「秀吉と秀長―激突! 豊臣チルドレンの関ヶ原」 ― 2026/02/17 07:09
『英雄たちの選択』スペシャル「秀吉と秀長」、「激突! 豊臣チルドレンの関ヶ原」に至る部分である。 秀吉は、天正13(1585)年関白に就任、秀長に託し四国の長曾我部氏を討伐、正親町天皇より豊臣姓を下賜される。 羽柴姓を臣下30名に与え、ファミリー化する。 秀長は№2、家臣(大友宗麟?)は、政策の実行は秀長に相談し、内々のことは千利休に聞くと。 秀吉は、翌天正14年、太政大臣に任官。 天正15(1587)年、秀長とともに九州に侵攻し、島津氏を降伏させる。
天正16(1588)年、秀長の家臣吉川平介が木材を横流しした不正が発覚し、処刑され、秀長は天下の面目を失う。 天正17(1589)年実子鶴松誕生。 翌天正18年秀吉は関白職を鶴松に渡すと宣言。 秀長は体調を崩し、3月の小田原攻めに参戦できず、天正19(1591)年1月22日52歳で病死する。 同年8月鶴松が死に、秀吉は関白職を継嗣(甥)秀次に譲り、太閤と称される。 天正20(1592)年秀吉は「唐入り」を開始するが、諫める者がいなかった。 文禄2(1593)年8月実子捨(秀頼)誕生。 文禄4(1595)年7月関白秀次と不和になり、高野山に追放、15日秀次切腹(28歳)。 家臣団、ざわつく。
慶長3(1598)年8月18日、秀吉伏見城で病死(62歳)、「唐入り」は中止。 6歳の豊臣秀頼をかつぐ親類衆と徳川家康、前田利家などの政権に対する、不満溜まる。 慶長4(1599)年閏3月、不満爆発、加藤清正、福島正則、藤堂高虎ら7人が、石田三成らを襲撃する事件を起こす。 石田三成失脚。 徳川家康、権威を振るう。
慶長5(1600)年6月18日、徳川家康が上杉景勝討伐に會津へ出陣する。 7月12日、石田三成らが挙兵。 7月25日、東軍福島正則が発進。 9月15日午前8時、天下分け目の、関ヶ原の戦いが始まる。
西軍 石田三成 大谷吉継 宇喜多秀家 小西行長 脇坂安治 小川祐忠
東軍 福島正則 藤堂高虎 黒田長政 加藤嘉明 田中吉政 浅野幸長 山内一豊 堀尾忠氏 中村一忠 仙石秀久 加藤清正 黒田官兵衛
様子見 小早川秀秋 片桐且元
濃霧の中で始まった合戦は、西軍がよく戦い、正午まで勝敗が決しなかった。 午後になって西軍の将小早川秀秋が裏切ることによって戦況が一変した。 大谷吉継が押し戻したが、さらに西軍の小川祐忠(秀長、秀次の家臣)が寝返ったのが大きく影響して、西軍は崩れ、午後4時ごろ東軍の勝利となった。 豊臣チルドレンは崩壊した。
天下取りへと走る秀吉、そして秀長 ― 2026/02/16 07:23
『英雄たちの選択』スペシャル「秀吉と秀長―激突! 豊臣チルドレンの関ヶ原」のつづき。
天正10(1582)年6月2日、明智光秀が「本能寺の変」で信長を討つ。 秀吉は、備中高松城攻めの最中に、この急報を聞き、毛利方に悟られないように講和を急いでまとめる。 6月4日、高松城主の清水宗治が切腹すると、秀吉は6日午後に高松を出発し、わずか一昼夜で約80キロの行程を走破し7日居城の姫路城に到着した。 この「中国大返し」で、13日山崎の戦い、27日清須会議となる。
柴田勝家と対立し、天正11年琵琶湖の北で両軍が対峙する賤ケ岳の戦いとなる。 織田信孝と滝川一益が勝家に呼応して岐阜城で挙兵したため、秀吉が急遽岐阜へ迎撃に向かったので、勝家は勝機と見て甥の佐久間盛政に攻撃を命じ、本格的戦闘が始まる。 現地で指揮をとった秀長が、柴田軍を防ぐ。 秀吉も「美濃大返し」で戻り、賤ケ岳の七本槍といわれる加藤清正、藤堂高虎、福島正則ら「豊臣チルドレン」が活躍し、圧倒的勝利をおさめ、退却して北庄(きたのしょう)城に籠もった勝家は妻の市とともに自害して果てた。
秀吉は、大坂城を築く。 和歌山城に秀長を送り込んだのは、抵抗勢力で鉄砲を駆使する雑賀衆を治めるためだった。 和歌山城には、豊臣家の石垣がある、南東の岡口門(元の大手門)。 秀長は、村々から武器を回収する「刀狩り」や「検地」を行い、全国統治の仕組みを試している。
秀吉、あとは、関東、東北を平定すれば、全国統一へと向かえる。 総大将格を多くつくり、城は守るだけでなく、攻めるものをつくった。 バラエティー豊かな家臣団を育てた。
番組では、秀吉の下に、母衣衆、部将、一門衆がある図を掲げた。 部将には、尾張衆(蜂須賀小六、山内一豊、堀尾吉晴)・親戚筋(加藤清正、福島正則)、美濃衆(竹中半兵衛、仙石秀久)、近江衆(石田三成、藤堂高虎、大谷吉継)、播磨衆。 一門衆には、羽柴秀長、浅野長政(秀吉の妻、ねね(寧々)の義理の兄弟)、羽柴秀勝、羽柴秀次。
秀長を異父弟とし、出世の仕方も違う説 ― 2026/02/15 07:23
『英雄たちの選択』スペシャル「秀吉と秀長―激突! 豊臣チルドレンの関ヶ原」(12月31日放送)を見た。 平山優さん(健康科学大学特任教授・日本中世史、近世史)も冒頭で、「天正19(1591)年秀長の死をきっかけに豊臣政権の凋落が始まった」と話した。
この番組では、豊臣秀吉の弟、小一郎・豊臣秀長を、大河ドラマ『豊臣兄弟!』の同父弟と違って、異父弟と、紹介した。 藤吉郎・秀吉は、木下弥右衛門と大政所(名はなか(仲)とも、不詳とも)の子だが、秀長はその3年後の竹阿弥と大政所の子という説だった。 竹阿弥は、同朋衆(和歌や能楽を扱う)。 木下弥右衛門も、竹阿弥も、貧しく畑を耕していた。
藤吉郎は、18歳で織田信長に仕え、小者から足軽になった。 小一郎は、『信長公記』に直臣、赤武羅之衆(あかほろしゅう・赤母衣衆)の一員とあり、使番(つかいばん、命令を伝達するエリート)。 天正2(1574)年、長島一向一揆攻めで、武功を上げ、信長から長の一字を与えられ長秀(のちに(天正12(1584)年)秀長と改める)となる。 バランスの取れた知的な人物。
番組では、信長の下に、吏僚、旗本、部将、家老、連枝衆があり、旗本の中に、六人衆、小姓、馬廻衆がある図を出した。 秀吉は、部将。 秀長は、馬廻衆。
秀吉は、元亀元(1570)年の織田信長・徳川家康連合軍と浅井長政・朝倉義景連合軍との姉川の戦いや、天正元(1573)年の近江の浅井氏攻めでは指揮官として軍功をあげ、浅井氏旧領の北近江三郡を任され、12万石に見合う長浜城で、城持ち大名となり、家臣を集める。 小一郎がこの戦に参陣していたと、手紙にある。
秀吉は、天正6(1578)年から信長の命令で播磨但馬侵攻を開始するが、秀長は但馬への総大将となる。 播磨と但馬の境界付近の生野銀山(現、兵庫県朝来市)を押さえたのは、経済に詳しい近江衆のすすめだという。 竹田城(兵庫県朝来市)を攻め、秀長は城代となり、一城の主となる。 秀長は、秀吉と同じ苗字を名乗り、羽柴一門衆、秀吉を支える血縁的一族となる。 天正8(1580)年、二人の協力で播磨但馬を平定、秀吉は20年で50万石以上の大名となった。
秀吉と秀長には、性格のすみ分けがあった。 性格が、真反対だった。 秀吉は、大言壮語し、物言いがはっきりしていた。 秀長は、そんなにしゃべらず、柔軟で、もやっとした性格。 秀吉にとって秀長は、信用できる兄弟だった。 秀長は、秀吉と臣下の間にあって、調整役を果たした。
大河ドラマ『豊臣兄弟!』、弟の小一郎・豊臣秀長 ― 2026/02/14 07:30
大河ドラマ『豊臣兄弟!』、八津弘幸作、弟の小一郎・豊臣秀長(仲野太賀)を主役にしたところが新機軸で、巧い切り口を見つけた感じがする。 第一回の題は、藤吉郎・豊臣秀吉(池松壮亮(そうすけ))と、「二匹の猿」だった。 豊臣秀長については、ほとんど何も知らなかった。 雑誌『サライ』2月号は、大特集が「謎解き「豊臣秀吉」」だったが、秀長については、ほんの少ししか書いていない。
謎2、〝攻城の天才〟はなぜいくつもの超軍略を使えたのか→「時代別に活躍した3人の参謀が秀吉の強さを支えました」で、竹中半兵衛、黒田官兵衛と並べて、豊臣秀長(1540~91)を挙げている。 「豊臣軍の総大将を担った絶対的信頼の弟」として、「通称は小一郎。秀吉の異父弟ともされるが同父弟が有力。秀吉が中国攻めの司令官として播磨攻略を進めていた天正6年(1578)頃より確かな史料に名前が表れる。秀吉の中国攻め以降は、秀吉のほとんどの合戦に参加し、四国攻めでは総大将を担う。大和郡山城主で100万石を領し、大和大納言と称される。豊臣政権の重鎮として存在を示したが、秀吉に先立って52歳で病死した。」
秀長は、秀吉の絶対的信頼のもと、四国攻めの総大将など、まさに秀吉の分身としての役割をはたしていく。 小和田哲男さん(静岡大学名誉教授)は、「天下統一の総仕上げである小田原攻めも、病気にさえならなければ秀長は総大将クラスで出陣したでしょう。その翌年に秀長は逝去しますが、豊臣政権にとって重大な痛手でした」と。
ドラマや小説などでは、秀長は秀吉の朝鮮出兵に反対し、豊臣家の行く末を案じながら亡くなっていったように描かれることがある。 本当だろうか。 小和田哲男さんは、「その逸話は研究者の間で疑問符がつけられている『武功夜話』という史料にのみ記されているため、あまり信憑性のある話とは捉えられていません。しかし私は、秀長が朝鮮出兵に反対したというのはありえると思っています。なぜかというと、秀長が亡くなると秀吉はすぐに朝鮮への前線基地となる名護屋城の築城を命じているのです。豊臣家の実力者の秀長が朝鮮出兵に反対したら、秀吉も築城を強行できなかったでしょう」と。
実際、秀吉の朝鮮侵略は失敗し、豊臣政権は揺らいでいく。
末盛千枝子さんとペーパーウエイトと「等々力短信」 ― 2026/02/11 07:10
実は、末盛千枝子さんの『今だからわかること 84歳になって』(KADOKAWA)の第III章「私の好きなもの」の、「ペーパーウエイト」に、私と「等々力短信」が登場している。 1989(平成元)年6月、「等々力短信」500号記念のパーティーを友人たちが開いてくれて、記念品に三角形のガラスのペーパーウエイトを出した。 それを、その会に来てくれた末盛さんが、今でも大事にしてくれているのだ。
末盛さんとのご縁は、1986(昭和61)年の夏、神田の三省堂でM・B・ゴフスタイン作・絵、谷川俊太郎訳の『画家・AN ARTIST』を手にしたことに始まった。 それを「等々力短信」411号「ある絵本の話」に綴った。
ある絵本の話<等々力短信 第411号1986(昭和61).12.5.>
この夏の初めのことである。 本の用事で神田に出かけたついでに、三省堂をのぞいてみた。 絵本の売り場で、なにげなく手にした一冊が、とても気に入った。 つい仏心が出て、家内のおみやげにしたほど、ひとの心に温かいものを通わせる本だった。 絵もいいが、なによりも色がいい。 簡単な詩のような文章がついているが、それがなにやら、奥深いものを感じさせる。 本の造りや、色にも、細かい神経が行き届いていた。
それは、M・B・ゴフスタイン作・絵、谷川俊太郎訳の『画家・AN ARTIST』という本で、ジー・シー・プレスという会社から出ている。 奥付の上に、SUEMORI CHIEKO BOOKSという木のマークがあった。 本の中にはさんであった「まだ、絵本は子どもだけのものと、お思いですか?」というパンフレットによれば、末盛千枝子さんは、ブック・アンド・ブックスというシリーズの絵本を出していて、最初の六冊のうち『あさ・One morning』が、今年度のボローニャ国際児童図書賞のグラフィック大賞を受賞したという。 『画家』は、それにつぐ二期目の本の、一冊らしい。
末盛、絵本、大賞とたどっていくうちに、おぼろげに、一つの話を思い出した。 新聞か雑誌で読んだことがあった。 NHKのディレクターに末盛憲彦さんという人がいた。 あの「夢であいましょう」という番組の演出を担当して、テレビのバラエティー・ショーに新分野を開いたほか、「ステージ101」「ビッグショウ」「テレビファソラシド」などのユニークなショー番組を作った。 「夢あい」などは、私の青春(?)の思い出に重なり、「変な外人」「けっこうなチャキリス」などのギャグは、今だに口をついて出る。 末盛憲彦さんは、三年前の夏、突然に亡くなった。 二人の幼い男の子を残して……。 千枝子さんは、末盛さんの奥さんである。 そして、絵本を作る仕事を始めた。
最初の六冊の中に、末盛千枝子作、津尾美智子絵『パパにはともだちがたくさんいた』という素敵な本がある。 「Nのために」という献辞のあるこの本は、「なつのあさ とつぜん/パパが 死んだ/ぼくたちの パパなのに 死んだんだよ」で、始まる。 二人の子供は、テレビ局のホールに出かけ、たくさんのパパの友達に会う。 おじさんの一人が教えてくれた「パパのしごとは/いろんな人を よろこばせたって/そして ぼくたちは/パパの たからものだって」。 私も同感だよ、坊やたち。
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