あと十年をどう生きるか<等々力短信 第1034号 2012. 4.25.>2012/04/25 02:49

 兄とやっていた家業のガラス工場を、円満に畳んだのは60歳の時だった。  責任のない、自由な時間がたっぷりあるのは嬉しかったが、一方で、あとは死 ぬだけだという感じもあった。 せいぜい十年かとも思った、その十年が過ぎ てしまった。 先月『福澤手帖』(福澤諭吉協会)152号に「『福翁自伝』の表 と裏―松沢弘陽さんの読みなおし―」を書かせて頂いた。 松沢さんが綿密な 校注をなさった「新日本古典文学大系 明治編」『福沢諭吉集』(岩波書店) によ って、今まで能天気に面白い面白いと、読んだ積りになっていた『福翁自伝』 が、まったく別の顔を持っていたことがわかった。 81歳の松沢さんより十歳 下の私は、この本の脚注と補注を手掛かりに、『福翁自伝』を読みなおすことか ら、つぎの十年を始めねばなるまい、と告白したのであった。

 葉室麟さんの直木賞受賞作『蜩ノ記』(祥伝社)を読んだのは、2月18日の 「週刊ブックレビュー」の特集で、私より十歳下の作者ご本人の話を聞いたか らだった。 豊後羽根藩の郡奉行から江戸の中老格用人になっていた戸田秋谷 (しゅうこく)は、殿様の側室と密通し、小姓を斬り捨てた疑いで、十年後の 切腹を命じられ、旧所領の村に幽閉、藩の家譜編纂を続けている。 切腹まで あと三年、城内で刃傷沙汰を起こした若い檀野庄三郎が、監視と家譜編纂の手 伝いに派遣される。 庄三郎は、秋谷の揺るがぬ姿勢、家族との温かい暮し、 百姓たちと共に生きようとする在り方に、共感を募らせる。

葉室麟さんは、勤め人は50歳になると、定年が見えてきて、あと十年と考 える、自分も60歳になって、あと十年という感覚があった、と話した。 残 り時間をどう生きるか、を考える。 十年後の切腹という設定は残酷だが、誰 もがいつかは死ぬ。 武士の矜持、覚悟、死の尊厳を描きたかったという。 武 士、イコール日本人のストイックで優しい生き方である。 死に向かう態度が 問題になるが、誰でも死を受け入れ、毅然として亡くなることができる。 葉 室麟さんの念頭には、筑豊炭鉱の上野英信を訪ねた体験があった。 上野は突 然やって来た若い学生に、きちんと対応してくれた。

NHK「日曜美術館」で、その炭鉱の絵が世界記憶遺産に登録された山本作兵 衛を取り上げた時、上野英信の息子・朱(あかし)さんがいい人なのに感心し た。 今、上野朱著『父を焼く 上野英信と筑豊』(岩波書店)を読んでいる。  表題の一篇は、火葬の棺に、著作にどれだけの金と時間と命を注ぎ込んだか知 り尽していた母が、最晩年の作品、大量の本を抱かせた為、係が残業して追い 炊きする大事になった話だ。

「横浜と水」の物語2012/04/25 02:46

 「小さな旅」横浜散策の余談だが、元町公園へは2007年 5月に「枇杷の会」 の吟行で来たことがあった。 元町プールや弓道場や記念碑を見て、〈元町に女 生徒の声薄暑かな〉〈緑陰に剽と射た矢の走りをり〉〈ペンキ屋の発祥の地に椎 咲く香〉なんて句を作っていた。

 その時、公園の下の方にある「ジェラールの水屋敷」も見た。 明治の初め に、フランス人の実業家アルフレッド・ジェラールが船舶給水業を営んだ場所 である。 豊富な湧水を簡易水道で中村川まで引き、ハシケで外国船に飲料水 として売ったのだそうだ。 ジェラールの水は、明治期の船乗りたちに「イン ド洋に行っても腐らない」と評判だったという。 海岸通り(バンドbund) の一本裏の道を、水町通り(water street)というのは、船舶給水の店があっ たからだろう。 ジェラールはこの地で、西洋瓦とレンガの製造も手がけ、現 在のプール管理棟の屋根の一部に、その瓦が使われているそうだ。 ジェラー ルが使用した貯水槽は、関東大震災で埋もれていたのが、1988(昭和63)年 に元町公園を整備した時に発見されて、プール管理棟の前に現存し、『ブラタモ リ』の「横浜・港湾編」ではレンガをアーチ状に積んだ広大な貯水槽の内部を 撮影していた。

 居留地の外国人や駐屯軍兵士には、ビールを愛好する者が多く、本国から輸 入していたが、つねに不足していた。 1869(明治2)年、ローゼンフェルト が山手にジャパン・ヨコハマ・ブルワリーを開設したが、長続きしなかった。  現在の北方小学校付近は当時天沼と呼ばれていて、ここの湧水の質はビール造 りに適していた。 これに目をつけたアメリカ人ウィリアム・コープランドは 1870(明治3)年、ここにスプリング・ヴァレー・ブルワリーという醸造所を 作った。 その製品は「ビアザケ」と呼ばれて親しまれたという。 『ブラタ モリ』「横浜」は確か、その跡を求めて、北方小学校まで行っていた。 

 横浜の山手ではない海手、低地と埋立地の方は、元来海だった土地が多く、 どこを掘っても塩分を含んだ飲めない水しか出なかった。 関内の二か所、町 会所裏(開港記念会館付近)と三井組(本町4丁目付近)に飲める水を汲める 井戸があり、一日中この井戸に水を汲みに来る人が絶えなかったという。 こ のため野毛や太田付近の農家の中には、湧水を汲んで「水売り」として商売を 始める者もいた。

 1873(明治6)年、高島嘉右衛門、添田知通ら横浜の有力者を中心とした上 水道会社が工事を完了、多摩川の水を用水路や木の樋で引いて配水したが、水 もれが各所で起こり、経営は困難を極めた。 県が1883(明治16)年イギリ ス人パーマーに設計を依頼し、相模川から鉄管で水を引く新式水道が完成した のは、1887(明治20)年9月のことだった。

新知見の多かった山手散策2012/04/24 02:59

 フランス山とトワンテ山というのは知っていたが、アメリカ山を知らなかっ た。 20年前の1992(平成4)年4月、福澤諭吉協会の一日史蹟見学会で横 浜に来て、横浜開港資料館で開催中の「トワンテ山とフランス山―幕末の横浜 山手―英仏駐屯軍の四千二百日」という展覧会を解説つきで見た。 イギリス とフランスは、1862(文久2)年に起きた生麦事件の翌年から1875(明治8) 年までの12年間、居留民保護・居留地防衛のため、横浜山手に軍隊を駐屯さ せた。 外国軍隊の駐屯という事態に対し、幕府と明治政府は粘り強い外交交 渉を続け、ようやく主権を回復することが出来たけれど、明治も8年になって いたのだそうだ。 現在の「港の見える丘公園」一帯は英第20連隊の陣地が あったことからトワンテ(twenty)山と呼ばれ、現在のフランス山にはフラン ス軍が駐留していた。

 アメリカ山公園は、2009(平成21)年に開港150周年事業として開設され たという。 アメリカ山の名の由来は、1867(慶應3)年に山手一帯が外人居 留地となった折、ここ山手97番地がアメリカ公使館の用地として予定された が、実際に公使は住まず、書記官のポートマンが住んだことによるらしい。 こ れじゃあ、アメリカ山、知らないわけだ。 第二次大戦後には、アメリカ軍住 宅があったという。 

 エレベーターとエスカレーターで、楽にアメリカ山公園に達した散策一行は、 横浜地方気象台の横を通って、横浜外国人墓地入口前を過ぎ、山手本通りを進 む。 山手十番館の先では、居留地の境界(日本人off limits)を示す石柱が移 設されているのを見、火事で焼け石造りになった山手聖公会の前を通り、 BLUFF CLINICの前でBLUFFとは崖の意だが、外国人が居留地をそう呼んだ ので、THE BLUFFと定冠詞が付くと横浜山手を指すと教わる。 エリスマン 邸とベーリック・ホールの間の細い道を、元町公園に沿って右に入る。 近年 発見発掘されたという、ポンペイの遺跡のような山手80番舘遺跡が現れる。  イギリス人夫妻の住むレンガ造り三階建の建物が、関東大震災で崩壊した地下 室部分で、奥さんが犠牲になり、一時帰国中のご主人は戻ることがなかったと いう。 「冷たい旦那だ!」と感想をもらし、点を稼ぐ。

 本日のガイドは『小さな旅』の番組に、山手のご自宅書斎が出て来ていた。  エリスマン邸の横を通ったので、「サイトー邸は、どの辺?」と聞くと、モゴモ ゴ言っていた。 山手80番舘遺跡の少し先の角に、「関東学院の源流 横浜バ プテスト神学校発祥の地」記念のプレートがある。 「1884年10月6日、こ こ山手でA.A.ベンネットが横浜バプテスト神学校を設立した。関東学院キリス ト教教育の源流はここに発する。 校訓「人になれ 奉仕せよ」2009年10月 創立125周年記念」とある。 「ガァガーーーーーン」のサプライズ、その地 に建つ豪邸が「サイトー邸」なのであった。 「歓迎 慶應大学 六四の会ご一 行様」の貼り紙があり、心づくしの缶ビールやジュースが冷やされ、チョコレ ートなどが用意されていた。 桜は終わっていたが、元町公園の緑に包まれ、 プールを見下ろし、横浜全体が一望できる好立地である。 立派な庭には、シ ャクナゲやライラック、スズランが咲いていた。

 ダンスホール「クリフサイド」を左に見ながら、急な階段を降りると代官坂 の途中、元町に下り、前田橋を渡って、朱雀門から中華街へ、媽祖廟の先を左 折、すぐ左側の富筵(ふえん)で昼食となった。 ベテラン・シティガイド「人になり 奉仕する」斎藤さんの周到な案内と、シニア向けの配慮もあって、横 浜散策の小さな旅は、すこぶる楽しい旅になった。

ベテラン・シティガイドによる横浜散策2012/04/23 03:34

 20日、横浜散策の「小さな旅」へ出かけた。 文化地理研究会同期の会、六 四の会(むしのかい、1964年卒業)の仲間での散歩である。 昨年10月1日、 クラブをご指導頂いた西岡秀雄先生のお別れの会が三田であり、その時お会い した一年下で学年代表を務めた斎藤秋造さんが、翌2日のNHK総合『小さな 旅』「再起の記憶 刻んで~横浜 山下公園」に出演し、18年間も横浜市のボラ ンティア・ガイドをしていることが紹介された(この話は<小人閑居日記  2011. 10.8.>に書いた)。 それで、われわれの期の代表でこの会の幹事の加 藤隆康君が、斎藤さんにガイドをお願いし、今回の散策となったのである。

 10時に、みなとみらい駅で15名が集合、ランドマークタワーから吉川英治 もかんかん虫をしたドックヤード、帆船日本丸を横に見て汽車道をまっつぐに、 赤レンガ倉庫、新港橋から山下臨港線プロムナードで横浜の三塔、クィーンの 塔(横浜税関)・キングの塔(神奈川県庁)・ジャックの塔(横浜市開港記念会 館)と日本大通りのイチョウの新緑を眺め、山下公園へ出た。

 汽車道の途中、船員関係のナビオス横浜という穴の開いたビルの吹き抜けを 通るが、その枠から見る赤レンガ倉庫の遠景や、日本大通りからの邪魔なビル を取り払った港の景色など、都市計画・道路計画で景観を整備する「修景」が 行われていることを教わる。 海に向かって、Fの信号が点滅している。 天 気のFineか、曇りなのに、と聞くと、入出港信号でFree出入り自由、Oは出 港可、Iは入港可、×は航行禁止だそうだ。

山下公園が関東大震災で壊滅した横浜のがれきで海を埋め立ててつくられた 話を聞き、インド水塔、赤い靴をはいてた女の子の像、草花のコンクールを見 ながら姉妹都市サン・ディエゴ市からの水の守護神像へ、ホテルニューグラン ドの横から海岸通りの一本裏の道(水町通り)に入り、ヘボン邸跡の碑の裏を通 って谷戸橋を渡り、山手方向へ向かった時には、1時間半ほどが経過して、み んな大分くたびれていた。 ここでベテラン・シティガイドの、シニア向け裏 技が出た。 みなとみらい線「元町・中華街駅」の6番出口にエレベーターが あり、屋上のアメリカ山公園へ出られるのであった。 こんなことは知らなか った。 いつも谷戸坂を、フウフウいって港の見える丘公園まで登っていたの だ。

テレビドラマ『運命の人』2012/04/14 03:37

 子供の頃から、新聞が好きだった。 中学と高校では、学校新聞をつくった。  テレビ初期のNHKのドラマ「事件記者」などは、よく見ていた。 最近のテ レビドラマは、大河ドラマ以外、あまり見ないのだが、3月18日が最終回だっ たTBSの『運命の人』(山崎豊子原作)を見たのは、一つには新聞を扱っていた からだ。 もう一つは、松たか子が出ていたから。 ドラマではあるけれど、 1971年の沖縄返還交渉にからんで、密約を交わした疑惑のある外務省の機密文 書が漏洩した、毎日新聞の西山太吉記者の事件に材を得ている。

 毎朝新聞の弓成亮太(本木雅弘)が、アメリカとの沖縄返還交渉を巡る政府 の疑惑を追及していて、情報を得ようと外務省事務官の三木昭子(真木よう子) に近づく。 弓成のとてもよく出来た妻由里子の松たか子がいいのはもちろん だが、昭子の外務省を病気で退職した夫をやった原田泰造が意外の好演だった。  『龍馬伝』では原田泰造は近藤勇、真木よう子はお龍をやった。 真木よう子 の鋭い目力が、印象的。 弓成のライバル記者で親友、読売のナベツネさんに 当る役を大森南朋、佐橋首相を北大路欣也。 当初は他紙も、政府の言論弾圧 として非難したが、東京地検特捜部の検事(のちに議員になって国会で独特の 面白い質問をしていた佐藤道夫)が書いた「ひそかに情を通じ、これを利用し て」という起訴状が流れを変え、週刊誌の報道もあって世論は一転、記者と女 性事務官を非難することになる。

 有罪判決が確定し、父の死で継いだ故郷の青果会社も経営破綻した弓成は、 沖縄へ行く。 死のうと海へ飛び込んだところを救った謝花ミチ(美波)は、 琉球ガラスの工房で働いているが、暗い過去を持つ。 弓成と同じように…。  琉球ガラスの工芸品は、コカ・コーラなどアメリカ軍関係者の廃瓶を原料にし ている。 ミチの仲間の職人は、それを「闇を光に変える力」と言う。 沖縄 で暮すうちに、弓成は沖縄の闇に埋もれた歴史、沖縄の痛みを、深く知るよう になる。 沖縄の人々は、暗い過去の歴史に抗うように、明るく強く生きてい る。 弓成も、自分の過去にもう一度向き合おう、自分の運命を引き受け、生 き恥をさらしても、沖縄の歴史や痛みを、本土の人たちに伝えたいと考える。  この国の未来を変えたい、せめてその火種になりたい、と思うのだ。 暗いや りきれない話が、明るい希望を感じさせる結末になっていた。

 『運命の人』の背景には、政府対新聞、知る権利や情報の開示、現在も未解 決の沖縄の基地の問題など、大きなテーマがある。