小泉信三さん関係、拙稿一覧(その3)2024/03/03 07:49

「修身要領」と教育基本法(1947年)<小人閑居日記 2012.5.25.>(米山光儀福澤研究センター所長の「「修身要領」再考」)
慶應庭球部と、熊谷一弥、原田武一<小人閑居日記 2012.8.7.>(庭球部と小泉信三さん)
慶應クルーのメルボルン五輪<小人閑居日記 2012.12.20.>(比企能樹さんの「恕して『医』を行う―未だロウアウトならず―」、『スポーツの三つの宝』)
坂上弘さんの講演「水上瀧太郎―人と文学」(小泉信三記念講座、坂上弘さんの「水上瀧太郎『銀座復興』をめぐって―震災と文学」)
皆に篤く信頼された水上瀧太郎<小人閑居日記 2012.12.29.>(小泉信三昭和17(1942)年『三田文学』の「水上瀧太郎の文学と実業」)
『銀座復興』の他三篇と「まり千代」<小人閑居日記 2012.12.31.>(『わが文芸談』で美しいとした「果樹」)
江藤省三監督、小泉信三先生の思い出<小人閑居日記 2013.1.21.>(小泉信三記念講座、江藤省三野球部監督の「プロ野球と学生野球」)
大学教育の役割、清家塾長の年頭挨拶<小人閑居日記 2013.1.23.>(小泉信三の言葉「すぐ役に立つ人間は、すぐ役に立たなくなる」)
小泉信三・桑原三郎両先生を拾い読む<小人閑居日記 2013.1.25.>(小泉信三著『私の福澤諭吉』(講談社学術文庫)所収の「福澤諭吉『愛児への手紙』(解題)」。)
石原慎太郎議員の予算委質問、「国の会計を複式簿記に」<小人閑居日記 2013. 2.14.>(小泉信三賞<小人閑居日記 2008.1.17.>も再録)
大先輩・和田實さん、「慶應義塾と戦争」<小人閑居日記 2013.10.1.>(福澤協会土曜セミナーで同席、お話を聞く)
昭和20年12月小泉信三塾長の「塾生諸君に告ぐ」<小人閑居日記 2013.10.2.>(「戦うべからざるを戦った」「まなこを挙げて 仰ぐ青空 希望は高く 目路(めじ)は遥けし」)
「あいつぐ試練」豊田章男トヨタ自動車社長<小人閑居日記 2013.12.27.>(小泉信三記念講座、「慶應義塾体育会の誇りを胸に」ホッケー部、スポーツの「三つの宝」)
危機に生きた、体育会での体験<小人閑居日記 2013.12.28.>
〈ヒットメーカー〉福沢、慶應の出版と小泉信三<小人閑居日記 2014.5.30.>(竹中英俊さんの「福澤諭吉と出版業」、小泉、大学拡張(ユニヴァーシティ・エクステンション)の重要性を認識し、株式会社として慶應出版社を設立)
天皇陛下、傘寿のお言葉と慶應義塾150年スピーチ<小人閑居日記 2014.6.1.>(天皇皇后両陛下の、小泉信三さんを通じての慶應義塾への思い)
小泉信三さんの東宮職参与<小人閑居日記 2014.6.2.>(今村武雄著『小泉信三伝』「塾長を辞す」と「ヴァイニング夫人」)
阿川弘之さんの『米内光政』執筆動機<小人閑居日記 2014.8.13.>(等々力短信 第246号 1982(昭和57)年3月25日、盛岡の米内光政銅像・小泉信三さんの碑文)
福岡正夫さんの「蝶と私」序論<小人閑居日記 2014.12.12.>(小泉信三記念講座、福岡正夫名誉教授の「蝶と私―わが趣味を語る」)
自然とのふれあい、子供の心と大人の素養<小人閑居日記 2014.12.15.>(『読書雑記』エドワード・グレイ英外相とルーズベルト米大統領のバードウォッチング)
追悼・阿川弘之さん、海軍提督三部作<小人閑居日記 2015.8.21.>(等々力短信 第408号 1986(昭和61)年11月5日「ゆとり創造月間」に、小泉信三歿後二十年の会・阿川さんの講演「小泉先生と海軍」)
鬼のおかげ、「松永安左エ門」<小人閑居日記 2015.10.15.>(「等々力短信」第524号 1990(平成2)年3月5日 鬼のおかげ)
八十青年欧米視察と日本経済再建<小人閑居日記 2015.10.17.>(松永安左エ門米寿祝賀会、小泉信三さんの祝辞)
訂正、土橋俊一先生のご指摘で<小人閑居日記 2015.10.18.>
『福澤諭吉全集』完成記念会<小人閑居日記 2015.10.19.>(「等々力短信」第563号 1991(平成3)年4月15日 訂正二件)
神吉創二さん『伝記小泉信三』出版まで<小人閑居日記 2015.12.10.>(福澤協会土曜セミナー神吉創二さん「小泉信三という人―『伝記 小泉信三』を上梓して―」)
『伝記小泉信三』の刊行と反響<小人閑居日記 2015.12.11.>
『伝記小泉信三』執筆裏話<小人閑居日記 2015.12.12.>
福沢諭吉と小泉信三<小人閑居日記 2015.12.13.>
勇気を出す練習<小人閑居日記 2015.12.14.>
『三田評論』「追悼・小泉信三」号から<小人閑居日記 2015.12.15.>
小泉信三さんの幅広い趣味<小人閑居日記 2015.12.16.>(『小泉先生追悼録』(『新文明』臨時増刊))
「福澤諭吉ここに在り」の合唱<小人閑居日記 2016.1.17.>(佐藤春夫の草稿、60番くらいまであった?)
桑原三郎先生と「福沢諭吉ここにあり」<小人閑居日記 2016.1.18.>
大学の役割、清家篤塾長年頭挨拶<小人閑居日記 2016.1.19.>(ハーバード大学創立300年式典に招かれた小泉信三塾長)
小泉信三さんの「佐藤春夫」<小人閑居日記 2016.1.22.>(昭和39年7月『心』の追悼文)
92歳、古屋豊さんが小さな声で言った<小人閑居日記 2016.4.15.>(1年10カ月在校した慶應義塾大学予科から学徒出陣)
「慶應義塾と戦争」アーカイブ・プロジェクト<小人閑居日記 2016.4.16.>(福澤研究センター、2013年8月からの活動)
「戦争の時代と大学」展の冊子から<小人閑居日記 2016.4.17.>
塾長小泉信三の評価をめぐって<小人閑居日記 2016.4.18.>(都倉武之准教授、「『慶應義塾と戦争』をめぐるオーラル・ヒストリー―記憶とモノを如何に繋ぐか―」)
レオ=レオニの『フレデリック』を読んで<小人閑居日記 2016.5.1.>(藤原工業大学開校時の小泉信三の意見)
27歳の時書いた「馬場辰猪と福沢諭吉」<小人閑居日記 2016.8.6.>(小泉信三さんが福沢の国の独立を思う気持を示すものとしてしばしば引用したあの手紙)
橋本五郎さんの「戦後日本と小泉信三先生」<小人閑居日記 2016.12.23.>(小泉信三記念講座「戦後日本と小泉信三先生――没後五十年に際して」)
「全面講和論・中立論は成り立たない」<小人閑居日記 2016.12.24.>
「帝室は政治社外のものなり」<小人閑居日記 2016.12.25.>

小泉信三さん関係、拙稿一覧(その2)2024/03/02 07:10

私立学校の幸福<小人閑居日記 2009.3.23.>(福澤諭吉誕生125年祝賀会、小泉信三さんのスピーチ、2010.1.12.にも)
吉田茂・談話「小泉信三」<小人閑居日記 2009.3.24.>(『文藝春秋』昭和41年7月号)
実業と学問と<小人閑居日記 2009.6.27.>(小泉信三『日本の民具』序文、渋沢敬三「日本魚名の研究」)
日銀総裁が一升ビンを提げて<小人閑居日記 2009.7.12.>(小泉信三『座談おぼえ書き』(自慢話のつづき)の渋沢敬三)
丸山徹さんの話を聴きに行く<小人閑居日記 2009.10.20.>
訂正「小泉信三さんとファールボール」<小人閑居日記 2009.10.23.>(<小人閑居日記 2006.5.22.>、1989(平成元)年9月25日「等々力短信」第509号「時の流れるままに」)
「三田文学」の「伝統」<小人閑居日記 2009.12.21.>~作家・水上瀧太郎の誕生<小人閑居日記 2009.12.24.>(三田演説会、坂上弘さん「荷風・瀧太郎の「三田文学」―明年「三田文学」創刊百年を迎えるにあたって―」)
水上瀧太郎の「撒水車」<小人閑居日記 2010.1.2.>(岩波文庫『貝殻追放 抄』演説館の下、三軒並んだ福沢家の二階建貸家)
50年前、大阪での福沢先生誕生記念祭<小人閑居日記 2010.1.10.>(第125回福澤先生誕生記念会)
杉道助さんの挨拶、板倉卓造さんの講演<小人閑居日記 2010.1.11.>
小泉信三さんのスピーチ「私立学校の幸福」<小人閑居日記 2010.1.12.>
西川俊作先生の「福澤ことば辞典」<小人閑居日記 2010.4.1.>(「独立の気力なき者は、国を思うこと深切ならず」)
多磨霊園、福沢・慶應ゆかりの人々<小人閑居日記 2010.6.30.>~三つの憲法草案と常用漢字改定<小人閑居日記 2010.7.3.>(福澤諭吉協会一日史蹟見学会「多摩地区に眠る福澤山脈を訪ねる」小泉妙さんも参加、松本烝治さん)
歴史人口学、地道な史料収集<小人閑居日記 2010.7.10.>(速水融名誉教授「歴史人口学―出逢い、史料、観察結果、課題」)
有竹修二著『講談・伝統の話芸』<小人閑居日記 2011.1.10.>
小泉信三さんと講談、八丁堀の講釈場<小人閑居日記 2011.1.11.>
「等々力短信」第1023号2011. 5.25. 熱海の雪崩(水上瀧太郎の父、阿部泰蔵(大正)八年熱海温泉に逗留中、雪崩の被害に遭い瀕死の重傷を負う。)(<小人閑居日記 2024.2.29.>)
「熱海の雪崩」その後<小人閑居日記 2011. 5.27.>(小泉妙さんの『父小泉信三を語る』)
熱海の鈴木旅館・別館<小人閑居日記 2011. 5.28.>
「三田の時代を慕ふかな」<小人閑居日記 2011. 6.25.>(旧図書館横「文学の丘」佐藤春夫詩碑『殉情詩集』「秋くさ」、小泉信三愛蔵の佐藤の遺墨から)

「熱海の雪崩」考2024/02/29 07:09

 小泉信三さんについて、私が今まで書いたものの一覧を出そうと思っている。 その中で、ネットのブログで読めないものの一つに、この等々力短信「熱海の雪崩」があった。 興味深い話なので、「マクラ」として再録しておく。

        等々力短信 第1023号 2011(平成23)年5月25日                       熱海の雪崩

 「熱海の雪崩」が、ずっと気にかかっていた。 『慶應義塾史事典』のVII「社中の人びと」の「阿部泰蔵」の項目にある。 阿部泰蔵は、三河国下吉田(現愛知県新城市)生れ、慶應4(1868)年に福沢の塾に入り、明治2(1869)年には慶應義塾の教員となり、その年3か月ほど塾長も務めた。 当時は当番制、交代で塾長に任じたものだったそうだ。 福沢門下生の保険事業を実行しようという動きの中、その中核として阿部に白羽の矢が立ち、明治4(1871)年7月、日本最初の生命保険会社明治生命の創業者となる。 水上滝太郎(阿部章蔵)が四男なのは、小泉信三の著作でよく知られている。

 私の引っ掛かっていた記述は、「(大正)八年熱海温泉に逗留中、雪崩の被害に遭い瀕死の重傷を負う。以後自宅で療養、一三年一〇月二二日没、享年七五。」 温暖な熱海に雪は降ることはあったとしても、雪崩があったのだろうか、ということだった。

 5月16日、福澤先生ウェーランド経済書講述記念日の講演会で三田に行き、次の予定まで一時間ほどの時間があったので、卒業以来40数年ぶりに図書館に入った。 塾員(卒業生)は、慶應カードで入れてくれる。 レファレンス・カウンターで尋ねて、『慶應義塾史事典』の参考文献にあった明治生命保険相互会社編『本邦生命保険創業者 阿部泰蔵伝』(1971年)を、地下2階の書庫で探し出す。 第一三章 終焉 一「奇禍に遭う」に、当時明治生命大阪支店副長だった阿部章蔵の、後年の追憶が引用されている。

「大正八年二月、父は鈴木旅館に入湯中、雪崩(なだれ=ルビ)の為に浴室の天井の厚硝子が砕け、大腿部を深く剥(えぐ)られてあやふく即死せんとし、爾来六年間病床を離れる事が出来ず、晩年を苦痛のうちに終った。」 おそらく、これが『慶應義塾史事典』の、基だろう。 『水上滝太郎全集』十二巻13-4頁の引用とあったので、カウンターで見覚えたKOSMOSの端末を叩いて、地下3階にあった現物を読む。 その時、『水上滝太郎全集』の端に立っていた「補遺・年譜・索引」の袋を一緒に手にしたのがヒットだった。 年譜「大正八年(三十三歳)」「二月三日、父泰蔵、熱海温泉鈴木旅館に於て、入浴中、積雪の為玻璃窓砕け大腿部に重傷、爾来六年間病床を離れ得ざるに至る」。 「雪崩」よりも「積雪」で天井のガラスが割れたという方が、妥当ではなかろうか。

 気象庁お天気相談所と、そこから回された静岡気象台防災業務課にも電話してみたが、大正8(1919)年2月3日(福沢諭吉命日)の熱海の積雪の記録は確認できなかった。

川内由美子さん蒐集の極小雛道具2024/02/21 07:05

川内由美子コレクション 極小のギャマン

 ホテル雅叙園のキンキラキンのエレベーターで3階に上がったところから始まる、唯一の木造建築(昭和10(1935)年)の東京都指定有形文化財「百段階段」に沿った七つの部屋に、お雛様が展示してある。 だから、入口で靴を脱いで上がる。 そういえば昔、ここの便所の便器が独特の陶器で、杉の葉が敷き詰めてあったような記憶がある。 現在のトイレは、角張ったTOTOではあったが、当然今風になっていた。

 座敷全体を埋め尽くしている、座敷雛(福岡・飯塚 旧伊藤伝右衛門邸)に驚く。 炭鉱王の伊藤伝右衛門は、朝ドラ『花子とアン』で吉田鋼太郎がブレークした嘉納伝助のモデル、その二番目の妻は柳原白蓮で、後に宮崎龍介と白蓮事件を起こす。 この座敷雛は、白蓮のものなのだろうか。

 そして、お目当ての極小雛道具研究家の川内由美子さんが長年にわたり蒐集されたコレクションである。 優美な極小のギャマンと染付や、象牙製芥子雛。 江戸の名店「七澤屋」製など、もともと小さく作られた雛道具をさらに小さくしたもの、何とも可愛らしい。 私は元はガラス食器を作っていたので、薩摩切子など江戸時代のギャマンを見てきているが、それをそっくり小さくしている見事な技に驚く。 わが家でも季節になったので、独楽の形につくった雛を玄関の下駄箱の上に飾るのだが、川内由美子さんの極小雛道具の展示と保管、どんなに手間のかかる仕事だろうかと、あらためて感じた。 川内由美子コレクションは、この時期、引っ張りだこで、この雅叙園の「千年雛めぐり~平安から現代へ受け継ぐ想い~百段雛めぐり2024」(3月10日まで)のほか、山形県鶴岡市の致道博物館の「鶴岡雛物語」展(3月1日~4月3日)、港区南青山の紅(べに)ミュージアムの「ミニチュア愛(らぶ)!」展(4月7日まで)でも見ることが出来る。

「千年雛めぐり」の雅叙園へ、行人坂を下る2024/02/20 07:09

福岡・飯塚 座敷雛(説明は明日)

 ホテル雅叙園東京の「千年雛めぐり~平安から現代へ受け継ぐ想い~百段雛めぐり2024」へ、家内と行って来た。 三田あるこう会で、ご一緒する極小雛道具研究家の川内由美子さんにチケットを頂いていた。 雅叙園は久しぶりに行ったので、行人坂(ぎょうにんざか)の急なことに、あらためて驚いた。 年を取ったせいもある。 坂の上には兄が住んでいたし、等々力の家をリフォームした時に、坂の下の目黒川沿いのマンションに短期間住んだこともあった。

 行人坂の名は、寛永年間(1624~44)に、出羽三山の一つ湯殿山の行者、大海法印がこの閑寂な坂の中腹に大日如来堂(現在の大円寺)を建て修行を始め、次第に多くの行者(行人)が集まったことに由来するという。 江戸時代には坂上から富士山がよく見える富士見の名所だった。 最大斜度20%、平均斜度は約15.6%。 江戸時代初期は白金台から祐天寺、二子玉川方面への表本道で、のちに出来る権之助坂を新坂、行人坂を旧坂と言った。  目黒駅前の信号から目黒川までの距離を地図で測ると、権之助坂下の新橋までは550メートル、行人坂下の太鼓橋までは350メートルで、行人坂がいかに急坂なのかが分る。

 この辺りは、江戸時代の二つの大火と関係がある。 「目黒行人坂の大火」は、大円寺から出火、火は南西の風に煽られて麻布、芝から江戸城諸門を焼き、さらに京橋、日本橋、神田方面から浅草、新吉原へと広がり、千住まで届き江戸中を焼く大火になった。 明和9(1772)年2月29日に起ったので、「めいわく」な大火と言われた。

 雅叙園前に「お七の井戸」がある。 本郷追分の八百屋お七は、天和2(1682)年12月の大火で焼け出され、駒込の寺に避難して知り合った寺小姓吉三に恋こがれ、吉三逢いたさに自宅に放火して、鈴ヶ森で火刑に処せられた。 吉三は、お七の火刑後、僧侶になり、名を西運と改め、明治13年頃までこの場所にあった明王院に入り、境内のこの井戸で水垢離を取り、目黒不動と浅草観音の間、往復十里の道を念仏を唱えつつ27年間、隔夜一万日の行を成し遂げたといわれる。 場所は近いが、「目黒行人坂の大火」より時代が早く、二つの火事に関係はない。