渋沢栄一「夢七訓」の教育と疑問2021/02/24 07:04

 NHKが毎年、大河ドラマの放送直前、番組宣伝に春風亭昇太と小池栄子の司会で、「50ボイス」という関係者50人の談話を放送する。 『青天を衝つ』のを見ていたら、渋沢栄一の出身地、埼玉県深谷市の栄一の寄付で創立されたという八基(やつもと)小学校の全校生徒が、渋沢栄一の「夢七訓」を暗誦できるというのをやっていた。

「夢なき者は理想なし
理想なき者は信念なし
信念なき者は計画なし
計画なき者は実行なし
実行なき者は成果なし
成果なき者は幸福なし
ゆえに幸福を求める者は
夢なかるべからず」
 というものだ。

 渋沢栄一をどう思うかと、「夢」を聞かれた5年生の女児二人は、「自分よりも他人のことを考える思いやりのある人」で「保育士になりたい」、「人の役に立ちたい、いろんな人が笑顔になれる、どんな病気でも治せる」「薬剤師になりたい」と答えた。 それを「すげぇー!」と拍手した男児は、「強いて言えば小説家。あんまり儲からないと思うけど」と。 校長先生は、夢を聞かれて、「優雅な隠居生活はダメでしょ?」

 私は渋沢栄一が創設した第一銀行にちょっと勤めて、いわば「渋沢の丁稚」だった時期があったのだが、「夢七訓」というのを聞いたことがなかった。 それで、第一銀行につながる現在のみずほ銀行で、支店長や重役になった友人たちにも訊いてみたが、「夢七訓」は知らないという。 ネットで検索すると、原典が見つかっておらず、渋沢栄一が語ったものかどうか不明だとあった。 私がことあるごとに偽作だと指摘している、福沢諭吉「心訓」七則と同じように、偽作という恐れがあるのかもしれない。 確認が必要だろう。 渋沢栄一記念財団渋沢史料館に見解を尋ねることを思い付いて、18日に問い合わせしてみたのだが、今のところ返答はない。

 <追記>25日、公益財団法人 渋沢栄一記念財団のホームページの、「渋沢栄一Q&A」1. 生涯・思想について Q7に「「夢七訓」は栄一の言葉ですか?」という質問があり、A7に「史料館へのお問い合わせが多いご質問ですが、残念ながら、現在のところ原典を確認できていません。渋沢栄一が語ったものなのかどうか、今一度確認する必要があるでしょう」とあるのを見つけました。

『青天を衝つ』と、渋沢栄一の転向2021/02/23 07:42

 渋沢栄一(吉沢亮)が主人公の大河ドラマ『青天を衝(う)つ』(大森美香作)が始まった。 第一回「栄一、目覚める」で違和感を感じたのは、馬で通る一橋慶喜(草彅剛)にいきなり「渋沢栄一です」と、一橋家に仕えたい旨、申し出るところだった。 用人平岡円四郎(堤真一)はニヤニヤしていたから、打合せはしてあったようだが…。

栄一の曾孫で、渋沢敬三の子、渋沢栄一記念財団相談役の渋沢雅英さんも16日の朝日新聞朝刊に書いていたように、天保11(1840)年に生まれた栄一が育ったのは、ちょうど幕末動乱の時代で、初め攘夷思想にかぶれ、倒幕を目指す過激派だった。 23歳の時、高崎城の乗っ取りや横浜の焼打ちを計画する。 その計画が露見して直前になって決行を止め、幕吏に追われて京都に逃げ、江戸遊学中に知り合っていた用人平岡円四郎を頼って一橋慶喜家に逃げこむ。 ここで持ち前の企画と実務の才能を発揮して、だんだん重用される。 慶喜が将軍になって、三年前の倒幕運動家は、皮肉にも幕臣になってしまう。

慶應3(1867)年慶喜の弟徳川昭武のフランス留学に随行する。 フランス滞在中、幕府が瓦解、幕末の戦乱に巻き込まれずにすむ。 維新後、徳川家が小さくなった静岡藩で、フランスでみてきた株式会社を早速設立するなど経営の才をあらわしていたが、請われて大蔵省に出仕、明治6(1873)年、33歳で民間に転じ、第一国立銀行を開業した。 渋沢雅英さんは、この期間を「奇跡の10年」と呼び、栄一はこの国が大きく動いた歴史によって生み出されたとする。 以後、日本資本主義の基礎をつくる仕事に深くかかわった。 生涯に関係した会社が5百余、非営利事業が6百余、それも名前だけ出したというようなものは、ほとんどなかったという、働きづくめの92年の一生を昭和6(1931)年に終える。

「預金封鎖」「新円切替え」「臨時財産調査」2021/02/15 07:04

鴨下信一さんの『誰も「戦後」を覚えていない』「預金封鎖―ペイ・オフは昔からあった」の章の核心は「預金封鎖」の話だ。 昭和21年8月に厚生省が全国勤労者標準五人家族を対象に行なった調査で、一ヶ月の平均実収504円40銭、支出は844円80銭、差引き赤字340円40銭とひどいものだ。 物価に賃金が追いつかないうえに、もっと怖ろしい残酷なことが起こっていた。 「預金封鎖」だ。 終戦から半年後、昭和21年2月17日の朝、それは突然やってきた。 渋沢敬三大蔵大臣は、2月16日までに預けられた預金、貯金、信託等は生活維持のために必要な金額、一家の世帯主300円、その他の人は一人100円までを毎月認める以外、当分の間自由な払出しは禁止となること、さらに現在通用している100円以上の紙幣は来月2日いっぱいですべて無効になる、と発表した。

 「預金封鎖」は、「新円切替え」とセットになっていた。 すぐにも通用しなくなる旧券は、一定の金額しか新券と引換えられなかった。 あとは預金せざるを得ない。 預金すればたちまち封鎖扱いになるのだ。

 さらに旧券が無効になる当日、3月3日に「臨時財産調査」を行うこともセットになっていた。 すべての現金が新円切替えの中で強制的に金融機関に預け入れさせられる。 これですべての財産(貴金属等を除く)が把握出来る。 これに〈財産税〉をかけるのだ。 財産税徴収後に預金封鎖を解除すればいい。 この臨時財産調査令では、3月3日午前零時における預貯金、有価証券、信託、無尽、生命保険契約などの金銭的財産の申告を4月3日限り金融機関を通じまたは直接税務署に提出する義務が課せられることになった。

 こうした暴虐といっていい施策を政府が案出した最大の原因は、「戦時補償」債務があったからで、国債を大幅に消却し、莫大な国庫の重荷を整理することにあった。 これらの施策の最大の問題点は、この措置の法律的裏付けが「緊急勅令」という非民主的形式でなされたことだという。

 勅令第八十三号・金融緊急措置令―預金封鎖と支払停止
 勅令第八十四号・日本銀行券預入令―既発券の失効と旧券を預入させる
 勅令第八十五号・臨時財産調査令

 荒和雄『預金封鎖』(講談社文庫)によれば、十分な国会討議はなされず、即日実施された、この預金封鎖の際実施した法律が現行法として生きているから、「平成の預金封鎖」も法律、政令ではなく省令で十分実施出来るという。

 平成に出来ることは、令和でも出来るのだろう。 現在の日本の財政や日本銀行の状況を考えると、恐ろしいことだと言わざるを得ない。 新聞やテレビで、もっと問題にしてもいいのではないか。 と12日夜、ここまで書いたら、日本テレビで佐藤東弥監督の映画『カイジ ファイナルゲーム』(2020年)をやっていて、「預金封鎖」というセリフが聞こえて来た。

(参照 : 国債依存・財政破綻の先例、1945年11月<小人閑居日記 2018.8.6.>)

「古今伝授」と関ヶ原の勝敗2021/02/03 06:55

 つづいて慶長5(1600)年9月15日、天下分け目の関ヶ原の戦いだ。 2か月前の7月18日、細川藤孝のいた丹後田辺城は5百人の兵力だったが、西軍の大軍に囲まれた。 今、熊本市の水前寺成趣園にある「古今伝授の間」は、当時京都御所にあって、藤孝は慶長5年3月、八条宮智仁親王に秘伝を受け継ぐ「古今伝授」を開始した。 8月2日には田辺城で辞世<いにしへも今もかハらぬ世中に心の種をのこすことの葉>を詠む。 関ヶ原前夜、「和歌の道」が藤孝を救った。 井上章一さんが「タヌキ親爺」だという藤孝は、レッスンを積み残したまま、田辺城に籠城した。 動いたのは後陽成天皇(正親町天皇の皇子誠仁(さねひと)親王の第一王子)、藤孝の死によって「古今伝授」が失われることを嘆き、西軍に講和を説く。 9月18日、藤孝は籠城を解いた。 その三日前、関ヶ原の戦いは終わっていた。 西軍の大軍を田辺城に足止めしていたことが、関ヶ原の勝敗に影響した。

 家康が天下人になっても、藤孝は江戸幕府の基礎づくりを伝授した。 豊臣家は公家、摂関家になっていた。 室町幕府の武家政治を知っているのは、藤孝だけで、「芸は身を助く」。 細川家は、記録、歴史を大切にした、「ペンは剣よりも強し」の家だと、永青文庫副館長で美術ライターの橋本麻里さん。

 だが、本能寺の変の直後、光秀が藤孝に宛てた一通目の手紙、おそらく甘い言葉が連ねてあったであろう手紙が、残っていない。 二通目の、藤孝が協力を断ったことに「腹が立った」という手紙は残した。

 磯田道史さんは、細川藤孝を「戦国のオアシス」、信長亡き後、言の葉を集めたことが彼の宇宙観、永遠のものを残した高尚な文化人、最後の中世武士、一番会ってみたい人だと結論した。

「真相!本能寺の変 細川藤孝 戦国生き残り戦略」2021/02/02 07:06

 NHKBSプレミアム『英雄たちの選択』「真相!本能寺の変 細川藤孝 戦国生き残り戦略」(1月20日放送)が面白かった。 細川家は記録を大切にした家で、永青文庫には6万点の文書が残されている。 稲葉継陽(つぐはる)熊本大学教授・永青文庫研究センター長は、細川藤孝(幽斎)は文武両道の人だった、と。(大河ドラマ『麒麟がくる』では眞島秀和が演じた。) 母方の清原家は天皇の教育係。 藤孝は連歌をよくし、情報収集力に長け、将軍家の交渉人だった。

 永禄8(1565)年足利義輝が殺された時、足利義昭を一乗院から救出した藤孝は、信長の信頼を得た。 藤孝は、光秀とも親交があった。 永禄11(1568)年足利義昭が朝倉義景のもとを去って織田信長を頼った際に、藤孝は光秀とともに、その仲介工作をし、信長は義昭を擁して上洛、義昭は将軍となる。 しかし義昭は次第に信長と不和になり、天正元(1573)年信長に対して挙兵する。 藤孝は義昭に従わず、信長に京都の情報を流していた。 義昭は追放され、室町幕府は瓦解、藤孝は、既に信長の配下になっていた光秀と共に、信長に仕える。 こうした細川藤孝を、作家の桐野作人は「不倒翁」、井上章一国際日本文化研究センター教授は「家を潰さない、よくできた養子、細川家中興の祖」、磯田道史国際日本文化研究センター准教授は「目利き力、外交の嗅覚、早耳。都の武士で、義昭の地方には付いて行かなかった」という。

 そこで、本能寺の変である。 天正3(1575)年から4年間、光秀と藤孝は、丹波・丹後攻略にかかる。 その間、信長の勧めで、光秀の娘たま(後のガラシャ)が、藤孝の嫡男忠興と結婚する。 なぜ、光秀は本能寺の変を起こしたか。 2014年、石谷家文書に光秀の長宗我部元親への手紙が発見された。 光秀はずっと元親と交渉していて、元親は信長に従おうとする形跡を見せていた。 しかし、光秀の苦心も空しく、本能寺の変の十日前、信長は四国攻略の為に大軍勢を摂津に集結させていた。 光秀の面目は丸つぶれだった。(昨日見た、「四国説」)

 細川藤孝は、天正10(1582)年6月2日、本能寺の変の数時間後、その情報を丹後宮津城で聞く。 すぐに剃髪して、信長への弔意を示す。 6月9日、光秀は藤孝への二度目の手紙(最初の手紙は見つかっていない)で、協力(入魂)を要請、摂津と若狭を与える、息子や忠興の世代に政権を譲る行動で私利私欲ではない、五十日から百日で畿内は平定できる、と伝えた。 足利義昭と連絡した形跡もある。

 だが細川藤孝は、宮津城を動かなかった。 京都で、情報を収集させ、光秀の娘で忠興の妻たまを山奥に隠棲させた。 6月13日、明智光秀死去。 7月15日、藤孝は本能寺の焼け跡で信長追悼連歌会を興行する。

 秀吉宛の信長の手紙が、細川家に残っている。 稲葉継陽さんは、秀吉から藤孝に転送されたものと推定、両者の軍事的連携は天正8年、9年から進んでいたとする。 秀吉は、宮津城を動かなかった藤孝の動きを高く評価し、血判起請文を送っている。 日和見したのは筒井順慶も同じだったが、藤孝への評価は違った。 井上章一さんは、剃髪し幽斎を名乗り、信長追善の連歌興行をした「文化の力」、磯田道史さんは「ローリスク、中リターン」と。