<?xml version="1.0" encoding="utf-8"?>
<rss xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/" xmlns:dcterms="http://purl.org/dc/terms/" version="2.0">
  <channel>
    <title>轟亭の小人閑居日記                        　　　馬場紘二</title>
    <link>http://kbaba.asablo.jp/blog/</link>
    <description/>
    <language>ja</language>
    <generator>mc 0.0</generator>
    <pubDate>Sun, 16 Aug 2026 07:48:44 +0900</pubDate>
    <item>
      <title>吉田茂と『帝室論』〔昔、書いた福沢13〕</title>
      <link>http://kbaba.asablo.jp/blog/2026/08/16/9871195</link>
      <guid>http://kbaba.asablo.jp/blog/2026/08/16/9871195</guid>
      <pubDate>Sun, 16 Aug 2026 07:43:34 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-08-16T07:48:44+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-08-16T07:48:44+09:00</dcterms:created>
      <description>　　　吉田茂と『帝室論』〔昔、書いた福沢13〕＜小人閑居日記　2013.11.28.＞&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　　　　　　          等々力短信　第255号  1982(昭和57)年6月25日&#13;&lt;br&gt;
　　　　 　　　　　　              　　　　　               武見太郎さん&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　武見太郎さんといえば、ケンカ太郎、ゴリ押しの印象だった。　先日、ある会で武見さんの講演を聴いて、著書も読み、考えを改めた。　牧野伸顕伯の長女が吉田茂夫人で、孫が武見夫人である。　吉田、武見両氏とも、マスコミにさんざん叩かれたのも因縁かもしれぬ。　最近、吉田さんはだいぶ名誉を回復したが、武見さんはどうなるだろう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　武見さんは医師会以前の四十代前半に、大きな仕事を残している。　それは吉田茂の政治に重要なかかわりを持ったことだ。　優秀な開業医として、学界、政、財、官界に豊富な患者人脈を持っていた武見さんは、その人脈をフルに活用して吉田さんに協力したのである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　主な一つは銀座（教文館）の武見診療所開設から支援した岩波茂雄につらなる岩波文化人達であり、もう一つは理研を中心とする科学者集団である。　吉田内閣の政策決定、ひいては現在に至る日本の方向づけに、このブレーンの果した役割は、まことに大きい。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　　　　　　          等々力短信　第256号  1982(昭和57)年7月5日&#13;&lt;br&gt;
 　　　　　　      　　　　　                国の存亡をかけた修羅場で&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　武見太郎さんの話や、『戦前戦中戦後』（講談社）、『武見太郎回想録』（日経）といった本の面白さは、国の存亡をかけた修羅場で吉田茂、牧野伸顕といった人物が、どういうやりとりをしたか、そこに立会った臨場感にある。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　総理大臣になることが決った時、「自信がおありですか」とたずねる武見さんに、吉田さんは「戦争で負けて、外交で勝った歴史はある」とキッパリいったそうだ。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　日本を何から復興すべきかということを、武見人脈のブレーン連中が議論して、まず鉄鋼の自主生産からということになった。　しかし、GHQは日本の鉄鋼生産の再開を絶対に許可しない。　行きづまって、次善の策を考えようということになった時、吉田さんは「いちばんむずかしい問題は、私がやります」といって、トルーマン大統領に長電話で談判し、許可を取ってしまった。　これが、後の経済発展の基礎になったのである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　　　　　　          等々力短信　第257号  1982(昭和57)年7月15日&#13;&lt;br&gt;
 　　　　　　            　　　　　       『帝室論』と高橋誠一郎文相&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　吉田内閣の時、天皇陛下から、民主主義の時代に国民と皇室の関係はどうなければならないかというご下問があった。　即答できずに、「本来なら切腹だ」と、真青な顔で官邸に帰ってきた吉田さんに、福沢諭吉の『帝室論』のことを話したのが、武見太郎さんだった。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　早速『帝室論』を読んだ吉田首相が、小泉信三さんに文部大臣を頼もうといい出す。　使いの武見さんに、小泉さんは戦災のけががまだ治っていないからと断わる。　それでは高橋誠一郎さんだということになり、武見さんは「先生、福沢の弟子として、こういう時に福沢の遺志が政府に伝わるのは非常にいいことなので、それをする義務は先生にだってあるでしょう」という殺し文句を使って、高橋さんを官邸に連れ込む。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「帝室は政治社外のものなり」「我帝室は日本人民の精神を収攬するの中心なり」「帝室は独り万年の春にして、人民これを仰げば悠然として和気を催ふす可し」。　今年は『帝室論』百年である。&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>福沢</dc:subject>
      <dc:subject>慶應</dc:subject>
      <dc:subject>等々力短信</dc:subject>
      <dc:subject>文化</dc:subject>
      <dc:subject>政治</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
      <dc:subject>日本</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>牧野伸顕・吉田茂・武見太郎、太平洋戦争の遠因「統帥権の独立」</title>
      <link>http://kbaba.asablo.jp/blog/2026/08/15/9870992</link>
      <guid>http://kbaba.asablo.jp/blog/2026/08/15/9870992</guid>
      <pubDate>Sat, 15 Aug 2026 07:46:02 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-08-15T07:48:51+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-08-15T07:48:51+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;　2007年というと、もう20年近く前になるが、「牧野伸顕・吉田茂・武見太郎」「太平洋戦争の遠因「統帥権の独立」」を書いていたので、再録する。　ここにある「今度の短信」というのは、2007（平成19）年9月25日の「等々力短信」第979号「保阪正康さんの皇室論」で、「そこで保阪さんが展開するのが、雅子妃が理想とすべきは大正天皇妃の貞明皇后だという論である。　貞明皇后は社会の動きや人情の機微にふれ、きわめて鋭敏な歴史感覚を持ち、自らの意思を通す強い性格を持っていた。　大正天皇のご病気がはっきりした大正10年代、その重い責任を自覚して、政治家・原敬、宮廷官僚・牧野伸顕、元老・西園寺公望、東宮大夫・珍田捨己という人物達を、自らの股肱の臣として信頼を寄せ、彼等とともに「大正天皇から摂政宮」という天皇像を確立していった。　実際には「女性天皇」の時代ともいうべき社会空間が出来上がっていた、というのだ。」
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　　　　牧野伸顕・吉田茂・武見太郎＜小人閑居日記　2007.9.27.＞
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　ほとんど麻生太郎さんで決まりといわれていたのを、二日前から知っていたと、ポロッとしゃべったために（クーデター説も影響したか）、福田康夫さんにさらわれてしまった。　政治の世界、一寸先は闇だ。　今度の短信に牧野伸顕が出てきたので、その麻生さんの姻戚関係を整理してみた。(以下、敬称略)
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　牧野伸顕（1861～1949・のぶあき、しんけんの方が通りがいい）は、大久保利通の次男（ウィキペディアだと三男）。　官界に入り、文相、農相、外相、宮内大臣、内大臣を歴任。　伯爵。　政界に隠然たる勢力を持つが、2・26事件では親英米派として襲われる。　吉田茂（1878～1967）は娘（雪子）婿。　吉田茂の娘、和子は麻生太賀吉と結婚、太郎、泰（ゆたか）、雪子、旦子、信子が生まれた。　その太郎が麻生太郎であり、信子は三笠宮寛仁親王に嫁して、彬子女王、瑶子女王がある。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　牧野伸顕と妻・峰子（三島通庸の娘）の間には、雪子のほかに利武子があり、秋月種英に嫁し、その娘・英子が武見太郎（日本医師会会長）と結婚した。　武見太郎の息子が武見敬三議員、娘の和子が麻生泰（株式会社麻生(セメント)社長）に嫁している。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　牧野伸顕、吉田茂、武見太郎の姻戚関係は、戦後、高橋誠一郎教授が「帝室論」を媒介として文部大臣に就任する際に、働くことになる。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　　　　太平洋戦争の遠因「統帥権の独立」＜小人閑居日記　2007.9.28.＞
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　武見太郎さんの『戦前 戦中 戦後』（1982年・講談社）を再読していたら、牧野伸顕が、軍部をのさばらせた原因は、帝国憲法の「統帥権の独立」にあったと常に述懐していた、と書いてあった。　のちに司馬遼太郎さんが太平洋戦争の原因として考えた「統帥権」である。　武見太郎さんは、妻の祖父にあたる牧野伸顕が、日本の勃興から敗戦に至る90年の波瀾の生涯に、とにかく問題の本質をつかまえた元老として、大きな存在であったと思う、という。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　その牧野の述懐というのは、つぎのようなものである。　大久保利通は、最初の日本憲法の草案者であるけれども、彼は統帥権の独立を認めなかった。　陸軍の総帥山県有朋元帥が執拗に統帥権の独立を要求したけれど、大久保利通はこれを拒否して譲らなかった。　そのうちに大久保が凶刃に斃れて、伊藤博文が憲法草案を担当することになり、伊藤が山県に負けてしまって統帥権の独立を許した。　これが後に、軍閥をのさばらせ、第二次世界大戦につながる大きな原因になったのである。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>等々力短信</dc:subject>
      <dc:subject>文化</dc:subject>
      <dc:subject>政治</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
      <dc:subject>日本</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>吉田茂も、ざっと見てみる</title>
      <link>http://kbaba.asablo.jp/blog/2026/08/14/9870843</link>
      <guid>http://kbaba.asablo.jp/blog/2026/08/14/9870843</guid>
      <pubDate>Fri, 14 Aug 2026 08:14:55 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-08-14T08:16:25+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-08-14T08:16:25+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;　吉田茂。（1878（明治11）～1967（昭和42））　『日本歴史大事典』に、袖井林二郎さんが書いていた、それを部分的に引く。　「初期の外務省での経歴は傍流の中国勤務が長い。中国における権益を絶対とする帝国主義者の立場をとり、1928（昭和3）年田中義一内閣の外務次官への売り込みに成功、満州事変以後は帝国主義列強との協調路線に傾き、1936（昭和11）年広田弘毅内閣の外相を望んだが軍部の反対で成らず、同年4月駐英大使に就任。以後は日独防共協定に一貫して反対して軍部の不興を買い、1939（昭和14）年3月退官。日米開戦の勢いが高まると阻止工作に努力。戦中も和平工作を続け、1945（昭和20）年2月には敗戦による共産主義革命を恐れ、早期和平を目指す近衛上奏文の起草に荷担し、軍部により検挙投獄された。このことが吉田に「平和主義者」のお墨付きと戦後を領導する資格を与える。」
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　「戦後初の東久邇宮稔彦（なるひこ）内閣の外相となり、幣原喜重郎内閣でも留任。GHQ（連合国最高司令官司令部）作成の憲法改正案の対処にあたる。吉田は明治以来の日本の近代化路線は正しく、軍部はそれを誤ったとし、軍部のない今は憲法改正は必要ないという立場をとったが、GHQの「象徴」案以外に天皇制を守る方法はないと悟り、新憲法擁護論者となる。1946（昭和21）年4月鳩山一郎追放の後を受けて吉田茂内閣を組閣、首相になると「戦争で負けても外交で勝った例はある」と、政治・外交の焦点をマッカーサー総司令官との直接交渉に定め、75回の会見を行い、130通の往復書簡を交わしている。マッカーサーへの直接の接触が吉田の権力の根元であった。」
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　「官僚出身者を重用し、池田勇人や佐藤栄作ら一連の官僚出身政治家を育て、「吉田学校」と呼ばれた。また米軍の駐留を前提とする日米安全保障条約と連係した講和条約により日本の独立を回復したが、米国への従属体制を固定化させることになった。米側の再軍備化要求を世論を背景に値切り続け、朝鮮戦争の勃発に助けられて、のちの経済成長の路線を敷いた。1954（昭和29）年12月第5次吉田茂内閣総辞職、1963（昭和38）年引退。死没後、佐藤内閣は戦後初の「国葬」で送った。」
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>政治</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>牧野伸顕を、ざっと見てみる</title>
      <link>http://kbaba.asablo.jp/blog/2026/08/13/9870683</link>
      <guid>http://kbaba.asablo.jp/blog/2026/08/13/9870683</guid>
      <pubDate>Thu, 13 Aug 2026 07:12:39 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-08-13T07:14:16+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-08-13T07:14:16+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;　私などは、元老、マキノシンケンと覚えていた牧野伸顕を、ざっと見てみる。　（1861（文久元）～1949（昭和24））　明治から昭和にかけての政治家、外交官。　伯爵。　大久保利通の次男として鹿児島に生れ遠縁の牧野家に入る。　1871（明治4）年父とともに岩倉遣外使節団に同行、アメリカに留学。　1874（明治7）年帰国して東京開成学校に入る。　1880（明治13）年外務省に入りロンドン公使館勤務を経て1883（明治16）年帰国。　以後太政官に移り、制度取調局、参事院、法制局を経て、第1次黒田清隆内閣総理大臣秘書官に就任。　その後内閣官報局長、福井・茨城県知事を歴任して、1894（明治27）年井上毅文部大臣の下で文部次官。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;1897（明治30）年外交官に復帰してイタリア大使、オーストリア大使に就任。　1906（明治39）年第1次西園寺公望内閣に文部大臣として入閣、義務教育年限延長に尽力した。　その後枢密顧問官、農商務大臣（第2次西園寺内閣）、外務大臣（第1次山本権兵衛内閣）を歴任し、1919（大正8）年パリ講和会議全権となる。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ついで1921（大正10）年宮内大臣に就任、1925（大正14）年には内大臣に転じ、国際協調主義と立憲政治擁護の立場で摂政裕仁親王を輔佐した。　一貫して親英米派であったが、かえって青年将校から「君側の奸」と目され、二・二六事件などでは襲撃の対象となった。　第二次大戦後に首相となった吉田茂は娘雪子の夫。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>福沢</dc:subject>
      <dc:subject>政治</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>川越宗一著『絢爛の法』書評「〝満腔の熱血〟井上毅ここにあり」</title>
      <link>http://kbaba.asablo.jp/blog/2026/08/12/9870503</link>
      <guid>http://kbaba.asablo.jp/blog/2026/08/12/9870503</guid>
      <pubDate>Wed, 12 Aug 2026 07:17:53 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-08-12T07:19:49+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-08-12T07:19:49+09:00</dcterms:created>
      <description>　7月27日から30日まで、下記を書いた井上毅（こわし）だが、その評伝小説のあることを、3月28日の朝日新聞読書欄の書評で知った。&#13;&lt;br&gt;
皇室典範改正問題と井上毅（こわし）＜小人閑居日記　2026.7.27.＞&#13;&lt;br&gt;
『福澤諭吉事典』の井上毅（こわし）＜小人閑居日記　2026.7.28.＞&#13;&lt;br&gt;
「「明治十四年の政変」と井上毅」その発端＜小人閑居日記　2026.7.29.＞&#13;&lt;br&gt;
井上毅の「人心教導意見案」＜小人閑居日記　2026.7.30.＞&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　その本は、川越宗一著『絢爛の法』（新潮社）で、「〝満腔の熱血〟井上毅ここにあり」という評者は書評家の吉田伸子さんである。　井上毅の毅を「こわし」と読むことも、大日本帝国憲法を起草した主要人物だったことも、知らなかったほど歴史に昏（くら）いという吉田さんだが、没入して読んでしまう熱量が、この本にはあるという。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「江戸末期、陪々臣（下級武士）の三男に生れた井上毅は、肺病を病むほどまで身を削って学問を修め、大久保利通や伊藤博文に見いだされた。」&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「明治28年、51歳で没した際には「満腔の熱血を灌（そそ）ぎて国家の為めに竭（つく）せし」「洵（まこと）に痛惜すべし」と当時の新聞で称賛を惜しまれなかった毅だったが、牧野伸顕（のぶあき）はこう振り返る。「（井上は）宴会ではいつもひとりぼっちで、挨拶もろくにできず、愛想もなく」「はっきり言えば、手放しで称賛されるような為人（ひととなり）ではない」。だが、「井上毅はたしかに熱血漢だった」「熱血はひたすら仕事に注がれていた」、と。」&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「その人生のほとんどを「法」に捧げた毅の生き様が、明治の要人とのかかわりとともに描かれていく。下野した西郷隆盛が起（た）った時、「キチノスケサァ」「俺（おい）ニ、オハンヲ討テチ言（ゆ）カ」と嘆いた大久保利通。毅の「ネッキタイ」を締め上げながら「無辜（むこ）の人間を短慮で殺（あや）めた俺は、たぶん碌な死にかたはせん。だからせめて、死ぬまではまっとうでいたいと思っている」と詰め寄った伊藤博文。」&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「教科書で得た知識でしかなかった彼らが、物語の中で血肉を得、生身の人間として泣き、怒る。曲者だらけの男たち、彼らの血は、日本という国造りのために流された。」&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「600ページを超える長大な物語だが、白眉は、敗戦後の日本国憲法施行の当日であり、序章に呼応する終章だ。牧野は思い起こす。「不磨の憲法など作っていない」と言う毅に、では、何を作ったのか牧野は問う。その答えが、胸の奥に突き刺さる。「呪われるべき憲法を、そうとも知らず、幸あれと願いながら産んだ人々」を思い牧野が流す涙は、私の頬をも濡らした。」&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>福沢</dc:subject>
      <dc:subject>文芸</dc:subject>
      <dc:subject>政治</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
      <dc:subject>日本</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>大正期、職業としての看護婦へ、「看護婦さん」と「看護師」</title>
      <link>http://kbaba.asablo.jp/blog/2026/08/11/9870357</link>
      <guid>http://kbaba.asablo.jp/blog/2026/08/11/9870357</guid>
      <pubDate>Tue, 11 Aug 2026 08:17:57 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-08-11T08:19:34+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-08-11T08:19:34+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;　田中ひかる著『明治のナイチンゲール 大関和（ちか）物語』（中公文庫）で、大関和と鈴木雅を見てきた。　そのエピローグのあたりを、読む。　大正時代には、看護婦は女性の職業として定着する。　桜井看護学校や慈恵看護婦教育所などが設立された明治20年代から明治末まで、20年かかって1万3千人に達した看護婦は、大正の15年間で、3倍以上の5万1千人に達した。　和や雅に代表される初期のトレインド・ナースと、大正時代に一般化した看護婦の違いについて、村上信彦は『大正期の職業婦人』（ドメス出版、1983年）で、こう説いている。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　「明治期の看護婦はそのほとんどが明確な目的意識をもち、キリスト教的な人道主義や日露戦争における赤十字活動に感動して国家社会のために献身したいという気持ち、あるいは親兄弟の病死に刺戟されて看護を生涯の目的とするような使命感が色濃かった。自ら選びとった生き甲斐のようなものである。したがって持続性も強く、生涯その仕事に従事するものが少なくなかった。これが大正になると、数ある女の職業の一つとして意識され、そのなかでも比較的有利な仕事として選択されるようになる。つまり天職意識から生活手段としての職業への転換である。」
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　看護婦という職業が、短期間のうちに一般化したことがわかる。　派出看護婦会は、大正末から昭和にかけての1920年代に全盛期を迎える。　しかしその後、大病院への派出は、患者の身のまわりの世話をする「派出婦」に取って代わられ、看護婦と言えば派出看護婦を指す時代は、徐々に終りに向かう。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　大正4（1915）年に内務省が出した「看護婦規則」によって「看護婦」が正式名称となり、その後長い間、「看護婦さん」という呼び方が親しみを込めて使われていた。　昭和43（1968）年に男性も看護職に就けるようになると、女性は「看護婦」、男性は「看護士」と区別され、平成13（2001）年に改正された「保健師助産師看護師法」によって、「看護師」に統一された。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　現在、全国で約170万人の看護師が働いている。　コロナ禍において、その過酷な労働環境や、それに見合わない待遇が問題視され、政府はわずかな賃上げを決定した。　高度な知識や技能が必要とされる専門職でありながら、なぜ看護師の賃金は低く据え置かれるのか。　突き詰めれば、女性が多い職業だからということになろうが、トレインド・ナースが誕生したとき、彼女たちが「献身」や「慈善」「無償」を是としたことも関係していよう。　しかし、多くの患者が、特に入院や手術といった深刻な場面で、看護師たちの献身や無償の優しさに救われていることもまた事実なのだ。　と、田中ひかるさんは書いている。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>等々力短信</dc:subject>
      <dc:subject>文芸</dc:subject>
      <dc:subject>文化</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
      <dc:subject>テレビ</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>大関和の「精神性」重視と、鈴木雅の「技能、経済的自立」重視</title>
      <link>http://kbaba.asablo.jp/blog/2026/08/10/9870168</link>
      <guid>http://kbaba.asablo.jp/blog/2026/08/10/9870168</guid>
      <pubDate>Mon, 10 Aug 2026 07:23:34 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-08-10T07:24:58+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-08-10T07:24:58+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;　明治33（1900）年7月1日、東京府が、看護婦の条件や資格試験の内容について定めた「看護婦規則（府令第71号）」を公布、3か月後に実施される。　和が4年前、後藤新平に直訴したもので、内務省の意向を受けた東京府が、全国に先がけて発布した。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　看護婦の条件は「年齢満20歳以上の女子にして当庁の看護婦試験に及第したるもの」と定められ、すでに2年以上看護婦を務めているものは試験不要とした。　東京府の公式の調査では、府内に58の派出看護婦会が存在し、会員は908人と報告されている。　このうち、無試験で免状を公布されたものは577名だった。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　鈴木雅の東京看護婦会は、講習所で看護婦を養成しながら、順調に規模を拡大していたが、抱える看護婦の人数が増えるにつれ、不協和音が聞こえるようになってきた。　それは和が掲げる、技能を大前提としながら、「精神性」を重視する看護を支持する者たちと、あくまで技能を重視する者たちの対立で、端的に「大関派」と「反大関派」と呼ばれた。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　和の重視した精神性とは、「看護は慈善の大事業でありますから、不幸なる同胞兄弟姉妹のために、献身犠牲その任に当るの覚悟を致さねばなりません」「看護婦は人命保護の大任を負うものでありますから、軽率ではいけません。温和優美にして忍耐強く正直でなければなりません」「実に人命の重き事は、地球が重きが如く貴重なるものでありますから、その人命を預り霊肉共に看病する看護婦の責任のいかに重きかを顧みてその本分を全うせねばなりません」（『実地看護法』）といったもので、ひと言で言えば、全身全霊の看護を目指すものだった。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　一方、鈴木雅は、「和さんの原点は献身ですよね。言い換えると自己犠牲です。看護婦たちが無意識のうちに過重労働や無償奉仕をしてしまうのは、その犠牲的精神のせいですよ」という。　和は、「そういう雅さんも、慈善看護という無償奉仕に力を入れてきたではありませんか」。　「それは貧しい人たちに対してのみです。原則、看護婦は技術によって報酬を得るべきです。当たり前のように自己犠牲を求められるのでは、負担が大きすぎますし、いつまでたっても地位が向上しません」。　「自己犠牲はそんなに悪いことですか。ナイチンゲールは、『犠牲を払っているなどとは決して考えない、熱心な、明るい、活発な女性こそ、本当の看護婦と言えるのです』と書いています」。　「ナイチンゲールは『犠牲なき献身こそ真の奉仕である』とも書いています」。　看護婦のあり方についての議論になると、二人はいつも平行線をたどるのであった。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　雅が技能を重視した合理主義的な看護にこだわるのは、それが看護婦の経済的自立を図る上で不可欠だと考えているからであった。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>等々力短信</dc:subject>
      <dc:subject>文芸</dc:subject>
      <dc:subject>文化</dc:subject>
      <dc:subject>政治</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
      <dc:subject>テレビ</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>大関和は、東京看護婦会で、鈴木雅の片腕となり活躍</title>
      <link>http://kbaba.asablo.jp/blog/2026/08/09/9869984</link>
      <guid>http://kbaba.asablo.jp/blog/2026/08/09/9869984</guid>
      <pubDate>Sun, 09 Aug 2026 07:47:40 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-08-09T07:49:59+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-08-09T07:49:59+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;　明治29（1896）年夏、大関和は、瀬尾原始をはじめ知命堂病院の仲間たちに送られ、5年半を暮らした新潟県の高田を後にした。　大所帯となり、神田猿楽町から神田錦町へ移った東京看護婦会で、鈴木雅の片腕として多忙な日々を送ることになる。　雅の設立した「慈善看護婦会」は、かつて無償の看護で経営が行き詰まり、有償のみとしたため、雅は忸怩たる思いで「慈善」の文字を外していたのだった。　和が、最初に担当した患者は、元土佐藩士で、藩主山内容堂に大政奉還を説いた後藤象二郎だった。　維新後は国務大臣を歴任した象二郎は、この頃心臓病を患っており、翌年他界する。　彼は、和の当意即妙の受け答えが気に入り、病床での会話を楽しんだ。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　このあと和は、政府高官や華族の家々から派出看護を指名されることになる。　元家老の娘という出自が気に入られた面もあろうが、相手が誰であっても臆することなく、患者のために必要なことを遣り遂げる点が、患者やその家族の信頼を得、口伝てで評判が広がったのである。　和が名立たる家々で期待以上の成果を上げたことで、東京看護婦会の収益が増え、再び慈善看護を行えるようになった。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　さらに、高田時代に赤痢の防疫で名を馳せた和のもとには、全国の自治体や病院から、防疫の協力要請が相次いだ。　帰京した明治29年から翌30年にかけて、各地で赤痢の集団感染が発生すると、和は東京看護婦会の看護婦たちを率いて、対策に向かっている。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　5年前、雅が「慈善看護婦会」を設立した頃は、ほかになかった派出看護婦会も次第に数を増してきて、日清戦争を境に一気に急増し、看護婦全体の8割を派出看護婦が占めるまでになっていた。　戦後の伝染病の蔓延によって看護婦の需要が増えたことに加えて、看護婦の資格や派出看護婦会の基準についての定めがないことが、急増に拍車をかけていた。　まったく素人が経営したり、髪結いや下宿屋、商店等による兼業が、東京市内だけで100以上もあると、新聞が伝えた。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　トレインド・ナースとして誇りを持って働いている和にとって、それは耐えがたい状況だった。　和は、内務省衛生局長の後藤新平に会いに行く。　後藤は、今年の夏も方々で防疫で活躍した和の評判を耳にしていた。　和の一つ年上で、陸奥国水沢藩士の家に生まれ、須賀川医学校に学んだ後藤の語調は、和の故郷黒羽の言葉に似たところがあり、親しみを覚える。　和は後藤に、看護婦の技能を一定の水準に保つためにも、医師と同じように資格制にするなど対策が必要で、あまりにも低劣な派出看護婦に対しては、取り締まりも必要だと、訴える。　後藤は、今すぐとはいかないけれど、準備が整い次第、取り掛かると、約束した。　この約束が果たされるのは、4年後のことである。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　結局、和と雅は、自分たちでできることから始めようと、隣に一軒、家を借り、「東京看護婦会講習所」として、看護婦を養成することにした。 　さらに二人は、ここに所属している看護婦なら信頼できると、世間が認める、看護婦の団体を創立することにした。　名前は「大日本看護婦人矯風会」とし、和が会長を務めることになった。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>等々力短信</dc:subject>
      <dc:subject>文芸</dc:subject>
      <dc:subject>文化</dc:subject>
      <dc:subject>政治</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
      <dc:subject>テレビ</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>日清戦争で看護婦（トレインド・ナース）への認識が変わる</title>
      <link>http://kbaba.asablo.jp/blog/2026/08/08/9869794</link>
      <guid>http://kbaba.asablo.jp/blog/2026/08/08/9869794</guid>
      <pubDate>Sat, 08 Aug 2026 07:24:32 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-08-08T07:26:21+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-08-08T07:26:21+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;　明治26（1893）年、知命堂病院は往診料を減額すると同時に、貧困者への無償診療を始め、翌明治27（1894）年4月には、新潟県で初の看護婦および産婆の養成所である「知命堂病院附属産婆看護婦養成所」を開く。　養成所の教員も務めるようになった和は、在任中に200人弱の看護婦を育てることになる。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　明治27（1894）年8月、日清戦争が始まる。　日本赤十字社は広島、松山、名古屋など各地の陸軍予備病院に看護婦を派遣した。　日本赤十字社は明治10（1877）年の西南戦争の際に設立された「博愛社」という救護団体が前身で、日本政府のジュネーブ条約（赤十字条約）加入翌年の明治20（1887）年、博愛社は日本赤十字社に改称。　日赤は、日清戦争における救護が、最初の本格的活動だった。　新島襄亡きあと、日赤の正社員になっていた妻の八重（大河ドラマ『八重の桜』、戊辰戦争の会津鶴ヶ城籠城戦で戦った山本八重）は、日赤の篤志看護婦として広島陸軍予備病院に赴任していた。　彼女は看護婦たちに、「敵なればとて、傷を受くる者、仁愛の心をもって助けよ」という陸軍大将大山巌の訓示を伝えている。　同病院へは、日清両国の傷病兵が連日100人以上運び込まれ、看護婦たちが不眠不休の看護を行った。　4人の看護婦が伝染病で殉職している。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　新島八重や、皇族の小松宮妃頼子といった上流階級の女性たちが篤志看護婦として活動したことにより、看護婦に対する賤業視が一気に払拭される。　そして、看護婦といえば、従来の「看病婦」ではなく、トレインド・ナースを意味するようになり、一転して憧れの職業となった。　また、戦場から持ち込まれた伝染病が国内で蔓延したことから、看護婦の需要が高まり、全国で次々と派出看護婦会が設立された。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>文芸</dc:subject>
      <dc:subject>文化</dc:subject>
      <dc:subject>科学</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
      <dc:subject>日本</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>近くの山村で、赤痢の集団感染が発生、和は避病院を改良</title>
      <link>http://kbaba.asablo.jp/blog/2026/08/07/9869633</link>
      <guid>http://kbaba.asablo.jp/blog/2026/08/07/9869633</guid>
      <pubDate>Fri, 07 Aug 2026 07:24:41 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-08-07T07:26:32+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-08-07T07:26:32+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;　高田の知命堂病院は順調にすべり出し、地元はもちろん、遠方からも患者が訪れるようになった。　夏になって、高田から数里離れた山村で、赤痢の集団感染が発生し、県から病院に、防疫に協力してほしいという要請が来た。　すでに村の近くに避病院が建てられ、四日前に隣村の医師によって隔離が行われたが、その後も患者が増え続け、手に負えないという。　院長の瀬尾原始は、内科医の篠田栄吉と和を呼び、翌日の早朝から村へ行くよう指示した。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　早速、和は出勤していた8人の看護婦たちを集め、感染の恐れもある危険な任務であると説いた上で、同行者を募ったところ、意外にも全員が志願してくれた。　和は、農村出身の二人の若い看護婦を選び、看護学校時代にまとめた「消毒法」「汚物扱方」「屍体扱方」のノートを手渡し、読んでおいてもらうことにした。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　翌早朝、県の用意した馬車の荷台に、いくつもの桶と鋤（すき）、ありったけの雑巾と清潔な手拭、消毒に使う石炭酸、開院時に原始に頼んだ購入してもらった琺瑯製の差し込み便器、その他の看護道具、入院患者用の米を一俵積み込んで、篠田栄吉と和、サヨと清は村へ向かった。　村の入り口で、巡査と役場の助役、用具を携えた二人の消毒係と合流した。　ひっそりとした村だが、石礫（つぶて）が飛んできた。　避病院に連れて行かれたくなくて、隠れているのだ。　手前の家は、心張り棒をかっている。　和は、努めて明るく、「知命堂病院から参りました、医師と看護婦です。診察をさせていただけないでしょうか。米も持って参りました」と声をかける。　引き戸が開き、垢じみ疲れ果てた中年の夫婦が現れ、「助けてくれ。何か食いものを」と夫が泣き出し、妻も中を指さし「子供が死にそうだ」と泣く。三人の子供が横になっていた。　栄吉が診察し、小さく、しかし決然と「避病院へ」と言った。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　いつの間にか、村の男たちが集まっていた。　和が、二人を連れて避病院へ行ってもよいかと聞くと、栄吉は「診断は俺一人で出来る、避病院をどうにかしない限り、この状況はどうにもならん。頼むよ」と言う。　和は、体力のある男たちに「鍬や鋤を持って一緒に避病院へ行ってもらえないか、女たちには患者の出ていない家の台所でお粥を作って運んでくれないか」と頼む。　鍬や鋤は墓穴を掘らせるためかと、血相を変えてにじり寄る聞く男たちに、和は「違います！　避病院の外に厠をつくるのです。衛生的な厠を作ることで、あらたな病人を出さずに済むのです」。　子供が避病院にいる、女たち、男たちから始まり、協力する者が出てくる。　和は、男たちに周辺の排泄物を集め、穴を掘って埋めるように頼んだ。　その後、避病院の周りを歩き、村と反対側で、かつ避病院の風下に、よい場所を見つけ、穴をできるだけたくさん掘り、掘り出した土はそのまま脇に置いておくように指示した。　患者は穴にまたがって用を足し、直ちに土で埋めるのだ。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　和は、サヨと清をともない、見るからに急ごしらえの粗末な避病院へ足を踏み入れた。　ものすごい臭気の二十畳ほどの小屋に、布団が敷きつめられ、患者が横になっていた。　八割が子供で、中には絶命している者もいた。　医師も看護婦もいない。　和は、「さあ、一刻も早く、ここを居心地のよい場所に変えましょう」と、まずは掃除と換気に取り掛かる。　鋤で汚物を取り除くと、床を水拭きし、石炭酸を薄めた水で消毒する。　目を閉じたままだった子供たちが、きびきびと働く看護婦たちの姿を追う。　和が「今、村でおいしいお粥を作っていますからね」と言うと、見捨てられたと思っていた子供たちの目に光が宿る。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　栄吉が三人きょうだいを含む七人の患者を大八車で運んできた。　和は、「衛生状態はかなりよくなりましたが、布団の交換が必要です。もう一棟小屋を建て、重症患者と軽症患者を分けたほうがいいと思います。そして軽症患者用の小屋に台所を作り、食事を定期的に与えるべきです。そうすれば、回復する患者が増えるはずです。」　「わかった。瀬尾先生に頼んで、県に掛け合ってもらうよ。」
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　和の意見をもとに改良が進められた村の避病院は、入院後の死者数が激減。　衛生環境を整えることの重要性を世間に知らしめた。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>文芸</dc:subject>
      <dc:subject>文化</dc:subject>
      <dc:subject>科学</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>鈴木雅、アメリカへ渡らず、「慈善看護婦会」を設立</title>
      <link>http://kbaba.asablo.jp/blog/2026/08/06/9869474</link>
      <guid>http://kbaba.asablo.jp/blog/2026/08/06/9869474</guid>
      <pubDate>Thu, 06 Aug 2026 07:18:23 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-08-06T07:19:35+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-08-06T07:19:35+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;　明治24（1891）年11月29日、新設された知命堂病院で開院式が行なわれ、和も挨拶した。　開院の広告には、院長瀬尾原始以下、内科、外科、産婦人科、眼科の錚々たる医師たちとともに、看護婦長の和も紹介されている。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　年末、和は帰京する。　一年と少しの間見ないうちに、14歳になった六郎は、和の身長を追い越していた。　心は、あらたまった調子で、「お母様、心も将来、看護婦になりたいのです」と言った。　『女学雑誌』で、和のことを「まるでナイチンゲールのようだ」と書いた記事を読み、学校の図書室でカルクスの『フローレンス・ナイチンゲール』という本を読んだのだという。　図書室には、和や雅たちが翻訳した『Notes on Nursing』もあるそうだ。　桜井看護学校を勧めたいところだが、和たちの卒業と同時に閉鎖されたので、慈恵看護婦養成所への入学を勧めた。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　母の哲は、和はアメリカにいるとばかり思っていた雅が10日ほど前に来て、先月、本郷森川町に「慈善看護婦会」という派出看護婦会を設立したと、話したという。　マリアに同行してアメリカへ渡るため、乗船の前日、横浜駅に降り立った雅は、駅前で人力車に撥ねられ、脳震盪を起して倒れ込んだ。　俥に乗っていたのは、外国人居留地で診療所を開いていたアメリカ人医師のウィリアム・ブレイズだった。　彼が介抱すると、雅はすぐに意識を戻した。　ブレイズが急いでいたのは、貧民窟で天然痘が発生したためだった。　雅は流暢な英語で、「私はトレインド・ナースです。種痘も済ませているので手伝わせて下さい」と話し、ブレイズは承知する。　ブレイズと雅は、まず患者の隔離に取り掛かり、空き家に隔離所をつくった。　ブレイズの要請で大病院の医師と看護婦らが痘苗を運んで来てくれ、まずは感染が疑われる住民から接種していく。　雅は、この修羅場を放り出してアメリカに発てないと考えた。　マリア・トゥルーへの連絡がうまくいかず、雅は行方不明とされてしまったのである。　結局、雅は二週間貧民窟にとどまり、患者の看護と種痘に明け暮れたが、感染拡大を抑えることはできなかった。　この時の天然痘発生により種痘を受けた横浜市民は1万1601人。　年末までに患者436人、死者117人を数えた。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　母の話を聞いた和は、翌日「慈善看護婦会」へ行き、雅に会う。　雅は、まだ派出の依頼がほとんどなくて、チラシと手拭を配って挨拶まわりしている状態と言いつつも、「第一医院のような大きな病院で働く看護婦も必要ですが、私は、看護婦が主体的に働ける職場を作りたかったのです。ここの看護婦たちは、病院にかかることのできない患者さんのところへ出向き、必要とあらば、医師へとつなぎます。でも、立ち位置はあくまで患者さんの側です」と言い、和は大きくうなずく。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>文芸</dc:subject>
      <dc:subject>文化</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>高田の廃娼運動、相馬愛蔵、木下尚江、そして瀬尾原始</title>
      <link>http://kbaba.asablo.jp/blog/2026/08/05/9869298</link>
      <guid>http://kbaba.asablo.jp/blog/2026/08/05/9869298</guid>
      <pubDate>Wed, 05 Aug 2026 08:17:40 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-08-05T08:20:12+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-08-05T08:20:12+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;　明治24（1891）年2月、高田の教会で「廃娼演説会」が開かれた。　集まった数百人の聴衆のほとんどが、若い男性のクリスチャンだった。　和は、高田女学校の学生を8人連れて行った。　演説の途中、「存娼会」に雇われた暴徒たちが乱入する騒ぎがあったが、すぐに若い聴衆たちが力ずくで外に追い出した。　すべての弁士が演説を終った後、大森隆碩と打合せしていた和は、女学生たちと登壇、オルガンを弾いて、讃美歌「さあ、共に生きよう」を合唱した。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　この日の顛末を報告した校長の栗原トヨ子から、厳重注意を受けたが、廃娼運動に関わること自体はクリスチャンとして正しい行いであると認めてくれ、学生たちが慈善音楽会を開き、募金で廃娼運動を支援することを勧められた。　ひと月後、和が一人で「廃娼演説会」に足を運ぶと、驚いたことに、一割ほどが女性の聴衆だった。　讃美歌の合唱の評判を知り、自分たちも歌うことで運動に貢献したいと考えた町の女性たちであった。　彼女たちは自作の「廃娼唱歌」を披露し、以後の演説会では、参加者全員が「廃娼唱歌」を高らかに歌い上げてから閉会することが慣例となる。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　高田へ赴任して5か月が経った4月のある日、第一医院に入院中世話した相馬愛蔵（後に、新宿中村屋を創業する）が訪ねてきた。　和の影響があったか、その後、愛蔵は廃娼運動や貧民救済活動に身を投じる。　愛蔵の友人、木下尚江（なおえ）も、和に会いに来た。　明治から昭和にかけて社会運動家として活躍する木下尚江は、愛蔵と同じ松本中学の出身で、東京専門学校（後の早稲田大学）の先輩でもあった。　卒業後は、松本で地元紙の記者をし、この頃は弁護士になる勉強をしながら、廃娼運動に関わっていた。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　同じ頃、鈴木雅は、マリア・トゥルーが看護学校再開の資金を募るためアメリカへ行くのに同行して、渡米するため、乗船の前日、横浜駅に降り立ったのだが…。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　和は、高田の町で偶然、第一医院でともに働いた医師の瀬尾（せお）原始に会う。　引退した父の跡を継いで、全国から一流の医師たちを集めて、近く洋館の「知命堂病院」を開業するので、看護婦長になってくれないか、いずれ看護婦養成所も作りたい、と言う。　高田女学校の校長、栗原トヨ子は、拍子抜けするほど、あっさり退職を認めてくれた。　マリアが舎監の仕事を斡旋した時点で、和が急な転職をする可能性を伝えてくれていたのだ。　マリアは和の後継者をすみやかに決め、派遣してくれた。　和の看護婦としての能力を誰よりも高く買ってくれていたのが、マリアだった。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　和が一つ気がかりなのは、子供たちのことだった。　雅の手紙によれば、真面目かつ天真爛漫な性格の心には、女子学院の厳しい学習指導と自由な校風がとても合っているようだ。　成績もよく、友達も多いらしい。　14歳になった六郎の将来の夢は医師になることで、第一高等中学校を目ざして勉強しているという。　子供たちにとっては、このまま東京で学ぶことが、最善に違いない。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>文芸</dc:subject>
      <dc:subject>文化</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>和、建議書の件で第一医院を辞め、高田女学校の舎監に</title>
      <link>http://kbaba.asablo.jp/blog/2026/08/04/9869130</link>
      <guid>http://kbaba.asablo.jp/blog/2026/08/04/9869130</guid>
      <pubDate>Tue, 04 Aug 2026 07:25:32 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-08-04T08:19:25+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-08-04T07:26:53+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;　「看病婦取締」となって一年が経つ頃には、医療界で大関和の名前を知らぬ者はいないというほど、その奮闘は知れ渡り、有力者の手術の際に声がかかるようになる。　若い医師たちの中には、和に好意を寄せる者もいたが、和はあまりに無頓着で、プライドを傷つけられたと感じる医師もいた。　第一医院では、大勢の看病婦が働いていたが、仕事の絶対量が多いため、休憩時間の確保や交替がうまくいっていなかった。　看護講習を受けながら働く、真面目な看病婦ほど、疲れがたまり、その一人が病棟の廊下で倒れた。　和は、外科の責任者の教授に、看護教育の充実と看病婦の待遇改善の建議書を提出した。　和の頭にあったのは、ナイチンゲールの「進歩のない組織で持ちこたえたものはない」という言葉だった。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　ところが、医局の頭越しに行われたこの建議を医師たちは許さなかった。　和は、「看病婦取締」を解任され、頭を下げれば一看護婦として働き続けることができたのかもしれないが、和は第一医院を去ることにした。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　鈴木雅は、失業した和に職を斡旋してもらおうと、マリア・トゥルーを訪ねた。　ちょうどこの頃、桜井女学校は新栄女学校と合併して、「女子学院」となり、番町に新校舎を設立、矢嶋楫子が初代院長となっていた。　同校の系列校として、新潟県の高田と栃木県の宇都宮に、新たに女学校が開設されたと聞き、おそらく人手が必要に違いないと、踏んだのである。　高田の女学校の舎監、単身赴任の仕事があった。　また子供たちと離れて暮らすことになるが…。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　明治23（1890）年11月、大関和は、高田女学校の舎監として赴任する。　高田女学校は、大森隆碩（りゅうせき）ら教育熱心な地元の名士たちが、マリア・トゥルーに協力を要請し、設立した学校である。　高田藩医の長男の隆碩は、15歳から江戸に出て、医学を学び、帰郷して眼科を開業、維新後は、横浜に出て宣教師（おそらくヘボン（馬場註））たちに学び、この間にマリアの知遇を得た。　高田女学校と同時に、私立高田訓朦（くんもう）学校も設立している。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　和は、舎監として、寄宿舎で約30人の女学生と生活を共にすることになる。　一つだけ慣れないのは、冬の寒さであった。　年末、寄宿生たちの大半は、自宅に帰った。　赴任したばかりで帰京しなかった和が、大森隆碩を訪ねると、廃娼運動の話になった。　教育者でクリスチャンの隆碩は、廃娼運動の主導的な立場にあり、2月に「廃娼演説会」を開く予定なので、「矢嶋先生のご薫陶を受けられた大関さんにご参加いただけたら、皆の士気も上がります。ぜひご登壇ください」と言われる。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>等々力短信</dc:subject>
      <dc:subject>文芸</dc:subject>
      <dc:subject>文化</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>トレインド・ナースの誕生、医科大学附属第一医院</title>
      <link>http://kbaba.asablo.jp/blog/2026/08/03/9868956</link>
      <guid>http://kbaba.asablo.jp/blog/2026/08/03/9868956</guid>
      <pubDate>Mon, 03 Aug 2026 07:18:15 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-08-03T07:19:57+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-08-03T07:19:57+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;　明治20（1887）年秋、桜井看護学校に、ナイチンゲール方式の看護教育を行うべくアグネス・ヴェッチが赴任する。　すでに慈恵看護婦教育所はメアリー・リードを、京都看護婦学校はリンダ・リチャーズをそれぞれアメリカから招き、ナイチンゲール方式の看護教育を始めていた。　同時期、これまで大勢の「看病婦」を使っていた帝国大学医科大学附属第一医院（現東京大学医学部附属病院。以下第一医院）が、トレインド・ナースを養成することを決定、アグネスが桜井看護学校に勤務するため来日したことを知ると、看護教師として招聘したため、彼女は桜井看護学校と第一医院の教師を兼ねることになった。　すかさず、マリア・トゥルーが第一医院に交渉し、実習病院を持っていない桜井看護学校の学生たちも、同院の看護学生らとともに、実習をさせてもらえることになった。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;後年、植村正久の三女環（たまき、朝ドラでは一ノ瀬りんの娘の名にしている）は「大関ちか女史は傑出した婦人であったが、よく泣かれた。繁々来られては堰を切って落とされる。すると大関さんを愛敬していた父は慰めるのか揶揄（から）かうのか分からぬ調子で『あなたはナイチンゲールなんでしょう。それじゃ宛然（えんぜん）『泣キチン蛙』ではないか』などといっていた」（『植村正久と其の時代』第二巻）
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　明治21（1888）年10月26日、桜井看護学校の6人は、第一医院の看護学生22人とともに一年間の実習過程を終え、修了試験にも合格することができた。　同年2月には慈恵看護婦教育所が、6月には京都看護婦学校が最初の卒業生を出していることから、この年は日本におけるトレインド・ナース誕生の年といえる。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　第一医院で、英語が堪能でアグネスの授業で通訳を務めた雅は内科の「看病婦取締」、和は外科の「看病婦取締」として働くことになった。　「看病婦取締」は「看護婦取締」「看護婦長」と同義で、今日の「看護師長」にあたる。　雅は、小石川の傳通院近くに家を借り、静岡の子供たちを呼び寄せ、同居を始める。　和も、第一医院にほど近い千駄木に家を借り、母と子供たちと四人で暮らすことにした。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>等々力短信</dc:subject>
      <dc:subject>文芸</dc:subject>
      <dc:subject>文化</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
      <dc:subject>テレビ</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>大関和が桜井看護学校に入学した事情</title>
      <link>http://kbaba.asablo.jp/blog/2026/08/02/9868750</link>
      <guid>http://kbaba.asablo.jp/blog/2026/08/02/9868750</guid>
      <pubDate>Sun, 02 Aug 2026 08:08:35 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-08-02T08:09:55+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-08-02T08:09:55+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;　一方、大関和（ちか）が桜井看護学校に入学した事情も振り返っておきたい。　鹿鳴館勤めも三年目に入ったある日、教会で礼拝が終った後、植村正久牧師が和に、「大関さん、あなた看護婦になりませんか」と言った。　「看護婦」と聞いて、和が思い出したのは、鄭家で永寧、永慶父子と交わした会話である。　永寧は、看護婦は従来の「看病婦」と大差ないと言い、永慶は「専門的な訓練を受けたトレインド・ナースだ」と言った。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;植村正久は、この教会の経営に協力してくれている宣教師のマリア・トゥルーが、アメリカの伝道協会から資金を得て、自身の経営する桜井女学校に付属の看護学校を作ろうとしている。　教師は外国から招く予定で、和ならその英語の授業にもついていける、一期生として入学してみないか、というのだった。　もともと、この計画は、以前横浜で伝道していたリディア・バラ宣教師が、貧民救済の活動をしている内に、看護婦の必要性を痛感し、看護学校を作るための寄付を募るためにアメリカに渡ったのだが、病に倒れてしまった。　それを知った宣教師仲間のマリア・トゥルーが、計画を引き継いだのだ。　卒業後、看護婦として働くことを約束すれば、学費は免除されるという。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　一週間後、和は横浜でマリアたちが貧民救済活動をしている現場へ行った。　パンを配ったあと、パンだけでは不十分だと和が言うと、マリアは「そのとおりです。ここに必要なのは、十分な栄養と清潔な環境、そして女性たちの雇用です。それらをすべて満たすことができるのが、看護婦という職業です」。　和は深くうなずいて、自分が英語を学んできたのは、今日こうしてマリアと言葉を交わすためだったのではないかとさえ思った。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　鹿鳴館で、大山捨松に会い、数か月後に英語講師と通訳の仕事を辞めなければならないと告げると、自分が設立に協力して一年前に開校した有志共立東京病院（慈恵）看護婦教育所に入ることを勧めた。　しかし、和はリディア・バラやマリア・トゥルーの思いが込められた看護学校で学びたいと、丁重に断ると、捨松は「わかりました。どこで学ぼうと、あなたならきっと立派な看護婦になれます。応援しています」と背中を押してくれた。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>文芸</dc:subject>
      <dc:subject>文化</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
      <dc:subject>テレビ</dc:subject>
    </item>
  </channel>
</rss>
