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    <title>轟亭の小人閑居日記                        　　　馬場紘二</title>
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    <language>ja</language>
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    <pubDate>Mon, 22 Jun 2026 07:14:46 +0900</pubDate>
    <item>
      <title>「日本初の女子留学生 大山捨松のチャレンジ」</title>
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      <pubDate>Mon, 22 Jun 2026 07:11:52 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-06-22T07:14:46+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-06-22T07:14:46+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;　19日は、慶應義塾3高校（女子、日吉、志木）の新聞編集者の集い「ジャーミネーターの会」が、三田キャンパス北館のファカルティクラブであった。　私は何年ぶりかの参加だった。　少し早く行って、前日始まった慶應義塾史展示館の春季企画展「福澤諭吉の臨終―『独立自尊』の誕生」を覗く。　明治34年元旦の揮毫「独立自尊迎新世紀」や、福沢が「戯去戯来」について自ら孫に「お祖父さん記して中村壮吉くんへ」と記した書を見た。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　「ジャーミネーターの会」、講演は久野明子さんの『日本初の女子留学生 大山捨松のチャレンジ』。　久野明子さんは、大山捨松の曾孫で、昭和39年塾文学部卒、現在日米協会副会長。　昭和39年卒といえば、私と同期の105年三田会だが、まったく知らなかったので、名簿を見たら文学部西洋史学科だった。　講演後、同期だとお話すると、一年上なのだがアメリカに留学したので105年三田会、104年三田会の名簿にも載っているそうだ。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;朝ドラの『風、薫る』を一緒に見ている家内が常々、多部未華子演じる大山捨松が、自宅でも鹿鳴館などと同様に洋服に帽子まで被っているの、おかしいと言っていた。　そこで、そのことを久野明子さんにお尋ねすると、「着物、着物」、朝ドラにはときどき違和感があるそうだ。　久野明子さんの著書『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松―日本初の女子留学生』（中公文庫）に、たくさんの写真がある。　実は、渋谷区隠田（原宿）の大山巌邸は第二次大戦の空襲で焼失、写真や手紙や日記など多くの資料が失われたため、これらの写真にはアメリカで発見された写真が多いのだそうだ。　その中に、明治33年、女子英学塾設立のため来日したアリス・ゴードンと、津田梅子、瓜生繁子とのもの、明治37年、日露戦争出征の日、大山邸で大山巌と子供たちとのものがある。　両方とも、大山捨松は「着物」姿である。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;久野明子さんは、この本を、「鹿鳴館の貴婦人」「鹿鳴館の華」として名高い大山捨松でなく、副題の「日本初の女子留学生」としての大山捨松の「チャレンジ」を、ぜひ伝えたいために書いたという。　講演で、その発見の物語を話してくれた。　それは、明日から。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>福沢</dc:subject>
      <dc:subject>慶應</dc:subject>
      <dc:subject>身辺雑記</dc:subject>
      <dc:subject>文化</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
      <dc:subject>世界</dc:subject>
      <dc:subject>日本</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>コメは余っても、値段が下がらない、その裏に</title>
      <link>http://kbaba.asablo.jp/blog/2026/06/21/9861142</link>
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      <pubDate>Sun, 21 Jun 2026 07:39:22 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-06-21T07:40:57+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-06-21T07:40:57+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;　朝日新聞の『揺れるコメ改革 減反は何をもたらしたのか』の最終回、「下がったと言うけれど、コメの値段は高いままで変わっていないと感じます」「本当にコメは余っているのでしょうか」という4人暮らしのパート女性の嘆きから始まる。　米価が高騰してからは、銘柄米でなく、価格が安いブレンド米に切り替えたという。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　令和の米騒動から1年余、コメをめぐる需給状況は様変わりした。　需給を示す物差しになる民間在庫量は、昨年6月末は155万トンだった。　農水省の予測では、今年6月末には221万トン～234万トンに積み上がる見通しだ。　1年で、過去20年で最低レベルに縮んだ在庫が、過去最大級に膨れる勢いだ。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　経済原理に基づけば、米価は急落するはずだ。　だが、実際にはそうはなっていない。　ピークから下落しつつあるものの、2千円強だった2024年4月の倍近くのままだ。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　鈴木憲和農水相は、「コメの価格はマーケット（市場）で決まるべきだ」と静観の構えだ。　だが、コメでは多数の買い手と売り手が競りを行う透明性の高い市場が機能していない。　卸売業者がコメを融通し合うスポット市場や大阪・堂島の先物取引所などがあるものの、取引量は年700万トン超の消費量全体の1割あるかどうかの規模だ。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　流通の大部分を占めるのが相対取引だ。　交渉力の強い農協の意向が反映されやすい構図で、あるコメ卸大手の担当者は、「コメの適正価格がわからない」と話す。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　市場で米価を決める構想は、古くから政府内で検討されてきた。　60年代後半に入ると、コメは慢性的に余るようになり、国を通さずに売買できる自主流通米制度がもうけられた。　95年には食管制度が廃止された。　こうした国のコメへの統制が緩和される度に、農水省は、市場への整備を進めようとした。　だが、市場は整備されなかった。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　農水官僚として長くコメ政策に携わった針原寿朗・住友商事顧問によると、2005年には、強い政治力がある農協の全国組織JA全中の反対で、先物市場の創設が見送られたという。　一方、自民党の森山裕・元幹事長は、「生産者側が投機的な取引がなされることを不安視しているのも事実だ」と慎重な姿勢を見せる。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　令和の米騒動は、農水省が必要以上に生産量を抑制し、コメが足りなくなって起きた。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　コメの需給の調整は、市場を用いた別の方法でも実現しうる。　たとえば。先物取引の活用だ。　先物取引で決まる1年後の米価が指標として定着すれば、農家はこの米価をもとに、生産量を決められる。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　コメ政策は農家を支持基盤とする政治の力でもゆがめられてきた。　いまの農水省は、市場機能の強化に及び腰だ。　今年4月に国会に提出した食糧法改正案では、農水省が取引所を設置できるという規定をわざわざ削除した。　「コメはある程度自由に取引ができているなかで、公的関与が強い市場は必要ないと判断した」（農産局企画課）という。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　半世紀にわたる減反政策で、国の補助金頼みのコメ作りが定着し、農家の意欲はそがれた。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　宮城大の大泉一貫名誉教授（農業経営学）は、「農家一人一人が市場価格を見ながら作付けをする時代に変わっていく必要がある」と指摘し、「国が需給を調整するいまの仕組みを続ければ、いずれ、米騒動が繰り返されることになるだろう」と言う。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>経済</dc:subject>
      <dc:subject>政治</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
      <dc:subject>日本</dc:subject>
      <dc:subject>食べる</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>なかなか進まぬ集約、未来の農地図は形骸化</title>
      <link>http://kbaba.asablo.jp/blog/2026/06/20/9860968</link>
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      <pubDate>Sat, 20 Jun 2026 07:35:42 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-06-20T07:37:23+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-06-20T07:37:23+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;　遠くない将来、コメは足りなくなるかもしれない。　団塊世代が大量離農するからだ。　全国米穀販売事業共済協同組合の24年のシミュレーションによると、最悪の場合、「30年代には需要量を国産だけでまかない切れなくなる可能性がある」という。　対応策として有力なのが、点在した農地を一カ所に集める集約化だ。　移動時間を省き、トラクターなどの農機具を無人で動かすことができるようになる。　農家1人が耕せる水田面積を大きくすれば、耕作放棄地の拡大に歯止めがかけられる。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　農水省は、集約に必要な農地の交換の話し合いを促すため、10年後に地域の農地を誰が耕しているかを色分けした未来地図の作成を、市町村に義務づけた。　9割超の市町村がつくったが、形骸化したケースが目立つ。　集約するための話し合いは、しばしばしこりを残す対立になると言う。　集約はなかなか進まなかった。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　戦後の農地改革で水田は細分化された。　農家の所得が少ない時代は、それでも国際競争力を保てたが、所得が上昇するにつれ、日本のコメ価格が高止まりする主因となった。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　2017年に施行された地域未来投資促進法で、農地の転用がしやすくなった。　政府が食料安全保障を掲げるなか、好条件の農地は保護されそうなものだが、逆に転用の規制は何度も緩和されてきた。　農水省幹部によると、背景には減反政策があるという。　「生産量の抑制を目指すうえで、農地を減らす農地転用は役所にも都合が良かった」。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　奥原正明・元農水省事務次官は、農地の利用を根本的に見直すよう提言している。　いったんすべての農地を都道府県の「農地中間管理機構（農地バンク）」が借り、それを農家に貸す仕組みへの転換だ。　奥原氏は、「離農は戦後の構造を変えるチャンスにもなる」と言っている。　ただ、奥原氏の唱える改革は、憲法が保障する財産権の制約があるとして、農水省は及び腰だ。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　そこで注目されているのが、新たな栽培方法「節水型乾田直播（かんでんちょくは）」だ。　直接畑に種を播くことで、手間のかかる育苗や田植えを省ける。　田に水を張った状態にしておく必要はなく、水の管理期間を大幅に短縮できる。　2年前に直播を導入したヤマザキライス（埼玉県杉戸町）では、70日間必要だった水の管理が8日間で済むようになり、収穫前までの労働時間を7割削減できたという。　玄米60キロあたりの生産コストは、全国平均の3分の1以下の4500円、米国（約3900円）に近い低コストだ。　水が豊富な場所では田植え、それ以外では直播と言ったように、状況に応じて農法を組み合わせればいい。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>経済</dc:subject>
      <dc:subject>政治</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
      <dc:subject>食べる</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>国の割り当てや奨励金で、生産構造が固定化</title>
      <link>http://kbaba.asablo.jp/blog/2026/06/19/9860829</link>
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      <pubDate>Fri, 19 Jun 2026 07:27:19 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-06-19T07:28:43+09:00</dcterms:modified>
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      <description>&lt;p&gt;　ある農水省幹部は、「減反政策は、過去の生産量という『既得権』を守り、経済原理に基づく最適産地での生産を阻害した」と弊害を語った、と第3回の最後にある。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　1960年代後半から、コメ余りが定着した。　供給が需要を上回れば製品価格は下落する。　すると、生産性の低い企業は市場から退出し、供給過剰は整理される。　ただコメ産業ではこうした経済原理は機能しなかった。　農水省が1969年から始めた減反政策では、主に過去の実績にもとづき、各都道府県の生産上限が割り当てられ、「食べるコメ」以外の作付けが模索された。　米づくりの適地である新潟で、工業用米がつくられるのも、この名残だ。　いわば「皆が等しく痛みを分かち合う」仕組みのもとで、生産構造が固定化した。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　68年と2024年の都道府県のコメの生産量を比較すると、この56年間の順位の変動は平均で1・5位だった。　1968年のトップ10で2024年に圏外になったのは、10位から11位になった岩手県だけだ。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　日本列島を「令和の米騒動」が襲った2024年、日本最大の米どころの新潟市が4月に、市内で収穫されたコメを原料の10％程度に使った指定ゴミ袋を導入した。　新型コロナ禍によるコメ需要の急減で在庫が山積みになったときだ。　農水省は主食用米の生産を過去最大規模で抑制するよう呼びかけた。　市にとって非常に大事なコメ産業をいかに未来に残していくかを考え、主食以外の活用が考えられた。　ゴミ袋用の工業用米の生産は、市内の二つの農家が引き受けた。　その一つ、株式会社「やまがら」が決め手にしたのは、国と市が支給する転作奨励金だった。　主食用米と同等の収入が見込めるため、新たな販路を拡大することにした。　同様の動きは、全国にじわりと広がる。　コメを原料に加工するバイオマスレジングループは、新潟、福島、熊本県などから、年約120トンのコメを買いつけている。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　2018年からは、都道府県への生産上限の割り当てはなくなったが、転作奨励金や水面下の指導で、国が需給を差配する仕組みは温存された。　農家には国と自治体が支給する複雑な奨励金の仕組みを読み解いて、奨励金目当てに生産する慣行が定着した。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　国と自治体などの21種類の奨励金は、小麦とソバ、野菜など18品目を作った場合に、それぞれいくらもらえるのか――。　北海道のコメ商社が、作付け前の農家に、参考資料として一覧表を作っている。　奨励金は、不公平のもとにもなってきた。　同じ作物をつくっても、もとが畑か水田かで奨励金に差が出るからだ。　転作を始めた当初は、水田由来の土地は畑作に不向きなため、奨励金で補償する意味合いがあった。　だが、今では多くで排水工事が行われ、むしろ生産性が高いという。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>経済</dc:subject>
      <dc:subject>政治</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
      <dc:subject>食べる</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>収穫量の競争から、高く売れるブランド米へ</title>
      <link>http://kbaba.asablo.jp/blog/2026/06/18/9860665</link>
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      <pubDate>Thu, 18 Jun 2026 08:12:18 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-06-18T08:14:21+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-06-18T08:14:21+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;　日本は60年代後半にコメ余りの時代に突入した。　農水省は関税などで国内市場を隔離したうえで、予測する需要量にあわせて生産量を抑制する減反政策を続けた。　それがコメ作りにどんなひずみをもたらしているのか、『揺れるコメ改革 減反は何をもたらしたのか』を見てみたい。　第2回では、10アールあたりの収穫量（単収）を競う全国コンテストと、品種開発の歴史が扱われている。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　10アールあたりの収穫量（単収）を競う全国コンテストは、終戦直後の食糧難の解決が緊急課題だった1949年に始まった。　毎年およそ2万人が参加する激戦を勝ち抜こうと、農家はいち早く多収品種を導入し、日本一に輝く品種は、毎年のように入れ替わった。　前年に配布が始まった新品種「ふ系55号」を採用して、1961年に975キロ、62年に863キロで制した八ヶ岳の麓に広がる長野県富士見町の小池政之さん夫妻の田んぼには「日本一 生産の地」の石碑が建っている。　一方、2025年産の収穫量の全国平均は、農水省によると573キロだ。　コンテストは、68年で打ち切られた。　そのころ、コメ政策は転換点を迎えていた。　増産が進む一方、食生活の洋風化で需要は伸び悩み、政府は山積みになる余剰米の処理に苦悶していた。　翌69年には、生産量を抑えるための減反に踏み切った。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　減反で消えた、もう一つ、品種開発では、多収の研究が止まり、食味や冷害への対応力の向上が中心になった。　限られた生産量でいかに収入を増やすかに注力し、高く売れるブランド米ばかりをつくるようになった。　それが半世紀にわたって続いた結果、かつて世界トップレベルを誇った日本のコメの単収の地位が大きく低下した。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　国連食糧農業機関（FAO）の統計によると、日本の1968年の単収は世界4位だったが、2024年は14位に落ち込んだ。　米国（8位から5位）中国（25位から5位）などに抜かれた。　日本が減反を始めたころ、世界では単収を引き上げるために肥料を多く与えても稲穂が倒れないよう、背丈が低い品種の開発や普及が加速した。　日本で進んだのは、この逆だった。　1979年以降、作付面積トップのコシヒカリは、背丈は高く、単収は少ない。　コシヒカリは、56年に命名された古い品種だ。　海外の主流品種は、古くても10年ぐらい前のもので、半世紀以上前に開発された品種がいまだにトップになっている日本の構図は、世界では異例だという。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　増産をタブー視するコメ作りに変化の兆しも出てきた。　20年に安倍政権は「食料・農業・農村基本計画」に、長年封印してきた「多収品種の導入」を盛り込んだ。　注目されたのが、15年に配布を始めた「にじのきらめき」、食味と収量を両立させた品種で、通常の品種より1～3割ほど多く収穫できる。　ただ、「にじのきらめき」など多収米の収穫量は、まだ全体の6％程度だ。　立ちはだかるのは、半世紀で築き上げられてきたブランド米信仰の壁だ。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　多くの農協は、ブランド米を前提に作業日程や貯蔵庫などの設備を構築してきた。　このため従来の品種以外への対応は柔軟に行えず、「にじのきらめき」の栽培は、自前の流通設備を整えた大規模農家に限られているという。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>経済</dc:subject>
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      <dc:subject>食べる</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>日本のコメ、失われた国際競争力の裏に</title>
      <link>http://kbaba.asablo.jp/blog/2026/06/17/9860479</link>
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      <pubDate>Wed, 17 Jun 2026 07:20:31 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-06-17T07:22:04+09:00</dcterms:modified>
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      <description>&lt;p&gt;　日本は戦後、自由貿易を掲げて関税を引き下げてきた。　世界銀行によると、日本の22年の平均関税率は1・6％で、米国（1・5％）や欧州連合（1・3％）と遜色ない水準だ。　だが、コメの事情は別だ。　日本は無関税枠を除く輸入に、1キロあたり341円をかけている。　輸入価格によって率は変わるが、23年の実績をもとにすると200％程度だ。　トランプ大統領は、相互関税を発表した25年4月、「日本は友人だが、700％の関税をかけている。なぜなら、我々にコメを売らせたくないからだ」と批判した。　「700％」は事実ではないが、関税が高率であることは否定できない。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　「令和の米騒動」では、業界関係者が驚く事態が起きた。　高関税で事実上禁止したはずのコメの輸入が急増したのだ。　25年の関税を払う民間輸入は、前年の95倍の9万6834トンに跳ね上がった。　米価急騰で、関税を支払ってでも輸入した方が安くなったためだ。　輸入米の多くを利用していると見られるのが、一部を海外産に切り替えた牛丼チェーンの松屋や吉野家といった業務用の分野だ。　輸入拡大を食い止めようと、農水省は業務用のコメの生産に出す新たな補助金を検討中だ。　「輸入封じ」の補助金とみなされれば、米国とのさらなる火種になる恐れもある。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　コメの輸出が補助金頼みになるのは、日本の米価が国際水準からかけ離れて高いからだ。　農水省によると、25年産の国産米の業者間取引（1キロあたり）は627円。　タイ産はその10分の1の63円、米国産は4分の1以下の142円だ。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　政府は昨年4月、「食料・農業・農村基本計画」を閣議決定し、24年は4・6万トンだった輸出量を、30年に35・3万トンに増やす野心的な目標を掲げた。　だが、25年はほぼ横ばいの4・8万トンだった。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　実は、日本のコメの価格は、昔から高かったわけではない。　1950年12月、池田勇人蔵相（当時）の失言とされた「貧乏人は麦を食え」は、朝鮮半島産やタイ・ビルマ産の輸入米と比べ、国内の生産者米価は2～3割安いので、国際価格にあわせて国内の米価が上昇した際には、低所得の人は麦を食べてほしいという文脈だった。　池田は、自由貿易のもとでは、米価も他の製品と同様に、「国際市場に鞘寄せされる運命」だという持論を述べたのだが、75年以上経った今も、池田が「運命」だとした米価の国際価格への「鞘よせ」（価格差が小さくなる）は、国際価格より高い国産米という逆の形で、実現していない。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　日本は60年代後半にコメ余りの時代に突入した。　そのころには、人件費が上昇するなどして、国際競争力を失っていた。　経済原理に従えば、コメが余れば米価は下落し、国際競争力は回復していくはずだった。　だが、実際にはそうはならなかった。　農水省は関税などで国内市場を隔離したうえで、予測する需要量にあわせて生産量を抑制する減反政策を続け、米価の高値誘導を続けたからだ。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　高い米価は、疲弊する地方経済を下支えし、農家を主な支持基盤とする自民党が安定政権を築くことを可能にした。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　その一方で、消費者は、税金や社会保険料の負担が増すなかでも、高いコメを購入し続けることを強いられた。　高い米価のもとで生産性が低い零細農家が残り、農家の技術革新も停滞した。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>経済</dc:subject>
      <dc:subject>政治</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
      <dc:subject>世界</dc:subject>
      <dc:subject>食べる</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>農政、コメ輸出より減反を選択した裏に</title>
      <link>http://kbaba.asablo.jp/blog/2026/06/16/9860314</link>
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      <pubDate>Tue, 16 Jun 2026 07:16:11 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-06-16T07:18:08+09:00</dcterms:modified>
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      <description>&lt;p&gt;　「令和の米騒動」、結局はどうなったのか。　「令和の米騒動　現在」で検索したら、「2024年に発生した「令和の米騒動」による極端な品薄や買い占めは完全に解消され、現在は一転して「コメ余り」と小売価格の下落傾向が起きています。消費者の米離れも進み、卸や小売店の倉庫には在庫が積み上がっている状況です。」と、出た。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　朝日新聞は、5月18日から『揺れるコメ改革 減反は何をもたらしたのか』という連載をした。　農地改革や減反政策をはじめとする戦後の農政がいま、コメ作りにどんなひずみをもたらしているのか、5回に分けて検証するというシリーズだ。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「コメ政策をめぐる歴史」という表がある。　1950年…池田勇人蔵相（当時）による「貧乏人は麦を食え」発言。　61年…農業基本法制定。　60年代後半…コメ不足から一転、米余りの時代に。　69年…減反政策を試験的に導入。援助を名目にした余剰米処理開始。　79年…コシヒカリが品種別作付け面積のトップに。　86年…米国のコメ業界が日本の輸入制限を米通商法301条で提訴。市場開放要求が過熱化。　93年…平成の米騒動。　95年…食糧法施行。食管制度が廃止され、備蓄米制度創設。　99年…コメの関税化。　2004年…新食糧法でコメの流通がほぼ自由化。　18年…減反政策の廃止を掲げたが事実上存続。　24年…令和の米騒動。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　第一回は、こう始まる（大日向寛文編集委員、井東礁記者）。　過去半世紀のコメ政策には一つの謎がある。　なぜ、政府はコメ余りを防ぐために減反の道を選び、最近まで海外への輸出に活路を見いだそうとしなかったのかだ。　歴史文書をひもとくと、二つのキーワードが見えてくる。　「コストの壁」と「米国の圧力」だ。　外務省が公開している1969年12月作成の内部文書には、「対外的に余剰米処理を匂わせることを極力避けることが肝要である」とある。　当時、戦後の食糧難は一変し、政府は余剰米の処理に頭を悩ませていた。　69年には、主食用米の生産を制限する「減反政策」に試験的に踏み出していた。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　コメの輸出を増やすことも選択肢にあがった。　ただ、日本産はすでに国際競争力を失い、海外産より高かった。　上の12月の内部文書の前、海外を援助するという名目で、3月には韓国にコメ33万3千トンを無利子で貸す破格の条件で合意した。　米国は7月、これに苦情を言い、ハーディン農務長官は「米国の商業ベースの貿易は数百万ドルも損失を蒙（こうむ）る」と釘を刺していた。　その後、日米貿易摩擦が過熱する。　米国は日本をコメの有望な輸出先と見込み、市場開放を強烈に迫るようになる。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　「令和の米騒動」後の増産で、再びコメ余りが懸念されている。　政府では、援助を含めた輸出を強化する案が浮上しつつある。　だが、国の補助がなければ輸出が成り立たない構図は、解消されていない。　米国を含めた国際社会から異論が出るリスクはつきまとい、すでにその兆候もある、そうだ。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>経済</dc:subject>
      <dc:subject>政治</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
      <dc:subject>世界</dc:subject>
      <dc:subject>食べる</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>「ゆらぐ中央銀行の独立 ドル覇権は衰退期」</title>
      <link>http://kbaba.asablo.jp/blog/2026/06/15/9860131</link>
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      <pubDate>Mon, 15 Jun 2026 08:36:20 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-06-15T08:38:11+09:00</dcterms:modified>
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      <description>&lt;p&gt;　ケネス・ロゴフさんのインタビュー、後半の見出しは、「ゆらぐ中銀の独立 ドル覇権は衰退期 「最も安全」はない」。　さらに今、静かに進行していることがある。　中国、それに欧州が、米国から身を守るために、ドル以外への分散投資を進めていることだ。　ドルの地位が低下し、ドル覇権は衰退期にあると見ている。　各国が外貨準備として保有する通貨に占める米ドルの割合は、2000年代初めの70％台から、50％台にまで減っている。　中国の人民元が（今より）はるかに大きなシェアを獲得し、すでに大きなユーロのシェアも拡大し、暗号資産も相応のシェアを獲得していく可能性が高い。　中国の習近平国家主席は今年、人民元を国際的な準備通貨にすると表明した。　欧州各国もまた、米国を信用できなくなっている。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　これらは外部要因だが、米国の内部にも問題がある。　（中央銀行にあたる）連邦準備制度理事会（FRB）の独立性が揺らいでいることだ。　「中銀の独立性」こそ、70年代のインフレ混乱期と、私たちが享受している安定との間に立ち塞がる「防波堤」と言える。　私たちが通貨を信頼する根拠は、「激しいインフレは起きないだろう」という点にある。　もし人々がシステムの安定性への信頼を失えば、激しく動揺する。　中銀の独立性は極めて重要だが、維持し続けることは非常に難しい。　政治家は、中銀に関与したがるが、トランプ大統領はその傾向が特に強い。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　著書に、米国債は「もはや安全ではない」ともあるが？　特権的なものでなく、フランス国債と同じくらいリスクがあるとされている。　日本は1・1兆ドルにも上る米国債を保有しているが？　日本のポートフォリオ（運用資産の構成）上は、ささいな問題だ。　一方で、中国が今後5～10年でドル離れを進め、人民元建ての取引のインフラを構築すれば、人民元建ての貿易が増えていく。　日本の安全保障上の基礎は米国に置かれているが、貿易相手国としては中国の存在が大きい。　いずれ日本も資産運用の分散を進めていくことになるだろう。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　米国同様、日本も巨額の債務を抱えているが？　日本政府は、日本銀行や政府機関を通じて多くの株式を間接的に保有しており、（株高で）資産は大幅に増えている。　リスクの高い戦略がうまくいっているが、株価が暴落すれば財政状況はひどくなる。　米国と同様、いずれ深刻な債務問題に直面し、何らかの対応が求められることになるかもしれない。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　日本のリスクは、政策金利が長期間、低水準にあること。　これは非常にやっかいだ。　おそらく最終的には1・5％か2％まで上げなければならず、大きな痛みが伴う。　地方銀行の問題もあるし、日本の場合、住宅ローンの多くが短期（変動金利型）だ。　何らかの債務金融危機に陥ることに注意しなければならない。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>経済</dc:subject>
      <dc:subject>政治</dc:subject>
      <dc:subject>世界</dc:subject>
      <dc:subject>日本</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>「米国 忍び寄る債務危機」ケネス・ロゴフさん</title>
      <link>http://kbaba.asablo.jp/blog/2026/06/14/9859921</link>
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      <pubDate>Sun, 14 Jun 2026 07:31:58 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-06-14T07:33:25+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-06-14T07:33:25+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;　日本で、米国で、政府の借金が膨らんでいる。　危機など起こらない、きっと大丈夫という楽観論もなくはないが、米国を代表する経済学者の一人で、昨年『ドル覇権が終るとき』を著して警鐘を鳴らしたケネス・ロゴフさんの、「米国 忍び寄る債務危機」というインタビュー記事が、5日の朝日新聞朝刊に出た。　ケネス・ロゴフさんは、1953年生まれ、ハーバード大学教授、3月に日本の経済財政諮問会議に出席、中央銀行の独立性を保つ必要性などを指摘したという。　共著に『国家は破綻する』。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　最初の見出しは、「GDPの120％超え 戦争でさらに悪化 よぎるデフォルト」。　米国は世界最大の債務国で、債務総額は、他の主要先進国を全て合わせたよりも多い。　その債務は計40兆ドル（約6400兆円）に膨らみ、国内総生産（GDP）の120％を超える。　金利が上昇し続ければ当然、痛手になる。　債務を減らすために必要なのは主に増税だが、それをやろうとすると選挙に勝てないので、共和党も民主党もやりたくない。　しかし、債務が増えるにつれて、金利もゆっくり、確実に上がっており、世界で金利は上昇している。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　今の米国は、「数十年前よりも回復力が低下した国」になっている。　債務がはるかに増え、金利が高くなり、そして政治がまひしているために、回復力が低下している。　経済は、株価も最高値を更新するなど堅調に見える。　米国経済は世界で最も裕福で、回復力もある。　だが、政府はそうではない。　買い手が（米国政府の借金にあたる）米国債を好むのは、金利が高いからで、つまり米国は、以前よりも高い代償を払わなければならない。　イラン戦争はこの状況に拍車を掛けるだろう。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　イラン戦争が浮き彫りにしたのは二つ。　一つは、世界が今後さらに分断され、それが金利を押し上げ、成長を鈍化させるということ。　二つ目は、軍事費を今後さらに増やさざるを得ないということ。　米国のみならず、欧州にも日本にも圧力がかかっている。　これらも金利を押し上げる要因で、多額の債務を抱えている国を、さらに悪い状況に追いやる。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　今後、何が起きるか。　米国が、何らかの重大な危機に見舞われる事態だ。　例えばサイバー戦争やパンデミック、あるいは、中国が台湾に対する圧力を一気に強める。　こうした大きなショックは大幅な金利上昇を引き起こすが、その時、多額の債務を抱える米国に十分な耐性があるとは思えない。　物価の急上昇、場合によっては選択的なデフォルト（債務不履行）のようなことが、4、5年以内に起こる可能性があると考えている。　もしトランプ政権下で、債務危機が起これば、インフレになるだけでなく、（政府が金融機関に国債保有増やすよう圧力をかける）金融抑圧、選択的デフォルトなど全ての手段が用いられることだろう。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　（私は、これを打ちながら、「米国」を「日本」に置き換えても、同じではないか、という恐怖を感じたのだった。）
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>経済</dc:subject>
      <dc:subject>政治</dc:subject>
      <dc:subject>世界</dc:subject>
      <dc:subject>日本</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>「卒業62年目の同期会」</title>
      <link>http://kbaba.asablo.jp/blog/2026/06/13/9859749</link>
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      <pubDate>Sat, 13 Jun 2026 07:15:50 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-06-13T07:17:59+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-06-13T07:17:59+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;　6月4日、去年の6月9日に「卒業61年目の同期会」を書いた文化地理研究会の同期の会「六四の会（むしのかい）」が、今年も加藤隆康さんのおかげで東京會館のロッシーニであった。　卒業62年の爺さん婆さん14名の集合、女性8名、男性6名は、去年とメンバーが二人変わっただけだ。　今年も元気で集まれたことに（そして、六大学野球の優勝に）乾杯、スパークリングワインにも、ノン・アルコールがあるというので、私はそれにする。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　今年は、ロッシーニ看板のローストビーフ、料理長が出てきてカットしてくれたのだが、ちょうど順番にスピーチしている途中だったので、盛り上がらなかったのは、ちょっと料理長に気の毒だった。　Appetizer「天使の海老のマリネ　クスクス、そら豆のムース」は、去年とほぼ同じ、Soupは温かい「ミネストローネ」だった。　去年、調べた二つ。　「天使の海老」は、世界有数の美しい島ニューカレドニアで、マングローブ林に囲まれた絶好の養殖環境下、100％自然由来の餌で育てられた、アミノ酸含有量の多い旨味と甘味の海老。　Dessert「ヴェリーヌ」…フランス語でグラスデサートを意味する言葉。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　スピーチが、病気の話の各科総合オン・パレードになるのは、年齢からいってやむをえないところである。　仲間の一人中島勲さんが、「六四の会」の2009年からの日時や場所、参加人数など開催経過の一覧表を、手帳から作ってきてくれた。　彼はスピーチで、老年を健康に過ごす数字の話をしてくれた。　「11111」一万一千百十一。　一日に一万歩を歩く、（本でも新聞でも）千字を読む、百字を書く、十人の人と会う、一回大笑いをする。　私は、一万歩と十人の人に会う、は駄目だけれど、ほかはいいかもしれないと思ったのであった。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>慶應</dc:subject>
      <dc:subject>身辺雑記</dc:subject>
      <dc:subject>食べる</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>「倚りかからず」に、気づかせられたこと</title>
      <link>http://kbaba.asablo.jp/blog/2026/06/12/9859580</link>
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      <pubDate>Fri, 12 Jun 2026 07:16:04 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-06-12T07:18:10+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-06-12T07:18:10+09:00</dcterms:created>
      <description>　　「倚りかからず」　茨木のり子&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
もはや&#13;&lt;br&gt;
できあいの思想には倚りかかりたくない&#13;&lt;br&gt;
もはや&#13;&lt;br&gt;
できあいの宗教には倚りかかりたくない&#13;&lt;br&gt;
もはや&#13;&lt;br&gt;
できあいの学問には倚りかかりたくない&#13;&lt;br&gt;
もはや&#13;&lt;br&gt;
できあいの権威にも倚りかかりたくない&#13;&lt;br&gt;
ながく生きて&#13;&lt;br&gt;
心底学んだのはそれぐらい&#13;&lt;br&gt;
じぶんの耳目&#13;&lt;br&gt;
じぶんの二本足のみで立っていて&#13;&lt;br&gt;
なに不都合のことやある&#13;&lt;br&gt;
倚りかかるとすれば&#13;&lt;br&gt;
それは&#13;&lt;br&gt;
椅子の背もたれだけ&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
山根基世さんが、この短い詩に、どれほどの思考の厚みがあるのかと、改めて茨木さんの文章を系統立てて読んで、例を挙げたのは、「天皇を崇拝していた祖母と一緒に、庄内のあぜ道で見た昭和天皇の巡幸」につづいて、こうだった。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
「軍国少女だった自分を恥じ、日本の古代史を孜々（しし）として学び、書いたラジオドラマは「埴輪」。天皇の死に伴う殉死がモチーフになっている。そして昭和天皇の、記者会見での発言に対する憤りから書かれた「四海波静（しかいなみしずか）」等々。いずれも、権威にひれ伏していた、自分を含む日本人への怒りやもどかしさが通底している。簡潔でさりげない言葉の背後を通る太い背骨。見えない力が読む者の心を打ったのだと気づかされた。」（『図書』6月号）&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「倚りかからず」を読んで、恥ずかしい感じがした。　「世の中ついでに生きて来た」とか、「戯去戯来」とか、言って来たけれど、それはつまり、いろいろなものに「倚りかかって」生きて来たということではないのかと、85歳にもなって、気づかせられたからである。&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>身辺雑記</dc:subject>
      <dc:subject>文芸</dc:subject>
      <dc:subject>文化</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
      <dc:subject>日本</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>国をだきしめて 眉をあげていた 十代の歳月</title>
      <link>http://kbaba.asablo.jp/blog/2026/06/11/9859404</link>
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      <pubDate>Thu, 11 Jun 2026 07:17:51 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-06-11T21:28:31+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-06-11T07:19:38+09:00</dcterms:created>
      <description>　茨木のり子に、「根府川の海」という詩がある。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
根府川&#13;&lt;br&gt;
東海道の小駅&#13;&lt;br&gt;
赤いカンナの咲いている駅&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
たっぷり栄養のある&#13;&lt;br&gt;
大きな花の向うに&#13;&lt;br&gt;
いつもまっさおな海がひろがっていた&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　と、始まる。　私も、子供の頃、夏になると沼津の三津浜の安田屋旅館へ海水浴に家族で出かけていたので、根府川の駅や、穴の開いたトンネルは知っている。　そういえば、あの頃の駅には、カンナやダリヤが咲いていた。　車内で食べた経木に入ったアイスクリームの味と香りが忘れられない。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　茨木のり子は、この詩を書いた8年前に、今の大田区の帝国女子医学・薬学・理学専門学校（現・東邦大学）薬学部に在学し、愛知県西尾の家との間を、東海道線で往復していたのだろう。　専門学校にも、学徒動員があって、満足に学べなかったようだ。　それを恥じて、取得した薬剤師の資格を使わなかったところに、人柄を見る。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
中尉との恋の話をきかされながら&#13;&lt;br&gt;
友と二人ここを通ったことがあった&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
あふれるような青春を&#13;&lt;br&gt;
リュックにつめこみ&#13;&lt;br&gt;
動員令をポケットに&#13;&lt;br&gt;
ゆられていったこともある&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
燃えさかる東京をあとに&#13;&lt;br&gt;
ネーブルの花の白かったふるさとへ&#13;&lt;br&gt;
たどりつくときも&#13;&lt;br&gt;
あなたは在った&#13;&lt;br&gt;
丈高いカンナの花よ&#13;&lt;br&gt;
おだやかな相模の海よ&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　8年前の、十代の日々の現実と、輝く根府川の風景を、対比している。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
沖に光る波のひとひら&#13;&lt;br&gt;
ああそんなかがやきに似た&#13;&lt;br&gt;
十代の歳月&#13;&lt;br&gt;
風船のように消えた&#13;&lt;br&gt;
無知で　純粋で　徒労だった歳月&#13;&lt;br&gt;
うしなわれたたった一つの海賊箱&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
ほっそりと&#13;&lt;br&gt;
蒼く&#13;&lt;br&gt;
国をだきしめて&#13;&lt;br&gt;
眉をあげていた&#13;&lt;br&gt;
菜ッパ服時代の小さなあたしを&#13;&lt;br&gt;
根府川の海よ忘れはしないだろう&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
女の年輪をましながら&#13;&lt;br&gt;
ふたたび私は通過する&#13;&lt;br&gt;
あれから八年&#13;&lt;br&gt;
ひたすらに不敵なこころを育て&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
海よ&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
あなたのように&#13;&lt;br&gt;
あらぬ方を眺めながら……。&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>身辺雑記</dc:subject>
      <dc:subject>文芸</dc:subject>
      <dc:subject>文化</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
      <dc:subject>日本</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>「わたしが一番きれいだったとき」</title>
      <link>http://kbaba.asablo.jp/blog/2026/06/10/9859227</link>
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      <pubDate>Wed, 10 Jun 2026 07:08:21 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-06-10T07:09:56+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-06-10T07:09:56+09:00</dcterms:created>
      <description>茨木のり子は、1926（大正15）年6月12日生まれだから、年齢が昭和と同じになる。　（1867年1月5日生まれの夏目漱石が、明治と同じ年齢なのと同じである。）　つまり、昭和20（1945）年、敗戦の年に20歳だったことが、茨木のり子に決定的な影響を与えた。　世の中が引っくり返るのを、20歳で身をもって体験したのである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　角川文庫『現代詩人全集』第十巻「戦後Ⅱ」に、「わたしが一番きれいだったとき」という詩がある。　冒頭に「わたしが一番きれいだったとき」を据えた、七つの連がある。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
わたしが一番きれいだったとき&#13;&lt;br&gt;
街々はがらがら崩れていってとんでもないところから&#13;&lt;br&gt;
青空なんかが見えたりした&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
わたしが一番きれいだったとき&#13;&lt;br&gt;
まわりの人達が沢山死んだ&#13;&lt;br&gt;
工場で　海で　名もない島で&#13;&lt;br&gt;
わたしはお洒落のきっかけを落してしまった　　　　　　　　　（二連略）&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
わたしが一番きれいだったとき&#13;&lt;br&gt;
わたしの国は戦争で負けた&#13;&lt;br&gt;
そんな馬鹿なことってあるものか&#13;&lt;br&gt;
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた　　　　　　　　　（一連略）&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
わたしが一番きれいだったとき&#13;&lt;br&gt;
わたしはとてもふしあわせ&#13;&lt;br&gt;
わたしはとてもとんちんかん&#13;&lt;br&gt;
わたしはめっぽうさびしかった&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
だから決めた　できれば長生きすることに&#13;&lt;br&gt;
年とってから凄く美しい絵を描いた&#13;&lt;br&gt;
フランスのルオー爺さんのように&#13;&lt;br&gt;
ね&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　1926（大正15・昭和元（12月25日改元））年生まれに、どんな人がいたか。　マリリン・モンローは、茨木のり子より11日前、6月1日に生れていた。　エリザベス二世は4月21日。　森英恵、三浦朱門、立原正秋、津島恵子、安野光雅、菅原謙次、宮尾登美子、井上光晴、小川宏、渡邊恒雄、石井ふく子、星新一、山口瞳、今村昌平、宮脇俊三、佐田啓二。&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>文芸</dc:subject>
      <dc:subject>文化</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
      <dc:subject>日本</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>茨木のり子作詞「温海中学校校歌」</title>
      <link>http://kbaba.asablo.jp/blog/2026/06/09/9859061</link>
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      <pubDate>Tue, 09 Jun 2026 07:27:58 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-06-09T07:29:06+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-06-09T07:29:06+09:00</dcterms:created>
      <description>　茨木のり子さんは、鶴岡市温海中学校の校歌を作詞していた。　温海温泉は、佐藤賢一『釣り侍』で、「温谷」の湯治場として描かれ、秋の大泉藩恒例「御磯行」、跡目争いを釣りで決着する現場になる。　その宿屋「五郎八旅館」では、数々の「庄内のうまいもの」が振る舞われる。　近年、焼き畑で作られる温海の赤かぶ、その甘酢漬が広く知られるようになった。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
1998（平成10）年4月、温海中学校、念珠ヶ関中学校、福栄中学校の三校統合で、新生・温海中学校が誕生した（念珠ヶ関は、伯父の家族が「念珠ヶ関さ行く」と海水浴に出かけていた）。　温海町教育委員会は、鶴岡市出身の佐藤敏直さんに作曲を依頼、佐藤さんが作詞の詩人を選定することになり、庄内に縁のある茨木のり子さんに依頼して、最初は固辞されたが、多くの人の尽力によって、ようやく引き受けてくれることになったという。　茨木さんは、あつみ温泉駅に降り立ち、建築前の学校現場を訪れ、周辺の景色を眺めて、この詩を書いたそうだ。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　佐藤敏直さん（1936（昭和11）年～2002（平成14）年。2003（平成15）年に死んだ私の兄と、ほぼ同年だ。）だが、山形県立鶴岡南高校、なんと慶應義塾大学工学部電気工学科卒業で、清瀬保二に師事、管弦楽・器楽、邦楽器のための作品、合唱曲、子供のための歌など多くの作品がある。&#13;&lt;br&gt;
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　　　　　　鶴岡市温海中学校　校歌&#13;&lt;br&gt;
一、	山ふところに抱かれて&#13;&lt;br&gt;
山菜ゆたかに育つよう&#13;&lt;br&gt;
ひそかに伸びる背丈と心&#13;&lt;br&gt;
いのちはじける学びの日々よ&#13;&lt;br&gt;
出羽の国の温海の里に&#13;&lt;br&gt;
おお おないどし仲間たち&#13;&lt;br&gt;
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二、	荒波に耐えきたえられ&#13;&lt;br&gt;
きらめききらめく魚たち&#13;&lt;br&gt;
共に進もう悩みを分ち&#13;&lt;br&gt;
みちのくの海温海の入江&#13;&lt;br&gt;
おお ぶつけあい仲間たち&#13;&lt;br&gt;
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三、	いずれの日にかなつかしむ&#13;&lt;br&gt;
お国なまりを師を友を&#13;&lt;br&gt;
小さな友情いさかいさえも&#13;&lt;br&gt;
いずれの日にかおもいは帰る&#13;&lt;br&gt;
かけがえのない十代の日々&#13;&lt;br&gt;
おお ふるさとのわれらが母校&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>身辺雑記</dc:subject>
      <dc:subject>文芸</dc:subject>
      <dc:subject>文化</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
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      <title>母は庄内の大地主の生まれ、夫は鶴岡の開業医の息子</title>
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      <pubDate>Mon, 08 Jun 2026 07:08:52 +0900</pubDate>
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      <description>&lt;p&gt;　詩人・茨木のり子（1926（大正15）年～2006（平成18）年）は、大阪回生病院で、宮崎洪（ひろし）、勝の長女として生まれる。　父・洪は、信州・長野の善光寺の前で味噌・醬油を商っていた家に生まれ、金沢医学専門学校（後の金沢大学医学部）卒業、スイス・ベルン大学留学を経て、済生会大阪病院で耳鼻咽喉科医長だった。　母・勝は、山形県三川町（鶴岡市と酒田市の中間に位置する）の大地主に生まれ、鶴岡高等女学校（のちの県立鶴岡北高校）に学び、縁あって洋行帰りの洪と結ばれ、大阪、京都、愛知の西尾、吉良へ移り住み、のり子と長男・英一の母となったが、のり子が11歳の時に、結核で亡くなっている。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　のり子は、1939（昭和14）年、愛知県立西尾高等女学校（現・西尾高校）に入学、卒業後上京し、帝国女子医学・薬学・理学専門学校（現・東邦大学）薬学部に入学。　19歳の時に終戦を迎え、1946（昭和21）年に同校を繰り上げ卒業、薬剤師の資格を得た。　ただし、年譜に、「かなりの劣等生、そのうえ、空襲下、逃げまどうばかりの学生生活だったため、みずからを恥じ、以後薬剤師の資格は使用せず」とあるそうだ。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　1949（昭和24）年、医師の三浦安信と結婚、新居は埼玉県所沢町（現・所沢市）に構えた。　家事のかたわら詩誌『詩学』の投稿欄「詩学研究会」に投稿を始め、「いさましい歌」が選者村野四郎に選ばれ、1950年9月号に掲載される。　この時初めて茨木のり子のペンネームを使った。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　夫・三浦安信の郷里は山形県鶴岡市、七人兄弟姉妹の三男である。　父・平次郎は開業医で、明治の終わり、鶴ヶ岡城跡に近い本町で三浦医院を開いた。　安信は旧制鶴岡中学、旧制山形高校理科乙類、大阪帝国大学医学部へと進む。　慶應義塾大学医学部にも合格し、慶應に行きたかったようであるが、針路を決めたのは「帝国大学に行け」という父の一言であった。　1945（昭和20）年、安信は阪大を繰り上げ卒業し、軍医の幹部候補生として仙台に赴任。　終戦後、新潟大学医学部の医局に入り助手となる。　その後、東京・東村山にあった結核療養所・保生園（現・新山手病院）の医師を経て、港区白金台の北里研究所附属病院の勤務医となった。　肺結核、肺がんなど呼吸器系の臨床内科医であったが、1975（昭和50）年に肝臓がんで死去した。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;茨木のり子は、2006（平成18）年2月17日、くも膜下出血のため西東京市東伏見の自宅で亡くなった。　そして同年4月、夫の眠る三浦家の菩提寺である鶴岡市加茂の浄禅寺に埋葬された。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　「天皇を崇拝していた祖母と一緒に、庄内のあぜ道で見た昭和天皇の巡幸」の「祖母」は、おそらく茨木のり子が11歳の時に亡くなった母・勝の母であろう。　戦後、山形県三川町（鶴岡市と酒田市の中間）の大地主だった家を訪れた折のことと思われる。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>文芸</dc:subject>
      <dc:subject>文化</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
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