「生命を寿ぐ-高校生の声の力」[昔、書いた福沢199]2020/01/22 07:05

     「生命を寿ぐ-高校生の声の力」<小人閑居日記 2004.1.21.>

 20日、「生命を寿ぐ-高校生の声の力」という催しを三田へ見に行った。 母 校慶應義塾志木高校の生徒が出演し、慶應義塾アート・センター(所長は同期 の鷲見洋一文学部教授)の主催。 声を出して読む日本語がいろいろ話題にな っているが、速水淳子さんという熱心な国語の先生が指導したものだという。

 まず「越中万葉を歌う」、授業で学んだ和歌や俳句を徹底的に読み込み、研究 した上、北陸への研修旅行では、歌や句が作られた現場で、集団発声や個人朗 唱を試みたビデオを見る。 「越中万葉」というのは、『万葉集』にある大伴家 持が越中の国守として赴いたときに詠んだ歌。 普通の朗唱もあるが、自分で 曲をつけ、一人や集団で歌うのが多い。

 三年生「日本語表現」クラスによる発表は、「朗読」と、高校生が日常使う言 葉で、ある日の教室を再現した“FREE TALK”。 「朗読」では、島尾 敏雄・ミホ『戦中往復書簡』、新田次郎『八甲田山死の彷徨』がよく、前者は読 んでみたくなった。

 二年生は「古今集 賀の歌を歌う」。 今の国歌「君が代」は、『古今和歌集』 賀歌三四三の、読み人知らずの歌から来ているのだそうだ(天皇賛美の歌にさ れたのは明治期以来)。 もともとの「君」は、大事な人ということで、その大 事な人の長寿を祈る長寿祈念の歌だった。 長寿祈念や相手を大事に思うとい う、そのこころを帯して、高校生たちは自分の「君が代」を作詞し、21のグ ループに分かれ、歌や読みやパフォーマンスで表現した。 「君は聞かずや/ 志木高の/緑溢るる森/鳥は木々で羽を休め/狸は草原を駆け回る/枇杷、柿、 橘、山桜…」という「志木高賛歌」に始まり、いくつもの「君」を想う愛の歌 (英語の歌も多い)、各国の言葉で長寿を願うグループ、古代人に扮して踊り回 る連中、太鼓の音を模して手を拍ち足を踏み鳴らすもの、そして強烈なロック などなど。

 最後は二年生118名が、会場の通路にひろがって、あの歌会初めの調子で 朗詠する「君が代披講」。

早慶戦100周年記念試合[昔、書いた福沢195]2020/01/18 07:01

    早慶戦100周年・オールドボーイ戦<小人閑居日記 2003.11.27.>

 昨26日、神宮球場で行われた早慶戦100周年記念試合、オールドボーイ 早慶戦とオール早慶戦の二試合を観た。 オールドボーイ戦は40歳以上、オ ール早慶戦は現役のプロ・社会人と学生のチームでの対戦だ。 プロと社会人・ 学生が一緒にプレーするため、特別の許可を取ったとかで、そのためか入場無 料(招待券持参者、朝9時から配った)。

 オールドボーイ戦は、慶應が清沢-大橋、早稲田が金沢-野村徹(現監督) のバッテリーで始まったから、昭和35(1960)年の早慶6連戦を大学1 年生で経験した私などには、涙の出るような試合だった。 スタメンが慶應(中) 浜村巌(二)江藤省三(遊)後藤寿彦(一)松下(捕)大橋勲(左)福田崇(指) 徳丸幸助(三)田中徹雄(右)小島和彦、早稲田(右)荒川博(指)大道信敏 (三)徳武定祐(左)荒川宗一(一)石井連蔵(二)本村政治(遊)皆川(中) 大久保俊増(捕)野村徹。 投手は、慶應・清沢忠彦、工藤、巽一、吉田正敏。  早稲田・金沢宏、高橋直樹、谷井潤一、仁村薫、香川のリレー。

 試合は慶應の打棒爆発、2回まで9-0で先行したのを、早稲田が元巨人の 阿野鉱二、松本匡史(ランニング)の2ホーマーなどで追いかけたが、結局1 1-8で(3回、一時間で時間切れ終了)慶應が勝った。 すぐそばで、慶應・ 島村精介(昭和44年卒、桐蔭高)のお嬢さんたちご家族が観戦していて、代 打で登場すると「お父さんだ、お父さんだ、ユニホーム姿かっこいいネ」、「が んばれ、お父さん、がんばれ」と大声援、センターにいい当りを打ったので「走 れ、走れ、回れ、回れ」、三塁打になって大喜びだった。 万事、その調子で、 楽しいゲームだった。

     早慶戦100周年・オール早慶戦<小人閑居日記 2003.11.28.>

 プロと社会人・学生によるオール早慶戦、試合前のセレモニーで、先人を想 い全員で1分間の黙祷をする。 六大学野球はもちろん野球が大好きで、私を 野球観戦の道に引き込んだ兄のことを想い、一万の観衆もみんな兄のために祈 ってくれたのだと勝手に思うことにした。

 先発メンバーは、慶應(指)喜多…ロッテ(二)湊川…中日(右)高橋由… 巨人(中)早川…慶應高(左)池辺…智弁和歌山(三)三木…近鉄(一)大川 …三菱重工神戸(捕)小河…七十七銀行(遊)山口…東京ガス、早稲田(二) 水口…近鉄(中)青木…日向高(三)仁志…巨人(遊)鳥谷…聖望学園(一) 武内…智弁和歌山(指)矢口…かずさマジック(て、何?)(右)由田…桐蔭学 園(左)米田…早実(捕)荒井…元日ハム。

 投手は、慶應・長田…西武、志村…ウィーン94(て、何?)、清見…慶應志 木、小林基…岡山城東、平井…三菱重工神戸、参鍋…甲陽学園、早稲田・和田 …ダイエー、小宮山…元メッツ、越智…新田、生出…七十七銀行、佐竹…土庄、 三沢…近鉄、鎌田…ヤクルト、江尻…日ハム、大谷…報徳学園、宮本…関西。

 1回裏三塁打の仁志が、長田の暴投で生還して、早稲田が1点。 2回、四 球の池辺を置いて、大川のホームランで、慶應が2-1と逆転。 4回、早川 もホームランで、慶應3-1とリード。 その裏、武内と由田の二塁打二本で、 早稲田が3-2と詰め寄ったが、5回以降、両チームとも現役中心の小刻みな 投手リレーで、得点を許さず、結局3-2で慶應が、オールドボーイ戦に続い て勝利をおさめた。

 高橋由…巨人は、2三振とサードフライで3打数-0安打、仁志…巨人が3 -2、阪神に入る鳥谷は3-0だったが、守備と走塁(四球で出て盗塁)でい いところを見せた。

「福澤諭吉かるた」と「諭吉かるた」[昔、書いた福沢193]2020/01/16 07:07

       「福澤諭吉かるた」<小人閑居日記 2003.11.23.>

 7日に浅草のちんやでクラス会をやった時、級友のひとりが「福澤諭吉かる た」なるものを持って来た。 酒好きらしい彼が「す」の札を紹介した。 「す きなお酒も次第に減らす」。 料理店や飲食店を経営する卒業生でつくっている 「料飲三田会」の企画・発行、服部「ネ豊」次郎文言・監修、橋本金夢絵、平 成15年10月7日出版である。 内容は福沢諭吉の一生をわかりやすく48 の文言にまとめたもので、「き」北里博士を賞讃・応援、「お」男を叱る「新女 大学」、「ね」年中こまめに手紙を書く、といった調子である。

 昨22日、福沢諭吉協会の土曜セミナーがあり、セミナー終了後、このかる たの話題が出た。 服部「ネ豊」次郎理事長は、「福澤諭吉かるた」は今年の初 めにこの席にいる馬場さんがつくったものがあって、それを参考にしたので、 馬場さんが家元だと披露してくれた。 <1475> 福沢諭吉いろはがるた<等々 力短信 第924号 2003.2.25.>につけた試作「福沢諭吉いろはがるた」 2003.2.15.のことである。 光栄なことだったが、私の方は福沢の言葉を中心 にしていて、内容はまったく異なる。(参照 : 福沢諭吉いろはがるた〔昔、書いた福沢100〕<小人閑居日記 2019.8.18.>、試作「福沢諭吉いろはがるた」 〔昔、書いた福沢101〕<小人閑居日記 2019.8.19.>)

 別の筋から聞いた話では、「福澤諭吉」が商標登録されているため、増刷にあ たって「諭吉かるた」に名称を変更せざるを得ないのだそうだ。 「阪神優勝」 みたいな話だが、驚くべき商標が登録許可されるものである。

福沢研究集中月間[昔、書いた福沢190]2020/01/13 06:59

        福沢研究集中月間<小人閑居日記 2003.10.17.>

 10月は、1日に日記に書いた9月27日の福沢諭吉協会の橋本五郎さんの 土曜セミナーに始まって「福沢研究集中月間」の趣がある。

 4日、11日、25日、11月1日の各土曜日は、『福沢諭吉書簡集』全9巻 完結記念の慶應義塾福沢研究センター主催の講演会と座談会が、三田キャンパ ス内の演説館で開かれている(各14時から)。 すでに終わった4日は坂野(ば んの)潤治さんの「『官民調和』と『保革伯仲』-福沢諭吉の二大政党論をめぐ って-」、11日は金原左門さんの「『近代』づくりを地域の水脈に求めて-い くつかの福沢書簡を手がかりに-」、まだこれからの25日は佐藤能丸さんの 「海から陸への飛躍-岩崎・大隈・福沢-」、11月1日は金文京さん、中野目 徹さん、比屋根照夫さんの座談会「『福沢諭吉書簡集』の完結を記念して」。 こ のシリーズは慶應義塾主催なので無料だし、三田の演説館で開かれているので、 テーマに興味のある方、三田の構内や演説館を見たり入ったことのない方は、 ぜひ参加されるとよい。 これまでの2回、かなりの空席があった。 私は全 部出るつもりでいる。

 きのう16日と23日の木曜日の夜は、福沢諭吉協会の読書会「福沢書簡を 読む-「原点」を探る」が、神保町の岩波セミナールームで開かれている。 講 師は書簡集の編集委員を務めた飯田泰三さんと松崎欣一さん、書簡集第1巻の 安政4年から明治9年まで、福沢数え24歳から43歳までの青壮年期の手紙 から、福沢の原点を探っている。

 26日(日)から28日(火)は、福沢諭吉協会の福沢史蹟見学旅行で、長 崎と佐賀へ行く予定になっていて、楽しみにしている。 (実は、この10月24日に兄晋一が急逝したため、この旅行には参加できなか った。)

          二大政党制?<小人閑居日記 2003.10.18.>

 4日、腕を組んで演説している像を描いたとされる福沢が見下ろす三田の演 説館で聴いた坂野(ばんの)潤治さんの「『官民調和』と『保革伯仲』(187 9~1898)-福沢諭吉の二大政党論をめぐって-」。

 1879(明治12)年は、福沢の『民情一新』や『国会論』が出た。 『民 情一新』当時、西南戦争が平定され、自由民権の運動が勢いを得ようとしてい る時期だった。 急激苛烈な政治的変革を好まないで福沢は、英国流の二大政 党制によって、適当な時期に平穏な政権交代の行われることを勧説した。

 1898(明治31)年6月は、板垣退助の自由党と大隈重信の進歩党が大 同団結して憲政党が生まれた。 坂野潤治さんは、ここで生まれた「官民調和 体制」は、その後ずっと続いて、戦後も「55年体制」として続き、10年前 まではこの体制だったという。 今は、壊れそうで、壊れない状態だという。

 坂野さんは、二大政党制への失望を語った。

 1)現在の政治状況に関連させて、小選挙区制やマニフェストなどによって 制度的・人為的に二大政党制をつくろうとしても駄目、形ばかりの二大政党制 の議論にけりをつけ、福沢流の二大政党制論から足を洗う時かもしれないとい う。

 2)急進派(左派)なき保守・中道対立は面白いか?

 3)今度の選挙に勝つと、小泉政権は挙国一致の体制となる可能性があり、 読売新聞社説が書いたように、小泉挙国一致内閣はあと3年は続くのではない か?

        地方から近代化を推進する<小人閑居日記 2003.10.19.>

 三田の演説館での『福沢諭吉書簡集』完結記念講演会、11日は金原左門さ んの「『近代』づくりを地域の水脈に求めて-いくつかの福沢書簡を手がかりに -」だった。 金原さんは中央大学教授で、大正の民衆史がご専門の由。 「『近 代』づくり」というのは、“nation building”をイメージしていて、国の基礎 づくりに関心を持つ。 福沢の方法は、大久保、大隈とは明確に異なる。 地域 における民衆の「シビック・カルチャー」をどう創り出すか。 公的な面と、 私的な面の両方で、広くは学校教育を通じて、狭い範囲としては経済の分野な どで…。 福沢書簡の中から、福沢のそうした地域へのこだわりの水脈を読み 取ることが出来た、という。

 1)福沢の原体験のかけがえのない重み。 幕末の門閥制度を批判した福沢 だったが、中津の「福沢をめぐる人脈」が福沢を蘭学修業へ押し出し、以後、 旧中津藩の事業に助力や助言をし、特に中津市学校の設立にかかわった。

 2)「書簡」からみた福沢の地域へのこだわり。 「近代化」への教育条件を 探り、洋学校の設立を奨め、教師の斡旋・派遣をして、英語のできる「人物の 養育」に努めた。 産業経済の「近代化」に関心を持ち、商品流通のための市 場拡張を指南し、「生産力」増強のテコ入れとして、道路や鉄道など交通手段改 良のアイディアを出した。 地方政治に公論を生かすことを目指して、「民権の 保全」(民産の富殖、安寧の保護、民智の開闡(かいせん=ひろめること))を はかるため、代議制への道を説いた。

 3)地域の近代を担う日本型「ミッズルカラッス」に目をつけた福沢。 「智 識」を身につけた生活者で、かつ「近代化」の推進者層として、伝統思想(土 着思想)に立つ豪農商層に目をつけた。 旧士族の開明派リーダーへの育成を 考え、「西欧近代」型タイプの創出(洋学教師と実業人)をはかった。

 結論。 「民」の底力と「官」の支えによる後発型日本の近代へのハンドル さばき。 県・郡の政治・行政における「民」と「官」の気脈を通じての構図 づくり。 福沢は、この営為によって「独立自尊」の道を地で示した。

         箱根福住旅館と福沢<小人閑居日記 2003.10.20.>

 金原左門さんは『神奈川県史』のための「万翠楼福住」家の調査で、福沢に 出会ったという。 福住正兄(まさえ、九蔵)という人物がいた。 『福沢諭 吉書簡集』第一巻の【ひと】16などによれば、福住正兄は相模国大住郡片岡 村(現平塚市)の代々の名主で精農であった大沢市左衛門家の五男として文政 7(1824)年に生れた。 幼名、政吉。 二宮尊徳のもとで五年間学び、 『二宮翁夜話』をまとめるなど、明治期の報徳運動の推進者の一人となった。

 嘉永3(1850)年、箱根湯本の「万翠楼福住」家の養子に入って九蔵を 襲名し、報徳思想の「分度」(生活を倹約し)「推譲」(余ったものを拠出して、 社会へ還元、拡大再生産で貧困から脱出)の法により破綻に瀕した家業を再興、 翌年27歳で湯本村名主となった。 明治3年9月、発疹チフスでかろうじて 命を取り留めた福沢が、病後静養のため熱海、湯本、塔之沢などで湯治した際、 福住正兄(明治4年長子に家督を譲り「九蔵」を襲名させ、自らは正兄を名乗 る)と出会ったらしく、以後たびたび湯本福住、塔之沢福住に出かけている。

 明治6年塔之沢福住に滞在中、福沢は『足柄新聞』に箱根湯本から塔之沢ま での新道開鑿の提言を寄稿した。 その頃、東海道の本街道に沿っていたのは 湯本宿で、塔之沢は脇道へそれていたのでロクな道路もなく、早川に架けた仮 橋は大雨出水のたびに流されて、まことに交通不便だった。 福沢はみずから 資金を投じ、志を同じくする者が醵金に応じて新道を造り、永久的な橋を架け ることを呼びかけた。 この新道は福住らの尽力で14年11月に完成した。

 金原左門さんは、きのう書いた講演の柱2)3)の一例として、福住正兄の ケースを挙げ、ずっとかかわりを持ち続けた足柄県での実験には、福沢の一貫 性があらわれていると述べたのだった。

やさしくかくということ[昔、書いた福沢186]2019/12/30 06:21

       再録:やさしくかくということ<小人閑居日記 2003.8.26.>

 <等々力短信 第930号 2003.8.25.>に書いた「漢字仮名交じり文の運命」 だが、そのテーマで<小人閑居日記>に書いていたことを、思い出した。 毎 日書き飛ばしていると、ぜんぶ憶えているわけにはいかなくなる。 それは昨 年12月7日の「やさしくかくということ」で、加藤秀俊さんの中公新書『暮 らしの世相史 かわるもの、かわらないもの』を読んで書いた何回かの一回だ った。 この問題もまさに「かわるもの、かわらないもの」なので、まず、そ の12月7日の日記を再録する。

        やさしくかくということ<小人閑居日記 2002.12.7.>

 加藤秀俊さんの『暮らしの世相史』に「日本語の敗北」という章がある。 「日 本語の敗北」とは何か。 明治以来、日本語の表記について、福沢諭吉『文字 之教』の末は漢字全廃をめざす漢字制限論、大槻文彦の「かなのくわい」、羅馬 字会や田中館愛橘のローマ字運動などがあった。 戦前の昭和10年代前半、 鶴見祐輔、柳田国男、土居光知が、それぞれ別に、日本語はむずかしいとして、 改革案を出した。 当時、日本語が世界、とくにアジア諸社会に「進出」すべ きだという政治的、軍事的思想があった。 しかし、日本語を「世界化」する ための哲学も戦略もなく、具体的な日本語教育の方法も確立されなかった。 な にしろ国内で、「日本語」をどうするのか、表記はどうするのかといった重要な 問題についての言語政策が不在のままでは、「進出」などできた相談ではなかっ た。 日本は戦争に破れ、文化的にも現代「日本語の敗北」を経験した、とい うのである。

 戦後、GHQのローマ字表記案を押し切って制定された当用漢字は、漢字の 数を福沢が『文字之教』でさしあたり必要と推定した「二千か三千」の水準に、 ほぼ一致した。 だが、その後の半世紀の日本語の歴史は、福沢が理想とした さらなる漢字の制限とは、正反対の方向に動いてきている。 それを加速した のが、1980年代にはじまる日本語ワープロ・ソフトの登場で、漢字は「か く」ものでなく、漢字変換で「でてくる」ものになったからだという、加藤さ んの指摘は毎日われわれの経験しているところである。 加藤さんや梅棹忠夫 さんは、福沢の「働く言葉には、なるだけ仮名を用ゆ可し」を実行して、動詞 を「かたかな」表記している。 私などは、見た目のわかりやすさから、そこ まで徹底できないで、「きく」「かく」と書かず「聞く」「書く」と書いている。  それがワープロ以降、次第次第に、「聞く」と「聴く」を区別し、最近では手で は「書けない」字である「訊く」まで使っているのだ。 「慶応」も気取って、 単語登録し「慶應」にしてしまった。 福沢のひ孫弟子くらいのつもりでいた のに、はずかしい。 深く反省したのであった。

      加藤秀俊さんの日本語自由化論<小人閑居日記 2003.8.27.>

 近所の図書館で、井上ひさしさんの『ニホン語日記』(文藝春秋)のすぐそば に、加藤秀俊さん監修、国際交流基金日本語国際センター編の『日本語の開国』 (TBSブリタニカ・2000年←当時加藤さんは同センター所長)があった。  『日本語の開国』のはじめに、加藤さんの「四つの自由化-「日本語新時代」 をむかえて」という文章がある。

 現在、世界で日本語を勉強しているひとびとの数はすくなく見つもっても五 百万人、体験的に日本語を身につけた人口をふくめて推測すると、たぶん一千 万人をこえるひとびとが日本語をはなすようになってきている、という。 少 数の学者や物好きなインテリでなく、一般大衆が世界のあちこちで「日本語」 をつかいはじめた、そうした「日本語新時代」をむかえて、加藤さんはいま「日 本語」の根元的な「自由化」がもとめられているという。

 (1)完全主義からの自由化。 「ただしい日本語」の基準、モデル的な日 本語などありはしないのだから、日本人と外国人のつかう日本語のちがいは「完 全さ」の「程度」のちがいにすぎない。  (2)文学からの自由。 ごくふつうの日常の言語生活を基準にすると、「文 学」は異質の世界のいとなみ。 いま必要とされているのは、簡潔で意味が明 確につたわる「実用日本語」、日本語の「はなしことば」。  (3)漢字からの自由。 ワープロの登場で、漢字がおおくなった。 漢字 の呪縛からみずからを解放することによって、日本語はよりわかりやすく、よ みやすく、そしてかきやすいものになる。  (4)文字からの自由。 「読み書き能力」がなくても日本語はつかえる。  「文字」がわからなくとも「言語」は学習できる。

     加藤秀俊、梅棹忠夫、そして司馬遼太郎<小人閑居日記 2003.8.29.>

 若いとき、加藤秀俊さんや梅棹忠夫さんの本を読んで、おおきな影響を受け た。 一つには、その文章が読みやすかったということがあった。 それが『日 本語の開国』にあるような、日本語の自由化や国際化につながるものであると いうことまでは、気がつかなかった。

 加藤秀俊さんの(梅棹さんもそうだが)かき方(この段落はその方式でかく) 原則は、できるだけ「やまとことば」をつかい、かな表記し、そのなかで「音 読み」するばあいにかぎって漢字をつかう。 漢字の量がへって、文章はあか るい感じになる。

 いただいたばかりの木村聖哉、麻生芳伸往復書簡『冷蔵庫 7』(紅ファクト リー)の麻生さんの手紙に、岡本博さんという方のことを書いたのがあって、 なかに司馬遼太郎さんが岡本さんの本『映像ジャーナリズム』に寄せた序文が 引用されている。 司馬遼太郎さんも、読みやすい文章を書いた。 短文なが ら、岡本博さんという人のことがよくわかり、「雨ニモマケズ」ではないが、そ ういう者になりたいように描かれている。

 「岡本博は、経歴をみるとおそろしいばかりにオトナくさい元肩書がならん でいるが、自分自身を少年の心のままにとどめることにこれほど努力してきた 人はまれだし、そのことにみごとに成功した人である。  かれの感受性と洞察力は、澄みとおってしかも多量な少年のそれそのもので あり、自分の「見てしまったもの」をばらしたり組みあわせたり、あるいはも う一度のぞきこんだりする能力は、いうまでもなくかれのすぐれた知性と教養 である。  岡本博は、群れて歩いている人ではない。独りで歩き、独りで観客席にすわ り、ひとりでデモに加わり、ひとりで公園の水を飲んでいる。ひとりが似合う、 あるいはひとりが風景をなしているという人は、私の友人のなかでもきわめて すくない。                          司馬遼太郎 」

     「漢字をつかわない日本語」の方向<小人閑居日記 2003.8.30.>

 井上ひさしさんの漢字仮名交じり文についての考えと、加藤秀俊さんの日本 語自由化論をならべてみて、あらためてつくづく、ひとつの問題にもいろいろ な見方があることを感じた。 私などは、加藤論にひかれながら、井上論も捨 てがたく、「ゆれ」ているというのが実情である。

 『日本語の開国』の野元菊雄元国立国語研究所長の「日本語改革の思想史」 には、戦争の時代、生産力や軍事力を上げるために、用語の簡素化と発音式仮 名遣が推進されたこと、井上ひさしさんの本にあったように満州事変で新聞紙 面に中国の地名人名が多く出て漢字制限が無意味になった後も、漢字制限の底 流は依然として流れていたことが書かれている。 戦後割に早く、新かな・当 用漢字という今の表記法などが確立したのは、それなりの準備があったからで、 その中心になったのは保科孝一(1872-1955)という人物だったという。

 野村雅昭早稲田大学文学部教授(前に短信676号で『落語の言語学』をと りあげた)は『日本語の開国』の「漢字をつかわない日本語」で、漢字制限と 言文一致という語彙の改良をおしすすめ、正書法が可能なハナシコトバにもと づく語彙体系を確立する必要を説いている。 日本語をかえなければならない のは、わたしたちが近代国家としての言語を自分のものにし、それを世界中の 人々に解放するためである。 いうならば、真の精神の自由を獲得することに ほかならない。 言論の自由の保証は、ハナシコトバにもとづくものでなけれ ばならない。 できることからはじめる必要がある。 できるだけ漢字をつか わないようにという加藤秀俊、梅棹忠夫両氏のこころみなどは、その準備であ る。 漢字をつかわない日本語の時代は、まちがいなくおとずれる、と野村教 授は断言している。