正月のスポーツと外国人選手2021/01/06 06:24

 元日、おせちと雑煮で祝い、テレビのニューイヤー駅伝、群馬県庁発着7区間100キロの全日本実業団対抗駅伝を見ていると、2区はどのチームもみんな黒い人が走っているので、驚いた。 ほとんどがケニア出身らしい。 日本人は36チームの内、最後の方に、ほんの数人いるだけだった。 区間賞は、九電工のベナード・コエチ選手、やはりケニア出身、8.3キロを21分53秒は区間新記録だそうだ。

 2日、箱根駅伝往路。 花の2区、東京国際大2年のケニア出身、イェゴン・ビンセントは、区間23.1キロの9.2キロで東海大をかわして14人を抜き、トップに立った。 記録は1時間5分49秒、前年東洋大の相澤克が史上初で記録した1時間5分台の区間新記録、1時間5分57秒を8秒縮めた。

 3日、昨年は朝日新聞のチケットが当たって、富士通フロンティアーズと関西学院大学ファイターズの試合を久しぶりに観戦したライスボウル、思えば、まだコロナの騒ぎの始まる前だった。 今年はオービック・シーガルズと関西学院大学ファイターズの対戦となった。 社会人Xリーグ王者と学生代表がアメリカンフットボール日本一を争う日本選手権・ライスボウルだが、ここ数年、外国人選手の活躍が目立つ社会人の強さが圧倒的で、毎年、ずるい感じがしている。 社会人と学生で競うようになった1984年以降、社会人が25勝で、学生が12勝なのに、たまたま観に行った2009年、立命館大学がパナソニック電工に17-13で勝った試合以降、社会人が11連勝中だった。

 3日の試合は、コロナ禍で1クォーター12分制、前半12-14と健闘し接戦にした関西学院大学だったが、オービックのQBジミー・ロックレイからTE(タイトエンド)ホールデン・ハフへのパス2本が決まってのタッチダウンが効いて、18-35で敗れた。 ロックレイとハフは、共にカリフォルニア州の出身、高校時代からの友人で、ボイシ州立大でも一緒にプレーしたという。

 駅伝の方には、外国人選手起用のルールがあるそうだ。 全日本実業団対抗駅伝では、外国人選手は1名、走る区間は2区のみ。 箱根駅伝では、外国人留学生は、エントリーが16名の内、2名まで、本選に出場できるのは10名の内、1名まで。

モースの慶應義塾での講演、剣術見学2020/11/21 07:18

 モースの慶應義塾における講演は、明治12(1879)年7月11日だったようで、当時の塾生永井好信の日記に記述がある。(『慶應義塾百年史』上巻680頁) 「此日午前十時半頃東京大学の教授「モールス」、メンデンホール、フェノロサの三氏及び英国の女一人来り、当塾教授を一見し、終て柔道場に至り、柔術、剣術を見、夫れより三階に至り午飯を喫し、終て書生一同で公開演説館に会し、モールス氏変進論(エボリューション・進化論)を演説し、矢田部氏之を口訳せり。右演説をはり暫時万来舎にて福沢先生及び教師と談話し帰れり。」 矢田部良吉が通訳していたことがわかる。

 松崎欣一さんは、この講演は大きな反響を呼んだようで、福沢諭吉の「功名論」と題する講演筆記の一節に、つぎのような件りがある、という。  「達賓(ダービン=ダーウィン)の如き、天下の説を一変したる者は、其人 既に死するも、其説は彼の浪線となり、万邦に伝播し、遂に我慶應義塾にまで其余波を及ぼし、達賓の説浪は今日我塾内に立てり。」(読み易さのために、片仮名を平仮名にした。)

 モースの『日本その日その日』には、昨日引用した後のところで、学生の剣術を見たことが書かれている。 「講演後福沢氏は私に、学生達の素晴しい剣術を見せてくれた。彼等は皆剣術の甲冑を身につけていた。それは頭部を保護する褶(かさね)と、前方に顔を保護する太い鉄棒のついた厚い綿入れの冑(かぶと)と、磨いた竹の片で腕と肩とを余分に保護した、つっぱった上衣には綿入れの褶数片が裾(すそ)として下っている。試合刀は竹の羽板を数本しばり合わせたもので、長い日本刀に於ると同じく、両手で握るに充分な長さの柄がついている。大なる打撃は頭上真直に来るので、両手で試合刀を縦に持ち、片方の手を前方に押すと同時に下方の手を後に引込ます結果、刀は電光石火切り降される。」

 「学生達は五十人ずつの二組に分れ、各組の指導者は、自分を守る家来共を従えて後方に立った。指導者の頭巾の上には直径二インチ半で、糸を通す穴を二つあけた、やわらかい陶器の円盤があり、対手の円盤をたたき破るのが試合の目的である。丁々と相撃つ音は恐ろしい程であり、竹の羽板はピシャンピシャンと響き渡ったが、もっとも撲った所で怪我は無い。」

 「福沢氏は、有名な撃剣の先生の子息である一人の学生に、私の注意を向けた。彼が群集をつきやぶり、対手の頭につけた陶盤をたたき潰した勢は、驚く可きものであった。円盤は数箇の破片となって飛び散り、即座に争闘の結果が見えた。学生達は袖の長い籠手(こて)をはめていたが、それでも戦が終った時、手首に擦過傷や血の出るような掻き傷を負った者がすくなくなかった。」

エベレストで亡くなった成田潔思君2020/10/09 07:03

 川越の町を歩きながら、Nさんと話をする。 5年下の山岳部OBだというので、私が志木高で同じクラスだった成田潔思君の話になった。 成田潔思君は大学山岳部のキャプテンだったが、卒業後の1970(昭和45)年、日本山岳会エベレスト登山隊に参加、4月21日に第一キャンプで体調を崩し、亡くなっている。

 テレビのニュースかドキュメンタリーで、同行の隊員がテントの中で「成田ーッ!成田ーッ!」と、叫んでいるのを見た。 この登山隊では、これより前の4月5日、ベースキャンプと第一キャンプの間の難所のアイスフォールで雪崩が発生、6人のネパール人シェルパが遭難していた。 それでも登頂は継続されたので、第一キャンプへの物資の荷揚げその他、責任感が人一倍強かった成田潔思君には過重な負担がかかったものと思われる。 5月11日、エベレストの日本人初登頂を果たした松浦輝夫隊員と植村直己隊員は、頂上に成田潔思君の遺髪と写真を埋めた。

 成田潔思君は、寡黙な良い男で、志木高校では蹴球(ラグビー)部で活躍、クラスでも成績優秀だった。 大学では山岳部に入り、キャプテンにまでなった。 Nさんによると、山岳部でも、野球部で言えば四番打者、何十年かに一度出るような逸材と、嘱望されている存在だった。 それで日本山岳会エベレスト登山隊に参加することになったのであろう。 体力気力は抜群、厳しいが優しい先輩だったという。 Nさんが1年生の時、北アルプスかどこかを登山中、増水した渓流の一本橋を渡っていて、ザイルを繋いだ仲間の1年生が転落したのを、成田君が一人で引っ張り上げた。 力の強い成田君でなければ、救えなかっただろうという話だった。 私が成田君と志木高で同じクラスだったというだけで感激し、親しみを感じてもらえた。 その後、Nさんが臨床心理士になった事情なども、聴かせてくれた。 亡き成田君のおかげである。

 「三田あるこう会」には、いろいろな出会いがある。

「ぐんま県境稜線トレイル」と慶應ワンゲル部2020/09/23 08:06

 そんなことを書いていたら、9月13日に「秀吉の中国大返し、朝日新聞「みちのものがたり」の疑問」でくさした、朝日新聞「みちのものがたり」の19日が「ぐんま県境稜線トレイル」だった(文・畑川剛毅記者)。 日本百名山・谷川岳の登山口・土合(群馬県みなかみ町)から、同じ百名山の四阿(あずまや)山のふもと鳥居峠(嬬恋村)までの全長100キロ、新潟県、長野県と境を接する群馬県境の稜線をつなぎ、稜線をたどるトレイルとしては日本一長いものだそうだ。

 登山道がなかった白砂山-三坂峠には新たに道を通した。 トレイルは群馬県職員の発案、2016年に事業化され、総額9700万円をかけて整備し、2019年には、登山者の安全を考えてムジナ避難小屋を建設、水場も確定した。

 新規開通区間の東側に続く三坂峠-稲包山-三国峠は、有志が無償で刈り開いたものだという。 慶應義塾大学ワンダーフォーゲル部(私は、同窓同級の知人が何人もいた)は1958(昭和33)年、三国峠から新潟側に下った浅貝(湯沢町)に部の山小屋を建てた。 当時は、谷川連峰といえども、谷川岳周辺を除けば登山道は未整備で、踏み跡がある程度。 部員が何度となく県境稜線を歩き、道をつけた。

 記者は、山小屋の建設に汗を流したOBの妹尾昌次さん(83)に取材している。 卒業翌年の1962年(というから三年先輩になる)、最も親しかった山仲間の一人が、谷川連峰の最高峰・仙ノ倉山の東にある毛渡乗越(けどのっこし)で、猛烈な風雨に遭い寒さと疲労のため凍死した。 死を悼み、二度と事故が起きないようにと避難小屋の建設を呼びかけ、越路避難小屋が建てられた。 妹尾さんにとってこの稜線は青春の山であり鎮魂の山である。

 妹尾さんは、世紀が変わる頃、県境稜線を歩く登山者が減り、道がなくなっていることを知った。 道を作れば現役部員との交流も広がると提案、趣旨に賛同したOB、現役が集まり、2000年に旧三国スキー場-三坂峠-稲包山、翌年に稲包山-三国峠の稜線計13キロに道をつけ、環境省の規則にのっとった道標も17カ所に設置した。

 県境稜線は豪雪で知られる。 雪に押されてシャクナゲはまっすぐに成長せず、地面をはうように伸びる。 うっかりチェーンソーを当てると、刃こぼれするほど堅かった。 ササを刈っている間に雷が付近に落ちたこともある。 延べ参加人員215人、34日かけて13キロの登山道が完成した。 その後も10年近く登山道維持のため、草刈りなどを続けた。 すべて仲間内の資金で賄ったそうだ。

山オンチの見る「日本三百名山全山人力踏破」2020/09/22 07:03

 前にも書いたが、朝、BSプレミアムで朝ドラ『エール』を見て、火野正平の「にっぽん縦断 こころ旅」を見る。 コロナの関係で、「にっぽん縦断 こころ旅」の収録が進まなかったのだろう、21日の再開までは、「グレートトラバース3~日本三百名山全山人力踏破~」をやっていた。 プロアドベンチャーレーサーの田中陽希(ようき)さん(1983年生れ)という人が、2018年1月2日の屋久島の宮之浦岳をスタートに、3年かけて、南から北へ、日本三百名山全山を自らの力だけで登り、交通機関や車は使わず、海峡はシーカヤックで渡る、総移動距離1万キロを超す、前代未聞「一筆書き」の大冒険だ。 現在は、9月16日に274番目の岩木山に登頂したところだ。

 8月、9月の番組では、2018年秋の立山から、槍、穂高、御嶽などの飛騨山脈の山々を登っていた。 山登りなどしたことがなく歳を取ったので、知らないことが多かった。

 まず、山の名前が読めない。 というより、読んでも間違っている。 川上岳、下呂市と高山市にまたがる1625mは、「かわかみだけ」でなく「かわれだけ」。 大天井岳(2922m)は、「おおてんじょうだけ」でなく「おてんしょうだけ」。 鷲羽岳(2924m)は、「わしゅうだけ」でなく「わしばだけ」。 川上岳と同じ日にやった位山(1529m)は、「くらいやま」でいいのだが、上代、この山のイチイの木が笏(しゃく)材に賞用されたので、位を賜って一位の木と称し、山を位山といったと伝わっている。

 さらに、北アルプスが飛騨山脈で、木曽山脈が中央アルプス、赤石山脈が南アルプスというのも知らなかった。 飛騨・木曽・赤石の三山脈を総称して「日本アルプス」と命名したのは、1881(明治14)年、イギリス人ガウランド(W.Gowland 1842-1922)で、ウェストン・小島烏水によって呼称として定着したそうだ。

 第一に驚くのは、登山道がよく整備されていることだ。 縦走路が切り拓かれていて、草刈などもなされている。 ごくたまに整備されていないところがあると、藪になっていて枝を払いのけながら進まなくてはならなくなる。 木道やはしご、掛け橋、岩場の「鎖場」と称するところの鎖やロープは、いったい誰が最初に、材料を担ぎ上げ、設置したのだろうか。 維持管理も必要だろう。 気の遠くなるような作業量と努力だ。 地元の山岳会や有志、ガイド団体、山小屋の経営者の奉仕などが考えられる。 国有林では林野庁が管理しているところもあるらしいが、自治体の関わりもあるのだろうか。 また、コースを外れないよう、岩に〇や×、木の枝にピンクのテープなども、つけてある(「マーキング」というそうだ)。