「ヒットB」の開発、村上開新堂と虎屋2018/12/26 07:09

 『村上開新堂II』に「ヒットビー」という言葉が出てきて、『村上開新堂I』 を参照した。 昭和15年7月に戦時体制に入ったとき、宮内省と大公使館に 納めるということで、洋菓子店では村上開新堂一軒だけが除外令を受けたとい う。 戦争末期、山本道子さんの祖父三代目・村上二郎さんが、海軍衣糧廠に 頼まれて、航空食「ヒットB(ビー)」を開発することになった。 飛行機に乗 る人たちのための食料で、脂肪を40%入れて、かつある程度の旨味と、胃にも 吸収しやすいことが求められた。 二郎さんは真剣に取り組み、一食分が約6 ×4.5×4センチ、重さ120グラム、750キロカロリーの「ヒットB」が完成し た。 砂糖、水飴、油、澱粉、ゼラチン、きな粉、ココア、カルシウム、水な どに、ビタミンB1、B2も加味され、チョコレートのような味がして、噛むと 餅のようで、なかなか口当たりのよいものだった。 完成時期が、終戦直前だ ったため、沖縄と硫黄島の一部に空中投下したのみだったが、戦後に、山岳携 帯食としてマナスルやヒマルチュリへ行ったヒマラヤ登山隊に提供して、活用 されたそうだ。

 虎屋のことを書いたばかりだったが、その前のページに、たまたま二郎さん と友人の虎屋の黒川武雄さんの、和と洋、菓子の両大御所の話題が新聞に出た のが紹介されていた(昭和25年11月17日付朝日新聞夕刊)。 当時、黒川武 雄さんは厚生大臣。 「おい、近頃あまり現れないじゃないか」「君が大臣にな っちゃったからだよ。近寄りがたしサ」「なァにいってやんでェ」といった二人 の仲だ。 二郎さんが「あのころ、お前の家へ行くと、菊の御紋章がいやにピ カピカ光って、シメなど張ってちょっとオッカナかった。なにしろ菓子屋の権 威だったからなあ」「ただの権威じゃァない。その上に最高をつけろよ、最高を」 おっかぶせてワッハッハ、笑った口へ、村上さんご自慢の洋菓子をポイとほお りこんで「いつ食ってもうまいなァ、芸術品だね」

 「売らない」有名店だった村上開新堂、村上二郎さんが「家の者の電話のか け方が気に入らない」といって、吉田茂元首相にさえ売らない時があった。 参 議院議員だった黒川武雄さんが店に来て、「君が売らないと言うから、僕が月曜 日に持って行った開新堂の菓子を、木曜日に出すと言っているよ」と言う。 二 郎さんは洋菓子に愛情と自信を持っているから、「とんでもない。うちの洋菓子 が古いなんて言われちゃ困る。明日作るから、それを持って行ってくれ」と黒 川さんに託したという。 黒川さんが二郎さんの性格をよく知っていたから、 そう言ったのかもしれないと、四代目村上寿美子さんが書いている。

『村上開新堂II』戦後の歩みを記録2018/12/25 07:16

 2015年に頂いたご本の続編、山本道子・山本馨里(かおり)著『村上開新堂 II』(講談社)を、また送って頂いた。 2014年に創業140年を記念して編ま れた『村上開新堂I』については、4回にわたって書き、その後、NHK BS『新 日本風土記』「皇居界隈」で放映された、その作業場についても触れた。

こだわりの西洋菓子「村上開新堂」<小人閑居日記 2015.5.28.>

武士からパティシエになった初代<小人閑居日記 2015.5.29.>

開新堂創業と、後継者の教育<小人閑居日記 2015.5.30.>

「村上開新堂」の味と哲学をつくった三代目<小人閑居日記 2015.5.31.>

村上開新堂・山本道子さんの作業場<小人閑居日記 2015.7.12.>

 『村上開新堂II』は、終戦の年に生れた現在の五代目当主・山本道子さんの 目を通して、戦後の村上開新堂の歩みを記録している。 この本もまた、図版 や写真が豊富に掲載されていて、美しく、楽しい、立派な本に仕上がっている。  以下、敬称を略す部分があるのをお許し願う。 一巻では山本道子さんの祖父 三代目・村上二郎が「村上開新堂」の味と哲学のほとんどを完成させたことが 述べられていた。 二巻は、道子さんのご両親、四代目發(あきら)と寿美子 の時代、そして道子さんが三代目の孫としてどのように育ち、「開新堂」らしい 感性を磨いていったか、どんな思いで「開新堂」を育んできたのかを、道子さ ん自身が綴っている。 本も立派だが、道子さんと「村上開新堂」の歩みもま た立派で、圧倒される思いがした。

 写真を見ると、今の道子さんによく似ていらっしゃる母寿美子さんが、夢だ ったレストランを始められたのには、三代目・二郎さんの小布施への転地療養 と、道子さんの姉・由希子さんの死があった。 由希子さんは、私の一年上で 存じ上げていて、そのことを下記に書いたことがあった。

村上由希子さん記念の奨学金制度<小人閑居日記 2011. 8. 21.>

 道子さんの夫君、山本昌英さんが由希子さんの同級生で住友商事勤務、道子 さんは大学3年の時21歳で結婚、翌年卒業し長女・珠貴さんが誕生したこと を知らなかった。 その翌年、夫君の転勤したニューヨークに、1歳の珠貴さ んを連れて渡ることになる。

 「村上開新堂」は、レストランを支えた歴代の料理長と支配人、元看護婦さ ん始め、従業員の方々に恵まれている。 最後のページにある全員のお名前の 掲載と集合写真の笑顔から、人を大事にする姿勢、その家族的な雰囲気が伝わ ってくる。

内藤廣さん設計の「とらや赤坂店」2018/12/24 07:01

 そこでリニューアルオープンした「とらや赤坂店」だが、扇形の敷地に外観 はガラス張りの明るい扇形の建物が建っている。 木材を多用しているので、 これも隈研吾さんかと思ったら、違っていた。 内藤廣さんの設計、鳥羽市立 海の博物館、安曇野ちひろ美術館、牧野富太郎記念館、旭川駅、富山県美術館 などを設計した人だそうだ。

 内藤廣さんのコンセプトは、「簡素にして高雅」とのこと。 立体的な同じ組 子を格子状にした壁や、細い材を沢山並べた曲線のきれいな天井、細かい板を 組み合わせこれも曲線の美しい階段など、みんな吉野の檜(ひのき)を使って いるという。 虎屋のマークが輝く、二階の菓子売場奥の壁は、黒漆喰(久住 章さん)で、地下の廊下に使用したという鋭い鏝(こて)が展示してあった。  屋根は、軽くて丈夫なチタンだそうだ。 全体にお金が十分に掛けられている のがわかり、ゆったりとしていて、働いている人などは誇らしい気持がするの だろうけれど、私などはどこかしっくりしない気がするのだ。 こちらが「高 雅」とは縁遠い、貧乏人のひがみなのだろうか、和と洋の微妙なミスマッチを 感じる所為なのだろうか。

 食事をしたのは三階の虎屋茶寮、窓際のカウンター席だったが、目の前に赤 坂御用地が広がっていて、すぐそこは見えないけれど秋篠宮邸、門の所で警戒 の警官が交代したりしている。 地下はギャラリーで、百年前の『菓子見本帳』 (大正7(1918)年)から多種多様な羊羹のデザインや、羊羹を煮る巨大な釜 や箆(へら)など、菓子作りの道具や原材料を展示する初回企画展「とらやの 羊羹デザイン展」(12月30日まで)をやっていた。

 小耳に挟んで見て来たのだが、二階の菓子売場にはないものを買える、とら や初の自動販売機が、一階の右手、駐車場への出口近くにある。 以前、虎屋 パリ店で販売していた羊羹だそうだ。

「とらや赤坂店」季節の食事〈冬〉2018/12/23 08:35

 浅草の割烹一直の料理をずらずら書いて思い出したのだが、しばらく前の昼 に家内と、10月1日にリニューアルオープンした「とらや赤坂店」へ行った。  三階の虎屋茶寮で、和菓子の原材料や旬の野菜を使ったという、季節の食事〈冬〉 を頼む。 こちらは一直と違って、お品書きがあったので、それによって書く ことができる。

 「加賀丸いもと百合根のしんじょ椀」加賀丸いも(つくね芋)は薯蕷(じょ うよ)饅頭の原材料、それと上用粉(関西方面で使われる細かい米の粉)を百 合根と合わせて、しんじょにしたという。 「沼田の湯葉 自家製ゆず七味」  「九条ねぎ 鴨と白味噌のだんご 山椒葛あんかけ」とらや京都限定小形羊羹 『白味噌』に使われる白味噌と、鴨肉を合わせてだんごにしたもの。 「小豆 の佃煮」とらやのお菓子に使われる北海道十勝産の小豆に、海苔を加えて佃煮 にしたというが、小豆の辛いのが不思議な感じだった。 「蓮根ごはん」白い レンコンを炊き込んだご飯、お米は、こしひかり、みやこがね。 「香の物 盛 り合わせ」 酸っぱい山芋が珍しかった。 「季節の生菓子」二種の内、揚げ とらや饅頭を選んだ。

 やはり、お菓子屋さんの料理という感じで、どちらかというと精進料理に近 い、あっさりしたものだった。 割烹のご主人や板前さんの料理とは、ちょっ と違うのだった。

高級乳製品「蘇(そ)」と「白牛酪」2018/12/22 07:17

 15日に平城宮・京跡から出土した荷札木簡には、上総国(千葉県中部)から 送られた高級乳製品「蘇(そ)」があった、と書いた。 それで思い出した。  7月7日の朝日新聞土曜版の「みちものがたり」が「嶺岡牧(みねおかまき) の白牛が歩いた道」だった。 白牛が毎年、江戸城まで歩いたという話だった かな。 メモしてあったのは、11代将軍の徳川家斉が、「白牛酪」を好んだと いうことだった。 牛乳に砂糖を混ぜ、石鹸ぐらいに煮固めたものだそうだ。  これは「蘇(そ)」ではないのだろうか。 今も土地には、「チッコ(乳っ子) カタメターノ」というものがあるそうだ。 初乳(生乳と成分が異なり出荷で きない)を豆腐状に固めたもの、味噌汁や料理に入れたりするという。 ある ブログを見たら、8代将軍の徳川吉宗がインドから白牛を輸入したのが始まり で、将軍への献上品だった「白牛酪」は、やがて一般にも販売されたから、こ こが日本酪農発祥の地だとあった。

 そういえば、「醍醐味」という言葉がある。 『日本百科全書・ニッポニカ』 には、「「最高の美味」を意味する仏教用語。牛乳製品を発酵の段階にしたがっ て五つ、乳(にゅう)、酪(らく)、生酥(しょうそ)、熟酥(じゅくそ)、醍醐」 に分け、それら五つの味を五味(ごみ)といい、あとのものほど美味であると する。」とある。 チーズは、どれにあたるのか。 

嶺岡牧は、房総半島の南部、現在の鴨川市と南房総市にまたがる山にあった 大きな牧場。 平安時代にはすでに馬が飼われていたらしく、江戸時代には全 国に4カ所あった幕府直轄の「牧」の一つだった。 『日本百科全書』「牧」 には、「下総の小金五牧、佐倉七牧など多くの直轄牧場を整備し」とある。 「牧」 は、大化改新(645年)以前の文献にも現われ、改新後、牧は律令国家の一翼 として制度化され、漸次整備されていったという。 668(天智天皇7)年7 月、牧を多く置いて馬を放たせたとあり、700(文武天皇4)年3月、諸国をし て牧地を定め牛馬を放たしめたことがみえる。