大河ドラマ『いだてん』何点?<等々力短信 第1119号 2019(令和元).5.25.>2019/05/25 07:18

大河ドラマ『いだてん』の視聴率が悪いそうだ。 宮藤官九郎のドタバタ喜 劇調を、私は面白く見ている。 三人の女優が断然いい。 綾瀬はるか、大竹 と寺島の両しのぶ。 春野スヤから池部スヤになる綾瀬はるかは、金栗四三(中 村勘九郎)の幼馴染で、女学生の頃「逢いたかばってん逢われんたい」と「熊 本自転車節」を歌いながら自転車に乗っていた明るさが輝き、後にマラソンに のめり込む金栗を支える妻となる。 スヤが最初に嫁入りする玉名村の大地主 池部家の姑・幾江が大竹しのぶ、四三の兄・実次(中村獅童)が四三のオリン ピック渡航費用を借りに来て以来のやり取りが秀逸、ものすごい顔をする。 寺 島しのぶは女子高等師範の助教授二階堂トクヨ、ストックホルムから帰った金 栗を「敗因は何か」とひとり追及、英国留学して女子体育を創始した。

 「スースー・ハーハー」、マラソンから駅伝、日本全国縦断と走ってばかりい る中村勘九郎がバカみたいだが、その主役を見事に支える大竹しのぶや中村獅 童、そして寺島しのぶは、1999年大河ドラマ『元禄繚乱』で大石内蔵助を演じ た父・中村勘三郎(当時は勘九郎)に連なる、勘三郎ファミリーと言えるだろ う。 内蔵助の妻りく役だった大竹しのぶは、朝日新聞連載「まあいいか」に 勘九郎の長男七緒八=勘太郎の三月大歌舞伎「盛綱陣屋」、「8歳の役者が誕生 した日」自分の初日より緊張した、と書いた。

 物語はビートたけし演じる古今亭志ん生が昭和35(1960)年に寄席の高座 で語る落語『東京オリムピック噺』を舞台回しに進行する。 金栗四三の一年 前、神田亀住町で生れた志ん生、美濃部孝蔵(森山未來)の成長物語でもある。  巡査だった父親の命名には、親孝行をして蔵の一つも建ててくれという願いが こめられていたそうだが、下谷尋常小学校4年制卒業まぎわ、素行悪く退学、 すぐ奉公に出され転々とし、バクチ、酒、女郎買いなどの放蕩が続き、父親が 槍を持ち出し、「この不孝者め、突っ殺してやる」などのひと幕もあった。 浅 草の人力車夫清さん(峯田和伸)が羽田のオリンピック予選会に出て、金栗四 三と知り合う。 清さんの代わりに橘家円喬(松尾スズキ)の俥を引いた孝蔵 が、専属車夫から弟子となり、ハチャメチャながら「どこかフラがある」と朝 太の名をもらう。 金栗が入学した東京高等師範に近い、大塚の足袋屋「播磨 屋」黒坂辛作(ピエール瀧から三宅弘城)は、金栗にマラソンに向いた足袋を つくり、清さんを通じて朝太の初高座に着物を贈り、高師卒業後の金栗が下宿 もする、実に良い役なのにピエール瀧はもったいないことをした。 朝太が旅 回りに出た浜松で、よく聴きに来る田畑政治少年が浜名湖で泳ぐ友達を寂しく 見ているのに会う。 田畑(阿部サダヲ)が、東京オリンピック招致に活躍す る『いだてん』後半は、どうなるか。

ソッカー部の命名者で初代主将の浜田「諭吉」2019/04/17 07:14

慶應義塾にちなんだ名前についての別の話が、濱田洪一さんからの最初のメ ールにあった。 濱田洪一さんの父上・濱田駿吉さんの兄弟七人のうち、上か ら四人は、歴代塾長のお名前をいただいた、というのだ。 濱田洪一さんは、 工学部(現、理工学部)サッカー部の出身で、慶應義塾体育会ソッカー部が毎 年開催している「蹴球祭」(大学現役部員とOB、一貫校が交流し、関係を深め る行事)の2013年の会でなさったスピーチを送ってくれた。

なぜ慶應ではソッカー部というかは、慶應義塾体育会ソッカー部のホームペ ージの「ソッカー部の由来」や「歴史館」に書いてある。 ソッカー部は1927 (昭和2)年慶應義塾体育会に加入したが、その名称は初代主将を務めた浜田 諭吉の命名だった。 サッカーは当時、「ア式蹴球(アソシエーション・フット ボール)」と呼ばれていたが、ラグビーがすでに蹴球部を名乗っており、 SOCCERのSOはソに近い発音だと解釈しての命名だったという。 早稲田大 学は現在も「ア式蹴球部」を名乗っている。

その浜田諭吉さんは、濱田洪一さんの伯父で1943年に戦死した。 諭吉さ んの父、洪一さんの祖父・濱田長策さんは、明治26(1893)年大学理財・法 律科卒業写真で福沢諭吉先生と並んでいるのが、慶應義塾写真データベースに ある。 濱田長策さんは、長男に社頭の名前をいただいて「諭吉」、次男に門野 (幾之進)学務主任の夫人の名前「お駿」の駿をいただいて「駿吉」と命名し た。 次男の濱田駿吉さんは、ホッケー部のゴールキーパーで、1932年ロスア ンゼルスと1936年ベルリンの両オリンピックに参加し、ロスアンゼルス大会 では銀メダルを獲得した。 長女の名の「篤子」は、祖父の卒業写真の時の塾 長、小幡篤次郎の「篤」を、次女の「栄子」は次の塾長、鎌田栄吉の「栄」か らいただいた。この栄子さんの娘婿が、ソッカー部のOBで1964年の東京、 1968年のメキシコの両オリンピックに出場し、メキシコでは銅メダルを獲得し た片山洋さんだという。

慶應好き、親戚でホッケーチームが組める一家2019/04/16 07:24

 4月11日に「『中村勘三郎楽屋ばなし』の慶應義塾」を出し、歌舞伎座近く の二葉寿司の親父さんが慶應好きで、自分の子供に、上から慶一郎、應次郎、 義三郎という名をつけ、塾は犬にジュクとつけたという話を書いた。 すると、 さっそく同期の濱田洪一さん(工学部卒)がコメントをつけてくれた。

「杉村3兄弟の長兄慶一郎さんは、我々105年三田会の同期でした。NHKの 「私の秘密」に3兄弟と犬のジュクで出ました。回答者の塾員藤浦洸さんは、 「私は知ってますから」と回答を棄権されました。」

 杉村慶一郎さんが、慶應に学び、しかも同期だなどとは、想像もしていなか った。 その「私の秘密」は、見たような記憶はあったが…。

 濱田洪一さんに、お礼のメールをすると、いろいろなことが分かった。 杉 村慶一郎さんは、われわれが4年生の年の体育会ホッケー部の主将だった。 さ らに彼の伯父さん、お父さん、叔父さんが、杉村宇三郎(昭和9年卒)、勘三 郎(昭和11年卒)、栄三郎(昭和17年卒)という方々で、皆、濱田洪一さん の父上・濱田駿吉さん(昭和8年卒・その活躍は明日書く)のホッケー仲間だ った、というのだ。 駿吉さんは先輩なので、上の二人を「ウサコウ」、「カン ザブロウ」と呼んでいたそうだ。

 私はブログに、関容子さんの『中村勘三郎楽屋ばなし』から「木綿問屋の息 子で父親が芝居好きの杉浦勘三郎」と書いたが、本には、その三兄弟が宇三郎、 勘三郎、栄三郎とあった。 濱田洪一さんにお尋ねして、さらに次のことが判 明した。 杉浦は、杉村の間違いだった。 杉村勘三郎さん(昭和11年卒) が、自分の子供に、上から慶一郎、應次郎(正しくは應二郎だった)、義三郎と いう名をつけ、犬にジュクとつけた。

 「勘三郎・慶一郎に続く三代目」という、慶一郎さんの息子の慶明さん(平 成8年卒)が、2006年発行の『慶應義塾体育会ホッケー部100年史』に書い た「我が家のチーム パート3」を、濱田洪一さんが送ってくれた。 パート1 は、60年史に杉村宇三郎さん(昭和9年卒)が、パート2は、90年史に従兄 弟の横江淳さん(昭和62年卒)が書いたという。 濱田洪一さんのご両親が 横江昭(昭和26年卒)禎子(杉村宇三郎さんの娘)夫妻の仲人をしたそうで、 ご夫妻は歌舞伎好きとのこと、横江淳さんはその息子なのだろう。 親戚を集 めると、故人を除いても、9人揃っていて、あと2人で1チームが組めるとあ る。 杉村栄三郎さんは(昭和17年卒)、杉村應二郎さんは(昭和39年卒)、 杉村義三郎さんは(昭和49年卒)だそうだ。 歌舞伎好きの「八百屋会」は、 スポーツマンが多く、多趣味の会だったのだ。

『中村勘三郎楽屋ばなし』の慶應義塾2019/04/11 07:21

 『中村勘三郎楽屋ばなし』に、慶應義塾が出てくる。 「兄、吉右衛門のこ と」の章には、「親父さん」六代目菊五郎と「兄」初代吉右衛門が、何によらず 正反対だった話がある。 六代目は声はよくなかった、兄は名調子と言われた。  六代目は太ってて、兄はやせている。 六代目は汗かかずで、兄は汗っかき。  六代目宵っぱり、兄早寝。 踊りの名人と、踊らない役者。 軽妙洒脱と謹厳 実直。 贔屓筋もはっきり二派に分れてて、客席も真っ二つに分れちゃうんで、 まるで早慶戦みたい、すごい熱気だった。

 早慶戦といえば、六代目は野球好きで、慶應贔屓だったから、ある時、早慶 戦の前日に慶應野球部へ鰻を五十人前届けたら、翌日勝ったというんで、それ からはずっとそれが吉例になった、という。 「吉右衛門の孫達、今の幸四郎 も吉右衛門も学校は早稲田でしょ。今でも片っ方だけ早慶戦が尾を引いてるん だね。」と、十七代目は語っている。

 「友達のこと」の章に、「八百屋会の人たち」というのがある。 歌舞伎座の 近くに二葉寿司という寿司屋があって(今も二葉鮨という店があるが、それ か?)、慶應の芝居好きの学生の溜り場になっていた。 二葉寿司の親父さんが、 十七代目の楽屋に来て、学生さんたちが会いたがっていると言って以来、ほん との友達づき合いをしてくれたのが嬉しかった。 そのグループが「八百屋会」 という名で、野菜の名の渾名のついている人が多かった。 鈴木って人はスイ ッチョから「キュウリ」、瀬味次郎は「キンカン」(この人、京橋で印刷屋をし ていたが、残念ながら戦死した)、三井の重役になる小池悌四郎は勉強がよくで きたから渾名なし、今村の水無飴の息子今ちゃん「ヒネショーガ」、木綿問屋の 息子で父親が芝居好きの杉浦勘三郎、十七代目は言いたくないけど役者だから 「ダイコン」。 二葉寿司の親父さんが「カボチャ」で、娘が生まれたら、ほん とに「お里」とつけちゃった。 この「カボチャ」が、よっぽど慶應義塾って 学校が好きだったとみえて、自分の子供にも、上から慶一郎、應次郎、義三郎 とつけた。 塾がないね、と誰かが言ったら、とうとう犬につけちゃって、「ジ ュク! ジュク!」と、塾なんていうおかしな名前の犬を飼っていた。

 その「八百屋会」の連中が、十七代目をよく山へ連れてってくれて、当時、 役者で北アルプスなんかに登っているのは、ぼくだけでしょう、と語っている。  鹿島槍に三度も登ってて、熊に出くわしたこともある。

 「八百屋会」に一人、飛び入りの帝大生がいて、義太夫を語ったりするので 仲間になった寺中作雄、のちに文部省の教育局長から国立劇場の理事長にまで なった。 教育局長時代、兄の吉右衛門が何かの用事で文部省を訪ねた。 立 派な部屋で、相手は偉い役人と思うから、ハハーッと、ほとんど平伏に近いお 辞儀をして、ふと目を上げると、弟である十七代目の松王丸の写真が飾ってあ る。 なぜここにお前ごとき者の写真が飾ってあるのかと、ひどくびっくりし たと、吉右衛門が話したので、十七代目は内心得意だったという。

両陛下、天覧相撲の翌日、「戦没船員の碑」へ2019/02/18 07:18

 1月25日の「等々力短信」1115号に「天覧相撲の時を共に」を書いたら、 かなりの反響があった。 9月25日の1111号「与太郎老いて、愚痴をこぼす」 で、返信がないと苦情を言った時、以来の多さだった。 テレビで天覧相撲を 見ていた人が多かったが、中には私たち家族と反対側の向う正面で、観ていた 人もいた。 また、天覧相撲のほかに二回、皇族の相撲観戦に遭遇したという 人がいた。 大学時代には、義宮様が直ぐ右後ろ隣の枡席にいらして、宮様は あまり(一言も?)喋らなかった様子だったのに、隣りの席のおばあちゃんが 飴を勧めたらお召し上がりになって、こんなに無防備(庶民的)なものなの か?・・と思った記憶があるとか、十年ほど前は皇太子ご一家が貴賓席につか れる前、2階へお上がりになるのを、目の前で全くといえるほどのノーガード の状況で見て、却って一寸驚いたそうだ。 私の書いた厳重な警戒状況は、近 年のものなのかもしれない。

 ところで、1月20日の天覧相撲の翌日、テレビのニュースで天皇皇后両陛下 が神奈川県の「戦没船員の碑」を訪れたのをやっていた。 わが家では、久し ぶりの大相撲見物、それも天覧相撲の興奮の醒めぬまま、ボーーッとしていた から、天覧相撲の翌日に両陛下も大変だなあ、などと話していた。

 22日の朝日新聞朝刊で、事情がわかった。 両陛下は21日、静養のため、 葉山の御用邸に入られ、25日まで滞在する予定とあった。 御用邸に入られる 途中、横須賀市の観音崎公園にある「戦没船員の碑」を訪れ、花を手向けられ た。 戦時中、軍に徴用され、命を落とした約6万人の船員らを慰霊する碑で、 両陛下の訪問は、今回で8度目だという。

 記事は、「両陛下は、海を臨む慰霊碑の献花台に白菊の花束を供え、出迎えの 遺族らに声をかけた。機関長だった父を亡くした横浜市の後藤美津子さん(86) には、皇后さまが「ご苦労なさいましたね」と声をかけ、天皇陛下も「お体を 大切に」といたわった」と続く。

 私は観音崎公園に、こんな碑のあることをまったく知らなかった。 戦没船 員のことは、昨年6月の枇杷の会、鎌倉・二階堂界隈吟行で、本井英先生から 伺って、ぜんぜん知らなかったので調べて、この日記に次のものを書いていた。  戦没した船と海員、商船から漁船まで<小人閑居日記 2018.7.8.>

天皇皇后両陛下は、その実態をよくご存知で、葉山の御用邸に行かれる折を とらえて、しばしば慰霊の参拝をなさっていたわけなのだった。