福沢の墓・ヘボン・荻生徂徠・歩こう会2017/10/14 07:06

慶應志木会・歩こう会、「目黒から三田へ 歴史と自然に触れる」に関連して、
ご参考までに、今まで「福沢諭吉の墓」「ヘボン」「落語・井戸の茶碗」「荻生徂
徠」「慶應志木会・歩こう会」について、このブログ<小人閑居日記>に書いた
リストをあげておきたい。 「慶應志木会・歩こう会」には、2006(平成18)
年9月30日の「市川、矢切周辺遺跡巡り」以外は全部参加しているようだ。

   「福沢諭吉の墓」
善福寺・福沢諭吉墓所<小人閑居日記 2010. 10.12.>
宿題の小さな墓石を見に行く<小人閑居日記 2010. 10.13.>
高仲熊蔵・はな夫妻の墓<小人閑居日記 2010. 10.14.>
麻布山善福寺…空海の杖、親鸞の杖<小人閑居日記 2010. 10.15.>
福沢諭吉の、墓についての考え<小人閑居日記 2011. 8. 23.>

   「ヘボン」
「新・横濱歴史散歩」の聴講<小人閑居日記 2003.4.13.>
ヘボン、明治学院、横浜海岸教会<小人閑居日記 2003.4.14.>
「ワイコフ、マコーレー賞」のこと<小人閑居日記 2003.4.15.>
初期「明治学院」の略史<小人閑居日記 2003.4.16.>
ヘボンの四大事業<小人閑居日記 2003.6.10.>
ヘボンの『和英語林集成』<小人閑居日記 2003.6.11.>
岸田吟香のこと<小人閑居日記 2003.6.12.>
ヘボンさん<等々力短信 第928号 2003.6.25.>
横浜関内散歩3 山下公園、ヘボン邸、中華街<小人閑居日記 2003.7.25.>
雨中の横浜にヘボン博士の足跡を尋ねる<小人閑居日記 2009. 4.30.>
ヘボン来日150周年記念講演会<小人閑居日記 2009. 9.19.>
ヘボンの『和英語林集成』<小人閑居日記 2009. 9.20.>
幕末明治初期の日本語を知るために<小人閑居日記 2009. 9.21.>
医療宣教師・ヘボン博士<小人閑居日記 2009. 9.22.>
ヘボン博士、大童信太夫の痔を手術<小人閑居日記 2013. 6.29.>

   「落語・井戸の茶碗」
扇遊の「井戸の茶碗」<小人閑居日記 2006.7.24.>
志の輔「井戸の茶碗」前半<小人閑居日記 2012. 5. 4.>
志の輔「井戸の茶碗」後半<小人閑居日記 2012. 5. 5.>
白酒の「井戸の茶碗」<小人閑居日記 2014.1.28.>

   「荻生徂徠」
扇辰の「徂徠豆腐」前半<小人閑居日記 2015.3.16.>
扇辰の「徂徠豆腐」後半<小人閑居日記 2015.3.17.>
天才儒者・中根東里、知られざる大詩人<小人閑居日記 2015.7.2.>
磯田道史さんの荻生徂徠像<小人閑居日記 2015.7.3.>

   「慶應志木会・歩こう会」
秋の小江戸・川越散歩<小人閑居日記 2004.9.25.>
「江戸の母」川越<小人閑居日記 2004.9.26.>
懐かしの昭和「谷根千ウォーク」<小人閑居日記 2005.9.9.>
根津「はん亭」の話<小人閑居日記 2005.9.10.>
青梅の吉野梅郷を「歩こう会」<小人閑居日記 2007. 3.19.>
甘党の青梅散策、その前奏曲<小人閑居日記 2007. 3.20.>
泉岳寺と川上音二郎と福沢<小人閑居日記 2010. 10.8.>
港区東部の「井戸」を歩く<小人閑居日記 2010. 10.9.>
三田旧図書館横「文学の丘」<小人閑居日記 2010. 10.10.>
焼き茄子から思い出した事<小人閑居日記 2010. 10.11.>
善福寺・福沢諭吉墓所<小人閑居日記 2010. 10.12.>
東京駅、丸の内界隈「歩こう会」<小人閑居日記 2013.10.17.>
松平郷松平家ご当主と太田道灌研究家<小人閑居日記 2013.10.18.>
大嘗祭の行われた本丸大芝生<小人閑居日記 2013.10.19.>
皇居周辺トイレの方角・銅像の視線<小人閑居日記 2013.10.20.>
「志木歩こう会」で早稲田へ<小人閑居日記 2014.10.27.>
漱石のゆかりの町から神楽坂へ<小人閑居日記 2014.10.28.>
「志木歩こう会」俳句「早稲田から神楽坂へ」<小人閑居日記 2015.1.1.>
慶應志木会・歩こう会<等々力短信 第1076号 2015.10.25.>
伝馬町牢屋敷のこと<小人閑居日記 2015.10.27.>
「時の鐘」と於竹大日如来井戸跡<小人閑居日記 2015.10.28.>
芥川龍之介と田端文士村記念館<小人閑居日記 2016.10.11.>
田端から上野・本郷両台地の谷間を歩く<小人閑居日記 2016.10.12.>
昼食でホッと、湯島から駿河台へ<小人閑居日記 2016.10.13.>

明治学院・大石内蔵助と福沢諭吉の終焉の地2017/10/13 07:26

 畠山記念館から、佛所護念会の前を通って、明治学院へ行った。 岡田幸次 郎さんが、私が明治学院の中学を出たのを知っていて、コースに入れてくれた のだ。 当時は、池上線の荏原中延から五反田に出て、都電の4番で白金猿町 の次の二本榎の明治学院まで通っていた、その先が清正公前だった。 歩こう 会一行で明治学院に入ると、たまたま礼拝堂(チャペル)で高校のPTAが音楽 会か何かを始める前だったので、頼んで礼拝堂の内部を覗かせてもらった。 大 正5(1916)年の建設で、ウィリアム・ヴォーリズの設計、朴訥な木の椅子が 並んだチャペルの雰囲気を味わってもらう。 中学時代は、毎朝ここで礼拝を し、聖書の朗読を聴き、祈り、讃美歌を歌った。 入学式、学期末の式、卒業 式などもここで行った。 キャンパスを奥に進むと、創設者ヘボンの胸像があ った。 横浜開港と同時に来日したアメリカ人宣教師ヘボン(James Curtis Hepburn,1915-1911)は、人々に医療を施し、“ヘボン式ローマ字”を考案、 本格的な和英・英和辞書『和英語林集成』を編纂して、聖書の日本語訳を完成 させた。 文久3(1863)年に、妻クララと共に横浜に開設した《ヘボン塾》 は、その後、移転して築地のミッションスクールとなり、ここ白金の明治学院 へと発展した。 胸像の銘板にあったHepburnを示して、ヘボンは映画『ロ ーマの休日』のオードリー・ヘップバーンと同じで、幕末の発音だと話した。  東門から桜田通りに出て、清正公覚林寺の前を横断、まっすぐ三田へ向かうの かと思ったら、芝白金三光町育ちの岡田さんが、一味違うコースを用意してい た。

 落語「井戸の茶碗」は、気持のよい噺だ。 舞台は清正公界隈で、細川家の 屋敷に住む若侍が登場する。 芝志田町で育った父は、晩年まで五月五日には 清正公(せいしょこ)様のお参りを欠かさなかった。 父の話では大正時代、 昭和天皇が幼少の頃に住んでいた東宮御所があり、私が知っている光輪閣、高 松宮邸のある一帯が、肥後熊本五十四万石細川越中守家の下屋敷だった。 幼 少の昭和天皇が自転車で坂を下りて、町に飛び出してしまい、大騒ぎになった ことがあったそうだ。

 桜田通りを渡った下の道から、急な細道を上がると都営高輪アパートがあり、 その片隅の崖上に「大石良雄外十六人忠烈の跡」があった。 赤穂浪士の大石 内蔵助良雄ほか16人は、元禄16年2月4日(1703年3月20日)、熊本藩細 川家の下屋敷で切腹した。 ちなみに、息子の大石主税良金ら10人は、三田 の慶應義塾の隣、今はイタリア大使館のある、伊予松山藩の屋敷で切腹した。  旧細川邸のスダジイ(東京都指定天然記念物)の横を通って、ここでも「裏ワ ザ」、高輪区民センターのエレベーターで桜田通りへ降りた。

 魚籃坂下の交差点を渡り、長松寺で荻生徂徠(1666-1728)の墓を見た。 荻 生徂徠(1666-1728)は江戸中期の儒学者・思想家・文献学者で、柳沢吉保に 出仕、徳川吉宗に重用された。 初め朱子学を学び、のち古文辞学を唱道した。  長松寺の先の、幽霊坂で右折、実はこの坂の途中を右に入った御田(みた)小 学校の手前の南台寺にわが家の墓地がある。 父は御田小学校を卒業したから、 百年近い後輩の子供たちの声を聞きながら眠っているのだ。 その道を曲がら ないで、すぐの右にある玉鳳寺に寄ったら、御化粧延命地蔵尊があった。 「お しろい地蔵」と呼ばれる白い地蔵様で、美白を願う人がお参りするそうだ。 顔 の回りを撫でるのだろう、少し黒くなっている。 「御化粧」で「延命」だそ うですよと、竹内富美子さんに声をかける。 撫でると、手に白いものがつく ようだった。 南台寺へは、いつも魚籃坂から入るので、灯台下暗し、こんな 地蔵尊があるのを全く知らなかった。

 玉鳳寺門前の坂を下り、桜田通りへ出、演説館の崖下に最近出来た慶應義塾 グッズや本などを売る三田インフォメーションプラザの前を通って、正門から 三田キャンパスに入った。 右手の坂を上ったところに、福沢邸跡がある。 明 治34(1901)年2月3日、福沢諭吉はこの自宅で亡くなった。 昭和46(1971) 年に大正10年三田会が三田移転百年を記念して建てた「福沢諭吉終焉之地」 の記念碑、その隣の福沢先生の字で(私が「我々のことを言った」と形容した) 「気品の泉源、智徳の模範」の碑を見た。 ここで幹事の行き届いたお世話で、 楽しい一日を過ごすことのできた志木会・歩こう会は解散となった。 4時少 し過ぎ、私の歩数計は24,776歩になっていた。 最年長でヨタヨタながら、 何とか元気で毎年付いて歩けるのが有難い。

雅叙園から白金台、常光寺と畠山記念館2017/10/12 07:23

 大鳥神社の横を通って、目黒川の手前を右折、太鼓橋を渡って、目黒雅叙園 へ。 雅叙園前に「お七の井戸」がある。 本郷追分の八百屋お七は、天和2 (1682)年12月の大火で焼け出され、駒込の寺に避難して知り合った寺小姓 吉三に恋こがれ、吉三逢いたさに自宅に放火して、鈴ヶ森で火刑に処せられた。  吉三は、お七の火刑後、僧侶になり、名を西運と改め、明治13年頃までこの 場所にあった明王院に入り、境内のこの井戸で水垢離を取り、目黒不動と浅草 観音の間、往復十里の道を念仏を唱えつつ隔夜一万日の行を成し遂げたといわ れる。 なお、雅叙園から目黒駅方面へ登る、行人坂の大円寺から出火して、 江戸中を焼いた「目黒行人坂の大火」は、明和9(1772)年2月29日に起っ たから、場所はすぐ上だが、お七物語の大火とは別物である。

 その雅叙園から目黒駅方面へ登る行人坂は、急坂である。 途中の大円寺の 住職は、家内の中学の同級生だ。 中学の修学旅行の折、お父上の先代住職の 縁で、比叡山延暦寺の見学に厚遇を受けたそうだ。 今回、行人坂の急坂を回 避する「裏ワザ」を教わった。 雅叙園の滝裏からの景色を眺めたあと、雅叙 園アルコタワーアネックスのエスカレーターで、杉野服飾大学の道へ出られる のだ。 この道沿いに、兄が亡くなるまで住んでいたので、会社の清算事務を するのに通っていた。 歩こう会に「裏ワザ」ではと、幹事の越知さんは躊躇 していたが、すでに11,000歩を超え、へらへらになっていた私などは、大い に助かった。 昼食は? と訊けば、白金だという。 まだ、少し歩かなけれ ばならない。

 待望の昼食は、プラチナ通り(外苑西通り)の「白金台 すし兆」、先付け三 品に、「おまぜ」と称するばらちらし、赤だしと白味噌の椀。 どら焼きまでも らって、おなかはいっぱい、元気を回復した。 プラチナ通りの先で、芝白金 三光町育ちの岡田幸次郎さん推薦のChocolatier Ericaに寄ったら、皆さん奥 さんにお土産を買ったのだった。

 上大崎常光寺の「福沢諭吉先生永眠之地」の碑へ行く。 「永眠之地」に違 和感があるが、それはあとで書く。 私などは、昭和52(1977)年に麻布善 福寺に移された福沢先生の墓より、高校時代、命日の2月3日に落第しないよ うにとお参りした、常光寺のほうが懐かしい。 福沢先生は例の朝の散歩で、 三田からこの近辺まで来ていて、閑静で眺めがよいと気に入り、あらかじめみ ずからの埋葬地と定めたのだそうだ。 慶應志木会・歩こう会が、ここから三 田まで歩こうというのは、まことにふさわしいといわねばならない。

 幹事が発見してあった坂を昇って、白金台の畠山記念館へ行く。 私は初め てだったが、鬱蒼とした大樹と庭園が素晴らしい。 秋季展、新収蔵記念「近 代数寄者の交遊録 益田鈍翁・横井夜雨・畠山即翁」展を開催中だった。 即 翁・畠山一清(1881-1971)は荏原製作所の創始者。 80年忌という鈍翁・益 田孝(1848-1938)は松永安左エ門との関係で知っていたが、夜雨・横井半三 郎(1883-1945)は知らなかった。 実業家で茶人、美術コレクターたちの交 遊と、小田原の地は関係が深かったようだ。 展示されていた、朝鮮時代(16 世紀)の柿の蔕(へた)茶碗、銘「毘沙門堂」(重要文化財)で、即翁が晩年の 鈍翁をもてなした「沙那庵」という茶室が畠山記念館にはあるそうだ。

志木会・歩こう会で、地元を歩く2017/10/11 07:13

 7日の土曜日、慶應志木会・歩こう会、「目黒から三田へ 歴史と自然に触れ る」があって、今年も家内と参加させてもらった。 前・事務局の竹内さんが 参加されるのも嬉しい。 二三日前には当日大降りの予報で心配したが、運よ く雨は上がっていた。 7月15日発行の『慶應志木会報』VOL.37の案内に、 前回の神楽坂翔山亭本郷店での写真入りで、「最年長馬場先輩(10期)の記録 によると、H27年 日本橋~築地・越中島が23,272歩、H28年 田端~本郷・ 湯島が23,628歩だったそうです。さて、今年は何歩でしょうか?」とある。

 集合は午前10時の東急目黒線武蔵小山駅、幹事は35期の越知靖弘さんと大 澤宏樹さん、今回もきちんと下見がしてあって、用意周到の案内ぶりだった。  実は私、奥沢在住で武蔵小山まで4駅だし、生れ育ちが品川区中延で延山(え んざん)小学校を卒業、「延山」の名は中延の「延」と、小山の「山」から来て いると聞いていた。 家内は目黒の育ちで、今回のコースには、いろいろ思い 出深い所があった。 つまり地元なのである。 しかし、改めて案内してもら って歩いてみると、知らない場所や知らないことがいろいろあるのだった。  「慶應志木会・歩こう会」、侮り難い、有難い会なのである。 毎年書くが、参 加は13名、せっかくの好企画なのに、参加者の少ないのが、もったいない。

 幹事と同期で、H27年 日本橋の時は某銀行の木更津支店長だった小林恒夫 さんが、小山支店長になっていた。 土曜日なのに支店長会議があるとかで、 スーツにネクタイで登場、武蔵小山駅構内で、地元「小山」の見事な解説をし てくれた。 このあたりは筍の名産地(江戸中の大半を産した)、大正12(1923) 年に目黒蒲田電鉄の小山駅が開業したが、栃木県小山(おやま)と区別するた め翌年、武蔵小山駅になった、昭和31(1956)年東洋一のアーケードと言わ れたパルム商店街(全長800mは東京一長い)はよくテレビに出て有名、駅前 に建設中の41階建のタワーマンションの完成で様相を一変するだろう、など。  「ムサコ」という呼び名は近年のものか、馴染みがなかった。

 小山台高校の横を通って、林試の森公園へ。 「林試」は明治33(1900) 年にできた林業試験場、昭和53(1978)年に筑波に移り、平成元(1989)年 に公園として整備された。 東京ドーム2・5個分の広さ、雨上がりの森が気 持ちよい。 天恩山 五百羅漢寺へ。 江戸時代に松雲元慶によって彫られた木 造五百羅漢像・諸仏像は東京都重要文化財(現存305体)。 明治41(1908) 年に、本所五つ目(現江東区大島)から、目黒に移転した。 実は、家内が小 学生の頃、ここは尼寺で、庵主さんに日本舞踊を習ったと聞いていた。 展示 の中に、「尼僧の時代」(1938(昭和13)年~1981(昭和56)年)というのが あり、二人の写真があった。 初代は妙照尼…安藤(小久江)照(お鯉さん)、 14歳で花柳界に入り、市村羽左衛門と結婚したが、離婚して花柳界に戻り、桂 太郎の愛妾となった。 桂の死後、カフェや待合を経営したが、ある事件に関 連し、出家した。 二代目、小久江慈雲…妙照尼の義妹。 この慈雲さんが、 写真によって家内の踊りの先生だと判った。 学校から帰ると、このお寺で、 踊りを習ったり、廊下の雑巾がけをしたり、遊んだりしていたそうだ。 苦難 の時期を経て昭和56(1981)年、再建計画を立てた日高宗敏貫主によって、 現在のお堂が完成したという。 実は平成15(2003)年、兄の葬儀に、この お寺の羅漢会館を使わせてもらった。

 目黒不動尊から、目黒寄生虫館へ行き見学。 回虫やサナダ虫の見本を見て、 小学生の頃、学校でサントニンを飲まされた話をした。 検便をマッチ箱に入 れて、学校へ提出した、戦争直後の下肥が使われていた時代であった。

福澤諭吉協会の先生方のご恩2017/09/26 07:15

 21日から23日に書いた福澤諭吉協会の土曜セミナー、加藤三明さんの「キ ングス・コレッジ・スクールからキングス・コレッジ・スクールへ――幼稚舎、 横浜初等部とイギリスとの交流」だが、拝聴しながらいろいろなことを思い出 した。 加藤三明さんが、中山理先生、清岡暎一先生、土橋俊一先生、桑原三 郎先生、山口一夫先生、中川眞弥先生に、数多の励ましを受けたという話をさ れた。 実は私も、30代の前半から一番若い方のメンバーとして福澤諭吉協会 に参加していた。 当時から始め、来月1100号を迎える「等々力短信」につ いて、富田正文先生、土橋俊一先生、桑原三郎先生、山口一夫先生、中川眞弥 先生、西川俊作先生、飯田鼎先生、服部禮次郎さんから、数々のお手紙や励ま しを頂いたことが、今日までの「継続」の原動力の一つになったのであった。

 加藤三明さんが福澤諭吉協会の旅行で、清岡暎一先生と同室になった話では、 私も紀州か徳島への旅行で西川俊作先生と同室になった緊張を思い出した。  私は小尾恵一郎先生のゼミの出身なので、西川先生と小尾先生が同じような研 究をして、親しかったことを知っていた。 西川先生は、気さくに小尾先生の 想い出などを話して下さった。 私が江戸川区小松川でやっていた家業のガラ ス工場を畳んだ話をすると、西川先生も平井で呉服屋さんを畳んだことがある とか言われたので、救われた思いがした。 西川先生が墨田川高校(?)の頃 から野球、後に草野球をやっておられたとは想像もしていなかった、折から日 本シリーズのシーズンで、二人でテレビを見たのだった。

 とりわけ土橋俊一先生と、桑原三郎先生には、「等々力短信」に感想のお手紙 を、沢山に頂戴した。 土橋俊一先生が病気をなさってからの、先生が左手、 本字で書かれたお手紙は、特に心に沁みた。 加藤三明さんは時間の関係で、 桑原三郎先生とイギリスの関係に、言及されなかったのだろうが、幼稚舎とイ ギリスの交流には、桑原三郎先生の存在が大きかったのではないだろうか。 桑 原先生は、1965(昭和40)年慶應義塾から派遣され一年間、英国の公的な国 際文化交流機関British Council のVisitorとして英国に留学し、『イギリスの 義務教育』(慶應通信・1970年)をまとめた。 ウィルバート・オードリーの 絵本『きかんしゃトーマス』を、最初に『汽車のえほん』(ポプラ社)として翻 訳したのは、桑原先生と清水周裕慶應義塾大学名誉教授だった。 清水周裕教 授が幼稚舎で7年間、英語を教えていたこともあったのは、先頃、桑原・清水 両先生の『汽車のえほん』翻訳の真相・補遺<小人閑居日記 2017.7.29.>に 書いた。

 山内慶太さんが、キングス・コレッジ病院やキングス・コレッジ・スクール を見学した話は、交詢社が建替え中で日本橋の三井本館に間借りしていた2002 年3月30日(協会HPは20日になっているが)の福澤諭吉協会の土曜セミナ ー「福沢諭吉の見たロンドンの医療―新発見資料を中心に」や、2008年5月 17日「あるびよんくらぶ」英国文化研究会主催の慶應義塾創立150年記念セミ ナー「英国に学ぶ」という連続講演会で「福澤先生の英国体験」というのを聴 いていた。 <小人閑居日記>に書いていたので、明日紹介したい。