「金沢あじわい冬の旅」の「おでん」2023/11/18 07:05

 最近たまたま『新日本風土記』の「金沢あじわい冬の旅」を見た。 先日の金沢の旅行で、ご案内頂いた大窪さんは「金沢に海鮮丼はなかった」という話をされた。 多くの観光客が求める海鮮丼が、近年の流行り物だということらしい。 「あちこちに冬をめでる町、金沢の物語」という番組は、金沢はおでん屋が人口当たりで一番多い町だといい、「金沢おでん」で始まった。 その「金沢おでん」にしても、十年前に「三幸(みゆき)」(野町)という店が「金沢おでん」と名乗ってから、人気に火がついたという。 味は関西寄りで、醤油は控え目、タネは地元の野菜や海の幸。 金沢ならではのものは、「菊一」(片町)の元祖「カニ面」、香箱ガニという雌のズワイガニの殻に身もミソも乗せ、ウチコとソトコ(ソバコ?)の二種の子も入れ、殻の腹底で蓋をして縛ると剣道の面に似るので、こう呼ぶという。 江戸時代から続く金沢市民の台所近江町市場に仕入れに行き、その八百屋の場所に、かつては店があったという姉妹で営む「長平(ちょうべえ)」(下新町)は、「金沢おでん」とは名乗っていない。

 おでんといえば、大根だが、土地に美味しいと人気の源助大根、ずんぐり丸く愛らしく、水分の多い、しかし割れやすい大根がある。 松本佐一郎さんが80年前に生み出し、一時は多く生産されたが、昭和50年に登場した青首大根の新種が全国的に席巻して、30年前には一軒だけになってしまった。 食べたい人がいる限りはと、孫の充明さんが父の惲(あつし)さんと砂畑での生産を続け、平成9年からは加賀野菜プロジェクトを立ち上げて、源助大根の生産者は今20軒に増えている。 深夜午前1時から収穫するのは、気温の変化に弱く、割れやすいからだ。 惲さんは7年前に咽頭癌を患い、声を出せないが、筆談で「譲らん一歩も」「好きこそ物の上手なれ」と、親子ともども金沢の言葉で「いちがいもん」(頑固者)、自分の信念を曲げずにがんばっている人であることを示していた。

 ズワイガニ漁の解禁は、11月6日(今年は時化だったようだが…)。 金沢港の底引き網を束ねる船団長、宮田康一さんは4代目、カニ漁は初日だけで800~1000万円、二た月で2000万円以上稼ぐとニヤニヤする。 高校時代はバイクに夢中になって、退学になり、高校を出とらん分頑張ろうと思って、本腰を入れて漁師になったと話していた。

『暮しの思想』『食の社会学』から2023/11/14 06:55

加藤秀俊さんの『暮しの思想』(中央公論社)にある、ケンブリッジのT・ピーコックさんという週給十七ポンドの貧しい暖房工事人の趣味の話を思い出した。 ダリヤつくりが趣味の彼は、市の公園の一部を借りてダリヤを育てている。 丹精の結果、それがイギリス最高のダリヤ園になった。 8月下旬、満開のころを見計らって、彼はそれを一般に公開する。 イギリス各地からダリヤの愛好者が見学に来るのだそうだ。 1967年には、見学者は千人を超えた。 その日、ピーコックさんは、貧しい貯えをはたいて、奥さんとふたり、この千人のお客さんにお茶をもてなした、というのである。

「それはかれにとっての、もっとも誇り高い瞬間だったのである」と、加藤さんは書いている。 それをタイムズが、トップ記事で報道した。 ちょうど北京でイギリス代表部焼打ち事件があった当日のことなのに…。

胡椒(こしょう)は西洋で、ギリシャ、ローマの時代から、宝石のように珍重されてきた。 肉を主食にするヨーロッパの人々が、胡椒を代表とする強い香りのスパイスの味を知って、それを手放せなくなったのは、よくわかる。 胡椒は、肉のくさみを消し、風味や旨さを引き出すからだ。 でも胡椒を手に入れるのは大変だ。 胡椒の原産地は、インドのマラバル沿岸地方、現在のケララ州のあたりだそうだ。 はるばる東洋から胡椒が西欧まで達するのは、何人ものイスラム教徒の手をへて、何回も追いはぎ同然の通行税を払ったあげくのことであった。 値段は当然高くなった。 12世紀初めのヨーロッパでは銀の目方と胡椒の目方とが、まったく等価に扱われていたそうだ。

 胡椒を主とする東洋原産の香辛料は、アラブ商人の手によってエジプトまで運ばれ、そこからヴェネツィア船隊によってヨーロッパにもたらされていた。中世後期のヴェネツィア共和国の隆盛は、この西欧における香辛料取引の独占によるものであった。 ところが、そこに問題が起こった。 オスマン・トルコの興隆が、この西欧唯一の東洋との交易路を、断ち切ってしまったのだ。 香辛料の取引は、危機に陥った。

 「安い香辛料を大量に入手できれば大金持になれる」と考えたヨーロッパの人々は、巨大な投資を行ない、危険を冒して、船で直接インドを目指す、胡椒獲得の航海へ乗り出した。 こうして15世紀以降の「大航海時代」が、はなばなしく始まる。 イベリア半島の二大強国、スペインとポルトガルが、大接戦を展開する。 加藤秀俊さんは『食の社会学』(中央公論社・1978年)で「ぶちまけていうなら「大航海時代」というのは、胡椒欲しさの一心からはじまった冒険競争なのである。 だから歴史の展開というのは、ときとして滑稽でもありまた偉大でもあるのだ」と書いている。

コカ・コーラ、真っ白な紙とパン2023/09/10 07:07

 この「等々力短信」第944号の、昭和24(1949)年秋「オドール監督ひきいるサンフランシスコ・シールズが来日し、その試合も後楽園球場で観た。」というのを読んだ女性読者から反響のハガキが来た。 昭和24年のシールズ来日は、彼女にとっても印象深い“事件”だったというのだ。 大田区の小学校で、小学生招待の「くじ」に当り、野球の“ヤ”の字も知らないのに、あまりにも男子が「ゆずってくれ」というので、誰に渡すことも出来ずに出かけ、観戦バッジとコーラとライト・ブルーの表紙の真っ白な紙に印刷されたパンフレットを貰って帰ってきたのだそうだ。

 コカ・コーラについては、私もよく憶えている。 前に「槍の笹崎」(等々力短信752号)というボクシングの話の中で、昭和27(1952)年5月19日の後楽園スタヂアム、白井義男がダド・マリノを破って、世界フライ級チャンピオンになった試合を観て、「日本人には、日米野球など、そういう機会だけに限って販売されたコカ・コーラの味が、格別だった」と書いている。 「真っ白な紙」というのも、よくわかる。 当時の小学生の使っていたノートなどは、ザラ紙に近い黄色いような紙だったのだ。 メモリアル・ホールと呼ばれていた両国の国技館で、相撲見物の進駐軍の兵隊の食べていたパンの白さも、印象的だった。

 そういえば、日比谷の東京宝塚劇場は「アーニー・パイル劇場」だった。 アーニー・パイルは、「ワシントン・デイリー・ニュース」紙の記者から、第二次世界大戦の従軍記者となり、1944年にピューリッツァー賞も受賞したが、1945年4月に従軍先の沖縄伊江島で戦死した。 アメリカ軍統治時代の那覇に、琉球列島米軍政府と琉球政府の協力で「アーニー・パイル国際劇場」という映画館が建設されたことから、この劇場のある通りが「国際通り」と呼ばれるようになったのだそうだ。

(戦後のスポーツや大リーグ等について、小人閑居日記2006.3.20.~3.25.と、2008.2.5.~2.10.に関連の記述があります。)

長い巡礼を達成して得られるものは…2023/09/06 07:02

 巡礼路には「アルベルゲ」というユースホステルのような救護施設、宿泊施設(寝袋持参)が点在し、巡礼手帳「クレデシャル」を持つ人は誰でも泊めてくれる。 8ユーロから15ユーロ、または寄付のみで泊れる。 巡礼手帳は教区教会、救護施設、観光案内所で3ユーロほどで入手でき、救護施設に泊まると、公式スタンプ(無料)が押され、集めたスタンプが巡礼の証明になる。

 「銀の道」というのは、ローマ遺跡が沢山残り小ローマといわれるメリダから、ローマ時代にセビリアまで銀が運ばれたことによるらしい。 巡礼路は、エストレマドゥーラ州の茶色一色の厳しい不毛の大地が続いている。 この辺りからは、大航海時代に新大陸をめざし莫大な富を持ち帰ったピサロなどのコンキスタドール(征服者)が出たそうだ。 アルカンタラ湖という人造湖があり、付近はイベリコ豚の産地で、樫の木のドングリで育ったその生ハムや、羊のチーズ、トルタ・デル・カサールはとても美味だという。

 サラマンカは、ローマ時代から交易の中心で、13世紀からのスペイン最古のサラマンカ大学があり、16万冊の図書館を誇る、大航海時代には天文学などから綿密な航海計画が練られ、かのアメリカ大陸発見のコロンブスも学んだ。 サラマンカのマコール広場は、世界一美しい広場といわれ、トゥナという学生バンドが中世の衣装で演奏していた。

 カンタブリア山脈を越え、アストゥリアス州に入ると、茶色の大地は一変して、緑あふるるグリーン・スペインとなる。 レオンの大聖堂のステンドグラスは世界一、(9月4日に書いた)古都オビエドのサン・サルバドール大聖堂のスダリオ(聖骸布)を経て、いよいよ最終の難関、険しい山道「原始の道」を越えていく。

 番組では、巡礼者だったカップルが経営する寄付制の巡礼宿に泊った巡礼者たちが、配膳を手伝った食事と乾杯の前に、どこから来た誰か、なぜ巡礼に来たかを発表する。 苦労して歩いて来た者同士の、心を開いた交流があって、なごやかな雰囲気で、食事となる。

 最終日、雲海の下に、聖地サンティアゴ・デ・コンテスポーラが見えて来る。 天候の変化、霧、山越えと、困難な巡礼路を歩いて来た、巡礼者たちを、所々にある黄色の矢印が導いて来た。 黄色の矢印の生みの親は、1980年代に巡礼路の復活を目指した、エリアス・バリーニャ神父だそうだ。 目前の町メリデは、蛸料理が名物で、茹でた蛸をぶつ切りにして、岩塩とオリーブオイルだけで食べるのが、美味しそうだ。

 モンテ・デ・ゴッソの丘までくれば、あともう少し。 サンティアゴ・デ・コンテスポーラ大聖堂前のオブラドイロ広場では、大きなリュックを背負った巡礼者たちが、互いに無事に辿り着いたことを喜び合い、涙を流しながら抱き合っている。 この長い巡礼の道で、神と共にあることを実感し、人生をやり直すことや、人にやさしくすることを決意して…。

五島地鶏“しまさざなみ”を食べる2023/06/13 07:00

 資生堂パーラーの5階、2時間の約束だが、パンが出て来るまでもだいぶ時間がかかったので、吹き抜けから4階を覗くと、インバウンドに日曜日でもあり、ごった返している。 まだ前菜が終わったところだ。 スープは、「“椿やさい”のミックスポタージュ」、ウェイトレスが「大根」と言ったが、なるほど大根の香りがした。

 そこで、メインの肉料理、「五島地鶏“しまさざなみ”フォアグラを詰めたモモ肉のソテー」である。 フォアグラを詰めたモモ肉の周りを鶏皮の脂身で巻いた、巻き鮨のようなものを、いくつか輪切りにしてある。 がっちりと食べ応えがあり、とても美味しく、満足した。

「五島地鶏“しまさざなみ”」を調べる。 五島列島は、対馬暖流の影響を受けた、海洋性気候。 年間の平均気温は17度で、海に面しているため、冬は比較的暖かく、夏も過ごしやすい。 五島地鶏は、軍鶏(しゃも)の雄とプリマスロックの雌を交配させた地鶏で、うまみの強さとくせのなさ、両方のいいとこ取りをしているという。 地鶏にはJAS(日本農林水産規格)によって定められた厳しい基準がある。 在来種の血液比率が50%以上で、出生の証明ができ、75日以上の飼育期間、28日齢以降平飼い、28日齢以降1平方メートル当たり10羽以下の飼育密度。

 五島地鶏を飼育している農家は、エサや物流経費の高騰、後継者がいなかったりで、五島さざなみ農園(庄司鉄平さん)が最後の一軒になってしまったそうだ。 農園は、福江島の鬼岳(おにだけ)と翁頭山(おうとうさん)の二つの山にはさまれた自然豊かな里にある。 五島地鶏“しまさざなみ”は、専用の基礎飼料と五島の自然豊かな里でとれた「椿油」や「お茶」などを自家配合してエサにしている。 食べるものが、肉のおいしさをつくると考えれば、良質な飼料にこだわったエサを食べた五島地鶏ほど、「五島のおいしさ」を体現した肉はきっとほかになく、一羽一羽に、五島という島がつまっている、という。

 五島地鶏“しまさざなみ”の雄鳥は、黒と白の羽が交互に重なり合う、波のような模様を持つ。 それはまさに、五島の美しい砂浜に見られる「さざなみ」のようだ。 福江島は、山と里と海が織りなすバランスが、島全体を豊かにしている。 この豊かな「島の自然」をまるごと活かして育てることが農園の誇りであり、「しま」+「さざなみ」で「しまさざなみ」と名づけたのだそうだ。