志ん輔の「愛宕山」2007/04/01 07:57

 「愛宕山」は大ネタである。 今まで落語研究会で演ったのは、先代文楽、 米朝、志ん輔の師匠・志ん朝が二回、枝雀、小朝だけだと思う。 志ん朝の二 回目は、亡くなる前年の平成12年3月31日だから、記憶に新しい。 志ん輔 は、たいへんだ。

 京都は独特だというマクラから入った。 東京も、大阪もかなわない。 な んだかわからないけれど、権威がある。 バックボーンがある。 王将の餃子 もうまい、といった(私同様にわからない人は、ウィキペディアの「餃子の王 将」参照のこと)。

 旦那が、幇間、舞妓、芸妓をひきつれて、愛宕山(あたごさん)に登る。 豆 千代、まり菊、五色豆、等々が「おしょはん、おさきいどす」。 前夜、旦那が 酒をやめろというのも、への河童と聞かなかった一八、最初は歌を歌って調子 がよかったのに、次第に歌が間遠になり、スローモーションのような登りにな る。 繁さんに腰を押してもらうが、「痛、痛!」と叫ぶ。 亀の尾(尾骨、知 らない言葉だった)にすえた灸のかさぶたがずれた。 旦那がカワラケ投げの カワラケの代りに小判を20枚も投げたので、一八はこうもり傘を持って降り ようとする。 高さ30尋(ひろ←志ん輔は手をひろげてみせる)、歩けば4里 28町、狼も出る。 ひの、ふの、みの、よの、ごの、と躊躇する一八を、「繁 蔵、きっかけをつけてやれ」と旦那にいわれた繁さんが、「どん」と押す。 8 の字をかいて、落ちてゆく一八、志ん輔のかっこうと表情が出色だった。 着 地してから、固く握った指を、一本一本開くのも、リアルな描写。 どこか先 輩連に及ばない感じがあるけれど、現時点での志ん輔なりの「愛宕山」をつく りあげたといえよう。

正蔵の「ぞろぞろ」2007/04/02 06:35

 正蔵は、ひょいと、軽く出た。 白い着物が、見るからにいい絹物(?)で、 真っ白ではないこの白は「素色(しろいろ)」という日本の伝統色だろうか。 恰 幅よく立派、浅黒い顔に頭もすっきりとして、いかにも張り切っている。 そ れがトリの前という、自分の役割をよく心得ている高座だった。 風格が出て きたというと、少しほめすぎかな。

 マクラもなく、いきなり根岸の里のお稲荷さんから話出す。 神様が縁結び に出雲へ出張した神無月のまま、留守が続いて(このへん、よくわからなかっ た)、お社が荒れて、半年にもなる。 参詣客もなく、門前の荒物屋も商売あが ったりである。 たしかふつう老夫婦でやる「ぞろぞろ」の新演出か、親孝行 で信心深い娘を登場させる。 ちょうど、神様が帰ってきたところに、その娘 がお酒を一升、それも大吟醸を持って、お参りに来る。 半年前から草鞋一足 売れない商売の繁盛と、父親の長生きを、心の底から願って、祈る。 そのご 利益で、たった一足しか在庫のないはずの草鞋が「ぞろぞろ」と下がる奇跡で、 行列の出来る大繁盛。 前の床屋が真似をして、という噺である。

小三治「一眼国」のマクラ2007/04/03 07:43

 小三治が上がったのは、8時27分だった。 常の終演まで、1時間近くある。  50年、長いんでしょうね、と、きた。 私が17,8、噺家になるまで、あと何 ヶ月か、という時のこと。 その時、歴史が動いた。 浅草の観音様の裏庭に、 奥山というところがある。 ずっと裏は、また別の環境ですが…。 奥山には 見世物小屋があった。 小屋といっても、間口のいささか広い公衆便所のよう なものが並んでいた。 その昔、両国橋の手前の広小路と、橋を渡った回向院 の境内の両方が盛り場で、競い合っている。 見てはいないけれど。 その両 国が、だんだん浅草に移って行ったん、でしょう。 なにしろ、見ていないん で…。

 夏は、お化け屋敷。 おや、こんな所にって、思ったのは、川口の駅前のビ ルの二階、ふだんは和服の展示即売会をやっているというような所、エレベー ターが開くと、お化け屋敷だった。 天井が低い。 驚かなきゃあ、木戸銭は 返す、というのだが、必ず木戸銭は取られる。 商売だから、あの手この手で、 驚く仕掛けがしてある。 正面に萱葺きの破れ家があって、白髪のおばあさん が座っている。 異形なのか、のっぺらぼうか、ろくろっ首かと見つめても、 少しも動かない。 足もとが変なので、見ると、蛇が敷き詰めてある。 コロ コロッ、グニャとしている。 これには、驚く。 池があって、中の島まで土 橋が渡してある。 橋の中ほどまで進むと、穴が開いていて、そこから毛むく じゃらの手が出て、股ぐらを掻き回す。 これも驚く。  音がする。 古井戸の上に、藪がかぶさっている。 ポタン、ポタンと、小 さな音がする。 その音が次第にかすかな音になっていく。 突然、ガタンと 大きな音がして、びっくりする。  出口で、驚かなかったと言うと、ちゃんと見てました、古井戸の所で驚いた でしょう。 手帳についている。 

 見世物小屋の表には絵看板があって、若い衆が声をかけている。 「大ザル 小ザルだよ」。 どんな大きな猿がいるのかと、木戸銭を払って入ると、大きな 竹ザルと小さな竹ザルが、ただ置いてある。 「世にも不思議なベナだよ」と いう小屋がある。 ベラと鮒の合の子でもいるのかと、木戸銭を払って入ると、 大きな鉄の鍋が逆さまになっている。 そばに男が立っていて、時々竹の棒で 鍋のケツをひっぱたきながら、やる気のなさそうに「ベナ」と言う。 客はや られたと思いながらも、「粋だねえ」などと言いながら、表に出てくる。  書けば、なんだという、これを、声の強弱、間、あの顔で、聴かせるのが、 小三治の芸である。

「一眼国」の全篇2007/04/04 07:54

 「一眼国」、早い話がそんなに長い噺ではない。 小三治は、回向院に見世物 小屋を一軒持っている香具師が、日本国中をへ巡っている六十六部をつかまえ て、噂でもいいから、何か見世物にできるようなものの話を聞いたことはない かと尋ねる、最初のところで、かなり引っ張った。 二、三日うちに逗留させ てあげる、また聞きや、あるそうだそうだ、というのでもいいというのに、六 十六部もしぶとくて、物覚えの悪いたちで、申訳ありません、ご勘弁を、の一 点張り。 おなか空いてんだろう、あったかいおまんまに、なにか好きなもの を、うなぎでも、さしみでも取ってあげよう、といっても駄目。 それでも、 ねばりにねばる。 実は、あったかいおまんまというのは記憶違いで、台所に あった冷たいおまんまに、四日前に葉をかえたばかりの茶がらのお茶をかけた、 お茶漬を五杯食べたところで、六十六部が恐ろしい目にあったことを思い出す。  方角は江戸から真北に百里、大きな原っぱがあり、その真中に大きな榎の木が ある。 一足ごとに暗くなって、人家は見当たらない。 鐘がごーーんと鳴り、 なま温かい風が吹いてきて、「おじさん」と呼ぶ、子供の声がする。 ふりむく と、七つか、八つの女の子がいて、手招ぎをしている。 その子は、ひたいの 真中に目が一つしかない。 六十六部は、逃げに逃げた。 後にも先にも、あ んな恐い思いをしたことはない、というのだ。

  見世物小屋の香具師は、江戸から真北に百里、大きな原っぱに出かける。 六 十六部とまったく同じ経過をたどり、女の子を小脇にかかえて、走り出すのだ が、方々の寺で早鐘の音、ほら貝がブーブー、人が湧き出すように追いかけて くる。 子供をほっぽり出して逃げるのだが、とうとう捕まって、たたきのめ され、ぐるぐる巻きにされる。 追いかけてきた百姓風のどいつもこいつも、 連れて行かれたところの役人の顔も、一つ目だった。 生れはどこじゃ。 生 れは江戸で。 かどわかしの罪は重いぞ。 おもてを上げよ、おもてを上げん か。 奴、珍しい、目が二つじゃ。 お裁きの前に、見世物に出そう。

 私も閑人だから行ってみようかと、家に帰って地図を調べると、江戸の真北 百里というのは、日本海の海の中、酒田沖100キロの地点であった。

追悼 伊丹レイ子先生2007/04/05 07:08

『ジョンソン博士語録』

 昨年11月11日に「復活!慶應義塾の名講義」をなさった伊丹レイ子名誉教 授が、2月12日に急逝されていた。 新聞にも出たであろうに、うかつにも、 私はそれを知らなかった。 ご夫君の伊丹吉彦さんから、文字通り遺著となっ た『ジョンソン博士語録』((株)パレード刊)を送っていただいた、そのお手 紙で知ったのである。 悪性リンパ腫だったそうだ。 昨年秋頃から胃の不調 を訴えておられたのだが、あの講義の準備やこの本の最終校正などなどのため、 化学療法による治療をのばしのばしにしていたことが死期を早めてしまったよ うだけれど、やりとげたい事をほとんどやりとげたという達成感を味わい、悔 いはなかったと思います、とお書きになっている。

 伊丹レイ子先生の―What Did Dr.Johnson Say?―「1755年に「英語辞典」 を単独編纂した英国の文豪サミュエル・ジョンソン博士の語録」と題したその 「名講義」のことを、私は11月13日「サミュエル・ジョンソンと「第二の知 識」」、14日「カタカナ英語、聞かない英語」、15日「サミュエル・ジョンソン とボズウェル」の三回にわけて日記に書いた。 それをプリントしてお送りし た手紙が、先生の遺品の中にあって、整理中に再読されたご夫君が、遺著『ジ ョンソン博士語録』をご恵贈くださったのだった。 伊丹レイ子先生が亡くな る前の2月8日に、完成したこの本を手に取られたというのが、せめてもの慰 めである。

 福澤諭吉協会の旅行その他の行事にいつもご一緒に参加なさっていたご夫妻 の、とても仲良いご様子を拝見していたので、さぞやお寂しくなられたことで あろうと思われた。 あの日、まさに最終講義となった講義の中で、ユーモア を交えてあの世が近いというようなことをおっしゃったのが、少し気になって はいたが、あれほどお元気に、凛として講義をなさった伊丹レイ子先生が亡く なられたとは…。 学者の死は、名人の死と同じだ。 お命とともに、あの豊 かな学殖がこの世から消え去ってしまったかと思うと、残念でならない。 慶應義塾は、創立150年記念グッズの内、「トートバッグ」付属の「ポーチ」を、 すみやかに「パウチ」と訂正し、伊丹レイ子先生の霊安かれと祈らなければな るまい。