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    <title>轟亭の小人閑居日記                        　　　馬場紘二</title>
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    <pubDate>Sat, 19 May 2012 02:06:50 +0900</pubDate>
    <item>
      <title>「遊びをせんとや生まれけむ」と、その音楽</title>
      <link>http://kbaba.asablo.jp/blog/2012/05/19/6449811</link>
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      <pubDate>Sat, 19 May 2012 02:04:55 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2012-05-19T02:06:50+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2012-05-19T02:06:50+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;　大河ドラマ『平清盛』を見て、耳に残っているのは、タイトルでも流れる「遊
びをせんとや生まれけむ」という歌である。　『梁塵秘抄』では、「戯れせんと
や生まれけん、遊ぶ子供の声きけば、私が身さへこそ動（揺）がるれ。」と続く。　
このドラマのテーマらしい、世の中を「面白う生きてやろう」という平清盛の
生き方にも共鳴する。　物語の冒頭、白河法皇の子と設定された平清盛を、産
んだ舞子〔吹石一恵〕という白拍子が歌い、祇園女御と二役だった〔松田聖子〕
が、最近の「後白河帝、誕生」の回で遊女や傀儡（くぐつ）のいた宿である美
濃青墓（あおはか、現在の大垣市内）の白拍子・乙前として歌った。　後白河
帝（のちの法皇）は、当の今様歌謡集『梁塵秘抄』の編著者である。　青墓は、
平治の乱で破れた源義朝が、その子朝長を殺した所でもある。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　○祇園女御（ぎおんのにょうご）、白河法皇の寵妃。　生没年未詳。　『吾妻
鏡』は源仲宗の妻と伝えるが未詳。　祇園社脇の水汲み女であったといわれる
が、白河法皇の寵愛を受け、東御方、白河殿と称された。　藤原公実の娘待賢
門院璋子を猶子とした。　女御宣旨は下らなかったが、1105（長治2）年祇園
社東南に阿弥陀堂を建て邸宅としたため祇園女御と称された。1111（天永2）
年仁和寺内に威徳寺を建立し、晩年はここに住んだ。　清盛を白河法皇の落胤
とする説もあるが、『仏舎利相承次第』は母を祇園女御の妹としている。（『日本
歴史大事典』野口孝子）　『平家物語』巻六では、白河法皇の寵愛を受け、の
ち平忠盛に嫁した、とあるらしい。　平氏の官位の昇進にかかわったようで、
平清盛らを養子にしている、とする事典もある。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　先日、何気なく総合テレビをつけたら「スタジオパーク」に、ピアニストの
舘野泉さん（75）が出ていた。　『平清盛』の、吉松隆作曲の音楽で流れるピ
アノを弾いている人である。　「アイノラ抒情曲集」より「ロマンス」などだ。　
十年ほど前に、ご病気で右半身がご不自由になった。　左手で弾く。　シカゴ
在住の息子さんがピアノの上に置いておいてくれた、左手用の曲の楽譜を見て、
一瞬、啓示に打たれた（別の言葉だったかも知れぬが）ようになった。　以来、
左手で弾く。　吉松隆さんは、その舘野泉さんのために、何曲か左手用の曲を
作曲したという。　舘野さんは今も練習で、一日に2～5時間は弾くという、
でも「勉強」は10時まで、焼酎を楽しむらしい。　奥さんはフィンランドの
方でフィンランドにいらっしゃる、フィンランドのいい所は静かで、寂しいと
ころだという。　フィンランドでは、焼酎でなくウオトカ。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　『三田評論』4月号に、吉松隆さんのインタビューがあった。　吉松さんは、
特選塾員、高校受験の最中にクラシック音楽と出会い、オーケストラがあると
いうだけの理由で選んだ慶應義塾高校を経て1971年工学部に入り、在学中か
ら作曲活動を始めた。　高校1、2年のとき、シベリウスとフィンランドに関
心を持ち、その頃、フィンランドに留学して帰って来た日本人のピアニストが
いると知り、どういう人なんだろうと聴きに行ったのが出会いで、舘野泉さん
のファンになった。　2003年に舘野さんが「左手のピアニスト」になられて以
降は、ずいぶん沢山の曲を献呈しているという。　ファンでありながら、舘野
泉さんもまた、慶應高校出身の特選塾員であることを知らなかった、とある。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>慶應</dc:subject>
      <dc:subject>文芸</dc:subject>
      <dc:subject>文化</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
      <dc:subject>テレビ</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>『平清盛』「汚い」ホコリの向うに</title>
      <link>http://kbaba.asablo.jp/blog/2012/05/18/6448970</link>
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      <pubDate>Fri, 18 May 2012 03:02:15 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2012-05-18T03:06:36+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2012-05-18T03:06:36+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;　大河ドラマ『平清盛』の評判が悪い。 視聴率も芳しくないようだ。　兵庫県
知事が「画面が汚い」と言ったと報道された影響も、大きかったのではないか。　
「王家」（つまり皇室）・「摂関家」という聞き慣れない言葉を始め、清盛や崇徳
帝の出生の秘密もあって、人間関係がこみいっていて、物語がよくわからない
こともあった。　デジタルテレビになって、細部が鮮明に出てしまうので、制
作側も苦労が多いのだろう。　そういえば『龍馬伝』も、けっこう汚かった。　
最近は少し画面を明るくし、物語が難解な方も、人物名のテロップを入れたり、
冒頭で「あらすじ」風の回顧をしたりしている。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　私も、何度か見るのをやめようかと思った。　史実とドラマが違うのは、百
も承知だが、辞書で人物や事件など歴史的事実を読むと、「汚い」ホコリの向う
に、ぼんやりと見えて来るものがあるような気がした。　それで〔〕に演じて
いる俳優を入れた。　今、ドラマは保元・平治の天下大乱へと進んでいる。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　○白河天皇（1053～1129年）〔伊東四朗〕
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;平安後期の天皇。　後三条天皇の第一皇子。　在位1072～1086年。　摂関
家の勢力を抑え、堀河天皇へ譲位後、1086年院政を開始。　堀河・鳥羽・崇徳
の三代43年間政権を担当。　1096年出家して法皇となった。　仏事に熱心で
法勝寺などの造寺・造仏につとめたが、財政が窮迫したため、成功（じょうご
う）・重任（ちょうにん）などの売位・売官が盛んに行われた。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;○平忠盛（1096～1153年）〔中井貴一〕
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　平安末期の武将。　正盛の子。　清盛〔松山ケンイチ〕の父。　白河・鳥羽
両上皇に信頼され、1129（大治4）年山陽・南海二道の海賊を追捕し、35（保
延1）年再度西海の海賊（兎丸〔加藤浩次〕ら）を平らげ、累進して刑部卿に
進み内昇殿を許された。　また日宋貿易に尽力。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　○藤原忠実（ただざね・1078～1162年）〔國村隼〕
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　平安末期の貴族。　師通の長男。　氏長者（うじのちょうじゃ）・関白・摂政。　
長子忠通〔堀部圭亮〕と不和で、次子頼長〔山本耕史〕を偏愛した。　日記は
「殿歴」。　知足院殿。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　○摂関家（せっかんけ）
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　摂政と関白に任ぜられる家柄。　古代・中世を通じて、藤原一族中の北家、
特に初代摂政の良房の子孫に限られ、鎌倉初期には近衛・九条・二条・一条・
鷹司の五摂家に分かれた。　一家（いちのいえ）。　摂家。　執柄家。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　○鳥羽天皇（1103～1156年）〔三上博史〕
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　平安末期の天皇。　堀河天皇の第一皇子。　在位1107～1123年。　退位後、
1129年白河上皇のあとを受けて崇徳・近衛・後白河天皇の三代にわたり院政を
行った。　その子崇徳上皇と仲が悪く、法皇（1141年出家）死後まもなく保元
の乱となる。　催馬楽、音律に精通、また深く仏教に帰依。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　○待賢門院（1101～1145年）〔檀れい〕
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　鳥羽天皇の中宮。　藤原璋子（しょうし）。　権大納言公実（きんざね）の女
（むすめ）。　崇徳天皇・後白河天皇の母。　1118（元永1）年皇后となり、24
（天治1）年院号宣下。　北面の武士、佐藤義清（のりきよ）〔藤木直人〕が
23歳の時、出家して西行となったことに関わりがあるといわれる。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　○美福門院（1117～1160年）〔松雪泰子〕
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　鳥羽天皇皇后、名は得子。　藤原長実の娘。　天皇譲位後に寵を得て皇子（近
衛天皇）を生み、皇后位につく。　崇徳天皇を譲位させて、わずか3歳の近衛
天皇を即位させ、近衛天皇没後は崇徳上皇皇子を退けて、後白河天皇〔松田翔
太〕を即位させるなど、保元の乱の原因をつくる。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;○保元（ほうげん）の乱
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　皇位継承問題をめぐり崇徳上皇と後白河天皇の対立が激化し、一方摂関家で
も、藤原忠実（ただざね）の子、忠通・頼長兄弟が摂関の地位をめぐって対立
していた。　崇徳上皇〔井浦新〕の子重仁（しげひと）親王即位の可能性が、
前年の後白河即位とその子守仁（もりひと）親王立太子によって潰えたこと、
近衛天皇死去に関しての呪詛嫌疑などにより、頼長が鳥羽法皇の信頼を失って
失脚したことが、乱の原因となった。　鳥羽法皇の死をきっかけとして1156
（保元元）年7月、上皇方は頼長・源為義〔小日向文世〕・源為朝・平忠正〔豊
原功補〕を、天皇方は近臣藤原通憲（みちなり・信西（しんぜい））〔阿部サダ
ヲ〕を中心に忠通・源義朝〔玉木宏〕・平清盛を用いて戦い、天皇方が勝った。　
上皇は讃岐に流され、頼長は戦死、為義・忠正は斬首された。　この内乱で皇
室・摂関家の内紛に武士が活躍し、武士の政界進出を促すことになった。　乱
への直接の参加を避けた忠実は厳罰を免れる。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>文芸</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
      <dc:subject>テレビ</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>中島隆信著『相撲の経済学』ほか応用経済学の本</title>
      <link>http://kbaba.asablo.jp/blog/2012/05/17/6448125</link>
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      <pubDate>Thu, 17 May 2012 02:08:57 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2012-05-17T02:12:36+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2012-05-17T02:12:36+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;季題研究「夏場所」で、《若干の話題》として、中島隆信さんの『相撲の経済
学』(2003年・東洋経済新報社、今は ちくま文庫に入っている)という本を紹
介した。　中島隆信さんは慶應義塾大学商学部教授、実は小尾恵一郎ゼミの後
輩で（1960年生れ）、2005年6月のOB勉強会「紫陽花ゼミ」で話を聴き、こ
の日記で関連の話を含めて、下記の四日分を書いていた。　興味のある方は、
そちらをご覧下さい。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;中島隆信さんの「大相撲の経済学」＜小人閑居日記　2005.6.24.＞
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;大相撲、天龍らの「春秋園事件」＜小人閑居日記　2005.6.25.＞
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「大相撲から見る日本経済」＜小人閑居日記　2005.7.5.＞
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;大相撲の年寄名跡＜小人閑居日記　2005.7.6.＞
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　そんなわけで10日、『相撲の経済学』の大まかな内容を、季題研究で話した
のだった。　中島隆信教授は『相撲の経済学』以来、大相撲に問題があるたび
にテレビなどでコメントを求められるほか、日本相撲協会「ガバナンスの整備
に関する独立委員会」の委員に就任し、副座長として年寄名跡の売買禁止など
を内容とする相撲協会改革案を取りまとめた。　5月3日の朝日新聞朝刊によ
ると、日本相撲協会の公益法人認定に向けた協会改革を検討していた「公益法
人制度改革対策委員会」（九重委員長＝元横綱千代の富士）が、年寄名跡の協会
一括管理と、一括管理への協力が公益法人化への功労であるとして親方衆に特
別功労金（一律、一括）を支払うことを決定したそうだ。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;中島隆信教授はその後、『お寺の経済学』、『障害者の経済学』、『オバサンの経
済学』（以上、東洋経済新報社）、『刑務所の経済学』（PHP研究所）、『これも経
済学だ！』（ちくま新書）などの著書を刊行している。　読んではいないが、出
版社の宣伝を見ると、それぞれこんなことが書いてあるらしい。　みんな面白
そうで、興味深い。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『お寺の経済学』…全国に4万店以上あるコンビニの倍近く、約7万5千寺
あるお寺。　10万人以上の僧侶、6千万人の信者が存在する巨大マーケット、
檀家制度、葬式、戒名、お墓から宗教法人の課税問題まで、お寺の仕組みがよ
くわかる。　葬式仏教と揶揄されるお寺の未来にも言及。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『障害者の経済学』…親、施設、学校は障害者の方を向いているか？　多額
の予算は障害者本人のニーズに合わせて使われているか？　同情や単純な善悪
論から脱し、経済学の冷静な視点から障害者の本当の幸せや福祉の現場の正し
いインセンティブを考える。　第49回 2006年度 日経・経済図書文化賞受賞。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『オバサンの経済学』…女性はなぜオバサンになるのか？　電車の座席の隙
間に無理やり座るのも、女子トイレが混雑していると平気で男子トイレに入る
のも、健康番組が好きなのも、合理的理由がある。　オバサン特有の気兼ねの
なさにより、その合理性は歪むことなくストレートに発揮される。　それは人
間本来の姿といっていいのかもしれず、私たちがオバサンに学ぶことは沢山あ
る。　オバサンは、更年期（エストロゲンの分泌の急激な減少でおこる）の平
均的年齢、45～65歳の20年間。　生理学的にみた女性らしさの維持に費やす
コストCと、その見返りになるメリットMを比較して、C＞Mだとオバサン。　
オジサンは、婚姻関係という企業内取引により家庭での一切の仕事を任せ、亭
主関白の裏返しである妻の独占事業を通して、オバサン化に加担している。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『刑務所の経済学』…300円の万引きの後始末にかかる税金は130万円！！　
これだけの費用をかければ犯罪者は本当に更生・社会復帰できるのか。　刑務
所や少年院は、罰を与える施設なのか、それとも矯正するための施設なのか。　
犯罪抑止力、社会復帰の施設として、現代社会に合っているだろうか。　日本
の刑事政策を経済学の立場から鋭く分析し、より合理的な視点で、裁判や刑務
所のあるべき姿を提言する。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『これも経済学だ！』…経済学は「なんでもカネで考える」非人間的な学問
ではない。　人間が人間らしく生きるために、欲望を一番うまく活用する方法
を見つけ出す、きわめて応用範囲の広い思考ツールなのである。　従来、経済
学のテーマとしては余り取り上げてこなかった、伝統文化、宗教活動、さらに
は障害者などの「弱者」について、その奥に潜む合理性の仕組みを明らかにす
る。　具体的な「問題解決」に役立ち、多くの人が幸せになれる世の中を作る
「道具としての経済学」入門書。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>慶應</dc:subject>
      <dc:subject>科学</dc:subject>
      <dc:subject>経済</dc:subject>
      <dc:subject>スポーツ</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>久保田万太郎の「夏場所」の句</title>
      <link>http://kbaba.asablo.jp/blog/2012/05/16/6447299</link>
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      <pubDate>Wed, 16 May 2012 03:40:33 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2012-05-16T03:42:40+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2012-05-16T03:42:40+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;　「夏場所」の俳句といえば、まず久保田万太郎だろう。　季題研究でも、例
句として、私の大好きな万太郎の句を並べたのだった。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　　いまは年寄粂川新右衛門の
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;鬼龍山まだ生きてをり五月場所　　　（昭和9年『春泥』）
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　万太郎らしい、祭とのコラボレーションは、昭和26年。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;五月場所三社の祭をりからや
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　昭和28年、「去年の“秋場所”よりの引っかかりにて、またしても、NHK
より狩り出されての相撲見物なり　五句」という前書があって、有名なつぎの
五句がある。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;夏場所や土俵いのちの名寄岩
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;夏場所やもとよりわざのすくひなげ
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;夏場所やけふも溜りに半四郎
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;夏場所の土俵灯れりすでにして
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;夏場所とより五月場所風薫る
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　これも忘れられない次の句を含む三句は、昭和29年の作。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;夏場所やひかへぶとんの水あさぎ
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;夏場所やけふも土俵のあれに荒れ
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;夏場所や遽かにいたる夏げしき
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　　相撲、はじまる
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;大関によるとしなみや五月場所
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　この夏場所は、鶴竜が新大関になり史上初の「六大関時代」を迎えたが、こ
れは昭和33年。　昭和28年の句にあった名寄岩は、子供の頃に見ていたけれ
ど、まだ大関だったのだろうか。　昭和22年6月に一場所、最初の五大関の
時期があったそうで、前田山、佐賀ノ花、東富士、名寄岩、汐ノ海。　そう報
告したら、先輩が名寄岩とは懐かしい、立浪部屋で、関脇に落ちて上がれなか
った、とおっしゃった。　そうか立浪部屋、祖母が双葉山以来の贔屓で、当時、
私も照国より羽黒山の方が（その後の安念山も）好きだった。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>俳句</dc:subject>
      <dc:subject>スポーツ</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>季題研究｢夏場所｣を報告</title>
      <link>http://kbaba.asablo.jp/blog/2012/05/15/6446356</link>
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      <pubDate>Tue, 15 May 2012 03:49:21 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2012-05-15T03:51:05+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2012-05-15T03:51:05+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;　「夏場所」と「鉄線花」の句会で、｢夏場所｣の季題研究の担当だった。　だ
いぶ前から気にして、あれこれ読んだり、6日から始まった｢夏場所｣の中継を
見たりしていた。　以下を冒頭に据えて、発表をした。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　五月場所。　五月に東京両国の国技館で十五日間行われる大相撲本場所。　神
社仏塔の営繕の資金を募る勧進相撲の名残。　天明年間からは毎年江戸両国回
向院で行われ、明治から戦前までの国技館も回向院境内に設けられていた。　昔、
大相撲は一月と五月の二回行われ、晴天十日間の興業であった。　昭和三十二
年から正式には「五月場所」と呼ぶことになった。　翌三十三年からは、七月
に「七月場所」が名古屋で開催され、年六場所となった（一月、五月、九月…
東京、三月…大阪、十一月…福岡）。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　「夏場所」とは別に「相撲」「角力」という季題がある。　この「相撲」「角
力」は、秋の季題である。　傍題に「宮相撲」「辻相撲」「草相撲」「秋場所」「九
月場所」「江戸相撲」「上方相撲」「相撲場（ば）」「土俵」「横綱」「大関」「相撲
取」「関取」。　古く陰暦七月に宮中で相撲節会（すまいのせちえ）が行われ、
叡覧があったため秋の季語となった。　また、農耕儀礼では七夕に神前で相撲
をとって豊凶を占った。　室町時代に職業相撲が発達、興行化された。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　〔相撲誕生の一つの説〕『日本書紀』に垂仁（すいにん）天皇七年七月七日に
呼びにやった出雲の勇士、野見宿禰が、當麻蹶速（たいまのけはや）と相撲を
とって蹶速の腰を踏み折って勝ち、朝廷に仕えたとある。　そして、皇后の葬
儀の時、殉死にかえて埴輪の制を案出し、土師臣（はじのおみ）の姓（かばね）
を与えられ、子孫の土師連（むらじ）は皇室の葬式・陵墓・土器製作などを担
当したという。　〔もう一つの説〕は、国譲りの神話で出雲の大国主命の次男、
建御名方富命（たてみなかたとみのみこと）が、国譲りを要求する高天原の使
者、武甕槌命（たけみかずちのみこと）と戦った勝負を起源だとする。　破れ
た建御名方富命は信濃の諏訪の地に退いて服従を誓い、諏訪大社の上社本宮の
祭神、そして諏訪氏の祖となったという話は、一昨年、御柱祭で聞いてきた。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　なお「夏潮」ホームページの「汐まねき」5月10日には、主宰撮影の報告者
の写真がある。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>俳句</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
      <dc:subject>スポーツ</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>「夏場所」と「鉄線花」の句会</title>
      <link>http://kbaba.asablo.jp/blog/2012/05/14/6445328</link>
      <guid>http://kbaba.asablo.jp/blog/2012/05/14/6445328</guid>
      <pubDate>Mon, 14 May 2012 02:40:44 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2012-05-14T02:44:43+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2012-05-14T02:43:17+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;　雷が鳴って、雨と突風注意という10日、「夏潮」渋谷句会だった。　ちょっ
と東横のれん街に寄ったら、夕方なのに心なしか空いていたのは、ヒカリエが
出来たからだろう。　兼題は「夏場所」と「鉄線花」で、私はつぎの七句を出
した。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;川風に裾ひるがへし五月場所
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;夏場所や鬢付けの香の殊の外
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;大川の風を袂に五月場所
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;夏場所や桟敷につきてまづビール
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;空豆を食めばたちまち土俵入
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;鉄線の花を潜りて刀自を訪ふ
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;鉄線花きりり紫つんとして
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　結果は、〈川風に裾ひるがへし五月場所〉を英主宰・さえさん、〈夏場所や鬢
付けの香の殊の外〉を英主宰・ひろしさん・梓渕さん・幸雄さん、〈大川の風を
袂に五月場所〉を英主宰、〈鉄線の花を潜りて刀自を訪ふ〉を英主宰・ななさん・
梓渕さんが採ってくれた。　主宰選4句、互選6票、計10票だった。　思わ
ず、一喜してしまう。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　主宰の選評。　季題「夏場所」は、からっとして、明るい、軽い、少し浮つ
いた気分、色気がある、はねても明るい時間帯。　〈川風に裾ひるがへし五月
場所〉…洋装ではなく、力士の浴衣、序の口、序二段あたりの力士か。　〈夏
場所や鬢付けの香の殊の外〉…下五「殊の外」の、軽い置きようは虚子流の文
末表現。技が冴えて来た。夏場所に鬢付けの香りが強いかどうかはともかくも、
気分としては、そうである。　〈大川の風を袂に五月場所〉…堂々たるリズム、
ゆったりとしている、こせこせしていない。　〈鉄線の花を潜りて刀自を訪ふ〉
…「潜りて」で鉄線の花になっている、クレマチスのアーチではない。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　「堂々たるリズム」と、過褒の言葉を頂戴した句、あとで“浪花節”だ、と
気が付いた。　「利根の川風、袂に入れて…」
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　私が選句したのは、つぎの七句だった。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;夏場所のはねて明るき橋わたる　　　　　英
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;大川の風清々し五月場所　　　　　　　　梓渕
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;砂被りに粋な単（ひとえ）や五月場所　　なな
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;幼な顔の力士電車に五月場所　　　　　　さえ
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;手打蕎麦売切御免鉄線花　　　　　　　　和子
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;窓辺からピアノソナタや鉄線花　　　　　淳子
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;垣根越し平らに咲ける鉄線花　　　　　　淳子
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>俳句</dc:subject>
      <dc:subject>スポーツ</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>「現代世界におけるイスラーム」（2）</title>
      <link>http://kbaba.asablo.jp/blog/2012/05/13/6444231</link>
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      <pubDate>Sun, 13 May 2012 03:21:38 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2012-05-13T14:46:18+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2012-05-13T03:24:13+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;　○日本から見る「イスラーム世界」
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　日本で「イスラーム」が意識されるようになったのは、1973年の第一次オイ
ル・ショック、1979-80年のイランのホメイニ革命、第二次オイル・ショック
からで、経済的関係に偏重している。　エネルギー資源の供給源、工業製品の
輸出先（初期の例、東洋レーヨンのテトロンを中東のオバＱみたいな服に）。　ア
メリカ追随型の外交で、アメリカがカバーできないところを補ったりしており、
今、ODAの相手国として中東が多い（エジプト、ヨルダン、イラン）。　教育・
文化・開発援助などで、地道な努力は続けられているが、「イスラーム世界」へ
の関心は低く、したがって理解も浅い。　今後、幅広い分野での、厚みのある
交流関係を構築し、さらに深めていく心構えが必要である。
　世界平和の維持に、今、一番大事な地域である。　戦争の火種が、いっぱい
ある。　イラン、シリア、スーダン、そして後述の「アラブの春」。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　○「イスラーム世界」という「概念」
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　地域、国家、社会階層によって、多様性と統一性がある。　アイデンティテ
ィーを同じくし、大きな輪が重なる、国家を越えた概念。　マジョリティが「ム
スリム」意識を共通して持っている国、マレーシア、インドネシア、バングラ
デシュなど。
　「イスラーム」のあり方は、宗教思想のレベルでは、統一性、同一性、一体
感がある。　スンナ（ニ）派とシーア派（内に細かい分派）は、９対１だが、
大本は同じで、統一性がある。　外部世界との関係のレベルでは、負の歴史の
反映として、共通の劣等感がある。
　現実生活における諸問題があり、その解決のための独自の努力が続けられて
いる。　そこには、国家利益の追求と欧米との関係など分裂的側面（政策を一
つに出来ない、国によって石油の売り先を区別する。インド・中国に売るイラ
ンと、そうではないサウジアラビアなど）と、経済活動とイスラーム的規範の
調和を図る「イスラーム経済学」の統一的側面がある。　国境を超える諸組織
として、人道的なものもあれば、テロリスト（アルカイダ）の組織もある。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　○おわりに : 現代の問題
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;政治的選択の問題、「アラブの春」と呼ばれる大規模な反政府運動が2011年
暮にチュニジアから起り、エジプト、リビア、イエメンで政権を打倒し、シリ
ア、バーレーンなどに波及している。　「イスラーム主義」か「世俗主義」（「政
教分離」という言葉はヨーロッパ的概念で、本人たちは使わない）かの問題と
いわれるが、この問題設定には「問題性」がある。　単純な２項対立的図式で
はない。　「イスラーム」という宗教はしぶとく、彼らはしたたかで、どう通
り抜けていくか、見守りたい。　外部からの選択の強制がかかり過ぎると（ア
メリカの動きなど）、内部的な弱さもあり、危険である。　彼らは、私達が思っ
ている以上に、西欧からのプレッシャーを強く感じている。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>慶應</dc:subject>
      <dc:subject>文化</dc:subject>
      <dc:subject>経済</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
      <dc:subject>世界</dc:subject>
      <dc:subject>日本</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>「現代世界におけるイスラーム」（1）</title>
      <link>http://kbaba.asablo.jp/blog/2012/05/12/6443389</link>
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      <pubDate>Sat, 12 May 2012 03:39:31 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2012-05-12T03:42:11+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2012-05-12T03:42:11+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;　以上の予習をして、8日、同期の仲間内の情報交流会で、湯川武さんの「現
代世界におけるイスラーム」という講演を聴いた。　湯川さんは同期の経済学
部卒業、体育会アメリカン・フットボール部のキャプテンを務め、文学部に学
士入学、大学院修了後、エジプトのカイロ・アメリカ大学大学院へ留学。　そ
の後、プリストン大学大学院で中東・イスラーム史を専攻。　慶應義塾大学商
学部教授、常任理事も務め、名誉教授。　その間、在エジプト日本大使館に2
年間勤務。　慶應定年退職後、早稲田大学に移り、この3月まで同大学イスラ
ーム地域研究機構教授を務めた。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　はじめに、イスラームとは、モスリムとは、という話から入る。
　イスラー
ムとは、唯一神である「神への服従・帰依」を意味し、（1）宗教的規範（物の
考え方。酒を飲まぬ、盗まぬ、豚肉を食べない等）、（2）神から教えられたイ
スラーム教に立脚する文化（制度）、（3）歴史的文明（8、9世紀の、インド、
中国、イスラームの三大文化圏の一つ）である。　アラビア半島に興り、アラ
ブ人を戦力に、征服を続け、一時はフランス側まで勢力圏を広げた。　モスリ
ムとは、イスラーム教徒のことで、世界中に15億人（キリスト教は20～23億
人） おり、非常な勢いで増えている。　アジア・太平洋地域9.7億人、中東・
北アフリカ3.2億人、欧州4千万人、南北アメリカ6～7百万人。　国別では、
インドネシア2億人、インド1億人、日本10万人ちょっと（1/1200人）、フラ
ンス6%（6/100人）。　信徒意識が強い。　西洋との関係は、歴史的な事情（特
に19世紀初めの逆転）があり、圧迫感、敵対心を抱いている。　日常生活で
は、1970年代からイスラーム復古運動が起こり、断食月を守り、他人の目の前
で酒を飲む人はいない、女性はスカーフをするなど、戒律を守る自己表現が強
まっている。　そうすることによって、モスリムと認めてもらえる。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　○モスリムから見た現代世界
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　世界は欧米中心主義だと、特にアメリカの優越を感じている。　グローバリ
ズムの進展、市場経済主義の進展、グローバル企業（特にアメリカの）の支配、
アメリカが世界を動かしていると見ている。　軍拡の時代だとして、自分たち
もやられないために軍備をする、例えばイラン。　世界の不公平・不公正が、
外部的にも、（産油国の）内部的にも、固定化されてきている、と見る。　「停
滞」と「発展」、「負い目」と「自負」がある。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　○外から見る「イスラーム世界」
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　歴史的偏見、「オリエンタリズム」という西欧優越主義がある。　普遍（スタ
ンダード）としての西洋、イスラームの後進性を言う。　科学技術、そして経
済、さらに社会の遅れがある、と。　欧米の優越を引っくり返そうという挑戦
をするが、いつも失敗、一度も成功していない。　イスラームからの問題提起
として、19世紀以降の西洋科学技術文明、物質主義に挑戦し、精神主義（精神
的価値）を主張しているが、その声はまだ小さい。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>慶應</dc:subject>
      <dc:subject>文化</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
      <dc:subject>世界</dc:subject>
      <dc:subject>日本</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>蒲生礼一さんの「脱欧入亜論」</title>
      <link>http://kbaba.asablo.jp/blog/2012/05/11/6442505</link>
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      <pubDate>Fri, 11 May 2012 04:10:05 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2012-05-11T04:11:37+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2012-05-11T04:11:37+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;　『イスラーム』（岩波新書）で蒲生礼一さんの説く世界の歴史は、ここから異
論も出るであろう展開になっていく。　それが第二次世界大戦終戦から13年
の、1958（昭和33）年に書かれたことも考慮しなければならないが、深いイ
スラーム研究と、イスラーム教徒への深い愛情から事を見てみると、一面の真
理に達していたという感じも、しなくはないと思うのである。　それは、その
後の日本が選択した道とは、別の道であった。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　「第一次世界大戦を経て、アジア、アフリカの諸民族の民族意識がだんだん
高まり、第一次世界大戦後西南アジアおよびアフリカにおける旧トルコ帝国の
植民地はその羈絆を脱しました。かつて、イスラーム世界の中心をなしてきた
トルコから、その支配下にあるイスラーム諸民族を解放する仕事は意外にもヨ
ーロッパ人キリスト教徒等によって行われましたが、実はこれらの諸民族にと
っては、トルコ帝国の支配をヨーロッパ・キリスト教徒らの支配に置きかえた
だけのことでした。すなわち、こうした仕事は、無論、イスラーム教徒らのた
めに行われたものではなく、ヨーロッパ人自体の利益のために行われたもので
あったことは言うまでもありません。第一次世界大戦はドイツ勢力の東方進出
を防止するためにイギリスを中心とする諸国がドイツならびにその同盟国トル
コを攻撃した戦いでありました。西南アジア方面に出兵したイギリスはトルコ
帝国の支配下にあったイスラーム教徒等の、トルコからの離反を使嗾し、かつ
援助しました。「アラビアのローレンス」が活躍したのはこの頃のことでした。
ローレンスが一種の天才であったことは疑いをさしはさむ余地はありません。
しかし彼の活躍は結局イギリス帝国主義の手先となって一部のアラブ族を使嗾
し、反トルコ的勢力を盛り上らせ、トルコの戦力を蝕ませて、戦局を連合国側
に、有利に展開せしめたにすぎなかったと言えます。」
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　「何れにせよ、古い形のヨーロッパ的帝国主義の時代は終り、アジア、アフ
リカ方面の諸民族間の民族主義的傾向はいよいよ強化され、第二次世界大戦を
契機として、彼らは続々と独立しました。近代化を阻むものとして王朝制は
1952年まずエジプトにおいて崩壊し、1955年にはアジア、アフリカ諸民族に
よるバンドン会議開催、1956年にはエジプトによるスエズ運河の国有化宣言、
エジプトはイギリス、フランス、イスラエルによる武力侵略を受けましたが、
目的を達成、1958年2月1日にはアラブ連合結成、同年7月14日にはイラク
にクーデタが勃発して王朝制は崩れ去り、やがてイラクはアラブ連合に参加す
ることになりました。イラクのクーデタと同時に英、米兵力のレバノン、ヨル
ダン進駐が行われましたが、これが何を意味するものかは自ら明白であります。
歴史の大きな流れは武力を以て変えることはできないでしょう。」
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　「わが国が、東洋の諸民族に比して一足さきに便乗したヨーロッパ的資本主
義によって、かれらにむかって搾取の手をのばそうとした時代は悪夢のように、
過ぎ去りました。今度の大戦でヨーロッパ的帝国主義に破れた私たちは東洋の
一民族として、アジア、アフリカに国を建てるイスラーム教徒たちとともに、
共通の悩みを排除し、共通の目的にむかって邁進しなければならない時が来た
のです。アジアの民である私らは手をとりあって、共通の敵に立ちむかわねば
なりません。共通の利害に立って団結し、もってヨーロッパの帝国主義に対抗
するために、我が日本にとって果たさなければならない義務がある筈です。相
互の生活水準をあげるために必要であれば、技術でも学問でも提供しなければ
なりますまい。第二次世界大戦でも、日本はむしろ西洋側の一員としてアジア
の諸民族を踏台にしようとしました。したがって、日本がしたことについては
厳重な批判が下されなければならないでしょうが、結果から見て、アジアの被
圧迫諸民族に一種の刺戟を与えたことは争うことのできない事実です。」
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>文化</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
      <dc:subject>世界</dc:subject>
      <dc:subject>日本</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>イスラーム文化と近代ヨーロッパ文化</title>
      <link>http://kbaba.asablo.jp/blog/2012/05/10/6441625</link>
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      <pubDate>Thu, 10 May 2012 03:59:36 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2012-05-10T04:01:19+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2012-05-10T04:01:19+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;　イスラームの話を聴く機会があったので、予習のつもりで、書棚にあった蒲
生礼一著『イスラーム』（岩波新書）をパラパラやっていた。　1958年初版刊
行の、1976年第20刷である。　周りが茶色くなっていて、まだ活版印刷らし
く、活字の間に詰め物の跡があったりする。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　蒲生礼一さん（1901～1977）は、こう書いている。　日本の近代文化は、ヨ
ーロッパから輸入されたものと考えられているけれど、そうしたヨーロッパ文
化によって伝えられたものの中に、アラビア語やペルシャ語の単語が含まれて
いるのは、一体どういうわけだろう。　曰く、ソーダ、アルカリ（のっけから
元ガラス屋は脅かされる）、アニリン、アンモニア、シロップ、モスリン、ガー
ゼ、ソーファ、タフタ、ゼロ、パジャマなどなど。　算用数字のことをアラビ
ア数字と呼びながら、どうしてそう呼ぶかを知らない。　空気や水の有難さに
気付かないでいるように、アラビア数字の有難さにまったく気付かないでいる。　
数字はイスラーム教徒の発明ではないが、インドから借りて改良されたもので、
ゼロを含む十進法などは、まったく驚くべき、進んだ方法だった。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　これらの言葉やアラビア数字は、イスラーム文化の紹介によって、ヨーロッ
パに伝えられたもので、ヨーロッパ文化がイスラーム文化のおかげで発達した
ことを物語るものに他ならない。　イスラーム文化はヨーロッパ文化に較べて、
時代的に早く発達し、西暦10、11、12世紀の頃に黄金時代を迎えた。　その
頃ヨーロッパは文化的には暗黒時代であった。　つまり、イスラーム文化は、
ヨーロッパの近代文化より一時代前の文化ということになる。　12世紀頃から
以後、ヨーロッパ人等はイスラーム教徒らによってアラビア語に訳されたギリ
シャ科学を、ラテン語に翻訳して取り入れた。　イスラーム文化も、ヨーロッ
パ文化も、ギリシャ古典文化をもとにしてはいるが、ヨーロッパ文化とギリシ
ャ古典との関係は直接でなく、イスラーム文化を通してのつながりだった。　イ
スラーム文化こそヨーロッパの文化を発達させる一大要因だったわけで、その
世界史的役割は大変大きかったと言わねばならない。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　わが国は、積極的に取り入れたヨーロッパ近代文化を通して、間接的にある
程度、イスラーム文化の影響を受けている。　ヨーロッパ文化に心を奪われて、
身近な東洋に大変貴重なものがあることを忘れていた。　イスラーム帝国と中
国は、貿易を通じて深い関係があったのに、黄金時代のイスラーム文化が平安
時代の日本に伝えられなかったのは、まことに不思議だ。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　イスラーム文化は13世紀頃からその進展を止め、その栄養分を吸収したヨ
ーロッパ文化は徐々に発展の方向に向い、おいおいイスラーム文化圏に対して
侵略の歩を進めるようになり、19世紀から20世紀初頭このかた多くの国々を
その支配下におくことになる。　こうしてヨーロッパは、イスラーム圏を含む
アジア、アフリカの諸国の犠牲において、隆昌に向い、その搾取によって富み
栄えることになった、と蒲生礼一さんは書いていた。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>文化</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
      <dc:subject>世界</dc:subject>
      <dc:subject>日本</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>福沢書簡に登場する「藤田組」「藤田平太郎」</title>
      <link>http://kbaba.asablo.jp/blog/2012/05/09/6440627</link>
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      <pubDate>Wed, 09 May 2012 02:28:34 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2012-05-09T02:30:06+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2012-05-09T02:30:06+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;　明治19（1886）年～20（1887）年になると、福沢書簡には、「藤田組」が発
展して、同社や関連事業に慶應義塾の卒業生が就職したり、藤田伝三郎の長男
平太郎が慶應義塾に入学したことが出て来る。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　福沢書簡1112 　　明治19年12月1日付、本山彦一（熊本藩士、慶應義塾
出版社を経て、租税寮出仕、兵庫県学務課長、大阪新報社、時事新報社を経て、
明治19年藤田組に招かれて支配人）宛。　牛場卓蔵（伊勢の農家に生れ、明
治5年入塾、報知新聞社、兵庫県学務課に勤務、勧業課長、内務省にいて明治
14年政変で罷免され、時事新報記者、朝鮮政府顧問、大蔵省に出仕後、本山彦
一の斡旋で藤田組へ）の藤田組入社に異存のないこと、藤田・久原の子息（長
男藤田平太郎、久原庄三郎の次男房次郎（のち房之助））の慶應義塾入塾のこと
などを伝える手紙。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　福沢書簡1122 　　明治20年1月25日付、本山彦一宛。　「藤田、久原二
少年、不相替勉強、富豪千金之子、従来辛酸をなめたることなし」「（保護者の
浜野定四郎と福島（未詳）は）困る者を首尾よく世話することこそ、面白けれ」
「一両年本塾にて修業の上、米国への留学を勧める」
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　福沢書簡1133 　　明治20年2月13日付、本山彦一宛。　山陽鉄道株式引
受と中上川彦次郎の同社社長就任の時事新報社への影響につき相談する手紙。　
神戸馬関間の鉄道の株式を十万円引き受けたい、資本を出す三菱（荘田平五郎
がいる）に五万、藤田組に五万の十万にする心づもりと伝える。　次男の捨次
郎が明治21（1888）年に鉄道を学んでアメリカ留学から帰国の予定なので、
そのためにも株式を所有したいので、荘田と藤田伝三郎に伝えてもらいたい。　
今後、日本で事を成さんとするには新聞は重要で、中上川彦次郎の抜けた時事
新報は心配だが、ただ人物さえあれば維持は容易だ、と言う。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　福沢書簡1103 　　明治19年11月11日付、福沢一太郎宛。　「当今ハ日
本も金次第之世ノ中となり」旧工部大学校卒業生で、鉄道局に奉職した者も、
「藤田組等より招きニ参れバ、颯々と辞表を出して立退き候次第、鉄道局にて
も困るよしなり」
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>福沢</dc:subject>
      <dc:subject>慶應</dc:subject>
      <dc:subject>美術</dc:subject>
      <dc:subject>経済</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>福沢書簡に登場する「藤田伝三郎」</title>
      <link>http://kbaba.asablo.jp/blog/2012/05/08/6439656</link>
      <guid>http://kbaba.asablo.jp/blog/2012/05/08/6439656</guid>
      <pubDate>Tue, 08 May 2012 03:11:21 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2012-05-08T03:12:59+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2012-05-08T03:12:59+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;　藤田伝三郎、福沢諭吉とほぼ同時代の人なので、思いついて『福澤諭吉書簡
集』の索引を当ってみた。　藤田伝三郎宛の書簡はないけれど、ほかの人宛の
手紙の中に「藤田伝三郎」「藤田平太郎」「藤田組」が登場する。　この索引の
充実しているのが、有難い。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　まず、明治12（1879）年の藤田組贋札事件である。　前年末、各府県から
政府に納められた国庫金の中から贋札が発見され、この年9月15日「ドイツ
滞在中の井上馨と組んで現地で贋札を製造して秘かに持ち込んで会社の資金に
しようと企てた」として、藤田伝三郎はほかの7名とともに拘引され、東京に
移送されたが、何も証拠がなく12月20日に藤田は無罪放免となった。　明治
15（1882）年9月に真犯人が判明し、冤罪が晴れた。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　藤田伝三郎が濡れ衣を着せられたのは、長州人脈を頼りに若くして大金持ち
になったことを妬まれたこと、さらには薩摩と長州の勢力争いによるといわれ
ている。　薩摩側は西郷隆盛の失脚、大久保利通の死と、次々に有力者を失い、
長州に押されていた。　そこで薩摩が支配していた内務省警視局を動かして、
長州系の大物の不正を暴く戦術が練られたというのだ。（2009年 6月7日の日
記で「山城屋事件」について書き、その前後に「尾去沢銅山事件」や「司法制
度の父」江藤新平の非業の死、さらには「福澤諭吉の法典論」にふれている。）
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　福沢書簡379 　明治12年9月22日付、原時行（旧延岡藩士、藩教育の功
労者）宛。　「大阪にては藤田中野（梧一）の捕縛、山師も亦恐るべき哉」
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　福沢書簡383 　明治12年10月7日付、岩橋謹次郎（和歌山県士族、明治6
年入塾、北海道開拓）宛。　「近日ハ藤田、中野之一条、中々喧しき事なり。
其真実の少しも分らず。何れ一、二ヶ月も過ぎたらバ、明白可相成存候。」
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　福沢書簡631 　　明治14年12月25日付、井上馨宛。
　明治14年10月の「明治14年の政変」後、井上馨参議兼外務卿からの会見
の申入れに返答して、「大隈が国会之奏議諭吉之手ニ成りしものデアロウ、三田
之社中ニテ編製したる私擬憲法草案も諭吉之作デアロウ」「大隈と三菱と諭吉は
同穴狐狸デアロウ」云々という「デアロウ」論から脱却することを条件にして
応ずると伝えた手紙である。
　「例ヘバ藤田、中野ハ贋札を作りたデアロウ、両人之外ニ誰レ彼レも之ニ関
係したデアロウとて、遂ニ一昨年之不体裁を生したるにあらずや」
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>福沢</dc:subject>
      <dc:subject>美術</dc:subject>
      <dc:subject>経済</dc:subject>
      <dc:subject>政治</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>大阪の藤田美術館、破格のコレクター・藤田伝三郎</title>
      <link>http://kbaba.asablo.jp/blog/2012/05/07/6437675</link>
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      <pubDate>Mon, 07 May 2012 03:41:44 +0900</pubDate>
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      <description>&lt;p&gt;　徳川家康旧蔵の茶碗に関連する話である。　4月15日放送の「日曜美術館」
で、「破格のコレクター　大阪にあり～探訪！藤田美術館の至宝～」を見た。　大
阪城近く、都島区綱島町の藤田伝三郎（1841（天保12）～1912（明治45））
の旧邸跡の門をくぐると公園があり、蔵やコンクリート造りの倉庫が藤田美術
館になっている。　徳川家康旧蔵で世界に三点しかない「曜変天目茶碗」（国宝）、
「玄奘三蔵絵」（国宝）、廃仏棄釈の興福寺から流出した快慶作「地蔵菩薩立像」
など、国宝9件、重要文化財51件を含む5千点の国内トップクラスの東洋美
術コレクションを誇る。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　その礎を築いた藤田伝三郎は、幕末の長州・萩で醤油醸造業の生まれ、奇兵
隊で高杉晋作、木戸孝允、井上馨、山県有朋、山田顕義ら維新の志士たちと親
しく交わった。　明治2（1869）年、長州藩が陸運局を廃止して大砲・小銃・
砲弾・銃弾などを払い下げた時、藤田はこれらを一手に引き受け、大阪に運ん
で巨利を得た。　同年、大阪に出て革靴の製造からスタートし、建設業に手を
広げ、明治10（1877）年の西南戦争では、陸軍に軍靴、被服、食糧、機械を
納入、長州閥の政商藤田組として、一代で大富豪になった関西政財界の風雲児
であった。　金融（北浜銀行…後に三和銀行）、農林、鉱業（小坂銅山…久原房
之助は甥）、紡績（大阪紡績…東洋紡績の前身）、鉄道（阪堺鉄道…南海電鉄の
前身・山陽鉄道）、電力（宇治川水力電気…関西電力の前身）、建設・土木（児
島湾干拓）、新聞（大阪毎日新聞）など、数々の事業で輝かしい足跡を残す一方、
趣味の生活では東洋美術の収集に情熱を傾け、書物や情報をよく研究して多く
の名品を手に入れることに成功した。　長男平太郎、次男徳次郎も収集を続け
た。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　藤田家本邸は太閤園（内、淀川邸は徳次郎邸らしい）、山県有朋邸跡を平太郎
が譲り受けた別邸が目白の椿山荘からフォーシーズンホテル、伝三郎の京都別
邸がホテルフジタ京都、箱根別邸が箱根小湧園などに衣替えして、藤田観光が
経営しているという。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>美術</dc:subject>
      <dc:subject>経済</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
      <dc:subject>テレビ</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>「持参金」と『東海道中膝栗毛』の発端</title>
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      <pubDate>Sun, 06 May 2012 02:58:00 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2012-05-06T02:59:22+09:00</dcterms:modified>
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      <description>&lt;p&gt;30日、小駒の「持参金」を、「モーパッサンかチエホフの短篇を思わせる」
と書いたのが、教養のなさを露呈したようなものだった。　この噺は、十返舎
一九の「弥次喜多」、『東海道中膝栗毛』の発端と同じなのだそうである（大坂
までの八編が出た後、そもそもを知りたいという人気で、序編が書かれた）。　桂
米朝が『続 米朝上方落語選』（立風書房）の「持参金」の解説に書いていた。　
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「持参金」には元来「逆さまの葬礼」という後半があった。　これがとんでも
ない話で、「持参金」でやめるのも、もっともかと思われる。　米朝の書いた「あ
らすじ」を引いておく。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;二人の話し声を聞いてお鍋が、どうも番頭さんのようじゃが、と障子の破れ
穴からのぞく、番頭もお鍋にまちがいないかと、たしかめるために障子の穴か
らのぞく、両方からのぞくので真暗で見えない。　お互いに少し離れたところ
で、「お鍋か」「番頭さんか」、とたんにウーンと産気づく。　産婆を呼びに行く
やら大騒動となる。　とど、赤子は助かるが、母親のお鍋は産で死んでしまう。　
赤ン坊の産着の用意と葬式の準備と一ぺんにとりかかるてんやわんや。　「こ
れがあんたのお孫さんです。これはなくなった娘さんの御亭主、いやこの子の
親は別でこの人や」なんてややこしい紹介や挨拶があって、お別れに娘の顔を
一眼（ひとめ）……と、棺桶――寝棺ではなく座棺、その蓋をとって対面さす
と、「これは娘やない。第一首がござりません。しかも男の仏じゃ、胸毛が生え
ている」という。　そんな馬鹿な……と棺桶をのぞき込んだら、死体が逆さま
に入れてあった……というのがサゲです。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「あんたのお孫さん」というから、お鍋の親がどこかで出て来るはずだが、
米朝の「持参金」の速記にはない。　『東海道中膝栗毛』の発端を調べると、
死んだ娘は、お鍋でなく、「おつぼ」という名だが、その親が出て来る。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;栃面屋弥次郎兵衛は、駿河国府中の裕福な商家の出だが、遊蕩が過ぎ、旅役
者の華水多羅四郎が抱えていた陰間の鼻之助に入れ揚げて、店を潰してしまう。　
弥次郎兵衛は、鼻之助と駆け落ち同然に、江戸へ逃げ、神田八丁堀に借家住い、
鼻之助は喜多八（北八）と名を変え、ある商家の奉公人となる。　弥次郎兵衛
は、密陀絵など描いて暮し、近所の気のいい人の世話で女房「おふつ」をもら
って十年、喜多八は卒中で倒れた店の主人の、若くて美しいかみさんといい仲
になっている。　その喜多八が、店の金を使い込んだからと、明日の朝まで十
五両要ると弥次郎兵衛に借りに来る。　弥次郎兵衛、一芝居打って、府中時代
に弥次郎兵衛を好きだった女とその兄の侍が、ご家老の仲裁で弥次郎兵衛を捕
えに来たことにして、女房「おふつ」を追い出す。　腰元「おつぼ」という、
おナカの大きな女を貰えば、十五両の持参金がつくというからだ。　「おつぼ」
が嫁に来たら、不細工な顔で、持参金は明日ご隠居が送ってくるという。　そ
こへ喜多八が来たら、「おつぼ」と顔見知りも顔見知り、奉公先が同じで、喜多
八が腹の子の親だった。　その騒ぎで「おつぼ」は、産気づいて死ぬ。　奉公
先出入りの魚屋が知っていた「おつぼ」の親が駆けつけて来ることになる。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;喜多八の奉公先の主人は死に、使い込みが露見し、かみさんに言い寄ろうと
して不興を買った喜多八は解雇され、弥次郎兵衛の居候になる。　「おふつ」
を追い出し、「おつぼ」も死んで、一人になった弥次郎兵衛は、厄落としにお伊
勢参りを思い立ち、喜多八と二人、東海道の旅に出る。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>落語</dc:subject>
      <dc:subject>文芸</dc:subject>
      <dc:subject>歴史</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>志の輔「井戸の茶碗」後半</title>
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      <pubDate>Sat, 05 May 2012 02:32:11 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2012-05-05T02:33:30+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2012-05-05T02:33:30+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;その茶碗の話を、細川の殿様が聞いた。　「余も、見てみたいのー」と、お
っしゃった。　茶碗を磨いて、黄色いキレに包み、桐の箱に入れ、蓋に「ちゃ
わん」と書いて、紐でむすんだ。　誰が見ても、あー茶碗だ、とわかる。　目
利きの、中嶋誠之助という者が鑑定して、尊氏、信長、秀吉、家康、四人の天
下人が所有し関ヶ原の時に行方知れずになった、井戸の茶碗という名器である
ことがわかった。　買うよ、三百両で。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　高木は五十両の包みを六つ懐に、良助、なんだかねえ、千代田様はすごい、
朝晩三百両で茶を飲んでいた。　半分にして、半分受け取って頂かないと。　あ
いつの出番だな。　へぇー、すごいですね。　お前しかおらんので、届けよ。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　千代田様、居なければいいな…、居る居る。　屑屋は、家に身体を半分入れ
て、この方がいい。　百五十両、受け取って下さい。　なんだこれは、お前い
くつだ。　四十。　あの茶碗は、二十両の形に渡した。　返して来い、娘、刀
を！　斬るんなら、斬って下さい。　これじゃあ、行ったり来たりしているう
ちに、年を取って死んで行く。　斬られる前に、一言だけ言いたい。　「届け
たかったら、自分で届けろ！」　正しいことなら、誰に言い付けても、よいと
いうわけではない。　大金を懐に、往復して、もし落としたら、死んでお詫び
しなければならない。　そう言った屑屋の姿を、忘れないで下さい。　以上を
もちまして、ご挨拶にかえさせて頂きます。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　そうか、受け取るが、向うに渡したいものがある。　高木殿は、独り身か。　
お若い、二十歳になられたかどうか、大丈夫、奥方のいない匂いがします。　わ
が娘だ、屑屋さん、口を利いてくれるか。　利きましょう、高木様がいやなら、
私がもらいます。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　高木様、千代田様から、渡したいものがあると。　いらん。　いいものです
よ、生きもの、一人娘、お嬢さん、十三か四、品が良くて、可愛い。　可愛い
のか。　とても可愛い。　何気なく、間に入ってくれんか。　お若いけれど、
高木様がお磨きになれば、光るお宝です。　磨くのはやめておこう、磨くと、
また小判が出て来るかもしれぬ。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;　志の輔の「井戸の茶碗」、お爺さんの目に涙であった。
&lt;/p&gt;</description>
      <dc:subject>落語</dc:subject>
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