福沢諭吉169回目の誕生日[昔、書いた福沢198]2020/01/21 07:06

      福沢諭吉169回目の誕生日<小人閑居日記 2004.1.11.>

 1月10日は第169回福澤先生誕生記念会があって、三田へ行く。 初め 例によって、幼稚舎生の「福澤諭吉ここに在り」(佐藤春夫作詞、信時潔作曲)、 ワグネル・ソサィエティーの「日本の誇(ほこり)」(富田正文作詞、信時潔作 曲)の合唱がある。 佐藤春夫作詞の二番は「とことんやれと 勇み立ち/錦 のみ旗 押し進め/幕府を伐つと 官軍は/長州 薩摩 土佐の兵/上野の山 を 攻め囲む」でニヤッとする、同六番は「洋学の灯は 消すまいぞ/これが 消えれば 国は闇/我らのつとめ 忘るなと/十八人を 励まして/福澤諭吉  ここに在り」。

 安西祐一郎塾長の年頭挨拶。 あと4年で創立150周年を迎える今年は、 慶應義塾の夢、実現の第一歩の年。 教育と研究の質の向上のための新しい仕 組と施設を整備して、国際水準での「未来への先導者をつとめる二十一世紀福 沢塾の出発点」である。 そうした150周年を社中(慶應では卒業生、教職 員、学生をこう呼ぶ)一同でつくりあげていこう。 慶應義塾が「国の発達を 測るメートルである」度合は、ますます増えている、と。

 部外(社中外)の人が聞いたら、どう思うだろうかと心配になる、その自画 自賛を聞いて、みんなで塾歌を歌うと宗教みたいな、ちょっとこそばゆい気も したが…。

        女子高校生のアメリカ論<小人閑居日記 2004.1.12.>

 福澤先生誕生記念会では神谷健一さん(三井住友銀行名誉顧問・前慶應義塾 評議委員会議長)の記念講演「三田山上の思い出」が予定されていて、私など は塾長の挨拶よりは、こちらを期待して行ったのだ。 それが神谷さんは、腰 を痛めていたのと、塾長が立派な演説(神谷さん)を長々とやったので、ごく 短い話で降りてしまった。 拍子抜けするとともに、集まっている人々に失礼 ではないかと思った。

 この会では毎年、小泉信三賞全国高校生小論文コンテストの表彰式がある。  その選評も、今年から割愛され「『三田評論』を読んでくれ」ということだった。  今年の小泉信三賞、次席、佳作三席の計五名は、ぜんぶ女性だった。 課題は、 福澤諭吉への質問、ユーモアについて、生命、アメリカと世界、から一つを選 択する。 言い付け通り『三田評論』で選評と受賞作を読んだ。 やはり小泉 信三賞の中央大学杉並高校三年小松原優美(ゆみ)さんの「幻想から現実へ~ 成長するアメリカへの期待~」に感心する。 多民族国家であるアメリカでは 「人種のるつぼ」というのをやめて「サラダボウル」と言おうという気運が高 まっているという。 つまり溶け合って一つになり、それぞれの原型がみえな くなるような融合のしかたでなく、同じボウルの中でそれぞれの見分けがつく 共存の仕方を目ざそう、と。 小松原さんには、そんなまだできあがっていな い「未完の大国」アメリカが世界をリードし、国際平和の担い手を自負してい るのだ、という危なっかしい地球の構図が見えてくる。 アメリカを構成して いるサラダボウルの中の野菜は、それぞれの畑から出てきているのだから、ア メリカは排他主義にはならない。 アメリカは完成されていないが、成長して いる、できあがっていない国の未来がある。 それはできあがっていない「世 界」の未来でもある。 アメリカを支え、ときには諌め、そしてアメリカと一 緒に成長するのだ。 というのが、アメリカへ行って自分の目で見、耳で聞き、 感じ、考えたことを、自分の言葉で素直に語った、彼女の結論である。

北里柴三郎とノーベル賞[昔、書いた福沢192]2020/01/15 07:05

       北里柴三郎とノーベル賞<小人閑居日記 2003.12.1.>

 北里柴三郎について、一つ書くのを忘れていたことがある。 ノーベル賞の 問題だ。 図書館で見つけた最近の北里柴三郎伝、砂川幸雄著『北里柴三郎の 生涯』(NTT出版)などは、副題が「第1回ノーベル賞候補」となっているほ どだ。 ノーベル賞は福沢の死んだ1901(明治34)年にスタートしたの に、日本人がこれを初めて手にしたのは、48年後、私もその騒ぎを記憶して いる1949(昭和24)年の湯川秀樹さんの物理学賞だった。 その間の日 本人の学問水準は、低かったのだろうか。

 実は、1901年の第1回ノーベル・生理学医学賞から、日本人北里柴三郎 に与えられるべきものであったというのだ。 その第1回の生理学医学賞は、 ドイツの細菌学者エミール・ベーリングに授与された。 受賞理由は「血清療 法、特にジフテリアに対する血清治療の研究」における業績だった。 しかし、 ベーリングのこの業績は、彼と同じロベルト・コッホの弟子で、先輩に当る北 里柴三郎との共同研究によるものだった。 しかも、北里は、それ以前に、こ の研究の前提となる「破傷風の免疫血清療法」という革命的な研究を成し遂げ ていたのである。

 砂川幸雄さんによると、北里とベーリングが二人の共同研究「ジフテリアと 破傷風の動物実験による免疫性の成立」を『ドイツ医事週報』に発表したのは 1890(明治23)年12月4日号・11日号で、それは医学の世界に革命 的な気運を巻き起こすことになる。 そのわずか一週間後、ベーリングはなぜ か単独で「ジフテリアの血清療法」を発表している。 そして1892(明治 25)年にはジフテリア坑毒素を市販し、コッホとの間に「感情のもつれが生 じたらしく」(科学朝日編『ノーベル賞の光と陰』)、1894年にはハレ大学の 助教授に転じ、ついで1894年マールブルク大学教授になっている。 そし て1901年の第1回ノーベル・生理学医学賞の5年ぐらい前には、ベーリン グによる「血清療法の単独発見工作」が、たぶん完了していた(113頁)、と 砂川さんは推測している。

        北里柴三郎とベーリング<小人閑居日記 2003.12.2.>

 ちょっと昨日の補足。 ノーベル賞の選考過程は50年間は公開されないこ とになっているそうだが、すでに第1回の生理学医学賞の選考過程は明らかに なっている。 最初46人の候補者がおり、コッホやベーリングと共に北里も 入っていた。 選考委員会がさらに15人に絞った時も、北里は残っていた。  一方、ベーリングの名前は、この段階で落ちていた。 それが最終選考で、な ぜかベーリングが復活したという。

 昨日みたようにベーリングは「ジフテリアの血清療法」の論文を単独で発表 していた。 ジフテリアが、当時のヨーロッパで大流行していた深刻な小児病 で、ベーリングは世間から救世主のように見られたために、彼がだれよりも早 くノーベル賞を受賞したのではないかと、砂川幸雄さんは推測している。

 明治28(1895)年、東京でコレラが流行した。 5万5千人がかかり、 うち4万人が死亡している。 北里は府立広尾病院の嘱託になり、コレラの免 疫血清をはじめて試用した。 血清療法を施した193人のコレラ患者中、死 亡者は64人にとどめる、画期的成果をあげた。 この血清は北里の伝染病研 究所で製造されたものだったが、血清製造を官業にしたいという政府の要請を、 北里はこころよく承諾した。 明治29年、国立の「血清薬院」が芝公園でそ の事業を開始し、北里研究所はただちに血清製造を中止し、免疫動物や諸設備 一切を「血清薬院」に献納した。

 ところで、免疫血清療法の共同研究者で、この研究でノーベル賞を受けたベ ーリングは、製薬会社から権利料を受け取っていた、という。

横浜山手散歩、居留地・外人墓地[昔、書いた福沢188]2020/01/11 06:54

       トワンテ山とフランス山<小人閑居日記 2003.9.14.>

 13日は「新・横濱歴史散歩」の最終回で、横浜山手を散歩してきた。 私 は1992年(平成4年)4月26日、福沢諭吉協会の一日史蹟見学会で横浜 に行き、横浜開港資料館で開催中だった特別展「トワンテ山とフランス山~幕 末の横浜山手~英仏駐屯軍の四千二百日」を見て、初めて幕末にイギリスとフ ランスが横浜に軍隊を駐屯させていた事実を知った。

 イギリスとフランスは、1862(文久2)年に起きた生麦事件の翌年から 1875(明治8)年までの12年間、居留民保護・居留地防衛のため、横浜 山手に軍隊を駐屯させた。 外国軍隊の駐屯という事態に対し、幕府と明治政 府は粘り強い外交交渉を続け、ようやく明治も8年に至って主権を回復するこ とができたという。 現在の「港の見える丘公園」一帯は英第20連隊の陣地 があったことからトワンテ(トゥウェンティ)山と呼ばれ、現在のフランス山 にはフランス軍が駐留していた。 幕府の横浜居留地囲い込みの意図も、圧倒 的な軍事力の前には、簡単に破られてしまったことになる。 横浜居留民の数 をはるかに上回る英仏軍隊の駐屯は、生麦事件と同じ年に洋式軍制の導入を決 めた幕府にとって、恰好の教師になったのを始め、日本人社会にさまざまな影 響をもたらした。

       山手居留地の開発と発展<小人閑居日記 2003.9.15.>

 横浜の「山手(やまて)」というのは、居留地のある「海手(うみて)」に対 しての「山手」なのだという。 外国人はBLUFF(切り立った崖)と呼ん だ。 山手外国人墓地は1854年3月6日、ペリー艦隊のウィリアムズ二等 水兵が甲板に落ちて死亡したのを、元村の寺、増徳院裏山に埋葬したのが始ま りで、1864年(元治元年)幕府とアメリカ、イギリス、フランス、オラン ダの各国公使の間で締結された横浜居留地覚書によって、墓域の拡張が認めら れ、増徳院の上の高台に一区域が設けられた。

 「海手」の居留地は埋め立てなので、湿地で、水も悪かった。 商売は居留 地でしても、住居、学校、病院等は、よい土地にという希望から、1866年 12月(慶応2年11月)に幕府と外国側とで結ばれた「横浜居留地改造及競 馬場墓地等約書」により、山手の開発が進んだ。 住み始めたところから地番 がつき、その番号が現在に及んでいる。 これより先、1865年10月(慶 応元年9月)には、散歩の習慣のある外国人のための遊歩道がつくられた。 幅 3間(5.4メートル)全長2里12町(9.1キロ)、現在の山手本通りがそ れに重なるという。 1870年6月(明治3年5月)には、幕府時代から求 められていながら財政的に応じられなかった外国人用公園、山手公園がわが国 最初の西洋式公園としてオープンした。

 昨日書いた英仏両国守備兵だが、最初はイギリスが1,000名、フランス が250名という大規模なものだった。 若い兵隊の駐留だから、第二次大戦 後にあったと同じ混血児問題が発生したという話は、今回初めて聞いた。 そ うした混血児の教育の為に1871年にアメリカミッションホームという施設 が作られ、それはのちに横浜共立学園に発展したのだそうだ。

         山手西洋館めぐり<小人閑居日記 2003.9.16.>

 平成になってから、山手ではかつて外国人遊歩道だった山手本通り沿いに、 横浜市が整備したり移築復元したりして、7館の西洋館を公開している。 横 浜山手を訪ねても、海の見える丘公園と外人墓地を覗いただけで帰ってしまう と、見逃してしまう。 今回ゆっくり散歩したことで、よく整備されたいい建 物や庭園が、ゆったりと見られ、そこからの眺望もすばらしいことを知った。

 JR石川町駅の元町口(大船より)を出、元町に行く中村川沿いの一本裏の 道から、大丸谷坂(おおまるたにざか)にかかる。 左手にフェリス女学院の 高校・中学を望みながら登ると、一時イタリア領事館があったことからイタリ ア山庭園と呼ばれる庭園があって、(6)ブラフ18番館と(7)外交官の家の 2館がある。 ずっとカトリック山手教会の司祭館だったというブラフ18番 館を見学した。 この庭園の眺望はおすすめ。

 両側が落ち込んでいるので尾根道だということがわかる山手本通りを、カト リック山手教会まで行き、右折して山手公園へ。 日本で最初のローンテニス が1876(明治9)年に行われたというので建てられた、テニス発祥記念館 を見る。 英国人ブルックが1879(明治12)年にこの一帯に植えたこと から全国に広まったというヒマラヤ杉の巨木が見事だ。

 山手本通りに戻り、代官坂上へ、昭和5年に貿易商ベリック氏の邸宅として 建てられた(5)ベーリック・ホールを見学(一見の価値あり)。 ここ元町公 園地域には(3)山手234番館(4)エリスマン邸もある。 山手外国人墓 地入口前を右折、港の見える丘公園へ。 ここには(1)横浜市イギリス館(2) 山手111番館がある。 昭和12(1937)に英国総領事公邸として建築 されたという横浜市イギリス館は、昨年から一般見学もできるようになったの だという。 山手西洋館めぐりは約3時間、今は昔、デートコースとして最高 と思われた。

      外国人墓地とリチャードソンの墓<小人閑居日記 2003.9.17.>

 横浜山手散歩の最後に、外国人墓地に入った。 土曜日は維持費のための募 金をしながら、一部順路を公開しているのだ。 前に福沢諭吉協会の見学会で も入って、かなり丁寧に見て回ったことがあった。 ただ入口に墓地資料館と いうのが出来ていて、外国人墓地の概要がパネルで展示されている。 これを 先に見ておくと、墓の形やマークなどのことがよくわかる。

 前にも見た、青い目の噺家快楽亭ブラックの墓に頭を下げてきた。 生麦事 件のリチャードソンの墓は、一番下の順路外にある。 帰りに墓地に沿った坂 を元町へ下りた所を左にちょっと曲がって(元町から行くならウチキパン屋の 奥)、金網の塀から覗くと、見ることができる。 例の生麦事件参考館の浅海武 夫さんが、リチャードソンの墓のまわりに囲いを作ったりして整備し、覗く塀 にも看板を出したりしたのだという。 リチャードソンの墓に接した大きな桜 の樹はそのままだったが、前に墓の周りにあった十字の花を咲かせるドクダミ はなかった。 リチャードソンの墓の後ろに大きな四角錐の墓が見える。 ペ リー艦隊のウィリアムズの墓は三か月後に下田へ移葬されたので、この墓地で 一番古い墓だという。 1859年8月25日、横浜町で斬殺されたロシア海 軍の見習士官ローマンと水兵ソコロフの墓だそうだ。

『サイラス・マーナー』<等々力短信 第1126号 2019(令和元).12.25.>2019/12/25 07:09

『サイラス・マーナー』は読んだことがなく、作者のジョージ・エリオット がジョージなのに女性だというのも、知らなかった。 1861年の刊行当時、女 性の作品というだけで軽視されたことと、彼女が妻子のいるパートナーと暮し ていたという事情があった。 恩師の奥様、小尾芙佐さんが9月、光文社古典 新訳文庫から『サイラス・マーナー』を上梓された。 高校生の時に出合って いたが、2016年本屋大賞(翻訳小説部門)を受賞された『書店主フィクリーの ものがたり』(その年6月25日の短信1084号で紹介)に好きな小説の一つと して出て来て、原作を再読、感動し、この物語の素晴しい魅力を、今の人たち にもぜひ伝えたいと、強く感じられたのだそうだ。 私などは翻訳本を読むだ けでもかなりの時間を要したから、翻訳のご苦労は如何ばかりかと思った。

 機織り職人のサイラス・マーナーは、婚約者がいたが、親友の裏切りで金を 盗んだという無実の嫌疑を受け、教会の御神籤で有罪とされ、親友と婚約者が 結婚して、故郷を遠く離れラヴィロー村の採石場近くに移り住む。 すっかり 人間嫌いになり、機を織って稼いだ金貨を眺め数えるだけを唯一の楽しみに、 孤独な守銭奴となって15年になる。 村には、経済格差の二つの階級があっ た。 郷士のキャス家を筆頭に、地主の旦那衆、医師、獣医、牧師、教区執事、 治安判事など。 他方に、肉屋、車大工など商工人、そして農民、小作人。 教 会でも、居酒屋の虹屋でも、それぞれの席が決まっていた。

 キャス家の長男ゴッドフリーは、ラミター家の美人ナンシーと結婚したいの だが、実は秘密の結婚で子があり、そのため次男のダンスタンに脅されている。  サイラスは貯めた虎の子272ポンド余を盗まれ、悲嘆に放心状態となり、犯人 のダンスタンは姿を消す。 キャス家では大晦日の大宴会があり、そこへ子を 抱いて乗り込もうとした秘密の妻モリーが雪の中で倒れ、子供だけがサイラス の小屋にたどりつく。 たまたまの発作から覚めたサイラスは、炉端に金貨か と見違えて黄金色の巻き毛の幼子を見つける。

 サイラスは、金貨の代りにやって来た二歳の幼子を、救貧院にやらず、自分 で育てる決心をし、妹の名を採ってエピーと名付ける。 車大工のおかみさん ドリーの強い助けもあり、娘エピーがサイラスと世間の絆を結びつけてくれる ことになる。 庶民階級のドリーが、サイラスの過去の受難、教会の御神籤で 有罪とされた件を聞いて、いろいろと考えた、いわば「哲学」が、とてもいい。  「わたしらが知るかぎりの正しいことをしてな、あとは信じるだけなの。」 父 親のサイラスの格別な愛情のもとで、エピーは成長する。 純粋な愛というも のには詩のいぶきが感じられ、このいぶきは、ずっとエピーをとりまいていて、 エピーの心はいつまでも初々しさを保っていた。

幕末横浜と事始め、ヘボン、岸田吟香[昔、書いた福沢180]2019/12/24 06:58

        横浜「中華街」の誕生<小人閑居日記 2003.6.8.>

 きょうは石川潔さんの「新・横浜歴史散歩」の3回目、講義の日で「よこは ま」の歴史を八つのなぜに分けて話を聴く。 1859年7月1日の開港にあ わせて新しく町を造成し「横濱町」が誕生した時、横濱村は消えてしまった、 というのがあまり郷土史家は書いていないという石川さんの見解である。 そ れまでの住民は、みんな移住させられてしまったから、「村」と「町」は不連続 で、名前を取られただけだというのだ。 日本人町の住民はといえば、幕府が 江戸や駿河(静岡)、武州(埼玉)、上州(群馬)、甲州(山梨)の商人を集めて 来た。

 なぜ「中華街」が誕生したか。 港に向って右手の外国人町(居留地)の欧 米商社の使用人として、中国人(当時は清国人)はやってきた。 通訳、買弁、 コック、下僕などとして。 条約を結んでいないのでパスポートがなく、18 78年に清国領事館が出来るまでは、集会所で籍牌という身分証明書を発行し ていた数が明治元年で660人、千人はいただろうといい、外国人の中では一 番数が多かった。 やがて、自分たちの家を持ち始め、それがチャイナ・タウ ン(清国人居留区)となる。 横浜の地図を見るとわかるが、風水の関係で、 この地域だけ東西南北の正方向に道路が走っている。 日本人向け中華料理屋 が出来たのは、案外遅く、明治の末になってからだったという。 私も親達が 言っていたので子供の頃は「南京街(まち)」とおぼえていた。 中国人を「南 京さん」と呼んでいたことによるという。 「中華街」となったのは、昭和3 7年の日中国交回復で善隣門がつくられ、「中華街」の看板が掲げられてからだ そうだ。(神戸はいまも「南京町」)

         横浜ことはじめ<小人閑居日記 2003.6.9.>

 前にペンキ塗りの日本発祥が横浜だと書いたが、横浜開港から文明開化のこ ろにかけて、そのほかにもたくさんのモノやコトが横浜をその発祥の地となっ ている。 パンフレットにまとめられているのをもらったので、その項目だけ を抜き書きしておく。

 <交通・通信>乗合馬車、乗合汽船、電信、電話、人力車、鉄道

 <商工業>クリーニング、洋服屋、理髪店、ビール、せっけん、西洋かわら、 マッチ、自転車製造

<建造物>運上所、町会所、イギリス領事館、ホテル、製鉄所、鉄の橋、公 衆便所、ガス灯、外国為替銀行、水道、大桟橋、生糸検査所、倉庫会社

<文化>横浜天主堂、和英辞典、新聞広告、日刊新聞、女学校、聖書和訳

<飲食物>牛乳屋、パン屋、牛肉屋、西洋野菜、西洋料理

<娯楽>マンガ雑誌、写真屋、競馬、外人劇場

          ヘボンの四大事業<小人閑居日記 2003.6.10.>

 「横浜ことはじめ」のうち、「和英辞典」と「聖書和訳」にかかわったのがヘ ボン、James Curtis Hepburn (1815~1911)だ。 当時は耳で聞いてヘボン とかヘイボンと呼ばれ、本人もそれを使ったが、ヘップバーンが正しい。 女 優のオードリーやキャサリンを、孫などと書く人もいるが、まっ赤な偽り、親 戚ではない。 キャサリンはスコッチ・アイリッシュなので、広くいえば一族 だが、オードリーはフランス系ベルギー人。 医療を通してキリスト教を伝え るための宣教医(医療宣教師)として横浜に来た。 牧師ではない。 最初が、 先月散歩で行った神奈川の成仏寺、それから居留地39番、やがて山手と、3 3年間、横浜に住んだ。 その間、四つの大事業を行なった。

 それは「和英辞典」「聖書和訳」に加え、「施療」と「教育」である。 無料 で医療活動を行なう「施療」に当り、たくさんの患者が押しかけた。 診た患 者の数は、10万人近いといわれ、西洋医療(手術や器具なども)が実地に行 なわれ、それを見られたことが、いろいろな影響を与えた。 入院患者に牛乳 を飲ませ、氷を使ったこと(函館から運び、室に入れておく商売になった)も そうで、医療器具は門下の医者早矢仕有的が仲間と輸入を試み、初めは店に陳 列しておく器具がないので、洋書を並べたのが丸善になる。 「教育」活動は、 1863年主に夫人のクララが担当してヘボン塾を始め、女子のためにつくっ たが、英学志望の男子が押し寄せ、男女共学の英学塾になった。 これがのち に明治学院となる。

 ヘボンは、77歳で隠居し、アメリカに帰るが、浦島太郎状態、96歳で亡 くなる。 日本ではヘボン式ローマ字にその名を残すが、アメリカでは、いま だに無名という。

       ヘボンの『和英語林集成』<小人閑居日記 2003.6.11.>

 ヘボンの「和英辞典」『和英語林集成』は、見出し語をローマ字で掲げ、片カ ナと漢字を並べ、用言には活用を簡単に示し、品詞を記してある。 つぎに語 の意味をやさしい英語で説明して引用例を示し、できるだけ同義語を加えてい る。 だが当時の日本には、これを印刷できる技術も機械もなかった。 ヘボ ンは、元治元(1864)年からその家に寄寓して辞書の編纂を手伝っていた 岸田吟香を連れて、印刷出版のため慶應2(1866)年10月上海へ行く。  二人は米人ウィリアム・ガンブル主宰の印刷所「美華書院」に通いつめ、ガン ブルは吟香が書いた五ミリ角の日本文字(国字…辻・凪・峠・袴・畠など)、片 カナ、平ガナをもとに、木の母型を作り、鉛活字を鋳造した。 印刷が長期に わたることがわかり、ヘボンは索引として英語で引くsecond partを付けるこ とにし、夜を日についでこれに打ち込む。  印刷製本が出来上がったのは慶應 3(1867)年4月だった。 初版1200部。  

 代価は18両と高価だったが、さる遠国大名の意向を受けた武士が三十冊の まとめ買いをしたのがきっかけになって、諸藩が競って買いに来るようになる。  その命運がつきようとする時期であるにもかかわらず、幕府の開成所も200 冊を購入した。

 この辞書については、望月洋子さんの『ヘボンの生涯と日本語』がくわしい。  望月さんは、ヘボンの『和英語林集成』が単なる和英辞書でなく、「本格的な日 本最初の「国語辞書」」であり、「言葉の大切さを教え、扱い方を示し、近代的 辞書の理念を日本人に贈った」、ごく普通に用いられている語彙を採用したので 「「気どりのない」言葉の宝庫となって、江戸時代末期の日本人の語彙を今に伝 える役目を果す」と、指摘している。

           岸田吟香のこと<小人閑居日記 2003.6.12.>

 名前が出てきたので、岸田吟香についてちょっとあたってみた。 なかなか 面白い人物である。 天保4(1833)~明治38(1905)、ほぼ福沢と 同時期の、新聞人、薬業界の功労者。 岡山の生れで、本名は銀次。 江戸の 藤森天山について漢学を学び、安政2(1855)年には三河挙母(ころも) 藩主の侍読に推挙される。 水戸派の藤森天山は幕府に追放され、その過激な 攘夷建白書が弟子の岸田の筆によるものだろうと疑われて、公儀の追及を受け 潜伏する。 吉原や浅草の芸妓屋で箱屋をしたり、湯屋の三助に身をやつした 当時の呼び名「銀公」をもじって吟香と名乗る。

 元治元(1864)年4月、眼疾をこじらせ、衣類も垢じみ、尾羽うち枯ら した風体で、箕作秋坪の紹介状を持ってヘボンを訪れる。 治療に通ううち、 ヘボンが吟香の憎めない人物と深い学識を知って気に入り、吟香もヘボンの人 柄に感じて攘夷をやめ、住み込みで辞書編纂を手伝うようになる。 ヘボンは 「ギンさん、ギンさん」と家族同様に扱い、『和英語林集成』初版の「申ス」の 用例に「名ヲギント申ス」の一行が見られるのを、望月洋子さんは「ほほえま しい」と記している。 前述した同辞書印刷の上海行きの頃、アメリカ帰りの ジョセフ・ヒコ、浜田彦蔵に啓発されて新聞に興味をもち、浜田の『海外新聞』 発行に協力した。 慶應3(1867)年回船商社を設立、汽船を購入して江 戸-横浜間の運送に従事。 68年にはアメリカ人ウェン・リード(バン・リ ード)と共同で『横浜新報もしほ草』を創刊、また独力で『金川日誌』を発行 した。 明治6(73)年『東京日日新聞』に招かれ、主筆として健筆をふる い、同紙の声価を高めた。

 その後、新聞界を離れ、ヘボンに伝授された目薬「精錡水(せいきす い)」を銀座に開業した楽善堂で製造・販売するとともに、上海に支店を開き、 日中貿易の促進や日中友好に奔走、日清貿易研究所、東亜同文会などの創設に 尽力した。 また新聞広告を重視したり、盲唖学校の先駆である訓盲院を設立 (1876)するなど、多角的な業績を残した。 画家の岸田劉生はその四男 である。