中世、浪人を「悪党」に変えた気候変動2025/06/08 06:49

 5月27日から「トクヴィル分権論と福沢」を書いた宇野重規さんから、(4月)谷口将紀さんに代わった朝日新聞の「論壇時評」だが、その準備のために論壇委員会が開かれている。 その委員が推薦する論考を選んで、「論壇Bookmark」が掲載される。 5月23日は、論壇委員の鶴見太郎東京大学准教授(歴史・国際)が推薦した、国立歴史民俗博物館助教の土山祐之さんの「13世紀における浪人の変容と気候変動 領主・村落とのかかわりから」(歴史学研究4月号)だった。

 気候変動については、学生時代に文化地理研究会でご指導いただいたのが、『寒暖の歴史 気候700年周期説』の西岡秀雄先生だったから、興味がある。(<小人閑居日記>2018.12.11~16.、2023.7.22.~27.参照)

 土山祐之さんの論考は、中世13世紀の気候変動が、浪人を「悪党」に変えた、というのである。 日本史には、公的な課役を負わない「浪人」(浮浪人)や、既存の支配者に従わない「悪党」と呼ばれる人々が存在した。 だが、13世紀までの浪人は、農地を開墾する労働力として村に招き入られる存在だった。 そんな関係性が変化し、浪人が村から排除され、鎌倉幕府からは悪党予備軍とみなされるようになる。

 その背景には、当時の気候変動とそれに伴う飢饉があると、土山祐之さんは指摘する。 「雨が降りすぎれば洪水。降らなければ日照り。どちらにせよ生産不順で食糧不足となり、村落と浪人が山野河海の恵みを奪い合う事態が起きました」。 村や山野河海から浪人を排除する過程で、村は排他性を強め、自治の性格の強い「惣村(そうそん)」へと変化していくのではないか、というのが土山さんの見方だ。

 こうした見方の裏付けになったのが、中塚武名古屋大学教授(古気候学)らの研究だった。 木の年輪に含まれる酸素のわずかな違い(年輪酸素同位体比)を分析し、過去数千年にわたる夏の気温や降水量の変化を、年単位で高精度で復元できるというもの。 「世界をリードする研究」(土山さん)だという。

 土山さんは、この研究データと史料の読解とを組み合わせて、気候変動を機に村落が排他性を帯び、村落や山野河海から締め出された浪人が悪党になっていくと結論づけた、のだそうだ。 研究は現在を読み解く手がかりにもなる。 異常気象が一因なら、昨年来のコメ不足は容易に解決しない可能性もあり、移民・難民問題も背景の一つに気候変動があり、今後も深刻になる恐れがある、など。

 西岡秀雄先生も、『寒暖の歴史 気候700年周期説』で、木の年輪を重要な研究材料にした。 近年、法隆寺の金堂や五重塔が天智9(670)年の火災の以前に建てられたかどうかという論争がある。 奈良文化財研究所の光谷拓実、大河内隆之両氏の「年輪年代法による法隆寺西院伽藍の総合的年代調査」(『仏教芸術』第308号、2010年1月)という研究がある。 両氏は、1950年代に早くも西岡秀雄先生が法隆寺五重塔心柱や夢殿桁材の年輪計測によって再建説を否定した先駆的研究をしている事実を、特筆している。

田中金太郎さんの句集『風速計』2025/05/30 07:01

 田中金太郎さんから、句集『風速計』を頂いた。 俳誌『夏潮』のお仲間で、最近は渋谷句会でもご一緒することがあるのだが、お話したことはなかった。 哲学を研究された方だとかいう噂を聞いたことがある。 略歴に、「昭和16年生まれ」とあるから同い年、「同志社大学神学部大学院博士課程中退。西独マールブルク大学在外研究」とある。 江戸川の零細なガラスの町工場で暮らしていた者とは、住んだ世界が違う。 東日本大震災の年に、「七十の手習い」で、本井英選の『夏潮』と、夏井いつき選のウェブサイト「松山俳句ポスト」に投句をはじめたことを、「文学的多元論ともいうべき思量ゆえにである」とする。 「思量」を『広辞苑』で引いたら、「思いはかること。考えること。」とあった。

 15センチ正方形の判型も手頃で、キム・チャンヒさんの装丁・イラストも素敵、発行所は松山市のマルコム.コムとある。 お好みか、句によってだが、古い字体の漢字を使っている。 350句を、ともかく拝読。 いいなと思った句、感じるところのあった句を、挙げさせていただく。

風にのり三社(示偏)祭の笛の音
ゆたかなる胸はそのまま宿浴衣
視(示偏)線を感じると思つたらかまきり
八手の花球體の宇宙ステーション
母の日や母老いし少年の老いし
靑大將またぐ勇氣のなかりけり
水鐵砲厭きればただの竹の筒
おほくしやみする瞬間のエクスタシ
父の自死しらせる使ひ冬の月
弟の萬年筆の春便り
黄金週間家がいちばんいい
蝦蟇(がま)ぢつと犬ににほひを嗅がれをり
過ぎし日やサンジェルマンに枯葉まふ
草取りやふとき蚯蚓(みみず)にみがまへる
こほろぎにスリツパかたほう貸してやる
妻逝きてとりのこされし卯月かな
金太郎飴も売られて菊まつり
巴里に在る娘の箸紙を書きにけり

東京六大学野球、「捕らぬ狸の皮算用」2025/05/25 07:29

 東京六大学野球100周年の春のリーグ戦、例によってBIG6.TVの中継を見て、LINE仲間に結果を速報している。 第6週、慶應は法政と、5月17日(土)雨天中止、18日(日)6対6プロ野球併用日で9回引分、19日(月)6対4、20日(火)5対6で1勝1敗1分、21日(水)4回戦までもつれて6対9と破れ、勝ち点を取れず、法政と並んで勝ち点2勝率.500の4位に沈んだのであった。

 5月21日現在、明治が7勝3敗1分勝ち点3勝率.700で1位、早稲田が7勝4敗勝ち点3勝率.636で2位、立教が6勝5敗勝ち点2勝率.545で3位、東大が8敗で6位となっている。 24日からの第7週は、明治と法政、立教と東大。 31日からは早慶戦。

 法政が明治から勝ち点を奪い、慶應が早稲田から勝ち点を取れば、勝ち点3で明治、法政、早稲田、慶應が並ぶことになる。 法政連勝なら7勝5敗、明治7勝5敗。 優勝しそうな方が負けることの多い早慶戦、慶應連勝なら7勝5敗、早稲田7勝6敗。 勝率で明治、法政、慶應が並ぶことになる。 そういう場合、優勝決定戦になるのだろうか。 こういうのを「捕らぬ狸の皮算用」、という。

 昨24日の明法1回戦、6対0で明治が先勝、優勝に王手をかけ、早くも「皮算用」に暗雲が現れたのであった。

「花に 雲に 海に 風に」2025/05/10 06:58

             「花に 雲に 海に 風に」

        等々力短信 第496号 平成元(1989)年5月15日

 隠岐島からの「飯美便り」は、’89・2・16・付の№316を最後に、永久に頂けないことになってしまった(この号は11月下旬からのご闘病中、唯一の「飯美便り」で、おそらく渾身の力をふりしぼって、お書きになられたものであろう)。 横田武さんが4月28日に亡くなられたことを知らせる奥様からのお葉書は、宛名が横田武さんそっくりの筆跡だった。 ただ宛名の下が、空白になっている。 その空白が、悲しい。 そこはいつも横田さんが、題字と詩を書かれていたスペースだった。

 ’88・9・9・№313「光に風に緑に水に」 静かな心 静かな心は/照らされている心/静かな心は/仰ぎみている心//静かな心は/待ちわびている心〈信州にて〉

 ’88・5・26・№309「お寒いことで」 日常 いま/せんならんことを/一生懸命でする/ただ それだけで/そんなつね日ごろ/いまの重味/いま三昧/いま

 ’87・12・20・№304「暖冬」 書く 字も/文も/いまの/自分を/書いて/いるんですね

 昨年の夏、布施村が朝日森林文化賞の優秀賞を受けたことをきっかけとして、等々力短信に「森を守る村」「ノリノス・メノハノス」「神在る里」の隠岐シリーズを書いた。 横田さんはたいへん喜ばれ、「この冬にでも、この里の習俗を書き留めてみようかなどと」思っているというお手紙を下さったのだが、残念ながらその時間はなかったのではなかろうか。 ’88・11・10・№315には、もうご不調だったろう10月下旬。 兵庫県柏原町で開かれた「巨木を語るフォーラム」に出張された記事が見え、添え書きに「巨木フォーラムで「森を守る村」が六百の全員にコピーして配られました おゆるしを」とあった。

 横田武さんは、ふるさと隠岐の教育に生涯を捧げられた方で、小学校長を定年退職後も、隠岐に住んで、地域の発展のためにつくし、隠岐を愛し、隠岐を書きつづけてこられた。 その著『隠岐の四季 わたしの心象風景』の序文で、横田さんの先生である森信三さんに「『天』はあの隠岐という日本海上に孤絶する一小島にも、著者のごとき一偉材を配して、遠く民族の心ある人々のために、その断面の概要を残さしめられたとしか、この書の感慨は表白の仕様がないのである」と言わしめた。 その本に、独特の温かい書体で、サインして下さっている。 「花に 雲に 海に 風に」。 ご冥福をいのる。

「森を守る村」2025/05/09 06:59

                   森を守る村

         等々力短信 第468号 昭和63(1988)年7月25日

 隠岐島の布施村が、朝日森林文化賞の優秀賞を受けるという6月27日付け朝日新聞朝刊を読んで、うれしくなり、すぐ布施村飯美の横田武さんに、お祝いのハガキを出した。 横田さんは、隠岐の自然と風土、その四季の移りかわりを、手書き謄写版刷りのハガキ通信「いいび便り」に綴って(ほぼ月一回)送り続けていらっしゃる。 私が『五の日の手紙』の本を出した時、息子の同級生のお祖父様である横田さんが、この道の大先輩であることが、わかった。 以来、「いいび便り」と「等々力短信」の交換をさせていただいている。 だから「隠岐」や「布施村」という字を見ると、とても親しい感じがする。

 私のハガキに対して、横田さんは、さっそく「’88・7・1・天然林が森林文化賞に輝いた日に」という、ご署名入りの『造林始祖二百年祭記念誌』を送って下さった。 布施村は、昨、昭和62年11月3日、造林始祖二百年祭を挙行して、江戸時代の享保年間に、貧しかったこの村で、杉の植林の事業を始めた五人の人物に感謝状を贈ったのだ。 杉を植えることを教えた老医と、その教えを実践した当時の若者四人に、である。 その人々の先見と努力が、布施村林業の、ひいては隠岐島林業の礎になったためだそうだ。

 「故 藤野孫一殿 あなたは 享保の昔 旧元屋村 原玄琢翁に教を受け 郷党相計り相扶け 荒地を開墾し杉の植林に 刻苦精励されました このことが 本村林業の先駆となり 経済基盤の確立ともなりました」。 布施村長の感謝状の「あなたは 享保の昔」という書き出しの文句には、感動した。 五人の始祖の子孫の人々が、島内はもとより松江や茨木、西宮から駆けつけ、揃って式典に参列しているのも、とてもよい。

 隠岐布施村の、この話には、都会にあって、めまぐるしい変化にさらされながら、毎日を送っている私たちが、忘れてしまった大切なものが、あるような気がした。 なつかしい、あたたかい心がある。 なによりも「物指し」の長いところが、いい。 輸入材の方が安いからといって、日本中の森林を荒廃するにまかせておいて、いいはずがない。 森林の生育には、五十年、六十年という歳月を必要とすることを考える時、この「物指し」の長さは、とても大切なことに思われるのだ。

 「伐採すれば、村はその利子だけで食っていけるが、山はもうおしまいだ」。 優秀賞の天然林について、大田正春村長はそう語ったそうだ。 村は超過疎で、財政もひっぱくしている。 それでもなお、天然林を守ろうという心意気が、すばらしい。