日本的システムの問題点、戦時と今と2007/09/01 07:59

 岩間敏さんは『石油で読み解く「完敗の太平洋戦争」』で、日本の政策決定集 団の組織、能力に「情報の軽視」「専門知識の不足」「その場しのぎの対応」な どの問題点があったことを一つ一つ例証し、その日本的システムの問題点が、 戦後60年を経た現在でも、政治、ビジネス、官僚組織の中で温存、継続、再 生されて、当時と同様の状況を生じさせていることを指摘する。 そして、日 本(人)の習性、教育、制度がそれらの問題点を再生させているのだろうが、 それらに対処して、改善することが、戦争を省みる最大の目的であり、その歴 史的教訓の上に、今後のエネルギー問題と日本的システムの改善を考える契機 として、この本を書いたのだという。 昨今の政治・社会状況をみるにつけ、 これは重要な指摘であって、考えてみるべき大きな宿題を、われわれ日本人に 投げかけている、と言わねばなるまい。

軍部は日米の国力差を把握2007/09/02 07:06

 岩間敏さんの『石油で読み解く「完敗の太平洋戦争」』の中に、今まで知らな かったことや、通説とは違うことが、いくつかあった。  (1)太平洋戦争前、軍部は日米の国力差を把握していた。 昭和15(1940)年 初頭から研究を開始した陸軍が外部から専門家を集めてつくった「戦争経済研 究班」(のちに「陸軍省主計課別班」)。 昭和16(1941)年4月、中央官庁、陸 海軍、民間から研究員を集めた「総力戦研究所」。 昭和16年7月にまとまっ た前者の「英米合作経済抗戦力調査」を、杉山元(はじめ)参謀総長は「調査は 完璧であるが内容は国策に反する。報告書は焼却」と指示した。

 (2)実は、満州と樺太には膨大な石油があった。 昭和初年から日本は、旧満 州で石油の探鉱作業を実施していた。 戦前の日本国内の原油生産量の最大は、 昭和12(1937)年の39万3千キロリットル(日産7千バレル)、石油消費量は同 年度の475万キロリットル(日量8万2千バレル)だった。 戦後の昭和44(1969) 年、戦前日本が集中的に探鉱を行った地域から山一つ越えた遼寧省の遼河油田 が発見された。 生産量で中国第三の油田となるこの油田の原油生産量は1995 年のピークで日産31万バレルもあった。 戦前の探鉱当時、最新技術である 米国の地震探鉱機器を「日本鉱業」が導入していたが、満州の探鉱では「日本 石油」が技術支援していたので、この技術は使用されなかった。 また満州で の石油探鉱は日本の国家機密だったため、最新技術を持つ米国の探鉱請負業者 を投入することを避けた。  大正期、日本は樺太(現サハリン)に「北樺太石油」の権益を保有していた。  昭和8(1933)年度のピーク生産量で22万4千キロリットルもあったこの海外権 益を、ソ連との度重なる紛争(張鼓峰の国境紛争、ノモンハン事件など)によっ て、生産量減、輸入減、禁輸と進んで、失っていく。

石油はメジャーに握られている2007/09/03 07:40

岩間敏さんの本で、初めて知ったことなどの続き。

 (3)サウジアラビアで新油田が発見されたという情報が世界に流れた翌年の 昭和14(1939)年3月、日本政府は駐エジプト横山正幸公使らの使節団を派遣し て、石油利権を得ようとした。 1930年代初めからサウジでは、米国のロック フェラー系の石油会社「ソーカル」が活動し、権益の確保に成功していた。 日 本のこの動きは「ソーカル」や米国の知るところとなり、横槍が入って、交渉 は不調に終わった。 この後、「ソーカル」の助言で、ルーズベルト大統領はサ ウジへの直接資金援助に踏み切り、今日に続く両国の太いパイプが出来た。

 (4)第一次世界大戦は石油時代の始まりであり、その戦利品のひとつは石油だ った。 戦勝国はメジャーの設立・育成によって、石油権益の果実を実らせて きた。 1960~1970年代、産油国の国有化によってメジャーの権益は産油国 に返還されたが、メジャーが保有する技術力、操業・経営ノウハウは、現在も その価値を失っていない。 日本とドイツは、戦後60年を経た現在でも、中 核となる石油開発企業を育成できていない。 日本の石油開発力は、中規模メ ジャーに達していない。 石油消費量が世界第三位、石油需要の99.7%を輸入 に依存している日本が、原油の「上流部門」(権益、埋蔵量、生産)を保有しな い脆弱性は考えただけでも恐ろしい。

「石油」を断たれて「完敗」へ2007/09/04 07:56

 そこで「完敗の太平洋戦争」についてだが、米国の「石油禁輸」によって世 界で最初の「石油危機」に直面した日本は、南方石油の獲得に走った。 通説 では海軍は陸軍に引きずられて戦争に突入したとされるが、岩間敏さんは海軍 軍令部の強硬派、とりわけ石川信吾大佐(海軍省軍務局第二課長)という政治 将校の石油獲得への野望に言及している。 意図的に陸軍を巻き込み、南部仏 印への進駐を実施して、開戦と同時に蘭印の石油資源を押さえ、「自存自衛」の 体制を作ろうという構想だった。 「蘭印」といわれても頭に地図が浮ばない が、オランダ領東インド、ほぼ現在のインドネシアの版図だそうだ。

 真珠湾攻撃で華々しく開戦したが、真珠湾の石油タンク(一大石油備蓄基地) と海軍工廠を見逃したことが、後に米軍の反攻で大きな役割を果させることに なる。 日本の陸海軍には、基本的に補給や護衛という概念がなく、海軍内で は伝統的に「艦隊決戦」中心主義が支配していた(敵の輸送船を叩く戦略にも消 極的だった)。 地味で根気の要る補給路を維持する作戦へ主力を割くことに無 関心だった。 輸送船団は壊滅し、航空戦艦をタンカーに代用するようにもな る。 日米の兵員輸送の比較、貨物船にすし詰めの日本(その状態で多くが撃沈 された)、客船・専用兵員輸送船で快適なアメリカの差の言及 (119-120頁) に、 納得し悲しくなる。 南方補給路は寸断され、石油の確保と輸送の困難は、日 本海軍の決戦海域を限定し、次第に追い詰められて、膨大な艦船と人員の犠牲 を払うことになる。

弥助の「うなぎ屋」2007/09/05 07:43

 8月31日は、第470回落語研究会。 夏の終りの月末だが、当日券は満員 札留め。 前の方の定連席の空席が目立ってしまう。

  「うなぎ屋」           五街道 弥助

  「大どこの犬」 春風亭朝之助改メ 春風亭 柳朝

  「厩火事」            柳家 花緑

           仲入

  「お菊の皿」           柳家 喬太郎

  「抜け雀」            春風亭 一朝

 弥助は、黒っぽい縞の着物、短く刈った頭、くちゃっとした顔、噺家らしく ていい。 「うなぎ屋」は「素人鰻」の後半、殿様商売と酒癖の悪い職人の話 をヌキにして、その店に来る客の立場から、二人連れがタダでいっぱい飲もう とする顛末を語る。 一人は前にこの店に来たことがある。 なかなか鰻が焼 けてこない。 酒と、キュウリの香コ、そして茄子の香コ、酒、キュウリの香 コ. キリギリスじゃないよ、と文句を言うと、黒く焦げた羽織の紐のような ものが出てきた。 「割くと、幅、取ります」「当店は丸焼き専門」と言い訳す るが、職人が出かけていることが判明。 酒の勘定はけっこうですから、お引 取りを、ということになった。 それで味をしめて、仲間を連れて、職人のい ないのを確かめ、タダ酒を飲みに行くのだった。 旦那が鰻を割こうとして、 なかなかつかめず、表に出ていくところは、「素人鰻」でやるのと同じなのだが、 爆笑とまでいかないのは、「うなぎ屋」がみみっちい話だからなのか、弥助の力 量なのか、どうも後者のような気がした。