『べらぼう』の歌麿と蔦重、三人のエーリヒ ― 2025/02/13 06:58
「カネ取って番宣ばかりべらぼうめ」というのが、暮の朝日新聞の川柳欄にあって、笑うと同時に、なるほどと感心した。 その大河ドラマ『べらぼう』の番宣のうち、喜多川歌麿をやる染谷将太が出た「浮世絵ミステリー 歌麿と蔦谷重三郎 “革命”と “抵抗”の謎」と、浅田春奈アナになった『英雄たちの選択』スペシャル「大江戸エンタメ革命~実録・蔦谷重三郎~」を見た。 田沼意次の時代に蔦重などが活躍して江戸文化が花開いた後、農政の失敗で一揆が多発し、農村の荒廃と人口の江戸流入、天明の大飢饉などがあり、松平定信が寛政の改革で引き締めに転じたため、蔦重が財産の半分没収、歌麿が手鎖の刑になる。 どちらの番組も、その中で蔦重や歌麿が、どのように権力に抵抗したかを描いていた。 そこで、「笑いを忘れた時代」の翌月に「等々力短信」に書いていたものを引くことにする。
三人のエーリヒ 「等々力短信」第400号 昭和61(1986)年8月15日
ケストナーと聞いて、思い出したのが、e・o・プラウエン作の『おとうさんとぼく』(岩波少年文庫)という、とても楽しい二冊のマンガ本だ。 ふとっちょで、ひげをはやし、ハゲ頭の、人のよいおとうさんと、いたずらだが、機知に富み、オカッパ頭で、おとうさん思いの、ぼく。 だが、この人間味あふれるマンガ本の陰に、悲しい物語があったことが、一巻の上田真而子さんという方の解説を読むとわかる。
e・o・プラウエンの、e・oはエーリヒ・オーザーという本名であり、プラウエンは彼が育った町の名だ。 1920年、金具職人の見習いを終えたオーザーは、どうしても絵が描きたくて、ライプチヒの美術学校に入る。 そのライプチヒで、生涯の友となった、もう二人のエーリヒに出会う。 ひとりがエーリヒ・ケストナーで、師範学校を出たのに、先生になるのがいやで、ライプチヒの大学で文学や演劇を学びながら、詩を書いていた。 もうひとりの、エーリヒ・クナウフは、植字工から「プラウエン新聞」の編集者になっていた人で、オーザーの絵やケストナーの文章の、よい買い手だった。
三人の若い芸術家は、1927年にベルリンに出、ワイマール文化が花開いた「黄金の20年代」とよばれる時代の、自由を謳歌した。 しかし、それは長くは続かなかった。 1933年にヒットラーが政権をとると、ナチスの宣伝相ゲッペルスによる芸術家や文化人の統制が始まった。 ケストナーの本は、好ましからざるものとして焼かれ、執筆停止になった。 ナチスの政敵系の出版社の編集者だったクナウフは捕えられ、強制収容所にも入れられた。 オーザーの戯画には、ナチスを大胆に批判したものが多かったので、次第に仕事がなくなり、やがて執筆停止になった。 だが、変名をつかい、非政治的な絵にするという条件で描き始めた『おとうさんとぼく』が、暗い時代の中で、爆発的な人気を得、国民のアイドルになる。 ナチスも募金運動のシンボル・マークに『おとうさんとぼく』をつかったりした。 そのためか、オーザーは1937年12月、『おとうさんとぼく』の筆をおく。
ぼくの指導者はデューラーだといって、大胆にも「ハイル・デューラー」などといっていたオーザーは、1944年、親友クナウフとともに、密告によってゲシュタポに捕えられ、獄中で自殺した。 クナウフは死刑になった。 三人のエーリヒのうち「一人をのこしてヒトラーのもとにその生を閉じた」と、残されたエーリヒ・ケストナーが書いているそうである。
なだいなださんの『江戸狂歌』を探して ― 2025/02/12 07:00
「福沢諭吉の「新作落語」「漫言」ジョーク集『開口笑話』」で福沢のユーモアの話をし、大河ドラマ『べらぼう 蔦重栄華乃夢噺』を見て思い出したのが、なだいなださんの『江戸狂歌』(岩波書店「古典をよむ-24」)という本のことだ。 書棚を探したのだが、見つからない。 代わりに、井上ひさしさんの『戯作者銘々伝』(中央公論社・1979)、田中優子さんの『江戸はネットワーク』(平凡社・1993)が出てきたのだが…。 なだいなださんの『江戸狂歌』について、「等々力短信」に「笑いを忘れた時代」というのを書いていた。
笑いを忘れた時代 「等々力短信」第399号 昭和61(1986)年8月5日
7月9日の朝日新聞「天声人語」は、この7年間に「しゃれや冗談をいうのが好き」な人が、激減したという、NHKの「ことばの意識調査」を紹介して、「黙々人間の大軍が粛々と行進する世の中になってきたのだろうか」、「しゃれや冗談をおもしろがる精神の衰弱を、おもしろがるわけにはいかない」と、言った。
作家の「なだいなだ」さんは、戦争が終わった時、「やれやれやっと、これから、笑ってもいい時代がくるのだな」と思ったという。 16歳の少年のこころにも、笑いたいのに笑えない時代が、けっしてよい時代とはいえないということが、ハッキリと分かった。 しかし、戦争が終わっても、笑いのほうは、おかしなことに、期待したほど戻ってこなかった。 「日本人にはユーモアが欠けている」、「日本人は、過去からずっと、くそまじめで笑いを知らない人間だった」、それは「日本的」なもの、日本人の「国民性」だという話を、たくさん聞かされて、ほとんど信じこみそうになった。 そんな時、ケストナーの「一眼の文学」というエッセイを読んで、目からうろこが落ちるということを、実際に体験した。 うろこばかりか、目まで落ちては大変と、目を押さえたほどだった。
ケストナーは、その中で、ドイツの近代文学は、生まじめで、笑いを忘れてしまっていた、と指摘した。 さらに踏み込んで、その笑いぬきの生まじめさが、プロシャとナチの軍国主義を作ったのだと、推論する。 ケストナーは、軍国主義者が笑いを禁じたのではなくて、近代ドイツの笑いを忘れた生まじめさこそが、軍国主義を生んだ根本だといったのだ。 また彼は、この生まじめさは、決してドイツの国民性によるものではない、近代ドイツが、一時的に笑いを忘れただけだ、中世ドイツは、とほうもないスケールの、大きな笑いを含んだ民話を、いくつもいくつも残した、ともいった。
なださんは、ケストナーに刺激されて、日本の過去に目を向けた。 そこには、ドイツとまったく同じような風景が見えてきた。 「日本人だって、決して、笑えない人間でも、笑わない人間でもなかった。けっこう、けたたましく、あるいは豪快に、声をあげて笑っていたのだ。生まじめさは、少しも日本的といえるようなものではなかったのである。笑いは、かつては、高く評価されていた。」 なだいなださんの『江戸狂歌』(岩波書店「古典をよむ-24」)の、この前置きは、長々と紹介する価値が、十分にある。
西郷隆盛・勝海舟江戸開城会見、旧芝浦花柳界の見番 ― 2025/02/07 07:02
「さつまの七曲がり」の終わりに、西應寺へ行く。 創立を応安元(1368)年、開山は北条時頼の伯母明賢尼と伝え、近世には家康から寺領を給された。 幕末には最初のオランダ公使館となって、初代クルチウス公使らが滞在したが、関係史料は薩摩藩邸焼き討ち事件で類焼して失われた。 この後、西郷隆盛・勝海舟江戸開城会見記念の碑へ行ったが、俵元昭さんの見解が、若い時に石井孝著の岩波新書『明治維新の舞台裏』を読んで知った、幕末の歴史を補強するものだった。 江戸無血開城は、倒幕を目的に進軍して来た官軍に認められるはずはなかったが、勝の機略に会って譲った。 腹芸というよりは、江戸っ子ふうにいえば、わかっていながらのおとぼけだったと思う。 その背後の外国勢力の圧力も考慮されていたに違いない、というのだ。
西郷・勝の会見は、慶応4(1868)年3月14日の本会談が記念碑のある薩摩藩蔵屋敷(正確にいえば蔵屋敷門前の抱(かかえ)屋敷という薩摩藩が買い求めた町家)と、その前日には品川駅前、高輪の以前ホテル・パシフィツク東京があった場所、薩摩藩下屋敷で行われた。 二つの会見場所の真ん中あたりに、両者の背後勢力である英仏の両公使館にあてられた寺があったのである。 三田あるこう会で、2020年9月6日に高輪ゲートウェイ駅から行った東禅寺がイギリス公使館、昨年2月3日に行った「御田」の済海寺がフランス公使館だった。 薩摩藩邸焼き討ち事件で焼け出されたオランダ公使館は泉岳寺近くの寺に移ったそうで、オランダの圧力もあったのだろう。
西應寺は、みなと幼稚園を併設した、近代的な珍しい建物だった。 西應寺から芝4丁目の交差点へ出て、JRのガードをくぐって、右側へ進み、港区伝統文化交流館(旧協働会館)へ行く。 昭和11(1936)年に芝浦花柳界の見番として建設された、都内に現存する唯一の木造見番建造物だそうだ。 戦後は、東京都の港湾労働者の宿泊所として使われていた。 お仲間の中に、慶應中等部で先生から、田町駅の向こう側へは行かないようにと、何度も言われたという人がいた。 見学中、「見番」と「検番」の違い、「三業地」とか「岡場所」とかいう言葉が話題になった。 私は「検番」には、検査の意味もあるのかなどと出まかせを言ったが、「見番」と「検番」は同じだと、スマホで調べてくれた人がいた。 それぞれの言葉を漠然と捉えていたので、帰宅して辞書などを見る。 「見番・検番」は、料理屋・待合茶屋・芸者置屋の三業組合の事務所の俗称。遊里で芸者を登録させ、客席に出る芸者の取次や玉代の計算などの事務を取り扱ったところ。 待合茶屋…客が芸妓を呼び遊興する茶屋。 「三業地」は、料理屋・待合茶屋・芸者置屋の三業種が営業を許可された特定の地域。 「岡場所」は、吉原にたいして、「傍(おか)」、すなわち脇の場所の意。官許の吉原に対し、非公認の深川・品川・新宿などの遊里。
阿川尚之さんの『アメリカが見つかりましたか-戦後篇』〔昔、書いた福沢144〕 ― 2024/12/06 07:10
阿川尚之さんの『アメリカが見つかりましたか-戦後篇』〔昔、書いた福沢144〕 <小人閑居日記 2019.11.1.>
自分で考えるということ<小人閑居日記 2002.7.22.>
6月のワールドカップ・サッカーの熱狂ぶりをみていて、そういう私もかなりテレビを見てはいたのだが、日本人が集団で一方向に走りだす傾向が、気になった。 日本が負けた瞬間、もう一つ上に行けたのにという声が、瞬時に圧殺され、よくやったに世論が統一されたのには、何となく不安を感じた。 そういえば昨年の4月頃は、小泉人気というものがあったと、思ったのである。
このところ、そんなことを考えているものだから、阿川尚之さんの『アメリカが見つかりましたか-戦後篇』(都市出版)を読んでも、アメリカ人の個別主義についての記述が気になる。 たとえば、後にジャパンタイムズのジャーナリストになる村田聖明(きよあき)さんの章。 村田さんは、日米開戦の6か月前にアメリカへ留学し、戦争が始まると一時アリゾナの収容所に入れられたが、10か月で出所、普通に大学生活を送る。 戦争相手である日本人の村田さんを、当り前に遇する普通の市民が、思いがけなく大勢いる。
「目の前に敵国人が現れたとき、その人物を個人として評価する。 政府が何と言おうと新聞が何と書こうと、自分で考え、それを遠慮なく口にする。」 「おそらく日本にも、戦争中アメリカ人の捕虜を人道的に扱い、占領地の住民と個人として親交を深めた人はたくさんいたに違いない。 しかしどちらの国民が、戦争という極限状況下における集団ヒステリーから比較的自由であったかと言えば、どうもアメリカに軍配を上げざるをえないだろう。」
自分の意見、相手の意見<小人閑居日記 2002.7.23.>
阿川尚之さんの『アメリカが見つかりましたか-戦後篇』の山本七平さんの章に、天皇訪米に合せアメリカへ行ってみないかといわれた山本七平さんが、キリスト教指導者植村環(たまき)女史の戦争直後のアメリカ講演旅行のことを思い出す話がある。 昭和21年5月渡米した植村環女史は、「石もて追われる」ような、きわめて厳しい旅を経験する。
「しかし、植村女史の記録を仔細に読むと、アメリカ人の反応は同じ状態に陥ったときの日本人の反応と違うと、山本は感じる。いかに非難すべき相手でも、その発言自体は決して非難・妨害しないのである。」
「面と向かって日本人は悪魔だと言いながら、納得すると照れずに意見も態度も変える。植村女史は『トルーマン大統領その他知名な人々も、高圧的な態度で自分の意見を他に圧しつけることがないかわりに、自分に納得のいかない不審な点は、あくまでも、きく』と記した。どうも日本人とは異なる反応の仕方だ。多数は流動的で固定しないから、『これが天下の世論だ』などと高圧的に言ってもききめがない。『一夜にして全国民が一定“世論”のもとに一変するといった事態は逆に起こらない』。」
トクヴィルと福沢諭吉(2)〔昔、書いた福沢143-2〕 ― 2024/12/05 07:05
トクヴィルと福沢諭吉(2)〔昔、書いた福沢143-2〕
<小人閑居日記 2019.10.31.>
自治のアメリカ、群れるアメリカ<小人閑居日記 2002.5.28.>
トクヴィルとボーモンは、とくにボストンやフィラデルフィアで、アメリカ民主主義の実態と根幹に触れた。 州は、小さな共和政体である町(タウン)の連合だ。 それぞれ首長を選び、自分たちのことは自分で行なっている。 彼らを結びつけるのが州議会。 町の権限は法律で定められ、その範囲を越えることがらだけが、州議会の管轄になっている。 さらに、州が集まって、国をつくっている。 政府が口出ししない結果、個人が自分自身で何でもやる習慣がつく。 他から助けを求めず、自分で考え、自分で対処する。 大学、病院、道路などを建てよう、改良しようとするとき、政府に陳情することなど考えもしない。 教育も政府に任せては駄目だ、フランスで教育助成のための公的基金を設けることなど、絶対やめろと言われている。(阿川さんは金をかけた「本郷の大学」にふれた)
裁判もまた自分たちの手で行なう。 トクヴィルは、陪審制度が人々に、自分達の問題を自分自身で解決することを教え、社会問題解決を自分自身の仕事とみなすようにさせることの重要性を見た。
アメリカ人はまた、何かというと集まってアソシエーション、すなわち各種の団体を、変幻自在に結成する傾向がある。(阿川さんは福沢諭吉協会はアソシエーションそのものと言った) 商業上の連合、政治、文学、宗教上の団体をつくる。 決してお上へ陳情して成功をめざすのではなく、個人の才覚に訴えて調和ある行動を組織し、成功へと進む。 その最も極端な例が禁酒協会で、ニューヨークに727、マサチューセッツに209、全国で2千以上ある、とトクヴィルは報告している。 民主政体のもとでは、すべての人は独立しており力がない。 自分一人では何もできない。 互いに協力し、共同歩調を取る習慣を身につけないかぎり、文明は危殆に瀕するからだろうと、トクヴィルは考える。(つづく)
握手、対等なアメリカ<小人閑居日記 2002.5.29.>
阿川尚之さんは『トクヴィルとアメリカへ』で、イギリス人や日本人が初対面の人にたいして回りくどい態度をとるのに対して、アメリカ人は簡単に握手する、と書いている。(講演では、瀋陽の副領事は握手しますけどと言った(5月8日北朝鮮人5名が瀋陽の領事館に亡命のため駆け込む事件があった)) トクヴィルの時代も同じだったようで、「アメリカには少なくとも表面上、信じられないほどの平等が行き渡っている。 すべての階層の者が、常に互いに交流している。 社会的地位の差ゆえの傲慢は、露ほども見かけられない。 みんな握手を交わす。 カナンダイグアの刑務所では(トクヴィルとボーモンはアメリカの刑務所制度視察の名目で渡米した)、検察官が囚人と握手しているのを見た」
トクヴィルとボーモンは、ホワイトハウスでアンドリュー・ジャクソン大統領に面会している。 19世紀には大統領が面会日を定めていて、その日訪れればだれでも大統領に会えたらしい。 それから35年後にワシントンを訪れた福沢諭吉は、日記帳にホワイトハウスの見取り図を描いて、その片隅に「冬の間一週一度大統領国民え面会」と記した。 福沢が会ったのは、リンカーン暗殺のあとを継いだアンドリュー・ジョンソン大統領だ。 漂流民ジョセフ・ヒコにいたっては、ホワイトハウスでビアス、ブキャナン、リンカーンの三人の大統領に面会している。 ヒコはビアス大統領を訪れた時、護衛も家来もなく、大して豪華でない家に住み、普通の服を着て気さくに対等に客と話す紳士が国家元首だとは、どうしても信じられなかったと、自伝に記しているという。
『トクヴィルとアメリカへ』の雑学<小人閑居日記 2002.5.30.>
初期の植民地では、ヴァージニアあたりでも当然、インディアンとの確執があった。 ディズニーのアニメにもなった「ポカホンタス」は、12歳のインディアンの少女で、ヴァージニアの初期植民地ジェームズタウンの長、キャプテン・ジョン・スミスがインディアンのラパハノック族に捕らわれた時、スミスと仲良くなって、父親である部族の長ポーハタンが処刑を命じると身を投げ出して、彼の命を救った。 万延元(1860)年に遣米使節を乗せ、咸臨丸とともに太平洋を渡ったアメリカの軍艦ポーハタン号は、「ポカホンタス」の父親の名に由来していたのであった。
トクヴィルはメンフィス滞在中、二年前にこの地区から選出された、変り者の下院議員の話を聞く。 学校へ行ったことがなく、ほとんど字が読めない。 財産がなく、住所不定。 森の中に住み、狩りをして獲物を売って生計を立てている。 トクヴィルは日記に「普通選挙が実施されると、これほどひどい人を選ぶことになる」と記し、民主主義の弊害を心配した。 その議員の名は、デーヴィッド・クロケット。 5年後、テキサスの独立をめざすアメリカ人の一群が、サンアントニオの町にあるアラモの砦で玉砕したなかに、この冒険家がいて、アメリカ史に名を残すことになるとは、さすがのトクヴィルにも想像がつかなかった。
ミシシッピー川をニューオーリンズへ向う船上で、サム・ヒューストンという面白い男に会った。 テネシー州の知事まで務めたが、家庭がうまくいかず、妻を捨てて奥地に逃げ込み、チェロキー族インディアンの社会に入り、族長の養子となって、その娘をめとって、何年間かを暮した。 トクヴィル達が会った時は、再び白人社会に戻る決心をして、同じルイヴィル号の船客となっていたのだった。 5年後、サム・ヒューストンはテキサスに姿を現わす。 馬にまたがり、テキサス独立軍の指揮官として、「アラモの屈辱を忘れるな」と叫びながら、メキシコ軍を散々に打ち破った。 彼はメキシコから独立したテキサス共和国の初代大統領になり、その名は、テキサスの大都会の名として、今でも残っている。
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