幕末の昼夜金三両という値段と、福沢諭吉2025/02/17 07:01

 つづいて『萬延元年 横浜(港崎)細見』の万延元(1860)年は、福沢諭吉の咸臨丸アメリカ渡航の年なので、当時のAランクの遊女揚代の昼夜金三両や、福沢諭吉から見た金三両について書いていた。

      幕末の昼夜金三両という値段<小人閑居日記 2011.1.31.>

 Aランクの遊女揚代が、昼夜金三両、夜斗(だけ、という意味だろう)金壱両弐分という。 そこで、幕末の金1両がどのくらいの金額になるかが、問題だ。 これが、なかなか難問である。

 当時のお金には、金建て、銀建て、銭建ての三系統があった。 金建ては、1両=4分=16朱という四進法で、小判のほかに、小粒金・小粒・分判(ぷんぱん)と呼ばれる、二分判(二分金)・一分判・二朱判・一朱判の金貨を使う。 銀建ては、匁・分(ふん)の十進法で丁銀・豆板銀(小粒銀)という、重量を計って使う秤量貨幣だったが、のちに一分銀・二朱銀・一朱銀などの定位貨幣も造られた。 銭建ては、文(もん)の十進法で、一文銭・四文銭の銅貨・鉄貨・真鍮貨を使う。

 榎本滋民さんは、落語鑑賞には、金1両=銀60匁=銭6貫文(6,000文)=米1石と覚えておけば、たいしたあやまりは生じないと言っている。 裏長屋の店賃は、500・600文から1分、ごく高いのが1分2朱、ごく安なら300文だったから、ちょっとした職人なら、2~3日の稼ぎでまかなえた。 職人の手間賃は、文化文政から天保にかけては銀3匁(=銭324文の計算)前後だが、幕末には5匁5分に上昇したという。 金1両を稼ぐのに、20日~11日かかることになり、金3両は幕末の月収ぐらいになろうか。 杉浦日向子さんの本に、〈来月の分だと茶屋に五両おき〉という川柳があるが、それは安い方で、一流の花魁になると百両で三日もてばいい方だ、とある。

 ネットを検索すると、幕末豆知識11:金1両の価値(1両で買えた米の量、現在のお金にすると?)というのを書いてくれている人がいた。 『大江戸ものしり図鑑』『米価変動史』『会津藩の崩壊』という本の数値から計算したという。

 金1両で買えた米の量は、幕末前は1石(1,000合)・150キロ・一人当たり200日分・現在の4万円〈よくみかけるのは金1両=6万円〉だったのが、文久3(1862)年(江戸)では0.4石(400合)・60キロ・一人当たり80日分・現在の1万6千円〈2万4千円〉に、慶応3(1867)年末(大坂)では0.086石(86合)・12.9キロ・一人当たり約17日分・現在の3,440円〈5,120円~1万円〉に、物価が高騰、つまり価値が下がっているという。

 金三両、幕末前だと12万円~18万円、幕末でも5万円~7万円になろうか、芸者を揚げて飲み食いをすると、倍ぐらいの勘定になったのだろう。 けっこうなお金だったことがわかる。

       福沢諭吉から見た金三両<小人閑居日記 2011.2.2.>

 福沢さんは、緒方洪庵の適塾で、「僕は登楼はしない。しないけれども、僕が一度び奮発して楼に登れば、君たちの百倍被待(もて)て見せよう」(『福翁自伝』)と、言っていた「血に交わりて赤くならず」の清浄潔白の人だから、こういうところで例に引くのも何なのだが、ちょっと『福翁自伝』の記述を相場の参考にする。

 父福沢百助の身分は、下級武士としては最上級の中(なか)小姓という家格で、禄高は籾13石2人扶持。 籾13石は年俸で、玄米に換算すると7石8斗に当り、扶持というのは1人当り一日に玄米5合の割で支給されるのだという。 13,4歳の頃、以前福沢の家の頼母子講で、大阪屋という回船屋が掛棄にした金2朱を、やっと今年は融通がついたから、返せるという母の使いをした話が「一身一家経済の由来」にある。

 兄の三之助が死んで、適塾から中津に帰り、家督を継いだが、母の許しを得て大阪再遊と決めた。 その時の、福沢の家の借金が40両、その時代の福沢のような家にとっては「途方もない大借」、家財を売ってようやく返済したが、臼杵藩に買ってもらった父百助の蔵書が15両、天正祐定の拵(こしらえ)付の刀が4両、池大雅の柳下人物の絵の掛物が2両2分、頼山陽の半切の掛物が金2分だった。

 奥平壱岐が買った『ペル築城書』の値段が23両。 福沢は、それを密かに写本にしたものを、翻訳するという名目で、適塾の食客生にしてもらう。 諸藩の大名の注文で、たとえば『ズーフ・ハルマ』辞書を写本にするのに、横文字は一枚16文、日本字は8文だった。 その頃の、白米1石が3分2朱、酒が一升164文から200文、書生在塾の入費は1か月1分2朱から1分3朱あれば足りる。 1分2朱はその時の相場でおよそ2貫400文になるから、一日が100文より安い。 それが『ズーフ』を一日に十枚写せば164文(960文=1貫とする割合で、96文を100文と数えるから、4文のはしたが出る)になるから、余るほどになる。

 文久元(1861)年、幕府の遣欧使節の随員となった時、手当として400両もらったので、その中から100両を中津の母に送った。 100両だの、200両だのという金は生れてから見たこともない金だった。 西川俊作さんによると(『福沢諭吉の横顔』97頁)、二度目にアメリカへ行った慶応3(1867)年当時、幕臣福沢の給与は年間300両(高150俵と手当15両、480ドル相当)だったという。

『萬延元年 横浜(港崎)細見』2025/02/16 07:54

 この「等々力短信」第1018号「江戸文化の仕掛け人」に、「蔦重」蔦屋重三郎が『吉原細見』で版元として頭角を現したことを書いたら、万延元(1860)年の横浜、港崎(みよさき)遊廓の『萬延元年 横浜(?)細見』(横浜らしい字が黒く塗りつぶしてある)の、写真版のコピーと、その解読版を送ってくれた方がいた。 それを書いたものを再録する。

      開港地横浜の港崎遊廓<小人閑居日記 2011.1.29.>

 先月の「等々力短信」1018号「江戸文化の仕掛け人」に、「蔦重」蔦屋重三郎が『吉原細見』によって版元として頭角を現したことを書いたら、福澤諭吉協会で知り合った古文書をお読みになる方が、面白いものを送って下さった。 万延元(1860)年の横浜、港崎(みよさき)遊廓の『萬延元年 横浜(?)細見』(横浜らしい字が黒く塗りつぶしてある)の、写真版のコピーと、その解読版である。 解読のおかげで、私にも内容がよくわかった。

 万延元(1860)年といえば、福沢諭吉の咸臨丸アメリカ渡航の年である。 その前年福沢は安政6(1859)年、開港直後の横浜を見物に行き、看板の字が読めず、蘭学から英学への転向を発心した。

 安政6(1859)年6月2日に横浜が開港、4日に神奈川奉行所、運上所(税関)が設置された。 手回しよく5か月後の11月10日に港崎遊廓が、現在の横浜公園に開業している。 開港の日付については、以前Nさんに頂戴した『わかるヨコハマ』(神奈川新聞社)でわかったが、港崎遊廓の話はどこにも出て来ず、わからなかった。 あとがきを見たら、この本は横浜市立中学校の社会科、理科、「横浜の時間」の副読本として編集・発行されたもので、志ん生ではないが、そういうことは学校では教えてくれないのだ。

 ウィキペディアの「港崎遊郭(みよざきゆうかく)」によると、横浜開港に伴い、開港場を横浜村とすることに反対する外国人を引き付けるため、また、オランダ公使から遊女町開設の要請があったことにより、外国奉行は開港場に近い関内の太田屋新田に遊郭を建設することを計画、品川宿の岩槻屋佐吉らが泥地埋め立てから建設までを請け負い、約1万5千坪を貸与されて開業した。 遊郭の構造は江戸の吉原を、外国人の接客は長崎の丸山を手本にした。 規模は遊女屋15軒、遊女300人、他に局見世44軒、案内茶屋27軒などがあった。

 町の名主となった岩槻屋佐吉が経営したのは、岩槻の音読みから「岩亀楼」(がんきろう)という名で、遊郭の中でも特に豪華で、昼間は一般庶民に見物料を取って見せていたほどの設備を誇った。 幕府は外国人専用遊女(羅紗緬)を鑑札制にし、岩亀楼に託した。 岩亀楼内は日本人用と外国人用に分かれており、外国人は羅紗緬しか選ぶことができなかった。

 以前、友人達と横浜散歩をした時、横浜スタジアム横の横浜公園で、岩亀楼の遺物の燈籠を見たことがあった。 横浜市の解説文に「国際社交場をつくった」とあったのには、笑ってしまった。 文久3(1863)年の横浜地図では、この場所がYOSHIWARAとなっている。

        『萬延元年 横浜細見』<小人閑居日記 2011.1.30.>

 『萬延元年 横浜細見』は、『吉原細見』とそっくり同じ造りなのだろう、表紙を除いて(27×2)54ページ建。 表紙裏に、まず料金表「遊女揚代直段合印」(各遊女に付いている印の説明)、「揚屋舞手踊」と「座敷代」(芸者をあげる料金)、「揚屋の(規模の)印」、紋日の一覧表がある。 1頁「まえがき」、2・3頁「揚屋の配置図」、4頁~33頁「一壽齋芳員画・港崎遊廓の全体と各建物を描いた風景画」、34頁~「異人遊興揚屋 仲の丁 岩亀楼さゐ(←楼主の名らしい)」を始めとするそれぞれの揚屋の「遊女・新造・かむろ・禿舞子・仲居の名前」が43頁まで続く、3頁の空白(増設用)の後、47頁~52頁局見世の「遊女の名前」、53頁は男芸者之部・女芸者之部、54頁は案内茶屋之部となっており、奥付に萬延元申 歳春 岩亀楼蔵版、製本所 江戸芝神明前三島町 丸屋甚八 同京橋南紺屋町 伊勢屋卯之助 横浜港崎廓大門前 伊勢屋しゅん、とある。

 1頁の「まえがき」は、「今や四方の海浪静にして、諸舶渡来の船印ハ竪横浜の新港にいや賑はへる繁昌を猶も集合(つどひ)て港崎へ、花柳の里をものすれバ……」に始まり、萬延元年を「よろづ のぶるといふ はじめの年 卯月 梅亭漁父述」としてある。

 問題の料金表「遊女揚代直段合印」だが、34頁からの遊女の名前それぞれに付けられている印の意味を説明している。 「#」に小○三つ、昼夜金三両 夜斗金壱両弐分。 「#」に小○一つ、昼夜金弐両 夜斗金壱両。 「#」のみ、昼夜金壱両弐分、夜斗金三分。 △△△、昼夜金三分、夜斗金一分二朱。 △△、昼夜金弐分、夜斗金壱分。 △、昼夜金壱分、夜斗金弐朱。 大まがき印の付いた「岩亀楼」では、岩越・岩□・岩照・岩之助・勝山・亀人の7名が「#」に小○三つ、若人・菊の井・初の井・九重・八重花・若糸・玉歌・田毎・住の井・染菊・千代春・代々花・花園・三代春・若の井・紅梅・白菊の17名が「#」に小○一つ、新造の此梅以下13名が「#」のみ、となっている。

 一壽齋芳員画の港崎遊廓風景は、横浜田圃の中に提灯を下げた賑やかな揚屋の並ぶ見開きの一枚、斜め上から大門から橋を渡って入った通りを侍や町人や女、異人たちが大勢歩いているもう一枚、そこからは大門・玉川楼(小まがき)・保橋楼(小)・泉橋楼(中)・千歳長家・寿長家・金浦楼(小)・伊勢楼(中)・新岩亀(大)・見番=幸福楼・岩里楼(中)・会所・岩亀楼(大)・異人屋敷・新いすゞ楼(小)・萬長家・いすゞ楼(大)・出世楼(小)・金石楼(小)・開勢楼(小)・戸咲楼(小)・大門と往復して両側の建物の姿が描かれている。

15年前に「江戸文化の仕掛け人」蔦屋重三郎2025/02/15 07:04

 吉原のことは、長く聴いてきた落語の廓噺で、知っているつもりだったが、知らないことも多いのだった。 大河ドラマ『べらぼう』の第一回「ありがた山の寒がらす」で、吉原の不景気の原因を岡場所の隆盛だと見た蔦重・蔦屋重三郎が、頓智を使って一計を案じ田沼意次に「警動」を頼みに行くのだった。 「警動」は、「怪動」や「傾動」とも書くようだが、2022年からの、沢木耕太郎さんの朝日新聞連載『暦のしずく』を読むまで知らなかった。(深川芸者お六と「怪動」、江戸に戻った文耕の暮らし<小人閑居日記 2024.8.2.>)

 蔦重・蔦屋重三郎については、いままでいろいろ書いてきていた。 その最初が、2010(平成22)年12月25日の「等々力短信」第1018号「江戸文化の仕掛け人」だった。 『べらぼう』の第二回「吉原細見『嗚呼御江戸』」の『吉原細見』も出てきた。

      等々力短信 第1018号 2010(平成22)年12月25日                   江戸文化の仕掛け人

 柳家小満んが、先月のTBS落語研究会に「二階ぞめき」をかけた。 「ぞめき」というのは、遊廓をひやかし騒ぎ歩くこと。 吉原は、元和3(げんな・1617)年から40年人形町にあって、今の千束に移ったが、昭和33(1958)年になくなるまで340年間、「アメリカ合衆国」より長い歴史がある、と演ったのには、吹き出してしまった。

 蔦屋(つたや)重三郎(1750~97)、通称「蔦重」は、その吉原で生れた。 24,5歳で妓楼や遊女の名などを詳しく記したガイドブック『吉原細見』を出版、飛ぶように売れる。 毎年刊行し、版元として頭角を現す。 時は江戸の中期・安永、戦国の時代ははるかに遠く、百万都市江戸の市民たちは、太平の御代を謳歌していた。 当時の吉原は、知識人が集う文化サロンであり、文化の発信地だった。 蔦重は新吉原大門口の、自らの書店で出版工房でもある「耕書堂」をたまり場とし、狂歌師の大田南畝、戯作者の山東京伝など、その頃屈指の文化人たちと意図的に交流、南畝や京伝の本を出版し、自らも蔦唐丸(つたのからまる)の名で狂歌の会に参加していた。

 六本木のサントリー美術館で「歌麿・写楽の仕掛け人 その名は蔦屋重三郎」展を見た。 蔦重版『吉原細見』は18.5×12.4センチ、今の新書判より少し大きい位、細かくびっしりと書いてあるので、老眼には読みにくい。 吉原へ行くような連中、昔は特に、目が良かったのだろうなどと、思う。 安永9(1780)年、蔦重の黄表紙出版が始まる。 黄表紙も、同じような大きさだ。 山東京伝は、もともと北尾政演(まさのぶ)という浮世絵師で、22歳の時に文章と挿絵の両方を手がけた黄表紙『御存商売物』のヒットで世に出る。 その天明2(1782)年の暮、京伝は蔦重の招待で、当時人気の戯作者でその後の狂歌ブームを牽引していく四方赤良、朱楽菅江、恋川春町、唐来参和、元木綱といった面々や、さらには師匠の北尾重政、同門の北尾政美(鍬形斎)らと共に、吉原の大文字屋で遊んでいる。

 蔦重は当代一流の絵師を起用して、花魁道中など遊女の艶姿や生活の情景を華麗な浮世絵として刊行し、人気を集めた。 京伝・北尾政演の『青楼名君自筆集』、早くからその才能を見込んで家に居候させていた喜多川歌麿の「青楼十二時」シリーズはその成果だ。 蔦重は松平定信の寛政の改革で身上半減の処分を受けるが、「学問ブーム」に乗り単価の高い堅い往来物(初歩の教科書)や稽古本を出したり、歌麿の大首美人絵や写楽や北斎の役者絵を世に送る、アイデアマンだった。

『べらぼう』の歌麿と蔦重、三人のエーリヒ2025/02/13 06:58

 「カネ取って番宣ばかりべらぼうめ」というのが、暮の朝日新聞の川柳欄にあって、笑うと同時に、なるほどと感心した。 その大河ドラマ『べらぼう』の番宣のうち、喜多川歌麿をやる染谷将太が出た「浮世絵ミステリー 歌麿と蔦谷重三郎 “革命”と “抵抗”の謎」と、浅田春奈アナになった『英雄たちの選択』スペシャル「大江戸エンタメ革命~実録・蔦谷重三郎~」を見た。 田沼意次の時代に蔦重などが活躍して江戸文化が花開いた後、農政の失敗で一揆が多発し、農村の荒廃と人口の江戸流入、天明の大飢饉などがあり、松平定信が寛政の改革で引き締めに転じたため、蔦重が財産の半分没収、歌麿が手鎖の刑になる。 どちらの番組も、その中で蔦重や歌麿が、どのように権力に抵抗したかを描いていた。 そこで、「笑いを忘れた時代」の翌月に「等々力短信」に書いていたものを引くことにする。

    三人のエーリヒ 「等々力短信」第400号 昭和61(1986)年8月15日

 ケストナーと聞いて、思い出したのが、e・o・プラウエン作の『おとうさんとぼく』(岩波少年文庫)という、とても楽しい二冊のマンガ本だ。 ふとっちょで、ひげをはやし、ハゲ頭の、人のよいおとうさんと、いたずらだが、機知に富み、オカッパ頭で、おとうさん思いの、ぼく。 だが、この人間味あふれるマンガ本の陰に、悲しい物語があったことが、一巻の上田真而子さんという方の解説を読むとわかる。

 e・o・プラウエンの、e・oはエーリヒ・オーザーという本名であり、プラウエンは彼が育った町の名だ。 1920年、金具職人の見習いを終えたオーザーは、どうしても絵が描きたくて、ライプチヒの美術学校に入る。 そのライプチヒで、生涯の友となった、もう二人のエーリヒに出会う。 ひとりがエーリヒ・ケストナーで、師範学校を出たのに、先生になるのがいやで、ライプチヒの大学で文学や演劇を学びながら、詩を書いていた。 もうひとりの、エーリヒ・クナウフは、植字工から「プラウエン新聞」の編集者になっていた人で、オーザーの絵やケストナーの文章の、よい買い手だった。

 三人の若い芸術家は、1927年にベルリンに出、ワイマール文化が花開いた「黄金の20年代」とよばれる時代の、自由を謳歌した。 しかし、それは長くは続かなかった。 1933年にヒットラーが政権をとると、ナチスの宣伝相ゲッペルスによる芸術家や文化人の統制が始まった。 ケストナーの本は、好ましからざるものとして焼かれ、執筆停止になった。 ナチスの政敵系の出版社の編集者だったクナウフは捕えられ、強制収容所にも入れられた。 オーザーの戯画には、ナチスを大胆に批判したものが多かったので、次第に仕事がなくなり、やがて執筆停止になった。 だが、変名をつかい、非政治的な絵にするという条件で描き始めた『おとうさんとぼく』が、暗い時代の中で、爆発的な人気を得、国民のアイドルになる。 ナチスも募金運動のシンボル・マークに『おとうさんとぼく』をつかったりした。 そのためか、オーザーは1937年12月、『おとうさんとぼく』の筆をおく。

 ぼくの指導者はデューラーだといって、大胆にも「ハイル・デューラー」などといっていたオーザーは、1944年、親友クナウフとともに、密告によってゲシュタポに捕えられ、獄中で自殺した。 クナウフは死刑になった。 三人のエーリヒのうち「一人をのこしてヒトラーのもとにその生を閉じた」と、残されたエーリヒ・ケストナーが書いているそうである。

まど みちおさん、百歳の詩2025/02/01 07:08

 2010年に、NHKスペシャル「ふしぎがり―まど みちお・百歳の詩」を見て、「等々力短信」にこんなことを書いていた。

       等々力短信 第1007号 2010(平成22)年1月25日                まど みちおさん、百歳の詩

 まど みちおさんがいる丘の上の病院に、見覚えがあった。 隣が遊園地で、ローラーコースターが上下する。 開院時に見学した友人の経営する病院だ。 3日放送のNHKスペシャル「ふしぎがり―まど みちお・百歳の詩」は、昨年11月に百歳を迎え、その病院で詩や絵を描き、周辺や屋上を車椅子で散策するまどさんの生活に密着した。

 散歩の途中で拾った松ぼっくりから既に種子の飛び散っているのや、池で魚が跳ねてつくる波の輪や、自分の耳から生えてくる長い毛に驚き、不思議がって、日記に記す。 それが詩のタマゴになる。 耳の長い毛は、猫とか犬の代表になって、詩に書いてみる。 蟻も忙しいね、ひとしずくの涙みたいな(大きさの)もの、いじらしくなる。 申し訳ありませんという気持になる、こっちは馬鹿でかくて…。

 「生きがいっていうものは、そういうもの。 生きていると、詩にしたい材料は見つかる。 どんな人でも、これで十分ということはありえないのですから」

 「人間はなぜ詩を書くんか。 人間はなぜ息をするんか。 息をしないと死んでしまいます。 私は、詩を書かないと死んでしまう……ほどではございませんけども(笑)、息の次に大事なものがあります。 言葉でございます。 そういうものがどうしても出てくるのでございます」

 故郷の徳山(現・周南市)の高校生が「幸せ」って何かと、百歳に尋ねる。

 「現在を肯定的に見ることの出来る人は幸せ。 『全部に感謝しながら』という感じで、暮らしていくのが…自分は幸せ、他の者も幸せになるんじゃないかと思います」

 七つ違いの妻・寿美さん(93)は、認知症の症状が出ているというが、テレビで見る限りは対話もしっかりしている。 まどさんが30歳の時、お見合い、ひと目惚れして結婚、以来七十年。 「寿美のアルツハイマーにはへこたれる」、食べきれない出前を頼み、鍋を焦がす。 でもそれを「アルツのハイマ君」と呼び、自分も同じ方に靴下を二足履いたりするからと、「トンチンカン夫婦」という詩に書く。 「おかげで索漠たる老夫婦の暮らしに笑いは絶えず、これぞ天の恵みと、図に乗って二人は大はしゃぎ。 明日はまたどんな珍しいトンチンカンを、お恵みいただけるかと、胸ふくらませている。 厚かましくも、天まで仰ぎみて……」