自由民権の町田が東京へ<等々力短信 第1156号 2022(令和4).6.25.>2022/06/13 06:52

 「等々力短信」の前身、はがき通信「広尾短信」の創刊間もない第10号(1975(昭和50)年5月25日)に、こう書いていた。 「水道をひねって、ふと思うことがある。先人は便利なものを考え、よく作っておいてくれたものだ、と。▽前回美濃部さんが大量得票したというので、石原さんが選挙戦の初日に中央線に乗って出かけた三多摩は八王子も三鷹も明治前半まで神奈川県だったことを知る人は少ない▽勝海舟門下で長男小鹿の米国留学につきそって渡米し、経済学を修め、外交官を経て、日銀総裁、東京府知事を務めた富田鉄之助という人物がいた。明治24年からの富田の府知事時代、多摩川は上流の三多摩が神奈川県に属し、水道として使っている東京府では上流の管理の悪さからチフスやコレラが流行したりしていた。今でも縄張り問題は大ごとだが、富田は抜身を下げた相模の壮士にねらわれたりして、命をかけて三多摩の東京府併合に成功し、東京の水源を確保した。このことを『忘れられた元日銀総裁富田鉄之助伝』という本を書いた吉野俊彦さんの話で知った。」

 5月8日三田あるこう会で、東京都町田市の薬師池周辺を散策し、町田が自由民権運動の地だったことを知った。 中心人物は野津田生まれの石阪昌孝(天保12(1841)年~明治40(1907)年)で、地域の教育運動を組織し、自由民権運動の先頭に立った。 「ぼたん・しゃくやくまつり」の最終日だったぼたん園内に石阪昌孝屋敷跡の「民権の森」があり、「自由民権の碑」があった。 色川大吉さんが「五日市憲法」を発掘するきっかけになった北村透谷は、多感な青年時代に自由民権運動に参加し、25歳4か月の短い生涯での文学活動の原点には、自由民権運動への参加と離脱体験、多摩の人々との交流、石阪昌孝の長女石阪美那との恋愛があったという。 五日市(現、あきる野市)はかつて三多摩の西多摩郡、町田は南多摩郡に属していた。

 6月11日の『ブラタモリ』#205「東京・町田は、なぜ神奈川県町田と間違われるのか?」は、町田市が地図でも神奈川県に食い込み、バスはほぼ神奈川中央交通、インターチェンジは「横浜町田」、街には横浜銀行、図書館の郷土の棚に「神奈川県」、地質的にも神奈川県の石「トーナル岩」が出る、太閤検地で境川が国境となり、犯人は豊臣秀吉などと、やっていた。 そして最後に、石阪昌孝が登場した。 ぼたん園内の屋敷跡へ行き、自由民権運動に一生をささげた石阪が財産を使い果たし、柿の木一本しか残らなかったと。 安全な玉川上水の水を確保したい東京府の、三多摩併合問題が起きた。神奈川県知事の内海忠勝は中央集権の考えで、石阪昌孝らの盛んな自由民権運動の民衆の考えが目障り、多摩川と離れた南多摩郡まで東京へ追い出した、と。

エリザベス女王「プラチナ・ジュビリー」中継を見て2022/06/08 07:09

 イギリスのエリザベス女王の即位70周年を祝う行事「プラチナ・ジュビリー」、2日の近衛兵らのパレードとトゥルーピング・ザ・カラー(軍旗敬礼分列式)、バッキンガム宮殿バルコニーお出ましの中継をNHKのBSプレミアムで見た。 ニュースウォッチ9のキャスターだった有馬嘉男欧州総局副局長が司会をしていた。 最近のオリンピックの開・閉会式の中継でも感じるのだが、この中継、事前の準備が悪く、行進の順番や誰が参加しているのかなど、説明が行き届かない感じがした。

 96歳のエリザベス女王、騎乗や馬車でのパレード参加はなさらなかったが、お元気だ。 解説していた君塚直隆関東学院大学教授が、有馬さんも私も生まれていなかったと言ったのは、エリザベス女王の何十周年の祝賀行事だったか。 私もつくづく年取ったと感じたものだが、1953(昭和28)年6月2日、ウェストミンスター寺院でのエリザベス女王25歳の戴冠式の実況中継をNHKラジオで聴いた。 アナウンサーは、街頭録音や二十の扉をやっていた藤倉修一さんだった。

 上皇さまが、皇太子時代に昭和天皇の名代として、この戴冠式に参列された。 その皇太子外遊は、3月から10月まで欧米両大陸14か国に及んだ。 小泉信三さんは随員ではなかったが、5月から10月までとみ夫人とともに外遊し、途中しばしば同行している。 吉田茂首相の勧めにより、「殿下御帰りの際、その御教育参与者が戦後の西洋を知らなくてはお役を辱しめるだらう」(谷村豊太郎宛書簡)との考えにもとづくものだった。 帰国翌日の小泉信三さんに、吉田茂首相は、「殿下到る処御態度御立派にて何よりも難有、唯々感涙の外無之、之れ一に貴下其他の御補導の結果と存、心より御礼申上候」と、書簡で労をねぎらった。(『生誕120年記念 小泉信三展図録』)

山本みなみさん「政子こそ鎌倉幕府の礎」2022/05/26 08:05

 最近『史伝 北条政子』(NHK出版)という本を出したという山本みなみさん(中世史研究者)は、朝日新聞のコラム「鎌倉からの史(ふみ)」で、政子こそ鎌倉幕府の礎という。 嫉妬深く、冷酷な悪女とされているが、同時代の史料を検討すると、主体的で思慮深く、有能な政治家政子が浮かび上がるのだそうだ。

 源氏将軍の断絶と承久の乱という幕府存続の危機を乗り越えた人物こそ政子だとする。 三代将軍実朝の暗殺後、皇子の下向交渉は難航したが、九条家から幼い男子を迎え、政子が実質的な鎌倉殿となることで、幕府の基礎が揺らぐことはなかった。 承久の乱の際も、頼朝の恩を説いて勝利に導いた。

 政子の遺志を継いだのは北条義時の子の泰時である。 昨日書いた「伊賀氏の変」(1224(貞応3)年)、政子は北条政村の執権就任を画策する伊賀氏の動きを封じ、泰時の就任を見届けて亡くなった。 最初の武家法「御成敗式目」を制定するなど、泰時が大政治家だったことは確かだが、泰時政権への道を開く上でも重要な役割を果たした。

 山本みなみさんは、政子の死後、式目制定や幕府の最高政務機関である評定衆の設置などが進んだのも、偶然ではなく、政子が偉大な存在であっただけに余人をもって代え難く、法で整備する方向へ進んだのである、とする。 類まれな政治力を発揮した政子は、幕府体制にまでも影響を及ぼしたというのだ。

実質的に将軍の力を持った北条政子2022/05/25 07:06

 『鎌倉殿サミット2022』は、頼朝の死後、何があったか、の問題に移る。 二代頼家は、18歳で将軍になったが、土地紛争の調停などはいい加減で、蹴鞠にうつつをぬかし、母政子に叱責された。 政治は13人の合議制でなされたといわれる。 源家、頼家は23歳で死に、三代実朝は28歳で暗殺された。

 1203(建仁3)年北条時政は、頼家が病に倒れると、頼家の嫡男一幡(いちまん)と(娘が乳母だった)頼家の弟実朝のうち、実朝を後継に決めた。 頼家は時政討伐を目論むが、政子は頼家を修善寺に幽閉、時政、義時は一幡を邸もろとも焼死させる。 頼家は翌年、謎の死を遂げる。 三代実朝は12歳で将軍となり、その執権に義時が立つ。

 実朝は、後鳥羽天皇と良好な関係で、右大臣の官職に就いた。 実朝は、1219(承久元)年鶴岡八幡宮での右大臣拝賀の儀式のとき、千人の武士が従っていたのに、頼家の息子公暁(くぎょう)に殺された。 直前、太刀持ち(護衛担当)の義時は、体調不良を理由に引き返した。 公暁は、数時間後、討ち取られ、真相は闇に葬られた。 義時は、実権を握る。

 佐伯智広さんは、『吾妻鏡』の空白の三年間は、頼家の跡継ぎ隠蔽のため、一幡は頼朝と政子の初孫で、跡継ぎの跡継ぎ。

 野村育世さんは、政子の時代、女性の地位が高かった、実質的に将軍の力を持っている。 四代政子。 13人の宿老はいたが…。 政子は、源氏側か、北条側か。 坂井孝一さんは、「源家の家長」。 源を殺す。

 本郷和人さんは、「伊賀氏の変」(1224(貞応3)年)、義時の死後、後妻の伊賀局が娘婿を将軍に擁立しようと図ったが、政子によって流罪にされた。 井上章一さん、「極道の妻」と。 後家として実権を持つ。

 長村祥知さんによって80年ぶりに発見され、高野山霊宝館に納められた承久の乱の「承久記絵巻」。 1219(承久元)年、内裏の焼失による増税を鎌倉幕府が断り、義時追討令が出される。 1221(承久3)年、政子が立ち上がり、檄を飛ばした結果、1万の軍勢が、後鳥羽上皇側1千7百に圧勝する。 後鳥羽上皇は、隠岐へ流罪。 唯一、武士が勝った、武士中心の戦い。 三上皇を流罪にし、幕府の朝廷に対する優位が確立した、日本史上の画期。

鎌倉幕府の成立年代に諸説2022/05/24 07:09

 『鎌倉殿サミット2022』、「頼朝の死」の問題、「暗殺説」。 (1)朝廷による暗殺、(2)北条氏による暗殺が考えられる。 頼朝暗殺未遂事件があった、曽我兄弟仇討事件として知られるもの。 1193(建久4)年源頼朝が催した富士の巻狩で、曾我祐成・時致(ときむね)兄弟が父の仇工藤祐経を討った後、弟の時致が頼朝の御前めがけて走ったという。 坂井孝一さんは、鎌倉幕府のひずみ、御家人の不満が蓄積していた、という。

 1180(治承4)年の頼朝の挙兵は、坂東の武士たちが土地争いを続けていて、そのリーダーを求めたもの。 1185(文治元)年、頼朝は南関東を支配、平家を倒して、守護地頭を任命する権限を朝廷に認めさせた。 守護は治安維持、地頭は税の徴収。 1189(文治5)年、奥州合戦が終ると、武功による所領拡大のチャンスがなくなる。 1190(建久元)年、頼朝上洛、後白河法皇から権大納言、右近衛大将に任じられる。 武家の頭領として認められる。

 鎌倉幕府の成立年代に諸説ある。 従来は頼朝が征夷大将軍に任じられた1192(建久3)年、最近の教科書は守護地頭を任命する権限を朝廷に認めさせた1185(文治元)年。 近藤成一東大名誉教授は、1180(治承4)年、頼朝が挙兵し、山木兼隆屋敷を急襲し、4か月後に鎌倉入りを果たした、「東国国家論」。 佐伯智広帝京大准教授は、1190(建久元)年、頼朝が上洛し、後白河法皇に謁見し、右近衛大将に任じられた、「権門体制論」。 権門とは、公家、寺社、それに武家が加わった。 治天の君、天皇の下に、権門(公家、寺社、武家)の体制。

 「東国国家論」の近藤成一さんは、自由で開かれた関東。 東大、日大の学者は、関東の独立性。 「権門体制論」は京都大学など関西、井上章一さんは「学説が地場産業だ」。 野村育世さんは、早稲田で、公家の身分制度から自由なら、烏帽子を取るべき、と。 井上章一さん、俺たちだけが親衛隊というのが、西方の見方。 頼朝は後白河法皇を「日の本一の大天狗」と言った。 近藤成一さんは、「NHKは『鎌倉殿の13人』で、朝廷から認められた「鎌倉殿」を認めるんだ」と。