストの再来」 と言われ、世界的ピアニストとして演奏会を展開していたが、1926(昭和元)年満洲に赴 き、そこで会った山田耕筰に誘われて日本公演、一年間滞在する(ベアテは5歳)。 これ を機会に1929(昭和4)年、東京音楽学校教授として招かれ、17年間、井口基成や園田高 弘など名ピアニストの育成と演奏活動で、日本の楽壇に貢献した。 演奏家としても日本 で人気が高く、またユダヤ人迫害でパスポートを剥奪されたため、夫妻で戦後の1946(昭 和21)年まで日本に留まった。 戦争末期は外国人強制疎開で軽井沢にいた。 ヨーロッ パに残ったレオの兄弟は、悲劇的な最期をとげる。

 この間、娘のベアテは15歳でアメリカに渡りオークランドの全寮制女子大学ミルズ・カ レッジで学び、卒業の1945(昭和20)年アメリカ国籍を取得、12月、GHQ民間人要員と して来日、大戦中音信不通だった両親と再会できた。 ベアテは日本国憲法草案作成の一 員となり、昭和初期の日本で、女性たちの抑圧された状況を目の当りにして育ったことも あって、人権に関する14条と男女平等に関する24条の原案の一部を書いた。 第二次世 界大戦後の74年間を、日本人が平和とそこそこの繁栄の内に過ごせたのには、日本国憲法 の存在があったことを忘れてはならないだろう。

J・RとH・J、ブラック親子〔昔、書いた福沢83〕2019/07/24 07:20

              J・RとH・J、ブラック親子

        <等々力短信 第807号 1998(平成10).5.15.>

 第800番荘田平五郎宛書簡の松崎欣一さんから、新刊のご大著『三田演説 会と慶應義塾系演説会』(慶應義塾大学出版会)を頂戴した。 十年ほど前、 『福沢手帖』に掲載された松崎さんの論文を読んでいて、明治12年に薫誘舎 演説会で『日新真事誌』の創刊や『ヤング・ジャパン』の著述で知られるJ・ R・ブラックが演説したという記述に、疑問を感じた。 落語好きだから偶 々、J・R・ブラックの息子で、イギリス人落語家として人気のあった快楽 亭、H・J・ブラックが、その当時、寄席などで政談演説もやっていたと聞い ていたからである。 手紙でお知らせしたのをきっかけに、松崎さんは論文 「J・R・ブラックとH・J・ブラック」を書かれた。 今回のご恵贈は、そ の二論文が収録されているという、有難くも光栄なご縁によるものであった。

  この問題についての宮武外骨と花園兼定との論争や、快楽亭ブラックの座談 記録などを考証された松崎さんの結論は、こうだった。 薫誘舎演説会の「ブ ラック」は、快楽亭ブラックであった可能性がきわめて高いものの、J・R・ ブラックであった若干の可能性も、なお存在する。 この論文はまた、芝白金 三光町に住んでいたJ・R・ブラックの妻とその娘が、福沢諭吉の子女や孫た ちに英語や編物、料理、地理、歴史などを教える家庭教師を務めたという興味 深い事実にも言及し、清岡暎一先生(諭吉の三女しゅんの子息、『福翁自伝』 の英訳者)の貴重な次の証言も引き出している。 福沢家とブラック家の関係 は、J・R・ブラックの死後、毎日の食事にも窮しているのを聞いた福沢が、 それならうちの娘達に英語を教えてもらおうかと思い立ったことに始まったと いう。 勝手に遊び歩いていた上の息子H・J・ブラックについては、母親に さんざん心配をかけたので、福沢の家では、本当の不良、全くのならず者のよ うに思っていたらしい。

  薫誘舎演説会の会場は、数寄屋河岸内有楽町3丁目だった。 明治10年の 鎗屋町講談会は京橋区鎗屋町7番地の東京医学会社の社屋で開かれたと、松崎 さんの同講談会についての論文にある。 東京医学会社は明治8年に松山棟庵 らが興した会社で、前号でふれた松山と高木兼寛の「成医会」はその建物を引 き継いでいる。 「京橋」と書いたが、京橋区鎗屋町、現在の銀座4丁目、天 賞堂や銀座文化のある一角だ。 明治13年に設立された交詢社は南鍋町だ し、憲法論議の演説会やら医学振興やら、この時期、文明開化を推し進めよう とする熱気が、銀座界隈に渦巻いていたのである。