出陣学徒壮行会、和田信賢と志村正順2023/10/14 07:16

 和田信賢(森田剛)は、戦況の悪化に、「何が本当で、何が嘘かわからなくなった」と洩らす。 「信用のない言葉ほど、みじめなことはない」「自分に、吐きそうだ」「言葉の使い方を間違えた?」「原稿を読む以外に、何ができる」と苦悩するが、情報局に繋がる上司は「最後のアジテーターは、その役割を全うせよ」と迫る。

 和田は、出陣学徒壮行会の実況の準備に入る。 妻の実枝子(橋本愛)は、「招魂祭、衝撃だった、あの声に私は惹かれた。遺族と会って、その言葉を拾い集めていた。一人一人が掛け替えのない人だった。虫眼鏡で調べて、望遠鏡で見るように、分かり易く伝える。調べていたから、あなたの言葉は信頼できた」と、励ます。 和田は、早稲田大学野球部の合宿所へ行き、朝倉寿喜主将(水上恒司)など選手たちの声を聞く。 初めは通り一遍の答を並べ、「言いたくない」としか話さなかったが、「戦争は殺し合いをするところだ、君たちの本心が聞きたい」という和田に、「死にたくない、僕は生きたい、野球がしたい、家族に恩返しがしたい、だが社会が許してくれない」と話す。

 昭和19(1943)年10月21日、明治神宮外苑競技場で行われた出陣学徒壮行会は、雨だった。 和田は、駄目だと、倒れる。 学徒を戦地に送るやり切れない思いが、酒を過ごさせて体調不良に陥った。 用意していた原稿には、「かあちゃんよーー、かあちゃんの声が聞きたい、行きたくないよーー、私が聞いた学徒の声であります。誰にも言えないその思い、雨は一層激しく学徒たちを打ち付けております。二十年生きて来たのに、いま泥鰌のことしか思い出せない。お父さん、正直怖い、死にたくない、生きたい。この言葉を、私はどのように聞けばよかったのでありましょうか。今、粛々と行進するのであります。壮士ひとたび去りて、復(ま)た還らず。国民の皆様、どうぞお聞きください、若者たちは命を受け、彼らは二度と、もう二度とここに戻らないのであります。」と、あった。

 後輩の志村正順(大東駿介)が、当日欠席した和田に代わって実況中継を担当し、名声を得た。 志村と同じ後輩アナウンサーの刈屋富士雄によると、和田が「学生を戦地に送る壮行会を盛り上げることは出来ない」と上層部に主張して激しく対立したためだという。

 後に私は子供の頃から、志村正順は、「まぁ、何と申しましょうか」の小西得郎解説とのコンビのプロ野球実況で、刈屋富士雄は大相撲の実況で聴いていた。

『アナウンサーたちの戦争』のアナを知っていた<小人閑居日記 2023.10.12.>(都合で、11日に発信しました。)2023/10/11 05:30

 敗戦記念日の前日、8月14日に放送されたNHKのドラマ『アナウンサーたちの戦争』(脚本・倉光泰子、演出・一木正恵)を録画しておいたのを、ようやく見た。 日本のラジオ放送は1925(大正14)年に始まったから、二年後には百周年を迎える。 実は「等々力短信」の前身「広尾短信」は1975(昭和50)年に創刊したから、それで二年後には五十周年を迎えることになる。 ラジオ放送の半分、思えば長く続けてきたものだ、何とかそれまで元気で続けていたいと、思う。

 私は長く生きているので、『アナウンサーたちの戦争』に登場するアナウンサーたちの内、知っている名前が何人もあった。 戦後、物心ついた頃は、ラジオ放送の時代だったからだ。 主人公の和田信賢(森田剛…宮沢りえの夫と聞いていたが、顔は馴染がなかった)、妻になる大島(和田)実枝子(橋本愛(語りも)…大河ドラマ『青天を衝け』で渋沢栄一の妻)、館野守男(高良健吾)、今福祝(浜野謙太)、志村正順(大東駿介)、松内則三(古館寛治)だ。  和田信賢は「話の泉」の司会で、志村正順、今福祝(はじめ)はスポーツ中継で、和田実枝子は子供番組などで、館野守男は解説委員として記憶している。 これは当然聴いていなかったが、ワダチン和田信賢は、「双葉破る!双葉破る!双葉破る! 時、昭和14(1939)年1月15日! 旭日昇天、まさに69連勝。70連勝を目指して躍進する双葉山、出羽一門の新鋭・安藝ノ海に屈す! 双葉70連勝ならず!」と叫んで実況、松内則三は、戦前の六大学野球で「夕闇迫る神宮球場、ねぐらに急ぐカラスが一羽、二羽、三羽」の決まり文句で有名だったという。(なお、「前畑ガンバレ」は河西三省アナウンサー)。

 和田信賢アナは、酒豪で知られ腎盂炎を患っていたが、1952(昭和27)年ヘルシンキのオリンピック中継に派遣され、実況を終えて帰国する途中、五輪期間中に白夜で睡眠不足となっていた疲労の治療で入院したパリ郊外の病院で8月14日に客死した(享年40歳)。 診察した日本人医師は加藤周一で、容態はかなり重篤、和田はその直後に亡くなったと、加藤周一の『続 羊の歌』にあるそうだ。

コカ・コーラ、真っ白な紙とパン2023/09/10 07:07

 この「等々力短信」第944号の、昭和24(1949)年秋「オドール監督ひきいるサンフランシスコ・シールズが来日し、その試合も後楽園球場で観た。」というのを読んだ女性読者から反響のハガキが来た。 昭和24年のシールズ来日は、彼女にとっても印象深い“事件”だったというのだ。 大田区の小学校で、小学生招待の「くじ」に当り、野球の“ヤ”の字も知らないのに、あまりにも男子が「ゆずってくれ」というので、誰に渡すことも出来ずに出かけ、観戦バッジとコーラとライト・ブルーの表紙の真っ白な紙に印刷されたパンフレットを貰って帰ってきたのだそうだ。

 コカ・コーラについては、私もよく憶えている。 前に「槍の笹崎」(等々力短信752号)というボクシングの話の中で、昭和27(1952)年5月19日の後楽園スタヂアム、白井義男がダド・マリノを破って、世界フライ級チャンピオンになった試合を観て、「日本人には、日米野球など、そういう機会だけに限って販売されたコカ・コーラの味が、格別だった」と書いている。 「真っ白な紙」というのも、よくわかる。 当時の小学生の使っていたノートなどは、ザラ紙に近い黄色いような紙だったのだ。 メモリアル・ホールと呼ばれていた両国の国技館で、相撲見物の進駐軍の兵隊の食べていたパンの白さも、印象的だった。

 そういえば、日比谷の東京宝塚劇場は「アーニー・パイル劇場」だった。 アーニー・パイルは、「ワシントン・デイリー・ニュース」紙の記者から、第二次世界大戦の従軍記者となり、1944年にピューリッツァー賞も受賞したが、1945年4月に従軍先の沖縄伊江島で戦死した。 アメリカ軍統治時代の那覇に、琉球列島米軍政府と琉球政府の協力で「アーニー・パイル国際劇場」という映画館が建設されたことから、この劇場のある通りが「国際通り」と呼ばれるようになったのだそうだ。

(戦後のスポーツや大リーグ等について、小人閑居日記2006.3.20.~3.25.と、2008.2.5.~2.10.に関連の記述があります。)

『打撃王』、ゲーリー・クーパーのルー・ゲーリッグ2023/09/09 07:09

 9月9日は亡くなった兄晋一の誕生日だ。 私が幼い頃から、プロ野球の試合や映画を観ているのは、5歳上の兄がいたおかげだった。

 ゲーリー・クーパーがルー・ゲーリッグを演じた『打撃王』という映画を観た。 日本での封切は、昭和24(1949)年のことだから、私は小学校の1年生か2年生だった。 その映画のことを、兄が亡くなったちょうど一年後に、「等々力短信」第944号 2004(平成16)年10月25日に、「もつれ足」と題して書いていた。

        等々力短信 第944号 2004(平成16)年10月25日                       「もつれ足」

 モリー先生の難病ALS(筋萎縮性側索硬化症)は、別名をルー・ゲーリッグ病というのだそうだ。 子供の頃、ゲーリー・クーパーの『打撃王』という映画を観た。 クーパーの演じたルー・ゲーリッグが、打席に向かう途中、並べて置いてあるバットにつまずいて転び、スタンドから「もつれ足」というヤジが飛ぶ場面があった。 この「もつれ足」という字幕を、ずっと憶えていた。 『打撃王』の日本での封切は、昭和24(1949)年のことだから、私は小学校の1年生か2年生だった。 この年の秋、オドール監督ひきいるサンフランシスコ・シールズが来日し、その試合も後楽園球場で観た。

 「もつれ足」がALSと関係があったのかどうか気になって、以前衛星放送でやったのを録画しておいた『打撃王』を見た。 原題は“The Pride of the Yankees”、1942年の作品で、サムエル・ゴールドウィンの製作、監督はサム・ウッド。 ベーブ・ルース自身がベーブ・ルース役で出演している、ルー・ゲーリッグの伝記映画だった。 学歴がないためよい職業に就けない両親(とくに母親)は、ルーが大学を出てエンジニアになった伯父のようになることを望む。 母はコロンビア大学の学生寮の賄いをしつつ、ルーをコロンビア大学に進学させる。 子供の頃から素晴しいバッターだったルーは、母親の病気を機に、ヤンキースと契約する。 マイナー・リーグのハートフォードに所属したのを、母が「ハーヴァード」と誤解したのをよいことに、プロ野球選手の道を歩む。

 マイナー・リーグで首位打者となりヤンキースに昇格、ベンチを暖めていたが、シカゴで一塁手が打席で故障し、突然代打に指名される。 その時、慌ててベンチを出て、バットにつまずいて転ぶ。 「もつれ足」とヤジを飛ばすのが、のちのゲーリッグ夫人(テレサ・ライト)だった。 「もつれ足」はtanglefoot、BS2の字幕(池田宏)では「千鳥足」になっていた。 ALSにかかるのは、ずっと後で、それが引退の原因となる。

 ルー・ゲーリッグは一塁手、4番打者(背番号4)として活躍、3番打者ベーブ・ルース(背番号3)とともに、ヤンキースの人気を高めた。 1939年まで17年の選手生活で、打率3割4分1厘、連続試合出場数2130回(“アイアン・ホース”と呼ばれた)、三冠王(1934)などの記録を残した。 これより先1920年にベーブ・ルースが3割7分6厘も打って三冠王になれなかったのは、今年イチローがその最多安打記録を塗り替えたジョージ・シスラーが4割7厘を打ったからだった(イチローはオドールも抜いた)。

進駐軍に接収されていた野球場2023/09/08 06:52

 戦後復活した全国中等学校優勝野球大会の第28回大会(1946(昭和21)年)は、阪神甲子園球場がGHQ(進駐軍)に接収されていたため、阪急西宮球場で行われた、というので思い出したのは、横浜球場がルー・ゲーリック球場だったことだ。 大学のクラスメイトで、横浜育ちのLINE友達に確認したら、日本のプロ野球が赤バット・川上、青バット・大下と湧いていた時代、横浜球場はルー・ゲーリック球場、野毛の映画館はマッカーサー劇場と改名され、横浜は港から街まで、進駐軍に取られて、「オフ・リミット」の看板だらけで、立ち止まることさえ出来なかった、と返信があった。

 その時代、同じく接収されていた神宮球場は何という名前だったのか、わからなくて調べたことがあった。 インターネットで調べたら、「ステイトサイド・パーク」と呼ばれていたという。 辞書を見たらstateside は「アメリカの」という形容詞だそうで、なんと明治神宮のお膝元で「アメリカ球場」だったのである。 接収当時、東京六大学野球のリーグ戦は後楽園球場で行われていたらしい。

「ルー・ゲーリック球場」も「ステイトサイド・パーク」も、戦争直後の当時、ナイター設備があって、煌々と照明をして試合が行われていたというから、焼け跡や停電の続く中で、さぞ目立ったことだろう。 

 ニッポン放送のショウアップナイターで春風亭一之輔が「ジャイアンツ・ファン歴40年」と言っているけれど、私などは、赤バット・川上時代からのジャイアンツ・ファンだから、「ジャイアンツ・ファン歴77年」ということになる。

 のちに監督になった水原茂がシベリア抑留から帰って来て、後楽園球場で「水原茂、ただいま帰って参りました!」と挨拶したのを見た記憶がある。 水原茂は、1949(昭和24)年7月20日に抑留されていたシベリアから舞鶴港に復員した。 その4日後の7月20日(日曜日)午前10時30分、東京駅に帰着、その足で後楽園球場へ行き、巨人-大映戦のダブルヘッダーの試合前に、姿を見せ、ファンに挨拶したのだった。