「西暦・和暦 もうだいじょうぶ公式」2021/04/05 07:02

 『暮しの手帖』11 spring 2021 4-5月号に、佐藤雅彦さんが連載「考えの整とん」に「西暦・和暦 もうだいじょうぶ公式」を書いている。 令和になって3年、「長年、西暦・和暦の変換に苦しんできた日本の同胞よ、喜んでくれ給え、少なくとも、2029年・令和11年までは、もうこのことで悩むことはないのである」、佐藤式西暦・和暦変換の公式を発見したというのである。

 西暦の下二桁の数字を足し算すると、令和の年号になる。

 2021年は、2+1=3だから令和3年。 2022年は、2+2=4だから令和4年。

公式は「20ab年は、令和a+b年。」で、2029年・令和11年まで有効だ。

私などは明治、大正、昭和、平成、西暦より和暦の方が、だいたいの年代を考えやすいので、文章を書く時、「明治14(1881)年」と和暦を書いて()で西暦を入れるようにしている。 長く、手帳の末尾にある年齢早見表に、江戸末期からの分を足して使ってきた。 最近は、スマホのアプリにある「年号電卓Plus」というのを便利にしている。

手帳やスマホが手元にないと、佐藤式のような、暗算もやる。 和暦を西暦に変換するのは、それぞれの元年(明治は1868年、大正は1912年、昭和は1926年、平成は1989年)から1を引いて、明治は+67、大正は+11、昭和は+25、平成は+88が公式だ。 政変のあった明治14年は、14+67で1881年。 関東大震災の大正12年は、12+11で1923年。 二・二六事件の昭和11年は、11+25で1936年。 長野オリンピックの平成10年は、10+88で1998年というやり方だ。

 西暦を和暦に変換するのは、逆に引き算、明治は-67、大正は-11、昭和は-25、平成は-88が公式だ。 1881年は、81-67で明治14年。 1923年は、23-11で大正12年。 敗戦の1945年は、45-25で昭和20年。 東日本大震災の2011年は、11-88で暗算がちょっと難しいが、平成23年となる。

 令和は、元年が2019年だから、和暦を西暦に変換するのは+18、西暦を和暦に変換するのは-18となる。 令和3年は、3+18で2021年。 2022年は、22-18で令和4年。 これだと、2029年・令和11年を過ぎても、2030年は30-18で令和12年となるから、佐藤式西暦・和暦変換公式より有用だと思うが、いかがだろう。

『青天を衝け』浜田弥兵衛(やひょうえ)、台湾事件2021/04/02 07:10

 渋沢栄一を描いた大河ドラマ『青天を衝け』の題名だが、「衝け」「衝く」という言葉に馴染がなかった。 題名を打つ(書く)のに、初め、衝突を出して突を消した。 「衝(つ)け」とフリガナのあったのに引きずられたのか、「衝つ(うつ)」と読み違えて、『青天を衝つ』とやってしまった。 <小人閑居日記>の2月23日に書き、以後はコピーしたので、2月24日と3月5日も、『青天を衝つ』と書いた(気がついた後、訂正した)。 いつも誤植の揚げ足を取っていて、この渋沢栄一関連では「夢七訓」に原典がないことを深谷市にまで質問したりしたのに、自分で、このミスはまことに恥ずかしい。

 『青天を衝け』は、渋沢栄一が安政5年に尾高惇忠と信州に旅した際に詠んだ(第7回「青天の栄一」「紀行」によると栄一の「巡信紀詩」所収、JR中込下車の内山峡に詩碑)、「勢衝青天攘臂躋 気穿白雲唾手征」、青空を突き刺す勢いで肘をまくって登り、白雲を突き抜ける気力で手に唾して進む、という意味の漢詩から取ったのだそうだ。 間違えたから言うわけではないが、難しい上に、読みにくい。 もっと良い題はなかったのか。

 『青天を衝け』の第4回「栄一、怒る」で、栄一が海外に雄飛した山田長政や浜田弥兵衛(やひょうえ)に憧れる場面があった。 山田長政は、小学生の時に伝記を読んで知っていたが、浜田弥兵衛を知らなかった。

 『広辞苑』【浜田弥兵衛】は、「江戸初期の長崎の貿易商で、長崎代官末次平蔵の朱印船船長。1625年(寛永2)台湾に渡航したが、オランダ総督に妨害され、28年武装した470名の乗組員を率いて渡台、総督に謝罪させ、その子を人質として帰国(台湾事件)。生没年未詳。」とあった。

 『日本大百科全書(ニッポニカ)』【浜田弥兵衛】は、「生没年不詳。江戸初期の朱印船貿易船船長。江戸初期、日本の輸入品中最大の中国産生糸は、おもに中国商人との台湾での出会(であい)貿易によりもたらされていた。しかし1624年(寛永1)オランダは台湾にゼーランディア城を築いて根拠地として以来、日本の貿易船に対し新たな課税を行うなど、圧迫干渉を加えるようになった。25年長崎代官末次平蔵の朱印船船長として弥兵衛が台湾に渡航した際、長官マルティヌス・ソンクはその貿易を妨害したので、彼は同地の住民を連れて帰り幕府に訴えた。その後オランダ側の事情説明のため新長官ヌイツが大使として来日したが、目的を果たせず帰った。28年、弥兵衛は、平蔵の持船二隻に貿易資金のほか多くの武器・火薬を積み、470人の乗組員を率いて、武力に訴えても貿易を強行する意志で台湾に渡った。ヌイツは弥兵衛を城内に抑留し、貿易も差し止められた。しかし弥兵衛らは機をうかがい、逆にヌイツを捕らえ人質としたので、オランダ側と和議が成立し、同年7月長崎に戻った。幕府もオランダの態度に不満を持ち、来日オランダ船の抑留、蘭館の封鎖、貿易禁止などを行い緊張したが、オランダ側が32年責任者ヌイツを幕府に引き渡すなどして事態は好転し、貿易も再開された。弥兵衛とその子新蔵は、その後島原の乱に際して功をたて、のち新蔵は細川家に仕官した。[沼田 哲]」と、詳しい。

 他の事典の異同箇所。 『マイペディア』「(ゼーランディアを)ゼーランジア(安平(アンピン))、ヌイツを捕らえて長崎に連れ帰り、カロンの通訳により談合の末和解、幕府は弥兵衛が連れ帰ったオランダ船を抑留したため、日蘭貿易は1632年まで禁止された。」 『山川 日本史小事典』「タイオワン(台湾の外港安平(アンピン))」 『日本歴史大事典』「肥前国大村の人。1627年オランダ人の乱暴を訴えるため、台湾の新港(シンカン)社の住民を日本に伴い、幕府に訴えた。」

 『日本歴史大事典』【台湾事件】、「1624年(寛永元)~1632年に起こった台湾貿易をめぐる日蘭間の紛争。当時台南(台湾)は朱印船の主な渡航地だったが、ここにゼーランディア城を建てたオランダ人は、港湾建設費がかかったとして、1624年にこの港からの輸出品に10%の輸出税を課した。日本人がその支払いを拒否すると、オランダの台湾長官ソンクは日本人の買い入れた生糸を押収。長崎代官であり朱印船貿易家でもあった末次平蔵はこれを幕府に訴えた。オランダは弁明のため1627年に特使ノイツを日本に派遣したが完全な失敗に終わった。翌年、朱印船末次船の船長浜田弥兵衛とノイツの暴力ざたでオランダ人人質が肥前国大村の牢獄に監禁された。この事件解決に派遣されたメイランは3年近く江戸に滞在し、平戸の大名松浦隆信(まつらたかのぶ)の取次ぎで辛抱強く交渉。事件は、日本人の気質を熟知する総督スペックスが、責任者としてノイツを日本側に引き渡すという判断を下し解決した。老中土井利勝を中心とする閣老は、これはオランダが将軍の家臣として忠誠を示したものと認めたのである。こののち、オランダは日本に勤務する商館長に、東アジアに十分な経験をもち円満な人格の人物を選ぶなど気を配った。「将軍の家臣としてご奉公する」はオランダ人が繰り返す表現となったが、これが鎖国下、ヨーロッパ諸国のなかでオランダだけが日本との貿易を許される一因となった。<永積洋子>」

 『青天を衝け』を間違えておいて、言いにくいのだが、蛇足を一言。 初めに引いた『広辞苑』【浜田弥兵衛】の「総督に謝罪させ、その子を人質として帰国」だが、「その子を人質」と『日本大百科全書』や『日本歴史大事典』にない部分もあり、どうしてこういう記述になったのか、短さの制約ばかりでない、疑問が残った。

コロナ禍、浅草経営者の苦闘が身に沁みる2021/04/01 07:13

 昨日の「小三治さんの休養で、思い出したこと」に、会社を畳んだ頃のことを書いた。 それには、3月27日のNHKスペシャル『浅草、遠い春を待ちながら 下町経営者と信用金庫』を見たせいもあった。 新型コロナ禍で、苦闘する浅草の経営者と地元の信用金庫に、2020年秋から密着した番組だった。

釜飯の「麻鳥」には、行ったことがあった。 注文を聞いてから炊き上げるので時間がかかる、ちゃんと作っているのがわかって、味にも満足した。 ほかに「蔵」(炭火焼会席)と、息子さんが関わる「月見草」(シーフード・モダン・フレンチ・レストラン)の、二店もやっている。 店主の雑賀(さいが)昭裕さん、年末年始の繁忙期なのに売上が極端に減り、いっぱいまで借りた緊急融資では資金不足が予想されて、頭を抱える。 朝日信用金庫浅草雷門支店、宝達(ほうだつ)弘一支店長に相談すると、返済をせずに利息だけ払う10年の資本性ローンの提案を受け、経費削減の事業計画書の提出を求められる。 税理士にも相談して、役員報酬削減は当然とする事業計画書を出すと、跡継ぎ息子の存在も決め手の一つになって、令和13年1月21日までの資本性ローンを借りることができた。 宝達支店長は、返済のない資本性ローンで信用金庫もリスクを負う、「浅草さん」に賭けると話す。 「麻鳥」は、再度の緊急事態宣言で2月28日まで休み、3月1日から営業を再開した。

 ご存知、「常盤堂雷おこし本舗」、雷門横の本店は浅草寺の支院の土地だそうだ。 社長の穂刈久米一さんは、220年の歴史のある店を、33歳で継いだ、店は命より大事だという。 先代は、本店と浅草寺裏に建てたゴロゴロ会館だけは、人手に渡すなと言って亡くなった。 従業員120名、一貫生産の大宮工場は立派な設備だ。 雷おこしの販売は、コロナ禍で年配の方の浅草詣でが減ったのが痛い、正月の売上も伸びなかった。 大宮工場は4割稼働、ゴロゴロ会館に団体の観光バスが来ず、ホールも興行がない、物販がなく食堂もホコリをかぶっている。 穂刈さんは、朝日信用金庫に決算報告に出向き、事業を縮小して、大宮工場の生産をゴロゴロ会館に移す、従業員は守ると、頭を下げた。

小三治さんの休養で、思い出したこと2021/03/31 06:59

 今月、3月6日放送のNHK・BS1「ザ・ヒューマン」「止まらない男 柳家小三治」を見て、3月12日に出した「コロナ下、小三治前進<等々力短信 第1141号 2021(令和3).3.25.>をきっかけにして、柳家小三治について、以前書いたものをいろいろと読んで頂いた。 そうしたら29日、ちょっと心配なニュースが朝日新聞朝刊に出た。

 見出しは「柳家小三治さん、休養」。 「人間国宝の落語家柳家小三治さん(81)が4月末まで高座を休養すると、所属事務所が明らかにした。小三治さんは体にだるさがあるため今月の22日に入院。検査の結果、腎機能に問題があり、治療しながら体力の回復に努めるという。出演を予定していた4月までの落語会は中止か延期される。」

 小三治さんは、同年代である。 小三治さんと都立青山高校で一緒だった男が浪人し、大学の同じクラスにいて、短信の読者だった。 世紀末の金融危機で、ペイオフなどが話題になり、銀行の貸し渋りや貸し剥がしもあって、私が会社を畳んだ頃、激励する意味もあったのだろう、新宿でご馳走してくれた。 落語好きの私に、彼が顔見知りだった小三治さんの当時のマネージャーも同席、小三治さんの『落語家論』(新しい芸能研究室刊)のサイン本を頂戴した。

 そうそう当時、別にクラスメートが三人で、六本木に呼んでご馳走してくれたっけ。 その一人はクラス会で、「馬場みたいなやつの、会社がつぶれるなんて…」と言ってくれた。 クラスメートは、有難い。 あれから20年ほど経った。

「止まらない男 柳家小三治」から、短信を「コロナ下、小三治前進」と題した。 小三治さん、しばらく休養したら、ぜひまた、前進してもらいたい。 なんたって、同年代なのだから…。

小三治の「青い鳥」2021/03/23 06:59

      小三治の「青い鳥」 <等々力短信 第816号 1998.8.15.>

 いつも8月15日には戦争のことを書いてきた。 8月10日は江國滋さん の一周忌、8月15日は江國さんが「大いなる繁栄ここに日本忌」と詠んだ日 本忌だ。 「日本忌」が大予言だったかもしれないと思わせる昨今の経済情勢 でもある。 けれど江國さんは、お友達だから、柳家小三治著『ま・く・ら』 の三番煎じを許して下さるだろう。

 日航機のスーパーシートで、親切なスチュワーデスに会い、父親のことまで 思い出させてくれた話に、一歩踏み込みと、その心は次のようになる。 小三 治は、二、三年前から、ひとの幸せって何だろう? 人間って何だろう? 自 分って何だろう? って、考えてきた、というのだ。 長い間、幸せって、も しかしたらいつか手にすることができる、大きなものだと思ってきた。 何と かして手に入れようと努力するなり何かすれば、いつか手に入るかもしれな い。 ところが、いつの間にか、そういうものはない、と思うようになった と、自分も年齢のせいで着地に入ったのかもしれないという、小三治は、いう のだ。 じゃ、幸せって一体何だろうかといえば、ちょっとした幸せ、ちょっ とうれしいこと、それを幸せっていうんじゃないかなって、このごろ思うとい うのである。 つまりスチュワーデスの親切は、幸せのかけらで、父親にまた めぐりあうことができたのは、中くらいの幸せだ。 毎日毎日のそうした幸せ のかけらを、数珠つなぎにして、それで大きな幸せになるのだろう、と。

 『ま・く・ら』のおわりに「『マイ・プレジャー』のススメ」という章があ って、最近は「サンキュー」の返事に「ユア・ウェルカム」というより、「マ イ・プレジャー」を使うという話がある。 ありがとうと言われて、「いえ、 あたしの楽しみですから」と言い返す。 小三治は、これに感動して、何とい い言葉ではないか、という。

 いつも元気で十日に一度、なんとなく作文が書けるというのも、125人か らの方にきれいな切手を貼って送れるというのも、そして読んでいただけると いうことは、みんな幸せのかけらであり、何にもまして「マイ・プレジャー」 なのである。

 ご入院中というT先生から、お葉書をいただいた。 「等々力短信」で、柳 家小三治の『ま・く・ら』を知り、奥様に講談社文庫を買ってきてもらって、 面白く読まれたという。 「等々力短信」がなければ、この本など生涯接しな かったでしょうね、とあった。 これなど、中の上くらいの幸せである。

(令和の脚注 : 1998年は平成10年。T先生とは、『福澤諭吉全集』を富田正 文先生とともに編纂なさった土橋俊一先生だった。)