米国のイラン攻撃、日本は遠慮、物申さず2025/06/28 06:54

 21日の米国のイラン核施設攻撃に対して、林芳正官房長官は23日午前の記者会見で、「米国がイランとの対話を求め続けてきたという背景がある」として、「事態の早期沈静化を求めつつ、イランの核兵器保有を阻止する決意を示したもの」と強調し、この点がイスラエルによる攻撃と「異なる」との考えを示した。 このテレビニュースを見ながら、私はアメリカにお世辞を使っていると、つぶやいた。

 各国の反応。 英国のスターマー首相は22日、SNS投稿でイランの核開発計画を批判したうえで、「米国は脅威を緩和するために行動を取った」とした。 欧州連合(EU)の大統領にあたるコスタ首脳会議常任議長は、「外交は中東地域に平和と安全をもたらす唯一の手段だ」とSNSに投稿した。 フランスのバロ外相は「空爆について、深刻な懸念を持っている」とSNSの投稿で述べた。 中国外務省は報道官声明で、攻撃は「国連憲章の趣旨や原則、国際法に違反し、中東の緊張を悪化させる」と批判した。 ロシア外務省は声明で、「主権国家の領土に攻撃を加えるという無責任な決定は、いかなる理由を付けたとしても、国際法に対する深刻な違反だ」と非難した。 インドのモディ首相は22日、イランのベゼシュキアン大統領と協議した後、SNSに「即時の緊張緩和や対話と外交、地域の平和や安定などの早期回復を求めた」と投稿し、緊張の高まりに懸念を示した。

 石破茂首相は22日、事態の推移を注視する考えを強調し、米国の軍事介入に対する日本政府としての明確な態度表明は避けた。 イスラエルによるイラン攻撃時には、イスラエルの軍事行動を「到底許容できない」(岩屋毅外相)と非難する談話を出したのと対照的だ。

 朝日新聞のインタビューに答えた小谷哲男明海大教授(安全保障論)の見解が、明快だ。 「米国が、仮にイランの将来的な核保有を阻止したかったのだとしても、「予防攻撃」は国際法では認められていない。」 「米国では憲法上、宣戦布告の権限は連邦議会に与えられており、他国を攻撃する場合は原則的に連邦議会の承認が必要だ。今回はそうした手続きは踏んでおらず、国内法的にも問題がある。」

 朝日新聞の佐藤武嗣論説主幹は、23日朝刊「座標軸」で、「今回の米軍の介入は中東情勢にとどまらず、アジア情勢に深刻な影を落とす。湾岸諸国の反発はもとより、イスラム教徒の多いアジア諸国の「米国離れ」を招くのは避けられまい。」 「国際法違反のロシアやイスラエルが責めを負わず、米国までもが国際規範に背く形で武力行使を続ければ、台湾への「武力行使も辞さない」とする中国に自制を促す正当性を失い、中国が武力行使に踏み切るハードルも下げかねない。」 「日本の同盟国である米国に、国際法堅持の姿勢がいかに対中政策でも重要かを説き、米国以外の有志国とも連携し、不条理の連鎖を止める行動を起こす時だ。傍観を決め込めば、日本と地域秩序に跳ね返ってくる。」と指摘した。

岡本隆司著『倭寇とは何か』、中国揺るがし600年2025/06/07 06:58

 最近読んだ新聞記事で面白かったのは、歴史学者の岡本隆司さんの近著『倭寇とは何か』中国を揺さぶる「海賊」の正体(新潮選書)についての、5月25日の朝日新聞だった。

 歴史の教科書の一般的説明だと、倭寇は東アジアで略奪や密貿易を行った海賊で、その担い手は、14世紀後半がピークの前期倭寇では主に日本列島の人々だったのに対し、16世紀の後期倭寇では、中国大陸出身者を中心に日本やポルトガルなどの様々な人がいた、というものだった。 実際は、単なる海賊ではなく、その正体は、権力・当局に服さず、国境を越えて活動する民間商人らの「ネットワーク」だった。

 前期倭寇の時代、明の政権は、「日本からの脅威」とみなし、貿易や渡航を制限する海禁政策を取る一方で、日中双方が管理する勘合貿易をおこなって倭寇を沈静化させる。 ところが後期倭寇の時代になると、長江下流域の江南デルタの経済的発展に加えて、大航海時代が到来する。 日本の石見銀山やアメリカ大陸でとれた銀が、中国や、ポルトガル、スペインなど「南蛮」との交易を支える。 海を越えて結びついた列島人や大陸人、南蛮人・紅毛人たちが、国家による国境や貿易の管理を超えた「境界人」として活躍するのだ。 つまり倭寇は、日本人か中国人かを問うよりも、沿海に出て商業を営む雑多な人々がアジアの海を股にかけて活動したという「状況」であり、「現象」として捉えるべきだと、岡本隆司さんは言う。

 17世紀に入ると、日本は海禁・鎖国への道を歩み、倭寇は消えたとされるが、その実体であった華人(中国系移民)の貿易ネットワークは、中華の正統な秩序(華夷(かい)秩序)の外で、異国と自由に結びつき、越境的に動く民間の運動体として、グローバル化でさらに発達していく。

 そんな倭寇の末裔たちを抱え込むのか、抑え込むのか。 中国は今に至る600年もの間、ある意味この「倭寇」的存在と向き合ってきたと、岡本隆司さんは解釈できるとする。

 清(1644~1912年)の時代に入ると、シナ海貿易を大規模展開していた中国人の父と日本人の母を持ち、台湾を占拠した鄭成功らの海上勢力を武力で抑えつけた時期もあるが、その後は異国と結びつこうとする「倭寇」を政権側に取り込むため「互市」(貿易開放)政策へと転じた。

 19世紀以降のアヘン戦争や日清戦争といった大英帝国や日本の侵略も、中国側からは「倭寇」の流れに位置づけられるだろう、とする。 英国も日本も中央(北京)の統制を受けないアヘン流通や作物生産の拠点を求め、香港や台湾を手に入れようとしたわけだから。

 では、習近平政権は「倭寇」とどう向き合っているのか。 習氏はビジネスを通じて外国と過度に結びつく勢力の出現を体制を揺るがす火だねと見なし、経済の過熱を抑えて国家的統制を強める方向に舵をきっているようにみえる。 「一国二制度」のはずの香港を弾圧し、台湾にも「一つの中国」を強要し軍事的に威圧する。 どちらも他国と結びついて行う自由な経済・政治活動を抑えつけるもので、「倭寇」対策のあらわれにみえる。

 結果として、富裕層を中心に日本などへ移住する中国人も急増している。 「倭寇」を支配下に置こうとする習氏の試みは、さらに新たな「倭寇」を生み出していくかもしれない、というのだ。

福沢「分権論」の意義と可能性2025/05/29 07:01

 「トクヴィルの分権論」。 二つの集権 : 政治的と行政的。 政治的集権がなければ国は分裂、しかし行政的分権を伴うと、過度な集権化により人民の自治の気風喪失。 英仏独の近代化の違い、英がいいとする。 アメリカ、各地が自治、ベスト。

 福沢は、「分権論」に、「中央の政府は政権を執り、地方の人民は治権を執り、互いに相依り互いに相助けて、ともに国安を維持するの決定を得るときは、人々始めて日本国の所在を発見して、公私の利害、その集むるところの点を一様にする」 「今のときに当たりては、我が人民は国の所在を知らず」と、当事者意識を持てとした。

 福沢の「通俗民権論」(1878)。 「地方にて人民が相談の上にて、井戸を浚え、芥溜(はきだめ)を掃除し、火の用心、夜廻の番を設け、作道を開き、土橋を掛け、宮寺を建立し、常夜灯を灯し、師匠を招待して町村の子供を教え(中略)、これらの相談につき町村の人民が寄り合い、入り用の銭米を取り立てその遣い払いをなして一町一村の便利を起こし」 江戸時代から、自治をやってきたのに、明治になって中央集権によって、それが消えつつあるとした。

 そして「地方議会の必要」を説く。 「かかる国会を設けて各地方の総代人を集めんとするには、まずその地方にて人民の会議を開き、土地のことは土地の人民にて取り扱うの風習を成し、地方の小議会中よりそれぞれの人物を撰びて中央政府の大会議に出席せしめ、始めて中央と地方との情実も相通じて国会の便益をも得べきことなり」 まず地方で、旧士族が役割を果たす、地方議会をやり、それを国会へと段階を踏む、見事な議論。 福沢は、政府と違う筋道と段階を、見ていた。

 「福沢の分権論の意義」。 「士族反乱から自由民権運動にかけての時期に、独自の地方論、帝国議会の開設(1890)に先駆け、日本の議会化を展望。」 「不平士族を地方自治を担う市民へと転換する大胆な発想、政治を担うメンタリティ。」 反乱については、心の中で持てばいい、暴力で解決するのではなく、自分たちの地域でやる。 治権はバラバラに、当事者意識を持って、自分たちの問題として、「ポリティカル・アイデアズ」を持ってやる。 遠大な考えだが、適切な考え方で、福沢の説いた通りになれば、日本の政治も別のものになったであろう。

最近の若い研究者には、地方政治が全国政治に先行したと、実証的に裏付けた研究もある。 前田亮介『全国政治の始動』(東京大学出版会)、松沢裕作慶應義塾大学准教授の岩波新書『自由民権運動』〈デモクラシー〉の夢と挫折。 江戸時代からの運動が、明治へとダイナミックに流れ込んでいる。

福沢諭吉の「分権論」2025/05/28 06:51

 福沢諭吉が「分権論」を著したのは1876(明治9)年、佐賀の乱(1874)、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱(1876)、西南戦争(1877)と、士族の反乱の時期だった。 福沢は、トクヴィルの分権論を応用することで、この状況に対応することを考え、士族を転じて地方自治を担う市民へと発想転換した。 福沢は本気で、政治的意図を狙い、明治時代の道筋を示そうとした。

 「徳川政府の初めより嘉永年間に至るまで、国事に関する者は必ず士族以上の人種に限り、農工商の三民はただその指揮を仰ぎて僅かにその身体を養うに過ぎず」 「概してこれを云えば士族の生は国事、政治の中にありて存し、四十万の家に眠食する二百万の人民は、男女老少の別なく一人として政談の人にあらざるなし」

 アメリカでは、国民が「ポリティカル・アイデアズ」を議論する。 レーガンの保守、オバマのリベラル、トランプと、そうしたある種の議論が、政治を動かす。

 福沢の「士族の三類型」。 (1)新政府に地位を占める者(官僚)、(2)官を求めて官を得ざる者(不満、反発)。 その二つが、改新の党。 (3)士族固有の気力を持続してその形を変ぜざる者(「往々有力なる人物ありて、その品行賤しからず」と、同情的)→守旧の党。

 「士族の不満」。 維新によって利禄を喪失、他に活計の方法なし。 士族の面目の喪失。 郵便の便利と著書、新聞紙の出版→田舎の士族が東京の事情を知ることが速くなり、何かせねばと考える。(これは、メディア論。グーテンベルクの活版印刷の発明以後、多くの人が情報を使えるようになった。)

 「分権論」で、福沢は「国権の区別」をした。 政権(government): 法律の制定、軍事、租税、外交、戦争、貨幣。統一国家がやらねばならぬこと。 治権(administration): 国内各地でその地方に居住する人民の幸福を図る、警察、道路、橋梁、堤防、学校、社寺、遊園、衛生。

宇野重規さんの「トクヴィル分権論と福沢」2025/05/27 07:16

 24日は交詢社で福澤諭吉協会の総会があり、宇野重規さんの「トクヴィル分権論と福沢」という記念講演を聴いてきた。 宇野重規さんは、東京大学社会科学研究所教授、研究所所長で、専攻は政治思想史、政治哲学。 2020年、日本学術会議の新会員に推薦されながら任命拒否された6人の1人、朝日新聞に毎月末「論壇時評」を連載している。 『トクヴィル 平等と不平等の理論家』(講談社2007年6月)(第21回サントリー学芸賞)、『民主主義とは何か』(講談社現代新書2020年10月)(第42回石橋湛山賞)、『実験の民主主義-トクヴィルの思想からデジタル、ファンダムへ』(中公新書2023年10月)など、多数の著書・論文がある。 (私はファンダムが分からず、検索する「fandom…趣味・アニメ・漫画・小説・スポーツなどの熱心なファンたち、その世界、彼らによって形成された文化。」)

 宇野重規さんは、2021年に『近代日本思想選 福沢諭吉』(ちくま学芸文庫)というアンソロジーを出している。 「分権論」はもちろん「明治十年丁丑公論」「痩我慢の説」も収録している。 講演要旨は、福沢は『アメリカのデモクラシー』を日本の現実に引き付けて読み解き、トクヴィルの「分権論」を明治日本における地方議会構想に適用したことは、福沢のトクヴィル読解の精髄であり、今なお示唆的である、と。 まず、福沢について、上手いな、勘がいい、思想的なポイントをパッとつかむ、切れ味の良さ、こう語るのかと感心させられるという。

 トクヴィルと福沢は、1805年と1835年の生れ、ほぼ同時代で、ともに25歳の時に、異邦人としてアメリカへ行き、これだ、とアメリカを軸に国を考えるようになった。 トクヴィルは、人類は平等化の方向に向かっている、民主社会に向っている、とした。 福沢が一身にして二生を経ると言ったように、トクヴィルも二つのまったく違う時代を生きた。 トクヴィルは、革命後に貴族の家に生れ、ルイ16世亡き後と嘆く、保守反動の暗い家に育った。

 福沢が『文明論之概略』でギゾーの『ヨーロッパ文明史』を参考にしたが、ギゾーはトクヴィルがソルボンヌ大学で学んだ教授だった。 ギゾーは1830年の7月王政の首相、ブルジュア政治家、評判が悪く1848年二月革命を招いた。 『ヨーロッパ文明史』は、巨視的に、ヨーロッパの発展は多元性(相反する要素の併存、教会と世俗権力)によるとした。 対立や分裂が、ヨーロッパのダイナミズムを生み出し、貴族にも意味がある、と。 自由と中央集権化(絶対王権)。 両者が衝突したのが、英仏の革命(ピューリタン革命とフランス革命)。

  『文明論之概略』、「西洋の文明は、その人間の交際に諸説の並立してようやく相近づき、遂に合して一となり、以てその間に自由の存したるものなり(中略)。顧みて我が日本の有り様を察すれば大いにこれと異なり」 「日本の人間交際は、上古のときより治者流と被治者流との元素に分かれて、権力の偏重を成し、今日に至るまでもその勢いを変じたることなし」。 日本では、自由とダイナミズムを生み出すことはなかったとする。 『文明論之概略』で、福沢はギゾーのスタイルで、日本の信長、秀吉、家康を描いた。