『やすらぎの郷』石坂浩二と野際陽子2017/06/22 07:21

 『やすらぎの郷』の主役、早稲田出という脚本家・菊村栄“栄ちゃん”の石 坂浩二、本名武藤兵吉“兵ちゃん”は慶應の同期だから、「友達の友達」が何人 かいて、ときおり噂を聞くことがある。 主役が同期だから、テレビの黄金期 に活躍したという老人ホーム『やすらぎの郷』の住人達も、ほぼ同世代である。  テレビは草創期から見ている。 プロレスは街頭テレビや、ご近所の自動車屋・ 宮下モータースの宮下さん家に見に行った。 家にテレビが来ると、昭和23 (1958)年生れの弟が、テレビの前に小さな食卓を運んで、「てなもんや三度 笠」、ミゼット、ミゼットなんてのを見ていた。 長嶋、王、V9時代の巨人戦、 越智正典アナ、中沢不二雄解説はよく見た。 NHKでは「私の秘密」「ジェス チャー」、そして「夢であいましょう」。 『やすらぎの郷』で、及川しのぶ(有 馬稲子)が、日本のバラエティ番組の草分け「しのぶの庭」をやったというの は、草笛光子の「光子の窓」(井原高忠演出)を想定しているのだろうか。 「B テレ」というのは、「日テレ」とも「8テレ」とも考えられる。 そういえば、 及川しのぶのマネージャーでソフレ(添い寝フレンドの由)貝田英吉役の藤木 孝は久しぶりに見たが、相変わらずスリム、それらしい人を連れて来るものだ。

『やすらぎの郷La Strada(イタリア語で「道」の意)』は、芸能界のドンと 呼ばれた加納英吉が、俳優や歌手、ミュージシャン、脚本家などのかつてテレ ビの世界で活躍した人物たちの功績に報いるために、海沿いの風光明媚な広大 な敷地に私財を投じてつくった施設で、入居費はかからない。 施設を運営す る「やすらぎ財団」(理事長名倉修平(名高達男)、妻で総務理事が加納英吉の 娘みどり(草刈民代))の審査を通った人だけが、施設の場所やその存在を明か さないこと、所属事務所を辞め、資産を申告し、その管理を大手銀行と信託契 約することなどを条件に入居する。

13日に野際陽子が肺腺癌で亡くなったことが16日に判明した後、野際陽子 の井深涼子の出て来る場面が目立つ。 今週に入ってからは、海岸でヌードさ え見せそうになった。 いつもは晴れのタイトルに雨が降り、今も「心よりご 冥福をお祈り申し上げます」のテロップが流れている。 視聴率は上昇してい るだろう。 菊村栄(石坂浩二)が入居する前から「やすらぎの郷」にいて、 死んだ菊村の妻律子(風吹ジュン)とも親しかった。 本屋大賞にノミネート されるなど注目の新人作家濃野佐志美(こいの さしみ)が、井深涼子のペンネ ームだということを菊村栄が知る。 「やすらぎの郷」の出来事や入居者の過 去の話を小説を書き、その中にはかつて菊村栄の若い女優と三角関係に悩んで 律子が自殺未遂事件を起こした『壊れたピアノ』もあった。

このところの話題は、濃野佐志美が芥川賞の候補になったというのである。  しかも、その作品は菊村栄が理事長夫妻の依頼で井深涼子に頼み込んで、発表 を諦めさせた加納英吉と戦前から活躍した女優で入居者の“姫”こと九条摂子 (八千草薫)に関係する小説だった。 国営テレビが終戦記念日放送のドラマ にしたいという話が進んでいるのだ。

森まゆみ著『彰義隊遺聞』の渋沢栄一2017/06/18 07:46

昨日、森まゆみさんが、彰義隊のことを調べたことがあると書いた。 そし て書いた本が『彰義隊遺聞』(新潮社)で、すっかり忘れていたが、私はそれを 読んで、なんと「小人閑居日記」にも書いていたのである。 それを再録する。

   森まゆみさんの『彰義隊遺聞』<小人閑居日記 2005.7.27.>

 吉村昭さんの『彰義隊』に影響されて、いま森まゆみさんの『彰義隊遺聞』(新 潮社)を読んでいる。 とてもよい本で「彰義隊」の全体像が見えてくる。 知 らないことも多かった。 とりわけ「幕末三舟」「東叡山寛永寺」「栄一と成一 郎」の章。

 徳川慶喜が上野の寛永寺に謹慎した後、恭順の意を伝えるために、側近の高 橋泥舟に相談し高橋の義弟山岡鉄太郎(鉄舟)が、勝海舟の屋敷に江戸攪乱の罪 で捕われていた薩人益満休之助を伴い、官軍が江戸に迫り来る中、駿府の大総 督府の西郷隆盛の所に赴く。 山岡は六尺二寸、二十八貫(187センチ、105キ ロ)という巨漢、剣の達人だった。 西郷は山岡に降伏条件を提示、後日の江戸 城無血開城を決めた西郷・勝会談の道筋がつく。 三遊亭円朝の墓があり、こ の時期、円朝忌が催される谷中の全生庵は、明治16年、その山岡鉄舟が戊辰 の際の国事殉難者のために建てた寺であった。 明治になって、子爵となった 山岡鉄舟は「喰て寝て働きもせぬ御褒美に か族となりて又も血を吸ふ」と狂 歌を詠んだという。

 「東叡山寛永寺」という寺の江戸と幕府における位置、輪王寺宮という存在、 そして天皇家、水戸徳川家、有栖川宮家の複雑な縁のからまりあいを知った。  「彰義隊」の時の輪王寺宮(十三代、公現法親王)の前三代の輪王寺宮は、有栖 川宮家から出ている。 十三代輪王寺宮が、山岡鉄舟より前に慶喜恭順の意を 伝えるために、駿府の東征軍大総督有栖川宮熾仁親王のもとに赴くが、けんも ほろろの扱いを受ける。 輪王寺宮の側近、寛永寺執当の覚王院義観がそれを 怒り、のちに江戸城に入った東征軍の要求を再三跳ねつけたことが、上野の山 の戦争につながるのだ。

    渋沢栄一と彰義隊<小人閑居日記 2005.7.28.>

 森まゆみさんの『彰義隊遺聞』、「栄一と成一郎」というのは渋沢栄一と渋沢 成一郎の話である。 成一郎(喜作)は、渋沢栄一の従兄で、栄一が例のまだ攘 夷倒幕の過激派で高崎城襲撃・横浜居留地攻撃計画をした頃から行動を共にし、 一転、幕府方の一橋家に雇われた時も、一緒だった。 成一郎は、一橋慶喜が 徳川宗家を継ぎ、将軍となると、陸軍奉行支配調役、奥右筆格に取り立てられ た。 慶喜が謹慎する事態になって、担がれて彰義隊の頭取になる。 幹事の 須永於莵之輔、参謀として関わった尾高新五郎藍香(惇忠)も、栄一の身寄りの 者だった。 栄一の養子平九郎も隊列に加わっていた。

 だから渋沢栄一が、日本にいたなら、かなり高い確率で彰義隊に加わってい ただろう、と森さんはいう。 栄一は、その前年慶應3(1867)年に慶喜の弟、 民部卿徳川昭武が幕府からパリ万国博覧会に派遣されたのに従って渡欧してい て、日本にいなかった。 帰国したのは上野戦争の半年後、明治元(1868)年11 月3日のことである。

彰義隊の頭取渋沢成一郎派と、副頭取天野八郎派の間で、路線の対立が生じ る。 渋沢は日光へ退却してたてこもることを主張し、天野は諸隊を率いて上 野の山に入った。 慶喜が水戸に退くと、渋沢成一郎は彰義隊を脱退する。 成 一郎は同志とともにあらたに振武軍千二百をおこし、5月15日の当日には、隊 士四百余人を率いて援軍にむかったが、田無にいたるころ、彰義隊の潰滅を知 った。 成一郎は飯能戦争を戦い、箱館へも転戦、榎本軍の一員として捕えら れたが、明治5年大赦にあって、有能をみこまれ大蔵省七等出仕となる。 再 び名を喜作に戻し、欧米巡視に赴き、横浜で生糸貿易にたずさわることとなる。  平九郎は飯能での戦いに敗れて、大宮へ落ちる途中の黒山村で、官兵と遭遇、 腹切って死ぬ。 尾高新五郎は、辛うじて郷里に帰り着いた。

このとき、渋沢栄一が日本にいたら、どうなっていたか。 その後の日本の 会社や経済社会は、おそらくいろいろ違っていただろう。 ごく身近な小さい 例では、私が第一銀行に勤めることはなかったであろう。

自動繰糸機の導入と日本製糸業の延命2017/06/16 07:11

 『写真集 富岡製糸場』「歴史考/文化考」「昭和(片倉)時代の富岡製糸場の 歴史」(松浦利隆群馬県世界遺産推進室長)に、第二次大戦後の製糸業と富岡製 糸場の話がある。 そこに今回の見学でも、工場の繰糸所で見た自動繰糸機、 トヨタ(自動織機)製ではなく日産自動車製だと聞いた機械が出て来る。

 自動繰糸機は、長い間夢の繰糸機と考えられ、昭和初期の好景気時代に片倉、 グンゼなどで研究が始まっていた。 片倉では昭和15(1940)年に本格的研 究を開始した時点から定繊式(一定の生糸の太さ(繊度)を保つために、巻き 取られる生糸そのものの繊度を監視して行う方法)を採用した。 戦後の昭和 26(1951)年、世界初の実用自動繰糸機K8A型が完成、翌27年には富岡製糸 場に12セット240台が導入された。 自動繰糸機の開発はさらに進み、プリ ンス自動車の定粒式(繭の個数を監視して行う方法)「たま10型自動繰糸機」 などが各地で稼働し始めた。 昭和31(1956)年、現在の自動繰糸機の基本 となっている繊度感知器が国の蚕糸試験場で開発され、自動繰糸機はこの感知 器を使った定繊式のものに統一されていった。 富岡製糸場では、自動機に合 わせた繭の乾燥、貯蔵、さらに煮繭の研究が盛んに行なわれ、屑糸の量を半分 に減らせるまでになった。 この結果、工員一人当たりの製糸量は激増し、戦 前の多条機時代におおむね1日1キログラムであった生産量が14キログラム まで向上したという。

 自動繰糸機は、この後全国各地の製糸工場に普及し、昭和40(1965)年頃 には、ほぼすべての製糸工場で自動化が完了した。 昭和30年代には約5万 人だった製糸関係の工員は、自動機の導入で2万人程度で済む生産性の向上が 達成された。 かつての製糸大国フランスは20世紀初頭に、またイタリアも 戦後復興が本格化する時期には、実質的に製糸業が消滅したけれど、日本の場 合、自動繰糸機の実用化により、経済成長に伴う賃金の上昇をしのぐような高 い生産性が確保できたことが、製糸業が延命できる一つの要因となった。

 富岡製糸場では、昭和34(1959)年までに当初のA型の繊度感知器や給繭 器を改造したK8C型を使用していたが、片倉工業内部の業務見直しで、製糸機 械の生産を中止し、以後日産自動車(当初はプリンス自動車)から購入するこ とになり、富岡製糸場でも昭和36(1961)年にRM型に全面更新し、昭和41 (1966)年にはわれわれが見学で見た「ニッサンHR-2型(一部は3型)」に 更新されたのであった。

 『写真集 富岡製糸場』に、夕映えの木々をバックに「残照――未来への遺構」 という、その後の製糸業にふれた一文がある。  「時は過ぎゆく ありとしあるものはいずれうつろう わが国の製糸業の喘 ぎは国際化とともにもたらされた 昭和の終わりころから海外の安価な生糸に 圧迫され 日本の市場は狭められて製糸場の工業的価値が薄れ やがて製糸場 そのものが姿を消していった 富岡製糸場も時の流れに抗えず昭和六十二年に 操業を停止した  富岡製糸場は開国を経て世界を望む風潮の中で生まれ 日本を世界最大の生 糸輸出国へ押し上げる原動力となり 世界の第一線で活躍を続けたのち 国際 的な市場開放のあおりを受けて操業停止を余儀なくされた 雄々しくも粛々と  哀しくも潔く 富岡製糸場は終始 日本と世界が関わり合いせめぎ合う象徴で あり続けた その誕生のときから日本が辿る国際化への道を 共に歩む運命を 背負わされていたと言うべきであろう」

 これを読んで私は、ごくごくちっぽけな町工場ではあったが、家業のガラス 工場の窯の火を落した頃のあれこれを、鮮明に思い出したのであった。

世界遺産富岡製糸場を見学2017/06/14 06:31

 6月5日、文化地理研究会の1964年卒業同期の会「六四の会」、学生時代の 代表加藤隆康さんの肝煎りで、世界遺産富岡製糸場を見学するバス旅行をした。  はとバスのツアーに便乗して、一般の方々とご一緒したのである。 ツアー名 は「世界遺産富岡製糸場と峠の釜めし&鉄道文化むら」。 このところ毎年、会 員ではない家内も参加させてもらっているので、後で、すっかり昔からの仲間 のような顔をして混ざっていると、笑ったことだった。

 富岡製糸場は、明治5(1872)年10月政府の殖産興業政策の先駆けとして 操業を開始、明治26(1893)年に三井家へ払下げられ三井富岡製糸所、明治 35(1902)年原富太郎(三渓)の原合名会社に譲渡され原富岡製糸所を経て、 昭和13(1938)年からは片倉製糸紡績、片倉工業が昭和62(1987)年まで、 115年間にわたって操業していた。 操業停止後も、片倉工業はほとんど旧状 を変えることなく多額の費用をかけて保存管理し、平成17(2005)年9月す べての建造物を富岡市に寄贈した。 寄贈当時の片倉工業社長の岩本謙三さん は、実は大学の同期だった。 私は柔道部だった友達の友達だったことで知り 合い、彼に「等々力短信」を読んでもらっていた。 その岩本謙三さんは、長 い闘病の後、昨年8月17日に亡くなった。 19日朝日新聞朝刊の死亡記事に 「同社が所有・管理していた富岡製糸場を、群馬県富岡市に05年に寄贈した 当時の社長。14年の世界遺産登録につながった。」とあった。 短い訃報なの に、こう書かれていたのが嬉しかった。

 今回は、解説員によるガイドツアーで見学した。 音声ガイド機のイヤホー ンに、解説員の声が入ってくる。 まずアーチのキーストーンに「明治五年」 とある国宝「東置繭(おきまゆ)所」、乾燥させた繭の貯蔵所。 木で骨組みを 造り、柱の間に煉瓦を積み上げて壁を造る「木骨煉瓦造」、材木は妙義山から、 煉瓦は瓦職人が甘楽町福島の窯で製造したという。 煉瓦は、表面が長短互い 違いになるフランス積。 この建物の1階では、後で繭から糸を巻き出す(機 械化以前の)座繰りの実演を見た。

 解説で初めて知ったのは、世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」に荒船風 穴(下仁田町)のあること。 日本最大級の蚕種(さんしゅ・蚕の卵)の貯蔵 施設である。 俳句の季題「蚕(かひこ・かいこ)」に、「春蚕(はるご)」とい う傍題がある。 『ホトトギス新歳時記』の「蚕」には、「蚕といえば「春蚕(は るご)」をいうので、夏、秋の蚕はとくに「夏蚕(なつご)」「秋蚕(あきご)」 と呼ぶ。四月中旬に蚕卵紙から孵化し、盛んに桑の葉を食べて六センチくらい の蒼白い虫に成長する。養蚕のことを俳句では「蚕飼(こがひ)」という。(傍 題に)蚕飼ふ。種紙。掃立(はきたて)。飼屋。蚕棚(こだな)。蚕室(こしつ)。 捨蚕(すてご)。蚕時(かひこどき)。」とある。 荒船風穴の蚕種(さんしゅ・ 蚕の卵)の貯蔵施設で温度管理をし、種紙の出荷時期を調節しての養蚕が、富 岡製糸場の東置繭所と西置繭所の繭倉庫2棟合わせて5000石、年間280日の 操業でも万全な収繭量と、計画的な大量生産につながったのであろう。

「雨蛙」と「石榴の花」の句会2017/06/12 07:06

 6月8日は、『夏潮』渋谷句会。 このところ入門の吟行句会であるタイドプ ール句会から、兼題の渋谷句会にも参加する方がいて、男女ほぼ半々、女性が 圧倒的に多い夏潮会にあって、異色の句会となりつつあるのは、心強く嬉しい ことである。 兼題は「雨蛙」と「石榴(ざくろ)の花」、私はつぎの七句を出 した。

雨蛙跳んでペタリと手の甲に

庭へ放つ鮒釣で得し雨蛙

雨蛙けふは三軒先で啼き

雨蛙啼けばにはかにかき曇り

お茶淹れる役たりし頃花石榴

帝釈天井戸端に散る花石榴

人住まぬ平屋の庭に花石榴

 私が選句したのは、つぎの七句。

一雨の来さうな風や枝蛙     なな

濡縁にいつしかをりぬ雨蛙    盛夫

青蛙気付けばここにまたここに  明雀

雨蛙かしこまりたる姿して    盛夫

干し物に残る湿り気花石榴    さえ

曇天に朱のてらてらと花ざくろ  さえ

ささくれし格子の棧や花石榴   さえ

 私の結果は、<雨蛙跳んでペタリと手の甲に>を英主宰、<庭へ放つ鮒釣で 得し雨蛙>と<雨蛙啼けばにはかにかき曇り>を耕一さん、<お茶淹れる役た りし頃花石榴>を英主宰と正紀さん、<帝釈天井戸端に散る花石榴>をななさ んが、採ってくれて、主宰選2句、互選4票、計6票とまずまずだった。

 主宰の選評。 <雨蛙跳んでペタリと手の甲に>…こんなこともあるんです ね。雨蛙を手にした感触、誰もが一度は経験したことがあるのではないか。リ ズムよく出来ている。 <お茶淹れる役たりし頃花石榴>…NHK朝の連続ド ラマか何かにありそう。小さな作業所に就職して、社会生活が始まった。町工 場のような所に、年端の行かない娘さんが勤めて、初々しい経験をする。そん な、けっこう饒舌な句であったか。

 実は、作者の私は「石榴の花」を「紅一点」、万緑叢中紅一点を念頭に、いさ さか理屈に流れるかもしれないとは思いながら詠んだのだった。 本井英主宰 の思いがけない読みのお蔭で、俄然素敵な句にして頂いた。 この句会には、 主宰選になった<工場の中庭に咲く花石榴>という明雀さんの句もあった。  実は私、十数年前までガラス食器を製造する零細町工場をやっていて、中庭に は父の植えた石榴が毎年咲き、大きな実をつけていた。 田舎から集団就職で 来た中卒がベテランの職人に育ち、伝手を頼って高卒の事務員も受け入れたことがあった。 主宰の読みがピタリとはまるような娘さんもいたのである。