早慶戦100周年記念試合[昔、書いた福沢195]2020/01/18 07:01

    早慶戦100周年・オールドボーイ戦<小人閑居日記 2003.11.27.>

 昨26日、神宮球場で行われた早慶戦100周年記念試合、オールドボーイ 早慶戦とオール早慶戦の二試合を観た。 オールドボーイ戦は40歳以上、オ ール早慶戦は現役のプロ・社会人と学生のチームでの対戦だ。 プロと社会人・ 学生が一緒にプレーするため、特別の許可を取ったとかで、そのためか入場無 料(招待券持参者、朝9時から配った)。

 オールドボーイ戦は、慶應が清沢-大橋、早稲田が金沢-野村徹(現監督) のバッテリーで始まったから、昭和35(1960)年の早慶6連戦を大学1 年生で経験した私などには、涙の出るような試合だった。 スタメンが慶應(中) 浜村巌(二)江藤省三(遊)後藤寿彦(一)松下(捕)大橋勲(左)福田崇(指) 徳丸幸助(三)田中徹雄(右)小島和彦、早稲田(右)荒川博(指)大道信敏 (三)徳武定祐(左)荒川宗一(一)石井連蔵(二)本村政治(遊)皆川(中) 大久保俊増(捕)野村徹。 投手は、慶應・清沢忠彦、工藤、巽一、吉田正敏。  早稲田・金沢宏、高橋直樹、谷井潤一、仁村薫、香川のリレー。

 試合は慶應の打棒爆発、2回まで9-0で先行したのを、早稲田が元巨人の 阿野鉱二、松本匡史(ランニング)の2ホーマーなどで追いかけたが、結局1 1-8で(3回、一時間で時間切れ終了)慶應が勝った。 すぐそばで、慶應・ 島村精介(昭和44年卒、桐蔭高)のお嬢さんたちご家族が観戦していて、代 打で登場すると「お父さんだ、お父さんだ、ユニホーム姿かっこいいネ」、「が んばれ、お父さん、がんばれ」と大声援、センターにいい当りを打ったので「走 れ、走れ、回れ、回れ」、三塁打になって大喜びだった。 万事、その調子で、 楽しいゲームだった。

     早慶戦100周年・オール早慶戦<小人閑居日記 2003.11.28.>

 プロと社会人・学生によるオール早慶戦、試合前のセレモニーで、先人を想 い全員で1分間の黙祷をする。 六大学野球はもちろん野球が大好きで、私を 野球観戦の道に引き込んだ兄のことを想い、一万の観衆もみんな兄のために祈 ってくれたのだと勝手に思うことにした。

 先発メンバーは、慶應(指)喜多…ロッテ(二)湊川…中日(右)高橋由… 巨人(中)早川…慶應高(左)池辺…智弁和歌山(三)三木…近鉄(一)大川 …三菱重工神戸(捕)小河…七十七銀行(遊)山口…東京ガス、早稲田(二) 水口…近鉄(中)青木…日向高(三)仁志…巨人(遊)鳥谷…聖望学園(一) 武内…智弁和歌山(指)矢口…かずさマジック(て、何?)(右)由田…桐蔭学 園(左)米田…早実(捕)荒井…元日ハム。

 投手は、慶應・長田…西武、志村…ウィーン94(て、何?)、清見…慶應志 木、小林基…岡山城東、平井…三菱重工神戸、参鍋…甲陽学園、早稲田・和田 …ダイエー、小宮山…元メッツ、越智…新田、生出…七十七銀行、佐竹…土庄、 三沢…近鉄、鎌田…ヤクルト、江尻…日ハム、大谷…報徳学園、宮本…関西。

 1回裏三塁打の仁志が、長田の暴投で生還して、早稲田が1点。 2回、四 球の池辺を置いて、大川のホームランで、慶應が2-1と逆転。 4回、早川 もホームランで、慶應3-1とリード。 その裏、武内と由田の二塁打二本で、 早稲田が3-2と詰め寄ったが、5回以降、両チームとも現役中心の小刻みな 投手リレーで、得点を許さず、結局3-2で慶應が、オールドボーイ戦に続い て勝利をおさめた。

 高橋由…巨人は、2三振とサードフライで3打数-0安打、仁志…巨人が3 -2、阪神に入る鳥谷は3-0だったが、守備と走塁(四球で出て盗塁)でい いところを見せた。

『落日の宴 勘定奉行川路聖謨』〔昔、書いた福沢152〕2019/11/09 06:59

       川路聖謨と広瀬淡窓<小人閑居日記 2002.8.12.>

 積んどく本の吉村昭著『落日の宴 勘定奉行川路聖謨(としあきら)』(講談 社)を、たまたまぱらぱらやっていたら、川路聖謨が日田の生れであった。 日 田は代官所のあった幕府の天領であった期間が長く、それも西国筋郡代の在陣 地として九州幕領支配の一大中心地だった。 4歳で江戸へ出て、父は徒士組、 養父も小普請組だったのに、川路聖謨は異例の出世をして勘定奉行にまで昇る。 

 嘉永6(1853)年ペリーの黒船についで、ロシアの使節プチャーチンが 長崎に来て開国を要求した時、川路は筒井政憲とともに交渉のため長崎に派遣 される。 『落日の宴』によれば、そのぶらかし交渉が一応成功しての帰路、 佐賀の田代という所に、日田から叔父や代官、神主、庄屋など沢山の人がきて いて出迎える。 勘定奉行というのは、たいへんな格だということがわかる。

 その日田からの一行のなかに、広瀬淡窓もいた。 川路は大儒者がきたこと に恐縮し、丁重に遇した。 淡窓にはみずから縮緬の羽織を着せかけ、しばら くの間、話し合ったという。

 数え21歳の福沢諭吉が、中津から蘭学修業のため長崎へ向かうのは、その 翌月のことである。

          幕末…二つの動乱<小人閑居日記 2002.8.13.>

 吉村昭さんの『落日の宴 勘定奉行川路聖謨』であるが、ロシアの使節プチ ャーチンとの長崎での交渉経過のあたりまでは、ちんたらしていてなかなか進 まなかったのが、ペリーの脅しに屈した江戸幕府が日米条約を先に結んだのを 知ったプチャーチンが、再びディアナ号で大坂沖に現れ、下田で交渉に入った あたりから、俄然面白くなる。

 以前、石橋克彦さんの岩波新書『大地動乱の時代』で読んだように、「安政東 海地震」の大津波が、交渉地下田を襲うからである。 石橋さんは、黒船と大 地震を「幕末…二つの動乱」と書いていた。

        プチャーチンと川路聖謨<小人閑居日記 2002.8.14.>

 「安政東海地震」の大津波が日露の交渉地下田を襲って、下田の町は家数8 75軒の内841軒が流失・皆潰、30軒が半潰・水入、無事の家はたった4 軒という壊滅的な被害を受ける。 ディアナ号も、龍骨が折れるなどの損傷を 受け浸水、ほとんど航行不能となる。 修理のため戸田(へだ)村へ回航中、 天候が急変して沈没し、戸田で代船となる木造スクーナーを建造することにな った。 学生時代、戸田でクラブの海水浴合宿をした。 沼津から船で行った が、途中、海が荒れ、怖い思いをしたことがある。

 地震後1か月の中断の後、日露の交渉は再開され、陽暦1855年2月7日、 日露和親条約が締結された。 幾多の困難を乗り越えて、ここまでこぎつけた プチャーチンを、川路聖謨は「真の豪傑」と賞賛し、プチャーチンも川路聖謨 の聡明さと鋭い感性に感嘆し、類い稀な人物だと激賞している。 外交交渉で は手ごわい敵同士ではあったけれど、協力して一仕事なしとげたパートナーへ の敬意と親愛の情が感じられる。 この条約で、千島については、エトロフ島 以南は日本領、ウルップ島以北はロシア領と明記されている。 それが今日の わが国の主張の根拠となっているため、2月7日が「北方領土の日」とされて いる。

         六十過ぎての健康法<小人閑居日記 2002.8.15.>

 老中堀田正睦とともに慶喜擁立に動いていた川路聖謨は、井伊直弼の大老就 任によって左遷され、安政の大獄で御役御免隠居蟄居を命じられた。 井伊暗 殺後、生麦事件が起こると、外交折衝の経験を買われて、再び外国奉行にひっ ぱり出される。 だが、まもなく孫の太郎が結婚し川路家の当主としての体裁 も出来たので、老齢を理由に高禄を辞退し、御役御免となる。 65歳、歯は 抜け耳は遠く、白くなった髪はうすれて丁髷は細くなっていたが、早朝の槍の しごき、太刀の素振り、半ば走るように歩くことを日課にし、召されればいつ でも御奉公ができるように心掛けていた。 厳冬2月のある朝、槍を二百回ほ どしごいたところで、倒れて半身不随になる。

 福沢諭吉の健康法も、毎日の米搗き(玄米を精製して白米にすること)と居 合抜き。 どちらもかなり激しい運動だ。 米搗きの臼を搗き潰して、64歳 の時、五つ目の米臼を新調している。 「居合数抜記録」というのが『全集』 20巻395-396頁にある。 明治26年11月17日 居合数抜 千本、 午前9時15分より12時まで640本、午後2時より3時半まで360本。  刀は、鍔元より長さ2尺4寸9分(75.5センチ)目方310匁(1162 グラム)。 野球のバットより重い日本刀を、刃鳴りのするほどの速さで力いっ ぱい振り回して斬り込むのだから大変だ。 土屋雅春さんは『医者の見た福沢 諭吉』で、これは今でいうジョギングのしすぎのようなもので、晩年の大患(脳 卒中)の遠因の一つになったといっている。 川路も福沢も、体力・気力には 常人をはるかに超えるものがあった(だから大きな仕事をしたともいえる)が、 齢を取ったら、運動はほどほどにしたほうがよいようだ。

阿川尚之さんの『アメリカが見つかりましたか-戦後篇』〔昔、書いた福沢144〕2019/11/01 07:22

        自分で考えるということ<小人閑居日記 2002.7.22.>

 6月のワールドカップ・サッカーの熱狂ぶりをみていて、そういう私もかな りテレビを見てはいたのだが、日本人が集団で一方向に走りだす傾向が、気に なった。 日本が負けた瞬間、もう一つ上に行けたのにという声が、瞬時に圧殺 され、よくやったに世論が統一されたのには、何となく不安を感じた。 そう いえば昨年の4月頃は、小泉人気というものがあったと、思ったのである。

 このところ、そんなことを考えているものだから、阿川尚之さんの『アメリ カが見つかりましたか-戦後篇』(都市出版)を読んでも、アメリカ人の個別主 義についての記述が気になる。 たとえば、たとえば、後にジャパンタイムズ のジャーナリストになる村田聖明(きよあき)さんの章。 村田さんは、日米 開戦の6か月前にアメリカへ留学し、戦争が始まると一時アリゾナの収容所に 入れられたが、10か月で出所、普通に大学生活を送る。 戦争相手である日 本人の村田さんを、当り前に遇する普通の市民が、思いがけなく大勢いる。  「目の前に敵国人が現れたとき、その人物を個人として評価する。 政府が 何と言おうと新聞が何と書こうと、自分で考え、それを遠慮なく口にする。」  「おそらく日本にも、戦争中アメリカ人の捕虜を人道的に扱い、占領地の住民 と個人として親交を深めた人はたくさんいたに違いない。 しかしどちらの国 民が、戦争という極限状況下における集団ヒステリーから比較的自由であった かと言えば、どうもアメリカに軍配を上げざるをえないだろう。」

        自分の意見、相手の意見<小人閑居日記 2002.7.23.>

 阿川尚之さんの『アメリカが見つかりましたか-戦後篇』の山本七平さんの 章に、天皇訪米に合せアメリカへ行ってみないかといわれた山本七平さんが、 キリスト教指導者植村環(たまき)女史の戦争直後のアメリカ講演旅行のこと を思い出す話がある。 昭和21年5月渡米した植村環女史は、「石もて追われ る」ような、きわめて厳しい旅を経験する。              

 「しかし、植村女史の記録を仔細に読むと、アメリカ人の反応は同じ状態に 陥ったときの日本人の反応と違うと、山本は感じる。いかに非難すべき相手で も、その発言自体は決して非難・妨害しないのである。」   「面と向かって日本人は悪魔だと言いながら、納得すると照れずに意見も態 度も変える。植村女史は『トルーマン大統領その他知名な人々も、高圧的な態 度で自分の意見を他に圧しつけることがないかわりに、自分に納得のいかない 不審な点は、あくまでも、きく』と記した。どうも日本人とは異なる反応の仕 方だ。多数は流動的で固定しないから、『これが天下の世論だ』などと高圧的に 言ってもききめがない。『一夜にして全国民が一定“世論”のもとに一変すると いった事態は逆に起こらない』。」

大河ドラマ『いだてん』何点?<等々力短信 第1119号 2019(令和元).5.25.>2019/05/25 07:18

大河ドラマ『いだてん』の視聴率が悪いそうだ。 宮藤官九郎のドタバタ喜 劇調を、私は面白く見ている。 三人の女優が断然いい。 綾瀬はるか、大竹 と寺島の両しのぶ。 春野スヤから池部スヤになる綾瀬はるかは、金栗四三(中 村勘九郎)の幼馴染で、女学生の頃「逢いたかばってん逢われんたい」と「熊 本自転車節」を歌いながら自転車に乗っていた明るさが輝き、後にマラソンに のめり込む金栗を支える妻となる。 スヤが最初に嫁入りする玉名村の大地主 池部家の姑・幾江が大竹しのぶ、四三の兄・実次(中村獅童)が四三のオリン ピック渡航費用を借りに来て以来のやり取りが秀逸、ものすごい顔をする。 寺 島しのぶは女子高等師範の助教授二階堂トクヨ、ストックホルムから帰った金 栗を「敗因は何か」とひとり追及、英国留学して女子体育を創始した。

 「スースー・ハーハー」、マラソンから駅伝、日本全国縦断と走ってばかりい る中村勘九郎がバカみたいだが、その主役を見事に支える大竹しのぶや中村獅 童、そして寺島しのぶは、1999年大河ドラマ『元禄繚乱』で大石内蔵助を演じ た父・中村勘三郎(当時は勘九郎)に連なる、勘三郎ファミリーと言えるだろ う。 内蔵助の妻りく役だった大竹しのぶは、朝日新聞連載「まあいいか」に 勘九郎の長男七緒八=勘太郎の三月大歌舞伎「盛綱陣屋」、「8歳の役者が誕生 した日」自分の初日より緊張した、と書いた。

 物語はビートたけし演じる古今亭志ん生が昭和35(1960)年に寄席の高座 で語る落語『東京オリムピック噺』を舞台回しに進行する。 金栗四三の一年 前、神田亀住町で生れた志ん生、美濃部孝蔵(森山未來)の成長物語でもある。  巡査だった父親の命名には、親孝行をして蔵の一つも建ててくれという願いが こめられていたそうだが、下谷尋常小学校4年制卒業まぎわ、素行悪く退学、 すぐ奉公に出され転々とし、バクチ、酒、女郎買いなどの放蕩が続き、父親が 槍を持ち出し、「この不孝者め、突っ殺してやる」などのひと幕もあった。 浅 草の人力車夫清さん(峯田和伸)が羽田のオリンピック予選会に出て、金栗四 三と知り合う。 清さんの代わりに橘家円喬(松尾スズキ)の俥を引いた孝蔵 が、専属車夫から弟子となり、ハチャメチャながら「どこかフラがある」と朝 太の名をもらう。 金栗が入学した東京高等師範に近い、大塚の足袋屋「播磨 屋」黒坂辛作(ピエール瀧から三宅弘城)は、金栗にマラソンに向いた足袋を つくり、清さんを通じて朝太の初高座に着物を贈り、高師卒業後の金栗が下宿 もする、実に良い役なのにピエール瀧はもったいないことをした。 朝太が旅 回りに出た浜松で、よく聴きに来る田畑政治少年が浜名湖で泳ぐ友達を寂しく 見ているのに会う。 田畑(阿部サダヲ)が、東京オリンピック招致に活躍す る『いだてん』後半は、どうなるか。

ソッカー部の命名者で初代主将の浜田「諭吉」2019/04/17 07:14

慶應義塾にちなんだ名前についての別の話が、濱田洪一さんからの最初のメ ールにあった。 濱田洪一さんの父上・濱田駿吉さんの兄弟七人のうち、上か ら四人は、歴代塾長のお名前をいただいた、というのだ。 濱田洪一さんは、 工学部(現、理工学部)サッカー部の出身で、慶應義塾体育会ソッカー部が毎 年開催している「蹴球祭」(大学現役部員とOB、一貫校が交流し、関係を深め る行事)の2013年の会でなさったスピーチを送ってくれた。

なぜ慶應ではソッカー部というかは、慶應義塾体育会ソッカー部のホームペ ージの「ソッカー部の由来」や「歴史館」に書いてある。 ソッカー部は1927 (昭和2)年慶應義塾体育会に加入したが、その名称は初代主将を務めた浜田 諭吉の命名だった。 サッカーは当時、「ア式蹴球(アソシエーション・フット ボール)」と呼ばれていたが、ラグビーがすでに蹴球部を名乗っており、 SOCCERのSOはソに近い発音だと解釈しての命名だったという。 早稲田大 学は現在も「ア式蹴球部」を名乗っている。

その浜田諭吉さんは、濱田洪一さんの伯父で1943年に戦死した。 諭吉さ んの父、洪一さんの祖父・濱田長策さんは、明治26(1893)年大学理財・法 律科卒業写真で福沢諭吉先生と並んでいるのが、慶應義塾写真データベースに ある。 濱田長策さんは、長男に社頭の名前をいただいて「諭吉」、次男に門野 (幾之進)学務主任の夫人の名前「お駿」の駿をいただいて「駿吉」と命名し た。 次男の濱田駿吉さんは、ホッケー部のゴールキーパーで、1932年ロスア ンゼルスと1936年ベルリンの両オリンピックに参加し、ロスアンゼルス大会 では銀メダルを獲得した。 長女の名の「篤子」は、祖父の卒業写真の時の塾 長、小幡篤次郎の「篤」を、次女の「栄子」は次の塾長、鎌田栄吉の「栄」か らいただいた。この栄子さんの娘婿が、ソッカー部のOBで1964年の東京、 1968年のメキシコの両オリンピックに出場し、メキシコでは銅メダルを獲得し た片山洋さんだという。