ラグビー日本選手権、三洋電機の優勝2009/03/01 07:43

 2月28日のラグビー日本選手権決勝、三洋電機とサントリーは好ゲームにな った。 この大会、東芝の大麻問題での出場辞退は残念だったが…。 前半は ライアン・ニコラスの3PGで、サントリーが9-3とリードした。 しかし、 サントリーは随所によい動きを見せていた曽我部が、二つのドロップ・ゴール を外したのが痛かった。

 後半12分、そのニコラスが35mのPGを左にはずすと、14分三洋飯島監督 は切り札のトニー・ブラウンを投入、結果的にはこれで流れが変った。 19分、 三洋は吉田尚史がトライ、ゴールも決まって、9―10と逆転に成功する。 25 分の曽我部の三本目のドロップ・ゴール失敗の後、27分三洋はトライゲッター 北川がトライして勢いづいた。

 サントリーには前半の疲労がかなり蓄積していたのにくらべ、後半の勝負ど ころでも三洋にはスタミナが残っているように見受けられた。 三洋飯島、サ ントリー清宮両監督の選手交代の戦略にも差が出て、結果は16―24、三洋 電機ワイルドナイツの優勝となった。 それにしても10月25日の近鉄戦での 大怪我(すい臓を傷めて命にも関わるほどだったとか)から復帰したトニー・ ブラウンは、すごい選手だ。 一人の選手の存在が物を言うゲームもあるとい うことを、あらためて見せつけられた。

『漢方のスヽメ』「東西融合の医療」補遺2009/03/02 07:17

 大倉多美子・出野智史共著『漢方のスヽメ 慶應義塾の東洋医学を支えた人々』 (戎光祥出版)から、2月25日の<等々力短信 第996号>「東西融合の医療」 にスペースがなくて書ききれなかったことを、少し書いておく。

 巻末212頁の資料、近代漢方関連年表、冒頭の福沢が築地鉄砲洲に蘭学塾を 開いた年が間違っていた。 1858年安政5年でなければ慶應義塾が昨年創立 150年にならないので、重大なケアレスミスだ。

 23頁、西洋医学が東洋医学に近づいてきた最大の理由。 人間が自律神経系、 内分泌代謝系、免疫系のトライアングルで、体のバランス、すなわち恒常性(ホ メオスタシス)を保っているということが分かってきたから。 大倉さんの「皮 膚インピーダンス法」は、自律神経系、内分泌代謝系、免疫系をトータルに把 握して、その人のバランスが現在どうなっているか測定できる、という。

 73頁、武見太郎に漢方を薦めたのは、幸田露伴だそうだ。(『武見太郎回想録』)

 133頁末尾の大倉さんの発言、人間はmortalとは分かっていながら、癌患者 が読んだらショックを受けるのではないか、と感じた。 活字にする時は、配 慮が必要ではないか、と。

190頁、慶應の医学部長が講演で生薬を「せい薬」と繰り返したという話、 すぐ、どこぞの総理大臣のことを連想した。

むのたけじさんと小さん2009/03/03 07:15

 個人通信を続けていると、時々「むのたけじ」と週刊新聞『たいまつ』とい う言葉に出合う。 気になってはいたが、むのたけじさんを読んだことはなか った。 2月21日のBS2「週刊ブックレビユー」で、ミョージシャンで翻訳家 の中川五郎さんが薦めていたので、読んでみることにした。 むのたけじ『戦 争絶滅へ、人間復活へ―九三歳・ジャナリストの発言』聞き手 黒岩比佐子(岩 波新書)である。  むのたけじ(武野武治)さんは、1915(大正4)年1月2日秋田県の生れ、 東京外語学校スペイン語科卒。 報知新聞社を経て朝日新聞社に入り、1945 年8月15日、それまでの報道に関わった戦争責任をとる形で、たった一人退 社した。 1948年、秋田県横手市で週刊新聞『たいまつ』を創刊、以来休刊ま での30年間主幹として健筆を揮った。

 その むのたけじさんが、じつは落語が大好きだという。 五代目小さんと誕 生日が同じで、その落語にすごく心惹かれた。 というのは、小さんは二・二 六事件のとき、兵隊に取られて反乱軍の中にいた。 そのため危険な満州の戦 場に送られ、三年後に除隊したものの、1943年12月に再徴兵され、このとき も死を覚悟したが、運よく生き残り、敗戦の翌年にようやく帰国した。

 むのたけじさんは、小さんの落語を聴くと、あざむかれたものの悲哀を感じ るという。 何かむくれている。 でも、むくれたってだめだ、と自分で自分 に言っている。 笑い話をやりながらも、彼は普通の落語家とは全然違う。 あ ざむかれた世代ゆえのうらみつらみというものがあって、それを自分でなめな がら我慢しているような、やる気がないようで、なにか寂寞としたものをもっ ている。 と、むのさんは、語っている。

 私は、円生や文楽がいた時代から、ずっと小さんが一番好きだった。 特に、 そのとぼけた味が…。 むのたけじさんが感じていたようなことが、その奥にあったとは、思ってもみなかったけれど。

三之助の「のめる」2009/03/04 07:20

 2日は、第488回の落語研究会。 当代の人気者が揃ったので、それぞれに 力が入って、ついつい時間が長くなった。

「のめる」     柳家 三之助

「橋場の雪」    柳家 三三

「雛鍔」      立川 志の輔

       仲入

「時そば」     春風亭 昇太

「文違い」     橘家 圓太郎

 ドキュメンタリー映画『小三治』で、三三は真打昇進にからんで、重要な役 回りだったが、三之助も小三治の弟子である。 生れは三之助の方が一年早い けれど、三三が(中学卒で断わられ)高校を出て入門したのに、三之助は上智 大学4年の秋に入門したから、二年あとになった。 二人とも三年で二ッ目、 三三はそこから十年目の2006年に真打になったが、三之助は今年、その十年 目になる。

 三之助、下ぶくれの顔に、細いきつい目をしている。 その目つきが、損な ような気がする。 「のめる」は、口癖の噺。 マクラで「逆に言うと」とか、 「いい意味で」とかいう口癖の話をする。 本題は、八ッつあんと、建具屋の 半公「タテハン」の口癖、「つまらねえ」と「一杯のめる」を言ったら、50銭 取る約束をめぐる駆け引き。 「つまらねえ」を言わせようとする八ッつあん、 ご隠居(?)に作戦を授けてもらい、練馬のおばさんから百本の沢庵大根を送 ってきたのだが、醤油樽に詰まろうか、と訊く。 「ダメだ」「余る」「たがが 外れる」と逃げた「タテハン」が、うなぎ屋の開店祝いに出かける、羽織を出 せというので、八ッつあんはつい「一杯のめるナ」。 50銭取られて、つぎの 「詰め将棋」にかかったあたりで、三之助は額に汗が光り、「上がり框(がまち)」というところ で噛んだ。 三三には、少し水を開けられている感じがした。

三三の「橋場の雪」2009/03/05 07:28

 三三は、ひょこひょこ出て来る。 「橋場の雪」は、「夢の酒」(「日記」 2005.11.23. 小太郎・2007.3.30.扇辰)に似ている。 商家の奥の離れに若旦 那がいる。 こっそりと幇間の一八が忍んで来て、今日は瀬川花魁と会う約束 だったじゃあないか、向島の「中の上半(?)」の座敷で瀬川が待っている、と 言う。 瀬川は、吉原で全盛の花魁だ。 女房のお花に内緒で抜け出した若旦 那、瀬川の片えくぼのことなど考えている内に、吾妻橋を通り過ぎて、橋場の 渡しの所まで来てしまった。 ちょうどその時、渡し舟が出た。 土手の上の 吹きざらし、寒いと思ったら、雪が降り出し、あたり一面真っ白になってきて、 ユキダオレになりそう。 なのに自分だけ雪がかからない。 傘を差しかけて くれていたのが、お湯の帰りだという女中連れの三十に手がとどきそうないー ーい女で、若旦那が三年前に亡くなった亭主に、よく似ている、近くなのでお 茶でも差し上げたい、と言う。 そこへ、渡し舟が戻って来た。

 「中の上半」では、花魁はつい今しがた廓に戻ったという。 帰ろうとする と、渡し舟はあるが船頭がいない。 そこへ小僧の貞吉が傘と足駄を持って迎 えに来て、対岸の二階で女が手招きしているのを、目敏く見つける。 親父は 深川の船頭だったから、渡し舟ぐらい漕げる、石垣の間に蝙蝠傘を挟んだりす ることはないという。 貞吉に駄賃を一円、漕ぎ返すのにもう一円やって、女 の家へ寄る。 一献召し上がって、じゃあ一杯だけ。 差しつ差されつやって いるうちに、頭が痛くなって、次の間にとってあった布団に横になる。 長襦袢になった女が、布団の隅の方にだけと入ってきた。

  「あなた、あなた」と女房のお花に起される。 離れの炬燵の中で、夢を見 ていたのだった。 話を聞いて女房は泣き、若旦那は笑い、親父は怒る。 さ っき駄賃を二円やったじゃあないかと言われて、釈然とせずに若旦那の肩を叩 いていた貞吉が、居眠りをする。 焼餅焼きのお花は「若旦那が橋場に出かけ る何よりの証拠、貞吉がまた舟を漕いでおります」